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摇曳的风铃 - 2010/1/13 9:23:00
不知不觉,从开始学日语到现在也有三年半了(是“日本語を勉強し始めてから三年半”,而不是“日本語を三年半勉強した”哦)。我也快要毕业啦。日语的学习生涯要暂时划上一个逗号了(因为学无止境嘛,呵呵)。最近突然想从自己三年多以来写过的作文中,拿几篇发到这里。一是回顾自己的成长历程,二是为日语角提供一些素材,供大家做病句修改练习,或者其他方面的参考。至于为什么偏偏要发到这里,是因为对我来说,人生、日语、KFC三者之间有着很深的联系,KFC可以称得上是我命运改变的地方……详细的心情我想迟点另发一贴跟大家分享,这贴就单单发作文。无论是写得好的,写得不好的,正确的,错误的,只要能为大家提供一些参考我就满足了。各位千万不要嘴上留情,尽情吐槽吧(是谁说“被吐槽是一个人成长中必不可少的过程”来着的?哈哈)。

各位同学注意,日语作文横向书写的时候一般在段落开头是空一格的。由于在网页打字比较麻烦,我这里就空两格或者不空。但书写的时候各位记得是空一格吖!

好了,丢脸作文第一弹!这是我学日语2个月后写的,同时这也是本人的处女作。作文题目是最经典的“私の一日”。

  今年の三月二十六日に、私は広州へ来ました。一人で汽車で来ました。広州初回模擬試験の後で、私は暇でしたから、広州へ来ました。家から広州まで二時間ぐらいかかります。
  朝九時に越秀公園へ地下鉄で行きました。あの日は天気がよかったですから、観光客がたくさんいました。公園は賑やかでした。湖はとても綺麗でした。蓮華は咲いていなかったですが、美しかったです。春の風が暖かかったです。写真をたくさん撮りました。
  私は広州の春が好きです。広州の夏が大変暑いから、私は嫌いです。
  十二時半にレストランで昼御飯を食べました。それから、北京路へバスで行きました。北京路には色々な建物がたくさんありました。ビルも店も多かったです。買い物客が大勢いました。友達にプレゼントを買いました。可愛い人形でした。
  夕方日本料理屋で日本料理を食べました。寿司や刺身やうどんなどを食べました。日本料理はおいしかったです。でも、少し高かったです。それから、青年文化宮で映画を見ました。あれはアメリカの映画で、面白かったです。
  少し疲れました。でも、とても楽しかったです。
摇曳的风铃 - 2010/1/13 9:32:00
第二弹!这是学日语半年后写的日记。



  日本語で日記を書くのは初めてだ。

  長い間日記を書いていなかった。これから、日本語で日記を書こうと思う。小学生のレベルでも、やってみたい。このように作文を練習するつもりだから。最初は書ける内容が少なくて、間違いも多いかもしれないが、毎日続けば効果があると信じているのだ。

  最近ちょっと気持ちがよくなくて、忙しかった。毎日勉強、勉強って、大変だった。英語四級の単語もたくさんあって、日本語の文法も複雑になっていく。単語も覚えなければならなくて、聴解も練習しなければならない。私の生活は外国語に包まれているのだ。

  先輩は、外国語を勉強する時、一日中外国語を聞いていた方がいいと言っている。それなら、外国語に対する感は養成できるからだという。でもそうしたら、私の耳はもっと辛くなるだろう。そして、いつか中国語ができなくなるのではないかと、心配している。

  昔の人たちは、どのように日本語を勉強したのか?アニメも、漫画も、ゲームもなく、日本語に興味がある人は多くなかっただろう。私の友人の中で、日本のアニメとか、ゲームとか大好きな人は大勢いる。もし、これらがなかったら、彼らは日本語を勉強したくないかもしれない。そして、昔MP3も、パソコンも、インタネットも使えず、外国語の勉強が不便だろう。

  でも、孫文や魯迅や陳獨秀は、日本へ留学に行ったことがある。彼らは日本語がきっと上手だった。それは、祖国のために一生懸命に努力したからだと思う。周作人と豊子恺は有名な作家で、成就は立派だった。短い間に日本語を勉強し、日本文化の精髄を悟った。有名な「枕草子」「源氏物語」を翻訳した。本当に感服するね。

  今日の英語の授業で、先生は私の作文を褒めてくださったから、ちょっと嬉しかった。あとは、英語の弁論大会のビデオを見た。選手たちは英語が上手で、ぺらぺら話していた。とても印象が深いが、いつかそのようになりたいね。

  時間の経つのは本当に速いものです。また一日が過ぎた。でも、しなければならないことはまだたくさんある。どうすればいいのか?まあ、明日も頑張ろう!
摇曳的风铃 - 2010/1/13 9:42:00
第三弹!也是学日语半年后的作品。课堂上的一次小小的演讲(处女“発表”),内容很弱智-_- 题目也是很经典的“将来の夢”。


  皆様、おはようございます。私のスピーチのテーマは「将来の夢」です。

  私は小さいとき、無口な子供で、趣味が読書でした。その時、自然科学についての本をたくさん読みました。だから、自然のことに深い興味がありました。どうして星が光りますか。どうして風が吹きますか。どうして虹がありますか。多くの疑いが心にあるから、科学者になりたいと思っていました。でも、父は「馬鹿な!よく勉強しろ!将来は立派な弁護士になれ!金持ちはいいじゃないか?」と言いました。そのとき、私は辛かったです。しかし今、大人になって、実は、科学者になることが簡単ではないと分かりました。父の考えは現実で、私のは幼稚です。子供時代の夢は幻のようにずっと心にあります。

