回复:[原创]一样的家族,不一样的家族风-关于clannad与家族计划
「……本当か、末莉?」
黄昏の茜に染まった部屋の中、俺は信じられない想いで呟く。昨夜は夜勤だったので起きたのは今仕方だったが、寝耳に水と言う訳でも無かった。無論、嬉しいことである。ただ、末莉の言葉をどう受け止めて良いのか分からないでいたのも事実なので、呆然としたまま日常の習慣という名の仕草で煙草に火を点けていた。
肺に煙草の煙を満たして吐き出す。紫煙は換気扇に導かれて大気に吹かれ消えていく。
末莉は――あの少女だった末莉は、今や落ち着いた雰囲気を持つ大人の女性で、くすっと俺を手玉に取るような微笑を浮かべ応える。
「本当ですよ」
いつからだろう? 末莉の肢体がしなやかに伸びて魅惑的な大人の女性のそれに変わったのは。
あの頃の、あたふたと失敗を繰り返した末莉はもう過去のこと。物腰は軽やかになり仕草にも落ち着きが見えてきたのは意外と言えば意外だったが。炊事洗濯を幼少期からこなしていたみたいだし、身体の成長した今の彼女なら多少の無理くらいは利くようになったのだろう。それに――これが重要なことだが、誰かに気に入られようと慌てふためいてドジを踏むことはもうないのだから。
末莉は、本当に良い女になった。それこそ、魔性と付け加えて良いほどに。
「もう名前だって考えてるんですよ?」
嬉しそうに笑う末莉。自分の幸せはここにあるのだと確信している笑顔。
夕暮れの光が眩しく瞳の奥を貫いた。
赤く染まる部屋。同じく紅く染まる末莉の頬。
「若葉です」
「…………え?」
「良い名前でしょう?」
自信を持って言う末莉は甘えるように俺の胸に凭れ掛かり上目遣いに見つめてくる。
それに倣って俺も少しだけ末莉に体を預けることにした。
(……俺の子か)
末莉の御腹に手を回して触れてみる。ついでに撫でてみる。「くすぐったいですよ」と末莉は苦笑する。「ああ、悪い」と俺は慌てて手を離して末莉の様子を窺う。末莉は「もう、悪い手ですね」と言いつつも、俺の手をそっと握ってくる。
それは、本当に穏やかな日常だった。
目に見えそうなほどゆったりとした時間の流れ。
末莉と暮らしてからもうすぐ何度目かの夏が訪れようとしている。
同じ季節には留まっていない。
俺たちは、前に向かって歩いている。
家族という絆とともに。
(……それなのに)
子供が出来たという実感が少しも湧かないのは何故だろう? 無論、身に覚えがないとは口が裂けても言えないが。まさか自分が、子供を授かるということに縁があるとは――とてもじゃないが信じられなかった。
灰皿に置いていた煙草はろくに吸わないうちに半ばまで灰と化している。
何となく俺は気持ちを上手く言葉に表せないでいた。
ただ思ったことを口に出す。
「……若葉? まだ、女の子って決まったわけじゃないだろう?」
「いえ、絶対に女の子ですよ」
俺の言葉を軽く受け流して末莉はひとり自信満々に頷いている。
こういう根拠のない自信は昔のままだ。
ふと胸を撫で下ろした。
「微妙に言葉遣いとかが気になる名前だよなー」
今度は俺の言葉に反論しないで、末莉はくすくすと魔性の笑みを浮かべ、
「そうですね」
困っているとはとても思えない表情で背を逸らし、俺の方にドンと体重を掛けてくる。
「どうですか?」
「何が?」
「……重くないですか?」
「いや、軽いくらいだが」
「……あれ? うーん、可笑しいですね……?」
何故か残念そうに末莉は肩を落とした。
まさか重いと答えた方が良かったのだろうか?
女心は良く分からないと俺は首を振る。
(それにしても、若葉か……)
誰かさんを髣髴とさせる名前だった。
あのプライドの凄まじく高い高屋敷家の長女を――
「司、あなたに恩を売ってあげるわ」
「……生き残って、死ぬ気で返しなさい」
青葉と似た音韻がそうさせるのか俺の耳には昨日の如くあいつの声が木霊した。
思い出した科白に俺は苦笑するしかない。
(そういや、ツケにしたままだったな……)
もう何年も前のことに感じる。すごく懐かしい気がした。
末莉は意識的に彼女に似た名前を付けようとそれを選んだのだろうか?
