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watashia - 2009/4/17 14:50:00
那个……
可以看一下这个:
http://www.hiragana.jp/index.html
:miffy2:
seagull - 2009/4/17 15:30:00
谢谢关心。
重新测试了一下,那个网站的注音还算是比较准的。不过还没有达到直接能够用的地步。
可以用来做最后一次校对的模板,算做一个参考。用来保证质量。
ps:我所做的其实并不是纯粹的注音工作,还有文本校对。原母版似乎是直接提取的,有很多地方出现了重复(就是在不同情况下出现的稍有差别的一样意思的话)。原母版是基于clannad原版,而fv版修正了一些错别字。
seagull - 2009/4/20 23:00:00
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4月21日()

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朝(あさ)。
目(め)が覚(さ)めてからも、俺(おれ)はベッドの上(うえ)でうだうだとしていた。
古河(ふるかわ)の熱(ねつ)は下(さ)がっただろうか。
また、俺(おれ)を通学路(つうがくろ)で待(ま)っているだろうか。
でも土日(どうにち)で起(お)きた出来事(できごと)は、ふたりの間(ま)に深(ふか)い溝(みぞ)を作(つく)ってしまっていた。
俺(おれ)がそれを感(かん)じているのだから、俺(おれ)以上(いじょう)に人間関係(にんげんかんけい)に敏感(びんかん)なあいつが、同(おな)じことを思(おも)わないはずがなかった。
あいつはその二日(ふつか)で、他人(たにん)を傷(きず)つけるだけの努力(どりょく)をしてしまった。
そして、自分(じぶん)を馬鹿(ばか)呼(よ)ばわりした。
それに対(たい)して俺(おれ)はなんて言(い)った。
朋也(ともや)(ほんと、馬鹿(ばか)だよ、おまえは…)
無神経(むしんけい)な奴(やつ)ならいざ知(し)らず…。
滅法(めっぽう)打(う)たれ弱(よわ)い奴(やつ)だからな、あいつは。
結局(けっきょく)俺(おれ)は、あいつを傷(きず)つけるクラスメイトの連中(れんちゅう)と変(か)わらなかった。
それをあいつも悟(さと)っただろう。
…午後(ごご)から授業(じゅぎょう)に出(で)よう。
そう決(き)めて、布団(ふとん)に顔(かお)を埋(う)め直(なお)した。
昼休(ひるやす)みの間(あいだ)に着(つ)けるよう、俺(おれ)は家(いえ)を出(で)た。
声(こえ)「岡崎(おかざき)っ」
坂(さか)を登(のぼ)ろうとしたところで、呼(よ)び止(と)められる。
…聞(き)き覚(おぼ)えのある声(こえ)。
春原(すのはら)「よう、奇遇(きぐう)じゃん」
春原(すのはら)だった。
こいつも、今(いま)から登校(とうこう)なのだ。
春原(すのはら)「一緒(いっしょ)にいこうぜ」
そもそも…
事(こと)の発端(ほったん)はこいつの一言(いちげん)だった。
こいつに悪気(わるぎ)はなかったのだろうけど…あの乱暴(らんぼう)な一言(いちげん)が。
朋也(ともや)(いや、そもそも…俺(おれ)だってそうだ…)
そういうことを簡単(かんたん)に言(い)ってしまう人間(にんげん)だ。
そんな奴(やつ)らの中(なか)に割(わ)って入(はい)って…
それでひとり勝手(かって)に傷(きず)ついていれば、世話(せわ)ない。
最初(さいしょ)から、俺(おれ)は忠告(ちゅうこく)していたはずだ。
ロクでもない、不良(ふりょう)生徒(せいと)だって。
春原(すのはら)「桜(さくら)、全部(ぜんぶ)、散(ち)っちゃったねぇ」
ああ…それでも…
それを知(し)っていて、中(なか)に入(はい)ってきたのが、あいつだったんだ。
そんな奴(やつ)、あいつしかいなかったんだ。
春原(すのはら)「メシは?」
朋也(ともや)「食(く)ってねぇよ」
春原(すのはら)「なら、鞄(かばん)置(お)いたら、学食(がくしょく)行(い)こうぜ」
朋也(ともや)「ああ、そうだな」
春原(すのはら)「じゃ、急(いそ)がないとね。食(く)う時間(じかん)なくなっちまうよ」
窓の外を見る
ふと、窓(まど)の外(そと)を見(み)た。
青(あお)と緑(みどり)のコンストラスト。そのまま視界(しかい)を下(さ)げた。
そこに居(い)た。
朋也(ともや)(古河(ふるかわ)…)
朋也(ともや)(来(き)てたのか…)
一生懸命(いっしょうけんめい)に、パンを食(た)べていた。
初(はじ)めて見(み)た時(とき)のように。
朋也(ともや)(………)
先週(せんしゅう)は、その隣(となり)に居(い)たのだ、俺(おれ)は。
今(いま)はもう、見下(みお)ろす側(がわ)に居(い)た。
春原(すのはら)「おい、岡崎(おかざき)、急(いそ)げよ。昼休(ひるやす)み終(お)わっちまうぞ」
春原(すのはら)の声(こえ)が聞(き)こえた。
朋也(ともや)「あ、ああ」
その時(とき)、古河(ふるかわ)がこっちに気(き)づいた。
俺(おれ)だとわかっているだろうか。
パンを口(ぐち)から離(はな)し、膝(ひざ)の上(うえ)に置(お)いた。
古河(ふるかわ)は今(いま)にも泣(な)き出(だ)しそうな顔(かお)で、こっちを見(み)ていた。
土曜(どよう)の出来事(できごと)を思(おも)い出(だ)してるのだろうか…。
顔(かお)を伏(ふ)せた。
朋也(ともや)(古河(ふるかわ)…)
立(た)ち去(さ)るべきだった。これ以上(いじょう)、見(み)ていたくなかった。
けど、俺(おれ)は動(うご)けないでいた。
春原(すのはら)の呼(よ)ぶ声(こえ)が何度(なんど)もした。
でも…じっとしていた。
………。
古河(ふるかわ)がもう一度(いちど)顔(かお)を上(あ)げる。
そして…
片手(かたて)をあげ…
俺(おれ)へ向(む)けてそれを振(ふ)った。
頑張(がんば)って、笑顔(えがお)を作(つく)っていた。
………。
…報(むく)いてやりたい。
あいつの精一杯(せいいっぱい)の努力(どりょく)を。
まだ俺(おれ)を必要(ひつよう)としてくれるなら。
朋也(ともや)「春原(すのはら)、これ、頼(たの)むっ」
春原(すのはら)に鞄(かばん)を投(な)げ渡(わた)すと、廊下(ろうか)を走(はし)っていた。
俺(おれ)も懸命(けんめい)だった。
古河(ふるかわ)は食事(しょくじ)を再開(さいかい)していた。
その隣(となり)に俺(おれ)は腰(こし)を下(お)ろした。
朋也(ともや)「ふぅ…」
食(く)う物(もの)がなかったから、待(ま)つしかなかった。
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「良(よ)かったです…」
古河(ふるかわ)「勇気(ゆうき)出(だ)して…」
いつの間(ま)にか、古河(ふるかわ)がパンから口(くち)を離(はな)していた。
古河(ふるかわ)「がんばって手(て)、振(ふ)って、良(よ)かったです」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、降(お)りてきてくれました」
朋也(ともや)「ああ、安心(あんしん)しろ。俺(おれ)は呼(よ)んだら来(く)るって、そう言(い)っただろ」
古河(ふるかわ)「でも、あんなことがあった後(あと)だから…」
古河(ふるかわ)「わたし、岡崎(おかざき)さん、傷(きず)つけてしまいましたから…」
朋也(ともや)「おまえ、泣(な)きそうだったからな」
朋也(ともや)「さっき、泣(な)きそうだったろ?」
古河(ふるかわ)「はい、泣(な)きそうでした」
朋也(ともや)「なら良(よ)かったよ。これで泣(な)かないで済(す)むだろ」
古河(ふるかわ)「はい、良(よ)かったです。不安(ふあん)だったですけど、すごく安心(あんしん)できました」
ぐす、と鼻(はな)をすする音(おと)がした。
見(み)ると、古河(ふるかわ)は泣(な)いていた。
涙(なみだ)がぼろぼろと頬(ほお)を伝(つた)って、顎(あご)から落(お)ちて、それが手(て)に持(も)ったパンの食(く)い口(くち)に吸(す)い込(こ)まれていく。
ずっと、気(き)を張(は)っていたのだろう。
寝込(ねこ)んでいる間(あいだ)も、ずっと思(おも)い悩(なや)んでいたのだろう。
無粋(ぶすい)な自分(じぶん)を俺(おれ)は呪(のろ)った。
古河(ふるかわ)の手(て)から、パンを奪(うば)うと、涙(なみだ)が染(し)みた部分(ぶぶん)を千切(ちぎ)った。
そして、それを口(くち)に放(ほう)り込(こ)んだ。
古河(ふるかわ)「あ」
古河(ふるかわ)はそれをどう見(み)ていただろうか。
俺(おれ)はただ、古河(ふるかわ)の涙(なみだ)を飲(の)み干(ほ)したくなっただけだ。
それは、俺(おれ)が流(なが)させたものだったろうから。
朋也(ともや)「おまえは馬鹿(ばか)だろうけどさ…でもそれでいいと思(おも)う」
古河(ふるかわ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「俺(おれ)もそうだからな」
朋也(ともや)「同(おな)じ場所(ばしょ)に居(い)る」
朋也(ともや)「世渡(よわた)りがうまかったり、巧妙(こうみょう)に駆(か)け引(ひ)きする奴(やつ)らから遠(とお)い場所(ばしょ)だ」
口(くち)の中(なか)のパンを噛(か)みしめる。
古河(ふるかわ)の涙(なみだ)は、なぜか懐(なつ)かしい味(あじ)がした。
それは、俺(おれ)が小(ちい)さい頃(ころ)に流(なが)した涙(なみだ)と、同(おな)じ味(あじ)だった。
………。
………。
そういえば…、と気(ぎ)づく。
隣(となり)がいない。
寮(りょう)に戻(もど)ったのか、それとも遊(あそ)びに出(で)ていったのか。
結局(けっきょく)、サボるつもりなのだろうか。
朋也(ともや)(退屈(たいくつ)すぎる…)
春原(すのはら)がいないと、ストレスの発散(はっさん)もできない。
気分転換(きぶんてんかん)のために、教室(きょうしつ)を出(で)る。
朋也(ともや)(ジュースでも、買(か)ってこよう…)
閑散(かんさん)としきった学食(がくしょく)。
自販機(じはんき)で80円(えん)の紙(かみ)パックのジュースを買(か)い求(もと)め、それを飲(の)みながら教室(きょうしつ)に戻(もど)る。
もちろん、廊下(ろうか)での飲食(いんしょく)は禁止(きんし)だから、教師(きょうし)に見(み)つかれば咎(とが)められるのだが。
教室(きょうしつ)についたところで、ちょうど飲(の)みきり、そのままパックをゴミ箱(はこ)に捨(す)て、自分(じぶん)の席(せき)へと戻(もど)った。
春原(すのはら)「ふわぁ」
春原(すのはら)も戻(もど)ってきていた。呑気(のんき)にあくびなんてしている。
朋也(ともや)「どっかで寝(ね)てたのか」
春原(すのはら)「まぁね」
春原(すのはら)「で…」
春原(すのはら)「…六時間目(ろくじかんめ)って、なんだっけ?」
朋也(ともや)「見(み)ればわかるだろ」
春原(すのはら)「あん?」
教室(きょうしつ)は女子(じょし)の姿(すがた)が消(き)え、男子(だんし)の更衣室(こういしつ)と化(か)していた。
春原(すのはら)「体育(たいいく)ぅ?
移動(いどう)だるぅ…」
生徒(せいと)A「今日(きょう)、なにやるって?」
生徒(せいと)B「サッカーだってよ」
生徒(せいと)A「えぇ~…だるぅ…」
春原(すのはら)「おっと、これは…俄然(がぜん)やる気(き)が出(で)て参(まい)りましたねぇ」
朋也(ともや)「元(もと)サッカー部員(ぶいん)の唯一(ゆいいつ)の見(み)せ場(ば)だもんな」
春原(すのはら)「はっ、格(かく)の違(ちが)いってもんを見(み)せてやるさ」
体育(たいいく)の時間(じかん)は授業(じゅぎょう)というより、勉強(べんきょう)の間(あいだ)の息抜(いきぬ)きといった感(かん)じで、適当(てきとう)に試合(しあい)をさせられるだけ。
ボールを追(お)わずにだべっていても、教師(きょうし)も何(なに)も言(い)わない。
なんとなく3年(ねん)の体育(たいいく)の授業(じゅぎょう)は、野球(やきゅう)の消化試合(しょうかしあい)に似(に)ていた。
春原(すのはら)「よっしゃ、ハットトリックゥゥーーッ!」
進学(しんがく)を諦(あきら)めた馬鹿(ばか)の声(こえ)だけが、元気(げんき)よくこだましていた。
春原(すのはら)「帰(かえ)ろうぜっ」
朋也(ともや)「おまえの高校生活(こうこうせいかつ)は、ワンダフルだな」
春原(すのはら)「うん?」
朋也(ともや)「一生(いっしょう)に二度(にど)と訪(おとず)れない時間(じかん)だから、堪能(かんのう)しておけよ」
春原(すのはら)「当然(とうぜん)。そのためにも、どっか寄(よ)って、遊(あそ)んでこうぜ」
春原(すのはら)「当然(とうぜん)」
春原(すのはら)「さて、今日(きょう)の本番(ほんばん)はこれからだな…」
朋也(ともや)「ああ、頑張(がんば)って楽(たの)しんでこい」
鞄(かばん)を持(も)って、先(さき)に教室(きょうしつ)を出(で)る。
春原(すのはら)「おい、一緒(いっしょ)にいかねぇのっ!?」
朋也(ともや)「野暮用(やぼよう)だ」
背後(はいご)からの声(こえ)にそれだけを答(こた)えて、廊下(ろうか)を歩(ある)き出(だ)す。
事件(じけん)は放課後(ほうかご)に起(お)きた。
いや、それまでに起(お)きていたのだろうけど、俺(おれ)たちは自分(じぶん)たちのことで精一杯(せいいっぱい)で、その時間(じかん)になるまで気(き)づけなかったのだ。
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんっ」
ずっと探(さが)していたのだろうか。俺(おれ)の元(もと)へ、古河(ふるかわ)が慌(あわ)てた様子(ようす)で駆(か)け寄(よ)ってきた。
朋也(ともや)「どうした」
古河(ふるかわ)「校内(こうない)のだんご大家族(だいかぞく)がっ…ぜんぶっ…」
しどろもどろで、何(なに)を言(い)いたいのか、よくわからない。
単語(たんご)から、推測(すいそく)してみる。
だんご大家族(だいかぞく)が…校内(こうない)を…占拠(せんきょ)。
朋也(ともや)「だんご大家族(だいかぞく)が校内(こうない)を占拠(せんきょ)したっ!?」
それは確(たし)かに、慌(あわ)てふためく事態(じたい)だ。
古河(ふるかわ)「違(ちが)いますっ…だんご達(たち)はそんなことしませんっ」
古河(ふるかわ)「だんご達(たち)は、自分(じぶん)たちの生活(せいかつ)に一生懸命(いっしょうけんめい)なんですからっ」
古河(ふるかわ)「大家族(だいかぞく)だから、大変(たいへん)なんです。ほんとに…」
古河(ふるかわ)「兄弟喧嘩(きょうだいけんか)とか、堪(た)えないんです」
朋也(ともや)「いや、だんご達(たち)がそんなことをするかどうかは置(お)いておいて…」
古河(ふるかわ)「置(お)いておいて、じゃなく、しないんです」
朋也(ともや)「ああ、わかった。しない」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)は自分(じぶん)の胸(むね)を押(お)さえて、しばらく黙(だま)り込(こ)む。
そうして、自分(じぶん)を落(お)ち着(つ)かせているようだ。
俺(おれ)も黙(だま)って、待(ま)つ。
古河(ふるかわ)「だんご大家族(だいかぞく)のビラが…ぜんぶ剥(は)がされてるんです」
その一言(いちげん)で、ようやく事態(じたい)が把握(はあく)できた。
古河(ふるかわ)「どうしてこんなことに…」
俺(おれ)は大体(だいたい)の予測(よそく)がついた。
あまり古河(ふるかわ)を不安(ふあん)がらせないよう、黙(だま)っていたことがある。
すでに部員募集(ぶいんぼしゅう)の期間(きかん)は終(お)わってしまっているということ。
朋也(ともや)(見過(みす)ごしてくれると思(おも)ってたんだけどな…)
しかも、演劇部(えんげきぶ)は廃部(はいぶ)していて、顧問(こもん)も部員(ぶいん)もいない、という状態(じょうたい)だ。
それだけ厳(きび)しく取(と)り締(し)まられるのであれば、部(ぶ)の活動(かつどう)を認(みと)めてもらうことだって難(むずか)しいかもしれない。
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)は落(お)ち込(こ)んでしまっている。
そこへ、校内放送(こうないほうそう)が鳴(な)り、古河(ふるかわ)の名(な)を呼(よ)んだ。
『…至急(しきゅう)、生徒会室(せいとかいしつ)まできてください』
そう伝(つた)えて、放送(ほうそう)は鳴(な)りやんだ。
古河(ふるかわ)「なんでしょう」
古河(ふるかわ)が俺(おれ)を振(ふ)り返(かえ)っていた。
その顔(かお)には不安(ふあん)の色(いろ)もなく、まるで身(み)に覚(おぼ)えがない、といった感(かん)じで小首(こくび)を傾(かし)げている。
今(いま)からお咎(とが)めを喰(く)らおうなどとは、夢(ゆめ)にも思(おも)っていないのだ。
朋也(ともや)(そういう事態(じたい)にならないようにするのが、俺(おれ)の役目(やくめ)じゃなかったのか…)
今更(いまさら)後悔(こうかい)しても遅(おそ)い。
ここは、正直(しょうじき)に教(おし)えてやったほうがいいだろう。
朋也(ともや)「あのな、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい?」
今(いま)の事態(じたい)の悪(わる)さを簡単(かんたん)に話(はな)して聞(き)かせた。
古河(ふるかわ)「そうだったんですか」
朋也(ともや)「ああ。そんなに厳(きび)しくないと思(おも)ってたんだ。悪(わる)い」
古河(ふるかわ)「いえ、岡崎(おかざき)さんは何(なに)も悪(わる)くないです」
古河(ふるかわ)「責任(せきにん)は、すべて部長(ぶちょう)のこのわたしにありますから」
朋也(ともや)「その部長(ぶちょう)にもなれないかもしれないんだぞ」
古河(ふるかわ)「………」
固(かた)まる。
古河(ふるかわ)「いえ、大丈夫(だいじょうぶ)です。きっと、ちゃんと説明(せつめい)すれば、わかってくれます」
朋也(ともや)「だといいけどな…」
朋也(ともや)「生徒会室(せいとかいしつ)って言(い)ってたから、生徒会(せいとかい)が仕切(しき)ってるんだな」
朋也(ともや)「話(はなし)のわかる生徒会(せいとかい)だといいな」
古河(ふるかわ)「生徒(せいと)の代表(だいひょう)として選(えら)ばれた人(ひと)たちですから、いい人(にん)たちに決(き)まってます」
朋也(ともや)「だな」
これ以上(いじょう)不安(ふあん)がらせないでおこう。
古河(ふるかわ)と同(おな)じように、楽観的(らっかんてき)に考(かんが)えればいいんだ。
朋也(ともや)「そういや…まだ購買(こうばい)、開(ひら)いてるかな」
古河(ふるかわ)「どうしてですか?」
朋也(ともや)「とにかく、ついてこい」
俺(おれ)は購買(こうばい)で売(う)れ残(のこ)ったあんパンを買(か)い占(し)める。
古河(ふるかわ)「あんパンですか…?」
朋也(ともや)「これ、持(も)っていけ」
古河(ふるかわ)の手(て)の中(なか)に押(お)し込(こ)める。
朋也(ともや)「これで頑張(がんば)れっ」
古河(ふるかわ)「とてつもなく、不安(ふあん)になってきましたっ」
朋也(ともや)「いいから、いけっ」
背中(せなか)を押(お)すと、あんパンがひとつ床(ゆか)に落(お)ちた。
それを拾(ひろ)おうと前屈(まえかが)みになると、別(べつ)のあんパンが転(ころ)がり落(お)ちる。
古河(ふるかわ)「あの…こんなに持(も)っていけないんですけど」
朋也(ともや)「落(お)ちたのは俺(おれ)が拾(ひろ)っておいてやるから、いけ」
古河(ふるかわ)「じゃ、お願(ねが)いします」
とてとてと歩(ある)いていった。
その間(あいだ)も、いくつか落(お)ちた。
朋也(ともや)「………」
…心配(しんぱい)しすぎだろうか、俺(おれ)は。
その場(ば)で古河(ふるかわ)の帰(かえ)りを待(ま)つ。
10分(ぷん)ほどして、古河(ふるかわ)は戻(もど)ってきた。
朋也(ともや)「早(はや)かったな」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「で、どうだった」
古河(ふるかわ)「困(こま)りました」
朋也(ともや)「どんなこと、言(い)われたんだ」
古河(ふるかわ)「部員(ぶいん)の募集(ぼしゅう)と、活動(かつどう)を一切(いっさい)禁(きん)ずるって」
…全然(ぜんぜん)ダメじゃん。
朋也(ともや)「おまえ、それ素直(すなお)にわかりましたって答(こた)えたのか」
古河(ふるかわ)「いえ、相談(そうだん)してきますって」
朋也(ともや)「誰(だれ)と」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん」
…何者(なにもの)なんだよ、俺(おれ)は。
代わりに談判してくる
朋也(ともや)「代(か)わりに俺(おれ)が行(い)ってくるよ」
古河(ふるかわ)「えっ…いいんですか」
朋也(ともや)「ああ、どうも、頭(あたま)の固(かた)い連中(れんちゅう)みたいだしな」
古河(ふるかわ)「申(もう)しわけないです…」
朋也(ともや)「いいって」
俺(おれ)は古河(ふるかわ)をその場(ば)に残(のこ)し、生徒会室(せいとかいしつ)に向(む)かう。
生徒会室(せいとかいしつ)。そのプレートが掲(かか)げられたドアの前(まえ)に立(た)つ。
俺(おれ)のようにぐうたらやっている人間(にんげん)にとって、生徒会(せいとかい)なんて無縁(むえん)のシロモノだった。
生徒会長(せいとかいちょう)の顔(かお)も知(し)らなければ、それがいつ決(き)まったかも知(し)らない。
朋也(ともや)(はぁ…)
なんだか気(き)が重(おも)くなってくる。できれば、ずっと無縁(むえん)でいたかったものだ。
朋也(ともや)(でも、あいつの作(つく)った、だんご大家族(だいかぞく)の奪還(だっかん)を果(は)たさないとな…)
俺(おれ)はノックもせずに、ドアを開(あ)け放(はな)った。
会議用(かいぎよう)の長(なが)い机(つくえ)が四角形(しかくけい)を作(つく)っている。
その一番奥(いちばんおく)の席(せき)で、男(おとこ)がひとり、ワープロを叩(たた)いていた。
その隣(となり)にはあんパンが山積(さんせき)みになっていた。古河(ふるかわ)が食(た)べきれない分(ぶん)を、お裾分(すそわ)けしたのだろう。
男子生徒(だんしせいと)「ん?
誰(だれ)ですか」
男(おとこ)が顔(かお)を上(あ)げた。
なんていうか、生(う)まれた時(とき)から生徒会(せいとかい)やってます、というような顔(かお)だった。
朋也(ともや)「代(か)わりだよ。さっきここにきた古河(ふるかわ)という生徒(せいと)の」
男子生徒(だんしせいと)「代(か)わり?」
朋也(ともや)「ああ、俺(おれ)が話(はなし)をする」
男子生徒(だんしせいと)「あなたの名前(なまえ)は?」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)」
男子生徒(だんしせいと)「待(ま)ってください」
机(つくえ)の上(うえ)からビラを拾(ひろ)い上(あ)げ、それに隅々(すみずみ)まで視線(しせん)を這(は)わせた。
男子生徒(だんしせいと)「これには、部長(ぶちょう)·古河渚(ふるかわなぎさ)、と署名(しょめい)があるだけです」
朋也(ともや)「ああ」
男子生徒(だんしせいと)「つまり、この件(けん)の責任者(せきにんしゃ)は、古河渚(ふるかわなぎさ)、という生徒(せいと)だということです」
朋也(ともや)「ああ」
男子生徒(だんしせいと)「お引(ひ)き取(と)り下(くだ)さい」
ワープロの画面(がめん)に目(め)を戻(もど)した。
朋也(ともや)「こらっ、待(ま)てよっ」
朋也(ともや)「てめぇ、こうしてわざわざ来(き)てやったのに、どんな扱(あつか)いだよ、そりゃ」
男子生徒(だんしせいと)「わざわざもなにも、お呼(よ)びした覚(おぼ)えがありません」
朋也(ともや)「俺(おれ)は古河渚(ふるかわなぎさ)の代(か)わりだって言(い)ってるだろ」
男子生徒(だんしせいと)「代役(だいやく)は認(みと)められません」
朋也(ともや)「どうしてだよ」
男子生徒(だんしせいと)「話(はなし)がこじれるからです」
男子生徒(だんしせいと)「話(はな)し合(あ)いとはそういうものですよ。間(あいだ)に入(はい)る人(ひと)の数(かず)が多(おお)いほど、話(はなし)はこじれ、時間(じかん)を無駄(むだ)にする」
相手(あいて)は俺(おれ)の威圧的(いあつてき)な態度(たいど)にも冷静(れいせい)に対応(たいおう)し続(つづ)けた。
こういう相手(あいて)は骨(ほね)が折(お)れる…。
朋也(ともや)「じゃ、隣(となり)にあいつを連(つ)れてくるから、それでいいだろ?」
男子生徒(だんしせいと)「あなたに立(た)ち会(あ)う権利(けんり)はありません」
朋也(ともや)「なんでだよっ」
男子生徒(だんしせいと)「わかりました。では、立(た)ち会(あ)うことは認(みと)めましょう」
男子生徒(だんしせいと)「しかし、発言(はつげん)は認(みと)めません」
朋也(ともや)「だったら、同(おな)じだってのっ」
男子生徒(だんしせいと)「我々(われわれ)は責任(せきにん)を持(も)つ人間(にんげん)とのみ、話(はな)し合(あ)うと決(き)めているのです」
男子生徒(だんしせいと)「部員(ぶいん)の意見(いけん)は、前(まえ)もって、その責任者(せきにんしゃ)がまとめておくべきなのです」
朋也(ともや)「あいつは口(くち)ベタなんだよっ」
男子生徒(だんしせいと)「そんなことは私(わたし)が知(し)ったことじゃありません」
朋也(ともや)「………」
口(くち)では勝(か)てる気(き)がしなかった。
朋也(ともや)「ちっ…」
朋也(ともや)「知(し)らなかったよ」
男子生徒(だんしせいと)「なにがですか」
朋也(ともや)「この学校(がっこう)の生徒会(せいとかい)はてめぇみたいな冷(つめ)たい人間(にんげん)が仕切(しき)っていたなんてな」
男子生徒(だんしせいと)「ええ」
男(おとこ)は認(みと)めた。
男子生徒(だんしせいと)「一部(いちぶ)の生徒(せいと)にそう思(おも)われるのは致(いた)し方(かた)ありませんね。悲(かな)しいことですが」
その他(た)大勢(おおぜい)の生徒(せいと)には支持(しじ)される生徒会(せいとかい)である、と言(い)っているのだ。
もう、どうでもいい。
俺(おれ)は身(み)を翻(ひるがえ)す。
朋也(ともや)「あ、あとな…」
思(おも)い出(だ)して、振(ふ)り返(かえ)る。
朋也(ともや)「ちゃんと、そのあんパン、食(く)えよ」
そう言(い)い残(のこ)して、部屋(へや)を後(あと)にした。
中庭(なかにわ)まで降(お)りてくると、古河(ふるかわ)が駆(か)け足(あし)で寄(よ)ってくる。
古河(ふるかわ)「どうでしたかっ」
朋也(ともや)「あのな、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「あんなの無視(むし)して、やっちまおうぜ」
古河(ふるかわ)「無視(むし)するって、そういうのはよくないことです」
朋也(ともや)「だろうけどさ。それに見合(みあ)うだけの、生徒会(せいとかい)でもねぇよ」
古河(ふるかわ)「でも、生徒会(せいとかい)の言(い)うことですから…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は認(みと)めないって言(い)ってるんだよ」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に助(たす)けるべき相手(あいて)がわかっちゃいないんだ」
朋也(ともや)「そんな正(ただ)しくない生徒会(せいとかい)の言(い)うことを守(まも)らなければならないのか?」
朋也(ともや)「なぁ、古河(ふるかわ)」
朋也(ともや)「それに俺(おれ)たちは、不良(ふりょう)生徒(せいと)、だろ?」
その日(ひ)、俺(おれ)たちは部員募集(ぶいんぼしゅう)のビラを校内(こうない)に貼(は)り直(なお)して、下校(げこう)した。
並(なら)んで坂(さか)を下(お)りる。その先(さき)に、頭(あたま)の黄色(きいろ)いのがいた。
古河(ふるかわ)「あれは…岡崎(おかざき)さんのお友達(ともだち)の方(かた)ではないでしょうか」
朋也(ともや)「だな…」
そいつは近(ちか)づいてくる。
春原(すのはら)「なにやってたんだよ、岡崎(おかざき)っ」
朋也(ともや)「なんだよ…」
古河(ふるかわ)「こんにちは」
春原(すのはら)「ほら、見(み)ろよ、これっ」
古河(ふるかわ)の挨拶(あいさつ)も無視(むし)して、春原(すのはら)は肩(かた)から掛(か)けていたものを指(さ)さした。
それはエレキギターだった。
小(ちい)さなミニアンプもストラップに付(つ)いている。
春原(すのはら)「知(し)り合(あ)いに借(か)りてきたんだぜ」
朋也(ともや)「なんのために」
春原(すのはら)「おまえね…昨日(きのう)の話(はなし)を忘(わす)れたのか?」
春原(すのはら)「芳野祐介(よしのゆうすけ)が僕(ぼく)のギターを聴(き)いてくれるって、そういう話(はなし)だっただろっ?」
朋也(ともや)「そうだったな…」
朋也(ともや)「でも、ギターなんて持(も)っていったら、おまえ…絶対(ぜったい)に弾(ひ)けないのバレるじゃないか」
春原(すのはら)「いや…こいつの持(も)ち主(ぬし)に、ひとつだけ技(わざ)を教(おし)えてもらったんだ」
春原(すのはら)「素人(しろうと)の僕(ぼく)にもできるってよ」
朋也(ともや)「ふぅん、そんなのがあるのか。やってみせろよ」
春原(すのはら)「ああ、待(ま)てよ…」
アンプのスイッチを入(い)れ、音(おと)が鳴(な)ることを確(たし)かめる。
春原(すのはら)「いくぞ…」
朋也(ともや)「ああ」
春原(すのはら)「必殺(ひっさつ)…ギタースケラッチ!」
弦(げん)にピックを押(お)しつけると、それをネックのほうへと滑(なめ)らせていった。
ギュイイイィーーーーンッ!
春原(すのはら)「どうだっ、弾(ひ)ける奴(やつ)っぽいだろ」
朋也(ともや)「いや、ぽいっけど…弾(ひ)いてはないよな」
朋也(ともや)「後(あと)、スケラッチじゃなくて、スクラッチだと思(おも)うぞ」
春原(すのはら)「ふん…ちゃんと考(かんが)えてあるさ。僕(ぼく)が今(いま)の技(わざ)を繰(く)り出(だ)した後(あと)に、すかさずおまえはこう言(い)ってくれ」
朋也(ともや)「なんてだよ」
春原(すのはら)「…さすがだ春原(すのはら)。だが、もうやめとけ。後(あと)はおまえのファンのために取(と)っておきな」
春原(すのはら)「ってな」
春原(すのはら)「すると、どうだ。実(じつ)はすごくうまいんだけど、もったいぶって弾(ひ)かない奴(やつ)に見(み)えるだろ?」
朋也(ともや)「見(み)えたらいいな」
本当(ほんとう)にこんな作戦(さくせん)が通用(つうよう)するのだろうか…。
春原(すのはら)「ほら、いくぞっ」
そう言(い)って、俺(おれ)の手(て)を引(ひ)く。
朋也(ともや)「ちょっと待(ま)てっ」
古河(ふるかわ)を振(ふ)り返(かえ)る。
古河(ふるかわ)「がんばってきてください」
朋也(ともや)「あ、ああ」
古河(ふるかわ)の見送(みおく)る中(なか)、俺(おれ)は春原(すのはら)に引(ひ)きずられていった。
春原(すのはら)「必殺(ひっさつ)…ギタースケラッチ!」
弦(げん)にピックを押(お)しつけると、それをネックのほうへと滑(なめ)らせる。
が、あまりに強(つよ)く押(お)しつけすぎたせいか、指(ゆび)で弦(げん)を擦(す)ってしまったようだ。
春原(すのはら)「アチィッ!」
ピックを取(と)り落(お)とす。
春原(すのはら)「うわっ、弦(げん)の跡(あと)、ついたよっ!
ふぅーっ、ふぅーっ」
そこですかさず、俺(おれ)は言(い)った。
朋也(ともや)「さすがだ春原(すのはら)。だが、もうやめとけ。後(あと)はおまえのファンのために取(と)っておきな」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「おまえら…」
芳野(よしの)「バンドじゃなくて、お笑(わら)いコンビだったのか…」
芳野(よしの)「悪(わる)いが、お笑(わら)いはわからないんだ…」
立(た)ち去(さ)る。
ひゅるるるぅ~…
春原(すのはら)「はっ」
春原(すのはら)「おまえのせいで勘違(かんちが)いされただろっ!」
春原(すのはら)「サインどうしてくれるんだよっ」
朋也(ともや)「追(お)いかけろよっ」
春原(すのはら)が走(はし)っていって、必死(ひっし)に弁解(べんかい)する。
どう言(い)いくるめたかは知(し)らないが、芳野祐介(よしのゆうすけ)は複雑(ふくざつ)な表情(ひょうじょう)のままで、ベンチまで戻(もど)ってくる。
芳野(よしの)「確(たし)かに漫談(まんだん)で、楽器(がっき)を使(つか)う、というのは見(み)たことあるがな…」
春原(すのはら)「だから、違(ちが)うっす」
春原(すのはら)「僕(ぼく)ら真剣(しんけん)っす」
芳野(よしの)「…でも、まったく弾(ひ)けないんだろ」
芳野(よしの)「後(あと)、スケラッチじゃなくて、スクラッチ、な」
朋也(ともや)「はは…実(じつ)は、こいつ始(はじ)めたばっかで、虚勢(きょせい)張(は)ってたんすよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)も、本当(ほんとう)はなにもやってないし…」
芳野(よしの)「だろうな…」
芳野(よしの)「ドラムはモグラ叩(たた)きなんかに似(に)ていない」
春原(すのはら)「ですよねっ」
おまえが言(い)えって言(い)ったんだろうが。
芳野(よしの)「けど、まぁ…」
芳野(よしの)「約束(やくそく)だな」
春原(すのはら)「え?」
芳野(よしの)「俺(おれ)のギター、聴(き)きたいんじゃなかったのか」
芳野(よしの)「それとも、もう、いいのか」
春原(すのはら)「いえ、お願(ねが)いしますっ」
春原(すのはら)のギターを受(う)け取(と)り、ストラップに頭(あたま)を通(とお)す。
容姿(ようし)のせいか、それともかつての彼(かれ)の活躍(かつやく)ぶりを知(し)ったためか、ギターがよく似合(にあ)って見(み)えた。
芳野(よしの)「どうでもいいが、これ、通販(つうはん)の2万円(まんえん)で買(か)えるギターだな…」
春原(すのはら)「なんか、足(た)りないっすか」
芳野(よしの)「いや…十分(じゅうぶん)だ」
一弦(いちげん)ずつ指(ゆび)で弾(はじ)きながら、音(おと)を合(あ)わせていく。
春原(すのはら)「え…今(いま)、弾(ひ)いてるんすか。なんか味(あじ)のある曲(きょく)っすね…」
芳野(よしの)「馬鹿(ばか)…チューニングだ」
芳野(よしの)「よし」
ピックを持(も)つと、ようやく、曲(きょく)を奏(かな)で始(はじ)めた。
春原(すのはら)の鳴(な)らす雑音(ざつおん)とはまったく違(ちが)う、美(うつく)しい旋律(せんりつ)だった。
低(ひく)い音(おと)で和音(わおん)を鳴(な)らしながら、高(たか)い音(おと)でメロディを弾(ひ)いている。
目(め)をつぶると、まるで二本(にほん)のギターで弾(ひ)いているように聞(き)こえる。
不思議(ふしぎ)で仕方(しかた)がなかった。
春原(すのはら)「むちゃくちゃうまいっすね…」
春原(すのはら)「その曲(きょく)、歌(うた)はないんすか」
春原(すのはら)が訊(き)く。
確(たし)かに、歌声(うたごえ)も聞(き)けるなら、生(しょう)で聞(き)いてみたかった。
芳野(よしの)「歌(うた)なんてない。適当(てきとう)に弾(ひ)いてるだけだ。別(べつ)になにかの曲(きょく)を弾(ひ)いてるわけじゃない」
芳野(よしの)「そろそろ終(お)わらせるぞ」
最後(さいご)に高音(こうおん)を響(ひび)かせて、曲(きょく)を終(お)わらせた。
春原(すのはら)「あの…」
春原(すのはら)「プロとか…目指(めざ)さないんすか」
春原(すのはら)はまだ口(くち)を割(わ)らせようと、頑張(がんば)っていた。
芳野(よしの)「プロか…」
芳野(よしの)「そんなの、どうだっていい」
芳野(よしの)「俺(おれ)はただ、歌(うた)いたいときに歌(うた)う」
芳野(よしの)「そうしてるんだ」
やっぱり、壁(かべ)を作(つく)っていた。かつての自分(じぶん)に対(たい)して。
…春原(すのはら)はどうするだろうか。
触(ふ)れてはならない部分(ぶぶん)に触(ふ)れようとするだろうか。
春原(すのはら)「こ、こうっすか…イテテ…指(ゆび)つりそうっす」
…純粋(じゅんすい)にギターを教(おそ)わっていた!
芳野(よしの)「しばらくは指先(ゆびさき)も火傷(やけど)したように痛(いた)くなるぞ」
芳野(よしの)「でも、それを越(こ)えれば、皮(かわ)も固(かた)くなって、楽(らく)になるからな」
春原(すのはら)「そうっすか。頑張(がんば)るっす」
春原(すのはら)「へへっ」
芳野(よしの)「もう、この場所(ばしょ)で仕事(しごと)するのも今日(きょう)が最後(さいご)だ」
芳野(よしの)「もっとうまくなったら、また聞(き)かせにこい。聞(き)いてやるから」
言(い)って、春原(すのはら)にも名刺(めいし)を渡(わた)した。
春原(すのはら)「はいっ」
春原(すのはら)「ありがとうございましたっ」
芳野(よしの)「じゃあな」
俺(おれ)にも微笑(ほほえ)みかけた後(あと)、芳野祐介(よしのゆうすけ)は軽(けい)トラに乗(の)り込(こ)み、走(はし)らせていった。
春原(すのはら)「僕(ぼく)…なんか、感動(かんどう)したよ…」
春原(すのはら)「あんなすごい人(びと)に、ど素人(しろうと)の僕(ぼく)が、ギターを教(おし)えてもらえるなんて…」
春原(すのはら)「めっちゃええ人(ひと)や…」
朋也(ともや)「結局(けっきょく)サインはもらえなかったけどな」
春原(すのはら)「んなのどうだっていいんだよ」
春原(すのはら)「これからは僕(ぼく)が上達(じょうたつ)するたび、その成果(せいか)を芳野(よしの)さんに聞(き)いてもらえるんだからさっ」
朋也(ともや)「おまえ…ギター、マジで続(つづ)ける気(き)か?」
春原(すのはら)「ああ…」
春原(すのはら)「やるよ、僕(ぼく)は…」
春原(すのはら)「待(ま)っててくれよ、芳野(よしの)さん…」
芳野祐介(よしのゆうすけ)の去(さ)った後(あと)を、春原(すのはら)はじっと見(み)つめていた。
夜(よる)は、いつものように、春原(すのはら)の部屋(へや)へ。
朋也(ともや)「ふぅ…今日(きょう)は疲(つか)れた」
俺(おれ)は床(よか)に寝(ね)そべって、雑誌(ざっし)を読(よ)み始(はじ)める。
春原(すのはら)「ああ、興奮(こうふん)したね。エキサイティングだったね」
ぺちぺちと音(おと)にならない音(おと)を立(た)てながら、春原(すのはら)はギターを練習(れんしゅう)していた。
春原(すのはら)「そういやさ…」
朋也(ともや)「ああ」
春原(すのはら)「おまえ、あの演劇部(えんげきぶ)の子(こ)と付(つ)き合(あ)ってんだな」
朋也(ともや)「待(ま)て」
俺(おれ)はがばっと身(み)を起(お)こす。
朋也(ともや)「何(なに)見(み)て、そう思(おも)ったんだよっ」
春原(すのはら)「何(なに)って…昼休(ひるやす)み、一目散(いちもくさん)に駆(か)けていったじゃないか、おまえ」
春原(すのはら)「見(み)てたら中庭(なかにわ)であの子(こ)と落(お)ち合(あ)ってた」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、それだけで勘違(かんちが)いするな」
春原(すのはら)「泣(な)いてたじゃないか、あの子(こ)」
春原(すのはら)「おまえ必死(ひっし)でなぐさめてさ、ひとつのパンをふたりで食(く)ったりしてたじゃないか」
春原(すのはら)「それで彼女(かのじょ)じゃなければどんな関係(かんけい)なんだよ」
朋也(ともや)「演劇部(えんげきぶ)の部長(ぶちょう)と、その手伝(てつだ)いだ」
春原(すのはら)「んなわけあるかよっ」
春原(すのはら)「むちゃくちゃわけありなふたりに見(み)えたっつーのっ」
春原(すのはら)「それに考(かんが)えてみりゃ、放課後(ほうかご)の野暮用(やぼよう)ってのも、あの子(こ)と会(あ)うことだったんだな」
春原(すのはら)「それに放課後(ほうかご)も、一緒(いっしょ)だったじゃん」
春原(すのはら)「考(かんが)えてみりゃ、放課後(ほうかご)の野暮用(やぼよう)ってのは、あの子(こ)と会(あ)うことだったんだな」
春原(すのはら)「そもそもおかしいと思(おも)ったんだよ、おまえが部活動(ぶかつどう)に精(せい)を出(だ)すなんてさ」
そう言(い)われると、何(なに)も返(かえ)せない。
実際(じっさい)は、たくさんの出来事(できごと)があって、今(いま)に至(いた)ってるのだけど。
あいつを手伝(てつだ)っているだけでなく…
俺(おれ)も、あいつの存在(そんざい)によって、救(すく)われていることとか。
それらひとつひとつを説明(せつめい)しようとも、納得(なっとく)させられないだろう、こいつは。
だから俺(おれ)は嘘(うそ)をつくことにした。
朋也(ともや)「実(じつ)はな…」
春原(すのはら)「なんだよ」
朋也(ともや)「あいつの家(いえ)な、パン屋(や)なんだ」
春原(すのはら)「それがどうしたんだよ」
朋也(ともや)「それがな、ものすごくイケてるパン屋(や)なんだ」
朋也(ともや)「雑誌(ざっし)やテレビにも取(と)り上(あ)げられたことがある。それ目当(めあ)てで遠方(えんぽう)からも客(きゃく)が訪(おとず)れる」
朋也(ともや)「俺(おれ)も食(く)ってみたが、これがやたらと美味(うま)いんだ」
春原(すのはら)「へぇ」
朋也(ともや)「あいつと仲良(なかよ)くしておくと、そのパンが食(く)い放題(ほうだい)なんだ」
春原(すのはら)「マジかよ…」
朋也(ともや)「ああ。気(き)さくな親御(おやご)さんでな。あいつの友達(ともだち)はパンが無料(むりょう)で食(く)い放題(ほうだい)なんだ」
春原(すのはら)「へぇ…そんな裏(うら)があったのか」
春原(すのはら)「確(たし)かに。おまえがあんな地味(じみ)な女(おんな)を気(き)に入(い)るとも考(かんが)えにくかったからな…」
朋也(ともや)「まぁな。俺(おれ)にはあいつが歩(ある)くパンに見(み)えるってわけだ」
春原(すのはら)「ふむふむ、なるほどね…」
春原(すのはら)「よし、僕(ぼく)もその話(はなし)に乗(の)っていいか」
…しまった。魅力的(みりょくてき)に語(かた)りすぎた!
春原(すのはら)「いいだろ?
僕(ぼく)もご相伴(しょうばん)に預(あず)かりたい」
朋也(ともや)「駄目(だめ)だ。あいつはおまえが大嫌(だいきら)いなんだ」
春原(すのはら)「マジかよ、ちょっと会(あ)っただけなのに?」
朋也(ともや)「金髪(きんぱつ)はゴキブリの次(つぎ)に嫌(きら)いらしい」
春原(すのはら)「これか…」
脱色(だっしょく)した前髪(まえがみ)を引(ひ)っ張(ぱ)る。
朋也(ともや)「あと、春原(すのはら)という読(よ)みにくい名字(みょうじ)も無性(むしょう)に腹(ばら)が立(た)つらしい」
春原(すのはら)「ほっとけよ!」
朋也(ともや)「まぁ、そういうわけだ」
春原(すのはら)「ちっ…まずは好(す)かれることからか…」
まだ諦(あきら)めていないようだった。
厄介(やっかい)なことにならなければいいが…。
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seagull - 2009/4/21 13:17:00
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幻想世界IV

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彼女(かのじょ)が作(つく)ってくれた僕(ぼく)の体(からだ)。
その材料(ざいりょう)はガラクタだ。
それらは、広大(こうだい)な大地(だいち)に点在(てんざい)していて、枯(か)れ草(くさ)の中(なか)に落(お)ちていたり、地表(ちひょう)からその一部(いちぶ)だけを突(つ)きだして埋(う)まっていたりした。
まるでそれは、何(なに)かの死体(したい)を思(おも)わせた。
たくさんの死体(したい)。
いろんなものの死体(したい)。
考(かんが)えてから、僕(ぼく)は身震(みぶる)いした。
それは、僕(ぼく)の体(からだ)だった。
でも、そのガラクタは、こうして僕(ぼく)の体(からだ)をちゃんと形作(かたちづく)ってくれている。
いきなり腕(うで)が落(お)ちたりすることもなかった。
なら、また、僕(ぼく)のように、新(あたら)しい意志(いし)を持(も)ったガラクタ人形(にんぎょう)を作(つく)れるということだ。
ガラクタなら探(さが)せばいくらでも見(み)つけることができた。
きっと彼女(かのじょ)がそうしてくれたように、僕(ぼく)は、それを小(ちい)さな体(からだ)で拾(ひろ)い集(あつ)めてきた。
彼女(かのじょ)は不思議(ふしぎ)そうに僕(ぼく)がしようとすることを見(み)ていた。
彼女(かのじょ)の前(まえ)で、そのガラクタ同士(どうし)を繋(つな)ぎ合(あ)わせてみる。
けど、きっちりと填(は)め込(こ)もうが、それは、外(はず)れて落(お)ちた。
彼女(かのじょ)が意図(いと)をくみ取(と)って、同(おな)じようにしてくれる。
今度(こんど)は外(はず)れなかった。
僕(ぼく)は自分(じぶん)の体(からだ)を指(さ)さした。
…新(あたら)しい体(からだ)、ほしいの?
僕(ぼく)は関係(かんけい)ない、と腕(うで)を交差(こうさ)させた。
…友達(ともだち)?
友達(ともだち)ほしいの?
意図(いと)は違(ちが)う。ただ、僕(ぼく)は僕(ぼく)のような存在(そんざい)が増(ふ)えれば、もっと楽(たの)しくなるはずだと思(おも)っただけだ。
でも、結果的(けっかてき)には同(おな)じことだったから、頷(うなず)いておく。
…そうだよね。ひとりじゃ、寂(さび)しかったよね。ごめんね。
それは…違(ちが)うんだけど。でも、僕(ぼく)はじっと、彼女(かのじょ)の顔(かお)を見上(みあ)げたままでいた。
…無理(むり)かもしれないけど…それでもいい?
こくん、と頷(うなず)く。
…じゃ、やってみるね。
彼女(かのじょ)はガラクタを組(く)み上(あ)げ始(はじ)める。
部品(ぶひん)が足(た)らなくなると、ふたりで大地(だいち)に出(で)て、探(さが)して歩(ある)いた。
何度(なんど)も往復(おうふく)した。
そうしてみて、初(はじ)めてわかる。
僕(ぼく)の体(からだ)を作(つく)るのは、こんなにも大変(たいへん)だったのかと。
今日(きょう)は遠(とお)くまで、ガラクタを探(さが)しにきていた。
丘(おか)の上(うえ)に立(た)って、地平線(ちへいせん)を見渡(みわた)す。
果(は)てしなく、大地(だいち)は続(つづ)いていた。
ずっと遠(とお)くまで。
その果(は)てには、一体(いったい)何(なに)があるんだろう。
僕(ぼく)は隣(となり)に生(は)えた草(くさ)と自分(じぶん)を見比(みくら)べる。
僕(ぼく)の小(ちい)さな体(からだ)では、それは確(たし)かめようのないことだった。
…見(み)て。
呼(よ)ぶ声(こえ)がして振(ふ)り返(かえ)ると、彼女(かのじょ)は一匹(いっぴき)の獣(けもの)を胸(むね)に抱(だ)いていた。
こんな世界(せかい)にも、僕(ぼく)ら以外(いがい)に生(い)き物(もの)がいた。
ふわふわとした白(しろ)い体毛(たいもう)に覆(おお)われ、そしてくるりと曲(ま)がったツノをふたつ、耳(みみ)の横(よこ)に持(も)っていた。
僕(ぼく)はそれが嫌(きら)いだった。
まるで人(ひと)─僕(ぼく)は人(ひと)ではなかったけど─に懐(なつ)こうとしない。
そもそも、僕(ぼく)らは眼中(がんちゅう)にないようなのだ。
それでも、彼女(かのじょ)はそれを一方的(いっぽうてき)にいじるのが好(す)きだった。
抱(だ)いたまま、頭(あたま)やお腹(なか)を撫(な)でた。
そうしながら、彼女(かのじょ)はゆっくりと坂(さか)を登(のぼ)る。
僕(ぼく)も後(あと)に続(つづ)いた。
ひとつ丘(おか)を越(こ)えると、その獣(けもの)が群(む)れを作(つく)っていた。
大小(だいしょう)さまざまで、個体差(こたいさ)はあったが、全部(ぜんぶ)同(おな)じ種類(しゅるい)の生物(せいぶつ)だった。
少女(しょうじょ)が抱(だ)いていた獣(けもの)を大地(だいち)に下(お)ろす。
獣(けもの)は、振(ふ)り返(かえ)ることなく、群(む)れに向(む)かって歩(ある)いていった。
その様子(ようす)を見(み)て、僕(ぼく)は思(おも)う。
彼(かれ)らには、『心(こころ)』がないんだと。
存在(そんざい)しているだけだ。
彼女(かのじょ)に懐(なつ)くこともなければ、別(わか)れることを惜(お)しんで振(ふ)り返(かえ)ることもしない。
そんな奴(やつ)らでも、この世界(せかい)では、彼女(かのじょ)自身(じしん)を除(のぞ)いては、唯一(ゆいいつ)の生(い)き物(もの)だった。
だからだろう。彼女(かのじょ)が好(この)んで触(ふ)れたりするのは。
見(み)ていると、獣(けもの)たちは、大地(だいち)に群生(ぐんせい)した草花(くさばな)を無感情(むかんじょう)に引(ひ)きちぎっては、咀嚼(そしゃく)していた。
あんなのがたくさん増(ふ)えたら、この緑(みどり)が荒(あ)れ果(は)ててしまうに違(ちが)いなかった。
いくらこいつらを気(き)に入(い)っているとしても、そんな事態(じたい)になるのは好(この)ましくないはずだ。
僕(ぼく)は持(も)っていたガラクタをその場(ば)に置(お)くと、闇雲(やみくも)にその中(なか)に割(わ)っていって、獣(けもの)を追(おい)っ払(ぱら)った。
そうしようが、彼(かれ)らは僕(ぼく)に楯突(たてつ)いてくることもなく、場所(ばしょ)を変(か)えて、また草(くさ)を食(た)べ始(はじ)める。
意味(いみ)のない行為(こうい)だった。
…どうしたの?
おこってるの?
彼女(かのじょ)の声(こえ)が背中(せなか)でした。
違(ちが)う。悲(かな)しいんだ。
…頭(あたま)、なでてほしい?
それは…ほしいけど。
じっと、土(つち)がめくれ上(あ)がった地面(じめん)を見(み)つめていた。
彼女(かのじょ)は、これだけ荒(あ)らされた自然(しぜん)を見(み)て、何(なに)も思(おも)わないんだろうか。
悲(かな)しいとか、寂(さび)しいとか。
彼女(かのじょ)はしゃがんで、僕(ぼく)の頭(あたま)を撫(な)でていた。影(かげ)でわかった。
…これは仕方(しかた)がないこと。どうしようもないことだからね。
彼女(かのじょ)はそう言(い)った。
…ああ、変(か)わっていくんだなって…
…そう思(おも)うしかないことなの。
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seagull - 2009/4/25 19:01:00
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4月22日()

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…朝(あさ)。
夕(ゆう)べも寝(ね)るのが遅(おそ)かったから、寝起(ねお)きは最悪(さいあく)だ。
意志(いし)に反(はん)して目(め)が開(ひら)かない。
しばらく上体(じょうたい)だけ起(お)こしてぼーっとしている。
朋也(ともや)(俺(おれ)がいないと、あいつ…どうしていいかわからないだろうからな…)
朦朧(もうろう)とした意識(いしき)のまま、布団(ふとん)から抜(ぬ)け出(だ)した。
古河(ふるかわ)「おはようございます」
朋也(ともや)「ああ、おはよ…」
古河(ふるかわ)「眠(ねむ)そうです」