  現在、大学で日本語を専門として勉強しています。もちろん、将来は、日本にかかわる仕事をしたいです。通訳でも、ほかの職業でも、本気になって働きます。経験も、人脈も持ってからこそ、もっといい仕事を選びます。

  以上は私の職業の理想です。実は、私の夢は、自分の大好きな人と、一緒に世界旅行することです。素晴らしい眺めを見に行きたいと思っています。日本はもちろんです。桜や、紅葉や、そして、古い町は私を魅了します。それに、ヨーロッパには、大好きなところがたくさんあります。例えば、イタリアも、スイスも、スウェーデンも、ギリシアもみんな綺麗な国です。いつか、私はきっと見に行って、夢を叶えます。ずっと、夢のために、頑張ります。

  はい、以上です。ご清聴、どうもありがとうございました。
摇曳的风铃 - 2010/1/13 9:54:00
第四弹!学日语一年后写的通讯稿。第一次写篇幅长,而且内容比较难的文章。其实主笔是我同学,我负责的主要是翻译。由于原文太长,这里就贴前半部分吧。


班忠義を訪ねる:正義と公理の戦士



彼女は高橋敬子、彼は班忠義なんだ



  「高橋敬子!」私は大声で叫んでしまった。

  22日の午後、日本語会話の授業で、高橋先生は雲南省玉竜県の不登校児童(中途退学者)に関するドキュメンタリー映画、『阿苦村』を放映して下さった。辺鄙な地方で子供たちの惨めな生活の様子がこの映画を通して、私たちの眼前に如実に現れ、涙も出そうになった。しかし、放映の最後に、この映画の監督が班忠義だということに気付いた。この名前は、どこかで見たことがあるのだろう。その後、字幕の中にもう一つの名前、「高橋敬子」が現れた時に、私は思わず叫んでしまった。そんなに激しい動きが、クラスメートも不思議に感じた。班忠義?高橋敬子?誰か?

  疑いを持って、インターネットで色々と探していた。班忠義という名前はずっと前から知っていた。彼はずっと中国慰安婦の救助活動に従事している。そして、十年間もかかって、『ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち』というドキュメンタリー映画を撮影し、歴史の真相を世に知らせた。彼は戦士であり、高橋敬子は彼の妻と有能な助手だ。私たちの優しくて落ち着いた先生は、確かにその高橋敬子だと思うようになった。

  23日の午後、直接に先生に尋ねた。間違いなく、先生は高橋敬子、つまり班忠義の奥さんだ。奮い立たせることに、午後は交流会が行われた。そして、班忠義先生も出席なさった。その頃、初めてこの戦士に会った。背が高いし、豪放磊落だし、それに親切な東北の大男だった。私は班先生の手を握って、「先生、お疲れ様でした。」と言った。

  24日、夜八時、大学の専家楼(外国の先生たちの住宅)にある、高橋先生のお宅で、班忠義先生を訪ねた。

  先生のお宅に上がってみると、普通の家で、簡素な家具だった。先生は一男一女のお子さんがいる。私たちをみたら、わんぱくな子供たちはすぐ飛びかかった。私たちに付きまとって遊びながら、それにお菓子をくれた。高橋先生は急いで子供たちを部屋へ連れていった。挨拶してから、班先生は座らせてくださった。それから、先生へのインタビューを始めた。

日本語を学んで、日本に留学する



  班忠義は1958年に遼寧省撫順市に生まれた。そこは、石炭が豊富で、日中戦争時期、日本軍はそこで憚らずに略奪しただけでなく、世間をぞっとさせるような平頂山大虐殺も起こした。当地の人々は日本人に対して恨み骨髄に徹している。こんな場所に生まれた班忠義は、一体どのように日本語と縁ができたのだろうか。先生は喜んで自分の昔のことを述べ始めた。

  小学校の六年生のころ、班忠義は始めて外国語のロシア語に接した。漢字とぜんぜん違うアルファベットを見ると、突然に未知、神秘の国にきたようだった。ロシア語が大好きで、クラス全員の中、試験で唯一の満点をとった。しかしその後は、プロレタリア文化大革命が始まった。そして、中ソ関係が珍宝島事件で悪化し、ロシア語の学習も禁止されるようになっていた。国家が閉鎖され、外の世界への通路も絶たれたことに班忠義は思い悩んでいた。そのころ、ただ外国語は慰めてくれることができた。これも世界を理解する、唯一の方途だった。というのは、文化大革命時代の学校では、政治、つまりマルクス・レーニン主義・毛沢東思想しか学べなかったからだ。「米帝ソ修」(米国帝国主義とソ連修正主義)の喉と舌となることなんて、絶対許さなかった。