「…………」
いや、答えは聞くだけ野暮なのかもしれない。が、ただ――
「……もしかして、お前」
「はい?」
不意に言葉が詰まった。
俺は何を言おうとしているんだろうと己を叱責したくなる。
――末莉は、あの夏の日に戻りたいのか?
意味の無い言葉。
あの時間を冒涜しかねない暴言。
(……どうかしている……)
俺は嘆息を漏らした。
「いや、何でもないよ」
「…………?」
末莉は訳が分からないという風に眼をきょとんとさせていた。
でも、言わないでいる方が良いのだ。
今も末莉は、あの楽しかった夏の日に思いを馳せている、ひとりの少女なのかも知れないから。
誰よりも強く家族という絆を求めていた、あの日の末莉。家族というのは当てにならない氷薄の関係だと打ちのめされていた、当時の俺。そして、二人は出会った。家族を求めるものと否定するものと言う立場で。……いや、あの夏の日に集った人らは全員、家族に対して底の知れない絶望を理解しつつも、家族と呼べる人を求めていたのだと思う。もちろん、俺も含めて。
だからこそ成り立ったのだろう。あの相互扶助計画――家族計画が。
(もう、どれくらい会ってないんだろう……?)
寛。真純。青葉。準。春花。
あの夏の日は、特別。俺も掛け替えのない日々だと今振り返っても思える唯一の――
家族として味わった数少ない思い出。
掛け替えの無い記憶。
(でも、逆に言えば……末莉は、あの時から想いが留まっているんじゃないのか……?)
――若葉という名がそれを象徴しているとしたら?
思い出に浸るのは構わない。人は思い出なくては生きていけないから。
しかし、浸るのと顧みるのとでは話は違うと思う。
どう転んでもあの時は二度と還らない。
(末莉は、俺たちで高屋敷を再現しようというのか? それとも末莉の眼は前を見ていないというのか?)
今ある生活さえも、それは虚しくて――
「…………」
流石に、自分の考えに嫌気が差して頭を振った。
思い出を彩るのに、あいつの名前に似た音韻にして付けるのは、あの日々への感謝の現れに決まっているから。
ヘンに曲解する俺の方がどうかしている。
「……若葉、良い名前だと思うよ」
「はい!」
嬉しそうに頷く末莉。
俺も同じように笑顔を向けると今の考えを打ち払うように、
「……あ」
慈しむように末莉の唇をそっとふさいだ。
甘く漏れる息をも飲み込むように、舌を絡ませ合う。
末莉は瞳を潤ませて、
「司、愛してます」
俺の背中に手を回し互いの身体が離れないようにと力を込める。
もちろん想いは同じだった。
「ああ、俺もだよ」
夕陽が西の空に隠れ、夜の帳に覆われていく街の中、何度も何度も俺と末莉は体を重ねあった。
歌舞伎町の繁華街に店を構える『龍龍』に来る頃にはすっかり陽は落ちていた。
裏手から駆け込むようにして店内へのドアを開く。
「司君、珍しいね。遅刻ぎりぎりじゃないか」
「すみません。すぐ支度します」
劉店長代理は別に遅刻しそうになったことを責める人ではなかった。
「末莉君とコンバインしてて遅れたんだったりして」
「…………」
こうして人の弱いところを付いて、
「はっはっはっ、わ、当たっちゃった? 司君ったら不潔だね。私と言うものが在りながら浮気なんてさ!」
馬鹿笑いするタイプの人間だった。
ここ数年、末莉と籍を同じにしてからも劉さんの冗談は変わらない。
多分、それは嬉しいこと。
だけど、今日の俺には突っ込む気力が湧いて来なかった。
脱力して更衣室の方に向かう。
「……着替えてきます」
「あ、そうかい。早めに頼むよ。今日は予約のお客さん多いからね」
「はーい」
気のない返事をして俺は着替えを済まし厨房に出た。