朋也(ともや)「ああ、むちゃくちゃ眠(ねむ)い」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、授業中(じゅぎょうちゅう)、寝(ね)てしまいそうです」
朋也(ともや)「ああ、寝(ね)るね、間違(まちが)いなく…」
古河(ふるかわ)「わたしも、眠(ねむ)いです」
朋也(ともや)「おまえも?」
古河(ふるかわ)「はい、夕(ゆう)べ、いろいろ考(かんが)えていて、あまり眠(ねむ)れなかったんです」
朋也(ともや)「何(なに)を考(かんが)えてたんだよ」
古河(ふるかわ)「演劇部(えんげきぶ)の活動(かつどう)を生徒会(せいとかい)に認(みと)めてもらう方法(ほうほう)です」
朋也(ともや)「へぇ…」
古河(ふるかわ)「署名(しょめい)を集(あつ)めるとか、どうですか」
古河(ふるかわ)「たくさん集(あつ)まれば、生徒会(せいとかい)の方(かた)も、きっと考(かんが)えてくれると思(おも)います」
朋也(ともや)「そんな簡単(かんたん)な相手(あいて)じゃないぞ」
古河(ふるかわ)「同(おな)じ生徒(せいと)です。きっと、わかってくれると思(おも)います」
朋也(ともや)「そうかね…」
朋也(ともや)「こんな学校(がっこう)じゃあ、集(あつ)まらないんじゃないかな…」
朋也(ともや)「そもそも、演劇部(えんげきぶ)に入(はい)りたい奴(やつ)がいなくなったから、演劇部(えんげきぶ)は廃部(はいぶ)になったんだしな」
古河(ふるかわ)「そう言(い)われると…そうです」
古河(ふるかわ)「少(すこ)し考(かんが)えが甘(あま)かったです」
朋也(ともや)「いや、いいんだけどさ…」
また、ふたり並(なら)んで坂(さか)を登(のぼ)る。
多(おお)くの生徒(せいと)の中(なか)に紛(まぎ)れて。
けど、俺(おれ)たちふたりは違(ちが)う。
そんな特別(とくべつ)な思(おも)いを抱(だ)いて。
昼休(ひるやす)み。
古河(ふるかわ)「やっぱり剥(は)がされてしまいました」
朋也(ともや)「無視(むし)しろ。貼(は)り直(なお)せばいい」
古河(ふるかわ)「もう、貼(は)らないでおきたいです」
朋也(ともや)「どうして」
古河(ふるかわ)「なんだか、可哀想(かわいそう)です」
朋也(ともや)「誰(だれ)が」
古河(ふるかわ)「だんご大家族(だいかぞく)です」
朋也(ともや)「………」
その言葉(ことば)を聞(き)いて、目(め)が点(てん)になる。
朋也(ともや)「…はい?」
古河(ふるかわ)「剥(は)がされては貼(は)っての繰(く)り返(かえ)しでは、まるでだんご達(たち)が道具(どうぐ)みたいです」
朋也(ともや)(いや、道具(どうぐ)なんだけど…)
そんな道理(どうり)も通用(つうよう)しないのだろう、こいつには。
古河(ふるかわ)「だから、もうやめにしましょう」
朋也(ともや)「なら、どうするんだよ。説明会(せつめいかい)は来週(らいしゅう)だろ?」
朋也(ともや)「貼(は)ってあったものがなくなっていたら、来(きた)ようとしていた奴(やつ)らが不審(ふしん)に思(おも)うぞ」
朋也(ともや)「延期(えんき)したのか、あるいは、中止(ちゅうし)になったのか、ってさ」
古河(ふるかわ)「そうですね…」
朋也(ともや)「どうするんだよ、部長(ぶちょう)」
古河(ふるかわ)「えっと、その…」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「やっぱり、ビラを貼(は)り続(つづ)けるしかないんでしょうか」
古河(ふるかわ)「それがイタチごっこでも」
朋也(ともや)「だと思(おも)うけどな、俺(おれ)は」
朋也(ともや)「それで人(ひと)の目(め)に触(ふ)れる機会(きかい)が増(ふ)やせるなら、それでいいと思(おも)う」
古河(ふるかわ)「…わかりました」
朋也(ともや)「じゃあ、ビラのマスター、貸(か)してくれ。コピーしてくるから」
古河(ふるかわ)「え?」
朋也(ともや)「どうした」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、持(も)ってないんですか」
朋也(ともや)「昨日(きのう)、最後(さいご)に渡(わた)しただろ。マスターだから、持(も)っておけって」
古河(ふるかわ)「あ…あれって、マスターだったんですか?」
朋也(ともや)「そうだよ。どこにやった」
古河(ふるかわ)「貼(は)ってしまいました」
朋也(ともや)「はい?」
古河(ふるかわ)「えっと、まだ貼(は)ってなかった掲示板(けいじばん)があったものですから」
朋也(ともや)「ぐあ…アホな子(こ)か、おまえはっ」
朋也(ともや)「あれだけ、大事(だいじ)に持(も)っておけって、言(い)っただろ…」
古河(ふるかわ)「それは…今(いま)思(おも)い出(だ)しました」
古河(ふるかわ)「あの時(とき)は夢中(むちゅう)で貼(は)ってしまいました。たくさんの人(ひと)に見(み)てもらえるようにって」
朋也(ともや)「つーことは、なんだ…」
朋也(ともや)「また書(か)き直(なお)しってことか」
古河(ふるかわ)「はい…そうなってしまいます」
朋也(ともや)「おまえ、書(か)けよ」
古河(ふるかわ)「わかりました。がんばります。がんばって、たくさん描(えが)きます」
朋也(ともや)「何(なに)を」
古河(ふるかわ)「だんごです」
朋也(ともや)「いや、それは…」
古河(ふるかわ)「はい?」
朋也(ともや)「せめて、一匹(いっぴき)に…」
古河(ふるかわ)「大家族(だいかぞく)ですから、たくさん居(い)るんです」
古河(ふるかわ)「助(たす)け合(あ)いなんです」
朋也(ともや)「いいじゃないか、たまには一匹狼(いっぴきおおかみ)なだんごがいても」
朋也(ともや)「バイクにまたがって、放浪(ほうろう)の旅(たび)をしてるんだ。そうだ、そうしよう」
古河(ふるかわ)「だんごはそんなことしません」
朋也(ともや)「どこの家族(かぞく)だって、はみ出(だ)しモノはいるだろ」
古河(ふるかわ)「だんご大家族(だいかぞく)にはいないんです」
古河(ふるかわ)「それは時(とき)には喧嘩(けんか)もします」
古河(ふるかわ)「けど、結局(けっきょく)は仲良(なかよ)しなんです」
朋也(ともや)「まあ、仲良(なかよ)しかどうかは置(お)いておいてだな」
古河(ふるかわ)「置(お)いておいて、じゃなく、仲良(なかよ)しなんです」
古河(ふるかわ)「だからっ…」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「だから、好(す)きなんです…」
古河(ふるかわ)「だんご大家族(だいかぞく)は、みんなが仲良(なかよ)しだから…」
単純(たんじゅん)に可愛(かわい)くて好(す)き、と言(い)っているわけではないらしい。
朋也(ともや)「…そっか」
古河(ふるかわ)「はい、そうなんです」
朋也(ともや)「じゃあ、描(か)くか…」
俺(おれ)も何(なに)を躍起(やっき)になっていたのだろうか。よくわからなかった。
朋也(ともや)「よっと」
壁(かべ)の交通(こうつう)安全(あんぜん)のポスターを取(と)り外(はず)す。
それを裏返(うらがえ)して、古河(ふるかわ)に突(つ)きつける。
朋也(ともや)「これを使(つか)え。たくさん描(か)けるぞ」
朋也(ともや)「でかいからな、一万匹(いちまんぴき)ぐらい描(か)ける」
古河(ふるかわ)「そんなにいません」
とんとん。
朋也(ともや)「いいから、描(か)けって」
古河(ふるかわ)「それ、大(おお)きすぎです」
朋也(ともや)「じゃあ、だんごも大(おお)きく描(か)け」
とんとん!
古河(ふるかわ)「恥(は)ずかしいです」
朋也(ともや)「描(か)けってばよっ」
どんっ!
古河(ふるかわ)「はい…?」
古河(ふるかわ)が振(ふ)り返(かえ)る。その先(さき)に、壁(かべ)を蹴(け)りつける春原(すのはら)がいた。
春原(すのはら)「さっきから呼(よ)んでたんだけど…お邪魔(じゃま)みたいだね」
手(て)に持(も)った紙切(かみき)れをひらひらとさせながら、冷(さ)めた目(め)でこっちを見(み)ていた。
古河(ふるかわ)「あ、だんごたちですっ」
頼(たの)む、ビラと言(い)え。
古河(ふるかわ)「ありがとうございます」
それを受(う)け取(と)る古河(ふるかわ)。
朋也(ともや)「おまえ、何(なに)しにきたんだよ…」
それを押(お)しのけて、俺(おれ)は春原(すのはら)の正面(しょうめん)に立(た)つ。
春原(すのはら)「無論(むろん)、イケてるパンの食(く)い放題権(ほうだいけん)、獲得(かくとく)のためさ」
春原(すのはら)「学食(がくしょく)のパンには僕(ぼく)も飽(あ)きたからねぇ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)、春原(すのはら)って言(い)うんだ。よろしく」
俺(おれ)をよけて、後(うし)ろにいた古河(ふるかわ)に挨拶(あいさつ)していた。
古河(ふるかわ)「あ、はいっ、よろしくお願(ねが)いしますっ」
古河(ふるかわ)「えっと…その、よろしくってことは…」
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さん、演劇部(えんげきぶ)に入(はい)ってくれるということでしょうかっ」
春原(すのはら)「いや、全然(ぜんぜん)興味(きょうみ)ない」
古河(ふるかわ)「楽(たの)しいです、みんなで劇(げき)をするのって」
春原(すのはら)「そんなことよりさ、訊(き)きたいことがあるんだけど」
春原(すのはら)「君(きみ)の家(いえ)って、自営業(じえいぎょう)だろ。何(なに)やってんだっけ」
古河(ふるかわ)「はい?
わたしの家(いえ)ですか?」
古河(ふるかわ)「パン屋(や)です」
春原(すのはら)「よしっ」
俺(おれ)の話(はなし)に偽(いつわ)りがないことを確認(かくにん)して、手応(てごた)えを得(う)たようだ。
朋也(ともや)(いや、その先(さき)に偽(いつわ)りがあるんだがな…)
古河(ふるかわ)「それが…どうかしましたか?」
春原(すのはら)「いや、なんでもないよ。それより、それ、助(たす)かっただろ?」
古河(ふるかわ)「はい、とても助(たす)かりました」
春原(すのはら)「生徒会(せいとかい)の人間(にんげん)が剥(は)がして回(まわ)ってたからさ、一枚(いちまい)だけ先(さき)に取(と)っておいた」
古河(ふるかわ)「そうなんですか。ありがとうございます」
古河(ふるかわ)「あの…岡崎(おかざき)さん」
ビラを胸(むね)に抱(だ)いて、俺(おれ)に向(む)き直(なお)る。
古河(ふるかわ)「やっぱりこれはもう、貼(は)りたくないです。ずっと大切(たいせつ)に仕舞(しまい)っておきたいです」
朋也(ともや)「おまえな…ビラなんかを思(おも)い出(で)の品(しな)にするなよな…」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんとふたりで、一生懸命(いっしょうけんめい)作(つく)ったものですから…」
朋也(ともや)「………」
あまりに情(じょう)を移(うつ)してしまっている。奪(うば)い取(と)ったら、泣(な)き出(だ)しそうだった。
朋也(ともや)「じゃあ、どうするんだよ」
古河(ふるかわ)「それは…」
古河(ふるかわ)「ええと…どうしましょう…」
春原(すのはら)「ん?
なんの話(はなし)かな?
困(こま)ってるんなら、相談(そうだん)に乗(の)るよ」
朋也(ともや)「てめぇは帰(かえ)れ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、それはお友達(ともだち)に失礼(しつれい)だと思(おも)います」
春原(すのはら)「そうだ、失礼(しつれい)だぞ」
朋也(ともや)(くそ…)
春原(すのはら)「ほら、こんな失礼(しつれい)な奴(やつ)、もう相手(あいて)にしないでさ、僕(ぼく)に話(はな)してみな」
古河(ふるかわ)「いえ、岡崎(おかざき)さんは口(くち)は悪(わる)いですけど、とても優(やさ)しいです…」
古河(ふるかわ)「今(いま)までも、たくさん力(ちから)になってもらいました」
古河(ふるかわ)「ですから、そんな勝手(かって)なこともできないですし、したくないです」
真面目(まじめ)に返(かえ)されていた。
春原(すのはら)「へぇ…うまくやってんなぁ」
春原(すのはら)「こりゃ、食(た)べ放題(ほうだい)になるわけだ」
古河(ふるかわ)「食(た)べ放題(ほうだい)…?」
春原(すのはら)「ううん、こっちの話(はなし)」
春原(すのはら)「とにかくさ、僕(ぼく)も力(ちから)になる。だから、話(はなし)を聞(き)かせてよ」
古河(ふるかわ)「いえ…力(ちから)になっていただくなんて、それは申(もう)しわけないです…」
古河(ふるかわ)「でも、話(はなし)はしたいと思(おも)います。この子(こ)たちも、助(たす)けてもらったことですし」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、いいですよね」
朋也(ともや)「ああ…」
春原(すのはら)に目(め)を付(つ)けられたが最後(さいご)。そのスッポンのようなしつこさから、逃(のが)れる術(じゅつ)はないのだ。
朋也(ともや)(もう、好(す)きにしてくれ…)
春原(すのはら)「なるほどね…」
春原(すのはら)「そんなの簡単(かんたん)じゃん」
古河(ふるかわ)「え、何(なに)かいい方法(ほうほう)がありますか」
春原(すのはら)「うん、生徒会長(せいとかいちょう)だかなんだか知(し)らないけどさ…」
春原(すのはら)「そいつをシメる」
古河(ふるかわ)「しめる、と言(い)いますと?」
春原(すのはら)「うーん、ぎゃふん、と言(い)わせるってことかな」
古河(ふるかわ)「え…どうやってですか」
春原(すのはら)「校舎裏(こうしゃうら)に呼(よ)び出(だ)してさ、こう複数(ふくすう)で囲(かこ)んで…」
春原(すのはら)が足(あし)を前後(ぜんご)に動(うご)かす。
古河(ふるかわ)「そんなことしたら、ダメですっ」
慌(あわ)てて、そのジェスチャーをやめさせる。
…見(み)ろ、この価値観(かちかん)の違(ちが)いを。
春原(すのはら)「えぇ?
ダメなの?」
古河(ふるかわ)「生徒会(せいとかい)の方々(かたがた)は、何(なに)も悪(わる)いことしてないです…」
古河(ふるかわ)「していたとしてもです、暴力(ぼうりょく)はダメです…」
春原(すのはら)「じゃ、話(はな)し合(あ)い?
僕(ぼく)の苦手(にがて)な分野(ぶんや)だねぇ…」
古河(ふるかわ)「いえ、話(はなし)を聞(き)いてもらえただけでもよかったです」
古河(ふるかわ)「ありがとうございました」
改(あらた)めて頭(あたま)を下(さ)げる。
春原(すのはら)「うーん…ま、後(あと)はふたりに任(まか)せるけどさ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)も一緒(いっしょ)にいるよ。何(なに)かあった時(とき)は力(ちから)になるからさ」
朋也(ともや)「暴力振(ぼうりょくふ)るうことしか能(のう)がないくせに、帰(かえ)れ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、それはお友達(ともだち)に失礼(しつれい)です」
春原(すのはら)「そうだ、失礼(しつれい)だぞ」
朋也(ともや)(くそぅ…)
想像(そうぞう)していた、最悪(さいあく)の結果(けっか)だ。
厄介(やっかい)な奴(やつ)が仲間(なかま)に加(くわ)わってしまった。
朋也(ともや)(ああ、RPGのように、選択(せんたく)の余地(よち)があれば…)
春原陽平(すのはらようへい)』が仲間(なかま)に加(くわ)わりたいと申(もう)し出(で)てきた!
どうしますか?
斬る
春原(すのはら)「って、なんで、仲間(なかま)に入(い)れるって選択肢(せんたくし)がないんすかっ!」
ばさり!
春原(すのはら)「ぎゃあああーーーーーーっ!」
…といった具合(ぐあい)に、とても愉快(ゆかい)なイベントになるんだが。
春原(すのはら)「なに、にやけてんの、おまえ」
朋也(ともや)「いや…なんでもない」
春原(すのはら)「ほら、これからどうするんだよ。昼休(ひるやす)み終(お)わっちまうぜ?」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、どうしましょう」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
朋也(ともや)「とりあえず、学校(がっこう)のことに詳(くわ)しい奴(やつ)に訊(き)いてみるか…俺(おれ)たち、知(し)らなさすぎだし」
春原(すのはら)「ははっ、おまえ、何年(なんねん)ここの生徒(せいと)やってんだよっ」
朋也(ともや)「おまえも同(おな)じだからな」
とりあえず廊下(ろうか)に出(で)てみる。
古河(ふるかわ)「誰に相談してみますか」
担任に相談
朋也(ともや)「学校(がっこう)のことを訊(き)くんだったら、そりゃ教師(きょうし)に訊(き)くのが一番(いちばん)手(て)っ取(と)り早(ばや)いよな」
朋也(ともや)「というわけで、担任(たんにん)に訊(き)こう」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんのクラスの担任(たんにん)ですか?」
朋也(ともや)「いや、おまえのクラスのでもいいぞ」
古河(ふるかわ)「わたしも、どちらでもいいです」
朋也(ともや)「B組(ぐみ)って、担任(たんにん)、誰(だれ)だっけ?」
古河(ふるかわ)「美術(びじゅつ)の担任(たんにん)をされている、篠原(しのはら)先生(せんせい)です」
春原(すのはら)「あの人(ひと)、なんか鉄仮面(てつかめん)みたいな顔(かお)してて、コワイよね…」
古河(ふるかわ)「はい、あまり表情(ひょうじょう)を変(か)える先生(せんせい)ではないです」
春原(すのはら)「ウチの担任(たんにん)のほうがいいんじゃない?
頼(たよ)りないけど、人(ひと)は悪(わる)くないよ」
古河(ふるかわ)「どなたでしょうか」
朋也(ともや)「数学(すうがく)もってる…ええと…なんだっけ」
春原(すのはら)「なんか、動物(どうぶつ)の名前(なまえ)が入(はい)ってた気(き)がすんだけど」
可哀想(かわいそう)な担任(たんにん)だった…。
朋也(ともや)「猫(ねこ)だっけか、犬(いぬ)だっけか」
春原(すのはら)「熊(くま)とか象(ぞう)かもしれんぞ」
朋也(ともや)「象(ぞう)がつく名字(みょうじ)なんてないだろ」
春原(すのはら)「んなことねぇよ、象本(ぞうもと)とか、象田(ぞうだ)とか、象印(ぞうじるし)とかあんだろ」
朋也(ともや)「最後(さいご)の、名字(みょうじ)か?」
春原(すのはら)「名字(みょうじ)だよっ」
春原(すのはら)「ああ、象印(ぞうじるし)だな。今(いま)、思(おも)い出(だ)したよ。聞(き)き覚(おぼ)えあるもん。間違(まちが)いないね」
その聞(き)き覚(おぼ)えは、本当(ほんとう)に人(ひと)の名前(なまえ)としてか。クイズ番組(ばんぐみ)の提供(ていきょう)じゃないのか。
古河(ふるかわ)「わたし、知(し)らない先生(せんせい)です」
春原(すのはら)「ま、そんな悪(わる)い奴(やつ)じゃないからさ、話(はなし)、してみようぜ」
朋也(ともや)「おまえ、最近(さいきん)、絞(しぼ)られたばかりじゃないのか」
春原(すのはら)「最近(さいきん)絞(しぼ)られたばかりだから、当分(とうぶん)は何(なに)もないってことじゃん」
朋也(ともや)「すげぇポジティブシンキング男(おとこ)だな」
職員室(しょくいんしつ)の前(まえ)までやってくる。
春原(すのはら)「うーん、いないねぇ」
中(なか)を覗(のぞ)きこんでいた春原(すのはら)が背中(せなか)を向(む)けたままで言(い)った。
俺(おれ)は廊下(ろうか)を見(み)やる。タイミングよく、その先(さき)のドアが開(ひら)いて、担任(たんにん)が姿(すがた)を見(み)せた。
朋也(ともや)「あ、こっちに居(い)たぞ。今(いま)、校長室(こうちょうしつ)から出(で)てきた」
こっちに向(む)かって歩(ある)いてくる。
担任(たんにん)「なんだ、おまえたち、職員室(しょくいんしつ)に用(よう)か?」
俺(おれ)たちを見(み)つけると、そう訊(き)いてきた。
春原(すのはら)「ああ、僕(ぼく)たち、用(よう)があったんだ。象印(ぞうじるし)先生(せんせい)に」
ずるぅっ!と年甲斐(としがい)もなく転(こ)けていた。
担任(たんにん)「誰(だれ)がだっ、乾(いぬい)だっ」
哀(あわ)れな担任(たんにん)だった。
担任(たんにん)「で、なんなんだ。どうせロクな…」
担任(たんにん)「っと…珍(めずら)しいな。女(おんな)の子連(こづ)れか」
担任(たんにん)「君(きみ)、こいつらに騙(だま)されてないか。大丈夫(だいじょうぶ)か?」
春原(すのはら)「人聞(ひとぎ)き悪(わる)いこと言(い)うなよ、恩(おん)を着(き)せてるだけだよっ」
十分(じゅうぶん)人聞(ひとぎ)き悪(わる)い。
古河(ふるかわ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。おふたりには、手伝(てつだ)ってもらってるんです」
担任(たんにん)「ん?
どういうことだい」
俺(おれ)たちは、そのまま、事(こと)の流(なが)れを話(はな)した。
担任(たんにん)「そうか、そりゃ、難儀(なんぎ)だな…」
担任(たんにん)「部(ぶ)として認(みと)めてもらうには、まずは顧問(こもん)をつけること、これが第一条件(だいいちじょうけん)だ」
古河(ふるかわ)「顧問(こもん)…先生(せんせい)ですね」
朋也(ともや)「簡単(かんたん)じゃないか。演劇部(えんげきぶ)の元顧問(もとこもん)を探(さが)せばいいだけだろ」
朋也(ともや)「去年(きょねん)まで演劇部(えんげきぶ)はあったんだから、この学校(がっこう)に居(い)るはずだぜ」
古河(ふるかわ)「そう…ですね。探(さが)してみます」
担任(たんにん)「それだけじゃ駄目(だめ)なんだな」
春原(すのはら)「なんだよ、もったいぶるなよ、象印(ぞうじるし)」
担任(たんにん)「乾(いぬい)だっ!」
担任(たんにん)「しかも、おまえ、今(いま)、教師(きょうし)の名前(なまえ)を呼(よ)び捨(す)てにしたな?」
春原(すのはら)「はは、気(き)のせいっすよ」
担任(たんにん)「どうだかな…」
古河(ふるかわ)「それだけじゃ、ダメと言(い)いますと?」
担任(たんにん)「ああ、もうひとつ条件(じょうけん)がある」
担任(たんにん)「入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)が3名(めい)以上(いじょう)居(い)ること」
担任(たんにん)「ま、その点(てん)に関(かん)しては大丈夫(だいじょうぶ)みたいだな」
担任(たんにん)は俺(おれ)たちの顔(かお)を見回(みまわ)した。
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)が固(かた)まる。
担任(たんにん)「まだ、時間(じかん)あるから、今(いま)から、演劇部(えんげきぶ)の元顧問(もとこもん)、探(さが)してみるかい?」
担任(たんにん)「訊(き)けば、すぐ見(み)つかると思(おも)うよ」
古河(ふるかわ)「ちょっと待(ま)って…くださいっ」
担任(たんにん)「どうした?」
古河(ふるかわ)「えっと、その…」
古河(ふるかわ)「入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)の数(かず)が…」
担任(たんにん)「え?
足(た)らないの?」
もう一度(いちど)俺(おれ)たちの顔(かお)を見回(みまわ)す。
担任(たんにん)「そっか…こいつらが、演劇(えんげき)をやるわけないか…」
浅(あさ)はかだったとばかりに、ため息(いき)をつかれた。
担任(たんにん)「それだと難(むずか)しいな」
担任(たんにん)「そもそも演劇部(えんげきぶ)は、部員(ぶいん)が集(あつ)まらなくなって、廃部(はいぶ)になったんだからね」
古河(ふるかわ)「やっぱりそうですか…」
担任(たんにん)「おっと、そろそろ戻(もど)らないと」
担任(たんにん)「悪(わる)いね。また、相談事(そうだんごと)があったら、言(い)っておいで」
そう、古河(ふるかわ)だけに告(つ)げて、職員室(しょくいんしつ)に戻(もど)っていった。
廊下(ろうか)に立(た)ちつくす俺(おれ)たち。
古河(ふるかわ)「後(あと)、ふたり、集(あつ)めなくてはいけないみたいです」
朋也(ともや)「………」
そもそも、その募集(ぼしゅう)を生徒会(せいとかい)に禁止(きんし)されているのだから、矛盾(むじゅん)した話(はなし)だった。
でも、人数(にんずう)さえ揃(そろ)えて、顧問(こもん)を見(み)つければ…
もしかしたら、その顧問(こもん)が生徒会(せいとかい)に談判(だんぱん)してくれるかもしれない。
すでに体裁(ていさい)は整(ととの)っているのだから。
そうなれば、生徒会(せいとかい)とて、無下(むげ)にはね除(のぞ)けられないのではないだろうか。
朋也(ともや)「あのさ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちが、部員(ぶいん)の振(ふ)り、しておいてやろうか」
だから、その案(あん)を口(くち)にしていた。
どう考(かんが)えても、そうすべきだ。
朋也(ともや)「だって、そうしないと、本当(ほんとう)の部員(ぶいん)すら、集(あつ)められないだろ?」
古河(ふるかわ)「では…」
古河(ふるかわ)「お願(ねが)いできますか」
古河(ふるかわ)が春原(すのはら)の顔(かお)を伺(うかが)う。
春原(すのはら)「本当(ほんとう)に、そのまま部員(ぶいん)にされないのならいいけどさ」
古河(ふるかわ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。約束(やくそく)します」
朋也(ともや)「じゃ、決(き)まったところで、とっとと、顧問(こもん)を探(さが)そうぜ」
古河(ふるかわ)「はい」
引(ひ)き戸(と)に手(て)を添(そ)えたところで、古河(ふるかわ)が動(うご)きを止(と)める。
古河(ふるかわ)「でも…」
古河(ふるかわ)「先生(せんせい)に嘘(うそ)つくってことですよね」
古河(ふるかわ)「よくないことです」
朋也(ともや)「いいじゃないか。顧問(こもん)を探(さが)す時点(じてん)では、俺(おれ)たちは本当(ほんとう)に演劇部(えんげきぶ)に入(はい)りたかった」
朋也(ともや)「でも、顧問(こもん)が決(き)まってから、嫌(いや)になってやめたくなった」
朋也(ともや)「代(か)わりに、新(あたら)しい入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)が現(あらわ)れた」
朋也(ともや)「な。そう考(かんが)えろ」
古河(ふるかわ)「あの、新(あたら)しい入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)って誰(だれ)ですか?」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)。それはおまえが募集(ぼしゅう)して、見(み)つけるんだろ」
古河(ふるかわ)「やっぱり、そうですよね」
古河(ふるかわ)「でも…」
古河(ふるかわ)「もし、新(あたら)しい入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)が見(み)つかっても、お二人(ふたり)には、演劇部(えんげきぶ)で居(い)てほしいです」
古河(ふるかわ)「心(こころ)からそう思(おも)います」
古河(ふるかわ)「きっと楽(たの)しいですから」
春原(すのはら)「馬鹿(ばか)か、この子(こ)は…」
呟(つぶや)く春原(すのはら)を手(て)で制(せい)して、古河(ふるかわ)の肩口(かたぐち)に顔(かお)を寄(よ)せる。
朋也(ともや)「おまえさ…筋書(すじが)きと、本心(ほんしん)とをごっちゃにしてないか?」
古河(ふるかわ)「はい?」
朋也(ともや)「いや、まあいい。今(いま)は、顧問(こもん)を探(さが)すことに専念(せんねん)しろ」
古河(ふるかわ)「はい、わかりました」
がらり、と職員室(しょくいんしつ)のドアを開(あ)け放(はな)った。
見知(みし)った教師(きょうし)を捕(つか)まえ、以前(いぜん)に演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)をしていた教師(きょうし)の名(な)を尋(たず)ねた。
教師(きょうし)「ああ、古文(こぶん)の幸村先生(こうむらせんせい)よ。知(し)ってるでしょ?」
朋也(ともや)「ああ」
よく知(し)っていた。けど、演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)をしていたことは知(し)らなかった。
それほど、活動(かつどう)が慎(つつ)ましい部(ぶ)だったのだろう。
朋也(ともや)「…どこに居(い)るんだ?」
職員室(しょくいんしつ)を見渡(みわた)す。その姿(すがた)は見(み)あたらなかった。
教師(きょうし)「今(いま)は生活指導室(せいかつしどうしつ)かしら」
古河(ふるかわ)「わかりました。行(い)ってみます」
教師(きょうし)「にしても、衝撃(しょうげき)的(てき)な組(く)み合(あ)わせね」
古河(ふるかわ)「何(なに)がでしょうか」
教師(きょうし)「あなたのような大人(おとな)しそうな子(こ)と、問題児(もんだいじ)ふたりが連(つ)れ添(そ)ってるなんて」
教師(きょうし)「大丈夫(だいじょうぶ)?」
古河(ふるかわ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。お友達(ともだち)ですから」
古河(ふるかわ)はよく通(とお)る声(こえ)で答(こた)えた。
その言葉(ことば)に反応(はんのう)してか、何人(なんにん)かの教師(きょうし)が俺(おれ)たちのほうを見(み)た。
そのうちの何人(なんにん)かが怪訝(かいが)に表情(ひょうじょう)を曇(くも)らせたが、俺(おれ)と目(め)が合(あ)うと、いそいそと自分(じぶん)の作業(さぎょう)に戻(もど)った。
古河(ふるかわ)「後(あと)、わたしも問題児(もんだいじ)ですから」
教師(きょうし)「え…?」
古河(ふるかわ)「ありがとうございます」
古河(ふるかわ)が礼(れい)をして、話(はなし)を終(お)わらせていた。
春原(すのはら)「僕(ぼく)が職員室(しょくいんしつ)なんて入(はい)るのは、決(き)まってお咎(とが)めを受(う)けるときだからね」
春原(すのはら)「連中(れんちゅう)のツラ、見(み)ただろ?
今度(こんど)は何事(なにごと)だ?って、顔(かお)してたぜ」
春原(すのはら)「たまには、普通(ふつう)の用(よう)で来(く)るってーの」
春原(すのはら)「くそっ」
ドアを激(はげ)しく蹴(け)りつけていた。
朋也(ともや)「やめとけ。いくぞ」
春原(すのはら)「どこへ」
朋也(ともや)「生活指導室(せいかつしどうしつ)だろ。な、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「そうです。生活指導室(せいかつしどうしつ)です」
春原(すのはら)「そんなところ入(はい)っていきたくないんだけど…」
踵(きびす)を返(かえ)す先(さき)…
ちょうど幸村(こうむら)が生活指導室(せいかつしどうしつ)から出(で)てきたところだった。
春原(すのはら)「ラッキー、ナイスタイミングだ、ヨボジィ」
朋也(ともや)「よぅ、ジィさん、元気(げんき)か」
幸村(こうむら)「ん…なにかの」
皺深(しわふか)い顔(かお)をこちらに向(む)けた。
幸村(こうむら)は俺(おれ)の一年(いちねん)の時(とき)の担任(たんにん)だった。俺(おれ)がここまで無事(ぶじ)に進級(しんきゅう)してこれたのも、この人(ひと)のおかげだった。
朋也(ともや)「ほら」
俺(おれ)は古河(ふるかわ)を幸村(こうむら)の前(まえ)に押(お)し出(だ)した。
古河(ふるかわ)「あの、わたし、3年(ねん)B組(ぐみ)の古河渚(ふるかわなぎさ)といいます」
幸村(こうむら)「ああ、うむ」
古河(ふるかわ)「あの…もう一度(いちど)、演劇部(えんげきぶ)の…その、顧問(こもん)を引(ひ)き受(う)けてもらえませんか」
幸村(こうむら)「ほぅ…」
朋也(ともや)「ジィさん、演劇部(えんげきぶ)の復活(ふっかつ)だ。大役(たいやく)だろ、頼(たの)む」
幸村(こうむら)「ほぅ、ほぅ…」
実(じつ)に苛立(いらだ)たしい反応(はんのう)だった。
春原(すのはら)「頷(うなず)いておけばいいんだよ、ジジィ」
じれったくなってか、春原(すのはら)がその頭(あたま)に手(て)を載(の)せて、強引(ごういん)に頷(うなず)かせようとする。
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さん、ダメですっ」
春原(すのはら)「あん?」
古河(ふるかわ)「ちゃんと、誠意(せいい)を持(も)って、お願(ねが)いしないとダメです」
春原(すのはら)「あるよ、誠意(せいい)は。やり方(かた)が乱暴(らんぼう)なだけなんだ」
古河(ふるかわ)「気(き)づいてるなら、ちゃんとしてください」
春原(すのはら)「おまえ、誰(だれ)のためにさっ…」
古河(ふるかわ)「お願(ねが)いします…」
春原(すのはら)「ちっ」
手(て)を放(はな)す。
古河(ふるかわ)「あの、先生(せんせい)。どうでしょうか。演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)、引(ひ)き受(う)けてもらえるでしょうか」
幸村(こうむら)「うん…」
古河(ふるかわ)「ありがとうございますっ」
幸村(こうむら)「いや…」
古河(ふるかわ)「え…」
春原(すのはら)「どっちだよっ!」
朋也(ともや)「ジィさん、なんだ、言(い)ってみろ。問題(もんだい)があるのか」
幸村(こうむら)「ふむ…」
幸村(こうむら)「二年生(にねんせい)のね、仁科(にしな)さんって子(こ)とね…話(はなし)をしてくれないですかな」
春原(すのはら)「誰(だれ)だよ、そいつ?」
古河(ふるかわ)「わかりました、行(い)ってみましょう」
早(はや)く春原(すのはら)と幸村(こうむら)を引(ひ)き離(はな)したいのだろう、話(はなし)もろくに聞(き)かず古河(ふるかわ)が急(せ)かした。
朋也(ともや)「何組(なんくみ)だ。それだけ教(おし)えろ」
幸村(こうむら)「確(たし)か…Bだったような」
朋也(ともや)「オッケー。サンキュな」
幸村(こうむら)「あるいはCだったような…」
春原(すのはら)「どっちだよっ!」
幸村(こうむら)「たぶんCだ。ふむ、間違(まちが)いない」
古河(ふるかわ)「ありがとうございます。また、お伺(うかが)いします」
春原(すのはら)「次(つぎ)までに早口(はやくち)の練習(れんしゅう)しとけよっ」
それぞれに別(わか)れの言葉(ことば)を言(い)って、老教師(ろうきょうし)の元(もと)から離(はな)れた。
階段(かいだん)を上(あ)がったところで、昼休(ひるやす)みの終(お)わりを告(つ)げる予鈴(よれい)が鳴(な)った。
朋也(ともや)「あ…もうそんな時間(じかん)だったか」
春原(すのはら)「気(き)づかなかったね…」
夢中(むちゅう)になっていたのだろう。
朋也(ともや)「後(あと)は放課後(ほうかご)だな…」
午後(ごご)の授業(じゅぎょう)。
昼食後(ちゅうしょくご)ということもあって、眠(ねむ)さもたけなわ。
教師(きょうし)の声(こえ)を半分(はんぶん)子守歌(こもりうた)代(か)わりにボーっとしていた。
そろそろ目蓋(まぶた)の上(うえ)と下(さ)がくっつきそうだ。
こつん…。
朋也(ともや)「ん?」
頭(あたま)に何(なに)かが当(あ)たった。
床(ゆか)を見(み)ると消(け)しゴムのカケラが落(お)ちていた。
春原(すのはら)(岡崎(おかざき)、岡崎(おかざき))
朋也(ともや)(んだよ。俺(おれ)はそろそろ寝(ね)るぞ)
春原(すのはら)(その前(まえ)に外見(がいけん)てみろよ)
朋也(ともや)(外(そと)?)
春原(すのはら)(校門(こうもん)とこ。また来(き)てるんだ)
朋也(ともや)(来(き)てる?)
春原(すのはら)(この前(まえ)の可愛(かわい)い奴(やつ))
朋也(ともや)(??)
なんのことだ?
眠(ねむ)さで眉間(みけん)にシワをよせつつも、俺(おれ)は首(くび)を傾(かし)げながら窓(まど)の外(そと)を見(み)る。
校門(こうもん)のところの…。
当然(とうぜん)こんな時間(じかん)に、人(にん)なんているはずがない。
朋也(ともや)「ん…?」
今(いま)一瞬(いっしゅん)何(なに)か見(み)えたぞ…?
ちっちゃくてチョコチョコと動(うご)く小動物(しょうどうぶつ)のような…。
校門(こうもん)の壁(かべ)に身体(しんたい)をすり寄(よ)せ、小(ちい)さな尻尾(しっぽ)を機嫌(きげん)良(よ)くピコピコと振(ふ)っている…。
朋也(ともや)「ボタン…?」
杏(きょう)のペットだ。
確(たし)かイノシシの仔(こ)でウリボウだったよな。
また杏(きょう)に会(あ)いに来(き)たのか?
教師(きょうし)「岡崎(おかざき)っ!
授業中(じゅぎょうちゅう)に何処(どこ)を見(み)ている!」
教師(きょうし)「窓(まど)の外(そと)に黒板(こくばん)はないぞっ!」
いきなり疳(かん)にさわる声(こえ)が飛(と)んできた。
眠(ねむ)さのせいもあって、眉間(みけん)にシワを寄(よ)せたまま教師(きょうし)の方(かた)を向(む)いてしまう。
教師(きょうし)「なんだぁその目(め)は?」
教師(きょうし)「授業(じゅぎょう)を聞(き)く気(き)がないなら邪魔(じゃま)だ。教室(きょうしつ)から出(で)て行(い)けっ!」
朋也(ともや)「………」
ガタ…。
春原(すのはら)「お、おい、岡崎(おかざき)?!」
教師(きょうし)「な…なんだ?
教師(きょうし)に暴力(ぼうりょく)をふるうつもりか?
そんなことをしたら退学(たいがく)だぞ?!」
朋也(ともや)「………」
ツカツカツカツカ。
教師(きょうし)「ひっ…」
ガラ…。
教師(きょうし)「…?」
パタン…。
何(なに)も言(い)わずに、シン…とした廊下(ろうか)に出(で)る。
しばらくすると、教室(きょうしつ)からは取(と)り繕(つくろ)うような教師(きょうし)の声(こえ)が聞(き)こえてきた。
俺(おれ)は息(いき)をつきながら、授業中(じゅぎょうちゅう)の廊下(ろうか)を歩(ある)きだした。
誰(だれ)もいない校門脇(こうもんわき)の庭園(ていえん)。
校舎(こうしゃ)を挟(はさ)んでグランドからは、体育(たいいく)の授業(じゅぎょう)だろう声(こえ)が微(かす)かに聞(き)こえてくる。
それ以外(いがい)は静(しず)かなものだ。
そんな中(なか)、校門(こうもん)の壁(かべ)に身体(しんたい)やら鼻先(はなさき)やらを擦(す)り付(つ)けて、尻尾(しっぽ)を振(ふ)っているウリボウが一匹(いっぴき)。
朋也(ともや)「ボタン」
ボタン「ぷひ」
呼(よ)ぶとピクンと尻尾(しっぽ)を立(た)てて反応(はんのう)する。
そして短(みじか)い足(あし)をビデオの早送(はやおく)りのように素早(すばや)く動(うご)かしてこっちに走(はし)ってきた。
どうやら俺(おれ)を憶(おも)えているようだ。
トテテテテ~
朋也(ともや)「ん?」
トテテテテ~
朋也(ともや)「おい?」
トテテテテ~
とすん!
朋也(ともや)「いてっ」
ボタンはダッシュそのままに俺(おれ)に突(つ)っ込(こ)んできた。
身体(しんたい)が小(ちい)さいので威力(いりょく)こそないが…止(と)まれよ。
ボタン「ぷひ~…」
朋也(ともや)「おい、大丈夫(だいじょうぶ)か?」
ボタン「ぷひぷひ~…」
朋也(ともや)「猪突猛進(ちょとつもうしん)とは言(い)うけど…本当(ほんとう)なんだな」
ボタン「ぷひーぷひー」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)に褒(ほ)めたわけじゃないぞ」
ボタン「ぷひ~」
朋也(ともや)「よっと」
俺(おれ)は芝生(しばふ)に腰(こし)をおろし、あぐらをかく。
ボタン「ぷひ…」
朋也(ともや)「ん?」
ボタンがなにか物欲(ものほ)しそうな顔(かお)でこっちを見(み)ている。
俺(おれ)の前(まえ)をウロウロしながら鼻(はな)をフンフンと鳴(な)らし、尻尾(しっぽ)を振(ふ)る。
チラリと俺(おれ)を見(み)る。
またウロウロする。
何度(なんど)かそれをくり返(かえ)すと、意(い)を決(けっ)したようにこちらに近(ちか)づいて来(き)た。
朋也(ともや)「お…?」
ボタン「ぷひぷひ」
股間(こかん)に鼻(はな)を寄(よ)せてフンフンと鼻(はな)を鳴(な)らした。
わしっ!!
背中(せなか)を鷲掴(わしづか)みにして、俺(おれ)の目(め)の高(たか)さまで持(も)ち上(あ)げた。
バタバタと必死(ひっし)に短(みじか)い足(あし)を動(うご)かすボタン。
朋也(ともや)「てめぇなにをしやがるっ」
ボタン「ぷひー!
ぷひー!」
朋也(ともや)「畜生(ちくしょう)のクセに人間相手(にんげんあいて)に色気(いろけ)づいてんのか?
あァ?」
朋也(ともや)「つーかおまえオスか?
メスか?
オスなら鍋(なべ)にすんぞ」
ボタン「ぷひー!」
不意(ふい)に何(なに)かが迫(せま)ってくる気配(けはい)を感(かん)じた。
ほぼ本能的(ほんのうてき)に、上半身(じょうはんしん)を右(みぎ)に傾(かたむ)ける。
刹那(せつな)、左耳(ひだりみみ)にブオンッ!と凄(すさ)まじい風切(かぜき)り音(おと)がした。
続(つづ)いて地面(じめん)にドグジャッ!
と音(おと)を立(た)ててめり込(こ)む…えーっと…漢和辞典(かんわじてん)…?
朋也(ともや)「………」
まさかと思(おも)いつつも後(うし)ろを振(ふ)り返(かえ)る。
心当(こころあ)たりのある三階(さんがい)、俺(おれ)のクラスの隣(となり)──3-Eの教室(きょうしつ)。
遠目(とおめ)にもわかるほどの殺気(さっき)を放(はな)つ杏(きょう)の姿(すがた)があった。
朋也(ともや)「って…マジか?」
地面(じめん)にめり込(こ)んでいる漢和辞典(かんわじてん)を見(み)ながらボタンから手(て)を放(はな)す。
この距離(きょり)を投(な)げてきたのか…?
こんなもん当(あ)たってたら死(し)ぬぞ?
つーか、避(さ)けなかったら当(あ)たってたぞ?
ボタン「ぷひぷひ」
そんな俺(おれ)の心境(しんきょう)をよそに、解放(かいほう)されたボタンはまたフンフンと鼻(はな)を鳴(な)らして俺(おれ)に近(ちか)づいてくる。
そして今度(こんど)はちょこんと俺(おれ)の膝(ひざ)の上(うえ)に乗(の)り、鎮座(ちんざ)する。
朋也(ともや)「…?」
ボタン「ぷひ~」
しかもご機嫌(きげん)だ。
どうやら自分(じぶん)の居心地(いごこち)のいい場所(ばしょ)を探(さが)していたらしい。
にしてもニオイを嗅(か)ぐか?
チラリと背後(はいご)を見(み)る。
遠(とお)く離(はな)れた場所(ばしょ)で杏(きょう)が、うんうんと頷(うなず)いている。
ボタン「ぷひ~ぷひ~」
朋也(ともや)「………」
とりあえず背中(せなか)を撫(な)でてやる。
尻尾(しっぽ)がぴこぴこと、嬉(うれ)しそうに動(うご)いた。
可愛(かわい)かったので、しばらくそれを続(つづ)けた。
キーンコーンカーンコーン…。
朋也(ともや)「五時間目(ごじかんめ)が終(お)わったか…」
校舎(こうしゃ)から授業中(じゅぎょうちゅう)にはない賑(にぎ)やかさが溢(あふ)れてくる。
俺(おれ)の膝(ひざ)の上(うえ)で寝(ね)かかっていたボタンも、その気(き)に当(あ)てられてか、耳(みみ)と尻尾(しっぽ)をピクピクと動(うご)かし目(め)を醒(さ)ます。
ボタン「ぷひ~…?」
朋也(ともや)「よぅ、起(お)きたか」
ボタン「ぷひぷひ~」
朋也(ともや)「たぶん、もうちょっとしたらおまえの主人(しゅじん)が…」
たったったったっ…。
朋也(ともや)「来(き)たみたいだな」
背後(はいご)から聞(き)こえる、こちらに向(む)かってくる足音(あしおと)。
ボタン「ぷ、ぷひっ…!」
朋也(ともや)「ん?
どうした?」
ボタン「ぷひ~、ぷひ~…」
突然(とつぜん)、何(なに)かに怯(おび)えるよう身体(しんたい)を震(ふる)わすボタン。
俺(おれ)の膝(ひざ)の上(うえ)で犬(いぬ)のように耳(みみ)を伏(ふ)せている。
声(こえ)「あ、あの…」
朋也(ともや)「ん…?」
振(ふ)り返(かえ)ると、そこにいたのは妹(いもうと)の方(かた)だった。
朋也(ともや)「よぅ、どうした?」
椋(りょう)「あ…その…さっきの時間(じかん)…急(きゅう)に教室(きょうしつ)を出(で)ていったから…」
朋也(ともや)「ああ、そのことか」
朋也(ともや)「別(べつ)に教室(きょうしつ)にいても授業(じゅぎょう)を聞(き)いてるわけじゃないし、退屈(たいくつ)だったからちょうど良(よ)かった」
椋(りょう)「で、でも…」
朋也(ともや)「それよかこいつ、おまえんとこのだろ?」
椋(りょう)「え?
あ…ボタン…?
どうしてここに?」
朋也(ともや)「たぶん、杏(きょう)に会(あ)いに来(き)たんだと思(おも)うんだけど…」
ボタン「ぷ、ぷひぃ~…」
朋也(ともや)「なんかさっきから震(ふる)えてんだよ。…どうしたんだろうな?」
椋(りょう)「あ…そ、その…きっとそれは…私(わたし)が来(き)たからだと…」
朋也(ともや)「…?」
ボタン「ぷひぃ~…」
椋(りょう)「………」
朋也(ともや)「ひょっとして嫌(きら)われてるのか?」
椋(りょう)「えっと…ぁ…その…」
椋(りょう)「………」
椋(りょう)「…ぉ…おそらく…」
消(き)え入(い)りそうな声(こえ)で言(い)う。
それとほぼ同時(どうじ)くらいか、ボタンがピクンと身体(しんたい)を震(ふる)わせた。
朋也(ともや)「ん?
どうした?」
ボタン「ぷひぷひー」
藤林(ふじばやし)が来(き)た時(とき)とは打(う)って変(か)わって、嬉(うれ)しそうな声(こえ)。
ボタンは俺(おれ)の膝(ひざ)から飛(と)び降(お)りると、藤林(ふじばやし)を大(おお)きく迂回(うかい)して走(はし)った。
そしてその先(さき)。
杏(きょう)「あんた、また来(く)ちゃったのねぇ」
椋(りょう)「お姉(ねえ)ちゃん」
杏(きょう)「よいしょっと」
走(はし)り寄(よ)ってきたボタンを胸(むね)に抱(だ)くと、杏(きょう)は笑(え)みを作(つく)りながらこっちに来(き)た。
杏(きょう)「あれ?
椋(りょう)。なんであんたまでここに?」
椋(りょう)「あ…私(わたし)は…その…」
チラリと俺(おれ)の方(かた)を見(み)る。
朋也(ともや)「実(じつ)は俺(おれ)に愛(あい)の告白(こくはく)をしにきたんだ」
椋(りょう)「え…ええぇーっ?!」
朋也(ともや)「放課後(ほうかご)まで待(ま)てないってんだから、見(み)かけに寄(よ)らず大胆(だいたん)だよな」
椋(りょう)「あ…わわ…そ、そんなことは…その…」
顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしながらしどろもどろしている。
杏(きょう)「椋(りょう)…あんたって結構(けっこう)やるわねぇ」
椋(りょう)「え…あ…う…そ、そんな…ちがう…」
泣(な)きそうだ…。
朋也(ともや)「ちなみに冗談(じょうだん)だぞ」
杏(きょう)「わかってるわよ」
椋(りょう)「あ…う…ぅ…」
杏(きょう)「大方(おおかた)、授業中(じゅぎょうちゅう)に教室(きょうしつ)を放(ほう)り出(だ)されたあんたを心配(しんぱい)して見(み)に来(き)たんでしょ」
ふぅ、と呆(あき)れたようにため息(いき)をつきながら言(い)う。
隣(となり)では藤林(ふじばやし)が、顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしたまま、コクコクと大袈裟(おおげさ)に首(くび)を縦(たて)に振(ふ)っていた。
杏(きょう)「ま、ボタンの面倒見(めんどうみ)てくれてたことには礼(れい)を言(い)っとくわ」
朋也(ともや)「だったら形(かたち)になるもんで示(しめ)せ」
杏(きょう)「六時間目(ろくじかんめ)も面倒見(めんどうみ)ててくれたらジュースおごったげる」
朋也(ともや)「なめんなよ」
杏(きょう)「どうせ授業(じゅぎょう)聞(き)いてないんでしょ?」
朋也(ともや)「寝(ね)てても出席(しゅっせき)扱(あつか)いにはなるんだ。貴重(きちょう)なポイントを無駄(むだ)にさせるな」
杏(きょう)「明日(あした)のお昼(ひる)ご飯(はん)もつけるからさ」
朋也(ともや)「まかせとけ」
ドン、と胸(むね)を叩(たた)いて快諾(かいだく)する。
それを見(み)てボタンも嬉(うれ)しそうに、ぷひぷひと鼻(はな)をならす。
椋(りょう)「あ…あの…」
朋也(ともや)「ん?
なんだ?」
椋(りょう)「あ…その…そういうのは…いけないと思(おも)います…」
朋也(ともや)「別(べつ)に授業(じゅぎょう)なんて聞(き)いてないんだからかまわないだろ」
椋(りょう)「そ、それでも…そういうのはいけないと…思(おも)います…」
朋也(ともや)「だってよ、どうよお姉(ねえ)ちゃん?」
杏(きょう)「当然(とうぜん)でしょ。授業(じゅぎょう)をさぼんのは、ダメに決(き)まってんじゃない」
朋也(ともや)「喧嘩売(けんかう)ってんのか…」
椋(りょう)「あの…岡崎(おかざき)くん…」
朋也(ともや)「うん?」
椋(りょう)「じゅ…授業(じゅぎょう)は…ちゃんと出(で)た方(ほう)がいいと思(おも)います」
朋也(ともや)「…ああ、そうだな」
朋也(ともや)「でも、そのウリボウはどうするんだ」
朋也(ともや)「放課後(ほうかご)までほったらかしにしとくのか?」
椋(りょう)「あ…その…それは…」
ボタン「ぷひ~…」
キーンコーンカーンコーン…。
朋也(ともや)「授業(じゅぎょう)が始(はじ)まるな」
椋(りょう)「あ…わわ…どうしよう…」
鳴(な)り響(ひび)くチャイムの音(おと)に、わたわたと取(と)り乱(みだ)す藤林(ふじばやし)。
ボタンはその様子(ようす)を、尻尾(しっぽ)を振(ふ)りながら見(み)ている。
杏(きょう)「しょうがないわね」
そんな中(なか)、杏(きょう)が息(いき)をつきながら一歩(いっぽ)前(まえ)に出(で)た。
杏(きょう)「あたしが教室(きょうしつ)に連(つ)れてくわ」
朋也(ともや)「連(つ)れてくわって…さすがにそれはマズイだろ?」
杏(きょう)「大丈夫(だいじょうぶ)よ。ね、ボタン」
ボタン「ぷひ?」
杏(きょう)「『ぬいぐるみ』よ」
ボタン「ぷひー
ぷひー」
朋也(ともや)「…なんだそれは…?」
杏(きょう)「ボタンの七(なな)つ芸(げい)の一(ひと)つよ」
ボタン「ぷひっ」
杏(きょう)「ボタン、はい」
ボタン「ぷ…」
杏(きょう)の合図(あいず)と共(とも)に、ボタンはピン!と身体(しんたい)を硬直(こうちょく)させた。
そしてそのまま微動(びどう)だにしない…。
瞬(またた)きはおろか、呼吸(こきゅう)の様子(ようす)さえ窺(うかが)えない。
朋也(ともや)「…まさか…そのまま人形(にんぎょう)のフリをして教室(きょうしつ)に…?」
杏(きょう)「すごいでしょ」
朋也(ともや)「アホだろ」
杏(きょう)「あ?」
朋也(ともや)「そのままで50分(ぷん)も保(も)つわけねぇだろ」
杏(きょう)「保(も)つわよ。前(まえ)にこのまま水(みず)ん中(なか)に沈(しず)めちゃって10分(ぷん)くらい忘(わす)れてたことあるんだから」
それは動物虐待(どうぶつぎゃくたい)だ…。
椋(りょう)「あ、あの…早(はや)く教室(きょうしつ)に戻(もど)らないと…その…先生(せんせい)が…」
杏(きょう)「あー、いっけない。もうチャイム鳴(な)ったんだった」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にそのぬいぐるみ化(か)で大丈夫(だいじょうぶ)なのか?」
杏(きょう)「平気(へいき)平気(へいき)。そんなに疑(うたが)うなら、はい」
そう言(い)ってポンとボタンを俺(おれ)の胸(むね)に押(お)しつける。
朋也(ともや)「…?」
杏(きょう)「あんたに渡(わた)しとく」
朋也(ともや)「渡(わた)しとくって…?」
杏(きょう)「ちゃんとそのままでいれるか確認(かくにん)したいでしょ?」
杏(きょう)「だからあんたに渡(わた)しとく。その仔(こ)、膝(ひざ)の上(うえ)において授業(じゅぎょう)受(う)けてみて」
朋也(ともや)「マジか?」
杏(きょう)「あたしとボタンを信用(しんよう)しなさいって」
朋也(ともや)「………」
自分(じぶん)から信用(しんよう)しろと言(い)う人間(にんげん)ほど信用(しんよう)できないものはない…。
杏(きょう)「んじゃ、よろしく~」
朋也(ともや)「杏(きょう)」
杏(きょう)「んえ?」
校舎(こうしゃ)に向(む)かおうとしていた杏(きょう)を呼(よ)び止(と)める。
そして振(ふ)り返(かえ)ったところにボタンを投(な)げつけた。
杏(きょう)「うわわわっ!」
女(おんな)とは思(おも)えない声(こえ)をあげながら、キリモミ状(じょう)に飛(と)ぶボタンをなんとかキャッチする。
朋也(ともや)「ナイスキャッチ」
俺(おれ)は親指(おやゆび)を立(た)てて笑顔(えがお)で言(い)う。
杏(きょう)「あ──…あんたねぇ!
泣(な)くまで殴(なぐ)られたいの?!」
杏(きょう)「謝(あやま)ってから+5発(はつ)は蹴(け)るわよ?!
ん?!」
朋也(ともや)「おまえのペットだろう。ちゃんとおまえが面倒(めんどう)みてろ」
杏(きょう)「ちゃんと50分(ぽん)保(も)つって言(い)ってるでしょ」
朋也(ともや)「だったらおまえが持(も)ってても問題(もんだい)ないだろ」
朋也(ともや)「そもそも、男(おとこ)の俺(おれ)がぬいぐるみ持(も)って教室(きょうしつ)に戻(もど)りゃ変(へん)だろうが」
杏(きょう)「かわいげがあっていいじゃない」
朋也(ともや)「…本当(ほんとう)にそう思(おも)うか?」
杏(きょう)「立前(たてまえ)に決(き)まってるでしょ。本音(ほんね)は、うわっ…キモ…って感(かん)じね」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に俺(おれ)は持(も)っていかないからなっ!」
杏(きょう)「別(べつ)にもう頼(たの)む気(き)なんてないわよ」
杏(きょう)はムスっとした顔(かお)で踵(きびす)を返(かえ)すと、校舎(こうしゃ)の方(かた)に歩(ある)いていった。
そして授業中(じゅぎょうちゅう)──…。
声(こえ)『うわぁーー!
ぬいぐるみが動(うご)いたぁー!』
声(こえ)『なんだこれ!?
速(はや)いっ!』
杏(きょう)『わ、わ、わわっ!
ボタン待(ま)てっ!
ストップよ!』
春原(すのはら)「なんか隣(となり)の教室(きょうしつ)賑(にぎ)やかだね?」
朋也(ともや)「…そうだな…」
壁(かべ)の向(む)こうから聞(き)こえてくる騒々しい声(こえ)。
事態(じたい)の内容(ないよう)に気(き)づいているんだろう、藤林(ふじばやし)が落(お)ち着(つ)きなく黒板(こくばん)と壁(かべ)とを交互(こうご)に見(み)ている。
預(あず)からなくてよかった…。
心(こころ)の底(そこ)からそう思(おも)った。
そしてHRが終(お)わり、放課後(ほうかご)に。
2-C。そのプレートの下(した)に俺(おれ)たちは集(あつ)まっていた。
帰(かえ)り支度(したく)をする連中(れんちゅう)が、俺(おれ)たちのことを訝(いぶか)しげな目(め)でちらちらと見(み)ていた。
上級生(じょうきゅうせい)が三人(さんにん)、教室(きょうしつ)の入(い)り口(ぐち)でたむろしていれば、帰(かえ)りにくいことだろう。
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)、訊(き)いてきてくれ。俺(おれ)と春原(すのはら)はここで待(ま)ってるから」
古河(ふるかわ)「はい」
素直(すなお)に頷(うなず)いて、古河(ふるかわ)はとことこと教室(きょうしつ)に入(はい)っていった。
ひとりの女生徒(じょせいと)を捕(つか)まえて、質問(しつもん)を投(な)げかける。
女生徒(じょせいと)が窓際(まどぎわ)を指(さ)さした。
そこにはもうひとりの女生徒(じょせいと)がいた。
古河(ふるかわ)は礼(れい)を言(い)ってから、窓際(まどぎわ)に向(む)かって歩(ある)いていった。
そして、そこに居(い)た女生徒(じょせいと)と話(はなし)を始(はじ)めた。
春原(すのはら)「おい、てめぇっ」
春原(すのはら)「今(いま)わざと、目線(めせん)逸(そ)らせたよなぁ?」
春原(すのはら)は通(とお)り抜(ぬ)けていく男子生徒(だんしせいと)に因縁(いんねん)をつけて、暇(ひま)を潰(つぶ)していた。
俺(おれ)はじっと、古河(ふるかわ)の様子(ようす)を見(み)ていた。
笑(え)みを作(つく)りながら、手(て)を大(おお)きく動(うご)かして、必死(ひっし)に訴(うった)えていた。
しばらくすると、今度(こんど)は聞(き)き手(て)になった。
物静(ものしず)かな印象(いんしょう)の女生徒(じょせいと)の話(はなし)を何度(なんど)も頷(うなず)きながら聞(き)いていた。
やがて教室(きょうしつ)にはふたりだけとなった。
春原(すのはら)「もう入(はい)ってもいいんじゃないの?」
春原(すのはら)がそう俺(おれ)に言(い)った。
朋也(ともや)「ああ。だな」
俺(おれ)たちも、中(なか)に入(はい)った。
春原(すのはら)「どうも、演劇部(えんげきぶ)っす」
威圧(いあつ)するように、春原(すのはら)が挨拶(あいさつ)した。
朋也(ともや)「悪(わる)いな、押(お)し掛(か)けて」
女生徒(じょせいと)「いえ」
女生徒(じょせいと)は顔(かお)を伏(ふ)せた。
朋也(ともや)「どうなんだ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「えっと…その…困(こま)ってます」
朋也(ともや)「どうした、話(はな)してみろ」
古河(ふるかわ)「仁科(にしな)さん、合唱部(がっしょうぶ)を作(つく)りたいそうなんです」
古河(ふるかわ)「それで、やっぱりわたしたちと同(おな)じで、顧問(こもん)がいなくて…」
古河(ふるかわ)「そこで、先日(せんじつ)、幸村先生(こうむらせんせい)に、お願(ねが)いしたんだそうです」
古河(ふるかわ)「ただその時(とき)は、まだ入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)がいなくて、仁科(にしな)さんひとりだったんですけど…」
古河(ふるかわ)「それでも、その日(ひ)から時間(じかん)をかけて、三人(さんにん)集(あつ)めたんだそうです」
古河(ふるかわ)「仁科(にしな)さん、すごくがんばりました」
古河(ふるかわ)「………」
朋也(ともや)「そっか…そりゃ、困(こま)ったな」
古河(ふるかわ)「はい。わたしたちも幸村先生(こうむらせんせい)に顧問(こもん)をお願(ねが)いしたいです」
古河(ふるかわ)「でも、仁科(にしな)さんもお願(ねが)いしたいんです」
古河(ふるかわ)「どうしましょう」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)は俺(おれ)の顔(かお)をじっと見(み)ていた。
朋也(ともや)「別(べつ)の先生(せんせい)を当(あ)たってみるか…」
妥協案(だきょうあん)を出(だ)してみた。
仁科(にしな)「当(あ)たってみましたけど…」
合唱部(がっしょうぶ)の子(こ)が顔(かお)を伏(ふ)せたまま、口(くち)を開(ひら)いた。
仁科(にしな)「顧問(こもん)をしていないのは、幸村先生(こうむらせんせい)と、後(あと)は教頭先生(きょうとうせんせい)とか校長先生(こうちょうせんせい)ぐらいでした」
仁科(にしな)「………」
春原(すのはら)「取(と)り合(あ)いだなぁ」
春原(すのはら)「でも、僕(ぼく)たち先輩(せんぱい)だしなぁ」
朋也(ともや)「やめとけって」
古河(ふるかわ)「引(ひ)き留(とど)めてしまって、ごめんなさいです」
古河(ふるかわ)「わたしたち、話(はな)し合(あ)ってから…また来(き)ます」
古河(ふるかわ)「それでは、また」
ぺこりと二年生(にねんせい)に向(む)かって頭(あたま)を下(さ)げてから、古河(ふるかわ)は俺(おれ)たちを教室(きょうしつ)の外(そと)まで押(お)し出(だ)した。
春原(すのはら)「さっきも言(い)ったけど、こっちは上級生(じょうきゅうせい)だからね」
春原(すのはら)「放(ほう)っておけば、向(む)こうが引(ひ)いてくれるよ」
古河(ふるかわ)「それはダメです」
古河(ふるかわ)「わたしたちは、一緒(いっしょ)のはずです」
古河(ふるかわ)「同(おな)じ、スタート地点(ちてん)に居(い)たはずです」
古河(ふるかわ)「ですから、少(すこ)し年上(としうえ)だからって、そんなことで決(き)めてしまってはダメです」
古河(ふるかわ)「しかも、こっちはわたしひとりです。入部希望(にゅうぶきぼう)は…」
古河(ふるかわ)「あの子(こ)にも嘘(うそ)をついてしまいました」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「あの子(こ)はがんばって、必死(ひっし)で三人(さんにん)集(あつ)めたんです」
古河(ふるかわ)「スタートは同(おな)じでも、もう差(さ)はついてしまってるのかもしれません」
朋也(ともや)「いや、おまえだって頑張(がんば)ってる。必死(ひっし)だ。それは俺(おれ)がよく知(し)ってる」
古河(ふるかわ)「………」
朋也(ともや)「諦(あきら)めるな。まだ頑張(がんば)れ。きっと手(て)があるはずだからな」
春原(すのはら)「んなもん、あるのかねぇ」
朋也(ともや)「おまえな…」
春原(すのはら)「ありゃ、今(いま)のは失言(しつげん)だったか」
春原(すのはら)「悪(わる)い悪(わる)い。んな恐(こわ)い顔(かお)すんなって」
春原(すのはら)「じゃあ、僕(ぼく)はこのへんで退散(たいさん)するよ」
春原(すのはら)「お父(とう)さんお母(かあ)さんにもよろしくね」
古河(ふるかわ)「え…あ、はい」
古河(ふるかわ)「今日(きょう)はありがとうございました」
古河(ふるかわ)に見送(みおく)られ、春原(すのはら)は姿(すがた)を消(け)す。
朋也(ともや)「ちっ…あいつは…ったく」
古河(ふるかわ)「でも、本当(ほんとう)に、今日(きょう)は楽(たの)しかったです」
朋也(ともや)「え?」
古河(ふるかわ)「みんなでひとつのことに向(む)けて、がんばるのって、とても楽(たの)しいです」
結果(けっか)なんて、何一(なにひと)つ伴(ともな)わなかったのに…
それでも、最後(さいご)に笑(わら)っていられる神経(しんけい)が俺(おれ)には理解(りかい)できなかった。
古河(ふるかわ)「…えへへ」
でも、古河(ふるかわ)がそうしてくれるだけで…
奔走(ほんそう)した、今日(きょう)一日(いちにち)が報(むく)われた気(き)がした。
古河(ふるかわ)と並(なら)んで、坂(さか)を下(お)りる。
春原(すのはら)「お、いいところに来(き)たな」
春原(すのはら)にまた会(あ)う。
朋也(ともや)「なんだよ」
春原(すのはら)「手伝(てつだ)えよ」
朋也(ともや)「また、ギターでも聴(き)いてもらいにいくのか?」
春原(すのはら)「いいや、今日(きょう)は違(ちが)うんだな」
朋也(ともや)「なんだよ。金(かね)ならないぞ」
朋也(ともや)「なにすんだよ」
春原(すのはら)「今(いま)から、僕(ぼく)の部屋(へや)をすげぇサイバーにするんだ」
朋也(ともや)「どうやって」
春原(すのはら)「2年(ねん)の奴(やつ)から、テレビとビデオデッキ借(か)りてくるんだ」
朋也(ともや)「超(ちょう)サイバーだな」
春原(すのはら)「しかも、そいつ、かなりのマニアらしくてさ…ビデオもたくさん持(も)ってんだよねっ」
春原(すのはら)「やべぇ、学校(がっこう)来(こ)なくなるかも…」
朋也(ともや)「明日(あした)からエロ原陽平(はらようへい)、と呼(よ)んでやるな」
春原(すのはら)「んなこと言(い)って、兄(にい)さんも、好(す)きなんだろう?」
朋也(ともや)「そりゃ嫌(きら)いじゃないが…男(おとこ)ふたり肩(かた)を並(なら)べて見(み)るってのはどうかと思(おも)うぞ」
春原(すのはら)「はは、そんときになりゃ、気(き)を利(き)かせてどっちかが外(そと)に出(で)ればいいさっ」
朋也(ともや)「嫌(いや)な気(き)の回(まわ)し方(かた)だな…」
春原(すのはら)「よし、いこうぜ」
手伝わない
春原(すのはら)がひとりで歩(ある)いていく。
………。
……。
…。
春原(すのはら)「って、来(こ)ないのかよっ!」
戻(もど)ってきた。
朋也(ともや)「めんどい」
春原(すのはら)「おまえも、見(み)たいんだろ?」
朋也(ともや)「取(と)り立(た)てては」
春原(すのはら)「んなこと言(い)わずに、手伝(てつだ)ってくれよぉ」
朋也(ともや)「テレビとビデオデッキなんて、持(も)って歩(ある)きたくねぇよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)以外(いがい)に頼(たの)めよ」
春原(すのはら)「ちっ…そうかよ…」
春原(すのはら)「わかったよ…」
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)になんて、見(み)せてやるもんかぁーっ!」
子供(こども)のように、走(はし)り去(さ)っていった。
朋也(ともや)「ふぅ…」
朋也(ともや)「帰(かえ)るか」
黙(だま)って待(ま)っていた古河(ふるかわ)を振(ふ)り返(かえ)る。
古河(ふるかわ)「はい」
夜(よる)はいつものように春原(すのはら)の部屋(へや)。
朋也(ともや)「ビデオ見(み)ようぜ」
朋也(ともや)「って、ないじゃん。なんで?」
春原(すのはら)「あんたが手伝(てつだ)わなかったからですよっ!」
春原(すのはら)「あんな重(おも)いもの、ひとりで持(も)ってこれるかよっ」
春原(すのはら)「はーぁ…」
退屈(たいくつ)そうに、仰向(あおむ)けに転(ころ)がる。
朋也(ともや)「おまえ、そんな暇(ひま)なんだったらギターの練習(れんしゅう)でもすれば」
ギターはケースに入(はい)ったまま、すでに春原(すのはら)の脱(ぬ)ぎ捨(す)てた衣服(いふく)の下(した)に埋(う)もれていた。
春原(すのはら)「ああ…ギターね…」
春原(すのはら)「借(か)りた奴(やつ)に聞(き)いたんだけどさ、先(さき)が長(なが)すぎるよ、あれ…」
春原(すのはら)「なんつーの?
楽(たの)しくなるまでが長(なが)いっつーかさー」
朋也(ともや)「おまえ、うまくなって、芳野祐介(よしのゆうすけ)に聴(き)いてもらうんじゃなかったのか」
春原(すのはら)「ああ、そんなことも言(い)っていたねぇ…」
朋也(ともや)「おまえ、むちゃくちゃやる気(き)だったじゃないかよ…」
春原(すのはら)「そういや、芳野(よしの)さんの名刺(めいし)もらったこと、妹(いもうと)に言(い)ったら、すげぇあいつ驚(おどろ)いててさ…」
春原(すのはら)「じゃ、名刺(めいし)やるよって言(い)ったら、超(ちょう)喜(よろこ)んでさ…」
つまり…もう十分(じゅうぶん)なわけね…。
予想(よそう)通(とお)りというか…。
朋也(ともや)「友達(ともだち)として、情(なさ)けない…」
春原(すのはら)「あん?
なにが?」
春原(すのはら)「つーかさー、やっぱ音楽(おんがく)っていったら、ヒップホップじゃん?」
春原(すのはら)「ボンバヘッ聴(き)こうぜ」
朋也(ともや)「やめてくれ…」
それに比(くら)べれば、よっぽど、芳野祐介(よしのゆうすけ)の歌(うた)のほうが俺(おれ)には合(あ)っていた。
まだ、一曲(いっきょく)しか知(し)らなかったけど。
来月(らいげつ)は無駄遣(むだづか)いを控(ひか)えて、CDを買(か)おう…そう決(き)めた。
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seagull - 2009/4/28 17:16:00
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4月23日()