  家では班忠義は末っ子だった。当時は毛沢東主席の「知識青年上山下郷」という運動の提唱に応じて、兄も姉も田舎へ行った。家ではどうしても両親の世話をする人が要るので、班忠義は町に残ることになっていた。1972年の休みに、姉の下放された河北公社の蓮島湾へ遊びに行った。そこで一人の日本人の婦人と知り合いとなり、それに彼女を「曾おばさん」と呼んでいた。曾おばさんの本名は、野溝仲子だが、第二次世界大戦後、「残留婦人」として中国に留まることになっていた。その後、現地の一人、名字が曽である農民に嫁いだ。子供もいるし、そこに根ざしていた。始めに班忠義は、自分の祖国を侵略した日本の人に好感を持っていなかったが、曾おばさんのことが分かってきたと共に、彼女を同情するようになった。1972年田中角栄が中国を訪問した。曾おばさんはこのニュースを見たら、涙も溢れてきた。日本側と連絡を取ってから日本に帰国した。しかし、当時は日本の経済が好景気に沸いているが、数十年も祖国と別れた曾おばさんは日本の生活に慣れなかったので、仕方なくて中国に戻った。と同時に、日本に帰る資格も失った。1992年、班忠義の著書『曾おばさんの海』が出版された。ある企業社長はこの本を見た後、積極的に政府と連絡をとった。自分が出資して、曾おばさんを帰国させた。半世紀の郷愁はついに果たされた。

  日本風の中国語を喋っている曾おばさんは班忠義に優しくしていた。外国語の興味と知識の渇きで、班忠義は曾おばさんに日本語を学ぼうと決めたが、当時仮名の形さえも分からなかった。そこで新華書店の倉庫に、1962年商務印書館によって出版された日本語の教科書を見つけた。この小僧も日本語を勉強するつもりかと、本屋さんもびっくりした。日本語の中で、仮名の外に見慣れた漢字もいるから、班忠義は日本語ができる自信を持っていた。授業におばさんのところに向かうのは「万里の長征」のようだった。土曜日と日曜日になると、町を出発、三時間も車に乗って、そして一時間歩いておばさんの家に着ける。夫婦の二人とも優しく、日曜日の度に班忠義を自分の家に泊めた。勉強の熱意が高い班忠義は五十音図を習ってから、すぐ文法の勉強を始めた。二回目おばさんのところに来た時、「今日は何曜日ですか?」と言って、おばさんを喜ばせた。

  1977年、中国では大学入試制度が回復した。その一年、班忠義も大学入試を受けたが、悪い数学成績のせいで、不合格になってしまった。翌年もう一度受けることにした。幸いに、今回、数学の点数は総点数に入らなかったが、外国語のは入ったのだ。日本語の優位によって黒竜江大学日本語学部に合格した。1979年、日本贈書会の催した作文コンクールで、『日本人の母親』という文章によって大学生組みで優勝した。賞品は一箱の日本百科事典だった。当時は大学生が宝だったから、専攻は就職の障壁になりそうもなかった。そのため、1982年に卒業してから、札数えもできない班忠義は、創立されたばかりの中国銀行撫順支社へ配置され、貸付業務に従事していた。二年後、日本語翻訳者として、撫順市科学技術協会の国際部に転勤し、大量の日本人に接し始めた。その時こそ、自分の仕事が専攻に当たるようになった。

  1986年、黒竜江大学大学院の文学研究科に合格した。しかしそれと同時に、日本に留学の機会も得た。見聞を広げるために、班忠義は毅然として、国内の手厚い待遇と優れた学習環境を放棄して、一人で日本に渡ってきた。

  初めて日本に来た班忠義は生計を維持するために、働く傍ら勉強していた。新聞を送るとか出前をするとか、12万円の月給ができた。それに、日本の大学に進むように、英語も独学していた。一年後、願いどおり、やっと上智大学大学院の報道学部に合格した。在校期間、自分の創作特技を生かし、毎日新聞や読売新聞によって開いた作文コンクールで何度も入賞して、何百万円の賞金を得た。これは僅かな収入ではなかった。そして、論文を書くのに、「留学生相談社」を通して、東京における、出資して留学生を援助する東海寺に宿っていた。東海寺では、留学生は毎朝半時間座禅し、それに、全然埃がなくても一時間掃除させられている。その後、班忠義は「掃くのは地ではなく、心だ」と悟って、禅宗に対する興味を持つようになった。そこで、東京大学で仏教を二年間も研究した。

日本軍性暴力の被害女性のために戦う



  1992年、元慰安婦の万愛花が日本で、日本軍の暴行を告発し、班忠義は心を揺り動かされた。「慰安婦」というものを知ったのは初めてだった。1995年、曾おばさんを日本に送り帰した後、班忠義はビデオカメラを持って、一人で山西に駆け付け、歴史の真相を探り始めた。万愛花、李秀梅、陳林桃など、日本軍の残虐な辱めを受けたことがあるお年寄りたちと会った。彼女らは晩年の生活が苦しく、日本軍のもたらした生理と心理の傷つけがずっと消えないのだ。多くの病にかかっても、貧しいので治療できない。この時、正義感と同情心が溢れた班忠義は、お年寄りたちのために寄付を発起しようと決心した。日本に戻って以来、色々な困難を克服して、中国元慰安婦支援会を創立した。彼の努力で、寄付が日本各地から集まってきた。これらの資金はすべてお年寄りたちの晩年の生活に用いられる。だが、班忠義はずっと自腹を切って交通費と寄宿費を納めていて、余裕の時は全くない。それに、卒業した後のしばらくの時間に、まだ東海寺に宿っていた。