今日は夜勤、帰る頃には朝日が元気良く街を照らしている。まあその分、深夜は手当てが多く出てお徳でもあった。もちろん、本当は昼のシフトの方が末莉と居られて嬉しいのだが、予約で忙しい時は劉さんの頼みもあって、こうして出張っている。
俺が食材のチェックをしていると、
「それにしても司君、まだ末莉君とは別れないのかい?」
「出て来ていきなり言う科白がそれか!」
一応、首を絞めた。
「わーい、私は心中でも一向に構わないよ?」
「ぐわ、嫌すぎる!」
仕方なく解放した。
(今度やる時は声も漏らせないようにきちんと絞めよう)
心のノートにそっと書き留める。
「それじゃあ、開店するよ」
劉さんはくるりとその場で回り出した。
「回転だーそれー!」
「はっはっはっ、司君は面白いねー。やっぱり諦めらんないや。私はバツイチでも全然構わないよ?」
「子供が出来た側から不吉なこと言うな!」
「……え?」
劉さんが怪訝そうに眉を顰める。
(あ、そうか)
こんなのでも暫定上司だし子供のこと報告しておかないと――
「それ、本当かい?」
いつになく真面目な顔で劉さんは言ってくる。
こういう時の劉さんの眼光は恐ろしいほど鋭く俺でもたじろぐ何かを放っていた。
劉さんは思案に深けるように顎に手をやって、
「一体いつの間に、私の子供が司君の中に宿って――」
「あんた、いっぺん死ねや!」
心のノートに書き留めた一文は意外と早く出番が回ってきた。
「ぐ、ぐるしい!」
ばんばんと机を叩く劉さん。
「俺と末莉の子供です――分かりましたか?」
「…………!」
うんうんと頷く劉さんを見て俺はようやく解放する。
「こ、子供!?」
しかし、何やら後ろから女性の声が。見ると楓がすぐ後ろに立っていた。
「沢村さんに、子供が……」
「お、楓。司君ったらひどいんだよ? 私に認知しろって――じゃないと私を殺して自分も死ぬって迫ってきてさ」
「ンなこと言ってねー!」
でも、俺と劉さんの声も聞こえていないのか、楓は憂いだ瞳でこちら見ていた。
やがて何かを堪えるように、ぐっと瞳を閉じて俺に向かって会釈する。
「おめでとう……沢村さん……」
「え? ああ、ありがとう」
楓の瞳に何やら光るもの。
涙? いや、まさかと俺は頭を振った。
「……それと、兄さん」
「私? え、何? 何かな?」
「私の気持ち知ってるくせに――兄さんなんてだいっ嫌いねー!」
楓は劉さんの顔に良い角度の裏拳を入れたあと一目散に店を飛び出した。
「ぐわ、楓……愛が痛いよ」
「大丈夫ですか店長?」
「ノンノン。私は店長代理だよ」
劉店長代理は鼻の頭を擦りながら訂正した。
「ごめんね、司君。楓のやつ、まだ君のことが好きみたいでさ。ほら、今日って店も忙しいじゃない? だから助っ人として楓を呼んでたんだけど。まさか子供とはね」
神妙に頷く劉さん。
「まあ、いつかはこんな日が来ると思っていたはずだから、楓の方も覚悟は出来ていたとは思うよ。逆に良い局面かもしれないな。これで楓も諦めが付くと思うし」
「…………」
「ただ、私が今日ここに呼んだことをヘンな風に勘違いされたのは、痛いね……」
子供が出来たことを楓に偶然聞かれたことを劉さんは言っているのだろう。
言い知れない罪悪感が生まれてくる。
「……俺、追い掛けましょうか?」
「司君に任せるよ」
言って劉さんは肩をすくめた。
「と、本当は言いたいところだけど……良くないよね、それは。仕方ない、私が行くことにするか」
「……すみません」
「ノンノン。司君、謝るのはこっちの方だよ。いや、君に謝られた方が楓はもっと傷つく」
「……え?」
疑問に首を傾げる俺に劉さんは「司君はそれでいいんだよ」と苦笑を漏らした。
「こういう時くらい休ませて上げたいけど、私と司君の両方が抜ける訳にはいかないからね。ほんと申し訳ない」
「……休ませる? 俺を?」
どういうことなのか俺には分からなかった。休む理由も必要も頭に浮かんで来ない。