,0,]
古河(ふるかわ)「おはようございますっ」
朋也(ともや)「ああ、おはよ」
いつものように、古河(ふるかわ)が寄(よ)ってきて、隣(となり)に並(なら)ぶ。
古河(ふるかわ)「今日(きょう)は眠(ねむ)たくないですか?」
朋也(ともや)「ああ…そんなには」
古河(ふるかわ)「じゃあ、授業(じゅぎょう)に集中(しゅうちゅう)できますっ」
朋也(ともや)「今更(いまさら)、集中(しゅうちゅう)しても、何(なに)も変(か)わらないんだけどな…」
古河(ふるかわ)「そんなことないです。授業(じゅぎょう)はいいものです」
古河(ふるかわ)「テストでいい点(てん)を取(と)るためだけに、受(う)けるものじゃないです」
古河(ふるかわ)「わたしはそう思(おも)います」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんは、そう思(おも)わないですか?」
朋也(ともや)「思(おも)わないよ」
古河(ふるかわ)「そうですか…」
全然(ぜんぜん)面白(おもしろ)くない会話(かいわ)。
それでも、必死(ひっし)に話題(わだい)を探(さが)す古河(ふるかわ)の一生懸命(いっしょうけんめい)さだけは伝(つた)わってくる。
だから面白(おもしろ)くなくてもよかった。
少(すく)なくとも居心地(いごこち)は良(よ)かったから。
朋也(ともや)「そういや、おまえって、頭(あたま)いいのか?」
坂(さか)を登(のぼ)る途中(とちゅう)で、そんなことを訊(き)いてみた。
古河(ふるかわ)「え?」
古河(ふるかわ)「…いいわけないです」
ちょっと迷(まよ)ってから、そう答(こた)えた。その答(こた)えが身分相応(みぶんそうおう)だとばかりに。
朋也(ともや)「でも、成績(せいせき)悪(わる)くてダブッたわけじゃないんだから、そこそこなんだろ」
朋也(ともや)「入学試験(にゅうがくしけん)だって、簡単(かんたん)なわけじゃないんだしさ」
古河(ふるかわ)「普通(ふつう)に点数(てんすう)とれるのは一学期(いちがっき)だけです」
古河(ふるかわ)「だんだん休(やす)みがちになって、授業(じゅぎょう)受(う)けられなくなって…」
古河(ふるかわ)「しまいには、ついていけなくなってしまいます」
朋也(ともや)「でも、今年(ことし)は去年(きょねん)受(う)けた授業(じゅぎょう)をもう一回(いっかい)受(う)けてるわけなんだから、楽(らく)なんじゃないのか?」
古河(ふるかわ)「それはそうかもしれないですけど…」
朋也(ともや)「それでも十分(じゅうぶん)。テストの時(とき)は、頼(たの)むな」
古河(ふるかわ)「え、わたしですか?」
朋也(ともや)「ああ」
古河(ふるかわ)「…わかりました」
古河(ふるかわ)「力(ちから)及(およ)ばないかもしれないですが、教(おし)えられるようにがんばってみます」
朋也(ともや)「ヤマだけでいいからな」
古河(ふるかわ)「え…そんなのわたし、わからないです」
古河(ふるかわ)「まんべんなく勉強(べんきょう)しないと、いい点(てん)なんて取(と)れないと思(おも)います」
朋也(ともや)「なんでだよ…そんなの一晩(ひとばん)じゃ無理(むり)じゃん」
古河(ふるかわ)「もちろん無理(むり)です。積(つ)み重(かさ)ねが大事(だいじ)ですから」
朋也(ともや)「ちっ…おまえが一緒(いっしょ)のクラスだったらなぁ」
古河(ふるかわ)「あ、それはわたしも思(おも)います」
朋也(ともや)「だったらカンニングできたのに」
古河(ふるかわ)「それは思(おも)わないですっ」
昇降口(しょうこうぐち)を抜(ぬ)け、上履(うわば)きに替(か)えて古河(ふるかわ)を待(ま)つ。
一向(いっこう)に来(こ)ないから、古河(ふるかわ)のクラスの下駄箱(げたばこ)を覗(のぞ)いてみる。
古河(ふるかわ)はそこでじっと立(た)って、手(て)に持(も)った紙切(かみき)れに見入(みい)っていた。
朋也(ともや)「なんだ、それ」
古河(ふるかわ)「わっ…」
さっと後(うし)ろに隠(かく)す。
朋也(ともや)「むちゃくちゃ気(き)になる反応(はんのう)だな」
古河(ふるかわ)「そ、そんなことないです。とてもつまらないものです」
朋也(ともや)「じゃ、見(み)せてくれよ」
古河(ふるかわ)「それはダメです」
朋也(ともや)「どうして」
古河(ふるかわ)「それは…とてもおもしろくないからです。岡崎(おかざき)さん、がっかりします」
朋也(ともや)「別(べつ)にいいって。俺(おれ)がそれを見(み)て、おまえが迷惑(めいわく)するもんじゃないんだろ?」
古河(ふるかわ)「それは、そうなんですけど…」
正直(しょうじき)でよろしい。
その腰(ごし)から見(み)えていた白(しろ)い紙(かみ)を、さっと奪(うば)い取(と)る。
古河(ふるかわ)「あっ…ダメですっ」
読(よ)んでみる。
『演劇部(えんげきぶ)をあきらめろ。さもないと痛(いた)い目(め)にあうぞ』
定規(じょうぎ)で引(ひ)っ張(ぱ)ったような直線(ちょくせん)のみの筆跡(ひっせき)で書(か)かれていた。
朋也(ともや)「あん?
なんだこれ」
古河(ふるかわ)「えっと…それは…」
朋也(ともや)「脅迫(きょうはく)されてんじゃん、おまえ」
古河(ふるかわ)「いえ、きっと冗談(じょうだん)です」
朋也(ともや)「だとしても質(しつ)の悪(わる)い冗談(じょうだん)だ。そうは思(おも)わないか」
俺(おれ)は昨日(きのう)の放課後(ほうかご)に会(あ)った少女(しょうじょ)の顔(かお)を思(おも)い浮(う)かべる。
朋也(ともや)「こんなことするような奴(やつ)には見(み)えなかったけどな…」
古河(ふるかわ)「もちろんですっ、絶対(ぜったい)にこんなことしないですっ。あの子(こ)を信(しん)じてあげてください」
朋也(ともや)「ああ、たぶん、あいつ以外(いがい)の部員(ぶいん)の仕業(しわざ)だろう」
古河(ふるかわ)「そんな…まだ会(あ)ってもない子(こ)を疑(うたが)うなんてダメです」
朋也(ともや)「まぁ、そうだろうけどさ…」
古河(ふるかわ)の目(め)が俺(おれ)を非難(ひなん)し始(はじ)めていたので、折(お)れることにする。
朋也(ともや)「わかった、まだ誰(だれ)も疑(うたが)っていない」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「しかしな、一応(いちおう)注意(ちゅうい)しておけよ」
古河(ふるかわ)「なにをですか?」
朋也(ともや)「…その、周(まわ)りにだよ」
古河(ふるかわ)「どうしてでしょうか」
…だから、ここに、痛(いた)い目(め)に遭(あ)うって書(か)いてあるじゃないか。
その言葉(ことば)を飲(の)み込(こ)む。言(い)ってしまえば、また、俺(おれ)が非難(ひなん)される。
朋也(ともや)(つーことは、なんだ…)
朋也(ともや)(俺(おれ)が、こいつのことを四六時中(しろくじちゅう)監視(かんし)してろと?)
朋也(ともや)「無理(むり)だっての…」
古河(ふるかわ)「どうしました?」
朋也(ともや)「いや…」
古河(ふるかわ)「そろそろ教室(きょうしつ)行(い)きませんか」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
古河(ふるかわ)「わ…」
歩(ある)き出(だ)した古河(ふるかわ)の体(からだ)が不自然(ふしぜん)に揺(ゆ)れた。
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)っ」
俺(おれ)は後(うし)ろからその体(からだ)を抱(だ)き留(と)める。
温(あたた)かく柔(やわ)らかい。
そして、鼻先(はなさき)に触(ふ)れた髪(がみ)から、いい匂(にお)いがした。
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「あ、ありがとうございます…」
古河(ふるかわ)「ちょっとつまずいただけですから…その、大丈夫(だいじょうぶ)です」
朋也(ともや)「あ、ああ、そうか…」
手(て)を放(はな)す。
朋也(ともや)(あんな脅迫(きょうはく)の後(あと)だったから、思(おも)いっきり抱(だ)きしめてしまったじゃねぇか…)
朋也(ともや)(誰(だれ)も見(み)てなかっただろうな…)
振(ふ)り返(かえ)る。
春原(すのはら)「よぅ」
すぐそこに春原(すのはら)がいた。
朋也(ともや)「おまえ…いつから居(い)た」
よりにもよって、こんな早(はや)くに…。
春原(すのはら)「おまえが古河(ふるかわ)を押(お)し倒(たお)そうとして、失敗(しっぱい)したところから」
朋也(ともや)「そうか…ならいいが」
朋也(ともや)「って、んな場面(ばめん)なかっただろっ!」
春原(すのはら)「思(おも)いっきり抱(だ)きしめてたじゃん」
朋也(ともや)「抱(だ)きしめてねぇよっ。こいつが転(こ)けそうだったから、庇(かば)ってやっただけだっ」
春原(すのはら)「そうか?
後(うし)ろから見(み)てたら、とてもそうは見(み)えなかったけどな」
春原(すのはら)「ものすごい勢(いきお)いだったからなぁ。がばぁっとさ」
朋也(ともや)「それなりの理由(りゆう)があんだよ、馬鹿(ばか)」
春原(すのはら)「理由(りゆう)って?」
朋也(ともや)「これだ」
紙切(かみき)れを渡(わた)す。
その直後(ちょくご)に俺(おれ)は自分(じぶん)の馬鹿(ばか)さ加減(かげん)に気(き)づいた。
思(おも)いっきり春原(すのはら)のペースに填(は)められていたのだ、俺(おれ)は。
春原(すのはら)「へぇ、脅迫状(きょうはくじょう)ねぇ。おもしろくなってきたじゃないの」
こいつにだけは見(み)せてはならなかったのだ。
春原(すのはら)「もう、いいだろ。合唱部(がっしょうぶ)潰(つぶ)しにかかるぜ?」
手(て)を組(く)んで、指(ゆび)をぽきぽきと鳴(な)らした。
古河(ふるかわ)「ダ、ダメですっ!」
古河(ふるかわ)が叫(さけ)んでいた。
古河(ふるかわ)「仁科(にしな)さんたちの仕業(しわざ)って決(き)めつけたらダメですっ」
古河(ふるかわ)「あの子(こ)は…あの子(こ)たちは、そんなことしないです」
古河(ふるかわ)「みんなで力(ちから)を合(あ)わせて歌(うた)を歌(うた)おうとしてるんですっ。そんなことするはずがないですっ」
こんなに大声(おおごえ)を出(だ)す古河(ふるかわ)を初(はじ)めて見(み)た。
春原(すのはら)「果(は)たしてそうかなぁ」
だが、春原(すのはら)に気圧(きあつ)される様子(ようす)はない。
こいつの目的(もくてき)はすでにすり替(か)わっていたのだ。
パン食(く)い放題権(ほうだいけん)の獲得(かくとく)から、合唱部(がっしょうぶ)を叩(たた)く、という目的(もくてき)に。
血(ち)の気(け)が多(おお)いこいつにとっては、格好(かっこう)の暇(ひま)つぶしであって、そっちのほうが楽(たの)しいに違(ちが)いない。
春原(すのはら)「どう見(み)ても、あいつらの仕業(しわざ)じゃん。他(あだ)に誰(だれ)が廃部(はいぶ)になってる演劇部(えんげきぶ)なんかを目(め)の敵(かたき)にするっていうのさ」
春原(すのはら)「な、言(い)ってみてよ」
朋也(ともや)「やめろよ、馬鹿(ばか)っ」
春原(すのはら)「おまえだって、そう思(おも)ってるくせに」
古河(ふるかわ)「そうなんですか…?」
古河(ふるかわ)「みんなで、仁科(にしな)さんたちの仕業(しわざ)って…そう思(おも)ってるんですか?」
春原(すのはら)「そんなの当然(とうぜん)だろ」
春原(すのはら)「な、岡崎(おかざき)っ」
違う
朋也(ともや)「違(ちが)う」
春原(すのはら)「はい?
おまえ、マジで言(い)ってんの?」
朋也(ともや)「ああ、マジだ。女(おんな)の子(こ)が三人(さんにん)寄(よ)っただけの合唱部(がっしょうぶ)にこんなことする度胸(どきょう)はないはずだ」
春原(すのはら)「逆(ぎゃく)に女(おんな)のほうがこんなことするんだよ」
春原(すのはら)「世界中(せかいじゅう)の女(おんな)がこの子(こ)みたいな性格(せいかく)だって思(おも)ってんじゃないだろうな」
朋也(ともや)「世界中(せかいじゅう)が…」
朋也(ともや)「だんごで…埋(う)め尽(つ)くされるっ!?」
古河(ふるかわ)「誰(だれ)もそんなこと言(い)ってないです」
朋也(ともや)「ああ、そうか…」
春原(すのはら)「とにかく、だ。あんたらがそういうなら、僕(ぼく)はここから勝手(かって)にやらせてもらう。いいな」
古河(ふるかわ)「ダメですっ」
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さん、お願(ねが)いします。やめてください」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)「…ちっ」
………。
休(やす)み時間(じかん)。
男子(だんし)「幽霊(ゆうれい)?」
前(まえ)の席(せき)のふたりが、参考書(さんこうしょ)を手(て)に持(も)ったまま、話(はな)し込(こ)んでいた。
男子(だんし)A「ああ、ここんとこ、よく目撃(もくげき)されてるらしいよ。例(れい)の女生徒(じょせいと)の霊(れい)」
男子(だんし)B「マジ…?」
退屈(たいくつ)な話題(わだい)だった。でも、聞(き)きたくなくても、聞(き)こえてくる。
男子(だんし)A「その女生徒(じょせいと)を知(し)ってる奴(やつ)がいてさ、そいつが言(い)うには絶対(ぜったい)幽霊(ゆうれい)だって」
男子(だんし)B「マジかよ…」
男子(だんし)A「ああ…その女生徒(じょせいと)はね…」
男子(だんし)A「二(に)年前(としまえ)に交通事故(こうつうじこ)に遭(あ)ってるんだ」
男子(だんし)A「長(なが)いこと入院(にゅういん)してたらしいんだけど、結局(けっきょく)助(たす)からなかったんだって…」
男子(だんし)A「事故(じこ)に遭(あ)ったのが、まだ入学(にゅうがく)して間(ま)もない頃(ころ)だったらしくてさ…」
男子(だんし)A「高校生活(こうこうせいかつ)を満喫(まんきつ)できないままで、未練(みれん)が残(のこ)っちゃって…」
男子(だんし)A「それで、霊(れい)になって遊(あそ)びに来(き)てるんだってさ…」
男子(だんし)A「ちょっと悲(かな)しいお話(はなし)だよね」
男子(だんし)B「でもさ…それって、あれだぜ?」
男子(だんし)A「うん?」
男子(だんし)B「その話(はなし)をしてる奴(やつ)ってさ、同(おな)じ三年(さんねん)だろ?」
男子(だんし)A「ああ」
男子(だんし)B「つーことは、あれだよ」
男子(だんし)A「なんだよ」
男子(だんし)B「俺(おれ)たちの興味(きょうみ)をさ、勉強(べんきょう)から逸(そ)らそうとしてんだよ」
男子(だんし)A「えぇ…?」
男子(だんし)B「つまりさ…ライバルを減(へ)らそうとしてるんだって」
男子(だんし)A「うーん、確(たし)かに…それもありえる話(はなし)だけど」
男子(だんし)B「あんまり、真(ま)に受(う)けないほうがいいって」
男子(だんし)A「そうかもな…」
男子(だんし)A「でも、なんか噂(うわさ)が本物(ほんもの)っぽいんだよなぁ」
男子(だんし)A「テレビ局(きょく)とかきてさ、大騒(おおさわ)ぎになるかもよ」
男子(だんし)B「なるわけないだろ」
春原(すのはら)がこの話(はなし)を聞(き)いていたら、どうしただろうか。
今(いま)すぐに、面白(おもしろ)そうだから確(たし)かめにいこう、と俺(おれ)の腕(うで)を引(ひ)っ張(ぱ)っただろうか。
空(あ)いた隣(となり)の席(せき)を見(み)る。
朋也(ともや)(いなくてよかったよ…)
幽霊(ゆうれい)なんているわけがないんだから。
………。
次(つぎ)の休(やす)み時間(じかん)になると、春原(すのはら)は俺(おれ)と古河(ふるかわ)を廊下(ろうか)に呼(よ)びつけた。
春原(すのはら)「犯人(はんにん)、わかったよ」
朋也(ともや)「おまえ、本当(ほんとう)に調(しら)べてやがったのかよ…」
春原(すのはら)「大丈夫(だいじょうぶ)だって。大人(おとな)しくやったから」
春原(すのはら)「で、犯人(はんにん)なんだけど」
春原(すのはら)「やっぱり合唱部(がっしょうぶ)のひとりだった。杉坂(すぎさか)って子(こ)で、それがまた大人(おとな)しそうな顔(かお)した奴(やつ)なんだよ」
朋也(ともや)「なんで、わかったんだよ」
春原(すのはら)「そいつのクラスメイトが見(み)てた」
春原(すのはら)「時間(じかん)は昨日(きのう)の放課後(ほうかご)、遅(おそ)くだ」
春原(すのはら)「三年(さんねん)の下駄箱(げたばこ)なのに、何(なに)やってるんだろう?って不思議(ふしぎ)に思(おも)ったってよ」
春原(すのはら)「下駄箱(げたばこ)のクラスも覚(おぼ)えてた。B組(ぐみ)」
春原(すのはら)「それで、そいつが合唱部(がっしょうぶ)のひとりとなったら、もう間違(まちが)いないよな」
朋也(ともや)「おまえ、それ、ねつ造(つく)してんじゃねぇだろうな」
春原(すのはら)「本当(ほんとう)だっての。見(み)てた奴(やつ)の名前(なまえ)も教(おし)えてやるよ。自分(じぶん)で訊(き)いてこい」
朋也(ともや)「いいよ…」
春原(すのはら)「ふん…まぁ、そういうことだ」
春原(すのはら)「やっぱり女(おんな)ってのはわからないねぇ」
春原(すのはら)「な、わかったろ。自分(じぶん)の考(かんが)えが甘(あま)かったってさ」
黙(だま)りこくっている古河(ふるかわ)に言(い)った。
朋也(ともや)「おまえは黙(だま)ってろ」
春原(すのはら)「おまえね、誰(だれ)のおかげで真相(しんそう)がわかったと思(おも)ってるんだよ」
朋也(ともや)「そんな真相(しんそう)知(し)りたくなかったんだよっ」
古河(ふるかわ)「違(ちが)います」
春原(すのはら)「あん?
何(なに)がだよ」
古河(ふるかわ)「きっとすごく深(ふか)いわけがあるんです」
古河(ふるかわ)「そうしないといけなかった深(ふか)いわけが…」
春原(すのはら)「まだ、この子(こ)は甘(あま)いこと言(い)ってるよ」
春原(すのはら)「みんな汚(きたな)い手段(しゅだん)使(つか)って、自分(じぶん)だけいい目見(まみ)ようって頑張(がんば)ってんだよ」
春原(すのはら)「自分(じぶん)だけが、ルール守(まも)ってたら馬鹿(ばか)みるよ?」
春原(すのはら)「ほら、言(い)ってくれよ、部長(ぶちょう)さん。どんな手(て)を使(つか)ってでもいいから、部(ぶ)を勝(か)ち取(と)ろうってさ」
春原(すのはら)「そうしたら、望(のぞ)み通(とお)りの成果(せいか)をあげてみせるよ?」
古河(ふるかわ)「絶対(ぜったい)に言(い)わないです、そんなことっ」
古河(ふるかわ)「そんなことしたら、真面目(まじめ)にがんばってる子(こ)が可哀想(かわいそう)ですっ」
春原(すのはら)「それ、自分(じぶん)だっての」
朋也(ともや)「おまえ、帰(かえ)れ」
春原(すのはら)「どうしてさ。ここまできたんだから、一緒(いっしょ)にやらせろよ」
朋也(ともや)「帰(かえ)れって。おまえ、むかつくんだよ」
春原(すのはら)「ちっ…その子(こ)のほうが正(ただ)しいって言(い)うのかよ」
背(せ)を向(む)ける春原(すのはら)。
春原(すのはら)「まぁ、いいや。勝手(かって)にやってくれ」
そのまま廊下(ろうか)を歩(ある)いていった。
悪(わる)い奴(やつ)じゃないんだけどな、というフォローも出来(でき)なかった。
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さんは…悪(わる)い人(ひと)ではないです」
朋也(ともや)「え?」
付(つ)き合(あ)いの長(なが)い俺(おれ)ではなく、知(し)り合(あ)ったばかりの古河(ふるかわ)がそのセリフを言(い)っていた。
古河(ふるかわ)「演劇部(えんげきぶ)のためにがんばってくれてます」
古河(ふるかわ)「なのに、わたし、文句(もんく)言(い)ってばっかりで申(もう)しわけないです」
朋也(ともや)「いや、あいつ、楽(たの)しんでるだけだぞ…」
古河(ふるかわ)「そんなことないです。わざわざ下級生(かきゅうせい)の子(こ)に会(あ)って、話(はなし)を聞(き)いたりできないです」
古河(ふるかわ)「ちゃんと、後(あと)でお礼言(れいい)います」
朋也(ともや)「………」
どうして、そこまでできるのだろうか…。
朋也(ともや)「おまえさ、もう古河(ふるかわ)に近寄(ちかよ)るな」
春原(すのはら)「なんでさ」
朋也(ともや)「あまりにも合(あ)わない。おまえら、別世界(べっせかい)の住人(じゅうにん)だよ」
春原(すのはら)「いいじゃん。新鮮(しんせん)だよ」
朋也(ともや)「おまえはな。あいつにすれば、いい迷惑(めいわく)だ」
春原(すのはら)「本人(ほんにん)がそう言(い)ってたの?」
朋也(ともや)「………」
あいつは迷惑(めいわく)していただろうか。
いや…
最後(さいご)には、春原(すのはら)のフォローまでしてたじゃないか…。
春原(すのはら)「言(い)ってないんだろ?」
迷惑(めいわく)どころか、礼(れい)まで言(い)おうとしていた。
春原(すのはら)「それとも、なに?
お気(き)に入(はい)り?」
朋也(ともや)「それはねぇけど」
春原(すのはら)「だったら、いいじゃん」
春原(すのはら)「おまえだって、パン目当(めあ)てなんだしさ」
朋也(ともや)「まぁな…」
今更(いまさら)撤回(てっかい)なんてできなかった。
春原(すのはら)「でも、ほんと、あまりに考(かんが)え方(かた)が違(ちが)ってて、おもしろいよ」
春原(すのはら)「あんな子(こ)、普通(ふつう)は僕(ぼく)らなんかに寄(よ)ってこないからねぇ」
僕(ぼく)ら…
そう、俺(おれ)と春原(すのはら)は同(おな)じ側(がわ)に立(た)つ人間(にんげん)のはずだった。
すべてを斜(はす)に見(み)て、あざ笑(わら)って、いつだって冷(さ)めてて…。
そんなふうに、もう二年(にねん)も学生生活(がくせいせいかつ)を送(おく)ってきていた。
なら、俺(おれ)も春原(すのはら)と同(おな)じように…
物珍(ものめずら)しい何(なに)かを見(み)つけて、それを見(み)て楽(たの)しんでいるだけなのだろうか。
四時間目(よじかんめ)の授業(じゅぎょう)が終(お)わり、昼休(ひるやす)みに。
春原(すのはら)「昼(ひる)はどうするの?
あの子(こ)と一緒(いっしょ)?」
朋也(ともや)「ああ、そうだよ」
春原(すのはら)「例(れい)の人気(にんき)のパン!?」
朋也(ともや)「学食(がくしょく)のパンだよ」
春原(すのはら)「あの子(こ)も?」
朋也(ともや)「ああ、ふたりとも学食(がくしょく)のパンだ」
春原(すのはら)「ちっ、なんだよ…」
朋也(ともや)「おまえは、どうすんだよ」
春原(すのはら)「学食(がくしょく)のパンはさすがに食(く)い飽(あ)きたからね。何(なに)かいい物食(ものは)ってくるよ」
朋也(ともや)「んな金(かね)あんのかよ」
春原(すのはら)「もちろんないけどね」
なくともなんとかなる、と笑(え)みで続(つづ)けて春原(すのはら)は教室(きょうしつ)から出(で)ていった。
朋也(ともや)「ったく、あいつは…」
そして中庭(なかにわ)でいつものように、古河(ふるかわ)と落(お)ち合(あ)う。
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さんは、お誘(さそ)いしなかったんでしょうか」
朋也(ともや)「学食(がくしょく)のパンと聞(き)いたら、飽(あ)きたとか言(い)ってひとりで出(で)ていったよ」
朋也(ともや)「どうせ、誰(だれ)か捕(つか)まえて、昼飯代(ひるめしだい)でもせびってるんだ」
朋也(ともや)「そんな奴(やつ)なんだよ、あいつは…」
朋也(ともや)「自分(じぶん)で快(こころよ)いと思(おも)うことだけに、興味(きょうみ)を向(む)ける」
朋也(ともや)「飽(あ)きたら、もうどうだっていいんだ」
古河(ふるかわ)「そうなんですか…?」
朋也(ともや)「ああ」
石段(いしだん)に腰(こし)を下(お)ろし、お互(たが)いパンを食(た)べ始(はじ)める。
古河(ふるかわ)「………」
ぱくぱくとパンを食(た)べる古河(ふるかわ)の横顔(よこがお)を、俺(おれ)は惚(ぼ)けたようにじっと見(み)つめていた。
俺(おれ)にとって古河(ふるかわ)は…やはり物珍(ものめずら)しいだけの存在(そんざい)なのだろうか。
違う
いや、違(ちが)うよな…。
親父(おやじ)の元(もと)から逃(に)げ出(だ)した時(とき)にも、こいつは、俺(おれ)を落(お)ち着(つ)かせてくれた。
何(なに)も考(かんが)えてなかっただろうけど…その笑顔(えがお)を見(み)て、俺(おれ)は、自分(じぶん)を取(と)り戻(もど)していた。
苦(くる)しい時(とき)でも、こいつが笑(わら)っていてくれたら、俺(おれ)はそれだけで救(すく)われる。
だから、俺(おれ)は、こいつに…
──ひとりで泣(な)いてるぐらいだったらさ…俺(おれ)を呼(よ)べよ。
そう告(つ)げた。
そう。
出会(であ)ってから、まだ少(すこ)ししか経(た)っていなかったけど…
それでも、その短(みじか)い間(あいだ)に、俺(おれ)たちは、助(たす)け合(あ)ってきた気(き)がする。
古河(ふるかわ)「あの…」
パンを食(た)べ終(お)えた古河(ふるかわ)がこっちを向(む)いていた。
目(め)が合(あ)ってしまう。
ずっと見(み)ていたことがばれてしまっただろうか…。
朋也(ともや)「何(なに)?」
平静(へいせい)を装(よそお)い、訊(き)き返(かえ)す。
古河(ふるかわ)「あ、はい…ひとつだけ訊(き)いていいですか」
朋也(ともや)「ああ、いくつでも」
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さんのことですけど…」
朋也(ともや)「春原(すのはら)…?」
古河(ふるかわ)「はい。どうして、部活動(ぶかつどう)を嫌(きら)ってるんでしょうか」
朋也(ともや)「…そんなこと言(い)ってたっけか」
古河(ふるかわ)「はい。初(はじ)めてお会(あ)いしたときに言(い)ってました」
古河(ふるかわ)「部活動(ぶかつどう)してる人(ひと)たちが忌(い)まわしいとか…」
古河(ふるかわ)「それが岡崎(おかざき)さんと、春原(すのはら)さんが、共通(きょうつう)することだって」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんが、部活動(ぶかつどう)を嫌(きら)っていた理由(りゆう)は聞(き)きました」
古河(ふるかわ)「でも、春原(すのはら)さんの理由(りゆう)はまだ知(し)らないです」
朋也(ともや)「…言葉(ことば)の通(とお)りだよ」
朋也(ともや)「あいつも俺(おれ)と同(おな)じだからな」
古河(ふるかわ)「どういうことでしょうか」
朋也(ともや)「一年(いちねん)の頃(ころ)は、あいつも部活(ぶかつ)やってたんだ」
朋也(ともや)「でも、他校(たこう)の生徒(せいと)と喧嘩(けんか)やらかして、停学(ていがく)食(く)らってさ…」
朋也(ともや)「レギュラーから落(お)ちて、居場所(いばしょ)もなくなって、退部(たいぶ)しちまったんだ」
古河(ふるかわ)「そうだったんですか…」
古河(ふるかわ)「なら、やっぱり…」
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さんにも居(い)てほしいです」
古河(ふるかわ)「そんな気持(きも)ち、よくわかりますから」
古河(ふるかわ)「みんなでひとつの目標(もくひょう)に向(む)かってがんばる。それは楽(たの)しいことです」
朋也(ともや)「そうだな…」
俺(おれ)の後(あと)に続(つづ)いて、春原(すのはら)も教室(きょうしつ)に戻(もど)ってきた。
春原(すのはら)「はぁ、すげぇ腹一杯(はらいっぱい)」
春原(すのはら)「今日(きょう)は、800円(えん)のうどん付(つ)きのカツ丼(どん)食(く)ったんだぜ?」
春原(すのはら)「午後(ごご)からは、よく寝(ね)られそうだよ、うん」
朋也(ともや)「ああ、ゆっくり寝(ね)てくれ」
………。
放課後(ほうかご)になると、古河(ふるかわ)は部室(ぶしつ)で説明会(せつめいかい)の練習(れんしゅう)を始(はじ)めた。
俺(おれ)と、そして春原(すのはら)は、床(ゆか)に座(すわ)り込(こ)んでその練習風景(れんしゅうふうけい)を眺(なが)めていた。
春原(すのはら)「こんなことしてる場合(ばあい)なのかねぇ」
春原(すのはら)「説明会(せつめいかい)だって、できないかもしれないのにさ」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は無視(むし)して、真剣(しんけん)に取(と)り組(く)む古河(ふるかわ)の姿(すがた)を、黙(だま)って見守(みまも)り続(つづ)けた。
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
適当(てきとう)に相(あい)づちを打(う)ち、古河(ふるかわ)の姿(すがた)を見(み)続(つづ)けていた。
陽(よう)が傾(かたむ)き、西日(にしび)が差(さ)す頃(ころ)まで、ずっと。
夜(よる)はいつものように、春原(すのはら)の部屋(へや)へ。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…春原(すのはら)?」
主(しゅ)の姿(すがた)が見(み)あたらなかった。
朋也(ともや)(トイレかな…)
定位(ていい)置(お)に腰(こし)を落(お)ち着(つ)けて、雑誌(ざっし)を読(よ)み始(はじ)める。
声(こえ)「春原(すのはら)ぁ~」
廊下(ろうか)から呼(よ)ぶ声(こえ)がした。美佐枝(みさえ)さんだ。
声(こえ)「春原(すのはら)、いないのーっ?」
朋也(ともや)「いねぇよ」
声(こえ)「電話(でんわ)~」
朋也(ともや)「いねぇってのに」
俺(おれ)は呼(よ)び続(つづ)ける声(こえ)にうんざりして、コタツに潜(くぐ)り込(こ)もうかと思(おも)う。
声(こえ)「妹(いもうと)さんから~」
噂(うわさ)に聞(き)く春原(すのはら)の妹(いもうと)からか…。
俺(おれ)は想像(そうぞう)してみる。
まぁ、春原(すのはら)自身(じしん)がどっちかというと女顔(おんなかお)だから、その妹(いもうと)もそんなに無骨(ぶこつ)な作(つく)りにはならないだろう。
だが、春原(すのはら)のあの性格(せいかく)を考(かんが)えると…
「おにいちゃん、あたしよ、ウフフフ…ググ……ギギギ……ケェーーーーッ!」
なんて、ひとつのセリフで前半(ぜんはん)と後半(こうはん)のキャラが違(ちが)うような女(おんな)に違(ちが)いない。
というか、今(いま)のはキャラどころか、容貌(ようぼう)も変(か)わっていたが。
それに対(たい)して春原(すのはら)の奴(やつ)も…
「よぅ、妹(いもうと)、久(ひさ)しぶりだな…ゲゲ…バリバリボリボリッ…おっと、受話器(じゅわき)を食(く)っちまったゼェ!」
なんてことになるかもしれない。
恐(おそ)ろしい…妖怪(ようかい)どものコミュニケーションが俺(おれ)の知(し)らないところで執(と)り行(おこな)われているのだ…。
俺(おれ)が震(ふる)えるようにして小(ちい)さく丸(まる)まっていると…
声(こえ)「居(い)るんじゃない」
勝手(かって)にドアを開(ひら)いて、美佐枝(みさえ)さんが俺(おれ)を見下(みお)ろしていた。
朋也(ともや)「俺(おれ)、岡崎(おかざき)だけど」
美佐枝(みさえ)「親(した)しいでしょ。代(か)わりに用件(ようけん)聞(き)いてあげてよ」
朋也(ともや)「なんで俺(おれ)が…」
美佐枝(みさえ)「なんか、大事(だいじ)な用(よう)みたいなんだもの」
美佐枝(みさえ)「あの兄(あに)にしては、礼儀正(れいぎただ)しいちゃんとした子(こ)よ」
朋也(ともや)「マジか…?」
美佐枝(みさえ)「うん、だから、ほら」
出ない
朋也(ともや)「大事(だいじ)な用(よう)なんだったら、なおさら、他人(たにん)が出(で)たらダメだろ」
美佐枝(みさえ)「そーお?」
朋也(ともや)「すぐ戻(もど)ってくるだろうから、かけ直(なお)してもらえよ」
美佐枝(みさえ)「はぁ…わかったわ。そうするわよ」
二度手間(にどでま)なのが、面倒(めんどう)なだけなんだろう。
美佐枝(みさえ)さんは渋々(しぶしぶ)、引(ひ)き下(さ)がった。
春原(すのはら)「ふぅ…死(し)にそうな目(め)にあった…」
朋也(ともや)「なんかあったのか」
春原(すのはら)「ああ…絶対(ぜったい)、夕飯(ゆうはん)の何(なに)かが、痛(いた)んでやがったんだ…」
春原(すのはら)「腹(はら)壊(こわ)して、トイレ籠(こ)もってたら、ラグビー部(ぶ)の連中(れんちゅう)も、次々(つぎつぎ)入(はい)ってきやがってさ…」
春原(すのはら)「それで、僕(ぼく)の入(はい)ってる個室(こしつ)までどんどん叩(たた)きやがんだぜ」
春原(すのはら)「パンツ下(お)ろしたまま、引(ひ)きずり出(だ)されたよ…」
春原(すのはら)「くそぅ…夕飯(ゆうはん)め!」
朋也(ともや)「恨(うら)む対象(たいしょう)を間違(まちが)ってないか?」
春原(すのはら)「ないねっ!」
朋也(ともや)「あ、そ」
どんどん、とノックの後(あと)、美佐枝(みさえ)さんが顔(かお)を覗(のぞ)かせていた。
美佐枝(みさえ)「あ、春原(すのはら)戻(もど)ってた。良(よ)かった。妹(いもうと)さんから電話(でんわ)」
春原(すのはら)「…え?」
ちょっと顔(かお)が歪(ゆが)む。
春原(すのはら)「あ、ああ…」
美佐枝(みさえ)さんの後(あと)について、部屋(へや)を出(で)ていった。
………。
今(いま)、まさに、人(にん)ならざる者(もの)たちの会話(かいわ)が、ケーッとかカーッとか言(い)って、交(か)わされているのだ。
朋也(ともや)(こえぇ…)
春原(すのはら)「ふぅ…」
五分(ごふん)くらい経(た)って、戻(もど)ってくる。
春原(すのはら)「ったく、あいつは…」
朋也(ともや)「妹(いもうと)だったんだろ?」
春原(すのはら)「ああ」
春原(すのはら)「困(こま)った奴(やつ)だよ、あんな歳(とし)にもなって…」
朋也(ともや)「まだ羽根(はね)が生(は)えてこないのか?」
春原(すのはら)「ずっと生(は)えねぇよっ!」
春原(すのはら)「どんな妹(いもうと)、想像(そうぞう)してんだよ…」
朋也(ともや)「おまえみたいなの」
春原(すのはら)「僕(ぼく)も生(は)えてねぇんだけど」
朋也(ともや)「生(は)えてそうじゃん」
春原(すのはら)「どんな奴(やつ)だよ…」
朋也(ともや)「つーか、おまえに妹(いもうと)が居(い)たなんて知(し)らなかったぞ」
春原(すのはら)「訊(き)かれもしないのに、こっちからわざわざ話(はな)すことでもないだろ」
朋也(ともや)「一回(いっかい)会(あ)わせてくれよ。なんか興味(きょうみ)あるよ」
春原(すのはら)「嫌(いや)だよ…」
朋也(ともや)「どうして。土蔵(どぞう)に封印(ふいん)でもされてるのか?」
春原(すのはら)「元気(げんき)に歩(ある)き回(まわ)ってるよっ!」
春原(すのはら)「あのな、岡崎(おかざき)…」
春原(すのはら)「ウチの妹(いもうと)は、おまえが想像(そうぞう)してるよりも、きっと、まともで、可愛(かわい)いと思(おも)うぞ」
朋也(ともや)「何(なに)、おまえ…シスコン?」
春原(すのはら)「あんたが羽根(はね)とか封印(ふいん)とか、妖怪(ようかい)みたいなこと言(い)うからでしょっ!」
春原(すのはら)「その想像(そうぞう)よりは、まともな奴(やつ)だし、可愛(かわい)いって言(い)ってんのっ」
朋也(ともや)「写真(しゃしん)見(み)せろよ、こらぁ」
春原(すのはら)「ねぇよ、んなもん」
春原(すのはら)「電話(でんわ)かかってくるまで、存在(そんざい)も忘(わす)れてたしな」
春原(すのはら)「それぐらい僕(ぼく)は、あいつのことなんか、ぜんぜん気(き)にかけてないってこと。リアリィ?」
朋也(ともや)「英語(えいご)の使(つか)い方(かた)間違(まちが)ってるからな」
春原(すのはら)「まぁ、おまえは会(あ)うことはないだろうし、この話題(わだい)はここで終(お)わり」
朋也(ともや)「あ、そ」
雑誌(ざっし)を読(よ)むのに戻(もど)る。
春原(すのはら)「ったく、あいつはよぉ…」
春原(すのはら)「可愛(かわい)いところもあるんだけどよぉ…」
もっと触(ふ)れてほしいようだった。
けど、無視(むし)しておく。
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seagull - 2009/4/28 17:17:00
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幻想世界V

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最後(さいご)の部品(ぶひん)、『目(め)』を頭部(とうぶ)に組(く)み込(こ)む。
それで、ガラクタ人形(にんぎょう)は完成(かんせい)した。
…できたっ。
彼女(かのじょ)は寝転(ねころ)がって、疲(つか)れきった四肢(しし)を伸(の)ばした。
僕(ぼく)は動(うご)き出(だ)すのを期待(きたい)して、人形(にんぎょう)と向(む)かい合(あ)ったままでいた。
不格好(ぶかっこう)な形(かたち)の人形(にんぎょう)。
両腕(りょううで)の長(なが)さも違(ちが)うし、ひどく受(う)け口(ぐち)だった。
笑(わら)える顔(かお)だ。
それでも、新(あたら)しい仲間(なかま)だ。これから迎(むか)える仲間(なかま)だ。
ちょっとぐらい滑稽(こっけい)なのは目(め)をつぶらなければならない。
僕(ぼく)は待(ま)ち続(つづ)ける。
同胞(どうほう)はなかなか動(うご)き出(だ)さなかった。
………。
彼女(かのじょ)がむくりと起(お)きた。
そして、一緒(いっしょ)に動(うご)かない人形(にんぎょう)を見(み)つめた。
動(うご)き出(だ)すには、何(なに)かきっかけが必要(ひつよう)なのかもしれない。
僕(ぼく)は自分(じぶん)が最初(さいしょ)にしたことを思(おも)い出(だ)した。
そう、歩(ある)く練習(れんしゅう)だ。
僕(ぼく)の仲間(なかま)なら、それは僕(ぼく)が最初(さいしょ)に教(おし)えるべきことでもある気(き)がした。
そうしよう。
僕(ぼく)は、彼女(かのじょ)がいつかそうしてくれたように、距離(きょり)を置(お)いて、手(て)を叩(たた)いた。
それは生(う)まれたばかりでもわかる合図(あいず)なのだ。ここまでおいで、という。
僕(ぼく)の両手(りょうて)はたんたん、と鈍(にぶ)い音(おと)を立(た)てた。
………。
たんたん。
………。
人形(にんぎょう)は立(た)ち上(あ)がろうとはしなかった。
たんたん。
僕(ぼく)は手(て)を叩(たた)き続(つづ)けた。
けど、一向(いっこう)に動(うご)き出(だ)す気配(けはい)はなかった。
まるで、死(し)んでいるように首(くび)をだらりと下(さ)げたままでいた。
たんたん。
………。
いつしか、少女(しょうじょ)は手(て)を叩(たた)く僕(ぼく)のことを見(み)ていた。
膝(ひざ)を擦(こす)らして近(ちか)づいてくると、僕(ぼく)を押(お)し倒(たお)すように抱(だ)きしめた。
そして、彼女(かのじょ)は泣(な)いた。
…ごめんね、ごめんね。
そう繰(く)り返(かえ)して。
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seagull - 2009/5/1 12:09:00
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4月24日()