  この十数年、班忠義はずっと日本軍性暴力被害女性に関する調査をしている。「慰安婦というのは日本側の言い方だけで、実は被害者に対するこの上ない侮辱なのだ。」と彼は憤慨して、それは「性暴力被害者」と強調した。当時の日本軍は中国を非常に蔑視していた。殊に1931年の満州事変後、蒋介石をはじめ、中国国民党政府は一歩ずつ譲歩し、いっそう日本軍の蔓延りを助長してしまった。班忠義はかつて日本老兵の近藤一にインタビューした。当時の日本軍は中国の民衆を虐殺する時、天皇の賜った銃弾を惜しんで使わず、直接石で人を無残に打ち殺したと、近藤は述べた。その上、日本軍は一ヵ所に侵入したら、気が狂って強奪するようにした。婦女暴行など更によくあった。かつて、三人の兵士が順々に一人の中国女性を強姦した後、近藤は四番めとして強姦を続けるように命令されたという話を語った。その時近藤は「すごく汚い」と感じ、あの女性も既に気息奄々となってしまった。

  これらの日本老兵も被害者であり、彼らの良心を消滅するのは戦争だと考えている人もいる。この見方に対して、日本侵略者の罪悪は数え切れないほど多かったが、「罪を憎んで人を憎まず」というようにすべきだと、班忠義は理知的に説いた。盲目的に日本国民全体を憎むわけにはいかない。日本においても、中国の元慰安婦と貧困者を援助している左翼分子と平和を愛する人が多い。

  日本は第二次大戦期間の罪悪をずっと覆い隠すようにしている。歴史教科書を歪曲し、慰安婦の存在を否定している右翼分子も少なくない。これは、日本人の民族文化と愛国心に基づいて生み出した、本国に対する盲目的な美化行為である。その上、新世代の若い者は歴史に無関心、無知になるということを招いてしまったと、班忠義が主張している。そのため、慰安婦問題に関する正義と公理は日本民衆の理解を得ることはたいへん難しいのである。

  慰安婦問題がずっと敗訴になっていることに言及して、班忠義は非常にやきもきした。そして、彼は自分が時間と競走していると言った。それは、慰安婦と老兵の次々と亡くなることに従って、真実が時間の中に埋没されてしまう心配があるからだ。残念ながら、世界中では、国家利益を越えて全人類の正義を貫く、真の国際法廷がないため、慰安婦は日本でしか起訴できない。慰安婦を助けて日本政府を起訴した日本人弁護士も少なくないといっても、人道主義に基づいて、自費でお年寄りたちを日本の裁判所に送るし、方々に証拠や証言を探し集めるし、彼らも「精も根も尽き果てた」。インタビューを受ける時、何故国際法廷に依頼しないかという質問に対して、彼らは自分の力を通して、日本の国家イメージを改めたいと答えた。これらの日本人弁護士は気高いが、やはり国家利益の枠から跳び出さないと、班忠義は思っている。それにしても、もう一面から日本人の愛国心が見える。彼らと比べてみると、我々の中国人弁護士は何故、出て来て正義を求めないのか。

  班忠義の努力は、日本においてだんだん多くの注目を浴びるようになってきた。十年間にわたり撮影された『ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち』というドキュメンタリー映画が日本で放映された後、大きな反響を呼んだが、伝えている範囲はかなり狭かった。日本では小型の映画館に限り放映された。そしてそれは、米国衆議院から慰安婦問題を非難する議案の圧力に屈し、日本が放映の制限を緩めた結果だった。それに対して、中国ではこのドキュメンタリー映画を知っている人は多くないと言える。かつて清華大学で放映され、少数の専門家と学者の注目を引き、如実に慰安婦の惨状を表していると評価されているが、その後、間もなく色々な娯楽的映画に埋没されてしまった。

  調査中最大の困難は他人から理解を得られず、水を差されることと、班忠義が思っている。閉塞した現地では慰安婦問題が「醜聞」だとされ、班忠義の「うちの醜聞を広げる」というやり方を理解できない人は少なくない。しかも、現地政府を訪ねる時、断られたこともよくある。更に、山岳地帯だから交通が大変不便で、車はほとんど走れない。そこで、ジープを運転し、河床に沿って走ることしかできない。黄土では雨が降れば更に大変になる。それにしても、一定の職業も一定の住所もなくても、班忠義はずっとこのように、一人で努力していて、諦め切れない。彼を支えているのはただ真理と正義を求める信念だけだ。

  2000年、班忠義は高橋敬子と結婚した。その後、高橋敬子はずっと彼に力強い助けを与えている。彼の妻であると同時に有能な助手でもある。今は広外大に勤める傍ら、二児の子供を育てている。班忠義は昨日広州に着いたばかりなのに、明日はすぐ日本に戻ることになっている。このように、夫婦間の対面は多くないと言える。班先生と話し合っている時、高橋先生はずっと黙ったままだった。時々部屋でわんぱくな子供の世話をしたり、手で額を支えて本を読んだりしていた。彼女も疲れたでしょう。一人の日本女性でありながら、黙々として、班先生のような一人の中国男性の事業と理想を支持している。高橋敬子先生も同様に偉く、本当に感心させられるものだ。
摇曳的风铃 - 2010/1/13 10:06:00
第五弹!学日语两年了,自以为学有小成,便信手涂鸦。拿去给外教改,结果拿回来一看,整张A4纸划满了红色的修改符号……再拿去给中国的老师看,结果又被指出在文章中心、内容等方面存在四大硬伤,泪奔……各位同学就不要研究文章思想了(实在不值得研究),看看语法错误就好……