劉さんは俺のその仕草を見て、
「司君、家族が増えるということは、とても素晴らしいことだよ?」
「……? そりゃあまあ……」
曖昧に俺は頷いた。難しい顔を劉さんはしていた。
複雑そうな笑顔と真顔の中間で、
「じゃあ、私は追い掛けるよ。あとよろしくね」
「あ、はい」
「それと……」
劉さんは今度こそ真剣な顔をした。
「おめでとう司君、末莉君にもそう伝えておいて」
言って、楓を追い掛けえるために店を出る。
半ば呆然とその背中を見送った。
「……おめでとう、か」
暫くの間、贈られた祝福の言葉とやらを俺は頭の中で反芻させていた。
戦場のようなピークを回し数ある発注を済ませ、ようやく俺は帰路に付いた。
夏の日差しに近く少し暑くもあったが、朝日は眩しく俺の行く道を穏やかに照らしている。吹く風も肩切るように木の葉を舞い散らし夏の香りを運んでいた。一言で言うなら良い天気だ。明日は休み出し眠気を我慢して末莉とデートするのも悪くはないかもしれない。
「……最近、どこにも連れてってないしな……」
己の甲斐性の無さに少し自己嫌悪。
買い物でも付き合ってくれたら嬉しいとは末莉の弁だったが流石に俺にも男としてのプライドがある。大分前、どこかの美術展に連れていった時はそれなりの好評を貰えて俺も満足に過ごせた。どこか別の場所に出掛ける時はそれだけで胸がわくわくするもの。次は自分の興味も付け加えてサーカスなんか良いかもしれない。
しかし今から行けるところとなると――
「……どうしようか?」
向かいの交差点の信号が点滅を始めた。別に急いでいるわけでもないので俺は足を止める。
黄色から赤へ。行き乱れる人々の群れと自動車の排気ガス。
「…………」
ふと俺は空を見上げた。忙しい日常から目を逸らすように遠くを見つめる。
夏の雰囲気を醸し出した青空が俺の目の前にあった。
果ての知れぬ蒼穹。世界のすべてを覆うように。
「――え!?」
何だか一瞬、空が夕暮れのように赤く染まった気がした。燃えるように紅い空。でも今見ている空はさきほどのもの。俺は右目を擦った。最近、視力が落ち始めていると感じてはいたが、幻までも浮かぶのか。
俺は自虐的に笑った。
そこに在ったのは何の変哲もない青く澄んだ空だったから。
「おめでとう司君」
不意に劉さんの言葉が思い出される。
おめでとう。それは、祝詞。
子供というのは生まれてくる前から皆に祝福を受けているその証拠になろう。
「もう名前だって考えてるんですよ?」
次に思い出されたのは末莉の言葉。
若葉が生まれてくるのを今か今かと待ち遠しく期待に満ちた瞳をしていた末莉。
俺は思う。本当にそういうものなのだろう、と――
(嬉しくもあり恥かしくもあり子供を育てることへの不安もあるけど……)
望まれているのだ。生誕の日を。
名前を与えること――自分の想いをすべて込めて。
祝福すること――無条件に可愛く思える。
家族の絆――同じ屋根の下で一緒に暮らし互いに育んでいくから。
――これから、もっと幸せになれる。
自分の子供が生まれるのだから。
俺たちは家族になれるのだから。
それは、何よりも愛しいこと。
それは、至極当たり前の想いとなる。
――ハズナノニ。
「……末莉」
信号が青に変わった。
道路の白線に自動車は停まり青を待っていた人々が其々の方向に歩き出していく。
人。人。人。人の群れ。たくさんの人達。
年輩の人もいるし若い人もいるし子供に主婦も混ざって人は流れる。
向こう側から歩いてくる人達が怪訝な顔で俺を見ていた。
その中、ひとりの女の子が俺を指差した。
「まーま。このお兄ちゃん泣いてるよ?」
その子の母親は「ごめんなさいね」と俺に会釈して女の子を諭し通り過ぎていく。
他人とのすれ違い。
信号が再び赤に変わった。
涙を流している?