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古河(ふるかわ)「おはようございます」
朋也(ともや)「ああ、おはよ…」
古河(ふるかわ)「ええと…」
古河(ふるかわ)が何(なに)か話題(わだい)を探(さが)していた。
朋也(ともや)「おまえ、声(こえ)枯(か)れてるな」
助(たす)け船(ぶね)を出(だ)すように、俺(おれ)から切(き)り出(だ)してやった。
古河(ふるかわ)「え?
そうでしょうか…」
朋也(ともや)「昨日(きのう)、あれだけ練習(れんしゅう)したもんな」
古河(ふるかわ)「はい、たくさん練習(れんしゅう)しました」
朋也(ともや)「次(つぎ)は、説明会(せつめいかい)じゃなく、演劇(えんげき)の練習(れんしゅう)できるといいな」
古河(ふるかわ)「はいっ」
春原(すのはら)の奴(やつ)はまだ来(き)ていなかった。
また遅刻(ちこく)なんだろう。
俺(おれ)は自分(じぶん)の席(せき)につき、窓(まど)の外(そと)に目(め)をやった。
授業(じゅぎょう)が始(はじ)まってからも、ずっとそうしていた。
四時間目(よじかんめ)の授業(じゅぎょう)が終(お)わる。
朋也(ともや)(いくか…)
春原(すのはら)「おっ…と、岡崎(おかざき)じゃん」
教室(きょうしつ)を出(で)ると、そこでちょうど春原(すのはら)と鉢合(はちあわ)わせになった。
春原(すのはら)「今(いま)から昼(ひる)?」
朋也(ともや)「ついてくんなよ」
春原(すのはら)「まぁまぁ、鞄(かばん)置(お)いてくるから待(ま)っててよ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)も、学食(がくしょく)のパンにするからさ」
春原(すのはら)が教室(きょうしつ)に入(はい)っていく。
俺(おれ)は待(ま)つこともなく、歩(ある)き出(だ)す。
春原(すのはら)「つれないねぇ、待(ま)っててよっつったのに」
結局(けっきょく)、春原(すのはら)は俺(おれ)たちを追(お)って中庭(なかにわ)に現(あらわ)れた。
古河(ふるかわ)「こんにちは、春原(すのはら)さん」
古河(ふるかわ)は笑顔(えがお)で歓迎(かんげい)していた。
春原(すのはら)「おふたり、昼飯(ひるめし)は?」
古河(ふるかわ)「ごめんなさいです。今(いま)、いただいたところです」
朋也(ともや)「おまえが遅(おそ)いんだよ」
春原(すのはら)「学食(がくしょく)、すんげぇ混(こ)んでたからね」
春原(すのはら)「じゃ、僕(ぼく)も食(た)べるかなぁ」
持(も)っていた紙袋(かみぶくろ)に手(て)を突(つ)っ込(こ)んで、パンを取(と)り出(だ)した。
古河(ふるかわ)「あ、座(すわ)ってください」
古河(ふるかわ)が言(い)って立(た)ち上(あ)がる。
古河(ふるかわ)「詰(つ)めますね」
朋也(ともや)「ああ…」
俺(おれ)の了解(りょうかい)を取(と)ってから、間(あいだ)を詰(つ)めて座(すわ)り直(なお)した。
春原(すのはら)「悪(わる)いね」
春原(すのはら)がその古河(ふるかわ)の隣(となり)に座(すわ)る。
春原(すのはら)「いただきまーすっ」
そのパンにかぶりついたところで…
春原(すのはら)「あん?」
校舎(こうしゃ)のほうに目(め)を向(む)けて、動(うご)きを止(と)めていた。
視線(しせん)の先(さき)…
ひとりの女生徒(じょせいと)。
新(あら)たな来客(らいきゃく)だった。
俺(おれ)たちを見(み)つけると、寄(よ)ってきて、正面(しょうめん)で立(た)ち止(ど)まる。
女生徒(じょせいと)「あの、私(わたし)、仁科(にしな)さんの友達(ともだち)で、杉坂(すぎさか)といいます」
俺(おれ)と春原(すのはら)の無粋(ぶすい)な視線(しせん)にさらされても、努(つと)めて冷静(れいせい)に挨拶(あいさつ)をした。
春原(すのはら)「あ、てめぇ」
誰(だれ)よりも早(はや)く、春原(すのはら)が立(た)ち上(あ)がる。
古河(ふるかわ)「待(ま)ってください、春原(すのはら)さん」
古河(ふるかわ)が、その腕(うで)を掴(つか)む。
古河(ふるかわ)「ここはわたしに任(まか)せてください。お願(ねが)いします」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)「…ああ、わかったよ」
杉坂(すぎさか)という名(な)は、春原(すのはら)から聞(き)かされていた。脅迫状(きょうはくじょう)を書(か)いた犯人(はんにん)の名(な)だ。
古河(ふるかわ)もわかっているのだろう。
古河(ふるかわ)「わたし、三年(さんねん)の古河渚(ふるかわなぎさ)です」
古河(ふるかわ)「わざわざこんなところまで…どうしましたか」
杉坂(すぎさか)「仁科(にしな)さんのことを、話(はな)したくて伺(うかが)いました。聞(き)いてくれますか」
古河(ふるかわ)「はい、もちろんです。是非(ぜひ)、聞(き)かせてください」
杉坂(すぎさか)「このことは…あんまり人(ひと)に言(い)ってほしくないんです。それも、約束(やくそく)してくれますか」
古河(ふるかわ)「はい、約束(やくそく)します。ここだけの話(はなし)にします」
杉坂(すぎさか)という子(こ)は、俺(おれ)にも目(め)を向(む)けた。
朋也(ともや)「ああ、大丈夫(だいじょうぶ)。誰(だれ)にも言(い)わねぇ。こいつも言(い)わねぇよ」
約束(やくそく)した。
杉坂(すぎさか)「ありがとうございます」
杉坂(すぎさか)「はじめに脅迫状(きょうはくじょう)を書(か)いたことは謝(あやま)ります。あれは私(わたし)が勝手(かって)にやったことなんです」
杉坂(すぎさか)「そうしないと、合唱部(がっしょうぶ)を作(つく)ることができなくなると思(おも)って…」
杉坂(すぎさか)「すみませんでした」
古河(ふるかわ)「いえ、なんとも思(おも)ってないです」
春原(すのはら)の拳(こぶし)が膝(ひざ)の上(うえ)でぎりぎりと震(ふる)えていた。
古河(ふるかわ)「話(はなし)を続(つづ)けてください」
杉坂(すぎさか)「…はい」
杉坂(すぎさか)「仁科(にしな)さん…その、りえちゃんは、すごく才能(さいのう)のある子(こ)なんです」
杉坂(すぎさか)「それは音楽(おんがく)の才能(さいのう)です」
杉坂(すぎさか)「小(ちい)さい頃(ころ)から、ずっとヴァイオリンを弾(ひ)いていたんです」
杉坂(すぎさか)「コンクールに何度(なんど)も入賞(にゅうしょう)して…」
杉坂(すぎさか)「ものすごく大(おお)きな会場(かいじょう)で、ものすごくたくさんの人(ひと)たちの前(まえ)でも演奏(えんそう)してました」
杉坂(すぎさか)「ものすごく、堂々(どうどう)としていて…ものすごく綺麗(きれい)で…」
杉坂(すぎさか)「ものすごく格好(かっこう)良(よ)かったんです」
杉坂(すぎさか)「たくさんの大人(おとな)の人(ひと)たちから、将来(しょうらい)を期待(きたい)されてました」
杉坂(すぎさか)「外国(がいこく)のハイスクールに通(かよ)う予定(よてい)でした」
杉坂(すぎさか)「外国(がいこく)では、もっといい音楽(おんがく)の教育(きょういく)が受(う)けられるからです」
杉坂(すぎさか)「でも、それが決(き)まる直前(ちょくぜん)に…」
顔(かお)を伏(ふ)せる。涙声(なみだごえ)になる。
杉坂(すぎさか)「りえちゃん…事故(じこ)にあって…」
聞(き)きたくない。そこからは…。
杉坂(すぎさか)「…握力(あくりょく)が弱(よわ)くなってしまったんです」
俺(おれ)と…同(おな)じだった。
杉坂(すぎさか)「ヴァイオリン…弾(ひ)けなくなって…」
杉坂(すぎさか)「外国(がいこく)のハイスクールにも行(い)けなくなって…」
杉坂(すぎさか)「それで、この学校(がっこう)に来(き)ました」
杉坂(すぎさか)「私(わたし)と一緒(いっしょ)に…」
杉坂(すぎさか)「りえちゃんは、事故(じこ)の日(ひ)以来(いらい)、すごく元気(げんき)がなくて……」
杉坂(すぎさか)「私(わたし)がどれだけ元気(げんき)づけようとしてもダメで…」
杉坂(すぎさか)「私(わたし)も、悲(かな)しかったです」
古河(ふるかわ)「………」
杉坂(すぎさか)「でも、そんなある日(ひ)、ものすごく素敵(すてき)な出会(であ)いがありました」
杉坂(すぎさか)「古文(こぶん)の…幸村先生(こうむらせんせい)です」
杉坂(すぎさか)「幸村先生(こうむらせんせい)は、音楽(おんがく)の素晴(すば)らしさをもう一度(いちど)、りえちゃんに教(おし)えてくれたんです」
杉坂(すぎさか)「楽器(がっき)が弾(ひ)けなくても、音楽(おんがく)はできるんだって」
杉坂(すぎさか)「そういって幸村先生(こうむらせんせい)は歌(うた)ってくれました…」
杉坂(すぎさか)「しわがれた声(こえ)でも、音程(おんてい)があいまいでも…それでもとても、心(こころ)がこもった歌(うた)でした…」
杉坂(すぎさか)「その歌(うた)に心(こころ)を打(う)たれて…」
杉坂(すぎさか)「りえちゃんも歌(うた)い始(はじ)めたんです」
杉坂(すぎさか)「その姿(すがた)は、昔(むかし)の元気(げんき)なりえちゃんでした」
杉坂(すぎさか)「そしてりえちゃんは、たくさんの人(ひと)に、歌(うた)の素晴(すば)らしさを伝(つた)えたいと思(おも)いました」
杉坂(すぎさか)「だから、この学校(がっこう)にない、合唱部(がっしょうぶ)を作(つく)ることにしたんです」
杉坂(すぎさか)「幸村先生(こうむらせんせい)と一緒(いっしょ)に」
杉坂(すぎさか)「私(わたし)も一緒(いっしょ)です」
目(め)の端(はし)に溜(た)まった涙(なみだ)を拭(ぬぐ)って…笑顔(えがお)で言(い)った。
そして…
杉坂(すぎさか)「お願(ねが)いします。りえちゃんの邪魔(じゃま)をしないでください」
頭(あたま)を下(さ)げた。深々(ふかぶか)と。
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)は…じっと固(かた)まってしまっていた。
春原(すのはら)「古河(ふるかわ)、言(い)うことをきくなっ!」
春原(すのはら)が叫(さけ)んでいた。
春原(すのはら)「そんなハンデで、人(ひと)の同情(どうじょう)を誘(さそ)うような奴(やつ)なんて卑怯者(ひきょうもの)だ!」
春原(すのはら)「そんなハンデでっ…ひいきされたいなんて考(かんが)えが甘(あま)すぎるんだよっ!」
その時(とき)、俺(おれ)は気(き)づいた。
俺(おれ)たち三人(さんにん)が、似(に)ていることを。
三人(さんにん)ともが、偶然(ぐうぜん)の不幸(ふこう)により、やりたいことを放棄(ほうき)せざるを得(え)なくなったことを。
三人(さんにん)ともが、学校生活(がっこうせいかつ)でのささやかな夢(ゆめ)さえ叶(かな)えられなかったことを。
──その気持(きも)ち、わかりますから。
古河(ふるかわ)の言葉(ことば)がよぎる。
俺(おれ)たちは、そんなに遠(とお)い人間(にんげん)ではなかったのだ。
そして、俺(おれ)たちはその不幸(ふこう)を盾(たて)にしたこともなかった。
春原(すのはら)と俺(おれ)は二度(にど)と部活(ぶかつ)に戻(もど)ることなく、こんな人間(にんげん)になってしまった。
今(いま)、古河(ふるかわ)だって、一年(いちねん)近(ちか)くの闘病生活(とうびょうせいかつ)を乗(の)り越(こ)えて、一(いち)から頑張(がんば)ろうとしている。
だから春原(すのはら)は、それを盾(たて)にしようとしている人間(にんげん)が許(ゆる)せないのだ。
俺(おれ)も…同(おな)じ思(おも)いだった。
春原(すのはら)「そんな…ハンデでっ…」
春原(すのはら)は手(て)に持(も)っていた食(た)べかけのパンを、地面(じめん)に叩(たた)きつけた。
それが跳(は)ねて、杉坂(すぎさか)という子(こ)の足元(あしもと)を転(ころ)がった。
それでも、その子(こ)は、頭(あたま)を下(さ)げたままだった。身(み)じろぎ一(ひと)つしなかった。
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「そんなの…」
古河(ふるかわ)「そんなのわたし、断(ことわ)れないです」
古河(ふるかわ)「わたしこそ…許(ゆる)してほしいです」
古河(ふるかわ)「そんなこと知(し)らずに…自分(じぶん)のためだけに、幸村先生(こうむらせんせい)を演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)にしようとしてたんですから…」
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)」
朋也(ともや)「それは仕方(しかた)ないだろ…知(し)らなかったんだから」
古河(ふるかわ)「でも、もう知(し)ってしまいました。だから…」
古河(ふるかわ)「あきらめます」
朋也(ともや)「どうして…」
古河(ふるかわ)「わたしががんばれば、仁科(にしな)さんが…夢(ゆめ)を叶(かな)えられなくなります」
古河(ふるかわ)「わたしは、あきらめます」
杉坂(すぎさか)「ありがとうございます」
杉坂(すぎさか)という子(こ)は、礼(れい)を言(い)ってから顔(かお)を上(あ)げた。
そして…
澄(す)んだ表情(ひょうじょう)で…校舎(こうしゃ)に戻(もど)っていった。
春原(すのはら)「馬鹿野郎(ばかやろう)!」
その姿(すがた)が見(み)えなくなってからも、春原(すのはら)はその言葉(ことば)を繰(く)り返(かえ)し、叫(さけ)んでいた。
古河(ふるかわ)は地面(じめん)に転(ころ)がっていたパンを拾(ひろ)い上(あ)げ、その春原(すのはら)の手(て)に戻(もど)した。
春原(すのはら)「くそ…」
その後(あと)、俺(おれ)たちは、職員室(しょくいんしつ)に赴(おもむ)き、幸村(こうむら)と話(はなし)をした。
春原(すのはら)はもう居(い)なかった。怒(いか)り心頭(しんとう)のまま、どこかへ消(き)えてしまった。
俺(おれ)は古河(ふるかわ)の後(うし)ろで、ただ話(はなし)を聞(き)いているだけだった。
幸村(こうむら)「いいの…ですかな」
古河(ふるかわ)「はい。そもそも演劇部(えんげきぶ)を作(つく)りたいのは、わたしひとりでしたから」
古河(ふるかわ)「入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)もいません」
幸村(こうむら)「そう…ですか。今時(いまどき)…演劇(えんげき)なんて流行(はやり)らないのですかな」
古河(ふるかわ)「そうかもしれないです…」
古河(ふるかわ)「でも、わたしは演劇(えんげき)が好(す)きです」
幸村(こうむら)「ふむ…また…機会(きかい)もあるでしょう」
古河(ふるかわ)「では、幸村先生(こうむらせんせい)」
古河(ふるかわ)「仁科(にしな)さんと杉坂(すぎさか)さん、そして、まだ見(み)ぬたくさんの合唱部(がっしょうぶ)の部員(ぶいん)さんたちを…」
古河(ふるかわ)「よろしくお願(ねが)いします」
合唱部(がっしょうぶ)の未来(みらい)を老教師(ろうきょうし)に託(たく)し、職員室(しょくいんしつ)を後(あと)にした。
もう部室(ぶしつ)によることもなく…俺(おれ)たちは、鞄(かばん)を持(も)って中庭(なかにわ)にいた。
後(あと)は、帰(かえ)るだけだった。
朋也(ともや)「なんか手(て)はないかな…」
朋也(ともや)「きっとまだあるはずだ…」
古河(ふるかわ)「もういいんです、岡崎(おかざき)さん」
古河(ふるかわ)「約束(やくそく)しましたから、杉坂(すぎさか)さんと。だから、もう演劇部(えんげきぶ)は作(つく)らないです」
朋也(ともや)「そんな約束(やくそく)してないだろ。合唱部(がっしょうぶ)の邪魔(じゃま)をしない、という約束(やくそく)をしただけだ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「なんだよ」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「とても楽(たの)しかったです」
朋也(ともや)「なにが」
古河(ふるかわ)「一緒(いっしょ)にがんばれて、です」
古河(ふるかわ)「目的(もくてき)は達成(たっせい)されなかったですけど、もっと大切(たいせつ)な色々(いろいろ)なものを手(て)に入(い)れました」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんと、とても仲良(なかよ)しになれました」
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さんとも仲良(なかよ)くなれました」
古河(ふるかわ)「こんなわたしでも、です」
古河(ふるかわ)「こんな不器用(ぶきよう)で泣(な)き虫(むし)な…わたしでも、です」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「でもな、古河(ふるかわ)」
朋也(ともや)「おまえは、ずっと強(つよ)くなってるよ」
朋也(ともや)「あの坂(さか)の下(した)で、悩(なや)んでた頃(ころ)よりさ」
朋也(ともや)「不器用(ぶきよう)でも泣(な)き虫(むし)でもさ…」
朋也(ともや)「ここまで、頑張(がんば)ってきた」
朋也(ともや)「自分(じぶん)のことのように、他人(たにん)の心配(しんぱい)までしてさ…頑張(がんば)ってきた」
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)でしょうか」
朋也(ともや)「ああ、少(すく)なくとも俺(おれ)はそう感(かん)じたよ」
古河(ふるかわ)「だったら、うれしいです」
古河(ふるかわ)「わたしは…体(からだ)は弱(よわ)いですが…」
古河(ふるかわ)「くじけないように、強(つよ)い子(こ)になろうと生(い)きてきたんですから…」
唐突(とうとつ)に、古河(ふるかわ)の目(め)の端(はし)から涙(なみだ)がこぼれる。
古河(ふるかわ)「うれしいです…」
古河(ふるかわ)「よかったです…」
そして…
顔(かお)を伏(ふ)せて、両手(りょうて)で目(め)を押(お)さえて、泣(な)き始(はじ)めた。
俺(おれ)は古河(ふるかわ)の頭(あたま)に手(て)を置(お)く。
古河(ふるかわ)「また…ですか?」
朋也(ともや)「………」
抱きしめる
体(からだ)が自然(しぜん)に動(うご)いて、俺(おれ)は古河(ふるかわ)の体(からだ)を後(うし)ろから抱(だ)きしめていた。
古河(ふるかわ)「そんなことしないでほしいです…」
古河(ふるかわ)「そうされると…安心(あんしん)して泣(な)いてしまいます」
朋也(ともや)「もう、泣(な)いてるじゃないか」
古河(ふるかわ)「そうですけど、もっと泣(な)いてしまいます…」
朋也(ともや)「いいんだよ。悲(かな)しいことがあったんだから、泣(な)けばいい」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)はしばらく泣(な)き続(つづ)けた。
俺(おれ)はずっとこうしたかった。そんな気(き)がしていた。
こいつのことが愛(あい)おしくなると、無意識(むいしき)に頭(あたま)に手(て)を載(の)せていた。
けど、本当(ほんとう)はこうしてもっと近(ちか)くで、慰(なぐさ)めてやりたかった。
俺(おれ)を支(ささ)えてくれた小(ちい)さな存在(そんざい)を…支(ささ)えてやりたかった。
安心(あんしん)させてやりたかった。
朋也(ともや)「なぁ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい…」
朋也(ともや)「明日(あした)、朝起(あさお)きたらさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちが恋人同士(こいびとどうし)になっていたら面白(おもしろ)いと思(おも)わないか」
朋也(ともや)「俺(おれ)がおまえの彼氏(かれし)で、おまえが俺(おれ)の彼女(かのじょ)だ」
朋也(ともや)「きっと楽(たの)しい学校生活(がっこうせいかつ)になる」
朋也(ともや)「そう思(おも)わないか」
古河(ふるかわ)「思(おも)わないです」
古河(ふるかわ)「きっと、なにをやっても失敗(しっぱい)するわたしに、腹(はら)が立(た)ちます、岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「そんなことない」
古河(ふるかわ)「どうしてですか」
朋也(ともや)「…俺(おれ)は古河(ふるかわ)が好(す)きだから」
俺(おれ)はそう告白(こくはく)していた。
朋也(ともや)「だから、絶対(ぜったい)にそんなことない」
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)でしょうか…自信(じしん)ないです…」
朋也(ともや)「きっと楽(たの)しい。いや、俺(おれ)が楽(たの)しくする」
古河(ふるかわ)「そんな…」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんだけ…がんばらないでください」
古河(ふるかわ)「わたしにも…がんばらせてください」
朋也(ともや)「そっか…」
古河(ふるかわ)「はい…」
朋也(ともや)「じゃあ、古河(ふるかわ)…頷(うなず)いてくれ、俺(おれ)の問(と)いかけに」
古河(ふるかわ)「………」
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)、俺(おれ)の彼女(かのじょ)になってくれ」
古河(ふるかわ)「………」
少(すこ)しの間(あいだ)。
振(ふ)り返(かえ)ることもなく、頷(うなず)くこともなく…
ただ、小(ちい)さな声(こえ)が聞(き)こえてきた。
よろしくお願(ねが)いします…と。
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seagull - 2009/5/1 13:45:00
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4月25日()

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朋也(ともや)(眩(まぶ)しい…)
布団(ふとん)の中(なか)に頭(あたま)を埋(う)め直(なお)し、微睡(びすい)む。
………。
朋也(ともや)(しばらく真面目(まじめ)に出(で)てたんだから…遅刻(ちこく)してもいいだろ)
………。
朋也(ともや)(演劇部(えんげきぶ)の件(けん)も、結果(けっか)は駄目(だめ)だったけど…一段落(いちだんらく)ついたし…)
………。
突然(とつぜん)、古河(ふるかわ)の顔(かお)が思(おも)い出(だ)された。
俺(おれ)の腕(うで)の中(なか)にいた。
その場(ば)の陽射(ひざ)しや木(き)の影(かげ)の形(かたち)まで、克明(こくめい)に思(おも)い出(だ)せた。
抱(だ)いた古河(ふるかわ)の肩(かた)の小(ちい)ささ。
近(ちか)くで嗅(か)いだあいつの髪(かみ)の匂(にお)いまでも。
そして、腕(うで)の中(なか)で、古河(ふるかわ)は小(ちい)さく頷(うなず)く。
よろしくお願(ねが)いします、と。
がばりと、俺(おれ)は飛(と)び起(お)きていた。
朋也(ともや)(そうか…)
俺(おれ)はあいつに告白(こくはく)したんだ…。
そして、朝起(あさお)きたら、この時(とき)から…
俺(おれ)たちは、恋人同士(こいびとどうし)になっているんだ。
朋也(ともや)(………)
いまいち実感(じっかん)がない。
朋也(ともや)(本当(ほんとう)かよ…)
壁(かべ)の時計(とけい)を見(み)る。
朋也(ともや)「まずい…」
時間(じかん)に余裕(よゆう)ができてからも、俺(おれ)は走(はし)ることをやめなかった。
足(あし)を止(と)めたら、そのまま、立(た)ち止(ど)まってしまいそうだった。
あいつが俺(おれ)の彼女(かのじょ)…
それは深(ふか)く考(かんが)えてしまうと、厄介(やっかい)なものである気(き)がしたからだ。
けど、心(こころ)のどこかでこそばゆいような、嬉(うれ)しい気持(きも)ちもある。
ああ、考(かんが)えるな。
走(はし)れ。
勢(いきお)いでいくしかなかった。
登校(とうこう)していく生徒(せいと)の中(なか)、ぼーっと突(つ)っ立(た)つひとりの少女(しょうじょ)。
朋也(ともや)(いた…)
ようやくそこで走(はし)るのをやめ、息(いき)を整(ととの)える。
朋也(ともや)(ああ、なんか、どきどきする…)
今日(きょう)からの彼女(かのじょ)の元(もと)へ…俺(おれ)は歩(ある)いていく。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「よぅ…おはよ」
古河(ふるかわ)「おはようございます、岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「………」
…気(き)まずい。
何(なに)か話(はな)さないとな…意識(いしき)しまくって、照(て)れてしまうぞ…。
しかし、こいつはどう思(おも)ってるんだろう。
ちゃんと、俺(おれ)のことを今日(きょう)から彼氏(かれし)だと思(おも)ってくれてるんだろうか…。
そもそも、昨日(きのう)した約束(やくそく)を信(しん)じてくれているのだろうか。
こいつのことだから…慰(なぐさ)めの言葉(ことば)のひとつと思(おも)って、信(しん)じていないかもしれない。
あるいは…
俺(おれ)を傷(きず)つけないためにその場(ば)しのぎの返事(へんじ)で…
今(いま)まさに、なかったことにしてください、と言(い)おうとして、必死(ひっし)に勇気(ゆうき)を振(ふ)り絞(しぼ)っている最中(さいちゅう)なのかもしれない。
朋也(ともや)「あのさ、古河(ふるかわ)…」
古河(ふるかわ)「はい、なんでしょう?」
いつもの古河(ふるかわ)だった。
少(すこ)しだけ、ほっとする。
朋也(ともや)「いや、なんでもねぇ…」
古河(ふるかわ)「そうですか」
古河(ふるかわ)「では、行(い)きましょう」
朋也(ともや)「ああ…」
歩(ある)いていく。
なら、やっぱり…信(しん)じていないんだ。
俺(おれ)は坂(さか)の下(した)で立(た)ち止(ど)まっていた。
古河(ふるかわ)「どうしましたか?」
たくさんの生徒(せいと)が、俺(おれ)たちを抜(ぬ)いて、坂(さか)を登(のぼ)っていく。
朋也(ともや)「慰(なぐさ)めで言(い)ったんじゃないからな」
古河(ふるかわ)「何(なに)をですか?」
朋也(ともや)「昨日(きのう)、言(い)ったことだよ」
古河(ふるかわ)「えっと…」
古河(ふるかわ)は少(すこ)し考(かんが)えた後(あと)…
古河(ふるかわ)「はい」
そう下(した)を向(む)いたまま答(こた)えた。
古河(ふるかわ)「実(じつ)は今日(きょう)は…」
古河(ふるかわ)「昼(ひる)ご飯(はん)にどんなパンを食(た)べようかって…もう考(かんが)えないできました」
古河(ふるかわ)「今(いま)まではそれが楽(たの)しみで、支(ささ)えだったんです」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「でも今日(きょう)からは別(べつ)の楽(たの)しみができましたから、そのことを考(かんが)えてきました」
朋也(ともや)「何(なに)をさ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんが彼氏(かれし)で…わたしがその彼女(かのじょ)で…」
古河(ふるかわ)「そんな学校生活(がっこうせいかつ)が始(はじ)まることをです」
古河(ふるかわ)「それが楽(たの)しみで、これました」
朋也(ともや)「………」
また、心(こころ)の隅(すみ)が、くすぐったくなる。
朋也(ともや)「そうかよ…」
古河(ふるかわ)「でも、思(おも)っていたのとは少(すこ)し違(ちが)いました」
朋也(ともや)「何(なに)がだよ」
古河(ふるかわ)「楽(たの)しいのとは少(すこ)し違(ちが)いました」
古河(ふるかわ)「不安(ふあん)でした」
古河(ふるかわ)「半分(はんぶん)楽(たの)しくて、半分(はんぶん)不安(ふあん)でした」
古河(ふるかわ)「本当(ほんとう)にわたしなんかでいいのかなって…」
朋也(ともや)「まだそんなこと言(い)ってんのかよ、おまえ…」
古河(ふるかわ)「それは…岡崎(おかざき)さんは背(せい)も高(たか)くて、かっこよくて…素敵(すてき)な人(ひと)です」
古河(ふるかわ)「なのに、わたしは、泣(な)き虫(むし)で、引(ひ)っ込(こ)み思案(しあん)で、可愛(かわい)くもないです」
朋也(ともや)「あのさ、古河(ふるかわ)…」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「おまえの大好(だいす)きなだんご大家族(だいかぞく)が、可愛(かわい)くないってけなされたらどんな気分(きぶん)になる?」
古河(ふるかわ)「それは…悲(かな)しいです」
朋也(ともや)「だろ。今(いま)、俺(おれ)はその気分(きぶん)だよ」
古河(ふるかわ)「はい…?」
朋也(ともや)「俺(おれ)は古河渚(ふるかわなぎさ)という女(おんな)の子(こ)が好(す)きなんだ。その女(おんな)の子(こ)をけなさないでくれないか」
古河(ふるかわ)「あ、はい…すみませんでしたっ」
古河(ふるかわ)「とっても、可愛(かわい)いと思(おも)いますっ」
古河(ふるかわ)「って…え?」
俺(おれ)は大笑(おおわら)いした。
古河(ふるかわ)はまだ自分(じぶん)の言(い)ったことがよくわかっていないようだった。
古河(ふるかわ)「なんだか、今(いま)、ものすごく恥(は)ずかしいことを言(い)った気(き)がしますっ」
朋也(ともや)「気(き)のせいだろ」
古河(ふるかわ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「ほら、いこうぜ。遅刻(ちこく)する」
坂(さか)を登(のぼ)り始(はじ)める。
朋也(ともや)「後(あと)な、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「これからは渚(なぎさ)って呼(よ)んでいいか」
古河(ふるかわ)「はい。わたしも、朋也(ともや)さんって呼(よ)んでいいですか」
朋也(ともや)「ああ、もちろん。さん、じゃなくて、くんだっていいぜ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ですか。可愛(かわい)いです」
朋也(ともや)「だな…」
俺(おれ)の足取(あしど)りは軽(かる)かった。
まさか、この坂(さか)をこんな気持(きも)ちで登(のぼ)る日(ひ)が来(く)るなんて思(おも)いもしなかった。
トストス、とボールをつく音(おと)が聞(き)こえてきた。
渚(なぎさ)が音(おと)のするほうを見(み)る。そして…
渚(なぎさ)「あ…」
驚(おどろ)きに声(こえ)をあげた。
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さんです」
朋也(ともや)「え…?」
俺(おれ)も同(おな)じように目(め)を移(うつ)す。
すると、前庭(ぜんてい)の広場(ひろば)に、バスケットボールをつく春原(すのはら)の姿(すがた)があった。
朋也(ともや)「…あいつ…なんのつもりだ?」
渚(なぎさ)「バスケットボールを始(はじ)めようと思(おも)い立(た)ったんです」
朋也(ともや)「三年(さんねん)だぞ。今(いま)から部活(ぶかつ)に入(い)れるわけないし、無意味(むいみ)だ」
渚(なぎさ)「違(ちが)います。ひとりきりで始(はじ)めたんです」
朋也(ともや)「そんなみじめなことを始(はじ)める奴(やつ)かよ、あいつが」
春原(すのはら)は俺(おれ)たちに気(き)づいたようだ。ドリブルをやめて、こっちに向(む)かって歩(ある)いてくる。
春原(すのはら)「よぅ」
渚(なぎさ)「おはようございます。春原(すのはら)さん」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さん、バスケットボール、始(はじ)めたんですね」
春原(すのはら)「勘違(かんちが)いするなよ。これは手段(しゅだん)だ」
渚(なぎさ)「はい?」
春原(すのはら)「合唱部(がっしょうぶ)の甘(あま)ちゃんどもにわからせてやるんだよ」
春原(すのはら)「ハンデなんて関係(かんけい)ないってことをな」
春原(すのはら)「やってくれるよな、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「はぁ?」
春原(すのはら)「僕(ぼく)たちでバスケ部(ぶ)のレギュラーどもに3on3を挑(いど)むんだよ」
春原(すのはら)「そして、勝(か)ってやるんだ」
朋也(ともや)「おまえ…よくそんなこと考(かんが)えついたな」
春原(すのはら)「悔(くや)しいじゃないか。あんなハンデを盾(たて)に、我(わ)が物顔(ものがお)されてんだぜ」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さん」
春原(すのはら)「あん?」
渚(なぎさ)「手(て)は出(だ)さないでください。絶対(ぜったい)に」
春原(すのはら)「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。それこそ僕(ぼく)たちの負(ま)けだ。これは正々堂々(せいせいどうどう)と勝負(しょうぶ)して勝(か)つことに意味(いみ)があるんだからな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
こそばゆい。
朋也(ともや)「うん?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんはどうしますか」
春原(すのはら)「やろうぜ、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「無理(むり)だ。知(し)ってんだろ」
俺(おれ)は右肩(みぎかた)をもう一方(いっぽう)の手(て)で押(お)さえた。
春原(すのはら)「大丈夫(だいじょうぶ)だ。シュートは僕(ぼく)に任(まか)せろ。おまえは司令塔(しれいとう)でいい」
朋也(ともや)「やらねぇよ」
朋也(ともや)「どうして、俺(おれ)がそんな少年漫画(しょうねんまんが)のような展開(てんかい)に巻(ま)き込(こ)まれなくちゃならないんだよっ」
春原(すのはら)「そりゃあ、岡崎(おかざき)、おまえも当事者(とうじしゃ)だからだ。悔(くや)しくないのか?」
朋也(ともや)「知(し)るかっ、ひとりで少年漫画(しょうねんまんが)してろっ」
朋也(ともや)「いくぞ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「あ、でもっ」
強引(ごういん)に渚(なぎさ)の腕(うで)を引(ひ)いて、春原(すのはら)から逃(に)げる。
春原(すのはら)「おい、待(ま)てよっ、岡崎(おかざき)ーっ!」
怒声(どせい)が聞(き)こえ続(つづ)けた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、朋也(ともや)くんってば」
朋也(ともや)「うるさい。あんなのに関(かか)わってたら、おまえ…」
渚(なぎさ)「なんですか?」
朋也(ともや)(おまえと、ふたりきりの時間(じかん)が減(へ)るだろ…)
そんなこと、正面(しょうめん)切(き)って言(い)えるわけがない。
朋也(ともや)「シュートの打(う)てない俺(おれ)が出(で)たって、足(あし)を引(ひ)っ張(ぱ)って恥(はず)かくのが見(み)えてるからな…」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さん、言(い)ってました。シュートは打(う)たなくていいって」
渚(なぎさ)「それなら、朋也(ともや)くんもできます」
朋也(ともや)「できねぇよ…」
渚(なぎさ)「うーん…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、春原(すのはら)さんを手伝(てつだ)ってあげましょう」
朋也(ともや)「何度(なんど)頼(たの)まれても、俺(おれ)は頷(うなず)かないぞ」
先(さき)を急(いそ)ぐ。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、朋也(ともや)くんってば」
朋也(ともや)(はぁ…なんていうか…)
数週間前(すうしゅうかんまえ)までは想像(そうぞう)もできない光景(こうけい)だった。
渚(なぎさ)と出会(であ)ってから、いろんなことが変(か)わった。
それは俺(おれ)だけじゃない。
今(いま)の春原(すのはら)もだ。
渚(なぎさ)と出会(であ)った人間(にんげん)は、みんな変(か)わっていく。
どんな方向(ほうこう)かはわからなかったが…少(すく)なくとも最低(さいてい)から違(ちが)う場所(ばしょ)へ向(む)けてだ。
いつものように、渚(なぎさ)と購買(こうばい)でパンを買(か)って、中庭(なかにわ)へ行(い)く。
渚(なぎさ)「いつも、すみません」
朋也(ともや)「いや」
ふたり、石段(いしだん)に座(すわ)り込(こ)む。
渚(なぎさ)「いただきます」
朋也(ともや)「ああ」
もぐもぐ…
…もぐもぐ…
………。
…とんでもなく地味(じみ)なふたりだった。
渚(なぎさ)「お弁当(べんとう)、明日(あした)から作(つく)りたいです」
渚(なぎさ)が食(た)べる手(て)を止(と)めて、そう呟(つぶや)いていた。
朋也(ともや)「いいよ。朝(あさ)、大変(たいへん)になるじゃないか」
渚(なぎさ)「作(つく)りたいです、わたし」
朋也(ともや)「いいって。大変(たいへん)だろ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に、作(つく)りたいんです」
朋也(ともや)「いいって。一気(いっき)になんでも抱(かか)え込(こ)もうとするな」
渚(なぎさ)「作(つく)りたいです」
朋也(ともや)「くどいぞ」
渚(なぎさ)「…すみません」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「俺(おれ)はこうしてるだけで…一緒(いっしょ)に居(い)られるだけで十分(じゅうぶん)だから」
渚(なぎさ)「そう…なんですか?」
朋也(ともや)「ああ。だから、その代(か)わりに…」
朋也(ともや)「他(ほか)の男(おとこ)に寄(よ)っていくなよ」
渚(なぎさ)「はい、わかりました」
もぐもぐ…
春原(すのはら)「よぅ」
昼食(ちゅうしょく)を終(お)えたと同時(どうじ)、この穏(おだ)やかな時間(じかん)に波風(なみかぜ)を立(た)てようとする者(もの)が現(あらわ)れる。
春原(すのはら)「練習(れんしゅう)だ、こいよ」
朋也(ともや)「おまえ、俺(おれ)の朝(あさ)の話(はなし)聞(き)いてたか?」
春原(すのはら)「なんだっけ」
朋也(ともや)「断(ことわ)ったんだ。ひとりでやれ」
春原(すのはら)「口(くち)ではそう言(い)うが、本心(ほんしん)は違(ちが)うな」
春原(すのはら)「おまえはバスケがやりたい。僕(ぼく)にはわかっている」
春原(すのはら)「さぁ、こい」
朋也(ともや)「いかねぇって」
春原(すのはら)「あまのじゃくな奴(やつ)だな…」
春原(すのはら)「まぁ、いい。古河(ふるかわ)、こいよ」
渚(なぎさ)「わたし…ですか?」
春原(すのはら)「手伝(てつだ)ってほしいんだ」
渚(なぎさ)「わたし、ドリブルしながら走(はし)れないです。下投(したな)げでないと、シュートもできないです」
渚(なぎさ)「それは、運動音痴(うんどうおんち)というんだそうです」
春原(すのはら)「大丈夫(だいじょうぶ)。ゴール前(まえ)に立(た)ってるだけでいいんだよ」
渚(なぎさ)「それだけでいいんですか?」
春原(すのはら)「ああ。どんなに運動音痴(うんどうおんち)でもできる」
渚(なぎさ)「わかりました」
渚(なぎさ)「じゃあ、お手伝(てつだ)いしてきますね」
俺(おれ)にそう断(ことわ)ってから、立(た)ち上(あ)がる。そして、春原(すのはら)の後(あと)についていこうとした。
渚(なぎさ)「あ…」
その途中(とちゅう)で、声(こえ)をあげて立(た)ち止(ど)まった。
春原(すのはら)「うん?
古河(ふるかわ)、どうしたの」
渚(なぎさ)「すみません、やっぱり手伝(てつだ)えないです」
春原(すのはら)「あん?
どうして」
渚(なぎさ)「他(ほか)の男(おとこ)の人(ひと)についていってはダメなんです」
春原(すのはら)「他(ほか)の男(おとこ)?」
…まずい。
いきなり春原(すのはら)なんて質(しつ)の悪(わる)い奴(やつ)に、俺(おれ)と渚(なぎさ)の関係(かんけい)がばれてしまう。
こいつに知(し)られること、それは弱(よわ)みを握(にぎ)られることと同(おな)じだった。
渚(なぎさ)「はい…」
春原(すのはら)「どうして?
岡崎(おかざき)はいいのに?」
渚(なぎさ)「ええと、それはですね…」
渚(なぎさ)「わたしは今日(きょう)から朋也(ともや)くんのですねっ…」
朋也(ともや)「おい、渚(なぎさ)っ!」
渚(なぎさ)「はい?」
朋也(ともや)「おまえ、職員室(しょくいんしつ)に用(よう)があるって言(い)ってたじゃないか。行(い)かなくていいのか」
渚(なぎさ)「職員室(しょくいんしつ)?」
朋也(ともや)「ああ、行(い)ってこい。早(はや)く、今(いま)すぐ」
渚(なぎさ)「…?」
朋也(ともや)「行(い)けってのっ」
渚(なぎさ)「は、はい。わかりました」
とことこと早足(さそく)で歩(ある)いていった。
春原(すのはら)「………」
その背(せ)を見送(みおく)ってから、春原(すのはら)がこっちを向(む)いた。
春原(すのはら)「…朋也(ともや)くん?」
朋也(ともや)「ああ。俺(おれ)の名(な)は朋也(ともや)だぞ、陽平(ようへい)くん」
春原(すのはら)「………」
白(しろ)い目(め)で見(み)られる。
春原(すのはら)「おまえさ、変(か)わった?」
朋也(ともや)「おまえが、人(ひと)のこと言(い)えるかよ」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)は肩(かた)でふっ、と息(いき)をつく。
春原(すのはら)「そうだね…」
そして、指(ゆび)の上(うえ)にボールを載(の)せ、片手(かたて)でそれを叩(たた)いて、くるくると回(まわ)し始(はじ)めた。
しばらく黙(だま)って、ふたりでそれを見(み)ていた。
………。
そして、放課後(ほうかご)。
それは、渚(なぎさ)と付(つ)き合(あ)って、初(はじ)めて迎(むか)える自由(じゆう)な時間(じかん)だった。
朋也(ともや)(…待(ま)ってたらいいんだろうか)
朋也(ともや)(それとも、俺(おれ)から迎(むか)えにいくべきなんだろうか…)
朋也(ともや)(つーか、その前(まえ)に…)
春原(すのはら)「………」
この難敵(なんてき)をどうにかしないといけなかった。
朋也(ともや)(あからさまに逃(に)げると目立(めだ)つし、自然(しぜん)に、出(で)ていくか…)
が…
春原(すのはら)「おい、朋也(ともや)くん」
机(つくえ)の奥(おく)に教科書(きょうかしょ)を突(つ)っ込(こ)んだところで、話(はな)しかけられた。
春原(すのはら)「練習(れんしゅう)、するよな」
朋也(ともや)「しないよ、陽平(ようへい)くん」
春原(すのはら)「いや、朋也(ともや)、おまえはするね…」
腕(うで)を掴(つか)まれる。
朋也(ともや)「放(はな)してくれよ、陽平(ようへい)」
俺(おれ)も相手(あいて)の腕(うで)を掴(つか)んで、引(ひ)き離(はな)そうと力(ちから)を入(い)れる。
だが、相手(あいて)も頑(かたく)なに放(はな)そうとしない。
お互(たが)い、ぎりぎりと力(ちから)が入(はい)る。
春原(すのはら)「ふふふ…」
朋也(ともや)「ははは…」
声(こえ)「げ、気色(きしょく)わるっ!」
隣(となり)を通(とお)りかかった奴(やつ)が、腕(うで)を握(にぎ)り合(あ)って微笑(ほほえ)み合(あ)う俺(おれ)たちを見(み)て声(こえ)をあげる。
春原(すのはら)「うっらぁーっ!
何(なに)勘違(かんちが)いしてんだよ、てめぇーっ!」
春原(すのはら)がキレた。
男子生徒(だんしせいと)「い、いや…」
俺(おれ)はその隙(すき)をついて、逃(に)げ出(だ)した。
廊下(ろうか)に出(で)ると、俺(おれ)は全速力(ぜんそくりょく)で駆(か)け、そしてB組(ぐみ)のプレートの真下(ました)に滑(すべ)り込(こ)む。
朋也(ともや)(渚(なぎさ)っ…)
開(ひら)かれたドアの向(む)こうにその姿(すがた)を探(さが)す。
窓際(まどぎわ)の前(まえ)の席(せき)、渚(なぎさ)はまだ椅子(いす)に座(すわ)っていて、教科書(きょうかしょ)を鞄(かばん)の中(なか)に詰(つ)めている。
朋也(ともや)(何(なに)を呑気(のんき)に…)
朋也(ともや)(こっち向(む)けっ)
そう祈(いの)ると同時(どうじ)、渚(なぎさ)と目(め)が合(あ)った。
渚(なぎさ)が照(て)れたように笑(わら)う。えへへと。
朋也(ともや)(えへへじゃないっ)
急(いそ)がないと春原(すのはら)に捕(つか)まってしまう。
俺(おれ)は必死(ひっし)に手招(てまね)きして、急(せ)かした。
少(すこ)しの間(あいだ)、小首(こくび)を傾(かし)げていたが、俺(おれ)の真剣(しんけん)な訴(うった)えが通(つう)じたのか、ようやく立(た)ち上(あ)がって、こちらに向(む)かって小走(こばし)りでやってくる。
渚(なぎさ)「どうしましたかっ」
朋也(ともや)「春原(すのはら)がくる、逃(に)げるぞっ」
その手(て)を引(ひ)く。もう誰(だれ)が見(み)てようが、構(かま)わない。
渚(なぎさ)「え、あ…はいっ」
それほどまでに、俺(おれ)は春原(すのはら)から逃(に)げたい一心(いっしん)だった。
俺(おれ)たちは走(はし)って校門(こうもん)をくぐり抜(ぬ)けた。
そのまま坂(さか)を下(くだ)りきる。
朋也(ともや)「はぁ…はぁっ…」
朋也(ともや)「よし、もう追(お)ってこないだろ」
渚(なぎさ)「はぁ…ドキドキしました」
朋也(ともや)「あいつ、しつこいからな…」
渚(なぎさ)「でも、なんだか楽(たの)しかったです、えへへ」
朋也(ともや)「呑気(のんき)な奴(やつ)だな、おまえ」
渚(なぎさ)「そうですか?」
まさか、付(つ)き合(あ)って初(はじ)めての下校(げこう)が、こんな騒々(そうぞう)しく、疲(つか)れるものになるとは。
まったく…俺(おれ)たちらしかった。
朋也(ともや)「さて…」
俺(おれ)は大(おお)きく深呼吸(しんこきゅう)をする。
放課後(ほうかご)は長(なが)い。
渚(なぎさ)を連(つ)れて、どこにだっていける。
朋也(ともや)「なにをしようか…」
渚(なぎさ)「さて、戻(もど)りましょう」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…はい?」
渚(なぎさ)「教室(きょうしつ)に戻(もど)りましょう」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「わたし、鞄持(かばんも)ってないです。それに掃除当番(そうじとうばん)です」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あのさ」
朋也(ともや)「おまえ、アホな子(こ)だろ」
春原(すのはら)「よぅ、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「よぅ、すのぴー」
春原(すのはら)「誰(だれ)がすのぴーだ、こら」
春原(すのはら)「うまく逃(に)げおおせたつもりか?」
朋也(ともや)「つもりだったんだけどな…」
春原(すのはら)「うん?」
朋也(ともや)「いや、いい運動(うんどう)だったよ、ったく」
春原(すのはら)「運動(うんどう)はこれからだっての」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちはもう終(お)わったんだよ。渚(なぎさ)の掃除(そうじ)が終(お)わったら、帰(かえ)るぞ、俺(おれ)は」
春原(すのはら)「あん?
どうして、待(ま)ってんの」
朋也(ともや)「いいだろ、んなこと、どうだって」
春原(すのはら)「ふぅん」
嫌(いや)な笑(え)みを浮(う)かべる。感(かん)づかれているのだろうか…。
いや、端(はし)から見(み)れば、俺(おれ)たちは、昨日(きのう)までと同(おな)じ関係(かんけい)のはずだった。
朋也(ともや)(しかし…あいつは過剰(かじょう)なほど意識(いしき)してるからな…)
朋也(ともや)(バレるのも時間(じかん)の問題(もんだい)か…)
朋也(ともや)(でも、こいつにだけは知(し)られたくねぇ…)
春原(すのはら)「渚(なぎさ)、ねぇ…」
朋也(ともや)「なんだよ…」
やっぱり時間(じかん)の問題(もんだい)だろうか…。
渚(なぎさ)「お待(ま)たせしました」
春原(すのはら)「よぅ」
渚(なぎさ)「あれ、春原(すのはら)さんも待(ま)っていてくれたんですか」
春原(すのはら)「ああ、渚(なぎさ)ちゃんはうちの部(ぶ)のマネージャーだからね」
渚(なぎさ)「うちの部(ぶ)?」
春原(すのはら)「期間限定(きかんげんてい)3on3部(ぶ)」
朋也(ともや)「勝手(かって)に引(ひ)き込(こ)むんじゃない」
渚(なぎさ)「ぜんぜん構(かま)わないです」
ええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ…
その渚(なぎさ)の返答(へんとう)に俺(おれ)はがっくり肩(かた)を落(お)とす。
朋也(ともや)(おまえは俺(おれ)と一緒(いっしょ)に放課後(ほうかご)を過(す)ごしたくないのか…)
渚(なぎさ)「楽(たの)しそうです」
朋也(ともや)(俺(おれ)と一緒(いっしょ)に過(す)ごすのは、楽(たの)しくないのか…)
渚(なぎさ)「ですが、ひとつだけ条件(じょうけん)があります」
春原(すのはら)「うん、なに」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、一緒(いっしょ)に居(きょ)させてください」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さんとふたりきりになるわけにはいきませんので」
春原(すのはら)「あん?
どうして」
渚(なぎさ)「ええと、それは…」
渚(なぎさ)「わたしは朋也(ともや)くんの、かの…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、おまえっ!」
渚(なぎさ)「はい?」
朋也(ともや)「職員室(しょくいんしつ)に用(よう)があっただろ?」
渚(なぎさ)「ないです」
渚(なぎさ)「昼休(ひるやす)みも行(い)ったんですけど、やっぱり用(よう)なかったです」
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)、おまえ、わざと話切(はなしき)ってない?」
朋也(ともや)「切(き)ってねぇって」
朋也(ともや)「ていうか、そもそも、おまえのほうが渚(なぎさ)を手伝(てつだ)うはずだったろ」
朋也(ともや)「なんでそれが逆(ぎゃく)の立場(たちば)になってんだよ」
春原(すのはら)「もうパンなんかどうでもいいんだよ。合唱部(がっしょうぶ)の奴(やつ)らに目(め)に物見(ものみ)せてやる」
渚(なぎさ)「パン?」
朋也(ともや)「いや、なんでもない」
春原(すのはら)「とにかく、来(こ)いっての」
渚(なぎさ)「いきましょう、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「これが…今(いま)しかできない学校生活(がっこうせいかつ)だと思(おも)います」
…わたしたちが送(おく)ってこれなかった。
そう続(つづ)く気(き)がした。
でも渚(なぎさ)は黙(だま)ったままで、俺(おれ)の服(ふく)の裾(すそ)を握(にぎ)った。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「く…」
陽(よう)が暮(く)れて…
俺(おれ)は水道水(すいどうすい)を頭(あたま)からかぶって、汗(あせ)を流(なが)していた。
渚(なぎさ)「はい、どうぞ」
渚(なぎさ)がタオルを渡(わた)してくれる。
朋也(ともや)「なにやってんだろうな、俺(おれ)…」
頭(あたま)にそれをかけただけで、歩(ある)き始(はじ)める。
渚(なぎさ)「わたしたちの部活動(ぶかつどう)です。楽(たの)しいです」
渚(なぎさ)はこれだけで満足(まんぞく)なのだろうか。
朋也(ともや)「俺(おれ)、やっぱバスケは無理(むり)だよ」
朋也(ともや)「パス回(まわ)すだけで、なんにもできなかった」
渚(なぎさ)「そんなことないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、すごくかっこ良(よ)かったです」
朋也(ともや)「そうかよ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのパスってすごく本格的(ほんかくてき)です。テレビで見(み)る外国(がいこく)の選手(せんしゅ)みたいでした」
朋也(ともや)「んなことねぇよ…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)にすごかったです」
渚(なぎさ)「それで、わたし、ずっと…ドキドキしてました」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「ええと、それは…」
渚(なぎさ)「こんなかっこいい人(ひと)がわたしの彼氏(かれし)なんだって思(おも)って…」
朋也(ともや)「おまえさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「よくそんな恥(は)ずかしいこと言(い)えるよな」
渚(なぎさ)「えっと…恥(は)ずかしかったでしょうか」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「でも、嬉(うれ)しいけどな」
渚(なぎさ)「どっちですか」
渚(なぎさ)「言(い)ってもいいんですか?
言(い)わないほうがいいんですか?」
朋也(ともや)「いいよ。言(い)ってくれ。がんがん言(い)ってくれ」
朋也(ともや)「俺(おれ)がさ、恥(は)ずかしさで転(ころ)げ回(まわ)るぐらいにさ」
渚(なぎさ)「はい。がんばってみます」
渚(なぎさ)「えへへ…」
西日(にしび)に照(て)らされるその笑顔(えがお)は…
俺(おれ)がずっと求(もと)めていたものだった。
俺(おれ)を安心(あんしん)させ続(つづ)けてくれるものだった。
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seagull - 2009/5/1 13:58:00
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幻想世界VI

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この世界(せかい)はやっぱり終(お)わってしまっていた。
もう、命(いのち)は生(う)まれない。
それがよくわかった。
獣(けもの)に命(いのち)はない。あいつらは、生(い)き物(もの)の形(かたち)をした『何(なに)か』だった。
命(いのち)あるものは、彼女(かのじょ)しか存在(そんざい)しない。
なら…僕(ぼく)はなんなんだろう?
僕(ぼく)に意識(いしき)はある。あいつらとは違(ちが)う。
僕(ぼく)は彼女(かのじょ)が好(す)きだ。ずっと一緒(いっしょ)にいたい。
彼女(かのじょ)が歩(ある)けば、どこまでもついていく。
嫌(きら)われたって、ついていく。
それは、意識(いしき)で、感情(かんじょう)だ。
僕(ぼく)が僕(ぼく)である証拠(しょうこ)だ。
なら、僕(ぼく)は、どこからやってきたのだろう?
僕(ぼく)の『意識(いしき)』というものは、どこからやってきたのだろう?
僕(ぼく)は記憶(きおく)を辿(たど)った。
それは、生(う)まれる前(まえ)の記憶(きおく)。
淀(よど)んだ意識(いしき)の底(そこ)にそれはある。
遠(とお)い昔(むかし)か、遠(とお)い未来(みらい)…僕(ぼく)がいた場所(ばしょ)。
胸(むね)が温(あたた)かくなる場所(ばしょ)。
…ここより、もっと素敵(すてき)な場所(ばしょ)だった?
…いろんなものがあって、毎日(まいにち)が楽(たの)しかった?
…こんなにも寂(さび)しくなかった?
そう…。
いろんなものがあって、楽(たの)しくて、寂(さび)しくない場所(ばしょ)。
僕(ぼく)はそこにいた。
もし、僕(ぼく)に体(からだ)がなかったなら…そこに帰(かえ)れただろうか。
けど、今(いま)の僕(ぼく)には、僕(ぼく)の意識(いしき)をつなぎ止(と)める体(からだ)がある。
彼女(かのじょ)の作(つく)ってくれた体(からだ)がある。
僕(ぼく)はこの世界(せかい)の終(お)わりで生(い)きている。
どうしてそうなったのかは、もうわからないけど…
それでも、良(よ)かった。
彼女(かのじょ)がひとりきりでなくなったから。
僕(ぼく)らは、動(うご)かないガラクタ人形(にんぎょう)を土(つち)に埋(う)めた。
埋葬(まいそう)だ。
その間(あいだ)、彼女(かのじょ)はずっと黙(だま)っていた。
作業(さぎょう)が終(お)わると、僕(ぼく)は彼女(かのじょ)の手(て)を引(ひ)っ張(ぱ)った。
…ん?
彼女(かのじょ)が僕(ぼく)を見下(みお)ろす。
僕(ぼく)は自分(じぶん)の手(て)と手(て)を組(く)み合(あ)わせた。
…また、作(つく)るの?
僕(ぼく)は頷(うなず)く。
…でも、動(うご)かないんだよ。
…友達(ともだち)はね…できないんだよ。
寂(さび)しげに言(い)った。
僕(ぼく)は首(くび)を振(ふ)った。
…別(べつ)のものを作(つく)るの?
こくん。
…なにを?
僕(ぼく)はじっと突(つ)っ立(た)ったままでいた。
それは僕(ぼく)にもわからない。
ただ、そうするべきなんじゃないかと思(おも)っただけだ。
彼女(かのじょ)は、ガラクタを組(く)み合(あ)わせて、何(なに)かを作(つく)ることができる。
それは僕(ぼく)にはできない。
彼女(かのじょ)だけができる、特別(とくべつ)なことだった。
ならきっと、意味(いみ)があることなんだと思(おも)う。
僕(ぼく)は振(ふ)り返(かえ)る。
僕(ぼく)らが暮(く)らす、あの小屋(こや)だって、彼女(かのじょ)が作(つく)ったものなんじゃないだろうか。
…あんな大(おお)きいのは無理(むり)だよ。
彼女(かのじょ)がそう言(い)った。
…でも、時間(じかん)をかければできるかもね。
こくん、と僕(ぼく)は頷(うなず)く。
…じゃあ、どうしよう。
僕(ぼく)はぴょんぴょんとその場(ば)で跳(は)ねてみせた。
こんなふうに、心(こころ)躍(おど)るものがいい。
それを彼女(かのじょ)が作(つく)って、僕(ぼく)が手伝(てつだ)う。
それは、とても楽(たの)しいことだと思(おも)えた。
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seagull - 2009/5/2 13:11:00
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4月26日()

