第四弹!学日语一年后写的通讯稿。第一次写篇幅长,而且内容比较难的文章。其实主笔是我同学,我负责的主要是翻译。由于原文太长,这里就贴前半部分吧。
班忠義を訪ねる:正義と公理の戦士
彼女は高橋敬子、彼は班忠義なんだ
「高橋敬子!」私は大声で叫んでしまった。
22日の午後、日本語会話の授業で、高橋先生は雲南省玉竜県の不登校児童(中途退学者)に関するドキュメンタリー映画、『阿苦村』を放映して下さった。辺鄙な地方で子供たちの惨めな生活の様子がこの映画を通して、私たちの眼前に如実に現れ、涙も出そうになった。しかし、放映の最後に、この映画の監督が班忠義だということに気付いた。この名前は、どこかで見たことがあるのだろう。その後、字幕の中にもう一つの名前、「高橋敬子」が現れた時に、私は思わず叫んでしまった。そんなに激しい動きが、クラスメートも不思議に感じた。班忠義?高橋敬子?誰か?
疑いを持って、インターネットで色々と探していた。班忠義という名前はずっと前から知っていた。彼はずっと中国慰安婦の救助活動に従事している。そして、十年間もかかって、『ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち』というドキュメンタリー映画を撮影し、歴史の真相を世に知らせた。彼は戦士であり、高橋敬子は彼の妻と有能な助手だ。私たちの優しくて落ち着いた先生は、確かにその高橋敬子だと思うようになった。
23日の午後、直接に先生に尋ねた。間違いなく、先生は高橋敬子、つまり班忠義の奥さんだ。奮い立たせることに、午後は交流会が行われた。そして、班忠義先生も出席なさった。その頃、初めてこの戦士に会った。背が高いし、豪放磊落だし、それに親切な東北の大男だった。私は班先生の手を握って、「先生、お疲れ様でした。」と言った。
24日、夜八時、大学の専家楼(外国の先生たちの住宅)にある、高橋先生のお宅で、班忠義先生を訪ねた。
先生のお宅に上がってみると、普通の家で、簡素な家具だった。先生は一男一女のお子さんがいる。私たちをみたら、わんぱくな子供たちはすぐ飛びかかった。私たちに付きまとって遊びながら、それにお菓子をくれた。高橋先生は急いで子供たちを部屋へ連れていった。挨拶してから、班先生は座らせてくださった。それから、先生へのインタビューを始めた。
日本語を学んで、日本に留学する
班忠義は1958年に遼寧省撫順市に生まれた。そこは、石炭が豊富で、日中戦争時期、日本軍はそこで憚らずに略奪しただけでなく、世間をぞっとさせるような平頂山大虐殺も起こした。当地の人々は日本人に対して恨み骨髄に徹している。こんな場所に生まれた班忠義は、一体どのように日本語と縁ができたのだろうか。先生は喜んで自分の昔のことを述べ始めた。
小学校の六年生のころ、班忠義は始めて外国語のロシア語に接した。漢字とぜんぜん違うアルファベットを見ると、突然に未知、神秘の国にきたようだった。ロシア語が大好きで、クラス全員の中、試験で唯一の満点をとった。しかしその後は、プロレタリア文化大革命が始まった。そして、中ソ関係が珍宝島事件で悪化し、ロシア語の学習も禁止されるようになっていた。国家が閉鎖され、外の世界への通路も絶たれたことに班忠義は思い悩んでいた。そのころ、ただ外国語は慰めてくれることができた。これも世界を理解する、唯一の方途だった。というのは、文化大革命時代の学校では、政治、つまりマルクス・レーニン主義・毛沢東思想しか学べなかったからだ。「米帝ソ修」(米国帝国主義とソ連修正主義)の喉と舌となることなんて、絶対許さなかった。
家では班忠義は末っ子だった。当時は毛沢東主席の「知識青年上山下郷」という運動の提唱に応じて、兄も姉も田舎へ行った。家ではどうしても両親の世話をする人が要るので、班忠義は町に残ることになっていた。1972年の休みに、姉の下放された河北公社の蓮島湾へ遊びに行った。そこで一人の日本人の婦人と知り合いとなり、それに彼女を「曾おばさん」と呼んでいた。曾おばさんの本名は、野溝仲子だが、第二次世界大戦後、「残留婦人」として中国に留まることになっていた。その後、現地の一人、名字が曽である農民に嫁いだ。子供もいるし、そこに根ざしていた。始めに班忠義は、自分の祖国を侵略した日本の人に好感を持っていなかったが、曾おばさんのことが分かってきたと共に、彼女を同情するようになった。1972年田中角栄が中国を訪問した。曾おばさんはこのニュースを見たら、涙も溢れてきた。日本側と連絡を取ってから日本に帰国した。しかし、当時は日本の経済が好景気に沸いているが、数十年も祖国と別れた曾おばさんは日本の生活に慣れなかったので、仕方なくて中国に戻った。と同時に、日本に帰る資格も失った。1992年、班忠義の著書『曾おばさんの海』が出版された。ある企業社長はこの本を見た後、積極的に政府と連絡をとった。自分が出資して、曾おばさんを帰国させた。半世紀の郷愁はついに果たされた。