中日両国の反戦思想の違いについて




  山は哭き 河は嘆かふ 広島に
  またの緑は なしと想ひぬ
  呪ふべき かの日の証 歌詠まむ
  吾娘は死にたり 被爆者われは

  1945年8月6日、広島、人類は初めて地獄の様子を見た。暗闇の空、激しく動揺する大地、生霊を呑み込む紅蓮の炎、万物を蝕む黒い雨。20万人の命が一瞬、戦争という悪魔に奪われた。冒頭の歌にこめられたのは、いとし子を失った父親の悲しみのみではない。戦争で肉親・友達・恋人を亡くした夥しい人間の辛い思いも含まれている。

  歴史的な分析はしばらくさておいて、民族的な立場も越えてみよう。私は、平和の新世代の一員として、個人的な立場に立っているのである。中国と日本は第二次世界大戦中大きな惨害を被った。両国の国民も戦争の被害者だと見ている。戦火に犠牲した無辜の人々に、人種・民族・信仰を問わず、同情を寄せるべきではないだろうか。

  残念ながら、中国においては、このような憐憫が一般的に認められていない。例えば、日本の有名な反戦アニメ映画、高畑勲の傑作『火垂るの墓』は広く放映されているが、人気がある一方、非難も少なくないのである。視聴者たちの評価や感想のなかで、もっとも代表的なのは、「まさに自業自得!空襲や原爆などとは、ほかならぬ、軍国政府を支持して他国に惨害を与えた日本国民全体への天罰なんだ!こいつらより、わが国の、虐殺された無数の同胞のほうが同情に値するんだ!」ということである。

  今まで両国の相互理解は依然として難航を続けている。国民感情もなかなか進まない。いったいなぜだろうか。それは、反戦に関する見方が違うからではないかと思われる。

  日本の反戦映画では、一般人の戦争体験を細かに描写するものが多い。戦争中、一般兵士と民衆の辛さと痛みへの表現を重んじ、従って戦争否定の効果を収めようとするのである。このような反戦映画は強い共感力と感動力を持っており、これによって日本人は理解と同情を広く博すことができると、日本の平和主義者は信じている。確かに、民族主義より世界市民主義と人道主義を高く認める欧米人にとって、それらの反戦映画は意義深いと言える。だが、東アジアの人からみると、日本がひたすら戦争の罪悪を訴えるというやり方は、ただ自分の犯した罪をごまかし、戦争の加害者としての責任を回避するに過ぎない。

  日本の反戦映画とは逆に、中国映画にはっきりと表れるのは、人と戦争との矛盾ではなく、侵略者と被侵略者との民族的矛盾である。中国国民が勇ましく侵略者に抵抗する光景はよく見られる。ゆえに映画の主題は「反戦」というより、むしろ「反侵略」のほうが適当である。従って、今日に至っても、とりわけ日本と日本人への憎しみに満ち、暴力革命と戦争を高く認める中国人は少なくない。

  それは、いろいろな歴史的原因で、中国人の愛国教育がいつも反侵略の意識と密接に結び付いているからである。このような教育手段はいったんやりすぎると、新たな時代に相応しくない思想を生じ、悪影響をもたらす恐れがある。現在の中国の国民は、総じて民族意識に非常に敏感で、ともすればただごとを「愛国」や「売国」とするのである。中国の「反日教育」に対して、日本人もかなり不満に思っている。

  相互理解とは簡単なものではない。なぜなら、いまどきの人々は、ほとんど自民族の利益に基づいてものを考え、判断を下すからである。特に中国をはじめ、近現代の植民地支配から解放され、暴力革命で独立してきた国々にとって、侵略と抵抗の視点から戦争を理解するのはあたりまえなことである。ゆえに、愛国精神と民族意識の強い中国人は、「反戦」という言葉を見ると、すぐ思いつくのは「戦争は残酷かつ反人類的なものだ」などではなく、「侵略者の謝罪と賠償は何より重要なものだ」などである。従って、日本はこの立場を納得しなければならない。一方、「罪を憎んで人を憎まず」。日本国民も戦争の被害者であるということは、認識する必要がある。

  人間の欲望と憎しみが戦火をつけるものである。だが、我々は寛容という美徳を用いて戦争の傷跡を癒すことができる。日本人にせよ、中国人にせよ、アメリカ人にせよ、世界中の人々は、慈しみ合いたいものではないだろうか。
摇曳的风铃 - 2010/1/13 10:16:00
最终弹!学日语两年半后写的选修课report。这门经济类选修课我不太喜欢,老师讲的实质上是老套的马克思经济学+中国特色思想,跟我的古典自由主义思想(libertarianism)格格不入。所以report就随便应付了一下。我自己都觉得写得不好,论据的数量、说服力和针对性都明显不足,特别是论证过程软弱无力。不过很多基本概念和逻辑要解释起来也很麻烦,只好这样了……