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渚(なぎさ)「お、おはようございます」
朋也(ともや)「ああ、おはよ」
渚(なぎさ)「………」
朝(あさ)の挨拶(あいさつ)をした後(あと)、渚(なぎさ)は顔(かお)を伏(ふ)せてしまった。
朋也(ともや)「どうかしたか?」
渚(なぎさ)「いえ、なんでもないです」
渚(なぎさ)「ちょっと恥(は)ずかしかっただけです」
朋也(ともや)「恥(は)ずかしい?
今更(いまさら)だな」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは、わたしを支(ささ)えてくれる人(ひと)でした」
朋也(ともや)「俺(おれ)だっておまえに支(ささ)えられてたぞ」
渚(なぎさ)「あ、そうなんですか?」
朋也(ともや)「そうだ」
渚(なぎさ)「でも、きっと、わたしのほうが何倍(なんばい)も支(ささ)えてもらってます」
朋也(ともや)「そうか…?」
渚(なぎさ)「はい。朋也(ともや)くん、口(くち)は悪(わる)いですけど、とても優(やさ)しくて…」
渚(なぎさ)「すごくいい人(ひと)だなって…」
渚(なぎさ)「かっこいいし…」
渚(なぎさ)「こんな人(ひと)の、彼女(かのじょ)になる人(ひと)ってどんな人(ひと)かなって…」
渚(なぎさ)「そう思(おも)ってました」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「そうやって、振(ふ)り返(かえ)りながら…」
渚(なぎさ)「ああ…その彼女(かのじょ)って、わたしなんだって…」
渚(なぎさ)「そう思(おも)ったときに、朋也(ともや)くんがやってきました」
渚(なぎさ)「そうしたら、朋也(ともや)くんの顔(かお)、見(み)れないぐらいに照(て)れてしまいました…」
朋也(ともや)「そ…」
なにかよくわからなかったけど…俺(おれ)なんかの顔(かお)で照(て)れられるなんて思(おも)ってもみなかった。
渚(なぎさ)「あのっ」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「今日(きょう)も、わたし、朋也(ともや)くんの彼女(かのじょ)です」
自信(じしん)を持(も)って言(い)った。
朋也(ともや)「………」
突然(とつぜん)だったから、俺(おれ)は面食(めんく)らって、一瞬(いっしゅん)言葉(ことば)に詰(つ)まる。
それだけでも、渚(なぎさ)は不安(ふあん)に思(おも)ってしまったのだろう。
渚(なぎさ)「…ですよね?」
そう、控(ひか)えめに訊(き)き直(なお)していた。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「ああ、当然(とうぜん)だ」
朋也(ともや)「一日(いちにち)で別(わか)れてたまるか」
朋也(ともや)「明日(あした)も、明後日(あさって)もだよ」
渚(なぎさ)「その次(つぎ)の日(ひ)もですか」
朋也(ともや)「ああ」
そんなに俺(おれ)みたいな甲斐性(かいしょ)のない男(おとこ)を離(はな)したくないのだろうか。
ちょっとしたことで、不安(ふあん)に思(おも)ってしまうこいつのことだからな…。
朋也(ともや)「いつまでもだよ」
そう安心(あんしん)させるように俺(おれ)は言(い)っていた。
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「ほら、そろそろ行(い)かないと遅刻(ちこく)するぞ」
渚(なぎさ)「は、はいっ」
また、俺(おれ)たちは坂(さか)を登(のぼ)った。
春原(すのはら)「おい、岡崎(おかざき)」
春原(すのはら)「おまえ、朝練(あされん)、どうしてサボった」
朋也(ともや)「部活(ぶかつ)かよ、これはっ」
春原(すのはら)「部活(ぶかつ)じゃない。けど、部活(ぶかつ)してる連中(れんちゅう)に勝(か)とうとしてるんだ」
春原(すのはら)「それぐらいの意気込(いきご)みでないとね」
春原(すのはら)「それに時間(じかん)がない。試合(しあい)は来週(らいしゅう)の水曜(すいよう)だから」
朋也(ともや)「はぁ?」
春原(すのはら)「さっき決(き)めてきた。壮観(そうかん)だったよ。バスケ部(ぶ)の唖然(あぜん)とする顔(かお)さ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「いつって言(い)ったっけ?」
春原(すのはら)「来週水曜(らいしゅうすいよう)」
朋也(ともや)「待(ま)てっ、人数(にんずう)も集(あつ)まってないってのに勝手(かって)にそんなこと決(き)めてんじゃねえよ、馬鹿(ばか)っ」
春原(すのはら)「いるじゃん、三人(さんにん)」
朋也(ともや)「どこに」
春原(すのはら)「おまえと僕(ぼく)と渚(なぎさ)ちゃんで三人(さんにん)」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)をいれるな。ふたりだろっ」
春原(すのはら)「まぁな。まともに動(うご)けるのはふたりだな」
春原(すのはら)「しかし、おまえも知(し)っての通(とお)り、僕(ぼく)の運動神経(うんどうしんけい)はずば抜(ぬ)けている」
春原(すのはら)「この僕(ぼく)をポイントゲッターに据(す)えていれば間違(まちが)いないさ」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)か、おまえはっ。3on3で、ひとりまともに動(うご)けないで勝(か)てるかっ」
朋也(ともや)「しかも、シュートを打(う)てる奴(やつ)がひとりだ」
朋也(ともや)「やるまでもない。負(ま)けて恥(はず)かくだけだぞ」
春原(すのはら)「そうなのか?」
こいつは全然(ぜんぜん)わかっちゃいねぇ…。
春原(すのはら)「そいつは、まずい。合唱部(がっしょうぶ)の甘(あま)ちゃん部長(ぶちょう)にも、啖呵(たんか)を切(き)ってきたところだからな…」
朋也(ともや)「なんてだよ…」
春原(すのはら)「僕(ぼく)たちが勝(か)ったら、二度(にど)とハンデを盾(たて)にすんじゃねぇって」
朋也(ともや)「おまえな…」
朋也(ともや)「先走(さきばし)りしすぎなんだよっ!」
ぽか!と一発(いっぱつ)殴(なぐ)っておく。
春原(すのはら)「いてぇなぁ!
いいじゃないか、これからもうひとり探(さが)せばよっ!」
朋也(ともや)「四日(よっか)でかよ。しかも、そのうち二日(ふつか)は休(やす)みじゃねぇか…」
春原(すのはら)「おまえ、誰(だれ)か知(し)り合(あ)いでいないのか?
バスケやってたんなら、いるだろ?」
朋也(ともや)「いねぇよ。おまえは」
春原(すのはら)「いるかっ」
朋也(ともや)「………」
友達(ともだち)のいないふたりだった。
朋也(ともや)「仕方(しかた)ない。闇雲(やみくも)に当(あ)たってみるか」
春原(すのはら)「バレるなよ。今更(いまさら)メンバーが集(あつ)まってないなんて知(し)れたら、それこそ恥(はじ)だ」
朋也(ともや)「おまえが言(い)うな、おまえが」
俺(おれ)は数(かず)少(すく)ない知(し)り合(あ)いを当(あ)たってみたが、成果(せいか)はなし。
誰(だれ)もが、どうしてこんな勉強(べんきょう)に忙(いそが)しい時期(じき)にそんなことをしなくちゃならないんだ、と呆(あき)れた。
その中(なか)のひとりは鼻(はな)で笑(わら)うようにして言(い)ったから殴(なぐ)ってやろうかと思(おも)ったが、ぎりぎりのところで抑(おさ)える。
そもそも、連中(れんちゅう)のほうが正(ただ)しいのだ。
馬鹿(ばか)なのは、春原(すのはら)ひとりだ。
ぽかっ!
春原(すのはら)「いてぇっ!
なんで顔(かお)を合(あ)わせるなり殴(なぐ)られるよっ!?」
朋也(ともや)「試合(しあい)なんてやめだ、やめっ」
朋也(ともや)「断(ことわ)ってこいっ」
春原(すのはら)「今更(いまさら)断(ことわ)れっかよっ」
朋也(ともや)「潰(つぶ)れるのは、おまえのメンツだけだろ?
潰(つぶ)れてこい」
春原(すのはら)「いや、おまえの名前(なまえ)でも啖呵(たんか)を切(き)ってきた」
朋也(ともや)「は…?」
春原(すのはら)「春原(すのはら)·岡崎(おかざき)コンビとしてだな…」
朋也(ともや)「なんてことしてくれるんだよっ!」
俺(おれ)は春原(すのはら)の首(くび)を絞(し)めにかかる。
春原(すのはら)「ぐはぁっ!」
振(ふ)りほどいて咳(せ)き込(こ)む春原(すのはら)。
春原(すのはら)「てめぇっ…その元気(げんき)を、試合(しあい)に使(つか)えよ!」
朋也(ともや)「使(つか)わねぇよ!」
朋也(ともや)「もう、いいっ…勝手(かって)にしろっ」
俺(おれ)は呆(あき)れて、机(つくえ)に突(つ)っ伏(ぷ)す。
そもそも、渚(なぎさ)と付(つ)き合(あ)ってから、初(はじ)めての週末(しゅうまつ)だ。
朋也(ともや)(それをメンバー集(あつ)めだ、バスケの練習(れんしゅう)だ?)
朋也(ともや)(やってられっかよ…)
春原(すのはら)「さ、メンバー探(さが)し、頑張(がんば)ろうぜっ」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は目(め)の前(まえ)の鞄(かばん)をひっ掴(つか)むと…
だっ!
ダッシュで教室(きょうしつ)を飛(と)び出(だ)した。
廊下(ろうか)に出(で)ると、全力疾走(ぜんりょくしっそう)で駆(か)け、そしてB組(ぐみ)のプレートの下(した)に滑(すべ)り込(こ)む。
朋也(ともや)(渚(なぎさ)っ…)
開(ひら)かれたドアの向(む)こうにその姿(すがた)を探(さが)す。
窓際(まどぎわ)の前(まえ)の席(せき)、昨日(きのう)と同(おな)じように渚(なぎさ)は椅子(いす)に座(すわ)っていて、教科書(きょうかしょ)を鞄(かばん)の中(なか)に詰(つ)めていた。
俺(おれ)の気配(けはい)に気(き)づいてか、こっちを向(む)いた。
そして、照(て)れたようにえへへと笑(わら)う。
朋也(ともや)(だから、えへへじゃないっ)
急(いそ)がないと春原(すのはら)に捕(つか)まってしまう。
俺(おれ)は必死(ひっし)に手招(てまね)きして、急(せ)かした。
渚(なぎさ)「どうしましたかっ」
朋也(ともや)「帰(かえ)る準備(じゅんび)はできてるかっ」
渚(なぎさ)「え?
できてますけど」
鞄(かばん)を胸(むね)の前(まえ)まで持(も)ち上(あ)げてみせる。
朋也(ともや)「よし、帰(かえ)るぞっ」
渚(なぎさ)「え、あ…はいっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「バスケの練習(れんしゅう)あったんじゃないんですかっ」
朋也(ともや)「いや…」
俺(おれ)は嘘(うそ)をつくことにする。でないと、せっかくの週末(しゅうまつ)をふたりきりで過(す)ごせなくなる。
朋也(ともや)「練習(れんしゅう)はない」
渚(なぎさ)「え?
春原(すのはら)さん、やる気(き)いっぱいでした」
朋也(ともや)「いや、それは違(ちが)ったんだ…」
朋也(ともや)「バスケの練習(れんしゅう)は…俺(おれ)と一緒(いっしょ)にいる口実(こうじつ)だったんだよ…」
渚(なぎさ)「口実(こうじつ)、ですか?」
朋也(ともや)「ああ…よく聞(き)けよ…」
朋也(ともや)「あいつホモになっちまったんだ…」
渚(なぎさ)「え…?
なんですか?」
朋也(ともや)「ホモ。おまえ、知(し)らねぇの?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「男(おとこ)が好(す)きな男(おとこ)のことだよ」
渚(なぎさ)「でも、それは、いいことだと思(おも)います」
朋也(ともや)「違(ちが)う。友情(ゆうじょう)じゃない、愛情(あいじょう)だ。しかも、プラトニックじゃないんだ」
朋也(ともや)「プラトニックじゃないということがわかるか?」
朋也(ともや)「精神的(せいしんてき)な付(つ)き合(あ)いじゃない、ということだ。じゃ、その反対(はんたい)はなんだ?」
渚(なぎさ)「………」
唖然(あぜん)としている。未知(みち)の世界(せかい)だったのだろう。
朋也(ともや)「ああ、健全(けんぜん)だったあいつが、そんな変態野郎(へんたいやろう)になっちまうとは…」
朋也(ともや)「そんな奴(やつ)が迫(せま)ってきたら、おまえ、逃(に)げるしかないだろう?」
朋也(ともや)「バスケの練習中(れんしゅうちゅう)もボールじゃなくて、俺(おれ)の体(からだ)にベタベタ触(さわ)ってきやがってよ…」
朋也(ともや)「もう、あんなの嫌(いや)だ…」
渚(なぎさ)「それ、本当(ほんとう)…でしょうか…」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)だよ」
朋也(ともや)「それともなんだ。渚(なぎさ)は、俺(おれ)が春原(すのはら)の餌食(えじき)になれってか」
渚(なぎさ)「い、いえ…」
朋也(ともや)「練習中(れんしゅうちゅう)にモミモミされろってか」
渚(なぎさ)「いえっ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はおまえのためにも、清(きよ)いままの体(からだ)でだな…」
渚(なぎさ)「すみません…」
渚(なぎさ)「そんな深(ふか)い事情(じじょう)があったなんて、知(し)らなかったですから…」
朋也(ともや)「ああ、誰(だれ)にも言(い)うなよ」
渚(なぎさ)「はい。言(い)いません」
渚(なぎさ)「そもそも、そんなこと口(くち)になんてできないです」
渚(なぎさ)「その…あまりに衝撃的(しょうげきてき)すぎて…」
朋也(ともや)「だから、今日(きょう)はさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「ふたりで遊(あそ)ぼう」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「まず、どっかで飯(めし)を食(く)ってさ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「よし、じゃ、いこう」
渚(なぎさ)「はいっ」
再(ふたた)び歩(ある)き出(だ)す。
俺(おれ)は学校(がっこう)の正面(しょうめん)にある、定食屋(ていしょくや)へと渚(なぎさ)を連(つ)れていく。
朋也(ともや)「ここで、いいか?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、入(はい)るぞ」
渚(なぎさ)「え?
このままですか?」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「わたし、制服(せいふく)です」
朋也(ともや)「俺(おれ)だって、制服(せいふく)だよ」
渚(なぎさ)「制服(せいふく)のまま遊(あそ)んでたら…ダメだと思(おも)います」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「それは道草(みちくさ)です」
俺(おれ)は思(おも)わず顔(かお)を覆(おお)わずにはいられない。
朋也(ともや)「おまえは小学生(しょうがくせい)か…」
渚(なぎさ)「だから、一度(いちど)帰(かえ)って着替(きが)えてきます」
朋也(ともや)「それで、またここに来(きたる)んのか?」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「とても、美味(おい)しそうなメニューが並(なら)んでいます」
渚(なぎさ)「楽(たの)しみです」
朋也(ともや)「………」
…力(ちから)ずくで連(つ)れ込(こ)んでやろうか、とも思(おも)う。
が、連(つ)れ込(こ)む先(さき)が自分(じぶん)の部屋(へや)であるならまだしも…
俺(おれ)は店(みせ)の看板(かんばん)を見上(みあ)げる。
…御食事処(おしょくじところ)。
朋也(ともや)(ああ…俺(おれ)って男(おとこ)だ…)
朋也(ともや)(力(ちから)ずくで彼女(かのじょ)を連(つ)れ込(こ)もうとしてるなんてな…)
朋也(ともや)(興奮(こうふん)してきたぜ…)
朋也(ともや)(ハァ…ハァ…)
見上(みあ)げる。
…御食事処(おしょくじところ)。
朋也(ともや)「って、こんな状況(じょうきょう)はイヤだぁーーーっ!」
渚(なぎさ)「はい?」
朋也(ともや)「すんなり入(はい)ってくれ、頼(たの)むからっ」
渚(なぎさ)「制服(せいふく)ではダメです」
朋也(ともや)「おまえ、見(み)かけによらず頑固(がんこ)なのな…」
渚(なぎさ)「頑固(がんこ)とかそういうんじゃないです」
渚(なぎさ)「校則(こうそく)ですから」
がらり…。
今(いま)、ちょうど三人組(さんにんぐみ)の同校(どうこう)の生徒(せいと)が制服(せいふく)のまま、のれんをくぐっていった。
朋也(ともや)「見(み)たか」
朋也(ともや)「そんな校則(こうそく)なんて、あってないようなもんなんだ」
渚(なぎさ)「人(ひと)は人(ひと)です」
朋也(ともや)「でも、おまえも、遅刻(ちこく)したりしてたじゃん」
渚(なぎさ)「それは…」
渚(なぎさ)「そうですけどっ…」
渚(なぎさ)「でも、だからって、ずるずると悪(わる)いことしてたら、ダメな人間(にんげん)になってしまいます」
渚(なぎさ)「だから、わたしはがんばりたいんです」
渚(なぎさ)「ダメでしょうか?」
朋也(ともや)「………」
ここまで彼女(かのじょ)に懇願(こんがん)されると、強引(ごういん)に連(つ)れ込(こ)むようなこともできなかった。
男子生徒(だんしせいと)A「いやぁ、腹減(はらへ)ったなぁ!」
男子生徒(だんしせいと)B「カツ丼(どん)、カツ丼(どん)!」
どんどんと同校(どうこう)の生徒(せいと)たちが吸(す)い込(こ)まれていく。
朋也(ともや)「てめぇら、帰(かえ)って着替(きが)えてこいやーっ!」
そのひとりを捕(つか)まえて、怒鳴(どな)ってやる。
男子生徒(だんしせいと)「ひっ…わ、わっかりましたぁ!」
俺(おれ)の剣幕(けんまく)に怯(おび)えるようにして、逃(に)げ帰(かえ)っていった。
朋也(ともや)「ふぅ…いいことしたぜ」
渚(なぎさ)「なんだか八(やっ)つ当(あ)たりに見(み)えました…」
朋也(ともや)「気(き)のせいだ」
今(いま)の生徒(せいと)も帰(かえ)ったことだし、俺(おれ)たちも帰(かえ)ることにしよう。
朋也(ともや)「帰(かえ)るか…」
俺(おれ)は踵(きびす)を返(かえ)す。その先(さき)。
春原(すのはら)「なに食(く)うかなぁ」
朋也(ともや)「ぐあ…」
春原(すのはら)がいた。
こいつも、今日(きょう)は、この定食屋(ていしょくや)なのか…。
春原(すのはら)「あれ…」
春原(すのはら)「これはこれは、岡崎(おかざき)くん」
春原(すのはら)「今(いま)から昼(ひる)?」
朋也(ともや)「ああ、そうだよ…」
朋也(ともや)「でも、渚(なぎさ)が制服(せいふく)で食(く)うと寄(よ)り道(みち)だって言(い)うからさ…帰(かえ)ることにしたんだ」
春原(すのはら)「帰(かえ)る?」
春原(すのはら)「そんなことしてたら、午後(ごご)からのミーティングに間(ま)に合(あ)わないと思(おも)うんだけど」
春原(すのはら)「開始(かいし)まで後(あと)、30分(ぷん)ね」
腕時計(うでどけい)を突(つ)きつけられる。
朋也(ともや)「やらねぇって言(い)ってんだろ、馬鹿(ばか)」
春原(すのはら)「つれないねぇ」
春原(すのはら)「渚(なぎさ)ちゃんとは、こんなに仲良(なかよ)さそうにしちゃってさ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)とももっと仲良(なかよ)くしてくれよ、寂(さび)しいじゃん」
春原(すのはら)が俺(おれ)の肩(かた)を掴(つか)もうとする。
渚(なぎさ)「あっ」
ぱしっ。
その腕(うで)を、なぜか渚(なぎさ)が掴(つか)んで、制止(せいし)させていた。
春原(すのはら)「ありゃ?
どうしたの、渚(なぎさ)ちゃん」
渚(なぎさ)「そ、そのっ…」
渚(なぎさ)「そういうことはっ…朋也(ともや)くんも、嫌(いや)がってますし…よくないとっ…」
春原(すのはら)「どうして。飯(めし)食(く)いながら、ミーティングするだけだよ?」
渚(なぎさ)「それは、構(かま)わないですっ…」
渚(なぎさ)「ただ、その、朋也(ともや)くんにあまり無闇(むやみ)に触(さわ)るのはどうかとっ…」
朋也(ともや)(げっ…)
…こいつはマジで、春原(すのはら)がホモになったと信(しん)じているのだ。
朋也(ともや)(なんて、純粋(じゅんすい)な奴(やつ)なんだぁ…)
感動(かんどう)すら覚(おぼ)える。
春原(すのはら)「いや、だって、僕(ぼく)と岡崎(おかざき)の付(つ)き合(あ)いだぜ?」
春原(すのはら)「これぐらいのこと、いいと思(おも)うんだけどなぁ」
渚(なぎさ)「だ…ダメですっ」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さんと、朋也(ともや)くんがどれだけ付(つ)き合(あ)いが長(なが)くても…」
渚(なぎさ)「今(いま)は…」
春原(すのはら)「今(いま)は?」
渚(なぎさ)「今(いま)はっ、わたしの彼氏(かれし)なんですからっ」
渚(なぎさ)の爆弾発言(ばくだんはつげん)。
ひとり修羅場(しゅらじょう)。
春原(すのはら)「へ?」
顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にして、泣(な)き出(だ)しそうにしている。
朋也(ともや)(ああ、渚(なぎさ)よ…おまえは本当(ほんとう)に可愛(かわい)い奴(やつ)だ…)
春原(すのはら)「なぁ、岡崎(おかざき)、どういうこと、これ?」
春原(すのはら)は唖然(あぜん)としている。
渚(なぎさ)を落(お)ち着(つ)かせるには、事実(じじつ)を明(あ)かすしかなかった。
朋也(ともや)「あのな…渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「は、はい…」
朋也(ともや)「嘘(うそ)なんだ」
渚(なぎさ)「は…はい?」
朋也(ともや)「その、春原(すのはら)が…」
朋也(ともや)「ホモだってこと…」
渚(なぎさ)「え…えぇ…?」
渚(なぎさ)「ぐっ…」
ついに、堪(た)えていた涙(なみだ)が、溢(あふ)れ出(だ)してしまった。
渚(なぎさ)「ひどいです、朋也(ともや)くんっ…」
春原(すのはら)「ああ、本当(ほんとう)にひでぇよ、こいつは」
春原(すのはら)「人(ひと)が同性愛者(どうせいあいしゃ)なんて、そんな不毛(ふもう)な妄想(もうそう)するなんてさ」
春原(すのはら)「つーわけで、スポーツで発散(はっさん)しような」
春原(すのはら)「きっと、溜(た)まってんだよ」
春原(すのはら)「渚(なぎさ)ちゃんも言(い)ってやれよ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「わたしも、春原(すのはら)さんと一緒(いっしょ)にがんばってほしいです」
渚(なぎさ)「それに春原(すのはら)さんを…わたし、傷(きず)つけてしまいましたから…」
渚(なぎさ)「だから、わたしもお手伝(てつだ)いしたいです」
春原(すのはら)「うんうん、優(やさ)しいねぇ、渚(なぎさ)ちゃんは」
最悪(さいあく)の結果(けっか)になってしまった…。
今更(いまさら)、俺(おれ)だけ逃(に)げようが、渚(なぎさ)は春原(すのはら)の手伝(てつだ)いをしてしまうだろう。
朋也(ともや)「はぁ…」
俺(おれ)は自分(じぶん)の馬鹿(ばか)さ加減(かげん)にため息(いき)をつく。
渚(なぎさ)「それに朋也(ともや)くん、話(はなし)だと水曜日(すいようび)までです」
渚(なぎさ)「ふたりで遊(あそ)ぶのは、それからでもたくさんできます」
そんな俺(おれ)の落胆(らくたん)する姿(すがた)を見(み)て、哀(あわ)れに思(おも)ってくれたのか、渚(なぎさ)はそう言(い)ってくれる。
渚(なぎさ)「そんな、わたしなんかと遊(あそ)ぶのを楽(たの)しみにして…がんばる気(き)になれるかはわからないですけど…」
朋也(ともや)「いや、なれるよ、十分(じゅうぶん)」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか…なら、よかったです」
渚(なぎさ)「わたしも、それを楽(たの)しみにがんばりたいです」
春原(すのはら)「おふたり、結構(けっこう)アツアツなんだね…」
朋也(ともや)「うらやましいか、この野郎(やろう)」
俺(おれ)は開(ひら)き直(なお)るしかなかった。
春原(すのはら)「付(つ)き合(あ)いだして、間(ま)もないんだろ?」
朋也(ともや)「ああ、そうだけど」
春原(すのはら)「ふん、なら、おもしろいことになりそうだな」
春原(すのはら)「試合(しあい)が終(お)わる頃(ころ)には…三角関係(さんかくかんけい)になってるかもなっ」
俺(おれ)は想像(そうぞう)してみる。
『俺(おれ)』―恋仲関係(こいなかかんけい)―『渚(なぎさ)』←ストーカー―『春原(すのはら)』
朋也(ともや)「ひぃ、やめてくれっ!」
春原(すのはら)「ふん…僕(ぼく)を男(おとこ)として恐(おそ)れてるのか。まぁ、無理(むり)もないけどねっ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)が本気(ほんき)になれば、それはもう…」
朋也(ともや)「被害者(ひがいしゃ)続出(ぞくしゅつ)かよ…」
春原(すのはら)「僕(ぼく)って結構(けっこう)マメだしさ…」
朋也(ともや)「尾行(びこう)とかやりそうだもんな…」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)「きっと、おまえの想像(そうぞう)は間違(まちが)ってるぞ」
朋也(ともや)「うん、厄介(やっかい)そうだったから、そのほうがありがたい」
春原(すのはら)「ほら、ドラマであるだろう。主役(しゅやく)、ヒロイン、と来(き)たら、な?」
俺(おれ)は想像(そうぞう)してみる。
 
主役(しゅやく):岡崎朋也(おかざきともや)

ヒロイン:古河渚(ふるかわなぎさ)

  死体役(したいえき):春原陽平(すのはらようへい)
朋也(ともや)「くそぅ、てめぇなんかに負(ま)けるかぁ」
春原(すのはら)「へっ、調子(ちょうし)ぶっこいてたら、寝首(ねくび)かかれるぜ?」
朋也(ともや)「かかれるかよぅ、この死人(しにん)がぁ!」
春原(すのはら)「って、誰(だれ)が死人(しにん)だぁぁーーっ!」
春原(すのはら)「では、ミーティングを行(おこな)う」
春原(すのはら)「議題(ぎだい)はただひとつ…」
朋也(ともや)「春原(すのはら)の馬鹿(ばか)は死(し)んだら治(なお)るか?」
春原(すのはら)「ちがーーーーうっ!」
春原(すのはら)「3on3のメンバー集(あつ)めだよっ」
春原(すのはら)「今(いま)のところ、僕(ぼく)と岡崎(おかざき)」
春原(すのはら)「後(あと)ひとり足(た)りないわけだが…」
春原(すのはら)の目(め)が渚(なぎさ)に向(む)く。
春原(すのはら)「ま、見(み)つけられなかったら、渚(なぎさ)ちゃんがいるし」
本当(ほんとう)に、それは最悪(さいあく)の選択(せんたく)だ。
渚(なぎさ)には悪(わる)いが、こいつの運動神経(うんどうしんけい)では戦力(せんりょく)にならない。
試合(しあい)という体裁(ていさい)を整(ととの)えるためだけでも、もうひとり動(うご)ける人間(にんげん)を探(さが)す必要(ひつよう)がある。
朋也(ともや)「こんなところで呑気(のんき)に話(はな)してる暇(ひま)なんてないんじゃないのか?」
春原(すのはら)「うん?
どうして?」
朋也(ともや)「試合(しあい)は休(やす)み明(あ)けの水曜(すいよう)」
朋也(ともや)「その間(あいだ)、平日(へいじつ)は月曜(げつよう)の一日(いちにち)しかない」
朋也(ともや)「今(いま)から探(さが)し始(はじ)めないとまずいんじゃないのか」
春原(すのはら)「うん、君(きみ)、いいこと言(い)うねぇ」
朋也(ともや)「おまえ、呑気(のんき)すぎるぞ」
春原(すのはら)「まぁ、見(み)つけられなかったら、渚(なぎさ)ちゃんがいるし」
朋也(ともや)「だあぁからっ、こいつはすげぇ運動音痴(うんどうおんち)なのっ!
使(つか)えてたまるかっ、馬鹿(ばか)!」
朋也(ともや)「あ…」
春原(すのはら)「かーっ、渚(なぎさ)ちゃんの彼氏(かれし)ってすんげぇ恐(こわ)い人(ひと)だねぇ」
春原(すのはら)「傷(きず)つかないうちにさ、別(わか)れたほうがいいんじゃない?」
渚(なぎさ)「そんなことないですっ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの口(くち)が悪(わる)いのは、よくわかってるつもりです」
渚(なぎさ)「それは…傷(きず)つかないと言(い)ったら、嘘(うそ)ですけど…」
渚(なぎさ)「それでも、朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に居(い)ると、楽(たの)しかったり、勇気(ゆうき)づけられたりすることのほうが多(おお)いですから…」
渚(なぎさ)「だから、別(わか)れたりなんかしないです」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)の顔(かお)がこっちを向(む)く。
春原(すのはら)「なんで、こんないい子(こ)が、おまえの彼女(かのじょ)なんだよおぉぉぉーーっ!」
首根(くびね)っこを掴(つか)まれ、ぶんぶんと振(ふ)られる。
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)っ、放(はな)せっ」
春原(すのはら)「ふん、まぁ、いいさ…」
春原(すのはら)「今(いま)のおまえは、ちょっとしたラッキーボーイ」
春原(すのはら)「彼女(かのじょ)が困(こま)っている時(とき)に、たまたま近(ちか)くにいて、頼(たよ)られただけ」
春原(すのはら)「そのうち、もっと素敵(すてき)なナイスガイがいることに気(き)づくことになるのさ」
朋也(ともや)「それ、少(すく)なくともおまえじゃないよな」
春原(すのはら)「僕(ぼく)だよっ、文句(もんく)あるのかよっ」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さんは、その…いい人(ひと)だと思(おも)います。それはもう、十分(じゅうぶん)にわかってます」
春原(すのはら)「ほらね」
渚(なぎさ)「きっと、わたしなんかよりいい人(ひと)、見(み)つかると思(おも)いますっ」
春原(すのはら)「がーん…」
朋也(ともや)「うわーはっはっは!
フラれてんじゃん、おまえ!」
朋也(ともや)「って、なに色恋談義(いろこいだんぎ)に花(はな)を咲(さ)かせてるんだよ、俺(おれ)たちはぁぁーーっ!」
朋也(ともや)「時間(じかん)ないって言(い)ってんだろっ!」
渚(なぎさ)「あ…そうでした」
春原(すのはら)「そうだったねぇ」
朋也(ともや)「おまえら、どこまでも呑気(のんき)な」
朋也(ともや)「とりあえず、出(で)ようぜ。こんなところに居(い)ても、埒(らち)があかないだろ」
すでに校内(こうない)には土曜(どよう)ということもあり、生徒(せいと)は残(のこ)っていなかった。
体育館(たいいくかん)やグラウンドに行(い)けば、部活動(ぶかつどう)に勤(いそ)しむ下級生(かきゅうせい)の連中(れんちゅう)がいただろうけど、そんな奴(やつ)らに知(し)り合(あ)いはいなかった。
渚(なぎさ)「どうしましょう、朋也(ともや)くん」
これ以上(いじょう)探(さが)したって、先生(せんせい)ぐらいしかいそうもないが…。
月曜にする
朋也(ともや)「仕方(しかた)がないな…メンバー集(あつ)めは月曜日(げつようび)にするか」
春原(すのはら)「一日(いちにち)あれば、大丈夫(だいじょうぶ)だって。なぁ、渚(なぎさ)ちゃんっ」
渚(なぎさ)「はい、みんなで手分(てわ)けすれば、きっと大丈夫(だいじょうぶ)です」
本当(ほんとう)にこいつらは、楽天家(らくてんか)でいいな…。
もう、日(ひ)は暮(く)れ始(はじ)めていた。
春原(すのはら)「じゃあねっ」
渚(なぎさ)「はい、また月曜(げつよう)です」
春原(すのはら)が寮(りょう)に戻(もど)っていった。
渚(なぎさ)とふたりきりになる。
渚(なぎさ)「わたしたちも、帰(かえ)りましょう」
朋也(ともや)「ああ」
歩(ある)き出(だ)す。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「明日(あした)、休(やす)みだな」
渚(なぎさ)「はい、お休(やす)みです」
明日(あした)は付(つ)き合(あ)ってから初(はじ)めて迎(むか)える休日(きゅうじつ)。
自然(しぜん)と顔(かお)が綻(ふくろ)ぶほどに、楽(たの)しみだった。
渚(なぎさ)「あの…」
渚(なぎさ)「どうしますかっ」
渚(なぎさ)が思(おも)いきって訊(き)いていた。
朋也(ともや)「そりゃあ…ふたりで過(す)ごしたい」
渚(なぎさ)「ですよね」
渚(なぎさ)「わたしもそうしたいです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「あの…」
朋也(ともや)「なに」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの家(いえ)、行(い)っていいですか」
それは…
考(かんが)えてみれば、予想(よそう)できたことだった。
こいつの性格(せいかく)だったら、まず一番先(いちばんさき)に思(おも)いつくことだっただろう。
朋也(ともや)「………」
さっきまでの休(やす)みに馳(は)せる期待(きたい)なんて、消(き)え失(う)せてしまっていた。
渚(なぎさ)「まだ…喧嘩(けんか)してるんですか」
朋也(ともや)「ああ…」
渚(なぎさ)「わたし、会(あ)ってはいけないですか」
会(あ)ってほしくなかった。
だって、あの人(ひと)は…見(み)かけは気(き)のいい大人(おとな)に見(み)えるだろうから。
きっと渚(なぎさ)は、俺(おれ)の一方的(いっぽうてき)な思(おも)いこみだと…そう俺(おれ)を諭(さと)すに違(ちが)いなかった。
誰(だれ)にもわからない。俺(おれ)にしかわからない。
この…長(なが)い仕打(しう)ちは。
朋也(ともや)「昼間(ひるま)はいないしさ…」
渚(なぎさ)「別(べつ)にいらっしゃらなくてもいいです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの家(いえ)に行(い)きたいと思(おも)いました。それだけです」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に何(なに)もないからさ…散(ち)らかってるだけで」
渚(なぎさ)「じゃあ、掃除(そうじ)させてください」
渚(なぎさ)「片(かた)づけたりするの、好(す)きなので」
朋也(ともや)「あのさ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「またにしよう」
渚(なぎさ)「…そうですか、残念(ざんねん)です」
渚(なぎさ)「でも、無理(むり)は言(い)わないです」
朋也(ともや)「悪(わる)いな…」
渚(なぎさ)「いえ」
朋也(ともや)「代(か)わりに、俺(おれ)がおまえの家(いえ)に行(い)くからさ」
渚(なぎさ)「あ、はいっ、是非(ぜひ)お越(こ)しくださいっ」
朋也(ともや)「ま、行(い)き慣(な)れてるし、今更(いまさら)だけどな」
渚(なぎさ)「いえ、やっぱり、その…付(つ)き合(あ)ってからは初(はじ)めてですし…」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんにもお母(かあ)さんにも、報告(ほうこく)したいです」
朋也(ともや)「…マジ?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「あのさ…その報告(ほうこく)、やめない?」
渚(なぎさ)「どうしてでしょうか」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんなら、まだしも、あのオッサンに知(し)られたらさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、無事(ぶじ)でいられない気(き)がするよ」
渚(なぎさ)「え?
よくわからないですけど…」
そりゃおまえには、優(やさ)しい父親(ちちおや)なんだろうけど…。
朋也(ともや)「とにかくだ。まだ心(こころ)の準備(じゅんび)とかできてないしさ…報告(ほうこく)すんのはやめてくれ」
渚(なぎさ)「そうですか、ちょっと残念(ざんねん)です」
渚(なぎさ)「でも、無理(むり)は言(い)わないです」
朋也(ともや)「おまえ、いい奴(やつ)な」
渚(なぎさ)「そんなことないです。朋也(ともや)くんの嫌(いや)がることはしたくないだけです」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)のなんて単(たん)なるわがままだしさ」
朋也(ともや)「たまには、反論(はんろん)したり、怒(おこ)ったりしてくれてもいいからな」
渚(なぎさ)「はい…言(い)う時(とき)は言(い)いたいと思(おも)います」
朋也(ともや)「うん、そのほうがありがたいよ」
渚(なぎさ)「はい、言(い)わせてもらいます。わたしのほうが年上(としうえ)ですし」
そうだった…すっかり忘(わす)れていた。
というか、改(あらた)めてそう考(かんが)えると、感慨深(かんがいぶか)かった。
渚(なぎさ)「……?」
渚(なぎさ)が留年(りゅうねん)していなかったら、俺(おれ)たちは出会(であ)うことなく、渚(なぎさ)は見知(けんち)らぬ先輩(せんぱい)のままだったのだろう。
朋也(ともや)(先輩(せんぱい)か…)
こいつに一番(いちばん)似合(にあ)わない言葉(ことば)だった。
渚(なぎさ)「それでは、また明日(あした)です」
朋也(ともや)「ああ、昼過(ひるす)ぎてから行(い)くから」
渚(なぎさ)「はい、お待(ま)ちしています」
朋也(ともや)「じゃあな」
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seagull - 2009/5/2 18:15:00
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4月27日()

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翌日(よくじつ)。
俺(おれ)は約束(やくそく)通(とお)り、古河(ふるかわ)パンを訪(おとず)れていた。
朋也(ともや)「ちぃーす」
店内(てんない)には、渚(なぎさ)がひとりでいた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、いらっしゃいませ」
朋也(ともや)「はは…まるでおまえ、店員(てんいん)みたいだな」
朋也(ともや)「それはそれで、新鮮(しんせん)でいいけどな」
渚(なぎさ)「あの、まるで、ではなくてですね…」
朋也(ともや)「お、これ、うまそう。おまえが店員(てんいん)だったら、間違(まちが)いなく買(か)うな」
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くんっ」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「怒(おこ)らないで、聞(き)いてくれますか…」
朋也(ともや)「なんかあったのか」
渚(なぎさ)「はい…あのですね…」
渚(なぎさ)「わたし、今日(きょう)、店番(みせばん)になってしまいました」
朋也(ともや)「え…」
朋也(ともや)「って、ことは…」
渚(なぎさ)「はい、どこにも行(い)けないです…」
朋也(ともや)「マジ…?」
渚(なぎさ)「ごめんなさいです…」
朋也(ともや)「オッサンは…?」
渚(なぎさ)「その…お父(とう)さんがたまには休(やす)みたいってことでして…」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、休(やす)みなく働(はたら)き続(つづ)けていましたので…」
渚(なぎさ)「わたしが代(か)わりますって言(い)ってしまいました…」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は顔面(がんめん)を手(て)で覆(おお)う。
渚(なぎさ)「あのっ、本当(ほんとう)にごめんなさいでしたっ」
朋也(ともや)「いや、いいよ…」
朋也(ともや)「そこでさ…オッサンの言葉(ことば)、無視(むし)できないのがおまえだって、俺(おれ)よくわかってるから」
朋也(ともや)「そういうおまえだから、好(す)きになったんだしな…」
声(こえ)「なんだ、てめぇは、ウチの娘(むすめ)に惚(ほ)れてたのか」
…オッサンの声(こえ)。
いつの間(ま)にか背後(はいご)に立(た)っていた。
俺(おれ)は固(かた)まってしまう。
秋生(あきお)「今(いま)の告白(こくはく)か?」
朋也(ともや)「ち、違(ちが)う…」
朋也(ともや)「ほら、友達感覚(ともだちかんかく)で好(す)きってことでさ…」
秋生(あきお)「そっか…そりゃアソコ拾(びろ)いしたな」
命拾(いのちびろ)いでなく、アソコ拾(びろ)いってなんだ…。
秋生(あきお)「じゃ、今日(きょう)は客(きゃく)か?」
手伝いだ
朋也(ともや)「手伝(てつだ)いだ」
秋生(あきお)「よし、じゃ、おまえ、ボール拾(ひろ)い」
朋也(ともや)「なんの手伝(てつだ)いだよっ」
朋也(ともや)「俺(おれ)が手伝(てつだ)うのは、渚(なぎさ)っ」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか、朋也(ともや)くんっ」
朋也(ともや)「ああ、ふたりで店番(みせばん)しようぜ」
渚(なぎさ)「それはとてもうれしいです…」
秋生(あきお)「いらねぇよっ。てめぇみてぇな無愛想(ぶあいそう)な奴(やつ)が店番(みせばん)してたら、客(きゃく)が減(へ)るだろがっ」
あんたで減(へ)らないなら、減(へ)らない。
秋生(あきお)「それに早苗(さなえ)だって居(い)るしな」
朋也(ともや)「じゃ、早苗(さなえ)さんにも休(やす)んでもらったらいいだろ」
渚(なぎさ)「あ、それ、とてもいいアイデアですっ」
渚(なぎさ)「これで、お母(かあ)さんにも休(やす)んでもらえます」
秋生(あきお)「おまえら、ふたりで店番(みせばん)だとぅ?」
渚(なぎさ)「はい」
秋生(あきお)「…そんなに甘(あま)くはねぇぞ」
渚(なぎさ)「わかってます」
秋生(あきお)「一歩間違(いっぽまちが)えたら、それは死(し)を意味(いみ)する…」
嘘(うそ)つけ。
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。わたしは慣(な)れてます」
渚(なぎさ)「それに、朋也(ともや)くんのサポートもします」
秋生(あきお)「ちっ…てめぇは頑固(がんこ)だからな…」
渚(なぎさ)「はい、頑固(がんこ)です」
秋生(あきお)「わかった、やれよっ」
秋生(あきお)「売(う)って売(う)りまくれっ」
秋生(あきお)「そして、このパン屋(や)をブレイクさせろっ」
秋生(あきお)「出(だ)すパン、すべてミリオンだっ!」
渚(なぎさ)「よくわからないですが、精一杯(せいいっぱい)がんばりますっ」
秋生(あきお)「いや、おまえは、頑張(がんば)らなくていい」
渚(なぎさ)「え?」
秋生(あきお)「頑張(がんば)るのは、てめぇだよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)?」
秋生(あきお)「ああ。渚(なぎさ)、こいつをこき使(つか)ってやれっ」
秋生(あきお)「トロピカルなジュースでも飲(の)みながら、顎(あご)で使(つか)ってやれっ」
渚(なぎさ)「そんなことしないですっ」
秋生(あきお)「てめぇは可愛(かわい)いんだから、男(おとこ)をうまく利用(りよう)して生(い)きていけよっ」
秋生(あきお)「トロピカルなジュース、飲(の)んでいけよっ」
渚(なぎさ)「そんなの嫌(いや)ですっ」
渚(なぎさ)「ふたりで力(ちから)を合(あ)わせてがんばりたいですっ」
秋生(あきお)「ちっ…」
秋生(あきお)「むかつく野郎(やろう)だぜ」
朋也(ともや)「俺(おれ)かよっ」
秋生(あきお)「ま、いい。好(す)きにしろ」
秋生(あきお)「後(あと)は任(まか)せた」
渚(なぎさ)「はいっ」
朋也(ともや)「あんたは、どうすんだよ」
秋生(あきお)「娘(むすめ)が作(つく)ってくれた有意義(ゆういぎ)な時間(じかん)だからな…」
秋生(あきお)「遊(あそ)ぶぜ!」
言(い)って、レジ下(した)から取(と)り出(だ)したのは、金属(きんぞく)バットだった。
朋也(ともや)「何(なに)する気(き)だよ…」
秋生(あきお)「何(なに)って、野球(やきゅう)に決(き)まってんだろうよ」
秋生(あきお)「おまえは、バット持(も)って、風呂(ふろ)にでも入(はい)りにいくのか」
朋也(ともや)「いや…」
秋生(あきお)「だろ。バットと言(い)えば、野球(やきゅう)。野球(やきゅう)と言(い)えばバットだ」
グローブとボールはどうした。
秋生(あきお)「じゃあな、後(あと)は任(まか)せたぜ」
秋生(あきお)「イヤッホーーゥ!」
俺(おれ)が呆然(ぼうぜん)と見(み)つめる前(まえ)で、子供(こども)のように奇声(きせい)を発(はっ)しながら店(みせ)を出(で)ていった。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんの趣味(しゅみ)です」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「近所(きんじょ)の子供(こども)と、野球(やきゅう)するんです」
朋也(ともや)「子供相手(こどもあいて)…?」
渚(なぎさ)「はい。お父(とう)さん、子供(こども)に大人気(だいにんき)です」
朋也(ともや)「あ、そう…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)によかったです。あんなに喜(よろこ)んでもらえて」
渚(なぎさ)「いつもは夕方(ゆうがた)になってから、出(で)ていくんですけど、今日(きょう)は一日中(いちにちじゅう)できます」
朋也(ともや)「いつもやってんのかよ…だったら、単(たん)なるサボリじゃん…」
あんな人(ひと)のために手伝(てつだ)うはめになっている自分(じぶん)が情(なさ)けない…。
早苗(さなえ)「お待(ま)たせしてしまいましたね」
早苗(さなえ)さんが厨房(ちゅうぼう)から現(あらわ)れる。
その手(て)には、焼(や)きたてのパンを載(の)せたトレイ。
早苗(さなえ)さんのオリジナルパンなのだろう。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「こんにちは」
早苗(さなえ)「賑(にぎ)やかだと思(おも)ってたら、岡崎(おかざき)さんがいらしてたんですね」
渚(なぎさ)「はい。それでですね、お母(かあ)さん」
早苗(さなえ)「はい?」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は、お母(かあ)さんも休(やす)んでくださいっ」
早苗(さなえ)「え?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、手伝(てつだ)ってくれるので、大丈夫(だいじょうぶ)です」
早苗(さなえ)「えっ、そうなんですか?」
朋也(ともや)「ああ、手伝(てつだ)わせてください」
早苗(さなえ)「そんな…悪(わる)いですから」
朋也(ともや)「いや、いい経験(けいけん)になると思(おも)うんで」
早苗(さなえ)「そうなんですか?」
朋也(ともや)「ええ、本当(ほんとう)ですって」
早苗(さなえ)「そうですか…」
早苗(さなえ)「…わかりました」
早苗(さなえ)「ではわたしは部屋(へや)のほうに居(い)ますので、何(なに)かあれば、呼(よ)んでください」
自分(じぶん)のパンを所定(しょてい)の位置(いち)に並(なら)べる。
もう一度(いちど)俺(おれ)たちに向(む)き直(なお)ると…
早苗(さなえ)「それでは、頑張(がんば)ってくださいねっ」
そう激励(げきれい)して、家(いえ)の奥(おく)へと入(はい)っていった。
渚(なぎさ)「とは言(い)ってみたものの、さすがにお父(とう)さんもお母(かあ)さんもいないと緊張(きんちょう)します…」
朋也(ともや)「でも、客(きゃく)自体(じたい)、そんなに来(こ)ないんじゃないのか?」
渚(なぎさ)「はい。一番忙(いちばんいそが)しい時間(じかん)は朝(あさ)なので、午後(ごご)からはそんなに大変(たいへん)ではないと思(おも)います」
朋也(ともや)「じゃ、気楽(きらく)にいこうぜ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「………」
…やることがない。
渚(なぎさ)「ええと…」
渚(なぎさ)「値段(ねだん)、確認(かくにん)しておきます」
言(い)って、渚(なぎさ)はトレイに飾(かざ)られた値札(ねふだ)を覗(のぞ)き込(こ)む。
お尻(しり)がこっちに向(む)く。
…目(め)が離(はな)れない。
朋也(ともや)(屈(かが)めば…もしかしたら見(み)えるかも…)
朋也(ともや)「って、彼氏(かれし)なのに、何(なに)考(かんが)えてんだぁーーっ!」
渚(なぎさ)「えっ」
渚(なぎさ)が振(ふ)り返(かえ)っていた。
渚(なぎさ)「びっくりしました…」
渚(なぎさ)「どうかしましたか」
朋也(ともや)「い、いや…」
渚(なぎさ)「退屈(たいくつ)ですか?」
朋也(ともや)「店番(みせばん)なんだから、そんなこと言(い)ってられないって」
渚(なぎさ)「ですよね」
カラン、と呼(よ)び鈴(りん)。
振(ふ)り向(む)くと、買い物(もの)袋(ぶくろ)を下(さ)げた主婦(しゅふ)がドアを開(ひら)いていた。
渚(なぎさ)「いらっしゃいませっ」
朋也(ともや)「いらっしゃいませ」
渚(なぎさ)と同(おな)じように俺(おれ)は客(きゃく)を出迎(でむか)えた。
客(きゃく)「こんにちは。今日(きょう)は、お若(わか)い店員(てんいん)さんですね」
渚(なぎさ)「はい、お手伝(てつだ)いです」
客(きゃく)「えらいわね」
渚(なぎさ)「もう、高校生(こうこうせい)ですから、ぜんぜんえらくないです」
客(きゃく)「ううん、なかなか出来(でき)ないことよ。ウチの子(こ)なんてね…」
渚(なぎさ)「ありがとうございました」
客(きゃく)「また、来(く)るわね」
渚(なぎさ)「はい、よろしくお願(ねが)いします」
ようやくひとりめの客(きゃく)が店(みせ)を後(あと)にした。
朋也(ともや)「おまえ、すごいな」
渚(なぎさ)「何(なに)がでしょうか?」
朋也(ともや)「レジ打(う)ってたじゃん」
渚(なぎさ)「簡単(かんたん)です。値段(ねだん)さえわかっていれば、誰(だれ)でも打(う)てます」
朋也(ともや)「お釣(つ)りとか、慣(な)れてないとああもスムーズに取(と)れないと思(おも)うけど」
渚(なぎさ)「ああ、小銭(こぜに)は慣(な)れかもしれないです」
渚(なぎさ)「最初(さいしょ)は指(ゆび)で摘(つま)んでしまいます」
渚(なぎさ)「慣(な)れれば、こう、弾(はじ)けるようになります」
朋也(ともや)「ふぅん…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、レジ打(う)ちやってみますか」
朋也(ともや)「え?
俺(おれ)?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「やったことないんだけど…」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。わたしがお教(おし)えします」
朋也(ともや)「………」
…確(たし)かに、それぐらい出来(でき)なければ、俺(おれ)にやることはなかった。
朋也(ともや)「ああ、じゃ、頼(たの)む」
渚(なぎさ)「はい、では、こっちに来(き)てください」
レジの中(なか)に迎(むか)え入(い)れられる。
渚(なぎさ)は俺(おれ)の腕(うで)を掴(つか)んで、隣(となり)に寄(よ)り添(そ)った。
渚(なぎさ)「簡単(かんたん)です。値段打(ねだんう)って、このボタンを押(お)していくだけです」
渚(なぎさ)「合計(ごうけい)はこのボタンです」
渚(なぎさ)「最後(さいご)にお客(きゃく)さんから頂(いただ)いた金額(きんがく)を入力(にゅうりょく)して、これ押(お)してください」
腕(うで)から、渚(なぎさ)の体温(たいおん)が伝(つた)わってくる。
渚(なぎさ)「すると、お釣(つ)りが表示(ひょうじ)されて、下(した)の引(ひ)き出(だ)しが飛(と)び出(で)てきますから、表示通(ひょうじとお)りにお釣(つ)りを渡(わた)してください」
渚(なぎさ)は一生懸命(いっしょうけんめい)に説明(せつめい)していてくれたけど、俺(おれ)はそれどころじゃなかった。
朋也(ともや)(そう…俺(おれ)、彼氏(かれし)なんだしな…)
朋也(ともや)(ここは正々堂々(せいせいどうどう)と…)
我慢する
我慢(がまん)しよう。仕事中(しごとちゅう)なんだから。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、小銭(こぜに)取(と)り出(だ)してみてください」
ガチャン、と引(ひ)き出(だ)しが開(ひら)いた。
朋也(ともや)「え?
俺(おれ)?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「こうかな…」
俺(おれ)は渚(なぎさ)がやっていたように、指(ゆび)で弾(はじ)いてみせた。
渚(なぎさ)「惜(お)しいです」
その手(て)に、渚(なぎさ)の手(て)が合(あ)わさっていた。
渚(なぎさ)「中指(なかゆび)でこうです」
渚(なぎさ)の指(ゆび)と一緒(いっしょ)に俺(おれ)の指(および)が動(うご)く。
朋也(ともや)「…こう?」
シュッと音(おと)を立(た)てて、硬貨(こうか)が一枚(いちまい)、手(て)のひらに滑(すべ)り落(お)ちていた。
渚(なぎさ)「はいっ、今(いま)のとても良(よ)かったです」
朋也(ともや)「はは…」
渚(なぎさ)に褒(ほ)められるとなんか嬉(うれ)しい。
このままずっと、寄(よ)り添(そ)って、教(おし)えていてもらいたかった。
客(きゃく)「こんにちはー」
しかし無情(むじょう)にも客(きゃく)。
渚(なぎさ)「では、朋也(ともや)くん、レジをお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「いらっしゃいませっ」
渚(なぎさ)は、お客(きゃく)に付(つ)きっきりで、パンの説明(せつめい)をしていた。
渚(なぎさ)「以上(いじょう)でよろしいですかっ」
客(きゃく)「はい」
渚(なぎさ)「それでは、お預(あず)かりします」
渚(なぎさ)がパンを載(の)せたトレイを、レジ台(だい)に置(お)いた。
渚(なぎさ)「これが160円(えん)です。こっちのふたつが120円(えん)」
朋也(ともや)「お、おう」
俺(おれ)がレジを打(う)つ横(よこ)で、渚(なぎさ)はパンを袋(ふくろ)に詰(つ)めていく。
朋也(ともや)「400円(えん)ちょうどになります」
客(きゃく)「じゃ、500円(えん)で」
朋也(ともや)「100円(えん)のお返(かえ)しです」
客(きゃく)「はい、どうも」
渚(なぎさ)「ありがとうございましたっ」
渚(なぎさ)の見送(みおく)りで、客(きゃく)は店(みせ)を後(あと)にした。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)が振(ふ)り返(かえ)る。
渚(なぎさ)「とても店員(てんいん)さんらしかったです」
朋也(ともや)「マジ?」
渚(なぎさ)「はい。タバコくわえてないぶん、お父(とう)さんより店員(てんいん)さんらしかったです」
朋也(ともや)「そりゃ、あの人(ひと)に比(くら)べたらな…」
朋也(ともや)「でも、おまえが値段(ねだん)を教(おし)えてくれたからだよ」
朋也(ともや)「それ早(はや)く覚(おぼ)えないと…」
カランと呼(よ)び鈴(りん)が鳴(な)って、次(つぎ)の客(きゃく)が訪(おとず)れていた。
忙(いそが)しいほどではなかったけど、夕方(ゆうがた)までは途切(とぎ)れなく来客(らいきゃく)は続(つづ)いた。
渚(なぎさ)に値段(ねだん)を訊(き)いて打(う)ち込(こ)み、お釣(つ)りを返(かえ)す。
延々(えんえん)とその作業(さぎょう)を続(つづ)けた。
秋生(あきお)「ほぅ…」
オッサンが店内(てんない)を見回(みまわ)す。
秋生(あきお)「なかなかやるじゃねぇか」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ」
秋生(あきお)「ああ、これだけ売(う)れれば上々(じょうじょう)だな」
秋生(あきお)「さすがだ、俺(おれ)の娘(むすめ)よ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが、とてもがんばってくれました」
秋生(あきお)「さすがだ、俺(おれ)の娘(むすめ)よ」
渚(なぎさ)「いえっ、顎(あご)で指図(さしず)とかしてないですっ」
秋生(あきお)「されろよっ」
…俺(おれ)に言(い)うな。
渚(なぎさ)「ふたりでがんばりました」
秋生(あきお)「ちっ…」
秋生(あきお)「まぁ、よく頑張(がんば)ったと褒(ほ)めておいてやろう」
秋生(あきお)「ほら、とっとけ。バイト代(だい)だ」
用意(ようい)していたのか、ポケットから出(だ)した手(て)には札(さつ)が握(にぎ)られていた。
渚(なぎさ)「いえ、バイトじゃないです。お手伝(てつだ)いなので、いらないです」
秋生(あきお)「じゃ、小遣(こづか)いだ」
渚(なぎさ)「お小遣(こづか)いはちゃんともらいました」
秋生(あきお)「それとは別(べつ)にもらってもいいだろ」
渚(なぎさ)「よくないです。お小遣(こづか)いは月(つき)に一度(いちど)と決(き)まってます」
秋生(あきお)「てめぇがもらわねぇと、これでケツふくぞっ」
渚(なぎさ)「そんなことしてはダメですっ」
秋生(あきお)「だろ?
じゃ、もらえよ」
渚(なぎさ)「いえ…」
渚(なぎさ)「わたしは結構(けっこう)ですから…」
秋生(あきお)「ちっ…頑固(がんこ)な奴(やつ)だ」
秋生(あきお)「てめぇはもらうんだろうな」
オッサンの目(め)が俺(おれ)に向(む)いた。
朋也(ともや)「くれるんなら、もらうけど」
秋生(あきお)「じゃ、手(て)、出(だ)せ」
言(い)われた通(とお)りに片手(かたて)を差(さ)し出(だ)す。
秋生(あきお)「両手(りょうて)だ。受(う)け皿(ざら)を作(つく)れ」
朋也(ともや)「あん?」
オッサンがもう一度(いちど)ポケットに手(て)を突(つ)っ込(こ)む。
そして、それを俺(おれ)の手(て)の上(うえ)で開(ひら)いた。
ジャラジャラジャラジャラジャラジャラ~…
すべて小銭(こぜに)だった!
秋生(あきお)「どうだ、たくさんもらえて嬉(うれ)しいだろう」
朋也(ともや)「すんげぇムカツクんだけど」
渚(なぎさ)「あ、お母(かあ)さんです」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、おかえりなさい」
秋生(あきお)「おぅ、帰(かえ)ったぞ」
秋生(あきお)「見(み)ろ、こいつら、結構(けっこう)やりやがる」
早苗(さなえ)「はい、とても頑張(がんば)ってましたから」
早苗(さなえ)「おかげさまで、本当(ほんとう)にゆっくりできました」
早苗(さなえ)「ありがとうございました」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に、よかったです」
早苗(さなえ)「夕飯(ゆうはん)の用意(ようい)ができていますので、岡崎(おかざき)さんも食(た)べていってくださいね」
渚(なぎさ)「え、お母(かあ)さん、いつのまに作(つく)ったんですかっ」
早苗(さなえ)「お昼(ひる)からです。ゆっくり料理(りょうり)を作(つく)れて、とても楽(たの)しかったですよ」
秋生(あきお)「言(い)っておくが、アイデアで勝負(しょうぶ)しなけりゃ、早苗(さなえ)の料理(りょうり)は最高(さいこう)にうまいんだぞっ」
早苗(さなえ)「まるで普段(ふだん)はアイデア勝負(しょうぶ)で失敗(しっぱい)してるみたいな言(い)い方(かた)ですねっ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)…好(す)きだ」
ものすごいごまかし方(かた)だった!
早苗(さなえ)「はい、わたしも好(す)きですよ」
早苗(さなえ)「それでは、みなさん、どうぞ」
早苗(さなえ)さん特製(とくせい)のクリームシチューは、オッサンの言(い)う通(とお)り、最高(さいこう)においしかった。
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seagull - 2009/5/2 18:16:00
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幻想世界VII