「ああ、そうだな」と俺は素直に認めた。
今、俺は動くことさえ出来なかったから。涙が零れ出るくらいは自然なことなのだろう。
再度、甦る末莉の声。それが、やけに耳に響く。
「もう名前だって考えてるんですよ?」
あいつはどんな想いで子供が出来たことを俺に話してそう言ったのだろう?
いつもと変わらない顔をしてか?
そんなの――在り得ない!
俺は馬鹿だ。
「わたし要らん子なんです」
あの夏の日の記憶が俺の脳裏に甦り離れない。
――離れてくれない。
しゃわしゃわと鳴く蝉の声とあいつの顔と高屋敷の屋根で過ごした夜の一時が瞼の裏に浮かんでは消えていく。
あいつは俺との間に子供が出来たことを喜ばしく思ってくれた。末莉のことだ。戸惑いや不安よりも生まれてくる子供に想いを馳せて未来の光景をあれやこれやと想像したのだろう。
それは、どれほど幸せに満ちた家庭だったのだろうか。
端から見れば、六畳一間の狭い一室に身を寄せ合うように過ごす日常なんて息苦しいだけかもしれない。互いにプライベートな時間だって取れない窮屈な暮らしなのかもしれない。そんなの、御免だと言う人もいると思う。
だけど、家族三人が暮らしていくにはそれで十分なのだ。
――特に、俺たちには。
他には何も要らないくらい思い出という名の宝石を集めていくから。
末莉とならそれが出来るから。
幸せなんてそんな身近なところにあったんだと分かったから。
あいつがそう教えてくれたから。
「…………」
でも、それと同じくらい末莉は思ったんじゃないのか?
『じゃあ、どうして、わたしのお父さんやお母さんは……そう思ってくれなかったのでしょうか?』
――末莉が子供の受胎を知り喜ばしく思った時、末莉の母親はどんな顔をしたのか?
――末莉が嬉しく子供の名前を考えていた時、末莉の母親は何を思っていたのか?
――末莉が俺に子供が出来たことを報告した時、末莉の母親はどういう風に子供のことを伝えたのか?
恐らく名前なんて後回し。
まず下ろすかどうか。
口論して時間が経つうちに生まれてしまって。
仕方なく二人は籍を入れて。
本当に――仕方なく末莉を育てて。
仕方なく家族をして。
ままごとの様に自身の役をこなして。
そのうち無理が祟って。
結果、離婚した。
そして、末莉は捨てられた。
――要らない子として。
「若葉です」
「良い名前でしょう?」
「ああ、そうか」
俺は今ようやく分かったような気がする。これ以上の名前は無いだろう。本当に良い名前じゃないか。末莉はあの夏の日の思い出に顧みて前を見ていないと思っていた。でもそんなのは俺の勘違いもいいところ。名前を付けるという行為は、両親から子供への初めての贈り物だから。末莉はあれこれと考えた上で、若葉と名付けた。それは、やはり良い思い出があったからじゃないのか。青葉、高屋敷家の長女――彼女に似た音韻にしたのは、あの人のように強く育ってほしいと願いを込めたかったからだ。名前の意味とは多分そこにある。
名前に想いを籠めるということ――
本当に簡単なことだ。
末莉は青葉のことを好きだった。
青葉も結局は、末莉のことを無視していたくせに無視し切れなかった。
だって――
長男、高屋敷司。
四女、高屋敷末莉。
例え一時期だとしても俺たちが高屋敷と名乗っていた時間がそこに在ったから。
家族になった証がそれだから。
例えば朝。
家族揃っての食事。
夜勤明けの俺を真純さんが引き摺って無理矢理テーブルに付かせる。
「……眠い」
隣では準も眠そうに欠伸をしていた。
そこに朝食が運ばれる。
「頂きます」
全員が声を揃えて言う。
「おにーさん、おかわりは?」
「まだ喰ってもいないぞ」
訊く末莉の表情は笑みで溢れていた。
例えば昼。
寛は仕事に出掛けて青葉は公園に行って真純さんは掃除に励んでいる。