ホンダの成功から見た―これから中国自動車産業の発展戦略


はじめに

 日本の通商産業省(略称「通産省」)はけっこう有名な行政機関である。第二次世界大戦後、通産省は様々な経済計画を制定し、日本経済の復興には大きな役割を果たしたと言われている。そこで通産省は能率的な行政機関として高く評価されている。

 改革開放以降、高度経済成長を実現した中国は、世界的金融危機や激化していくグローバル競争など、新たなチャレンジに直面している。これから如何に立ち向かうべきであろうか。日本の通産省にあたる中国国家発展改革委員会(後は「発改委」と記す)をはじめ、数多くの行政機関は動き始めた。戦後の日本通産省に倣い、産業の発展計画を制定したり、企業の経営戦略の指導をしたりする。ここ数年間、中国行政機関の権限は膨大する一方であり、市場への介入行動もますます多くなってくる。また最近、『自動車産業振興計画』という政策が打ち出されたのである。色々な細かい規制を作ったようであるが、国家の強制力によって自動車メーカーの合併を促そうとするこそ、政策の中核である。

 この政策は、果たして正しいかどうか。過去の失敗例がすでに多くあるのに、その過ちを繰り返す恐れがないか。1960年代、日本一の二輪車メーカー・ホンダは、四輪車(下記の「自動車」という単語は、特に四輪車を指す)製造業に参入する思惑であった。ところが、日本通産省は様々な理由でホンダの参入を阻もうとした。この文章はそのケースの経緯を分析する。そうして、中国政府と自動車メーカーが直面している課題の解決策を見つけ出そうとするのである。

ホンダと通産省の紛争

 第二次世界大戦後、日本通産省は経済復興を目指し、積極的な産業育成政策を打ち出した。政策から支えてもらった産業は、主に鉄鋼業や造船業などの基礎的な工業であった。これらの産業の発展によって、日本経済の復興の基盤は築かれたのである。しかし、自動車産業は政府の援助を受けなかった。国土の狭い人口密集国である日本には、マイカーを中心としたアメリカ式の交通システムが通用しない、という理由であった。そして、ゼロとも言える日本自動車産業は、悠久な歴史と強大な実力を持つ欧米企業と戦う勝ち目がまったくない、と当時の通産省はそう見ていた。

 それにもかかわらず、日本の自動車産業はゼロから始め、だんだん自主的に成長してきたのである。というのは、当時の中国の完全な計画経済と違い、日本の自動車産業は政策の束縛を受けず、自由な育成環境を有したからであった。1960年代、かなりの産業規模が形成した。そこで、通産省は自動車産業を「国際競争力の強化には不可欠な産業」と見直さざるを得なかった。

 しかし通産省は、「まだ競争力の低下する企業が乱立しており、このまま国際貿易を自由化すれば、外資の食い物にされる。それを避けるために主要産業の企業を取捨選択する、すなわち、生き残りそうな企業の絞込みをする必要がある。」と見ていた。従って、国益を最大の行動基準として、効率的な競争秩序を立てようという名目のもとに、『特定産業振興臨時措置法』(後は「特振法」と記す)が立案した。

 通産省は自動車産業に関する大幅な合併と絞込みを進め、自動車を製造・販売する国内企業の数を制限しようとした。八社の自動車メーカーを「量産車グループ」・「特種車グループ」・「ミニカー生産グループ」という三つのグループにする「3グループ化構想」であった。そして、ほかの企業の参入を禁止した。当時、二輪車メーカーであるホンダは、四輪車製造業に参入するところであった。ところが、バイクの分野では大きな成功をおさめたが、四輪車の生産には能力を欠いた、と通産省は判断したのである。そこで、自動車製造の許可を得た企業ではホンダはなかった。

 これに応じて猛反発が起こっていた。ホンダの創業者、社長本田宗一郎は、政府を企業の市場開拓の邪魔者と見て、通産省の方針を厳しく批判した。そして、双方は激しい直談判を行った。「ゴチャゴチャ言うなら、株主になってから言え!競争こそが国家を発展させる道だ!」と本田宗一郎は言った。

 特振法が可決していないうちに、ホンダは四輪進出の歩調を速めた。1963年10月、第一回目の量産試作車S500は市販し始めた。そして何十年もの試練に耐え得た。現在、ホンダは日本三大自動車メーカーの一つとなり、海外販路の開拓も順調に遂げた。これに対し、当時の「3グループ化構想」は多くの企業の反対と抵抗で、廃案となったのである。

 今顧みると、ホンダは自動車産業への進出に成功したが、通産省との紛争で大きな代償を払った。本来の生産・販売計画も乱され、通産省との交渉にも余計な時間と費用がかかったのである。「通産省の邪魔がなければ、もっとうまくいけるはずだったなのに」、と本田宗一郎は述べた。

 実際、通産省は後も絶えず、間違った産業政策を繰り返していた。半導体産業やコンピュータ産業の発展計画、デジタル技術や無線通信技術の研究プロジェクトなど、色々な分野で過ちを犯したのである。特に、日本のIT産業の振興のために国家プロジェクトをいくつも推進してきたが、その成果は芳しくなかった。代表的プロジェクトは、1982年~1994年の570億円の第五世代コンピュータ・プロジェクト、1985年~1990年の250億円のシグマ計画、1992年~2001年の500億円のRWCPなどである。莫大なコストのわりにわずかな効果に過ぎなかった。