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また僕(ぼく)たちは、ガラクタを集(あつ)めるため大地(だいち)を歩(ある)いていた。
…あんまり遠(とお)くに行(い)ってはだめ。
先(さき)に進(すす)もうとした僕(ぼく)を彼女(かのじょ)が止(と)めた。
どうして?と僕(ぼく)は振(ふ)り返(かえ)る。
…帰(かえ)ってこれなくなるから。
僕(ぼく)はもう一度(いちど)振(ふ)り返(かえ)って、遠(とお)くを見(み)た。
どこまでも続(つづ)く大地(だいち)を。
けど、僕(ぼく)はガラクタ探(さが)しに慣(な)れてくると、それに夢中(むちゅう)になってしまった。
丘(おか)を越(こ)えた時(とき)、僕(ぼく)はひとりぼっちになっていた。
慌(あわ)てて、坂(さか)を登(のぼ)っても、彼女(かのじょ)の姿(すがた)は見(み)あたらなかった。
起伏(きふく)の多(おお)い場所(ばしょ)だったから、僕(ぼく)の背(せ)では見通(みとお)しがきかなかった。
叫(さけ)ぶこともできず、僕(ぼく)はひとりさまよい歩(ある)いた。
もう、どっちの方向(ほうこう)が家(いえ)なのかもわからない。
遠(とお)ざかっているのか、それとも近(ちか)づいているのか。
つまずいて、坂(さか)を転(ころ)げ落(お)ちた。
大地(だいち)に仰向(あおむ)けになって倒(たお)れる。
雲(くも)が眼前(がんぜん)に広(ひろ)がっていた。
不気味(ぶきみ)な形(かたち)をしていた。
僕(ぼく)の知(し)らない雲(くも)だった。
彼女(かのじょ)といた場所(ばしょ)は、こんな雲(くも)じゃなかったはずだ。
ここは、とても遠(とお)い場所(ばしょ)なんだ…。
恐怖(きょうふ)に駆(か)られる。
…帰(かえ)ってこれなくなるから。
彼女(かのじょ)の言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)す。
僕(ぼく)はこの世界(せかい)で、知(し)らないことがまだまだあった。
もしかしたら、僕(ぼく)が思(おも)ってるように、地面(じめん)はずっと続(つづ)いているだけじゃないのかもしれない。
どこかでねじ曲(ま)がってしまっているのかもしれない。
遠(とお)くにある林(はやし)を目指(めざ)しても、辿(たど)り着(つ)いた林(はやし)は、目指(めざ)していた林(はやし)じゃないのかもしれない。
周(まわ)りには、ガラクタが散乱(さんらん)していた。
彼女(かのじょ)がそばに居(い)たなら、喜(よろこ)んで、その手(て)を引(ひ)いたことだろう。
でも今(いま)は、恐(おそ)ろしい世界(せかい)の一部(いちぶ)でしかなかった。
立(た)ち上(あ)がる。そうするしかなかった。
ここはどこなんだろう…。
彼女(かのじょ)は、今(いま)も同(おな)じ時(とき)に存在(そんざい)してくれているのだろうか。
そんなことすら不安(ふあん)だった。
戻(もど)ろう。
転(ころ)げ落(お)ちてきた、丘陵(きゅうりょう)を見上(みあ)げる。
逆光(ぎゃっこう)の中(なか)に、小(ちい)さな影(かげ)があった。
丘(おか)のてっぺんから、それは僕(ぼく)のことを見下(みお)ろしていた。
獣(けもの)だった。
こんな場所(ばしょ)にもいるんだ。
とても小(ちい)さく、まるで生(う)まれたてのような体(からだ)。
そこで、僕(ぼく)は不思議(ふしぎ)に思(おも)った。
獣(けもの)が僕(ぼく)を見(み)ている?
あいつらに意志(いし)なんてものはない。
ただ、無感情(むかんじょう)に緑(みどり)を食(く)い尽(つ)くしていくだけの存在(そんざい)だ。
それが、僕(ぼく)をじっと見下(みお)ろしている。
まるで意志(いし)でもあるかのように。
僕(ぼく)はゆっくりと坂(さか)を登(のぼ)る。
小(ちい)さな影(かげ)は逃(に)げなかった。
隣(となり)に立(た)つと、僕(ぼく)の足丈(あしたけ)もない獣(けもの)は身(み)を翻(ひるがえ)して走(はし)り出(だ)した。
僕(ぼく)を待(ま)っていた?
少(すこ)しして、僕(ぼく)は思(おも)いだしたように、その後(あと)を追(お)った。
獣(けもの)について、幾度(いくど)も丘(おか)を越(こ)えた。
その先(さき)で、彼女(かのじょ)が別(べつ)の獣(けもの)を抱(だ)いて待(ま)っていた。
僕(ぼく)がそこに辿(たど)り着(つ)くと、彼女(かのじょ)はありがとうと言(い)って、獣(けもの)を地面(じめん)に下(お)ろした。
二匹(にひき)は連(つ)れ添(そ)うと、また小高(こだか)い丘(おか)を登(のぼ)っていく。
その頂上(ちょうじょう)に、もう一匹(いっぴき)がいた。
三匹(さんびき)はまるで家族(かぞく)のように、並(なら)んで駆(か)けていった。
信(しん)じられないものを見(み)る目(め)で、僕(ぼく)はそれを見送(みおく)った。
…こわかった?
彼女(かのじょ)が僕(ぼく)の頭(あたま)に手(て)を置(お)いた。
こくん。僕(ぼく)は頷(うなず)いた。
…わたしも。
…でも、本当(ほんとう)によかった。
…あの子(こ)たちには、感謝(かんしゃ)しなきゃだめだね。
こくん。僕(ぼく)は頷(うなず)いた。
こんなこともあるんだ。
…不思議(ふしぎ)だね。
本当(ほんとう)に。
…優(やさ)しい匂(にお)いがしたんだ。
優(やさ)しい横顔(よこがお)で、彼女(かのじょ)は言(い)った。
[/wrap]
一家一台ことみ弐号 - 2009/5/3 11:21:00
獣(けもの)
「けだもの」も漢字は獣だが、汚くて卑劣な感じがする。

二匹(にひき)
自分で入力して確かめてみるのが一番。

僕の背(せ)
seagull - 2009/5/3 13:51:00
いつもありがとうございます。
更新しまいた。
偶には自分で入力して確かめてみます、でも全て入力したら、時間が足りません。時々入力しても分からない単語があるし、例えば「見映い」はなんなんでしょうか?意味が分かるけど、読み方は分かりません…
seagull - 2009/5/3 13:55:00
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4月28日()

,0,]
渚(なぎさ)「おはようございます」
朋也(ともや)「ああ、おはよ…」
渚(なぎさ)「昨日(きのう)は…本当(ほんとう)にごめんなさいでした」
朋也(ともや)「いや、いいよ。気(き)にすんな」
朋也(ともや)「あれで結構(けっこう)楽(たの)しかったしさ」
渚(なぎさ)「ならよかったです」
渚(なぎさ)「わたしも、楽(たの)しかったですから」
朋也(ともや)「じゃあな、また昼休(ひるやす)み」
渚(なぎさ)「はい」
教室(きょうしつ)を前(まえ)にして別(わか)れた。
………。
昼休(ひるやす)みになると同時(どうじ)…
春原(すのはら)「おはようっ」
春原(すのはら)が登校(とうこう)してきた。
春原(すのはら)「さてっ、今日(きょう)はメンバー探(さが)しだね」
朋也(ともや)「たりぃ…」
春原(すのはら)「今日(きょう)しか日(ひ)はないんだぞ?」
朋也(ともや)「わかってるけどさ…」
春原(すのはら)「ほら、とっとと昼飯(ひるめし)食(く)って、始(はじ)めようぜ」
春原(すのはら)「おはよう、渚(なぎさ)ちゃんっ」
渚(なぎさ)「おはようございます、春原(すのはら)さん」
渚(なぎさ)「今日(きょう)はなんだか元気(げんき)です」
春原(すのはら)「ああ、我(わ)がチームが結成(けっせい)される日(ひ)だからね。そりゃ燃(も)えるさっ」
朋也(ともや)「焼(や)け死(し)ね」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、そんなこと言(い)ってはダメですっ」
春原(すのはら)「いいって、いいって。ほら、とっとと食(た)べようぜ」
春原(すのはら)に急(せ)かされ、詰(つ)め込(こ)むようにして昼(ひる)を食(た)べ終(お)えると、すぐさまメンバー探(さが)しを開始(かいし)する。
渚(なぎさ)「まずは、どこにいきますかっ」
新校舎で探す
3階を探す
朋也(ともや)「いいのがいた」
春原(すのはら)「誰(だれ)さ?」
朋也(ともや)「運動神経(うんどうしんけい)が良(よ)くて、物(もの)を投(な)げるのが得意(とくい)なヤツ」
春原(すのはら)「…ひょっとして僕(ぼく)の知(し)ってるあいつ?」
朋也(ともや)「ああ。おまえも知(し)ってるあいつ」
渚(なぎさ)「どなたですか?」
朋也(ともや)「2年(ねん)の時(とき)のクラス委員長(いいんちょう)やってたヤツ」
春原(すのはら)「スリーポイントを狙(ねら)わせれば、案外(あんがい)いい感(かん)じかもね」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「とても頼(たの)もしそうです」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)にバスケットをしてくれるでしょうか」
朋也(ともや)「交渉次第(こうしょうしだい)…だな」
朋也(ともや)「とりあえず話(はなし)をしてみよう」
杏(きょう)「オッケー」
春原(すのはら)「はやっ!」
朋也(ともや)「おまえ、なんにも考(かんが)えないで返事(へんじ)しやがったな…」
杏(きょう)「え?
なんで?」
杏(きょう)「あんたらがバスケしないかって訊(き)いてきたから、オッケーって言(い)っただけよ?」
朋也(ともや)「いや、普通(ふつう)理由(りゆう)とかから訊(き)かねぇ?」
杏(きょう)「あー、うん、じゃあなんでバスケなの?」
春原(すのはら)「一度(いちど)OK出(だ)したんだから、もう取(と)り下(さ)げさせねぇぞ」
杏(きょう)「あんたの言(い)ってるバスケがボールを籠(かご)の中(なか)に放(ほう)り込(こ)むスポーツってならよっぽど変(へん)な理由(りゆう)じゃ無(な)い限(かぎ)り断(ことわ)んないわよ」
朋也(ともや)「そりゃ普通(ふつう)のバスケだけど…」
説明する
朋也(ともや)「えーっと、実(じつ)はな…」
渚(なぎさ)「あの…わたしの方(かた)から説明(せつめい)させてください」
教室(きょうしつ)に入(はい)ってきてから、沈黙(ちんもく)を保(たも)っていた渚(なぎさ)が前(まえ)に出(で)てきた。
杏(きょう)「えーっと…誰(だれ)?」
渚(なぎさ)「はじめまして。わたし、B組(ぐみ)の古河渚(ふるかわなぎさ)といいます」
渚(なぎさ)「実(じつ)は朋也(ともや)くんと春原(すのはら)さんはわたしのためにバスケットボール部(ぶ)と試合(しあい)をしようとしてくれているんです」
杏(きょう)「はぁ」
渚(なぎさ)「そのために、メンバーをもう一人(ひとり)集(あつ)めなくてはいけなくて…」
渚(なぎさ)「そしたら、朋也(ともや)くんと春原(すのはら)さんが、あなたの事(こと)を教(おし)えてくれたんです」
渚(なぎさ)「とても頼(たよ)りになる人(ひと)がいると」
杏(きょう)「え?
頼(たよ)りに?
あははは~、そう?
こいつらそんなこと言(い)ってたの?」
渚(なぎさ)「はい」
春原(すのはら)(言(い)ったっけ…?)
朋也(ともや)(…かなり美化(びか)されてるな…)
杏(きょう)「いやー、わかってるわね~あんたたちも」
杏(きょう)「あたしが必要(ひつよう)?
ん~、仕方(しかた)ないわねぇ~そこまで言(い)われちゃ受(う)けるっきゃないわねぇ」
春原(すのはら)(なんかむかつくんスけど…)
朋也(ともや)(耐(た)えろ。戦力(せんりょく)になるのは間違(まちが)いないんだ)
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
杏(きょう)「いいのいいの、なんかよくわかんないけど困(こま)ったときはお互(たが)い様(さま)って言(い)うしさ」
杏(きょう)「あー、陽平(ようへい)、陽平(ようへい)」
春原(すのはら)「へひ?
な、なんでしょか?」
杏(きょう)「ちょっと喉(のど)が乾(かわ)いたんだけど、フルーツ牛乳(ぎゅうにゅう)買(か)ってきてくんない?」
春原(すのはら)「な、なんで僕(ぼく)が?」
杏(きょう)「人数(にんずう)、必要(ひつよう)なんでしょ~?」
春原(すのはら)「うっわ!
こいつ最悪(さいあく)だ!
人(ひと)の弱(よわ)みにつけ込(こ)んでくるよ!」
渚(なぎさ)「あの、それでしたらわたしが…」
杏(きょう)「ううん、いいのいいの」
杏(きょう)「バスケするってことはチームプレイでしょ?」
杏(きょう)「主従関(しゅうじゅうかん)け…もとい、チームリーダーの言(い)うことをちゃんと聞(き)ける下僕(げぼく)…じゃない手足(てあし)が必要(ひつよう)じゃない」
春原(すのはら)「あんた助(すけ)っ人(ひと)のくせにリーダー張(は)る気(き)ッスか!?」
春原(すのはら)「しかも下僕(げぼく)を言(い)い直(なお)して手足(てあし)って、全然(ぜんぜん)フォローできてねぇよ!」
朋也(ともや)「春原(すのはら)」
春原(すのはら)「止(と)めるな岡崎(おかざき)!
これだけははっきりさせとかないと駄目(だめ)だ!」
春原(すのはら)「バスケはチームワーク。縦社会(たてしゃかい)の圧制(あっせい)された関係(かんけい)で試合(しあい)なんてできるか!」
春原(すのはら)「いいか?
僕達(ぼくたち)はあくまで横(よこ)の関係(かんけい)なんだ!」
朋也(ともや)「俺(おれ)、コーヒー牛乳(ぎゅうにゅう)な」
春原(すのはら)「って、二人(ふたり)の関係(かんけい)も縦(たて)ですかっ!」
杏(きょう)「今更(いまさら)…」

朋也(ともや)「今更(いまさら)…」
春原(すのはら)「あんたら2年(ねん)の時(とき)から変(か)わってねぇよぉーっ!」
そう叫(さけ)びながら走(はし)り去(さ)っていく春原(すのはら)。
おまえも変(か)わってねぇよ。
渚(なぎさ)「おふたり、息(いき)がぴったりです」
杏(きょう)「陽平(ようへい)をいじめる時(とき)はね」
朋也(ともや)「じゃあ、バスケの試合(しあい)はあいつをいじめる気持(きも)ちでいくか」
杏(きょう)「4対(たい)2の試合(しあい)ってかんじ?」
朋也(ともや)「いや、どっちかってーと、3対(たい)2対(たい)1ってかんじだろ」
杏(きょう)「5対(たい)1ってのも面白(おもしろ)いわね」
朋也(ともや)「そりゃいい」
杏(きょう)「あははははははは」
朋也(ともや)「はははははははは」
春原(すのはら)「でも、ま、メンバーも決(き)まったことだし、一安心(ひとあんしん)だな」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)によかったです」
春原(すのはら)「これで明日(あした)は心(こころ)おきなく、練習(れんしゅう)に打(う)ち込(こ)めるねっ」
朋也(ともや)「………」
春原(すのはら)「どうした?
顔(かお)が硬直(こうちょく)してるぞ?」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「明日(あした)、練習(れんしゅう)ですかっ」
春原(すのはら)「もちろん。試合前日(しあいぜんじつ)なんだぜ?
遊(あそ)んでなんてられるかっての」
春原(すのはら)「渚(なぎさ)ちゃんも、そう思(おも)うだろ?」
渚(なぎさ)「はいっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、明日(あした)、練習(れんしゅう)です。がんばりましょう」
朋也(ともや)「………」
対策を練る
朋也(ともや)「わかったよ…」
朋也(ともや)「やってやるよっ」
この場(ば)はそう返事(へんじ)だけしておく。
練習(れんしゅう)から逃(のが)れる策(さく)は、また明日(あした)練(ね)ろう。
春原(すのはら)「お、気合(きあい)い入(はい)ってんなぁ」
春原(すのはら)「ここにきて、一致団結(いっちだんけつ)っ。いやぁ、スポーツっていいね!」
渚(なぎさ)「はいっ」
[/wrap]
seagull - 2009/5/3 13:55:00
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4月29日()

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翌朝(よくあさ)、俺(おれ)は古河(ふるかわ)パンの前(まえ)に立(た)っていた。
朋也(ともや)(せっかくの休日(きゅうじつ)なのに、バスケなんてやってられっかよ…)
今(いま)から、遊(あそ)びに行(い)こうと渚(なぎさ)を誘(さそ)うわけだが…。
朋也(ともや)(さて、どうしたものかな…)
朋也(ともや)(春原(すのはら)をホモに仕立(した)て上(あ)げる作戦(さくせん)はもう使(つか)えないし…)
朋也(ともや)(よし、人間(にんげん)じゃなかったことにしよう)
朋也(ともや)(背中(せなか)からバリバリ羽根(はね)が生(は)えてきて、飛(と)んで追(お)っかけてくるのだと訴(うった)えよう)
朋也(ともや)(春原(すのはら)ならありかねない話(はなし)だからな)
朋也(ともや)「よし」
作戦(さくせん)を決(き)めると、中(なか)に入(はい)る。
朋也(ともや)「ちーっす」
店内(てんない)には、早苗(さなえ)さんと…そしてお客(きゃく)がひとり。
早苗(さなえ)「あら、岡崎(おかざき)さん、こんにちは」
女性(じょせい)「こんにちは」
早苗(さなえ)さんと一緒(いっしょ)に挨拶(あいさつ)する女性(じょせい)。
朋也(ともや)「えっと、渚(なぎさ)、いますか」
早苗(さなえ)「さっき出(で)たところですよ。すれ違(ちが)いになってしまいましたか」
遅(おそ)かったか…。
女性(じょせい)「渚(なぎさ)ちゃんの、お友達(ともだち)ですか」
女性(じょせい)が俺(おれ)に話(はな)しかけてくる。
朋也(ともや)「え?
ああ、はい」
女性(じょせい)「同級生(どうきゅうせい)?」
朋也(ともや)「クラスは違(ちが)いますけど、学年(がくねん)は同(おな)じっす」
女性(じょせい)「渚(なぎさ)ちゃん、元気(げんき)にやってますか」
朋也(ともや)「ええ、元気(げんき)っすよ」
女性(じょせい)「そうですか。それは良(よ)かったです」
朋也(ともや)「……?」
早苗(さなえ)「こちら、伊吹公子(いぶきこうこ)さんといって、渚(なぎさ)の担任(たんにん)だった先生(せんせい)なんですよ」
俺(おれ)が不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)をしていると、早苗(さなえ)さんがそう紹介(しょうかい)してくれる。
伊吹(いぶき)「初(はじ)めまして。伊吹(いぶき)です」
朋也(ともや)「あ、ども。岡崎(おかざき)っす」
朋也(ともや)「担任(たんにん)ってことは…ウチの学校(がっこう)の?」
伊吹(いぶき)「はい。でも、三年前(さんねんまえ)に辞(や)めてるんで、岡崎(おかざき)さんが入学(にゅうがく)してくる前(まえ)までです」
朋也(ともや)「ああ、一年(いちねん)の時(とき)、渚(なぎさ)の担任(たんにん)だったんすね」
伊吹(いぶき)「はい。それにしても…」
伊吹(いぶき)という女性(じょせい)が早苗(さなえ)さんに笑顔(えがお)のまま向(む)き直(なお)る。
伊吹(いぶき)「復学(ふくがく)して間(ま)もないのに、こんな格好(かっこう)いい男(おとこ)の子(こ)と仲良(なかよ)くなるなんて、渚(なぎさ)ちゃんも、隅(すみ)に置(お)けないですねっ」
早苗(さなえ)「はい。渚(なぎさ)、すごく頑張(がんば)ってるんですよっ」
何(なに)をですか…。
伊吹(いぶき)「結構(けっこう)面食(めんく)いさんなんですねっ」
非常(ひじょう)に居心地(いごこち)の悪(わる)い雰囲気(ふんいき)だった。
声(こえ)「忘(わす)れ物(もの)しましたっ」
声(こえ)「…あ、朋也(ともや)くんです」
俺(おれ)の背中(せなか)に誰(だれ)かがぶつかったと思(おも)ったら、それは渚(なぎさ)だった。
早苗(さなえ)「噂(うわさ)をすれば、ですね」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、寄(よ)ってくれたんですか。わたし、ひとりで出(で)てしまいました。よかったです。一緒(いっしょ)にいきましょう」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃん、こんにちは」
渚(なぎさ)「あ、先生(せんせい)っ、いらっしゃいませです」
伊吹(いぶき)「今日(きょう)は、格好(かっこう)いい男(おとこ)の子(こ)とデートですかっ」
渚(なぎさ)「あ、いえっ、違(ちが)いますっ」
渚(なぎさ)「…あ、今(いま)の違(ちが)いますは、デートではないという意味(いみ)で…その、朋也(ともや)くんはかっこいいとわたしも思(おも)います…」
後半(こうはん)は声(こえ)が小(ちい)さくて、何(なに)言(い)ってるのか聞(き)き取(と)れない。
伊吹(いぶき)「でも、制服(せいふく)ってことは…学校(がっこう)ですか?」
渚(なぎさ)「はい。学校(がっこう)のグラウンドでバスケの練習(れんしゅう)です」
伊吹(いぶき)「バスケ?」
渚(なぎさ)「はい」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃんが?」
渚(なぎさ)「いえ、わたしはマネージャーみたいなもので、見(み)ているだけです」
渚(なぎさ)「やるのは、朋也(ともや)くんたちです」
渚(なぎさ)「バスケットボール部(ぶ)と試合(しあい)をしてもらうために、今(いま)、がんばってるんです」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さんも、朋也(ともや)くんも、スポーツしたくても、できなくなった人(ひと)たちなんです…」
渚(なぎさ)「そんなおふたりが、短(みじか)い間(あいだ)ですけど、小(ちい)さなバスケ部(ぶ)を作(つく)ったんです」
渚(なぎさ)「わたしたちだけの…」
渚(なぎさ)「落(お)ちこぼれだった、わたしたちだけの…バスケ部(ぶ)です」
渚(なぎさ)「小(ちい)さいですけど…それでも、みんな一生懸命(いっしょうけんめい)に…卒業(そつぎょう)までの時間(じかん)、がんばります」
渚(なぎさ)「ですから、どうか…」
渚(なぎさ)「…温(あたた)かく見守(みまも)ってください」
朋也(ともや)「どうでもいいが卒業(そつぎょう)までじゃなくて、明日(あした)までだからな」
伊吹(いぶき)「それは、素敵(すてき)ですね」
伊吹(いぶき)「頑張(がんば)ってくださいねっ」
俺(おれ)のツッコミも聞(き)こえなかったのか、美化(びか)された説明(せつめい)を鵜呑(うの)みにし、エールを送(おく)る伊吹(いぶき)さん。
渚(なぎさ)「はいっ」
渚(なぎさ)「それでは、朋也(ともや)くん、行(い)きましょう」
俺(おれ)の腕(うで)を引(ひ)っ張(ぱ)る。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は、渚(なぎさ)に、練習(れんしゅう)なんてやめて遊(あそ)ぼうと言(い)いにきたんじゃなかったのか?
しかし、かつての担任(たんにん)が応援(おうえん)してくれてる前(まえ)で、そんなこと言(い)えない…。
渚(なぎさ)「あ、そうです。タオルを忘(わす)れてたんです。汗拭(あせふ)くのにいります」
早苗(さなえ)「新(あたら)しいの、持(も)ってってくださいねっ」
渚(なぎさ)「ありがとうございますっ」
早苗(さなえ)「後(あと)でわたしも、応援(おうえん)にいっちゃうかもしれません。お邪魔(じゃま)じゃないですか?」
渚(なぎさ)「構(かま)わないと思(おも)います。ですよね、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さんの格好(かっこう)いいところ、見(み)せてくださいねっ」
早苗(さなえ)さんまで、盛(も)り上(あ)がってるし…。
朋也(ともや)「結局(けっきょく)、やるしかないのか…」
…俺(おれ)は観念(かんねん)する。
渚(なぎさ)「………」
店(みせ)を出(で)たところで、渚(なぎさ)が足(あし)を止(と)めていた。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)の、妹(いもうと)さん、入院(にゅういん)してるんです…」
朋也(ともや)「え?
そうなのか…」
渚(なぎさ)「はい。2年前(ねんまえ)に交通事故(こうつうじこ)に遭(あ)って、それからずっとなんです…」
渚(なぎさ)「そう、お母(かあ)さんが言(い)ってました…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)は、同(おな)じ学校(がっこう)で過(す)ごせるはずだったんです」
朋也(ともや)「そっか…」
なんていうんだろう…。
…不思議(ふしぎ)な感覚(かんかく)
会ったこともない、伊吹先生(いぶきせんせい)の妹(いもうと)…。
そいつが、すごく、身近(みじか)に感(かん)じられた。
そいつと一緒(いっしょ)に学校生活(がっこうせいかつ)が送(おく)れなかったことが悔(くや)しい…そう思(おも)えた。
……。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんが言()ってた…?」
不意(ふい)にそのことが引()っかかって訊()いてみた。
(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おまえは…会()ったことないのか…そいつに」
(なぎさ)「はい。ないです」
(なぎさ)「でも、なんだかすごく身近(みじか)に感(かん)じてしまいます」
(なぎさ)「先生(せんせい)の妹(いもうと)さんだからでしょうか」
…同(おなじ)じ思(おも)いを共有(きょうゆう)していた。
渚(なぎさ)「あ、伊吹先生(いぶきせんせい)…」
店先(みせさき)に、伊吹先生(いぶきせんせい)が立(た)っていた。
伊吹(いぶき)「あら、忘(わす)れ物(もの)ですか」
伊吹(いぶき)「あら、お邪魔(じゃま)でしたね」
立(た)ちつくす俺(おれ)たちに笑顔(えがお)でそう訊(き)いた。
その笑顔(えがお)もなんだか、今(いま)は痛々(いたいた)しく感(かん)じられた。
朋也(ともや)「妹(いもうと)さんが、入院(にゅういん)してるって…」
伊吹(いぶき)「え?」
伊吹(いぶき)「あ、はい」
渚(なぎさ)「よくなると…いいです」
朋也(ともや)「俺(おれ)も…です」
朋也(ともや)「よくなること…心(こころ)から祈(いの)ってますから」
(がら)にもない
(なに)が俺(おれ)にそんな言葉(ことば)を吐()かせるのか…。
ふと手()のひらに…熱(あつ)さを覚(おぼ)えた。
()ち上()げてみる。
そこから、何(なに)かが放(はな)たれた気()がした。
朋也((ひかり)…?)
一瞬(いっしゅん)ことだった。
(あと)には、陽(よう)の温度(おんど)を感(かん)じるてのひらだけが残(のこ)った。
見上(みあ)げても、春(はる)の目映(まばゆ)い青空(あおそら)が広(ひろ)がるだけだ。
伊吹(いぶき)「ありがとうございます」
伊吹(いぶき)「よくなったら、遊(あそ)んであげてくださいね」
渚(なぎさ)「あ、はいっ、もちろんですっ」
伊吹(いぶき)「それでは」
伊吹先生(いぶきせんせい)が礼(れい)をして、俺(おれ)たちの脇(わき)を抜(ぬ)けていく。
朋也(ともや)「………」
()のひらが握(にぎ)られていた。
(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちもいくか…」
(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちもいくか」
いつまでも気()にしてはいられない。そう振()りきった。
(なぎさ)「はい」
俺(おれ)はやけくそになって、体(からだ)を動(うご)かした。
ただ救(すく)いは、渚(なぎさ)が一緒(いっしょ)だったことだ。
渚(なぎさ)「パスです」
渚(なぎさ)「今(いま)のでよかったですか。えへへ」
それが嫌(きら)いなバスケであっても。
朋也(ともや)「できれば、最低(さいてい)、ワンバンで通(とお)してほしいんだけど」
渚(なぎさ)「あ、はい。がんばってみます」
チームとしては最悪(さいあく)だったけど…。見映い
そうして一日中(いちにちじゅう)、練習(れんしゅう)に明(あ)け暮(く)れた。
[/wrap]
一家一台ことみ弐号 - 2009/5/3 16:52:00
面映い(おもはゆい)と目映い(まばゆい)はあるけど…見映い?
聞いた事ないなあ…見え映る/見映る(みえうつる/みうつる)?の誤植なんじゃないかな…
hkuczc - 2009/5/8 8:08:00
今天看完成效果时偶然看到...在41楼...
渚(なぎさ)「でも、きっと、わたしのほうが何(なに)倍(ばい)も支(ささ)えてもらってます」
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何倍...记得在别处听到过念法是"なんばい"...
seagull - 2009/5/13 9:13:00
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4月30日()

,0,]
渚(なぎさ)「おはようございます」
朋也(ともや)「…おはよ…」
渚(なぎさ)「なんだか辛(つら)そうです」
朋也(ともや)「全身(ぜんしん)、筋肉痛(きんにくつう)だよ…」
朋也(ともや)「普段(ふだん)運動(うんどう)しねぇからな…」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
朋也(ともや)「ああ…」
渚(なぎさ)「あの、今日(きょう)はサンドイッチ、持(も)ってきました」
渚(なぎさ)「お店(みせ)の商品(しょうひん)ではないです。わたしが作(つく)りました」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんにも手伝(てつだ)ってもらいましたけど」
渚(なぎさ)「試合(しあい)が終(お)わったら、みんなで食(た)べましょう」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「楽(たの)しみにしてるな…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)、辛(つら)そうです」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)だって…」
昼休(ひるやす)み。
春原(すのはら)「おはよ」
ようやく春原(すのはら)が現(あらわ)れる。
朋也(ともや)「来(こ)ないのかと思(おも)って心配(しんぱい)したぞ」
春原(すのはら)「今日(きょう)という日(ひ)のために、頑張(がんば)ってきたんだからね」
朋也(ともや)「じゃ、昼(ひる)、いくか」
春原(すのはら)「つつ…」
朋也(ともや)「おまえも、筋肉痛(きんにくつう)?」
春原(すのはら)「はは…ハッスルしすぎたかなっ」
朋也(ともや)「俺(おれ)もだ。歩(ある)くのも辛(から)いぞ」
春原(すのはら)「コツがあるんだ」
春原(すのはら)「こうして、膝(ひざ)から下(した)だけを動(うご)かして、細(こま)かく歩(ある)くと痛(いた)くないんだ」
チョコチョコチョコ…
上半身(じょうはんしん)が微動(びどう)だにしない、かなり不気味(ぶきみ)な歩行術(ほこうじゅつ)だった。
朋也(ともや)「どれ…」
俺(おれ)も試(ため)してみる。
チョコチョコチョコ…
春原(すのはら)「そうそう。うまいじゃん」
チョコチョコチョコ…
チョコチョコチョコチョコチョコ~ッ!
女生徒(じょせいと)「ひぃっ」
上半身(じょうはんしん)を動(うご)かさずに歩(ある)く不気味(ぶきみ)なふたりが行(い)く。
そして二時間(にじかん)の授業(じゅぎょう)を終(お)え、放課後(ほうかご)に。
杏(きょう)「おっそーい!」
廊下(ろうか)に出(で)るとすでに杏(きょう)と渚(なぎさ)が待(ま)っていた。
杏(きょう)「今(いま)から本職(ほんしょく)の連中(れんちゅう)と一戦交(いっせんまじ)えようってのにちょっとタルんでんじゃないの?」
朋也(ともや)「なんだ、ずいぶん興奮(こうふん)してるな…?」
杏(きょう)「ふ…ふっふふ…絶対(ぜったい)に勝(か)つわよ、今日(きょう)の試合(しあい)…っ」
春原(すのはら)「あの、なにがあったんスか…?」
杏(きょう)「あたしのクラスにね、バスケ部(ぶ)のレギュラーがいるのよ」
朋也(ともや)「はぁ」
杏(きょう)「あたしが試合(しあい)のメンバーだって知(し)ってたみたいでさ…なんて言(い)ったと思(おも)う?」
春原(すのはら)「なんて言(い)ったの?」
杏(きょう)「あんな底辺組(ていへんぐみ)と組(く)むなんて藤林(ふじばやし)も堕(お)ちたもんだな…」
杏(きょう)「ってああああっ!
むかつくー!」
朋也(ともや)「へぇー…底辺組(ていへんぐみ)ねぇ…」
杏(きょう)「あの蔑(さげす)んだ笑(え)みを真(ま)っ赤(か)にしてやりたいぃぃーっ!!」
杏(きょう)「朋也(ともや)っ!
相手(あいて)の鼻(はな)ッ面(つら)にボールぶつけたら反則(はんそく)?」
渚(なぎさ)「あの、落(お)ち着(つ)いてください」
朋也(ともや)「バレなきゃテクニックだ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんっ」
俺(おれ)の言葉(ことば)に渚(なぎさ)が非難(ひなん)めいた声(こえ)をあげる。
が、底辺(ていへん)呼(よ)ばわりは、さすがに頭(あたま)にくる。
杏(きょう)「さ、行(い)きましょうかねぇ」
杏(きょう)が不敵(ふてき)な笑(え)みを浮(う)かべながら歩(ある)き出(だ)す。
俺(おれ)もその横(よこ)について歩(ある)く。
やや遅(おく)れて、渚(なぎさ)と春原(すのはら)がついてきた。
春原(すのはら)「…渚(なぎさ)ちゃん…僕(ぼく)、人選間違(じんせんまちが)えたかもしんない…」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。今(いま)はあんなことを仰(お)ってますけど試合(しあい)が始(はじ)まれば正々堂々(せいせいどうどう)と──…」
杏(きょう)「混戦(こんせん)になったらどさくさに紛(まぎ)れて肘(ひじ)いれてもいい?」
朋也(ともや)「脇腹(わきばら)あたりが相手(あいて)のスタミナも奪(うば)えて効果的(こうかてき)だ」
杏(きょう)「なるほどね」
春原(すのはら)「………」

渚(なぎさ)「………」
館内(かんない)はすでに熱気(ねっき)が立(た)ちこめていた。
半分(はんぶん)はバスケ部(ぶ)。ネットで仕切(しき)られた反対側(はんたいがわ)は、バレー部(ぶ)が使用(しよう)していた。
まだ号令(ごうれい)はかかっていないのか、各々(おのおの)自主的(じしゅてき)に練習(れんしゅう)をしていた。
…懐(なつ)かしい風景(ふうけい)。
俺(おれ)もかつては、その中(なか)のひとりだったのだ。
けど、今(いま)は…
俺(おれ)は自分(じぶん)の体(からだ)を見下(みお)ろす。
制服(せいふく)のままの格好(かっこう)。
こんな姿(すがた)で、かつて情熱(じょうねつ)を燃(も)やしていたバスケをやるなんて、皮肉(ひにく)だ。滑稽(こっけい)すぎる。
渚(なぎさ)「とても緊張(きんちょう)してきました…」
朋也(ともや)「おまえ、見(み)てるだけだって」
渚(なぎさ)「わかってます」
渚(なぎさ)「でも…バスケ部(ぶ)の方(かた)たちと試合(しあい)するんです。それはすごいことです」
渚(なぎさ)「見(み)てください。みなさん、とてもお上手(じょうず)です」
聞(き)かれていたら、怒(おこ)られそうなことを言(い)う。
渚(なぎさ)「こうして毎日(まいにち)練習(れんしゅう)してるんです」
渚(なぎさ)「そんな人(ひと)たちと…集(あつ)まったばかりのわたしたちが、試合(しあい)で戦(たたか)うんです」
渚(なぎさ)「今(いま)まで違(ちが)う道(みち)を歩(あゆ)んできた、わたしたちがです」
渚(なぎさ)「わたしたちは、この短(みじか)い時間(じかん)で、どれだけ友情(ゆうじょう)を深(ふか)められたでしょうか」
渚(なぎさ)「もし勝(か)てたとしたら…」
渚(なぎさ)「わたしたちは、その短(みじか)い時間(じかん)で、バスケ部(ぶ)の方(かた)たちよりも、固(かた)い絆(きずな)で結(むす)ばれたということです」
渚(なぎさ)「だとしたら、すごいことです…」
渚(なぎさ)「不器用(ぶきよう)に…みんなから離(はな)れて生(い)きてきたわたしですけど…」
渚(なぎさ)「いつだって、足(あし)を引(ひ)っ張(ぱ)る役(やく)だったわたしですけど…」
渚(なぎさ)「力(ちから)を合(あ)わせれば、普通(ふつう)に暮(く)らしてきた人(ひと)たちよりも、すごいことができるって…」
渚(なぎさ)「そういうことですから」
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
渚(なぎさ)の言(い)いたいことはよくわかる。
春原(すのはら)も、俺(おれ)も同(おな)じように生(い)きてきたから。
………。
何人(なんにん)かのバスケ部員(ぶいん)の目(め)がこちらに向(む)いていた。
体育館内(たいいくかんない)では、制服姿(せいふくすがた)は一際目立(ひときわめだ)つ。
その中(なか)のひとりが歩(ある)いてきた。
バスケ部員(ぶいん)「用意(ようい)はいいのか?」
俺(おれ)たちの姿(すがた)を見(み)て、失笑(しっしょう)しながらに訊(き)く。
春原(すのはら)「ああ。形(かたち)から入(はい)るのは嫌(きら)いなんでね」
春原(すのはら)が不敵(ふてき)に笑(わら)って返(かえ)す。
バスケ部員(ぶいん)「じゃ、始(はじ)めるか。ウチの顧問(こもん)に見(み)つかると厄介(やっかい)なことになるからな」
春原(すのはら)「顧問(こもん)て、大上(おおがみ)だっけか」
バスケ部員(ぶいん)「ああ」
大上(おおがみ)は、バスケ部(ぶ)の顧問(こもん)だけでなく、生活指導(せいかつしどう)をも受(う)け持(も)つ教員(きょういん)だった。
俺(おれ)もそちらでは、何度(なんど)となく世話(せわ)になっている。
春原(すのはら)「そりゃ、厄介(やっかい)だ。とっとと終(お)わらせよう」
バスケ部員(ぶいん)「じゃ、そっちのゴール下(した)で待(ま)っててくれ。こっちもメンバー決(き)めるから」
春原(すのはら)「レギュラー並(なら)べればいいんだよ」
バスケ部員(ぶいん)「はっはっは!
結果的(けっかてき)にそうなるように善戦(ぜんせん)してくれ」
笑(わら)いながら、部員(ぶいん)の元(もと)に戻(もど)っていった。
春原(すのはら)「はっ…笑(わら)ってろって」
春原(すのはら)「しかし…」
春原(すのはら)が二階(にかい)の通路(つうろ)を見上(みあ)げる。
春原(すのはら)「合唱部(がっしょうぶ)の奴(やつ)ら、見(み)えねぇな…」
朋也(ともや)「挑発(ちょうはつ)に乗(の)って、観戦(かんせん)に来(く)るような奴(やつ)らかよ」
春原(すのはら)「ま、いい。快挙(かいきょ)は噂(うわさ)で広(ひろ)まるさ」
朋也(ともや)「身(み)の程(ほど)知(し)らずも、噂(うわさ)で広(ひろ)まると思(おも)うぞ」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)「んなもんが広(ひろ)まったらさ…」
朋也(ともや)「学校(がっこう)、来(く)れねぇよな…」
春原(すのはら)「だな」
朋也(ともや)「勝(か)つしかねぇな」
春原(すのはら)「だな」
朋也(ともや)「いくか」
春原(すのはら)「うしっ」
向(む)こうも、メンバーが決(き)まったのか、三人(さんにん)が肩(かた)を揃(そろ)えて歩(ある)いてくるところだった。
ダム、ダム…と、杏(きょう)が撥(は)ね具合(ぐあい)を確認(かくにん)するようにボールをその場(ば)で弾(はず)ませる。
春原(すのはら)「何(なに)か作戦(さくせん)を立(た)てとく?」
杏(きょう)「陽平(ようへい)はブラインド役(やく)よ。常(つね)にボールと審判(しんばん)の間(ま)にいなさい」
朋也(ともや)「足(あし)を踏(ふ)むときは踵(きびす)を狙(ねら)え。うまくいけば靴(くつ)を脱(ぬ)がせれる」
春原(すのはら)「…マジッすか?」
杏(きょう)「半分本気(はんぶんほんき)」
朋也(ともや)「半分冗談(はんぶんじょうだん)」
春原(すのはら)「とりあえず没収試合(ぼっしゅうしあい)なんてのは勘弁(かんべん)してよ」
杏(きょう)「善処(ぜんしょ)するわ」
朋也(ともや)「まぁ、真面目(まじめ)に一(ひと)つ作戦(さくせん)をたてるか」
杏(きょう)「どんな?」
朋也(ともや)「一発(いっぱつ)強烈(きょうれつ)なのを決(き)めるんだ」
バスケ部員(ぶいん)「おい、始(はじ)めるぞ」
ピーッ!
と試合(しあい)開始(かいし)のホイッスルが鳴(な)る。
春原(すのはら)がボールを杏(きょう)にパスする。
同時(どうじ)に、バスケ部(ぶ)がマンツーマンになるよう、マークする相手(あいて)に向(む)かって距離(きょり)を詰(つ)めてくる。
ダム、ダム、と杏(きょう)がその場(ば)でボールを弾(はず)ませる。
バスケ部員(ぶいん)「バーカ、3on3で速攻(そっこう)かけねぇでどうすんだよ」
朋也(ともや)「行(い)け杏(きょう)!」
杏(きょう)「てぇいっ!」
俺(おれ)の合図(あいず)と共(とも)に杏(きょう)は手(て)にしていたボールをゴールのリングめがけて投(な)げる。
バスケ部員(ぶいん)「はっはっはー!
オーバースローって素人(しろうと)か──…」
ガゴン!
ボフッ!
ボールは見事(みごと)リングの奥(おく)に当(あ)たり、そのままネットを揺(ゆ)らした。
バスケ部員達(ぶいんたち)は表情(ひょうじょう)を凍(こお)らせてその場(ば)に立(た)ちつくす。
杏(きょう)「イッエーイ、一点目(いってんめ)~」
朋也(ともや)「三点(さんてん)シュートだから三点(さんてん)だ」
パンっと、杏(きょう)と頭(あたま)の上(うえ)で手(て)を叩(たた)き合(あ)う。
バスケ部員(ぶいん)「まぐれだ!
まぐれ!
気持(きも)ちを切(き)り替(か)えろ!」
気合(きあい)いを入(い)れ直(なお)すバスケ部員達(ぶいんたち)。
だが、すかさず杏(きょう)がパスカットをする。
そして、また杏(きょう)のセンターラインシュートが決(き)められる。
渚(なぎさ)「藤林(ふじばやし)さん、とてもすごいですっ」
この遠投精度(えんとうせいど)をあてにしてメンバーに誘(さそ)ったわけだが、出来過(できす)ぎなくらいの結果(けっか)を出(だ)してくれる。
杏(きょう)「あはははー、バスケってちょろいスポーツねぇ~」
正直(しょうじき)、まともなドリブル一(ひと)つないゲームをバスケと呼(よ)んでいいのかは疑問(ぎもん)が残(のこ)る所(ところ)だが。
杏(きょう)「ていっ!」
5本目(ほんめ)のセンターラインシュート。
ジャンプしたところで到底届(とうていとど)くはずのない高(たか)さで弧(こ)を描(か)きながら、ボールがリングに向(む)かう。
が、軸(じく)がずれている。
俺(おれ)はゴール下(した)に向(む)かって走(はし)る。
朋也(ともや)「春原(すのはら)走(はし)れ!
リバウンドだ!」
春原(すのはら)「へ?」
杏(きょう)のセンターラインシュートに安心(あんしん)しきっていた春原(すのはら)はスタートが遅(おく)れる。
案(あん)の定(じょう)、ボールはリングに弾(はじ)かれた。
腰(こし)でディフェンスと押(お)し合(あ)いをしながら位置(いち)取(と)りをする。
落(お)ちてきたボールに向(む)かって跳(と)び、目一杯(めいっぱい)腕(うで)を伸(の)ばす。
朋也(ともや)「春原(すのはら)っ!」
片手(かたて)でボールを掴(つか)むと、手首(てくび)のスナップだけで遅(おく)れて走(はし)ってきた春原(すのはら)にボールをパスする。
春原(すのはら)「まかせろ!」
ディフェンスを振(ふ)りきりフリーになっていた春原(すのはら)がボールを受(う)け取(と)る。
そして2、3度(たび)ドリブルをしてレイアップ。
ゴン!
ボールをゴールのボードの角(かく)にぶつけ、コートの外(そと)にこぼす。
春原(すのはら)「ドンマイ!」
ゲスっ!
とりあえず蹴(け)っておく。
バスケ部(ぶ)達(たち)も落(お)ち着(つ)きを取(と)り戻(もど)し、本職(ほんしょく)らしいパスワークで俺達(おれたち)を揺(ゆ)さぶり始(はじ)める。
春原(すのはら)「チマチマとパスばっかりして男(おとこ)らしくねぇよこいつら!」
朋也(ともや)「無駄(むだ)に追(お)いかけるな!
陣形(じんけい)を崩(くず)されるぞ!」
杏(きょう)「もらいっ!」
一瞬(いっしゅん)甘(あま)くなったパスを杏(きょう)がカットする。
春原(すのはら)「ナイスだ杏(きょう)!」
杏(きょう)「あんたは全然(ぜんぜん)役立(やくだ)たずねぇ」
春原(すのはら)「時間(じかん)はまだまだあるんだ、見(み)せ場(ば)はこれからさ」
攻守交代(こうしゅこうたい)で、またしても杏(きょう)の容赦(ようしゃ)のない遠投(えんとう)がネットを揺(ゆ)らす。
いつの間(ま)にか、体育館(たいいくかん)の入(い)り口(ぐち)付近(ふきん)は、制服(せいふく)で埋(う)め尽(つ)くされていた。
声(こえ)「きゃーー、杏様(きょうさま)ーー」
杏(きょう)「いえーーーい!」
春原(すのはら)「いい感(かん)じで野次馬(やじうま)が集(あつ)まってきたねぇ」
朋也(ともや)「しかし、杏(きょう)目当(めあ)てのヤツらばっかだぞ…」
しかも1,2年(ねん)の女子(じょし)ばっかりだ。
主将(しゅしょう)「メンバーチェンジだっ!」
主将(しゅしょう)の怒声(どせい)が館内(かんない)に響(ひび)き渡(わた)った。
朋也(ともや)「ま、ここまでは来(く)れると思(おも)ってたが…」
春原(すのはら)「勝負(しょうぶ)はレギュラークラスになったこれからってわけか…」
杏(きょう)「あんたはほとんど何(なに)もしてないけどね」
全員(ぜんいん)がレギュラーともなると、いきなり格(かく)が上(あ)がる。
それはボールを投(な)げ入(い)れようとする時点(じてん)でわかる。
春原(すのはら)のような素人(しろうと)の動(うご)きだと、よほど隙(すき)をつかないと、カットされる。
はじめの頃(ころ)は虚(きょ)を突(つ)いて決(き)まっていた杏(きょう)のロングシュートも、本職(ほんしょく)のプレッシャーに押(お)され精密(せいみつ)さが欠(か)けてくる。
それに自分(じぶん)でも気(き)づいてか、杏(きょう)は足(あし)を使(つか)い始(はじ)めた。
隙間(すきま)を見(み)つけて移動(いどう)していく。その隙(ひま)を潰(つぶ)そうと相手(あいて)も同(おな)じように動(うご)く。
そのおかげで、逆(ぎゃく)に春原(すのはら)がフリーになっていた。
俺(おれ)は目(め)も向(む)けずに、そちらに投(な)げた。
がんっ!
春原(すのはら)「いでっ!」
思(おも)いきり春原(すのはら)の顔面(がんめん)に当(あ)たっていた。
朋也(ともや)「おまえが、味方(みかた)のフェイントに引(ひ)っかかるなっ!」
春原(すのはら)「イツツ…わかった、わかった、次(つぎ)から取(と)るから」
杏(きょう)へのボディーチェックが厳(きび)しくなる。
誰(だれ)がボールを持(も)ってるのかわからないような混戦(こんせん)。
杏(きょう)「あーもうっ!
うっとぉしぃーーっ!」
ずんっ!
春原(すのはら)「むごっ!」
杏(きょう)の肘(ひじ)が春原(すのはら)の脇腹(わきばら)をえぐった。
杏(きょう)「ごめん!
間違(まちが)えた!」
バスケ部員(ぶいん)「間違(まちが)えたってどういう意味(いみ)だー!」
点(てん)こそ入(い)れることが出来(でき)なくなったが、守(まも)りに関(かん)してはレギュラー陣(じん)相手(あいて)に健闘(けんとう)していた。
しかし…
春原(すのはら)「ぜぇ…ぜぇ…」
春原(すのはら)の息(いき)が上(あ)がり始(はじ)めると、その均衡(きんこう)も崩(くず)れ始(はじ)める。
相手(あいて)のパスが通(とお)り始(はじ)め、シュートが立(た)て続(つづ)けに決(き)まる。
序盤稼(じょばんかせ)いだ点(てん)がじわじわと詰(つ)められていく。
俺(おれ)は得点(とくてん)ボードを見(み)る。
1点差(てんさ)まで詰(つ)め寄(よ)られていた。
朋也(ともや)「残(のこ)り時間(じかん)はっ」
渚(なぎさ)「後(あと)、30秒(びょう)もないです」
朋也(ともや)「春原(すのはら)、動(うご)けっ、後(あと)30秒(びょう)だぞっ」
春原(すのはら)「へへっ、大丈夫(だいじょうぶ)だっての…」
がくがく…。
朋也(ともや)「おまえ、膝(ひざ)、がくがくな」
朋也(ともや)「杏(きょう)は、まだ動(うご)けるかっ」
杏(きょう)「全然(ぜんぜん)OK!」
そう応(こた)えながら、フリースペースに走(はし)る。
遠距離(えんきょり)からの高確率(こうかくりつ)なシュートを警戒(けいかい)しているバスケ部員達(ぶいんたち)が慌(あわ)てて杏(きょう)を追(お)う。
ゴール前(まえ)にスペースができた。
それを読(よ)んでいた春原(すのはら)がそこへ走(はし)り込(こ)む。
朋也(ともや)「春原(すのはら)!」
杏(きょう)に気(き)を取(と)られ、春原(すのはら)からマークが外(はず)れていた。
ワンバンで鋭(するど)いパスを春原(すのはら)に送(おく)る。
春原(すのはら)「よっしゃぁっ」
ボールを両手(りょうて)で掴(つか)んで…
がこんっ!
床(ゆか)にボールを叩(たた)きつけていた。
リングを通過(つうか)させずに。
だぁぁーっ!と応援(おうえん)してくれていた生徒(せいと)たちが大量(たいりょう)に転(こ)けていた。
朋也(ともや)「届(とど)きもしねぇのに、ダンクなんてしようとするなっ」
春原(すのはら)「今(いま)のはたまたま届(とど)かなかっただけさっ、ははっ」
朋也(ともや)「疲(つか)れきってんのに、カッコつけようとするからだっ」
朋也(ともや)「今(いま)の1シュートが、どれだけ大事(だいじ)だったかわかってんのかよっ」
春原(すのはら)「次(つぎ)、取(と)ればいいんだろう?
はいはい」
朋也(ともや)「おまえなっ…」
ぱすっ。
ボールがネットを揺(ゆ)らす音(おと)にゴールを見(み)る。
相手(あいて)がレイアップを綺麗(きれい)に決(き)めていた。
杏(きょう)「あんたらねぇ…ボールの代(か)わりにその空(から)っぽの頭(あたま)、床(ゆか)に叩(たた)きつけるわよ…?」
春原(すのはら)「いや…」
春原(すのはら)「ほら、最後(さいご)は逆転(ぎゃくてん)で終(お)わらせたほうが盛(も)り上(あ)がるかなって」
春原(すのはら)「演出(えんしゅつ)だよ、な、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「ああ…そうだぞ、杏(きょう)」
朋也(ともや)「時間(じかん)ももうない。ボールを回(まわ)して、最後(さいご)1シュートで終(お)わらせよう」
杏(きょう)「今(いま)となっては、その1シュートが難(むずか)しいんだけど…」
バスケ部員(ぶいん)「おまえら、早(はや)く始(はじ)めろよっ!」
朋也(ともや)「ああ、すぐ始(はじ)める」
朋也(ともや)「いいか、ふたりとも」
俺(おれ)はふたりの肩(かた)を抱(だ)き寄(よ)せて、最後(さいご)の指示(しじ)を出(だ)す。
最後は俺に
杏(きょう)「OK」
春原(すのはら)「うまくいくといいけどねぇ」
コートに散(ち)る。
最初(さいしょ)のパスで、カットされれば、それでゲームオーバー。
相手(あいて)もそれがわかっているから、今(いま)まで以上(いじょう)に必死(ひっし)のディフェンスだ。
ぐるぐるとめまぐるしく変(か)わる陣形(じんけい)…。
俺(おれ)はボールを投(な)げ入(い)れた。
杏(きょう)の手(て)に渡(わた)る。
囲(かこ)まれる前(まえ)に俺(おれ)に戻(もど)した。
ドリブルで中央(ちゅうおう)に割(わ)って入(い)る。
杏(きょう)の三点(さんてん)シュートを警戒(けいかい)していたからだろう、相手(あいて)は意表(いひょう)を突(つ)かれた形(かたち)になった。
一(いち)、二(に)…
…レイアップ!
目(め)の前(まえ)に影(かげ)がよぎる。
俺(おれ)は胸(むね)の前(まえ)でボールを左手(ひだりて)に移(うつ)した。
そして、背後(はいご)にいるのが春原(すのはら)と信(しん)じてボールを浮(う)かせる。
春原(すのはら)「よし、きたぁぁっ!」
春原(すのはら)の声(こえ)。
振(ふ)り返(かえ)ると、ボールを両手(りょうて)に掴(つか)んだ春原(すのはら)が着地(ちゃくち)したところだった。
それへ春原(すのはら)についていたディフェンスが覆(おお)い被(かぶ)さる。
フェイントで振(ふ)った後(あと)、ボールを床(ゆか)に打(う)ちつけた。
高(たか)くバウンドしたボール。
助走(じょそう)と共(とも)に拾(ひろ)っていたのは杏(きょう)だった。
自分(じぶん)についていたディフェンスを振(ふ)りきって、そして…
ゴールとは反対方向(はんたいほうこう)へボールを投(な)げていた。
ゴール正面(しょうめん)のフリースローポイント。
そこで俺(おれ)はボールを受(う)け取(と)っていた。
すべてのディフェンスを振(ふ)りきって。
コートに立(た)つ全員(ぜんいん)が俺(おれ)を振(ふ)り返(かえ)っていた。
相手(あいて)の、唖然(あぜん)とした表情(ひょうじょう)が滑稽(こっけい)だった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、シュートですっ」
渚(なぎさ)の声(こえ)だけが、一際(ひときわ)大(おお)きく聞(き)こえた気(き)がした。
ああ…了解(りょうかい)。
俺(おれ)は上(あ)がらない肩(かた)もお構(かま)いなしに打(う)った。
バスケ経験者(けいけんしゃ)とはほど遠(とお)い、不格好(ぶかっこう)な姿勢(しせい)で。
それがすべてを象徴(しょうちょう)していた。
不格好(ぶかっこう)に暮(く)らしてきた俺(おれ)たち。
そんな奴(やつ)らでも、辿(たど)り着(つ)くことができる。
道(みち)は違(ちが)っても…同(おな)じ高(たか)みに。
ぱすっ、と音(おと)がして、ネットが揺(ゆ)れていた。
一瞬(いっしゅん)の静(しず)けさ…
直後(ちょくご)、割(わ)れんばかりの大歓声(だいかんせい)が起(お)きた。
春原(すのはら)「よくやった、岡崎(おかざき)!」
杏(きょう)「朋也(ともや)、偉(えら)いっ!」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんっ」
みんなが駆(か)け寄(よ)ってくる。
渚(なぎさ)「みなさん、すごいですっ…」
渚(なぎさ)「力(ちから)を合(あ)わせれば、こんなこともできるんだって…」
渚(なぎさ)「もう、感動(かんどう)ですっ…」
渚(なぎさ)「ほら、涙(なみだ)出(で)てきそうですっ…」
朋也(ともや)「恥(は)ずかしいことを言(い)うな。これぐらいのことで」
春原(すのはら)「そうそう。当然(とうぜん)のこと」
杏(きょう)「ま、このあたしが手(て)ぇ貸(か)してたわけだし?
負(ま)けるはずがないわよね」
喜(よろこ)びを分(わ)かち合(あ)うのも束(つか)の間(ま…
一緒(いっしょ)に歓喜(かんき)の声(こえ)をあげていた野次馬(やじうま)たちが、慌(あわ)てたように散会(さんかい)し始(はじ)めていた。
春原(すのはら)「ありゃ…なんか雲行(くもゆ)きが怪(あや)しいような…」
それらの生徒(せいと)を蹴散(けち)らすように、数人(すうにん)の教師(きょうし)がこちらへ向(む)けて駆(か)けてくるのが見(み)えた。
体育館(たいいくかん)を使(つか)っている部(ぶ)の、顧問(こもん)一同(いちどう)といったところか。
声(こえ)「何事(なにごと)だ、これはっ!」
先頭(せんとう)には、生活指導(せいかつしどう)の大上(おおがみ)。
春原(すのはら)「やべ…ずらかるぞ」
春原(すのはら)が、入(い)り口(ぐち)とは反対側(はんたいがわ)にある非常口(ひじょうぐち)へ向(む)けて走(はし)り出(だ)す。
朋也(ともや)「また後(あと)でな」
杏(きょう)「うん」
杏(きょう)もその後(あと)を追(お)った。
俺(おれ)も呑気(のんき)にしていられない。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、俺(おれ)たちもいくぞっ」
渚(なぎさ)はまだ勝利(しょうり)の余韻(よいん)に浸(ひた)っているのか、ぼーっと突(つ)っ立(た)ったままだった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、逃(に)げるんだよっ」
渚(なぎさ)「え?
あ、はい」
ようやく反応(はんのう)して、駆(か)け出(だ)す。
が、靴下(くつした)とワックスの利(き)いた床(ゆか)は相性(あいしょう)が悪(わる)すぎた。
渚(なぎさ)は足(あし)を滑(なめ)らせて、その場(ば)で転(こ)けた。
持(も)っていた弁当箱(べんとうばこ)が床(ゆか)に叩(たた)きつけられ、中身(なかみ)が散(ち)らばる。
朋也(ともや)「くあ…」
最初(さいしょ)の怒声(どせい)で、部外者(ぶがいしゃ)の生徒(せいと)はほとんど掻(か)き消(き)えていた。
残(のこ)るのは、サンドイッチを拾(ひろ)い集(あつ)める渚(なぎさ)と、それを手伝(てつだ)いに戻(もど)る俺(おれ)だけだった。
教師(きょうし)たちは、バスケ部(ぶ)の主将(しゅしょう)を呼(よ)びつけて、事情(じじょう)を聞(き)いている。
朋也(ともや)「ほら、これで最後(さいご)」
俺(おれ)は最後(さいご)のサンドイッチを渚(なぎさ)に手渡(てわた)す。
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「迷惑(めいわく)かけてしまって…申(もう)し訳(わけ)ないです」
朋也(ともや)「いや、いいよ」
渚(なぎさ)「それで…逃(に)げるんでしたっけ?」
朋也(ともや)「ああ、そうだったな…」
朋也(ともや)「とりあえず、今(いま)なら走(はし)って逃(に)げられそうだけど…その足(あし)じゃ無理(むり)だよな」
渚(なぎさ)「はい…すみません」
朋也(ともや)「とりあえず、今(いま)なら走(はし)って逃(に)げられそうだけど…」
渚(なぎさ)「すみません、わたし、ドジです。足(あし)、くじいてしまいました」
朋也(ともや)「だろうな。見(み)てたらわかる」
サンドイッチを拾(ひろ)う間(あいだ)も、痛々(いたいた)しく片足(かたあし)を引(ひ)きずっていた。
朋也(ともや)「おまえ、ほんと、バスケやらなくてよかったよ」
渚(なぎさ)「わたしもそう思(おも)います。わたし、運動音痴(うんどうおんち)です」
朋也(ともや)「だな…」
朋也(ともや)「保健室(ほけんしつ)いこう。肩(かた)貸(か)してやるから」
渚(なぎさ)「重(かさ)ね重(がさ)ね、すみません…」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、いちいち謝(あやま)るな」
渚(なぎさ)「はい…」
もう裏口(うらぐち)から出(で)る必要(ひつよう)もない。
俺(おれ)は渚(なぎさ)の肩(かた)を抱(かか)えて、堂々(どうどう)と出口(でぐち)へ向(む)けて歩(ある)く。
声(こえ)「おい、岡崎(おかざき)!」
怒声(どせい)が背中(せなか)に叩(たた)きつけられる。
さすがに素行(そこう)の悪(わる)さで顔(かお)も名(な)も知(し)れた俺(おれ)は、見逃(みのが)してはくれないらしい。
俺(おれ)は足(あし)を止(と)めて、首(くび)だけを後(うし)ろに向(む)ける。
朋也(ともや)「なんだよ」
大上(おおがみ)「残(のこ)っていろ」
朋也(ともや)「こいつが、足(あし)を怪我(けが)したんだ。保健室(ほけんしつ)まで連(つ)れていかせてくれ」
大上(おおがみ)「逃(に)げる口実(こうじつ)だろ。似合(にあ)わないことをするな」
朋也(ともや)「でも、本当(ほんとう)に怪我(けが)したんだ」
大上(おおがみ)「なら、付(つ)き添(そ)いはおまえじゃなくてもいいだろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)じゃなきゃ嫌(いや)だ」
大上(おおがみ)「わがままを言(い)うな。ほら、小西(こにし)、代(か)わりに付(つ)き添(そ)ってやれ」
ひとりのバスケ部員(ぶいん)が、俺(おれ)たちの元(もと)まで寄(よ)ってきた。
バスケ部員(ぶいん)「君(きみ)、そいつから離(はな)れて、こっちにおいで。そいつ問題児(もんだいじ)だから、近(ちか)づかないほうがいいよ」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)は、どうするだろうか。
教師(きょうし)の言(い)うことに従(したが)うだろうか。
従(したが)うか…こいつの性格(せいかく)なら。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の背中(せなか)に手(て)を回(まわ)していた。
そして、強(つよ)くぎゅっと、俺(おれ)に身(み)を寄(よ)せた。
ふわりと渚(なぎさ)の匂(にお)いが、鼻(はな)をつく。
渚(なぎさ)「あの…わたしも、朋也(ともや)くんがいいです」
バスケ部員(ぶいん)「え?
どうして…」
ああ、そうか…
渚(なぎさ)は、こっち側(がわ)の人間(にんげん)だった。
不格好(ぶかっこう)に生(い)きてきた仲間(なかま)の。
満(み)たされて…それに気(き)づかない連中(れんちゅう)とは違(ちが)う。
だから、俺(おれ)は胸(むね)を張(は)った。
朋也(ともや)「俺(おれ)、こいつの彼氏(かれし)っすから」
………。
やけに静(しず)かだった。
誰(だれ)の声(こえ)も聞(き)こえない。
言(い)いがかりをつける奴(やつ)もいない。
そう、理由(りゆう)は認(みと)められたのだ。
朋也(ともや)「いこう、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
再(ふたた)び歩(ある)き出(だ)した。
その後(あと)、響(ひび)いた怒声(どせい)も、すべて無視(むし)して。
春原(すのはら)「かんぱーーいっ」
俺(おれ)たちは春原(すのはら)の部屋(へや)で祝杯(しゅくはい)をあげていた。
春原(すのはら)がコップのジュースを一気(いっき)に煽(あお)る。
春原(すのはら)「ぷはーっ」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さん、それ、ジュース…ですか…?」
春原(すのはら)「当然(とうぜん)」
渚(なぎさ)「今(いま)、なんか、違(ちが)う匂(にお)いがしました…」
春原(すのはら)「ああ、普通(ふつう)のジュースとはちょっと違(ちが)うから」
渚(なぎさ)「それなんですかっ」
春原(すのはら)「内緒(ないしょ)」
渚(なぎさ)「それ、きっと、いけないことです」
春原(すのはら)「大丈夫(だいじょうぶ)、大丈夫(だいじょうぶ)。慣(な)れてるから」
渚(なぎさ)「そういう問題(もんだい)ではないとっ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんっ」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「コップ貸(か)してください」
朋也(ともや)「はいよ」
俺(おれ)の持(も)っていたコップを渚(なぎさ)に手渡(てわた)す。
受(う)け取(と)ると、中身(なかみ)の匂(にお)いを嗅(か)いだ。
朋也(ともや)「そんなに心配(しんぱい)だったら、飲(の)んでみろよ」
渚(なぎさ)「わかりました…それでは失礼(しつれい)して…」
口(くち)をつけて、一口(ひとくち)含(ふく)む。
朋也(ともや)「どうだ」
渚(なぎさ)「ちゃんとジュースです」
朋也(ともや)「だろ」
春原(すのはら)「大丈夫(だいじょうぶ)。渚(なぎさ)ちゃんの前(まえ)では、薦(すす)めないからさ」
渚(なぎさ)「いないところでも、薦(すす)めたらダメですっ」
春原(すのはら)「わかったわかった、じゃ、バレないようにやるから」
渚(なぎさ)「それもダメですっ」
朋也(ともや)「ほら、ジュース返(かえ)してくれよ」
渚(なぎさ)「あ、すみませんでした」
コップを渚(なぎさ)の手(て)から奪(うば)い取(と)る。
渚(なぎさ)「でも…一緒(いっしょ)にがんばったのに、藤林(ふじばやし)さんがいないのは寂(さび)しいです」
朋也(ともや)「藤林(ふじばやし)…?
ああ、杏(きょう)のことか」
春原(すのはら)「誘(さそ)ったんだけどね、散歩(さんぽ)があるからって言(い)って帰(かえ)っちゃった」
朋也(ともや)「散歩(さんぽ)?」
春原(すのはら)「年寄(としよ)りくさい趣味(しゅみ)だよね」
渚(なぎさ)「ペットの散歩(さんぽ)かもしれないです」
朋也(ともや)「ペットか…」
春原(すのはら)「ペットねぇ…」
渚(なぎさ)「どうしたんですか?」
朋也(ともや)「いや、あいつのペットって特殊(とくしゅ)だから」
春原(すのはら)「ウリボウだもんね…」
渚(なぎさ)「猪(いのしし)の子供(こども)ですか?
もしかして前(まえ)に拾(ひろ)った子(こ)ですか?」
朋也(ともや)「ああ、おまえが犬(いぬ)と間違(まちが)えたやつな」
渚(なぎさ)「そうでしたか。藤林(ふじばやし)さんのペットだったんですね」
渚(なぎさ)「後(あと)で聞(き)いたんですけど、たまにお父(とう)さんが捕(つか)まえていたそうです」
朋也(ともや)「捕(つか)まえていた?」
渚(なぎさ)「はい。たまにお店(みせ)の前(まえ)を通(とお)るので、パンをあげたりしているそうです」
朋也(ともや)「…早苗(さなえ)さんのパン?」
渚(なぎさ)「えっと…えへへ…」
オッサンも罪(つみ)なことをする…。
春原(すのはら)「ま、ここにはいないけど、実(じつ)のとこ杏(きょう)が一番(いちばん)点(てん)を入(い)れてるんだよね」
朋也(ともや)「そうだな、スリーポイントばっか入(い)れてたしな」
春原(すのはら)「よっし、こんな時(とき)くらいは素直(すなお)に藤林杏(ふじばやしきょう)に感謝(かんしゃ)してみるか」
言(い)いながら、小(ちい)さな小瓶(こびん)を取(と)り出(だ)す春原(すのはら)。
渚(なぎさ)「あ、それダメですっ」
それを自分(じぶん)のコップにつぎ足(た)そうとしたところで渚(なぎさ)が止(と)めていた。
渚(なぎさ)「こういうの、飲(の)んだらダメです。今度(こんど)見(み)つけたら怒(いか)ります」
春原(すのはら)「なんか、渚(なぎさ)ちゃん、年上(としうえ)みたいなこと言(い)うね」
渚(なぎさ)「はい…年上(としうえ)ですけど」
春原(すのはら)「それおもしろい冗談(じょうだん)だね、ははは!」
渚(なぎさ)「冗談(じょうだん)じゃないです…」
朋也(ともや)「こいつ、ダブッてるんだよ。おまえ知(し)らなかったのか?」
春原(すのはら)「え゛ぇぇぇぇぇーーーーーーーーっ!」
朋也(ともや)「文字(もじ)で表(あらわ)せないような叫(さけ)び声(ごえ)をあげるな」
渚(なぎさ)「あ、ヘンなのわかってます…」
渚(なぎさ)「でも、そんなに驚(おどろ)かないでほしいです…」
春原(すのはら)「三年生(さんねんせい)二回目(にかいめ)なの…?」
渚(なぎさ)「そうです…二回目(にかいめ)です」
春原(すのはら)「つーことは…去年(きょねん)僕(ぼく)たちが二年(にねん)だったときに、渚(なぎさ)ちゃん…三年生(さんねんせい)だったんだ」
渚(なぎさ)「そうです」
春原(すのはら)「先輩(せんぱい)じゃん…」
当然(とうぜん)のことだったが、そう改(あらた)めて言(い)われると、不思議(ふしぎ)な感(かん)じがした。
渚(なぎさ)「そうです、先輩(せんぱい)でした…」
渚(なぎさ)「でも、今(いま)は同級生(どうきゅうせい)です。だから、何(なに)も変(か)わらないです」
朋也(ともや)「そうだぞ、春原(すのはら)」
朋也(ともや)「それともなんだ。おまえは、渚(なぎさ)が年上(としうえ)だとわかったら、接(せっ)し方(かた)が変(か)わるのかよ」
春原(すのはら)「いや、接(せっ)し方(かた)は変(か)わらないけどさ…」
春原(すのはら)「たださ…少(すこ)しだけ見方(みかた)が変(か)わるね」
朋也(ともや)「どう変(か)わるんだよ」
春原(すのはら)「よくわかんないけどさ…より親近感(しんきんかん)が湧(わ)くっていうかさ…」
春原(すのはら)「僕(ぼく)たちとあんまり変(か)わらないんだなってさ…」
春原(すのはら)「何(なに)言(い)ってんのか、わかんないね、ははっ」
もっと早(はや)くに春原(すのはら)に教(おし)えておけばよかったのかもしれない。
そうしたら、もっと早(はや)く、春原(すのはら)は渚(なぎさ)に気(き)を許(ゆる)せていたかもしれない。
でも、そんなもの関係(かんけい)なく…
渚(なぎさ)は春原(すのはら)と仲良(なかよ)くなってしまったのだから、本当(ほんとう)にすごい。
朋也(ともや)「おまえ、すごいよな…」
渚(なぎさ)「どうしてでしょうか?」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちとさ、こんなに仲良(なかよ)くなるなんてさ」
朋也(ともや)「それに、春原(すのはら)をあんなふうに諭(さと)したりしてさ」
朋也(ともや)「普通(ふつう)は馬鹿(ばか)らしくて何(なに)も言(い)わないか、それか怖(こわ)がって近(ちか)づかないか、どっちかだぞ?」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
渚(なぎさ)「わたしは自然(しぜん)に言(い)いたいこと言(い)ってるだけですけど…」
そうだったのか…。
それが、渚(なぎさ)の自然(しぜん)な姿(すがた)だったのか…。
そして、俺(おれ)は思(おも)い出(だ)していた。
俺(おれ)は初(はじ)めて渚(なぎさ)の家(いえ)に行(い)ったとき…
自然(しぜん)に振(ふ)る舞(ま)う渚(なぎさ)を見(み)て、それを引(ひ)き出(だ)せてしまうオッサンや早苗(さなえ)さんに嫉妬(しっと)を覚(おぼ)えたことを。
いつからか…俺(おれ)もそんな存在(そんざい)になれていたのだ。
俺(おれ)たちと居(い)ると、渚(なぎさ)は自然体(しぜんたい)でいられる。
それはなんて、嬉(うれ)しいことなんだろう。
渚(なぎさ)「でも…」
渚(なぎさ)「振(ふ)り返(かえ)ってみると、おかしいです」
朋也(ともや)「何(なに)がだ?」
渚(なぎさ)「だって、二週間前(にしゅうかんまえ)は、わたし、不安(ふあん)だらけでした…」
渚(なぎさ)「時間(じかん)は残酷(ざんこく)で…」
渚(なぎさ)「いろんなものを変(か)えてしまいました…」
渚(なぎさ)「もう、わたしが笑(わら)っていられる場所(ばしょ)なんて、なくなってしまったんだって…」
渚(なぎさ)「そう思(おも)ってました」
渚(なぎさ)「けど、今(いま)は、笑(わら)ってます」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの隣(となり)で」
渚(なぎさ)「泣(な)いたりもしてますけど…えへへ…」
渚(なぎさ)「でも今(いま)は、楽(たの)しくて仕方(しかた)がないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの言(い)う通(とお)り、楽(たの)しいこと、たくさん見(み)つかりました」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「よかったな」
渚(なぎさ)「はい。ぜんぶ、朋也(ともや)くんのおかげです」
朋也(ともや)「それは…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も同(おな)じだよ」
朋也(ともや)「おまえのおかげで、歩(ある)いてられてる」
思(おも)い悩(なや)んでいた、気弱(きよわ)だったあの日(ひ)の渚(なぎさ)と…
ふたりで登(のぼ)り始(はじ)めた坂(さか)。
渚(なぎさ)「まだ自信(じしん)持(も)てないことも、たくさんあります」
渚(なぎさ)「それでも、朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に居(い)られたら…」
渚(なぎさ)「もっと、がんばれる気(き)がしてます」
まだまだ途中(とちゅう)だったけど…
ふたりなら、どこまでも登(のぼ)っていける気(き)がしていた。
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seagull - 2009/5/13 22:24:00
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5月1日()