俺が寝床に籠もって布団を被っていると、
「司、暇だよー?」
遊んでとせがんで来る春花を適当に俺は押しのける。
夜勤というのも困りもの。
眠くて瞼が重たかった。
「春花お姉ちゃん、わたしと遊びましょう」
「そうそう、末莉と遊んで来い」
「うー、分かった。末莉、司なんてほっといて行こ。マーサッジして上げる」
「本当ですか? ありがとうございます」
隣の部屋から末莉の悲鳴にも似た歓喜の声が聞こえた。
例えば夕暮れ。
皆が高屋敷の家に帰ってくる。
「ただいま」
何気ない帰宅の言葉。
「お帰りなさい」
それに応える声。
今日も疲れたと言って部屋に行っては着替えて居間にやって来る。
無機質なテレビの音に人の声が混じり出した。
「肩凝ったわ。司、揉みなさい」
「何で俺が!?」
「馬鹿ね。姉に逆らう弟が居て?」
「理屈かそれが!」
「まあまあ、二人とも。もうすぐ御飯ですし落ち着いて」
「ふーん、夕食で私を釣ろう何て、末莉も賢しくなったじゃない」
「じゃあ、末莉がしてやれ」
「ひえー!」
末莉を驚愕の声に俺と青葉は満足し夕食となる。
例えば夜。
屋根の上に出て俺は夜空を肴にビールを呷る。
覚束ない足取りで末莉がやって来る。
「おにーさん、怖いです」
「じゃあ、来るな」
「わー、おにーさん冷たいですよ」
泣き言を呟きながらも末莉はどうにか俺の隣に来て腰を落ち着けた。
「おにーさん」
俺と同じ夜空を見上げて末莉は笑う。
「今、わたし幸せです」
「…………」
「おにーさんも幸せですか?」
「……馬鹿」
俺は末莉から目を逸らしてしまう。
答えは決まっていた。
顔の赤みをアルコールのせいだと俺は言い聞かせて、
「幸せに決まってる」
憮然とまたビールを飲みほした。
「あは、良かった」
ひとつ屋根の下、家族がともに過ごしているのだから。
どれほど、それが幸せなことか。
知らなかった。
こんなにも家族ってやつは温かかったんだ。
「それに……」
そこに、末莉が笑っていてくれるのなら。
『本日19時45分をもって、家族計画を終了する』
「ねえ、おにーさん」
「……ん?」
それは、もう戻らない夜。
すでに終わってしまった高屋敷の夏の空。
――でも、もしもその物語に続きがあるのだとしたら。
夢が、今も終わることなくそこにあったなら――
「……若葉、か」
いや、その名前が暗示している。
もしかしたら、永遠とはこんな近くにあるのかもしれない。
信号が赤から青に。
末莉のもとに向かって俺は駆け出した。
「…………」
高屋敷家再建委員会に出資して五年の歳月が過ぎようとしていた。初めにそれを知った時は我武者羅に基金していたが今では通帳から出ていく経費のようなものになっていた。俺自身も再建するのは家だけであの時のように暮らせるなんて思っていない。五年も過ぎた今なら尚更だろう。皆にだって自分の暮らしがあると思う。過去を忘れるくらいに時間は流れすぎた。
でも今、この気持ちは少し和らいだ。
もし再建がなったなら高屋敷の家で暮らすのも悪くはないと。
皆はどうするだろうか? 前と同じようにでなくていい。実家のようなものでもいいし、偶に休める別荘なものでも構わない。同じ屋根の下、刹那の間でもいいからまた戻ろう。あの日のように枕をともにしよう。それもまた、家族のひとつの在り方だ。
高屋敷は――俺たちにとって思い出の場所なんだから。
「末莉……」
家の前までようやく辿り着く。少し息が切れていた。年かと思うと情けなくて溜息も出ない。数回、深呼吸をしてみる。肺に新鮮な空気を入れると加速する動悸もそれなりに落ち着いた。
「……あれ?」
家の前に人の姿がある。客でも来ているのだろうかと思って目を凝らした。眼の調子が悪くて良くは見えないが、新聞の勧誘か何だかに思える。末莉のことだ、断るに難儀しているに違いないと俺は見当を付けた。旦那の居ぬ間を狙うはあちらの常套手段。が、しかし俺はあいにくの夜勤だ。ここは俺が前に出て、びしっと断ってやろう。