中国が得られる教訓

 1950年代、中国は計画経済の旗を掲げて復興を目指していた。しかし、本当に復興を実現したのは、80年代以降、鄧小平氏の改革開放という方針であった。これによって中国の自由市場経済はある程度築かれた。その成果も驚くべきものである。ところが、二千年の伝統文化や近代プロレタリア革命など、色々な歴史的な原因で、政府を中心とした経済システムはいまだに根深く存在している。政府が市場に介入する傾向も強ければ、企業(特に国有企業)が政府の支配に頼りにする傾向も強いのである。気まぐれな発展計画と国家基準の応対にてんてこ舞いする企業は自主性を欠き、競争力もなかなか高まらない。

 中国重慶力帆グループが自動車業界へ参入したというケースを見てみよう。もともと、ホンダと同じ二輪車メーカーである重慶力帆は、2002年に四輪車製造業へ進軍しようと決意した。前期のデザインや試作から、後期の生産や宣伝まで、すべてのプロセスは2004年11月に完了した。ところが、発改委の「審査」で、新車の発売は二年も延ばされた。技術問題との原因だと公言したが、実は、ある自動車産業の計画に基づいて、政府が自動車生産の許可を幾つかの大手メーカーに限定し、ほかの民間企業の参入を排除しようとしたのである。重慶力帆は国家の生産許可を得るために、余計な時間と費用が多くかかった。市場競争でさらに立ち遅れてしまった。

 最近、『自動車産業振興計画』が打ち出された。発改委は日本の通産省の過ちを繰り返すかどうか。結論を下すにはまだ早い。だが、期待を寄せないほうがよいと思われる。先進国の自動車産業の生い立ちを見ればすぐ分かる。アメリカにせよ、ドイツにせよ、自動車産業は政府の強制的な合併によって発展してきたわけではない。世界に誇るブランドと発達した産業は、活発な市場しか育てられないのである。

結び

 経済政策の結果は、しばしば予想どおりにはならない。「過熱な競争による資源の無駄使いを避け、効率的な生産体系を立てる」というのは、多くの政策の出発点である。実際、こういう見方は、競争による無駄使いを誇張し過ぎたと同時に、競争による原動力をも過小評価したのである。損得勘定の基準は誤った。

 もう一つの出発点は「幼稚産業保護論」とまとめられる。しかしその効果は限りがある。たとえ行政独占によって成長してきた大手企業としても、いったん政府の保護をなくすと、すぐ崩れそうになるケースも多い。長期的な視点から考えると、資源を比較優位な産業に移したほうが有利である。

 さらに、上述の出発点が成立するための前提もかなり無理と言える。全知全能な政府はありえないため、完璧な経済計画を立てることができない。間違った政策は自発的市場の失敗より弊害が遥かに深刻である。ゆえに、最適資源配分を達するためには、無数の企業からなった市場は必ず政府に勝るのである。市場の主導的な役割を認めなければならない。

 従って、企業が自由に発展できる、公平に競争できる市場環境をつくることこそ、通産省や発改委などの行政機関の主要職務である。具体的に言えば、企業の自主性を尊重したり、企業と市民の財産権の保障を強化したり、基礎的な公共サービスを提供したりする、つまり、「市場競争」という試合の中で、コーチやプレーヤーではなく、組織委員会と審判員を演じるべきである。たとえ善意からだったとしても、政府が自分の役割を間違えると、市場の秩序を乱してしまうのみである。

参考文献

『戦後日本経済の50年』 小浜裕久・渡辺真知子 日本評論社
『高度成長期の自動車産業政策』 山崎修嗣 社会文化研究,26(2000)
『官僚たちの夏』 城山三郎 新潮社
『本田宗一郎夢を力に―私の履歴書』 本田宗一郎 日経ビジネス人文庫
『反省のない失敗は繰り返す』 酒井寿紀 オーム社技術総合誌「OHM」2006年9月号
《力帆汽车“临盆”,一波三折顺产系数几何?》  曾业辉  《中国经济时报》
ホンダ・S360 『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BBS360
汽车振兴规划惊现“四大四小”论调 搜狐汽车
http://auto.sohu.com/s2009/zhengxingguihuazhongzu/
摇曳的风铃 - 2010/1/13 10:19:00
番外篇!这是我今年元旦写给老师的一封email。我个人觉得写得还不错,并不是想自夸用词多么华丽,语句多么流畅,而是欣慰自己的努力终于有了点成果,可以用最简单的词语,最简单的语法去描述所有所有事情……希望各位同学也一样,在实践中返璞归真,把初级阶段学到的东西都用上。


拝啓

  明けましておめでとうございます。先生にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。

  さて...やはり、日本語の手紙の書き方は複雑ですね。これからはすべて思うままに書いてありますので、もし何か文法的な間違いがあったら、ご勘弁くださいね(笑)。実は、ずっと先生にメールでも送りたかったですが、いろいろな事情で、結局しなかったので、すみませんでした。このたび、新年の挨拶かたがた、先生への手紙を書くことにします。

  ご無沙汰していますが、先生はいかがお過ごしですか。班先生もいつものように、お忙しくてあちらこちらで事業をされているのでしょうか。お子さんもお元気でしょう。もう小学生でしたっけ。先生ご一家の写真を見るたびに、二年生の時の楽しい毎日、その心温まる思い出は浮かんできます。まるで昨日のことみたいに...去年の夏休みの直前、先生とお会いすることができて、ほんとうに嬉しかったです。いつかまた、こんな機会があればいいなと思います。