日本風の中国語を喋っている曾おばさんは班忠義に優しくしていた。外国語の興味と知識の渇きで、班忠義は曾おばさんに日本語を学ぼうと決めたが、当時仮名の形さえも分からなかった。そこで新華書店の倉庫に、1962年商務印書館によって出版された日本語の教科書を見つけた。この小僧も日本語を勉強するつもりかと、本屋さんもびっくりした。日本語の中で、仮名の外に見慣れた漢字もいるから、班忠義は日本語ができる自信を持っていた。授業におばさんのところに向かうのは「万里の長征」のようだった。土曜日と日曜日になると、町を出発、三時間も車に乗って、そして一時間歩いておばさんの家に着ける。夫婦の二人とも優しく、日曜日の度に班忠義を自分の家に泊めた。勉強の熱意が高い班忠義は五十音図を習ってから、すぐ文法の勉強を始めた。二回目おばさんのところに来た時、「今日は何曜日ですか?」と言って、おばさんを喜ばせた。
1977年、中国では大学入試制度が回復した。その一年、班忠義も大学入試を受けたが、悪い数学成績のせいで、不合格になってしまった。翌年もう一度受けることにした。幸いに、今回、数学の点数は総点数に入らなかったが、外国語のは入ったのだ。日本語の優位によって黒竜江大学日本語学部に合格した。1979年、日本贈書会の催した作文コンクールで、『日本人の母親』という文章によって大学生組みで優勝した。賞品は一箱の日本百科事典だった。当時は大学生が宝だったから、専攻は就職の障壁になりそうもなかった。そのため、1982年に卒業してから、札数えもできない班忠義は、創立されたばかりの中国銀行撫順支社へ配置され、貸付業務に従事していた。二年後、日本語翻訳者として、撫順市科学技術協会の国際部に転勤し、大量の日本人に接し始めた。その時こそ、自分の仕事が専攻に当たるようになった。
1986年、黒竜江大学大学院の文学研究科に合格した。しかしそれと同時に、日本に留学の機会も得た。見聞を広げるために、班忠義は毅然として、国内の手厚い待遇と優れた学習環境を放棄して、一人で日本に渡ってきた。
初めて日本に来た班忠義は生計を維持するために、働く傍ら勉強していた。新聞を送るとか出前をするとか、12万円の月給ができた。それに、日本の大学に進むように、英語も独学していた。一年後、願いどおり、やっと上智大学大学院の報道学部に合格した。在校期間、自分の創作特技を生かし、毎日新聞や読売新聞によって開いた作文コンクールで何度も入賞して、何百万円の賞金を得た。これは僅かな収入ではなかった。そして、論文を書くのに、「留学生相談社」を通して、東京における、出資して留学生を援助する東海寺に宿っていた。東海寺では、留学生は毎朝半時間座禅し、それに、全然埃がなくても一時間掃除させられている。その後、班忠義は「掃くのは地ではなく、心だ」と悟って、禅宗に対する興味を持つようになった。そこで、東京大学で仏教を二年間も研究した。
日本軍性暴力の被害女性のために戦う
1992年、元慰安婦の万愛花が日本で、日本軍の暴行を告発し、班忠義は心を揺り動かされた。「慰安婦」というものを知ったのは初めてだった。1995年、曾おばさんを日本に送り帰した後、班忠義はビデオカメラを持って、一人で山西に駆け付け、歴史の真相を探り始めた。万愛花、李秀梅、陳林桃など、日本軍の残虐な辱めを受けたことがあるお年寄りたちと会った。彼女らは晩年の生活が苦しく、日本軍のもたらした生理と心理の傷つけがずっと消えないのだ。多くの病にかかっても、貧しいので治療できない。この時、正義感と同情心が溢れた班忠義は、お年寄りたちのために寄付を発起しようと決心した。日本に戻って以来、色々な困難を克服して、中国元慰安婦支援会を創立した。彼の努力で、寄付が日本各地から集まってきた。これらの資金はすべてお年寄りたちの晩年の生活に用いられる。だが、班忠義はずっと自腹を切って交通費と寄宿費を納めていて、余裕の時は全くない。それに、卒業した後のしばらくの時間に、まだ東海寺に宿っていた。