,0,]
渚(なぎさ)「おはようございます」
朋也(ともや)「ああ、おはよ…」
並(なら)んで歩(ある)き始(はじ)める。
渚(なぎさ)「あの、わたし、まだ興奮(こうふん)してます…」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「目(め)を閉(と)じれば…昨日(きのう)の試合(しあい)が思(おも)い浮(う)かびます」
朋也(ともや)「じゃ、開(あ)けてろ」
渚(なぎさ)「閉(と)じたいですっ。思(おも)い出(だ)したいですっ」
朋也(ともや)「いや、トラウマのようにこびりついて、大変(たいへん)なのかと思(おも)って」
渚(なぎさ)「そんなことないです」
渚(なぎさ)「大切(たいせつ)な思(おも)い出(で)です。一生(いっしょう)、覚(おぼ)えてます」
渚(なぎさ)「いつまでも…昨日(きのう)のように思(おも)い出(だ)すと思(おも)います」
渚(なぎさ)「とても感動的(かんどうてき)でしたから…」
朋也(ともや)「あ、そ」
渚(なぎさ)「未(いま)だに胸(むね)、ドキドキいってます」
渚(なぎさ)「最後(さいご)のシュート…とてもかっこよかったです」
渚(なぎさ)「わたしの…彼氏(かれし)のシュートです」
朋也(ともや)「別(わか)れたら、元(もと)カレのシュートになっちまうな」
渚(なぎさ)「そんなの嫌(いや)ですっ」
渚(なぎさ)「なんか、さっきからからかわれているような気(き)がします…」
朋也(ともや)「冗談(じょうだん)だって」
朋也(ともや)「ま、俺(おれ)も、そこそこ気持(きも)ちよかったよ」
渚(なぎさ)「そうです。大活躍(だいかつやく)でしたから、気持(きも)ちいいはずです」
朋也(ともや)「筋肉痛(きんにくつう)で全身(ぜんしん)痛(いた)いけどな」
渚(なぎさ)「まだ痛(いた)かったですか」
朋也(ともや)「昨日(きのう)よりはマシだけど」
渚(なぎさ)「早(はや)く治(なお)るといいです」
朋也(ともや)「そうだな」
春原(すのはら)「おはよう!」
朋也(ともや)「なんで、おまえ、朝(あさ)から居(い)るんだよ」
春原(すのはら)「べっつにぃ」
男子生徒(だんしせいと)「おまえら、昨日(きのう)、バスケ部(ぶ)に勝(か)ったって本当(ほんとう)か?」
春原(すのはら)「まぁね!」
…わかりやすすぎる。
春原(すのはら)「あいつら、毎日(まいにち)バスケやってるってのにねぇ」
机(つくえ)に腰(こし)かけて、意気(いき)揚々(ようよう)と自慢話(じまんばなし)を始(はじ)める。
春原(すのはら)「生(う)まれ持(も)っての資質(ししつ)っていうの?」
春原(すのはら)「そういうのには、結局(けっきょく)敵(かな)わないのかなぁ!」
男子生徒(だんしせいと)「すげぇなぁ」
春原(すのはら)「天才(てんさい)は違(ちが)うっていうかさ!」
春原(すのはら)「自分(じぶん)のことを天才(てんさい)って言(い)ってるわけじゃないよ」
春原(すのはら)「でも、天才(てんさい)って思(おも)われちゃうんだろうね!」
聞(き)いてるこっちが恥(は)ずかしくなってくる。
他人(たにん)の振(ふ)りをして、席(せき)についた。
昼休(ひるやす)み。
朋也(ともや)(なんで、まだおまえがここに来(く)るんだよ…)
春原(すのはら)「いやぁ、昨日(きのう)の僕(ぼく)はすごかったよねぇ、うんうん」
渚(なぎさ)「はい、春原(すのはら)さん、大活躍(だいかつやく)でした」
春原(すのはら)は嬉(うれ)しそうに、渚(なぎさ)と昨日(きのう)の試合(しあい)を振(ふ)り返(かえ)っていた。
春原(すのはら)「成功(せいこう)ってのは、努力(どりょく)じゃないんだよねぇ」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さん、努力(どりょく)もいっぱいしていました」
春原(すのはら)「はは、あんなの努力(どりょく)のうちに入(はい)らないさ」
春原(すのはら)「渚(なぎさ)ちゃん、僕(ぼく)はね…1%の努力(どりょく)と99%のセンスで成(な)し遂(と)げたんだよ」
どうしても天才(てんさい)と言(い)ってほしいらしい。
渚(なぎさ)「でも、春原(すのはら)さんは、たくさんのやる気(き)がありました。それはとても大(おお)きかったと思(おも)います」
春原(すのはら)「ああ、じゃ、20%ぐらいやる気(き)にするよ」
朋也(ともや)「後(あと)、自己顕示欲(じこけんじよく)な。それ30%ぐらい入(い)れろ」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さんがバスケが大好(だいす)きだったこともあると思(おも)います。バスケ大好(だいす)きも20%ぐらいお願(ねが)いしたいです」
朋也(ともや)「カレーのルーも入(い)れとけ。5%ぐらい」
渚(なぎさ)「友情(ゆうじょう)を忘(わす)れてました。素敵(すてき)な友情(ゆうじょう)を20%ぐらいお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「後(あと)、3%ぐらい旬(しゅん)の野菜(やさい)な」
朋也(ともや)「ほら、計算(けいさん)し直(なお)せ」
朋也(ともや)「他(ほか)のが増(ふ)えたぶんはセンスから引(ひ)けよ」
春原(すのはら)「ええっと…すると、どうなるんだ…」
指折(ゆびお)り計算(けいさん)している。
春原(すのはら)「よぅし、できた」
春原(すのはら)「いいか、渚(なぎさ)ちゃん…」
渚(なぎさ)「はい」
春原(すのはら)「僕(ぼく)はね…」
春原(すのはら)「1%の努力(どりょく)と20%のやる気(き)と30%の自己顕示(じこけんじ)欲(よく)と20%のバスケ大好(だいす)きと20%の素敵(すてき)な友情(ゆうじょう)と…」
春原(すのはら)「5%のカレールーと3%の旬(しゅん)の野菜(やさい)と1%のセンスで成(な)し遂(と)げたんだよ」
春原(すのはら)「って、どんな奴(やつ)なんだよぉーっ!
内訳(うちわけ)の一部(いちぶ)がカレーになってるじゃないかよっ!」
渚(なぎさ)「とても素敵(すてき)な内訳(うちわけ)です」
春原(すのはら)「人(ひと)でないんですけどっ」
渚(なぎさ)「そんなことないです。春原(すのはら)さんのがんばりが詰(つ)まった内訳(うちわけ)です」
春原(すのはら)「頑張(がんば)りじゃなくて、センスだってのっ」
朋也(ともや)「そのセンスの占(し)める割合(わりあい)、旬(しゅん)の野菜(やさい)に負(ま)けてたな」
春原(すのはら)「おまえが入(い)れさせたんだろっ」
パンを食(た)べ終(お)えると、渚(なぎさ)が立(た)ち上(あ)がっていた。
春原(すのはら)「うん?
どうしたの?」
渚(なぎさ)「いえ、ちょっと気(き)になることがあるものですから…」
朋也(ともや)「なんだ、言(い)えよ」
渚(なぎさ)「ええとですね…」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は、演劇部(えんげきぶ)の説明会(せつめいかい)の日(ひ)でした」
朋也(ともや)「ああ…」
その一言(いちげん)で俺(おれ)も思(おも)い出(だ)していた。
二週間前(にしゅうかんまえ)、ビラに書(か)いた説明会(せつめいかい)の期日(きじつ)、それが5月(がつ)最初(さいしょ)の日(ひ)…今日(きょう)だった。
でも、そのビラはもう剥(は)がされてなかったし…
そもそも演劇部(えんげきぶ)の再建(さいけん)のめども立(た)っていない。
そんな状況(じょうきょう)では、どうしようもなかったのだが…。
渚(なぎさ)「誰(だれ)か来(き)ていたら、申(もう)し訳(わけ)ないですので、見(み)に行(い)ってきます」
誰(だれ)もいない部室(ぶしつ)を見(み)て、虚(むな)しさを募(つの)らせるだけだろうに。
それでも、渚(なぎさ)の性格(せいかく)はよくわかっていたから、俺(おれ)は何(なに)も言(い)わずに立(た)ち上(あ)がる。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、来(き)てもらえるんですか。ありがとうございます」
朋也(ともや)「俺(おれ)、お手伝(てつだ)いだしな」
朋也(ともや)「雑用(ざつよう)はどうする」
春原(すのはら)「誰(だれ)のことだよっ!」
朋也(ともや)「おまえ」
春原(すのはら)「行(い)くけどさっ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「それでは、みんなで行(い)きましょう」
渚(なぎさ)「あ、誰(だれ)かいます」
渚(なぎさ)「入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)の方(かた)ですっ」
春原(すのはら)「いや、違(ちが)うよ…」
春原(すのはら)「合唱部(がっしょうぶ)の連中(れんちゅう)だ」
春原(すのはら)が忌々(いまいま)しく吐(は)き捨(す)てた。
渚(なぎさ)「仁科(にしな)さんと、杉坂(すぎさか)さん」
渚(なぎさ)が寄(よ)っていく。
渚(なぎさ)「今日(きょう)はどうしましたか」
仁科(にしな)「今日(きょう)はご相談(そうだん)にあがりました」
仁科(にしな)という子(こ)が静(しず)かに話(はなし)を始(はじ)めた。
それは、幸村(こうむら)に演劇部(えんげきぶ)と合唱部(がっしょうぶ)の顧問(こもん)を兼任(けんにん)してもらうという提案(ていあん)だった。
しかし本校(ほんこう)のルールでは、顧問(こもん)がいない時(とき)には活動(かつどう)をしてはいけないということだったので、活動(かつどう)は一週間(いっしゅうかん)交代(こうたい)で実施(じっし)するということだ。
仁科(にしな)「もし、それでもよろしければ…です」
渚(なぎさ)「それは、ぜんぜん…わたしとしては構(かま)いません」
渚(なぎさ)「とても、うれしいお話(はなし)です」
仁科(にしな)「それでは今週(こんしゅう)は私(わたし)たち合唱部(がっしょうぶ)の番(ばん)ということで、演劇部(えんげきぶ)の活動(かつどう)は来週(らいしゅう)ということでお願(ねが)いします」
渚(なぎさ)「あ、待(ま)ってください…」
仁科(にしな)「どうしました?」
渚(なぎさ)「実(じつ)は…」
渚(なぎさ)「演劇部(えんげきぶ)は部員(ぶいん)が足(た)りません」
苦々(にがにが)しく伝(つた)えた。
渚(なぎさ)「ですから…部(ぶ)として発足(ほっそく)することができないんです」
仁科(にしな)「三人(さんにん)いればいいんですよ。居(い)るじゃないですか」
渚(なぎさ)「違(ちが)います。朋也(ともや)くんと春原(すのはら)さんは…」
春原(すのはら)「部員(ぶいん)だ」
春原(すのはら)がそう告(つ)げていた。
渚(なぎさ)「え?」
春原(すのはら)「いいよ、部員(ぶいん)でさ。バスケ手伝(てつだ)ってもらったしな」
おまえいつからそんな爽(さわ)やかキャラに…。
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか?」
春原(すのはら)「ああ、でも、雑用(ざつよう)だ。舞台(ぶたい)には立(た)たないからな」
渚(なぎさ)「もちろん、構(かま)わないです。ありがとうございます」
こうなると、俺(おれ)も黙(だま)っているわけにはいかなかった。
朋也(ともや)「これで三人(さんにん)。揃(そろ)ったな」
渚(なぎさ)「えっ…朋也(ともや)くん、舞台(ぶたい)に立(た)ってくれるんですかっ」
朋也(ともや)「こらこら、段階(だんかい)を飛(と)ばすな。部員(ぶいん)として入(はい)ってやってもいいという意味(いみ)だ」
朋也(ともや)「俺(おれ)も舞台(ぶたい)になんて立(た)ちたかねぇ。考(かんが)えただけでぞっとする」
渚(なぎさ)「わかりました。構(かま)わないです。ありがとうございます」
朋也(ともや)「つーわけで、演劇部(えんげきぶ)、無事発足(ぶじほっそく)、というわけだな」
渚(なぎさ)「みなさん、ありがとうございます」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に、ありがとうございます」
何度(なんど)も何度(なんど)も、渚(なぎさ)は頭(あたま)を下(さ)げた。
仁科(にしな)「それで、もしよかったら…」
仁科(にしな)は話(はなし)を続(つづ)けた。
仁科(にしな)「創立者祭(そうりつしゃさい)に出(で)ませんか、演劇部(えんげきぶ)も」
渚(なぎさ)「はい?」
春原(すのはら)「創立者祭(そうりつしゃさい)ってなんだっけ」
仁科(にしな)「………」
仁科(にしな)「本当(ほんとう)にこの学校(がっこう)の生徒(せいと)でしょうか」
朋也(ともや)「ああ、そうだよ。ただ、疎(うと)いだけだ。説明(せつめい)してやってくれ」
仁科(にしな)「要(よう)は創立者(そうりつしゃ)の誕生日(たんじょうび)です。その日(ひ)は午前中(ごぜんちゅう)から体育館(たいいくかん)で文化系(ぶんかけい)のクラブが発表会(はっぴょうかい)を行(おこな)います」
春原(すのはら)「午前中(ごぜんちゅう)か…知(し)らないのも無理(むり)ないや」
仁科(にしな)「いかがでしょうか、演劇部(えんげきぶ)も」
渚(なぎさ)「それは大変(たいへん)うれしいお誘(さそ)いです」
渚(なぎさ)「是非(ぜひ)出(で)たいです」
渚(なぎさ)「出(で)ましょう、朋也(ともや)くん、春原(すのはら)さん」
渚(なぎさ)が振(ふ)り返(かえ)って言(い)った。
朋也(ともや)「いや、出(で)るのはおまえだけだってば」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「俺(おれ)ら、雑用(ざつよう)。裏方(うらかた)だ」
朋也(ともや)「だから、おまえが出(で)たいって言(い)うんなら、出(で)ればいい。サポートはする」
渚(なぎさ)「それは…ひとりででしょうか…」
朋也(ともや)「ああ。ひとり芝居(しばい)ってのもありなんだろ?」
渚(なぎさ)「ありだとしてもです…それは少(すこ)し、いえ、かなり心細(こころぼそ)いです」
春原(すのはら)「イッセー尾形(おがた)みたいで格好(かっこう)いいじゃん」
朋也(ともや)「ありゃお笑(わら)いだろ」
春原(すのはら)「まぁ、そういう役者(やくしゃ)さんもたくさんいるってわけだ」
渚(なぎさ)「それは、そうですけど…」
仁科(にしな)「どうしますか?
残(のこ)り日数(にっすう)も少(すく)ないですし…やめておきますか?」
朋也(ともや)「いつなんだ?」
仁科(にしな)「5月(がつ)11日(にち)、日曜日(にちようび)です」
朋也(ともや)「後(あと)、10日(にち)?」
朋也(ともや)「無理(むり)だな…時間(じかん)がなさすぎる…」
仁科(にしな)「ひとつのクラブに割(わ)り当(あ)てられる時間(じかん)は20分(ぷん)ほどと少(すく)ないんです」
仁科(にしな)「ですから、そんなに凝(こ)ったものである必要(ひつよう)もないので、やる気(き)さえあれば大丈夫(だいじょうぶ)だと思(おも)いますよ」
渚(なぎさ)「………」
春原(すのはら)「どうすんだよ、渚(なぎさ)ちゃん」
渚(なぎさ)「もう少(すこ)し…考(かんが)えていいですか」
仁科(にしな)「それは構(かま)いません。もし出(で)るのであれば、幸村先生(こうむらせんせい)にお話(はな)し下(くだ)さい」
渚(なぎさ)「わかりました」
仁科(にしな)「それでは、同(おな)じ舞台(ぶたい)に立(た)てることを期待(きたい)して、待(ま)ってますね」
渚(なぎさ)「はい、前向(まえむ)きに考(かんが)えます」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は本当(ほんとう)にありがとうございました」
合唱部(がっしょうぶ)のふたりが退室(たいしつ)する。
春原(すのはら)「やったじゃん、僕(ぼく)のおかげだね、渚(なぎさ)ちゃん」
渚(なぎさ)「はい、ありがとうございます」
渚(なぎさ)は、いつまででも礼(れい)を言(い)ってそうだ。
でも、俺(おれ)は思(おも)った。
朋也(ともや)「もし3on3なんてしなくてもさ…」
春原(すのはら)「あん?」
朋也(ともや)「結局(けっきょく)、こうなってたんじゃないかな。そんな気(き)がするよ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「はい。わたしもそう思(おも)います」
渚(なぎさ)も同意(どうい)した。
渚(なぎさ)「もちろん、春原(すのはら)さんのしてくれたことも意味(いみ)があったと思(おも)います」
渚(なぎさ)「でも、やっぱり仁科(にしな)さんや杉坂(すぎさか)さんは…こうしてくれていたと思(おも)います」
春原(すのはら)「それはない。僕(ぼく)があいつらの目(め)を覚(さ)まさせてやったんだ」
朋也(ともや)「おまえ、素直(すなお)に納得(なっとく)しとけっ」
ぽかっ!と一発(いっぱつ)殴(なぐ)っておく。
春原(すのはら)「いてぇな!
なにするんだよっ」
部室(ぶしつ)を出(で)て、教室(きょうしつ)に戻(もど)る間(あいだ)、俺(おれ)は考(かんが)えていた。
もし渚(なぎさ)が発表会(はっぴょうかい)の話(はなし)を受(う)けてしまったら…
そうしたら、また、ふたりで過(す)ごす恋人同士(こいびとどうし)らしい時間(じかん)はお預(あず)けとなるだろう。
それを考(かんが)えると複雑(ふくざつ)な気分(きぶん)だった。
でも、俺(おれ)は…
朋也(ともや)「おまえさ、俺(おれ)にはバスケやらせといてさ…」
朋也(ともや)「いざ自分(じぶん)がその立場(たちば)になって、迷(まよ)ってんじゃねぇよ」
足(あし)を止(と)め、そう叱咤(しった)していた。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「そう…ですよね」
朋也(ともや)「おまえの夢(ゆめ)だったんだろ、学校生活(がっこうせいかつ)の」
渚(なぎさ)「そうです。夢(ゆめ)でした」
朋也(ともや)「ずっと、学芸会(がくげいかい)にさえ出(で)られずにさ…ここまできて…」
朋也(ともや)「それでようやく、その夢(ゆめ)が叶(かな)えられるところまできたんじゃないか」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「なに迷(まよ)ってんだよ、馬鹿(ばか)」
朋也(ともや)「夢中(むちゅう)で掴(つか)めよ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「そうやって言(い)われないとわからないなんて、ダメな子(こ)です、わたし」
渚(なぎさ)「今日(きょう)から練習(れんしゅう)、がんばります」
渚(なぎさ)「がんばって、創立者祭(そうりつしゃさい)の日(ひ)には、立派(りっぱ)に劇(げき)を発表(はっぴょう)してみせます」
朋也(ともや)「ああ、頑張(がんば)れよ」
朋也(ともや)「がむしゃらにやらないと、成功(せいこう)しないぞ」
渚(なぎさ)「はい、がむしゃらにがんばります」
朋也(ともや)「はぁ…」
気(き)づかれないようにため息(いき)をつく。
朋也(ともや)(今日(きょう)からは練習(れんしゅう)ざんまいか…)
担任(たんにん)「おい、岡崎(おかざき)」
授業(じゅぎょう)が終(お)わると同時(どうじ)、担任(たんにん)に呼(よ)び止(と)められた。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は返事(へんじ)もせず、担任(たんにん)が寄(よ)ってくるのを待(ま)っていた。
担任(たんにん)「なぁ、岡崎(おかざき)。今日(きょう)、おまえの家(うち)にいくぞ」
朋也(ともや)「はぁっ?」
俺(おれ)はそのあまりにぶっ飛(と)んだ提案(ていあん)に、素(す)っ頓狂(とんきょう)な声(こえ)をあげてしまう。
担任(たんにん)「おまえだけ、進路相談(しんろそうだん)が終(お)わっていない」
朋也(ともや)「んなもん、どうだっていいでしょ」
担任(たんにん)「いいわけあるか。進学(しんがく)しないにしても、必要(ひつよう)だ」
担任(たんにん)「おまえん家(うち)、あれだろ。親父(おやじ)さんだけだろ?」
朋也(ともや)「ああ…」
担任(たんにん)「どうして、連絡(れんらく)つかないんだ?
いるんだろ?」
朋也(ともや)「いねぇよ」
担任(たんにん)「いないわけないだろ。なんだ、ずっと帰(かえ)っていないのか」
朋也(ともや)「ああ…」
担任(たんにん)「じゃあ、確(たし)かめに行(い)ってやるから、ここで待(ま)ってろ。支度(したく)してくるからな」
そう言(い)うと、担任(たんにん)は教室(きょうしつ)を駆(か)け足(あし)で出(で)ていった。
………。
…冗談(じょうだん)じゃない。
俺(おれ)は教室(きょうしつ)から飛(と)び出(だ)す。
そこで渚(なぎさ)が待(ま)っていた。
渚(なぎさ)「あの…これから練習(れんしゅう)しますっ、付(つ)き合(あ)っていただけますかっ」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、んなもんやめろ。とっとと帰(かえ)るぞっ」
渚(なぎさ)「えっ?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、さっきと言(い)ってること、ぜんぜん違(ちが)いますっ…」
朋也(ともや)「いいんだよっ、とにかく学校(がっこう)から離(はな)れるんだっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、夢中(むちゅう)でつかめって…そう言(い)ってくれました」
渚(なぎさ)「迷(まよ)ってたわたしは…その言葉(ことば)で目(め)が覚(さ)めたんです」
朋也(ともや)「もう一度(いちど)眠(ねむ)れっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、言(い)ってることヘンです、おかしいですっ」
朋也(ともや)「とにかく、急(いそ)いでここを離(はな)れないとっ」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の腕(うで)をひっ掴(つか)むと、そのまま走(はし)り出(だ)した。
朋也(ともや)「ふぅ…」
とりあえずこの場所(ばしょ)は見(み)つけられないだろう。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ヘンです。急(きゅう)に腕(うで)、引(ひ)っ張(ぱ)ったりして…」
朋也(ともや)「おまえと急(いそ)いでふたりきりになりたかったんだよ」
渚(なぎさ)「嘘(うそ)です。そんな素振(そぶ)りなかったです」
朋也(ともや)「俺(おれ)はあまのじゃくなんだよ」
渚(なぎさ)「信(しん)じられないです…」
朋也(ともや)「いや、ほんとだって…」
言(い)い聞(き)かせるため、俺(おれ)は渚(なぎさ)の顔(かお)に自分(じぶん)の顔(かお)を近(ちか)づける。
渚(なぎさ)「しんじ…られないです…」
ああ…
この場(ば)を取(と)り繕(つくろ)うつもりで言(い)ったはずだったのに、本当(ほんとう)に気持(きも)ちが抑(おさ)えられなくなってきた…。
こうして見(み)ると、渚(なぎさ)、可愛(かわい)いし…
つーか、いつも可愛(かわい)いけどさ…
さらに顔(かお)を寄(よ)せる。
渚(なぎさ)「えっ…」
渚(なぎさ)が体(からだ)を硬直(こうちょく)させる。
後(うし)ろに下(さ)がれるのに、下(さ)がらないんだな…。
初(はじ)めてが部室(ぶしつ)だってのも、悪(わる)くない…。
そのまま俺(おれ)は渚(なぎさ)の口(くち)に自分(じぶん)の口(くち)を…
『3-Dの岡崎朋也(おかざきともや)、至急(しきゅう)職員室(しょくいんしつ)まで来(き)なさい』
…校内放送(こうないほうそう)。
朋也(ともや)「え…」
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、呼(よ)ばれてます…」
朋也(ともや)「いや…別人(べつじん)じゃねぇかな…」
渚(なぎさ)「学年(がくねん)もクラスも合(あ)ってました」
朋也(ともや)「そうだっけか…?」
渚(なぎさ)「あの…わたし、少(すこ)し落(お)ち込(こ)みます…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)はかなり、ですけど…」
朋也(ともや)「いや、今(いま)のは本当(ほんとう)に渚(なぎさ)が可愛(かわい)いかったから、思(おも)わずさ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、嘘(うそ)つきです…」
渚(なぎさ)「早(はや)く行(い)ってきてください」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)に怒(おこ)られます」
朋也(ともや)「いいんだよ、あんなの」
渚(なぎさ)「ダメですっ」
結局(けっきょく)、渚(なぎさ)に付(つ)き添(そ)われて、職員室(しょくいんしつ)へ…。
朋也(ともや)(ああ…恋愛(れんあい)シミュレーションだったら、愛情度(あいじょうど)-200ってな、イベントだな…)
となると、フォローは…
デートに誘う
朋也(ともや)「よし、今度(こんど)デートしよう」
渚(なぎさ)「え?
デートですか?」
朋也(ともや)「ああ。嬉(うれ)しいだろ」
渚(なぎさ)「はい、うれしいです」
渚(なぎさ)「でも、しばらくそんな時間(じかん)、持(も)てないです…」
渚(なぎさ)「その…創立者祭(そうりつしゃさい)までは」
朋也(ともや)「そうか…そうだよな」
あまり意味(いみ)がなかったようだ。
渚(なぎさ)「でも、それが終(お)われば、一段落(いちだんらく)つけますので、したいです…デート」
渚(なぎさ)の口(くち)からデートと聞(き)くと、ものすごく可愛(かわい)らしいものに思(おも)えた。
朋也(ともや)(ま、実際(じっさい)、可愛(かわい)らしいデートなんだろうけどな…)
渚(なぎさ)「つきました」
気(き)づけば職員室(しょくいんしつ)の前(まえ)だった。
朋也(ともや)「だな…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「入(はい)りましょう」
突(つ)っ立(た)っている俺(おれ)の手(て)を引(ひ)いて、渚(なぎさ)がドアを開(あ)けた。
担任(たんにん)「なんだ、岡崎(おかざき)、女(おんな)の子(こ)なんて連(つ)れて」
朋也(ともや)「いや、連(つ)れてこられたんだよ…」
担任(たんにん)「なにっ?」
渚(なぎさ)「はい。朋也(ともや)くん、嘘(うそ)つきですから」
担任(たんにん)「はは、これは面白(おもしろ)い絵(え)だなぁ。あの岡崎(おかざき)が、女(おんな)の尻(しり)に敷(し)かれてるなんて」
渚(なぎさ)「あ、いえっ…ぜんぜん敷(し)いてないですっ」
渚(なぎさ)「どちらかというと、普段(ふだん)は朋也(ともや)くんに引(ひ)っ張(ぱ)ってもらってます」
こいつは、付(つ)き合(あ)ってることを言(い)って回(まわ)りたいのだろうか…。
担任(たんにん)「うん?
なんだ、おまえたち、付(つ)き合(あ)ってるのか」
見(み)ろ…バレてるし…。
渚(なぎさ)「いえっ…そんなことは…」
渚(なぎさ)「とは言(い)っても、付(つ)き合(あ)ってないということではないです…」
…それ、思(おも)いっきり肯定(こうてい)してますが。
担任(たんにん)「岡崎(おかざき)も丸(まる)くなったもんだなぁ」
担任(たんにん)「これは、進学(しんがく)させる余地(よち)も出(で)てきたってもんだ」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の肘(ひじ)の辺(あた)りをつねっておく。
渚(なぎさ)「痛(いた)いです、朋也(ともや)くんっ」
全然(ぜんぜん)わかっちゃいねぇし…。
担任(たんにん)「では、行(い)こうか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「ちっ…」
渚(なぎさ)「どこに行(い)くんですか?」
担任(たんにん)「こいつの家(うち)だよ。進路相談(しんろそうだん)」
担任(たんにん)「君(きみ)、一緒(いっしょ)に来(き)てくれるの?
だったら、こいつが逃(に)げないで済(す)みそうだから、ありがたいけど」
渚(なぎさ)「いいんでしょうか」
朋也(ともや)「こらこら、おまえは演劇(えんげき)の練習(れんしゅう)があるだろっ」
渚(なぎさ)「あ、そうです。それも大切(たいせつ)です」
朋也(ともや)「そっちのほうが大切(たいせつ)、だろっ」
朋也(ともや)「さぼってんじゃねーぞ、ったく…」
渚(なぎさ)「いつもの朋也(ともや)くんです」
渚(なぎさ)「安心(あんしん)しました」
朋也(ともや)「そっかよ…」
担任(たんにん)「君(きみ)、よくこんな口(くち)の悪(わる)いのに耐(た)えられるなぁ…」
渚(なぎさ)「慣(な)れです」
担任(たんにん)「普通(ふつう)は、慣(な)れる前(まえ)に恐(こわ)くて近寄(ちかよ)れないと思(おも)うよ」
担任(たんにん)「よっぽど好(す)きだったんだねぇ」
渚(なぎさ)「い、いえ…」
渚(なぎさ)「あ、いえ…すごく好(す)きでした…はい」
朋也(ともや)「こらこら、教師(きょうし)が生徒(せいと)と浮(う)いた話(はなし)をするなっ」
担任(たんにん)「いいじゃないか、おまえの彼女(かのじょ)なんて興味(きょうみ)津々(しんしん)だよ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、とっとと練習(れんしゅう)にいけっ」
渚(なぎさ)「あ、はい。そうでした」
渚(なぎさ)「では、練習(れんしゅう)してきます」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「それでは、失礼(しつれい)します」
渚(なぎさ)は笑顔(えがお)を残(のこ)して去(さ)っていった。
担任(たんにん)「よし。じゃ、いくか、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「くそっ…」
担任(たんにん)「なぁ、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「あん?」
担任(たんにん)「小(ちい)さい頃(ころ)から、親父(おやじ)さんひとりなんだろ?」
朋也(ともや)「ああ」
担任(たんにん)「苦労(くろう)されたんだろうなぁ」
担任(たんにん)「男手(おとこで)ひとつで、おまえみたいな子(こ)、育(そだ)てるなんてなぁ」
朋也(ともや)「さぁね…」
こんな話(はなし)、してたくなかった。
担任(たんにん)「でもまあ、おまえも人並(ひとな)みに彼女(かのじょ)を作(つく)って、人並(ひとな)みに学園(がくえん)生活(せいかつ)を謳歌(おうか)してるみたいだしな…」
担任(たんにん)「このまま、親(おや)に心配(しんぱい)かけないよう、進学(しんがく)しないと駄目(だめ)だぞ?」
まだ辺(あた)りには下校中(げこうちゅう)の生徒(せいと)がいた。
教師(きょうし)に連(つ)れられて歩(ある)く姿(すがた)を見(み)られるのは、なんと屈辱的(くつじょくてき)なことか…。
親父(おやじ)は、この時間(じかん)はいないはずだった。
昔(むかし)の仲間(なかま)の仕事場(しごとば)へ押(お)し掛(か)けて、話(はな)し込(こ)んでいることが多(おお)い。
朋也(ともや)「たぶん、いねぇよ」
担任(たんにん)「いいから、いくぞ」
呼(よ)び鈴(りん)を押(お)した。
…返事(へんじ)はない。
朋也(ともや)「ほら、いない」
担任(たんにん)「じゃ、中(なか)で待(ま)たせてもらう」
朋也(ともや)「マジかよ…」
担任(たんにん)「それが仕事(しごと)だ。明日(あした)の朝(あさ)までだって、待(ま)つぞ」
とんでもない話(ばなし)だった。
朋也(ともや)「あのさ…」
担任(たんにん)「うん?」
朋也(ともや)「家(いえ)の鍵(かぎ)、親父(おやじ)が持(も)ってんだけど」
担任(たんにん)「なに?
本当(ほんとう)か?」
入(い)れてたまるか。
朋也(ともや)「だから、今日(きょう)は諦(あきら)めたほうがいいよ」
担任(たんにん)「いや、なら、ここで待(ま)つ」
朋也(ともや)「マジ?」
担任(たんにん)「ああ」
朋也(ともや)「夜(よる)遅(おそ)いかもしれないぜ?」
担任(たんにん)「だから、いくらでも待(ま)つと言(い)ってるだろ」
朋也(ともや)「………」
担任(たんにん)「おまえも一緒(いっしょ)に待(ま)つんだぞ」
朋也(ともや)「げ…」
担任(たんにん)「何(なに)を言(い)ってるんだ、おまえの家(いえ)だろ?」
担任(たんにん)「入(はい)れなかったら、おまえだって、困(こま)るだろ」
朋也(ともや)「あ、ああ…そうだな…」
朋也(ともや)「だったら…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、親父(おやじ)の奴(やつ)、探(さが)してくるなっ」
身(み)を翻(ひるがえ)し、ダッシュ。
担任(たんにん)「こらっ!」
全速力(ぜんそくりょく)で、その場(ば)から逃(に)げ出(だ)した。
追(お)ってこない。
家(いえ)の前(まえ)で待(ま)ち構(かま)えていれば、いずれ親父(おやじ)も俺(おれ)も捕(つか)まえられる、という考(かんが)えだろう。
朋也(ともや)「甘(あま)いな…」
口(くち)に出(だ)して言(い)ってやった。
俺(おれ)は家(いえ)に帰(かえ)らずして、一(いっ)ヶ月(げつ)だって登校(とうこう)してやる自信(じしん)がある。
むさ苦(くる)しい同居人(どうきょにん)の存在(そんざい)に目(め)を瞑(つぶ)れば、寝床(ねどこ)だって確保(かくほ)できる。
その前(まえ)に、俺(おれ)は渚(なぎさ)の練習(れんしゅう)を見(み)に行(い)くことにした。
朋也(ともや)(さっきは、-200しちまったからなぁ…)
朋也(ともや)(練習(れんしゅう)に付(つ)き合(あ)ってやって、愛情度(あいじょうど)+300で挽回(ばんかい)か?)
朋也(ともや)(そしてそのまま、さっきの展開(てんかい)が…)
間近(まぢか)で見(み)た、渚(なぎさ)の顔(かお)が脳裏(のうり)に浮(う)かぶ。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、今(いま)、行(い)くからなっ」
学校(がっこう)への道(みち)を急(いそ)ぐ。
渚(なぎさ)「はい、朋也(ともや)くん、一緒(いっしょ)に家(いえ)に行(い)きましょう」
…甘(あま)いのは俺(おれ)だった。
渚(なぎさ)「逃(に)げてきたんですよね」
朋也(ともや)「いや、終(お)わったんだ。親父(おやじ)、いなかったから…」
渚(なぎさ)「じゃ、確(たし)かめにいってもいいですか」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、嘘(うそ)ついてなかったら、いいはずです」
朋也(ともや)(マジ、尻(しり)に敷(し)かれてる気(き)がしてきたぞ…)
渚(なぎさ)「いきましょう」
朋也(ともや)「おまえ、練習(れんしゅう)は」
渚(なぎさ)「練習(れんしゅう)はどこでだってできます」
渚(なぎさ)は俺(おれ)の片腕(かたうで)を掴(つか)んだまま、鞄(かばん)を持(も)った。
これで、また俺(おれ)が嘘(うそ)をついてることがばれたら…さらに愛情度(あいじょうど)マイナスか…。
朋也(ともや)「はぁ…」
俺(おれ)はため息(いき)をついて、立(た)ち止(ど)まっていた。
朋也(ともや)「なぁ、俺(おれ)、また嘘(うそ)ついた」
渚(なぎさ)「え?」
朋也(ともや)「終(お)わってねぇよ、まだ…」
朋也(ともや)「担任(たんにん)の奴(やつ)が、俺(おれ)ん家(いえ)の前(まえ)で待(ま)ってる」
渚(なぎさ)「やっぱり、そうですか」
朋也(ともや)「なぁ…」
渚(なぎさ)「はい?」
朋也(ともや)「今(いま)、愛情度(あいじょうど)、数字(すうじ)で表(あらわ)したらどれぐらい?」
渚(なぎさ)「なんですか、それ?」
朋也(ともや)「よくゲームであるじゃん。パラメータみたいなの」
朋也(ともや)「嘘(うそ)がばれたりしたら、機嫌(きげん)が悪(わる)くなって、減(へ)るんだよ」
渚(なぎさ)「わたしの、朋也(ともや)くんに対(たい)する数字(すうじ)がですか?」
朋也(ともや)「そう」
渚(なぎさ)「そんなの、減(へ)らないです」
朋也(ともや)「え?」
渚(なぎさ)「ずっと、満(まん)タンです」
朋也(ともや)「今(いま)も?」
渚(なぎさ)「今(いま)もです。そんなの、減(へ)りっこないです」
朋也(ともや)「マジかよ…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)です」
渚(なぎさ)「だから、朋也(ともや)くん、苦労(くろう)すると思(おも)います」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「たぶん、ずっと減(へ)らないからです」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「そっかよ…」
渚(なぎさ)「…はい」
渚(なぎさ)「でも、わたしは…朋也(ともや)くんのほうが減(へ)っちゃうんじゃないかって…」
渚(なぎさ)「それが心配(しんぱい)です」
渚(なぎさ)「とても、心配(しんぱい)です」
朋也(ともや)「いや、大丈夫(だいじょうぶ)じゃねぇかな」
渚(なぎさ)「どうしてですか?」
朋也(ともや)「だって、現実(げんじつ)だからな」
朋也(ともや)「んな数字(すうじ)、どこにもねぇから」
渚(なぎさ)「だったら、うれしいです」
渚(なぎさ)「でも…」
朋也(ともや)「ん?」
渚(なぎさ)「でも、現実(げんじつ)だからこそ…」
渚(なぎさ)「辛(つら)いことだって、たくさんあるはずです」
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
渚(なぎさ)「でも、ひとりじゃないから、乗(の)り越(こ)えていけるんです」
渚(なぎさ)「人(ひと)は…」
乗(の)り越(こ)えていけるのだろうか。
俺(おれ)は、渚(なぎさ)と。
渚(なぎさ)「だから、行(い)きましょう。はいっ」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の背中(せなか)を押(お)した。
そこが、最後(さいご)の角(かど)だと知(し)っていたかのように。
でも、知(し)らなかったはずだ。
知(し)っていたら、そんな思(おも)いきったことはできなかっただろうから。
親父(おやじ)がいた。
担任(たんにん)と話(はなし)をしていた。
その目(め)が困(こま)っていた。
何(なに)かを必死(ひっし)で説明(せつめい)しているようだった。
でも、親父(おやじ)は涼(すず)しげな顔(かお)をしていた。
声(こえ)が聞(き)こえてきた。
親父(おやじ)「だから、それは私(わたし)が決(き)めることじゃない」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんは、朋也(ともや)くん」
親父(おやじ)「彼(かれ)が決(き)めることです」
担任(たんにん)「ですが、まだ彼(かれ)は学生(がくせい)でして、保護者(ほごしゃ)の意見(いけん)も…」
親父(おやじ)「いえ、違(ちが)います」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんは、朋也(ともや)くんです」
なんて、優(やさ)しい顔(かお)で…
なんて、辛(つら)いことを言(い)うのだろう、この人(ひと)は…。
………。
そう…
俺(おれ)は、それを確(たし)かめたくなかったのだ…。
親父(おやじ)と俺(おれ)が、家族(かぞく)ではない、他人同士(たにんどうし)でいること…。
それは俺(おれ)と親父(おやじ)だけのゲームなのか…。
ふたりきりの時(とき)だけに行(おこな)われるゲームなのか…。
でも、もし…
第三者(だいさんしゃ)も交(まじ)えて…
そんなゲームが行(おこな)われたなら…
それはもう、ゲームなんかじゃない。
現実(げんじつ)だ。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)もじっと、その様子(ようす)を見(み)ていた。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「おまえは、喧嘩(けんか)してても、分(わ)かり合(あ)えてるならいいって言(い)ったよな…」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「喧嘩(けんか)すら、できないんだよ、俺(おれ)とあの人(ひと)は…」
朋也(ともや)「見(み)ろよ、あの担任(たんにん)の困(こま)った顔(かお)をさ…」
朋也(ともや)「あの人(ひと)の中(なか)ではさ…俺(おれ)は息子(むすこ)じゃないんだ」
朋也(ともや)「もうずっと前(まえ)から…」
朋也(ともや)「自分(じぶん)の中(なか)で、放棄(ほうき)したままでさ…」
朋也(ともや)「もう、何年(なんねん)も経(た)ってるんだ…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「それをさ…時間(じかん)が解決(かいけつ)してくれるのか…?」
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「なんとか言(い)ってくれよ…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「すみませんでした…」
渚(なぎさ)「事情(じじょう)も知(し)らないで…軽率(けいそつ)でした…」
違(ちが)う…
謝(あやま)ってほしくなんてないんだ、俺(おれ)は…。
朋也(ともや)「ずっと…自分(じぶん)の居場所(いばしょ)がなかったんだ…」
支(ささ)えてほしいんだ。
今(いま)、崩(くず)れそうな、俺(おれ)を支(ささ)えてほしいんだ。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん…」
渚(なぎさ)「辛(つら)いなら…」
渚(なぎさ)「わたしの家(いえ)に…来(き)ますか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…ああ」
今度(こんど)は素直(すなお)に頷(うなず)いた。
あの時(とき)とはもう違(ちが)う。
渚(なぎさ)は俺(おれ)の彼女(かのじょ)で、俺(おれ)は渚(なぎさ)の彼氏(かれし)で…。
…そばにいてほしかった。
渚(なぎさ)「でも、わたしは朋也(ともや)くんのお父(とう)さんも心配(しんぱい)です…」
朋也(ともや)「あの人(ひと)は、ああしてひとりで暮(く)らしてきたんだ」
朋也(ともや)「同(おな)じ屋根(やね)の下(した)で、別々(べつべつ)に、暮(く)らしてきたんだ」
朋也(ともや)「あの人(ひと)だけは、ああやって、穏(おだ)やかに笑(わら)ってさ…」
朋也(ともや)「自分(じぶん)の殻(から)に閉(と)じこもって、ひとりで生(い)きてきたんだ」
朋也(ともや)「だから、大丈夫(だいじょうぶ)なんだ」
渚(なぎさ)「そう…ですか…」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「でも、たまには…」
朋也(ともや)「…ああ」
朋也(ともや)「わかってるよ、渚(なぎさ)…」
おまえの他人(たにん)を思(おも)う優(やさ)しさは…。
だから、俺(おれ)はおまえと居(い)る。
渚(なぎさ)「それでは…もう、いきますか…?」
朋也(ともや)「ああ…」
ふたりの大人(おとな)を残(のこ)し…俺(おれ)たちは、その場(ば)を後(あと)にした。
乗(の)り越(こ)えていけるのだろうか。
俺(おれ)は、渚(なぎさ)と。
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seagull - 2009/5/14 21:47:00
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5月2日()