  ちょっと、この一年半のできごとを話しましょう。2008年10月、三年生の私は予選をパスして、学院の弁論大会の決勝戦に参加しました。スーツ姿で(このスーツは友人の友人から貸してもらったものです)選手の一員として学校の大会堂に立ったのは初めてです。『戦争から見た人間性』という偉そうなテーマ、ちょっと芝居がかった言葉でスピーチをしました。優勝するなんて考えもしなかったんです。やはり努力賞しかとりませんでした。でも、デビューってそういうものなんですね。自分はもう精一杯だったから、それだけで十分だと思います。「来年もまた頑張りましょう」と決めましたが、四年生の時、就職のために悩んで、やる気がなくてやめました。

  その後、多くの選択科目や日本語能力試験のために勉強に励んでいました。それなりの努力をしたから、悪くない成績をとって、一級試験もパスしました。でも、日本語の口頭表現や聴解の能力などはまだまだだと思われます。特に三年生の後学期、日本語通訳という授業を受けました。その大変さを痛感し、「格好いい同時通訳になろう」という高校時代の夢はやはり...そうですね。去年、幸いに英語六級にも合格しました。でも就職活動で英語の重要性をしみじみと改めて感じましたから、今後も英語の勉強を続けなければなりません(泣)...

  前回先生と食事した時も話しましたけれども、夏休みに私は桂林に行きました。楽しかったです。そして、陽朔県興坪鎮の老寨山旅館で、一人の日本人の方と知り合いになりました。林克之さんのことですが、先生はご存知でしょうか。林さんは十数年前、観光地である老寨山で、自らの手で山道と頂上の亭を造りました。地元の人々や観光客たちはみんな林さんへの感謝で胸がいっぱいです。やはり、熱心で親切な日本人の方は多いですね(先生もそのお一人だと思います)。

  四年生になると、クラスの皆さんはそれぞれの目標に向かって頑張っていきます。私も就活を始めました。12月にやっとできました。Deloitte Touche Tohmatsuという会計事務所の広州支所・税務部(日系企業関係)なんです。給料が低くないですが、残業や仕事のストレスですごく大変なので、将来は決して楽に生活できないこともよく分かりました。そして、今まで会計や税務には接したことはまったくないので、今後の会計士関係の資格試験はとても怖いです。高校時代もっとも苦手な科目――数学と英語は、将来の仕事に深くかかわるとは夢にも思わなかったのです。悪夢は再びか...

  そうですね、もう二つのことを先生にお知らせしたいです。今年1月18日、うちのクラスはアモイ(厦門)へ卒業旅行をする予定です。楽しみですね。後で写真を先生にお送りします。そして3月25日、私は日本へ行きます。日本至誠基金会という団体の皆様のおかげで、こんな大切な機会をいただきました。たぶん十日間ぐらい滞在で、東京や大阪や京都などを回るでしょう。桜が満開する際、先生に会えると嬉しいですけど。

  あっ、こんなに喋っちゃいました...あのう、ちょっと唐突かもしれませんが、先生、有難うございます。この言葉は、今まで授業上のご指導への謝意だけではありません。人生の面においても、先生は私の手本です。これから私は、頑張って頑張って、きっと先生と班先生のような立派な人になります。

  では、どうぞ先生とご家族様お元気で、よいお正月をお迎えください。

敬具          



PS:写真を一枚追加します。三年生の時、弁論大会の授賞式での私です。初めてスーツを着たんです。






好啦,丢脸作文系列完结,各位请尽情吐槽吧。

接下来我要写的就是毕业论文了,估计就不能发到这里啦,呵呵。

祝各位同学新年快高长大,学习进步:onion3:
Star_Evil - 2010/1/13 12:59:00
=W=
克里,乃的精神确实有一部分是值得学习的...
不过这是丢脸作文么?
咱是业余选手...
就不凑热闹了...
Koori - 2010/1/13 15:37:00
LZ的作文让我的丢脸作文更丢脸了……=_,=|||
傻俊〞 - 2010/1/13 21:10:00
先說...這不是丟臉作文.....

再說...語文的都是日文啊.......
就算說你覺得自己日文很差......但事實放在眼前....
只少你能作出文來.......而且還這麼多.....

老實說....看不懂啦!!!!

但是真心的不想這麼用心的作品就這麼沉.....
希望更多人看....更多人知道....更多人支持

頂頂頂頂頂呀!!!
摇曳的风铃 - 2010/1/13 21:46:00
香港的朋友啊?哈哈。其实我以前常常幻想自己去TVB工作,然后帮电视台翻译那些引进的动画和日剧……

TVB的人翻译很强的。从高达00的歌词翻译可见一斑。另外,为电视台引进的外国节目翻译台词,并让配音演员重新演绎,这种翻译工作比网上的字幕组工作更有难度。因为本地化程度要求高,而且翻出来的东西又要演员“说得出口”,观众“听得自然”,实在不易。在这方面我十分喜欢并佩服TVB翻译人员的努力。
kinomoto - 2010/2/10 9:19:00
日本人のその謙遜な態度よく表したな、キミは。まあ、これからもがんばり続けるとよい。
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