この十数年、班忠義はずっと日本軍性暴力被害女性に関する調査をしている。「慰安婦というのは日本側の言い方だけで、実は被害者に対するこの上ない侮辱なのだ。」と彼は憤慨して、それは「性暴力被害者」と強調した。当時の日本軍は中国を非常に蔑視していた。殊に1931年の満州事変後、蒋介石をはじめ、中国国民党政府は一歩ずつ譲歩し、いっそう日本軍の蔓延りを助長してしまった。班忠義はかつて日本老兵の近藤一にインタビューした。当時の日本軍は中国の民衆を虐殺する時、天皇の賜った銃弾を惜しんで使わず、直接石で人を無残に打ち殺したと、近藤は述べた。その上、日本軍は一ヵ所に侵入したら、気が狂って強奪するようにした。婦女暴行など更によくあった。かつて、三人の兵士が順々に一人の中国女性を強姦した後、近藤は四番めとして強姦を続けるように命令されたという話を語った。その時近藤は「すごく汚い」と感じ、あの女性も既に気息奄々となってしまった。
これらの日本老兵も被害者であり、彼らの良心を消滅するのは戦争だと考えている人もいる。この見方に対して、日本侵略者の罪悪は数え切れないほど多かったが、「罪を憎んで人を憎まず」というようにすべきだと、班忠義は理知的に説いた。盲目的に日本国民全体を憎むわけにはいかない。日本においても、中国の元慰安婦と貧困者を援助している左翼分子と平和を愛する人が多い。
日本は第二次大戦期間の罪悪をずっと覆い隠すようにしている。歴史教科書を歪曲し、慰安婦の存在を否定している右翼分子も少なくない。これは、日本人の民族文化と愛国心に基づいて生み出した、本国に対する盲目的な美化行為である。その上、新世代の若い者は歴史に無関心、無知になるということを招いてしまったと、班忠義が主張している。そのため、慰安婦問題に関する正義と公理は日本民衆の理解を得ることはたいへん難しいのである。
慰安婦問題がずっと敗訴になっていることに言及して、班忠義は非常にやきもきした。そして、彼は自分が時間と競走していると言った。それは、慰安婦と老兵の次々と亡くなることに従って、真実が時間の中に埋没されてしまう心配があるからだ。残念ながら、世界中では、国家利益を越えて全人類の正義を貫く、真の国際法廷がないため、慰安婦は日本でしか起訴できない。慰安婦を助けて日本政府を起訴した日本人弁護士も少なくないといっても、人道主義に基づいて、自費でお年寄りたちを日本の裁判所に送るし、方々に証拠や証言を探し集めるし、彼らも「精も根も尽き果てた」。インタビューを受ける時、何故国際法廷に依頼しないかという質問に対して、彼らは自分の力を通して、日本の国家イメージを改めたいと答えた。これらの日本人弁護士は気高いが、やはり国家利益の枠から跳び出さないと、班忠義は思っている。それにしても、もう一面から日本人の愛国心が見える。彼らと比べてみると、我々の中国人弁護士は何故、出て来て正義を求めないのか。
班忠義の努力は、日本においてだんだん多くの注目を浴びるようになってきた。十年間にわたり撮影された『ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち』というドキュメンタリー映画が日本で放映された後、大きな反響を呼んだが、伝えている範囲はかなり狭かった。日本では小型の映画館に限り放映された。そしてそれは、米国衆議院から慰安婦問題を非難する議案の圧力に屈し、日本が放映の制限を緩めた結果だった。それに対して、中国ではこのドキュメンタリー映画を知っている人は多くないと言える。かつて清華大学で放映され、少数の専門家と学者の注目を引き、如実に慰安婦の惨状を表していると評価されているが、その後、間もなく色々な娯楽的映画に埋没されてしまった。
調査中最大の困難は他人から理解を得られず、水を差されることと、班忠義が思っている。閉塞した現地では慰安婦問題が「醜聞」だとされ、班忠義の「うちの醜聞を広げる」というやり方を理解できない人は少なくない。しかも、現地政府を訪ねる時、断られたこともよくある。更に、山岳地帯だから交通が大変不便で、車はほとんど走れない。そこで、ジープを運転し、河床に沿って走ることしかできない。黄土では雨が降れば更に大変になる。それにしても、一定の職業も一定の住所もなくても、班忠義はずっとこのように、一人で努力していて、諦め切れない。彼を支えているのはただ真理と正義を求める信念だけだ。
2000年、班忠義は高橋敬子と結婚した。その後、高橋敬子はずっと彼に力強い助けを与えている。彼の妻であると同時に有能な助手でもある。今は広外大に勤める傍ら、二児の子供を育てている。班忠義は昨日広州に着いたばかりなのに、明日はすぐ日本に戻ることになっている。このように、夫婦間の対面は多くないと言える。班先生と話し合っている時、高橋先生はずっと黙ったままだった。時々部屋でわんぱくな子供の世話をしたり、手で額を支えて本を読んだりしていた。彼女も疲れたでしょう。一人の日本女性でありながら、黙々として、班先生のような一人の中国男性の事業と理想を支持している。高橋敬子先生も同様に偉く、本当に感心させられるものだ。