意気揚々に俺が玄関の方に向かうと同時にそのドアが開く。
勧誘する側にとってドアを開くのは鴨のすることだ。ネギを背負って来るなと俺は嘆息する。
末莉もまだまだなと。
「あ、奥さん。綺麗ですね、どうです? 今なら巨人戦のチケットも付けますから三ヶ月だけでも――」
だが、末莉は顔を覗かせると毅然とした態度で言った。
「……うるさい黙れ!」
「…………」
「…………」
時間が止まったような気がした。
不意に俺は海か空か青いものが見たくなった。
「し、失礼しましたー!」
どこぞの勧誘屋はほうほうの体で逃げ出した。
「もう、来ないでくださいね」
末莉は笑顔で手を振っている。
「……あ」
瞬間、末莉と目が合った。
「つ、司、いつからそこに……」
「うるさい黙れ、の辺りから……」
どことなく気まずい雰囲気が俺と末莉の間に沈殿していた。もちろん風は穏やかに吹いているが、この雰囲気までは流してくれないらしい。いやその逆、やけに冷たい風が吹いている気がするのは、何故だろうか。
「あのですね……」
末莉は目を白黒と変化させて、
「高校を卒業して家庭に入った身と致しましては、夫の稼いでくる銭は一円たりとも無駄には出来んとですよー」
しどろもどろに末莉は続けた。
「それに付きましては数ある勧誘を撃退するのは当たり前、テレビの魅力溢れる通信販売には負けじと耳を塞ぎ、水道光熱費は言うに及ばず買い物は出来るだけバーゲンを狙い広告の品をゲットし続け、無論その苦労は見せまいと努力し、三つ指を付いて夫の帰りを待つのが、家庭を守る正しい主婦の在り方だとわたしは思うのですよー!」
大手を振って説明する末莉。俺も固まっていたのは束の間、
「……くく」
思わず腹を抱えて苦笑する。いやはや久々の大ヒットじゃないか。慌てふためく末莉。最近は失敗もなくご無沙汰していたが。こういう時の末莉は最高だった。良いもの見させて貰ったと言わざるを得ない。
「わ、もうー! 笑うなんて酷いです!」
「いや、悪い」
末莉は拗ねた顔で口を尖らし俺の胸をぽかぽかと叩く。
でも、慌てていたのか何もないところで末莉は躓いてバランスを崩した。
どさっと音を立てて、俺の胸に飛び込んでくる。
俺は優しく末莉を抱き留めた。
「……大丈夫か?」
「……はい」
末莉は幸せそうに頷いてぎゅっと俺の背中に手を回した。
「…………」
「…………」
静かだ。あまりにも。
ゆるやかに時は流れていく。優しい時間。
外界から遮断でもされたかのように耳には何の音も聞こえはしない。
末莉の胸の鼓動以外には――
「末莉……」
「……はい」
「もう、お前のひとりの体じゃないんだ。気を付けろよ?」
「はい、司」
陽が輝いていた。
眩しいくらいアスファルトの道路に反射している。
「……あと」
この科白を言うに俺はどれほど悩み迷ってしまったのか。
俺は苦笑しつつ、末莉の目を見て言う。
「よくやった」
「……え?」
首を傾げる末莉に俺はわざとらしく咳払いをする。今度はこの想いをしっかり言葉という形に変えて口に滑らせた。
「子供のことだよ。こういう時、褒めるものだろう? 夫としては」
「……はい!」
今度こそ末莉は嬉しそうに微笑んでくれた。
眩しいのは陽射しだけでは無かった。末莉の笑顔は煌く陽気に負けないくらい俺に光を与えてくれる。
「……不安にさせてすまなかった」
子供のことを知らせてくれた時、俺は実感が湧かなくて適当に受け流してしまった。それがどれだけ末莉を不安に駆らせてしまったのか。俺は後悔した。例え一時でもその笑顔に陰りを生んでしまったことに。
それなのに、末莉は言う。
「別に……不安になんてなってないですよ?」
「馬鹿――ンなわけあるか!」
末莉の両親のことを思うと遅いくらいじゃないかと俺は口早に否定した。
本当に何でもっと早く言っておかなかったのか。
どうして俺は迷ってしまったのだろうか。
――父親になることに。
後悔の念は尽きないし消えもしなかった。
「いえ、本当に不安になんてなってないです……」
末莉はそんな俺の胸中を見透かしたように、
「だって、わたしは司の妻ですよ? 信じているに決まっているじゃないですか」
無邪気に笑ってくれた。
「……それこそ、馬鹿だよ」
肩から力が抜けていくようだった。
無二の信頼、末莉はどうして俺をそこまで信じてくれるのだろう。
だって俺は――
「司、子供が出来ました」
「……本当か、末莉?」
両親のことを誤解してずっと恨んでいたから。
「……う」
胸が詰まった。
「司?」
「…………うぐ」
「……司、泣いてるの?」
駄目だった。
気付いてしまうと脆くも涙が溢れて来て止まらなくなる。
末莉じゃなかった。
過去を顧みて今の生活を見ていないのは俺の方だった。
どうして見ないフリをし続けていたのか。
自分自身の弱さを――
「司、どうして……」
「……末莉、俺は……俺は親になる資格なんて無かった」
「……え?」
「――無かったんだ!」
思い出した。家族なんて不確かなもの。無責任に結婚して子供を生んで要らなくなったら捨てるだらしなさ。俺は一生、結婚するものかと思った。家族なんて必要ない。ずっとひとり孤独に生き続けてやると俺は誓ったのだ。
それは、遠い過去。親戚の家に居候させて貰っていた時、押入れに閉じこまれたと真っ暗な空間で、涙を零しながら誓ったこと。両親を恨んでいた頃の自分の想い――
「……両親は命を懸けて俺を救ってくれたのに。家族の命と引き換えに俺は生き残ったのに……俺は捨てられたと思って両親のことをずっと責め続けていた。俺の不幸は、両親のせいだと責め続けた。こんな俺に子供だ? 本当に笑わせてくれる……! でも、お前のせいだ……俺も末莉と同じになった……」
「……わたしと同じ?」
「もう今は、お前なしじゃ生きていけない……家族がいなくちゃ生きていけない……」
いつか、両親の墓参りに行った時のことを思い出す。
不安に駆られて夜まで俺を待ち続けていた末莉。弱くなってしまったからひとりじゃ生きていけないと嘆いていた。幸せを知ってしまったら手放せなくなったと言った。そして、我侭を言っていると再び泣いた。縋るような眼差しで俺に居て欲しいと懇願した。
それが今では、俺も末莉に側に居て欲しいと願っている――
最初は偶然と気紛れで繋いだ一本の線に過ぎなかった。それが、今では太く強靭なものへと変化している。今なら分かった――その線が何を意味しているのか。
それは、家族の絆だ。
「お前が、俺を弱くした。こんなにも、弱くした……」
「……司」
「俺は、お前の夫だ」
「…………」
そして、
「そして俺は、若葉の父親だ」
「はい!」
子供にどう接していいのか俺には分からなかった。
両親を憎んでいた自分。
両親に感謝したいと思うようになった俺。
もう居ない両親。
すべては過ぎ去った過去。
『親孝行したい時に親は無し』
じゃあ、誰にこの気持ちを伝えればいいんだろう?
この感謝の想いを――いったい、誰に?
初めは、末莉だと思った。
でも、違う。
本当にこの想いを伝えたいと感じるのは、末莉じゃない。
若葉だ。
俺の子供に全部――俺と末莉が欲していた愛情を注ぎ込めばいい。
大切に育てていけばいい。
ゆっくりと。ゆっくりと。時間を掛けて。
「おとーさん」
「おかーさん」
そう言われる日を夢見て。
「若葉、良い名前でしょう?」
俺と末莉が居る場所が高屋敷になるのなら。
FIN.
父と母に最大限の感謝と、報告を。絆が、できました――