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早朝(そうちょう)。
いつものように、親父(おやじ)は居間(いま)で転(ころ)がっていた。
朋也(ともや)「なぁ、親父(おやじ)」
小(ちい)さく上下(じょうげ)する肩(かた)に触(ふ)れる。
電話(でんわ)でも手紙(てがみ)でもよかったのだが、渚(なぎさ)がそれを許(ゆる)さなかった。
──絶対(ぜったい)に会(あ)って、少(すこ)しの間(あいだ)、帰(かえ)らないことを伝(つた)えてください。
それは、そうすることだけで、解決(かいけつ)してしまうかもしれない、というあいつの浅(あさ)はかな考(かんが)えによるところだ。
そんなことでは何(なに)も変(か)わらない。
俺(おれ)はそれがよくわかっていた。
親父(おやじ)「ん…」
寝言(ねごと)か何(なに)かわからなかったが、親父(おやじ)が小(ちい)さくうめいた。
朋也(ともや)「俺(おれ)、家(いえ)を出(で)るから…」
それを一方的(いっぽうてき)に目覚(めざ)めたと判断(はんだん)して、俺(おれ)は話(はなし)を始(はじ)めた。
朋也(ともや)「しばらくは帰(かえ)ってこないつもりだから…」
朋也(ともや)「ひとりで元気(げんき)にやってくれよ…」
それだけを伝(つた)えて、俺(おれ)は親父(おやじ)のそばから離(はな)れる。
そして、荷物(にもつ)をとりに、自分(じぶん)の部屋(へや)へと向(む)かった。
持(も)てるだけの着替(きが)えと、学習用具(がくしゅうようぐ)。
それだけをスポーツバッグに詰(つ)め込(こ)むと、すぐに部屋(へや)を出(で)る。
居間(いま)を通(かよ)って玄関(げんかん)へ…
ぎっ、と背後(はいご)で床(ゆか)がきしむ音(おと)がした。
振(ふ)り返(かえ)らざるをえない俺(おれ)。
朋也(ともや)「おはよう」
平静(へいせい)を装(よそお)う。
親父(おやじ)「朋也(ともや)くん…どこかへいくのかい」
朋也(ともや)「友達(ともだち)の家(いえ)に…」
親父(おやじ)「その割(わり)には大(おお)きな鞄(かばん)を持(も)っていくんだね」
朋也(ともや)「ああ。そこにしばらく泊(と)めてもらうことにした」
朋也(ともや)「いつ帰(かえ)ってくるかは、決(き)めてない」
親父(おやじ)「そう…寂(さび)しくなるね」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんは…いい話(はな)し相手(あいて)だったからね」
走(はし)って逃(に)げ出(だ)したかった。
朋也(ともや)「こっちにも都合(つごう)があるんだよ。わかってくれ…」
押(お)し殺(ころ)した声(こえ)でそう言(い)う。
最後(さいご)は…最後(さいご)まで平静(へいせい)でいよう…。
親父(おやじ)「そうだね…」
朋也(ともや)「じゃあ、いくから」
俺(おれ)は背中(せなか)を向(む)ける。
いつも帰(かえ)る場所(ばしょ)だった家(いえ)。
今(いま)だけは、違(ちが)う。
どれだけ時間(じかん)がかかるかわからなかったけど…
いつかは戻(もど)ってこれる日(ひ)がくるのだろうか。
朋也(ともや)(こんなにも、後(うし)ろ向(む)きな俺(おれ)が…)
朋也(ともや)(逃(に)げ出(だ)しただけじゃないかっ…)
だから最後(さいご)にこう告(つ)げた。
朋也(ともや)「さようなら、父(とう)さん」
俺(おれ)は歩(ある)き出(だ)した。
まだ7時(じ)を回(まわ)ったところだというのに、すでに古河(ふるかわ)パンは、朝(あさ)の喧噪(けんそう)の中(なか)にある。
朋也(ともや)「あのっ」
大(おお)きな箱(はこ)を抱(かか)えて行(い)き過(す)ぎようとしたオッサンを呼(よ)び止(と)めた。
秋生(あきお)「ん?
なんだ、てめぇは、こんな朝(あさ)早(はや)くに」
朋也(ともや)(え…)
朋也(ともや)(渚(なぎさ)の奴(やつ)…もしかして、話(はなし)を通(とお)してくれてないのか…?)
秋生(あきお)「………」
じっと、睨(にら)まれる。
今日(きょう)から厄介(やっかい)になります、なんて、とても言(い)える状況(じょうきょう)じゃない…。
秋生(あきお)「早(はや)く用件(ようけん)を言(い)え」
朋也(ともや)「あの、渚(なぎさ)は…?」
秋生(あきお)「まだ寝(ね)てるよ」
朋也(ともや)(…渚(なぎさ)、おまえって奴(やつ)は…)
秋生(あきお)「どうしたよ」
朋也(ともや)「いや…」
秋生(あきお)「用(よう)がないんなら、帰(かえ)れよ。仕事(しごと)の邪魔(じゃま)だ」
朋也(ともや)(ぐあーっ…どうすりゃいいんだ…)
まさに蛇(へび)に睨(にら)まれた蛙(かえる)状態(じょうたい)。
早苗(さなえ)「おはようございます、岡崎(おかざき)さん」
奥(おく)から早苗(さなえ)さんが姿(すがた)を見(み)せた。
朋也(ともや)「おはようっす」
早苗(さなえ)「今日(きょう)からよろしくお願(ねが)いしますね」
その言葉(ことば)に俺(おれ)は、全身(ぜんしん)の力(ちから)が抜(ぬ)けるほどに安堵(あんど)する。
早苗(さなえ)さんは、ちゃんと知(し)っていたのだ。
朋也(ともや)「こちらこそお世話(せわ)になります」
秋生(あきお)「あぁん?
お世話(せわ)ってなんだよ」
早苗(さなえ)「今日(きょう)からしばらく、家(いえ)に泊(と)まられるんですよ、秋生(あきお)さん」
秋生(あきお)「なんだとぅーーっ!?」
早苗(さなえ)「夕(ゆう)べ、渚(なぎさ)から聞(き)いたじゃないですかっ」
秋生(あきお)「まぁな」
ずるぅぅっ!
俺(おれ)は思(おも)いきり滑(すべ)る。
朋也(ともや)(この人(ひと)は知(し)っていて、あんな態度(たいど)を…)
早苗(さなえ)「了承(りょうしょう)していましたよ、秋生(あきお)さん」
秋生(あきお)「ああ…」
秋生(あきお)「だがな…早苗(さなえ)よ…」
早苗(さなえ)「はい、なんでしょう」
秋生(あきお)「ハーレム状態(じょうたい)じゃなくなるのは、切(せつ)ないものなんだぞぅ!」
私欲(しよく)丸出(まるだ)しだった!
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さん、秋生(あきお)さんは、ほっといてくださいねっ」
朋也(ともや)「はい」
秋生(あきお)「ちったぁ、遠慮(えんりょ)しろよ、てめぇーっ!」
早苗(さなえ)「はいはいっ、お仕事(しごと)しましょうね」
その背(せ)を押(お)して、奥(おく)へと入(はい)っていく。
声(こえ)「アレ切(き)つちまうぞ、オラァーーッ!」
朝(あさ)から恐(おそ)ろしいパン屋(や)だった。
朋也(ともや)「あ、あの、早苗(さなえ)さんっ」
早苗(さなえ)さんだけを呼(よ)び止(と)める。
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)って、何時(いつ)ぐらいに起(お)きるんですか?」
早苗(さなえ)「もう起(お)きてますよっ」
朋也(ともや)(オッサン…!)
早苗(さなえ)「さっき、頑張(がんば)って歯(は)を磨(みが)いてましたよ」
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さんと会(あ)うためにです」
朋也(ともや)「そうっすか…」
早苗(さなえ)「呼(よ)んだら来(く)ると思(おも)いますよ」
朋也(ともや)「ありがとうございます」
奥(おく)に消(き)えていった。
俺(おれ)はすぅ、と息(いき)を吸(す)い…
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ーっ」
その名(な)を呼(よ)んでみた。
朋也(ともや)(俺(おれ)、子供(こども)みたい…)
少(すこ)し待(ま)つと…廊下(ろうか)を、たったと走(はし)る音(おと)。
渚(なぎさ)「お待(ま)たせしましたっ」
笑顔(えがお)の渚(なぎさ)が土間(どま)に下(くだ)りてくる。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、おはようございますっ」
朋也(ともや)「ああ、おはよ」
朋也(ともや)「ええと…今日(きょう)からお世話(せわ)になります」
俺(おれ)はわざとらしく言(い)って頭(あたま)を下(さ)げた。
渚(なぎさ)「はいっ、こちらこそよろしくお願(ねが)いしますっ…えへへ」
渚(なぎさ)も笑(わら)って、同(おな)じようにした。
渚(なぎさ)「では、とりあえず、部屋(へや)のほうに案内(あんない)します」
朋也(ともや)「ああ、頼(たの)むよ」
渚(なぎさ)の後(あと)に続(つづ)く。
渚(なぎさ)と同(おな)じ家(いえ)で暮(く)らすこと。
それは、こんなにも俺(おれ)の足(あし)を軽(かる)くするのか。
自分(じぶん)でも驚(おどろ)きだった。
渚(なぎさ)「ここです」
渚(なぎさ)に続(つづ)いて、入室(にゅうしつ)する。
ぷんと畳(たたみ)の匂(にお)いがした。
朋也(ともや)「いい部屋(へや)だな…」
渚(なぎさ)「普段(ふだん)は、客間(きゃくま)です」
朋也(ともや)「みたいだな」
部屋(へや)の隅(すみ)には座布団(ざぶとん)が積(つ)まれていた。
渚(なぎさ)「お布団(ふとん)、ここです」
渚(なぎさ)が押(お)し入(い)れを開(ひら)いてみせる。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、苦手(にがて)だったら、わたしが敷(し)いたり畳(たた)んだりします」
朋也(ともや)「そんなの自分(じぶん)でできるって」
渚(なぎさ)「万年床(まんねんどこ)にしたら、ダメです」
朋也(ともや)「わかってるよ」
朋也(ともや)「おまえ、案外(あんがい)、世話焼(せわや)きなのな」
渚(なぎさ)「え?」
渚(なぎさ)「いえ…そんなことないです。自分(じぶん)のことで、精一杯(せいいっぱい)なので…」
朋也(ともや)「おまえ、いっつも、他人(たにん)のことばっか心配(しんぱい)してるじゃないか」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「じゃなかったら、俺(おれ)はここに居(い)ないよ」
渚(なぎさ)「ああ、でも、それは…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に居(い)たいという願望(がんぼう)も、ちょっと入は(い)っちゃってました…」
その言葉(ことば)に俺(おれ)の胸(むね)が高鳴(たかな)る。
朋也(ともや)「…渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい…」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の肩(かた)に手(て)を置(お)いて、顔(かお)を寄(よ)せる。
歯磨(はみが)き粉(こ)のいい匂(にお)いがした。
渚(なぎさ)「あさ…」
その小(ちい)さな口(くち)が開(ひら)いた。
朋也(ともや)「あさ?」
渚(なぎさ)「朝(あさ)…ご飯(めし)の用意(ようい)、手伝(てつだ)わないといけないです」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あ、ああ…手伝(てつだ)ってきてくれ」
渚(なぎさ)「はい、それでは、できましたらお呼(よ)びしますので、待(ま)っててください」
渚(なぎさ)が部屋(へや)を出(で)ていった。
…ひとり残(のこ)される俺(おれ)。
朋也(ともや)(相変(あいか)わらずだな、あいつ…)
でも、この家(いえ)で暮(く)らしていれば、ふたりきりになることも多(おお)いはずだった。
朋也(ともや)(って、浅(あさ)ましいよな、俺(おれ)…)
朋也(ともや)(なんのために、ここに来(き)たってんだよ…)
スポーツバッグを投(な)げ出(だ)し、座(すわ)り込(こ)む。
渚(なぎさ)「それでは、いってきます」
早苗(さなえ)「はい、いってらっしゃいっ」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、言(い)わないとダメです」
朋也(ともや)「…え?
俺(おれ)?」
渚(なぎさ)「はい」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)さんが、笑顔(えがお)で俺(おれ)の言葉(ことば)を待(ま)ってくれていた。
朋也(ともや)「ええと…いってきます」
そんな言葉(ことば)を口(くち)にするのは、何年(なんねん)ぶりだろうか…。
早苗(さなえ)「いってらっしゃいっ」
ひどく、照(て)れくさかった。
外(そと)に出(で)ると、オッサンが、ホースを使(つか)って地面(じめん)に水(みず)を撒(ま)いていた。
渚(なぎさ)「いってきます」
秋生(あきお)「おぅ、気(き)ぃつけてなっ」
この人(ひと)にも、言(い)わなければならないのだろうか…。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、言(い)ってくれないと、出(で)かけられないです」
朋也(ともや)「わかったよ…」
朋也(ともや)「いってくるなっ」
秋生(あきお)「おぅ、いって、かましてこいっ」
…何(なに)をだ。
でも、屈託(くったく)なく送(おく)り出(だ)してくれたのは意外(いがい)だった。
つまり、照(て)れくさいと思(おも)っていたのは、俺(おれ)ひとりで…
俺(おれ)が思(おも)っていた以上(いじょう)に、それは、自然(しぜん)なことなのかもしれなかった。
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に登校(とうこう)するのって、とても楽(たの)しいです」
朋也(ともや)「俺(おれ)は恥(は)ずかしいよ」
渚(なぎさ)「女(おんな)の子(こ)と歩(ある)いてるからですか?」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「でも、まぁ、今更(いまさら)か…」
今日(きょう)までだって、存分(ぞんぶん)歩(ある)いてきたし、いろんな生徒(せいと)に目撃(もくげき)されているはずだ。
はみ出(だ)しものの二人組(ふたりくみ)とか思(おも)われてるのだろうか。
渚(なぎさ)がもし、周(まわ)りからちょっとでも可愛(かわい)いとか思(おも)われてたら、優越感(ゆうえつかん)にも浸(ひた)れるんだろうけど…。
朋也(ともや)(どうなんだろう…)
渚(なぎさ)「あの、お父(とう)さんは、何(なに)か言(い)ってましたかっ」
朋也(ともや)「え?」
不意打(ふいう)ちのように、その存在(そんざい)を出(だ)されて、俺(おれ)は戸惑(とまど)ってしまう。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのお父(とう)さんです」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
朋也(ともや)「寂(さび)しくなるってさ…」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「息子(むすこ)としてじゃない…」
朋也(ともや)「単(たん)なる話(はな)し相手(あいて)としてだよ…」
朋也(ともや)「って、こんな話(はなし)、朝(あさ)っぱらからしたくねぇんだけど…」
渚(なぎさ)「あ…ごめんなさいでした」
朋也(ともや)「いや…」
渚(なぎさ)「そうです、楽(たの)しい話(はなし)にしましょう」
朋也(ともや)「ああ…」
矛盾(むじゅん)した話(はなし)だけど…
渚(なぎさ)が隣(となり)に居(い)たことで救(すく)われる。
その話(はなし)を振(ふ)ってきたのは渚(なぎさ)自身(じしん)なんだけど…。
渚(なぎさ)「それでは、またお昼(ひる)に」
朋也(ともや)「ああ」
授業中(じゅぎょうちゅう)は怠惰(たいだ)な時間(じかん)。
もう俺(おれ)にとっては、意味(いみ)のない時間(じかん)だった。
昼休(ひるやす)みが待(ま)ち遠(どお)しかった。
その昼休(ひるやす)み。
ご飯(はん)を食(た)べ終(お)えると、すぐさま渚(なぎさ)は立(た)ち上(あ)がる。
渚(なぎさ)「演劇(えんげき)の練習(れんしゅう)します。見(み)ててくれますかっ」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
朋也(ともや)(そっか…ふたりでぼーっとしてるわけにもいかないんだな…)
渚(なぎさ)「今(いま)の、どうでしたか?」
朋也(ともや)「…いや、そう訊(き)かれても、俺(おれ)、ぜんぜんわかんないんだけど」
渚(なぎさ)「そうですか…」
朋也(ともや)「でも、まぁ、演劇部(えんげきぶ)の部員(ぶいん)らしくはなってきてると思(おも)う」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ」
朋也(ともや)「ああ、以前(いぜん)はあがり症(しょう)の人(ひと)が脅迫(きょうはく)されて演説(えんぜつ)させられてるみたいだったもんな」
渚(なぎさ)「進歩(しんぽ)してますかっ」
朋也(ともや)「ああ、ちょっとずつな」
渚(なぎさ)「よかったです、えへへっ」
昼休(ひるやす)みが終(お)われば、また怠惰(たいだ)な時間(じかん)が始(はじ)まる。
隣(となり)では、遅刻(ちこく)してきた春原(すのはら)が、眠(ねむ)りこけていた。
俺(おれ)は退屈(たいくつ)になって、窓(まど)の外(そと)を見(み)る。
桜(さくら)も散(ち)って、緑一色(みどりいっしょく)となった前庭(ぜんてい)が見渡(みわた)せた。
今(いま)は人影(ひとかげ)もなく静(しず)まり返(かえ)っていたが、創立者祭(そうりつしゃさい)には、賑(にぎ)わうことになるのだろう。
そして、創立者祭(そうりつしゃさい)さえ終(お)われば…
渚(なぎさ)を外(そと)に連(つ)れ出(だ)して、遊(あそ)べる日(ひ)も来(く)る。
そんな日(ひ)を思(おも)い描(えが)いて、暇(ひま)を潰(つぶ)した。
渚(なぎさ)「ただいま、帰(かえ)りました」
朋也(ともや)「ただいまっす」
ふたりして、古河(ふるかわ)パンの敷居(しきい)を跨(また)ぐ。
早苗(さなえ)「おかえりなさい、渚(なぎさ)」
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さんも」
早苗(さなえ)さんは俺(おれ)にも微笑(ほほえ)んでくれる。
…やっぱりまだ恥(は)ずかしい。
俺(おれ)には、母親(ははおや)の記憶(きおく)がほとんどなかったから、もっと素直(すなお)に感動(かんどう)すべきだったのかもしれなかったけど…。
渚(なぎさ)と別(わか)れて、自分(じぶん)の部屋(へや)に向(む)かう。
朋也(ともや)(早苗(さなえ)さんって母親(ははおや)っぽくないからなぁ…)
朋也(ともや)(それに誰(だれ)がなんと言(い)おうが、可愛(かわい)いし)
朋也(ともや)(俺(おれ)、早苗(さなえ)さんのことが好(す)きなのかな…)
好き
好(す)きだ。
ああ、好(す)きだとも。
俺(おれ)は開(ひら)き直(なお)ることにした。
この感情(かんじょう)は、後(うし)ろめたいものでもなんでもない。
朋也(ともや)(健全(けんぜん)な気持(きも)ちでじゃなくなったら、さすがにまずいけどな…)
朋也(ともや)「ふぅ…」
馬鹿(ばか)げたことを考(かんが)えながら、自室(じしつ)の戸(と)を開(ひら)く。
朋也(ともや)「………」
目(め)が点(てん)になった。
その場所(ばしょ)を小学校(しょうがっこう)低学年(ていがくねん)ぐらいのガキ共(とも)が占拠(せんきょ)していたからだ。
朋也(ともや)「なんなんだよ、てめぇら…」
男(おとこ)の子(こ)「あれ?
先生(せんせい)じゃない」
朋也(ともや)「先生(せんせい)?
なに寝惚(ねぼ)けたこと抜(ぬ)かしてるんだよ…」
朋也(ともや)「ここは俺(おれ)の部屋(へや)だっ」
ガキのひとりが、俺(おれ)のバッグの中身(なかみ)を床(ゆか)にぶちまけていた。
朋也(ともや)「こらっ、それ俺(おれ)のだっ!」
その子(こ)に迫(せま)る。すると…
男(おとこ)の子(こ)「なっちゃんが、ぴーんち!」
どすっ!
朋也(ともや)「ぐあっ…」
背中(せなか)を蹴(け)られた。
男(おとこ)の子(こ)「なっちゃん、大丈夫(だいじょうぶ)?
怪我(けが)はなかった?」
女(おんな)の子(こ)「うん」
男(おとこ)の子(こ)「なっちゃんは、いつだって無謀(むぼう)すぎるよっ」
女(おんな)の子(こ)「ごめんね」
男(おとこ)の子(こ)「だから、いつもボクがそばにいたいんだ…」
女(おんな)の子(こ)「えっ…」
男(おとこ)の子(こ)「いてもいいかな」
女(おんな)の子(こ)「う、うん…」
朋也(ともや)「こらっ、人(ひと)を悪人(あくにん)に仕立(した)てて、勝手(かって)に告白(こくはく)し始(はじ)めるな!」
背後(はいご)で、どっと笑(わら)い声(こえ)が巻(ま)き起(お)こった。振(ふ)り返(かえ)ると、ガキ共(とも)が積(つ)まれた座布団(ざぶとん)の上(うえ)に座(すわ)っていた。
声(こえ)「それでは次(つぎ)のお題(だい)に参(まい)ります!」
朋也(ともや)「そっちは、勝手(かって)に大喜利(おおぎり)を始(はじ)めてるんじゃないっ!」
もう、むちゃくちゃだった。
朋也(ともや)「どうすりゃいいんだぁ…」
俺(おれ)ひとりが怒鳴(どな)ったところで収拾(しゅうしゅう)がつくはずもなく、呆然(ぼうぜん)と立(た)ち尽(つ)くすしかなかった。
ぱんぱん!
突然(とつぜん)、手(て)を打(う)つ音(おと)が鳴(な)り響(ひび)いた。
早苗(さなえ)「はい、みなさん始(はじ)めますよー」
早苗(さなえ)さんだった。
その一声(ひとこえ)だけで、場(ば)は静(しず)まった。
ガキ共(とも)はいそいそと片(かた)づけを始(はじ)め、そしてテーブルの周(まわ)りに集(あつ)まって座(すわ)った。
皆(みな)、一言(いちげん)も喋(しゃべ)らない。
異様(いよう)な目(め)で、俺(おれ)はその光景(こうけい)を見(み)ていた。
早苗(さなえ)「あら、歌丸(うたまる)さん」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っす」
早苗(さなえ)「ああ、岡崎(おかざき)さん。どうしました?」
朋也(ともや)「いや、ここ、俺(おれ)の部屋(へや)だと思(おも)ったんだけど」
早苗(さなえ)「そうです。岡崎(おかざき)さんの部屋(へや)です」
早苗(さなえ)「そして、古河塾(ふるかわじゅく)の教室(きょうしつ)でもあります」
朋也(ともや)「塾(じゅく)?
教室(きょうしつ)?」
早苗(さなえ)「はい。うちはパン屋(や)と、学習塾(がくしゅうじゅく)をしてるんです」
朋也(ともや)「知(し)らなかった…」
早苗(さなえ)「はい。これからは覚(おぼ)えておいてくださいね」
朋也(ともや)「忘(わす)れるわけない…」
早苗(さなえ)「でも、気兼(きが)ねしなくていいですからね。くつろいでもらっていて結構(けっこう)です」
朋也(ともや)「どこで」
早苗(さなえ)「ここで、です。端(はし)っこのほうで」
朋也(ともや)「…結構(けっこう)です」
早苗(さなえ)「そうですか?」
子供(こども)「先生(せんせい)、そんな奴(やつ)の相手(あいて)をしてないで、早(はや)く始(はじ)めてください」
朋也(ともや)「おまえっ、今(いま)まで女(おんな)の子(こ)を口説(くど)いていた奴(やつ)の言(い)うセリフか、それがっ!」
子供(こども)「教室(きょうしつ)ではうるさくしないでください」
朋也(ともや)「おまえは、さっきまでここで大喜(おおよろこ)利(と)してたじゃないかっ!」
頭痛(ずつう)がしてきた。俺(おれ)は思(おも)わず、こめかみを押(お)さえる。
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、先生(せんせい)なんですか」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)の私物(しぶつ)にだけは手(て)を出(だ)さないように言(い)っておいてほしいんすけど」
早苗(さなえ)「はい。わかりました」
朋也(ともや)「それじゃ、終(お)わるまで出(で)てます」
早苗(さなえ)「申(もう)し訳(わけ)ありません」
早苗(さなえ)「二時間(にじかん)ほどで終(お)わりますので」
俺(おれ)は自分(じぶん)の部屋(へや)を後(あと)にする。
朋也(ともや)(早苗(さなえ)さん、勉強(べんきょう)教(おし)えてるのか…)
朋也(ともや)(確(たし)かに、あの不気味(ぶきみ)なパン屋(や)だけで食(く)っていけるわけないもんな…)
朋也(ともや)(しかし、あの早苗(さなえ)さんだぞ…)
朋也(ともや)(大丈夫(だいじょうぶ)なんだろうか…)
パン屋(や)同様(どうよう)、恐(おそ)ろしい光景(こうけい)が脳裏(のうり)に浮(う)かぶ。
秋生(あきお)「なんだ、てめぇ、暇(ひま)そうにほっつき歩(ある)きやがって」
オッサンと廊下(ろうか)で鉢合(はちあ)わせになる。
秋生(あきお)「暇(ひま)だったら、少(すこ)しは店(みせ)を手伝(てつだ)え」
秋生(あきお)「つーか、むしろ、おまえが店番(みせばん)をして、俺(おれ)を暇(ひま)にしろ」
相変(あいか)わらず言(い)うことがむちゃくちゃだ。
秋生(あきお)「あ、おまえ、客(きゃく)なんてどうせこねぇって思(おも)っただろ?」
秋生(あきお)「まともなパンは結構(けっこう)売(う)れるんだぜ?」
秋生(あきお)「今週(こんしゅう)の新商品(しんしょうひん)、というのが売(う)れないだけだ」
秋生(あきお)「俺(おれ)の焼(や)くパンはそれなりにうまいからな」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
秋生(あきお)「うおーーーーっ!
今晩(こんばん)も、早苗(さなえ)のパンだ、イヤッホーーーーーーゥ!!」
朋也(ともや)「違(ちが)う。早苗(さなえ)さん、先生(せんせい)してるんだろ。大丈夫(だいじょうぶ)なのか?」
秋生(あきお)「あ、ああ、学習塾(がくしゅうじゅく)のほうか」
秋生(あきお)「心配(しんぱい)すんな。早苗(さなえ)はあっちが本業(ほんぎょう)だ」
そうだったのか。
秋生(あきお)「学校(がっこう)の教師(きょうし)をしてたこともある」
秋生(あきお)「パン作(づく)りのほうはあれだが、勉強(べんきょう)を教(おし)えるのはうまい」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
秋生(あきお)「今月(こんげつ)はずっと早苗(さなえ)のパンでいいぜーーーーーーーーーーーーーっ!!」
秋生(あきお)「ぐあ…」
自分(じぶん)の首(くび)を締(し)めていく。面白(おもしろ)い人(ひと)だった。
秋生(あきお)「すまん、小僧(こぞう)…食(く)うの、手伝(てつだ)ってくれ…」
朋也(ともや)「嫌(いや)です」
秋生(あきお)「のおおぉぉぉーーーーっ!」
床(ゆか)を転(ころ)げ回(まわ)る。
声(こえ)「すみませーん」
遠(とお)くから声(ごえ)がした。
秋生(あきお)「きたぁーーっ、客(きゃく)だっ!」
目(め)を剥(む)いて、起(お)き上(あ)がる。
秋生(あきお)「よし、何(なに)を買(か)っても、おまけで早苗(さなえ)のパンをトレイごと付(つ)けてやろう」
秋生(あきお)「悶絶(もんぜつ)大(だい)サービスだぜ」
鼻息(はないき)を荒(あら)げて、オッサンは歩(ある)いていった。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)(大体(だいたい)はわかっていたけど…)
朋也(ともや)(退屈(たいくつ)しない家族(かぞく)だなぁ…)
夕飯(ゆうはん)の後(あと)、渚(なぎさ)が見(み)えないと思(おも)ったら、外(そと)にいた。
昼間(ひるま)は子供(こども)で賑(にぎ)わう公園(こうえん)。
今(いま)は、閑散(かんさん)としていた。
その中心(ちゅうしん)で、渚(なぎさ)は、演劇(えんげき)の練習(れんしゅう)をしていた。
朋也(ともや)「おまえ、毎晩(まいばん)、こんなところで練習(れんしゅう)してんのか?」
渚(なぎさ)「いえ、毎日(まいにち)ではないです。でも、毎日(まいにち)のようにがんばりたいです」
朋也(ともや)「おまえな、ちょっとは気(き)をつけろよ。こんな暗(くら)い場所(ばしょ)で、ひとりでさ」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。家(いえ)の前(まえ)です。呼(よ)んだら、すぐお父(とう)さん、きてくれます」
朋也(ともや)「そうかもしれないけど、おまえとろそうだから、うまくつけ込(こ)まれないかと心配(しんぱい)だぞ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「えっ」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)る。
渚(なぎさ)「わたし…とろそうに見(み)えますか?」
朋也(ともや)「なにっ」
今度(こんど)は俺(おれ)が渚(なぎさ)の顔(かお)を見返(みかえ)す。
朋也(ともや)「おまえ…とろそうに見(み)えるっていう自覚(じかく)がなかったのか?」
渚(なぎさ)「そんなの、ないです」
朋也(ともや)「それは驚(おどろ)くぞ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「わたしは…落(お)ち込(こ)みます」
俯(うつむ)いてしまう渚(なぎさ)。
朋也(ともや)「はぁ…」
朋也(ともや)「おまえさっ…そう簡単(かんたん)に落(お)ち込(こ)まねぇのっ」
渚(なぎさ)「えへ、冗談(じょうだん)です」
渚(なぎさ)「わたし、慣(な)れっこです。朋也(ともや)くんの意地悪(いじわる)」
朋也(ともや)「…んなもんに慣(な)れなくてもいいけどさ」
朋也(ともや)「悪(わる)いな、俺(おれ)、口悪(くちわる)いから」
渚(なぎさ)「いえ、朋也(ともや)くんも、朋也(ともや)くんのままでいてください」
変(か)わらないでほしい。
変(か)わってしまったからこそ、渚(なぎさ)は学校(がっこう)でひとりになってしまったんだから。
それを切(せち)に祈(いの)っているようだった。
朋也(ともや)「ああ、わかったよ」
俺(おれ)たちは、鉄棒(てつぼう)にもたれるようにして並(なら)んで立(た)つ。
見晴(みは)らしがいい。星空(ほしぞら)が綺麗(きれい)だった。
朋也(ともや)「で、演劇(えんげき)の題目(だいもく)とか、決(き)まってんの」
渚(なぎさ)「題目(だいもく)、と言(い)いますと?」
朋也(ともや)「つまり、なんだ…要(よう)はどういうお話(はなし)をやるか、ってことだ」
渚(なぎさ)「お話(はなし)、ですか?」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「決(き)めてません」
朋也(ともや)「なら、とっとと決(き)めろ」
渚(なぎさ)「どうやって決(き)めればいいんでしょうか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「おまえさ…演劇(えんげき)って、未経験者(みけいけんしゃ)だっけ」
渚(なぎさ)「そうです」
渚(なぎさ)「しかも、そういった行事(ぎょうじ)はことごとく欠席(けっせき)してます」
渚(なぎさ)「幼稚園(ようちえん)の学芸会(がくげいかい)でさえ、参加(さんか)してません」
…そのへんを歩(ある)いている、まったく演劇(えんげき)に興味(きょうみ)のない一般人(いっぱんじん)のほうが、よっぽど向(む)いていると思(おも)えるのは気(き)のせいだろうか?
朋也(ともや)「…気(き)のせいだ…気(き)のせいだ…気(き)のせいだ…気(き)のせいだ」
渚(なぎさ)「なにを呟(つぶや)いてるんです?」
朋也(ともや)「いや、成功祈願(せいこうきがん)のおまじないだ」
渚(なぎさ)「早(はや)すぎると思(おも)います」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「とにかく題目(だいもく)を決(き)めなくちゃな。練習(れんしゅう)のしようもないだろ」
渚(なぎさ)「そうですね…」
しばらく考(かんが)え込(こ)む。
渚(なぎさ)「ひとつだけ、やりたいお話(はなし)があります」
朋也(ともや)「おっ、そうか。それはなんだ」
渚(なぎさ)「わたしが小(ちい)さい時(とき)に聞(き)かされたお話(はなし)です」
オッサンか早苗(さなえ)さんが聞(き)かせていた話(はなし)なんだろう。
朋也(ともや)「タイトルは」
渚(なぎさ)「題(だい)はわからないです」
朋也(ともや)「どんな話(はなし)だった」
昔話(むかしばなし)の類(たぐい)なら、きっと聞(き)けば思(おも)い当(あ)たるだろう。
渚(なぎさ)「世界(せかい)にたったひとり残(のこ)された女(おんな)の子(こ)のお話(はなし)です」
朋也(ともや)「え…」
渚(なぎさ)「それはとてもとても悲(かな)しい…」
渚(なぎさ)「冬(ふゆ)の日(ひ)の、幻想物語(げんそうものがたり)なんです」
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seagull - 2009/5/15 18:23:00
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幻想世界VIII

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…できたっ。
彼女(かのじょ)は言(い)って、地面(じめん)に寝転(ねころ)がった。
それが僕(ぼく)には、なんなのかよくわからなかった。
彼女(かのじょ)が体(からだ)を起(お)こす。
…なにかわかる?
首(くび)を横(よこ)に振(ふ)った。
…ぴょんぴょんと跳(は)ね上(あ)がる道具(どうぐ)。
僕(ぼく)は首(くび)を傾(かし)げたままでいた。
…いいから、そっちにのって。
どこにのれるのかも、よくわからない。
そもそも、それ自体(じたい)が傾(かたむ)いているのだから。
突(つ)っ立(た)っていると、彼女(かのじょ)は僕(ぼく)の体(からだ)を持(も)ち上(あ)げて、そして、その傾斜(けいしゃ)した板(いた)の上(うえ)に置(お)いた。
…ここ持(も)ってないと、本当(ほんとう)に、飛(と)んでいっちゃうからね。
目(め)の前(まえ)の取(と)っ手(て)を握(にぎ)らされる。
…よし。
彼女(かのじょ)は、反対側(はんたいがわ)に回(まわ)って、同(おな)じように腰(こし)を下(お)ろした。
すると、僕(ぼく)の体(からだ)が浮(う)き上(あ)がった。
彼女(かのじょ)のほうが低(ひく)い位置(いち)にいた。
彼女(かのじょ)が足(あし)を伸(の)ばす。
すると、高(たか)さが逆転(ぎゃくてん)した。
彼女(かのじょ)はそれを繰(く)り返(かえ)した。
景色(けしき)が浮(う)いたり沈(しず)んだり。
彼女(かのじょ)が揺(ゆ)れる髪(かみ)の中(なか)で笑(わら)う。
…楽(たの)しいねっ。
僕(ぼく)は頷(うなず)いた。
なにより彼女(かのじょ)とこんな楽(たの)しいものが作(つく)れたことがうれしかった。
恐(こわ)いこともあったけど、本当(ほんとう)にこうしてよかった。
…また別(べつ)のものを作(つく)り始(はじ)めてもいい?
彼女(かのじょ)はそう提案(ていあん)した。
…また、手伝(てつだ)ってくれるよね。
もちろん。
僕(ぼく)たちは、そうしてガラクタを集(あつ)めては、遊(あそ)び道具(どうぐ)を作(つく)っていった。
気(き)づくと、僕(ぼく)たちの家(いえ)の前(まえ)は、とても立派(りっぱ)な遊(あそ)び場(ば)になっていた。
最後(さいご)に高(たか)くまで上(のぼ)れる見晴台(みはらしだい)のようなものを作(つく)った。
彼女(かのじょ)の足(あし)の上(うえ)に座(すわ)って、一緒(いっしょ)に地面(じめん)を見下(みお)ろした。
ふたりだけの遊(あそ)び場(ば)。
それがすごく、寂(さび)れた風景(ふうけい)に見(み)えた。
同時(どうじ)に、僕(ぼく)はどうして記憶(きおく)の中(なか)の世界(せかい)が温(あたた)かかったかを思(おも)い出(だ)していた。
人(ひと)がたくさんいたんだ。
僕(ぼく)は彼女(かのじょ)を見上(みあ)げる。
…ん?
不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)で僕(ぼく)を見下(みお)ろした。
彼女(かのじょ)はすべてを知(し)っているのだろうか。
すべてを受(う)け入(い)れて、ここにいるのだろうか。
それは、彼女(かのじょ)じゃないといけなかったのだろうか。
それとも、たまたま彼女(かのじょ)だったのだろうか。
どっちにしても、こんな悲(かな)しいことはない。
こんな世界(せかい)を愛(あい)せるはずがない。
僕(ぼく)がいなかったら、彼女(かのじょ)は、本当(ほんとう)に孤独(こどく)だ。
僕(ぼく)が生(う)まれるまでの間(あいだ)、ずっと彼女(かのじょ)はひとりだった。
それはどんな暮(く)らしだったのだろう。
どんな毎日(まいにち)だったのだろう。
こんなもの悲(かな)しい世界(せかい)で…
彼女(かのじょ)は何(なに)を思(おも)ってきたのだろうか。
…どうしたの?
彼女(かのじょ)が訊(き)いていた。
…泣(な)きたい?
僕(ぼく)は頷(うなず)いた。
…悲(かな)しいことを思(おも)い出(だ)した?
そうじゃない。
悲(かな)しいのは、すべてだ。
何(なに)もかもが悲(かな)しいんだ。
心(こころ)を持(も)った誰(だれ)かが、存在(そんざい)してはいけなかったんだ。
間違(まちが)ってる。
誰(だれ)にも知(し)られず、忘(わす)れ去(さ)られているべき場所(ばしょ)だったんだ。
僕(ぼく)は世界(せかい)の果(は)てを見渡(みわた)した。
世界(せかい)の終(お)わりを。
世界(せかい)の終(お)わりは、悲(かな)しい色(いろ)に満(み)ちていた。
そして、僕(ぼく)という存在(そんざい)は、ここで終(お)わるのだ。
永遠(えいえん)にここで終(お)わり続(つづ)けるのだ。
彼女(かのじょ)もずっと前(まえ)から気(き)づいていたのだろう。
  …こんな場所(ばしょ)に生(う)まれること…
  …きみはそれを望(のぞ)んだ?
だから、僕(ぼく)が初(はじ)めて外(そと)の風景(ふうけい)を見(み)た時(とき)も、彼女(かのじょ)はそう訊(き)いたんだ。
ただ、空(そら)だけは、どこまでも続(つづ)いていた。
その先(さき)にだけは、もしかしたら、終(お)わりがあるかもしれないと…そう思(おも)わせた。
あるいは、そこがいつの日(ひ)か僕(ぼく)の居(い)た世界(せかい)なのかもしれない。
…涙(なみだ)が流(なが)せたらいいのにね。
僕(ぼく)は彼女(かのじょ)の腕(うで)に包(つつ)まれながら、空(そら)をずっと眺(なが)めていた。
もし、この空(そら)が、どこか別(べつ)の世界(せかい)に繋(つな)がっているのなら…
そこへ彼女(かのじょ)を連(つ)れていきたかった。
でも、どうやって…?
僕(ぼく)はその方法(ほうほう)を心(こころ)の中(なか)に思(おも)い描(えが)いてみた。
けど…なにひとつ思(おも)い浮(う)かばなかった。
いつしか、風(かぜ)の匂(にお)いが変(か)わっていた。
それは、僕(ぼく)がこの世界(せかい)に生(う)まれてから、初(はじ)めてのことだった。
僕(ぼく)を抱(だ)く腕(うで)の力(ちから)が一層(いっそう)、強(つよ)くなった。
彼女(かのじょ)も気(き)づいていたのだ。
…こんな世界(せかい)にも…冬(ふゆ)がくるんだ。
同(おな)じ場所(ばしょ)を見(み)つめたまま、そう言(い)った。
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seagull - 2009/5/15 19:18:00
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5月3日()

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ずっと引(ひ)っかかっていた。
渚(なぎさ)から劇(げき)の話(はなし)を聞(き)いてから。
──世界(せかい)にたったひとり残(のこ)された女(おんな)の子(こ)の話(はなし)です。
同(おな)じような情景(じょうけい)を見(み)た気(き)がする。
それはいつのことだろう。
そして、それは、なんだったのだろう。
夢(ゆめ)なのか、あるいは、そこに俺自身(おれじしん)がいたのか。
なにひとつ思(おも)い出(だ)せない。
けど、渚(なぎさ)の話(はなし)に同(おな)じ手触(てざわ)りを感(かん)じた。
かつて見(み)た風景(ふうけい)と同(おな)じ感触(かんしょく)だった。
部屋(へや)を出(で)る。
早苗(さなえ)「わたしは古河(ふるかわ)パンのお荷物(にもつ)なんですねーっ!」
泣(な)きながら早苗(さなえ)さんが、目(め)の前(まえ)を走(はし)りすぎていった。
秋生(あきお)「俺(おれ)は大好(だいす)きだーーーーっ!」
その後(あと)をパンを口(くち)にくわえたオッサンが追(お)いかけていった。
見慣(みな)れた光景(こうけい)だが…。
訊(き)きたいことがあったので、俺(おれ)もその後(あと)を追(お)う。
秋生(あきお)「はぁ、はぁ…」
オッサンが、裏口(うらぐち)で立(た)ちつくしていた。
秋生(あきお)「しくったぜ…早苗(さなえ)のパンを枕代(まくらが)わりにして寝(ね)ていたところを見(み)つかっちまった」
秋生(あきお)「枕(まくら)としてはちょうどいいんだ、これが」
早苗(さなえ)さんはその裏口(うらぐち)から外(そと)に出(で)てしまったようだ。泣(な)きながら近所(きんじょ)を走(はし)り回(まわ)っているのだろう。
秋生(あきお)「おまえも使(つか)ってみるか」
朋也(ともや)「いや、いーです」
秋生(あきお)「そうかよ。ちっ、いつだって、俺(おれ)ひとりが悪者(わるもの)だぜ」
それだけのことをしていると思(おも)うが。
朋也(ともや)「オッサン、訊(き)きたいことがあるんだけど、いいか」
秋生(あきお)「おまえが俺(おれ)に命令(めいれい)して、早苗(さなえ)のパンを枕(まくら)にしたことにしてくれれば、なんだって教(おし)えてやろう」
朋也(ともや)「そんな嘘(うそ)を早苗(さなえ)さんが信(しん)じるわけないだろ」
秋生(あきお)「ふん、早苗(さなえ)の前(まえ)では偽善者(ぎぜんしゃ)を装(よそお)いやがって、この腹(はら)グロ野郎(やろう)が」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)を泣(な)かしたら承知(しょうち)しねぇぞ」
朋也(ともや)「今(いま)、あんた泣(な)かしてたじゃないか」
秋生(あきお)「俺(おれ)はいいんだよ、馬鹿(ばか)」
秋生(あきお)「俺(おれ)以外(いがい)があいつを泣(な)かせたら、命(いのち)はねぇぞ、よく覚(おぼ)えておけ、この悪徳商人(あくとくしょうにん)がっ」
朋也(ともや)「そりゃ、あんただろ」
秋生(あきお)「なんだとぅ!?」
一向(いっこう)に話(はなし)が進(すす)まない。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)に童話(どうわ)を聞(き)かせたか」
俺(おれ)はぶしつけに訊(き)いた。
秋生(あきお)「あん?
なんの話(はなし)だよ」
朋也(ともや)「小(ちい)さい頃(ころ)にだよ。渚(なぎさ)に童話(どうわ)を話(はな)して聞(き)かせたか?」
朋也(ともや)「童話(どうわ)じゃないかもしれない。世界(せかい)にひとり残(のこ)された女(おんな)の子(こ)の話(はなし)だ」
秋生(あきお)「なんだよ、そりゃ」
朋也(ともや)「思(おも)い出(だ)してくれ。結構(けっこう)大事(だいじ)なことなんだ」
俺(おれ)は真剣(しんけん)な目(め)で、オッサンを見(み)た。
それが伝(つた)わると、オッサンは目(め)を閉(と)じて、思(おも)い出(だ)そうと努(つと)めた。
秋生(あきお)「他(ほか)に、手(て)がかりは」
朋也(ともや)「冬(ふゆ)の物語(ものがたり)だ」
秋生(あきお)「冬(ふゆ)か…」
腕組(うでぐ)みをして考(かんが)える。
秋生(あきお)「………」
目(め)を開(あ)けた。
秋生(あきお)「わりぃが俺(おれ)に心当(こころあ)たりはねぇ」
朋也(ともや)「そうか…」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)に訊(き)いてくれ」
朋也(ともや)「そうだな。そうするよ。時間(じかん)取(と)らせた」
秋生(あきお)「おい、小僧(こぞう)」
去(さ)ろうとした俺(おれ)を呼(よ)び止(と)めた。
朋也(ともや)「あん?」
秋生(あきお)「おまえが何(なに)を詮索(せんさく)しようとしているかはしらねぇ」
秋生(あきお)「けどな、もし、何(なに)かがわかっても渚(なぎさ)には言(い)うな。まず俺(おれ)に言(い)え」
秋生(あきお)「いいな」
珍(めずら)しく、真面目(まじめ)だった。
朋也(ともや)「ああ、わかったよ、オッサン」
早苗(さなえ)さんを探(さが)す。
とりあえず、庭掃除(にわそうじ)をしていた隣近所(となりきんじょ)の女性(じょせい)に訊(き)いてみることにする。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、裏口(うらぐち)から出(で)てきませんでしたか」
女性(じょせい)「ええ、いつものように泣(な)いて出(で)てきましたよ」
やはり、近所(きんじょ)では有名(ゆうめい)らしい…。
女性(じょせい)「放(ほう)っておけば、帰(かえ)ってきますよ」
笑(わら)いながら、それが微笑(ほほえ)ましい日常風景(にちじょうふうけい)であるかのように女性(じょせい)は続(つづ)けた。
朋也(ともや)「まあ、そうなんでしょうけど、用(よう)があるんです。どっちに行(い)きましたか」
女性(じょせい)「今朝(けさ)は、あっちでしたよ」
朋也(ともや)「どうも」
女性(じょせい)が指(さ)さしたほうに、俺(おれ)は歩(ある)き始(はじ)めた。
早苗(さなえ)さんがひとりでとぼとぼと歩(ある)いていた。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
俺(おれ)は声(こえ)をかける。
早苗(さなえ)「え、はい」
振(ふ)り向(む)いて、目(め)をごしごしと擦(こす)る。
こうして見(み)ると、本当(ほんとう)に渚(なぎさ)にそっくりだ。
どきっとするほどに。
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さん、こんなところまでどうしましたか」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)に。散歩(さんぽ)してただけですよ。もう、戻(もど)るところ」
早苗(さなえ)「じゃ、一緒(いっしょ)に戻(もど)りましょう」
朋也(ともや)「はい」
ふたり並(なら)んで歩(ある)き始(はじ)める。
家(いえ)はそんなに遠(とお)くない。今(いま)すぐ訊(き)くべきだった。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、訊(き)きたいことがあるんです。いいですか」
早苗(さなえ)「はい、なんでしょう」
朋也(ともや)「昔(むかし)、小(ちい)さい渚(なぎさ)に童話(どうわ)を話(はな)して聞(き)かせたりしましたか」
朋也(ともや)「それは童話(どうわ)じゃないかもしれない。世界(せかい)にひとり残(のこ)された女(おんな)の子(こ)の話(はなし)です」
朋也(ともや)「冬(ふゆ)の話(はなし)です」
早苗(さなえ)「うーん…」
足(あし)を止(と)めて、真剣(しんけん)に考(かんが)え込(こ)む。
早苗(さなえ)「それは、絵本(えほん)を読(よ)んであげたりはしました」
早苗(さなえ)「でも、その中(なか)に、そんな話(はなし)があったかどうかはわかりません」
早苗(さなえ)「他(ほか)に手(て)がかりはないんですか?」
朋也(ともや)「ええ…」
早苗(さなえ)「結末(けつまつ)はどんなだったか、わからないですか?」
朋也(ともや)「ええ、それも」
いや…渚(なぎさ)はなんて言(い)っていただろうか。
──それはとてもとても悲(かな)しい、冬(ふゆ)の日(ひ)の幻想物語(げんそうものがたり)なんです。
とてもとても悲(かな)しい…
ハッピーエンドで終(お)わって、その話(はなし)の印象(いんしょう)が、とても悲(かな)しいものにはならないはずだった。
朋也(ともや)「…とても悲(かな)しい結末(けつまつ)です」
だから、俺(おれ)はそう言(い)っていた。
早苗(さなえ)「そう…」
早苗(さなえ)「なら、印象(いんしょう)に残(のこ)るはずですね」
朋也(ともや)「ええ」
早苗(さなえ)「でも、印象(いんしょう)にはありません。そもそもわたしは悲(かな)しいお話(はなし)が苦手(にがて)ですから…」
早苗(さなえ)「だから、そんな本(ほん)をあの子(こ)に読(よ)んであげることもなかったと思(おも)います」
朋也(ともや)「そうですか…」
手(て)がかりは途絶(とだ)えた。これで頼(たよ)りは渚(なぎさ)自身(じしん)の記憶(きおく)だけだ。
俺(おれ)たちは再(ふたた)び歩(ある)き始(はじ)める。
早苗(さなえ)「落(お)ち込(こ)んでますか」
朋也(ともや)「ええ、少(すこ)し」
早苗(さなえ)「大事(だいじ)なことなんですか?」
朋也(ともや)「そうですね。それなりに」
早苗(さなえ)「では、何(なに)か思(おも)い出(だ)せるように頑張(がんば)りますね」
朋也(ともや)「ええ、お願(ねが)いします」
気(き)づくと古河(ふるかわ)パンと書(か)かれた看板(かんばん)の前(まえ)に立(た)っていた。
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さんは、渚(なぎさ)のことを好(す)いてくれてるんですよね」
朋也(ともや)「え、ええ…まぁ」
早苗(さなえ)「ずっと、好(す)きでいてあげてくださいね」
朋也(ともや)「はぁ」
間(ま)の抜(ぬ)けた返事(へんじ)しかできなかった。
秋生(あきお)「おぅ、おかえり」
看板(かんばん)の下(した)、ウンコ座(すわ)りで煙草(たばこ)をふかしていたオッサンが、片手(かたて)をあげていた。
朋也(ともや)「なぁ、思(おも)い出(だ)せないか」
渚(なぎさ)「とてもとても昔(むかし)の話(はなし)なんです」
渚(なぎさ)「それが絵本(えほん)なのか、人(にん)から聞(き)かされたのかも、思(おも)い出(だ)せないです」
朋也(ともや)「そっかよ…」
朋也(ともや)「話(はなし)の内容(ないよう)はどのくらい憶(おも)えてる」
渚(なぎさ)「それもほんの少(すこ)しです」
朋也(ともや)「いいよ、聞(き)かせてくれ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「その女(おんな)の子(こ)は世界(せかい)にひとりっきりだったんです」
渚(なぎさ)「とても寂(さび)しく、とても辛(つら)かったんです」
渚(なぎさ)「そこで、友達(ともだち)を作(つく)ることにしたんです」
渚(なぎさ)「それはガラクタを集(あつ)めて、組(く)み上(あ)げた、一体(いったい)の人形(にんぎょう)です」
渚(なぎさ)「人形(にんぎょう)は、女(おんな)の子(こ)の思(おも)いに応(こた)えて、動(うご)き始(はじ)めました」
渚(なぎさ)「こうして、女(おんな)の子(こ)は寂(さび)しくなくなりました」
渚(なぎさ)「以上(いじょう)です」
朋也(ともや)「それ、ハッピーエンドじゃねぇか」
朋也(ともや)「しかも、中途半端(ちゅうとはんぱ)だし、面白(おもしろ)くねぇ…」
渚(なぎさ)「違(ちが)います。まだ途中(とちゅう)なんです」
渚(なぎさ)「まだまだ続(つづ)きがあるんです」
渚(なぎさ)「とても感動(かんどう)できるお話(はなし)だったんです」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)かよ…」
口(くち)では馬鹿(ばか)にしたが、俺(おれ)は動揺(どうよう)していた。
ガラクタの人形(にんぎょう)、という言葉(ことば)が強(つよ)いイメージで、心(こころ)に突(つ)き刺(さ)さっていた。
なんなんだろう、この感覚(かんかく)は。
どうしても、その話(はなし)の出所(しゅっしょ)を知(し)りたい。
渚(なぎさ)「でも思(おも)い出(だ)せるのはそこまでですから、劇(げき)でやるとしたら、今(いま)のところまでです」
朋也(ともや)「だから、面白(おもしろ)くねぇってば。聞(き)かない子(こ)だな、おまえは」
渚(なぎさ)「でも、今(いま)の話(はなし)なら、ひとりでできるんです」
朋也(ともや)「そうだな、世界(せかい)にはひとりきりなんだもんな」
朋也(ともや)「でも人形作(にんぎょうつく)って、ハイ、おしまい、だろ?」
朋也(ともや)「話(はなし)に起承転結(きしょうてんけつ)がないぞ。クライマックスがなければ、盛(も)り上(あ)がらない」
朋也(ともや)「盛(も)り上(あ)がらなければ、客(きゃく)は喜(よろこ)ばない」
朋也(ともや)「見(み)せることを目的(もくてき)とした演劇(えんげき)なんだから、最低(さいてい)だぞ、それって」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
その落(お)ち込(こ)んだ声(こえ)で気(き)づく。いつの間(ま)にか、演劇(えんげき)の話(はなし)にすり替(か)わっていた。
朋也(ともや)「とにかく、話(はなし)の先(さき)を探(さが)そう。そうすれば、きっとおまえの言(い)うとおり、感動的(かんどうてき)な話(はなし)になる」
渚(なぎさ)「でも、どうやって探(さが)すんですか」
朋也(ともや)「物置(ものおき)とか、なんなりとあるだろう。そういう古(ふる)い物(もの)が残(のこ)ってるところを探(さが)すんだよ」
午後(ごご)からを使(つか)って、ふたりで物置(ものおき)を調(しら)べる。
渚(なぎさ)「あ、すごいもの、見(み)つけました!」
渚(なぎさ)が珍(めずら)しく声(こえ)を張(は)り上(あ)げる。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「見(み)てください」
にっこり笑(わら)って差(さ)し出(だ)すそれは…
だんごのキーホルダーだった。
渚(なぎさ)「小学生(しょうがくせい)のとき、これを鞄(かばん)に付(つ)けて、学校(がっこう)に行(い)ってました」
渚(なぎさ)「懐(なつ)かしいです」
渚(なぎさ)「また、付(つ)けて学校(がっこう)に行(い)きたいです」
朋也(ともや)「ぐは…」
その隣(となり)を歩(ある)くのは俺(おれ)じゃないか…。
朋也(ともや)「おまえ、そういうの卒業(そつぎょう)しろよな…」
渚(なぎさ)「はい?
可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「だんご、だんごっ」
それからは、歌(うた)ってばかりでちっとも作業(さぎょう)が進(すす)まない。
諦(あきら)めかけた頃(ころ)…
秋生(あきお)「誰(だれ)だ、物置(ものおき)で恥(は)ずかしい歌(うた)を歌(うた)ってる奴(やつ)は」
オッサンが現(あらわ)れた。
朋也(ともや)「あんたの娘(むすめ)だ」
秋生(あきお)「なんだ、渚(なぎさ)か」
秋生(あきお)「どうした、何(なに)してる、こんなところで」
渚(なぎさ)「探(さが)し物(もの)です」
秋生(あきお)「何(なに)をだ。言(い)えば、おまえの頼(たよ)りになる父(ちち)が探(さが)してやるぞ、娘(むすめ)よ」
渚(なぎさ)「そういえば…探(さが)し物(もの)って、なんなんでしょう」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
朋也(ともや)「思(おも)い出(で)の品(しな)だよ、おまえの」
渚(なぎさ)「そうです。わたしの思(おも)い出(で)です」
秋生(あきお)「こんなところにはない」
冷(つめ)たく言(い)い放(はな)った。
秋生(あきお)「ここにあるのは、くだらない物(もの)ばかりだ」
朋也(ともや)「それでもいい。探(さが)したいんだ」
秋生(あきお)「探(さが)すな、何(なに)もねぇ」
渚(なぎさ)「でも、これ、ありました」
キーホルダーを見(み)せる。
秋生(あきお)「あ、ああ…そうか。あるのはそれだけだ。それ以外(いがい)には何(なに)もねぇよ」
秋生(あきお)「だから、部屋(へや)に戻(もど)れ」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「ほら、若者(わかもの)らしく、部屋(へや)でチチクリ合(あ)ってろ」
秋生(あきお)「って、何(なに)を推奨(すいしょう)してんだよ、俺(おれ)はああぁっ!」
秋生(あきお)「この野郎(やろう)、チョン切(き)るぞ」
朋也(ともや)「何(なに)をだよっ…」
秋生(あきお)「おら、いけいけっ」
腕(うで)を捕(つか)まれ、放(ほう)り出(だ)された。
朋也(ともや)「なんか、怪(あや)しかったぞ、おまえの親父(おやじ)」
朋也(ともや)「やっぱりあの物置(ものおき)になんか、あるんじゃないのか」
渚(なぎさ)「でも、何(なに)もないって言(い)ってましたから…」
渚(なぎさ)は手(て)の中(なか)のキーホルダーで遊(あそ)んでいる。それだけで十分(じゅうぶん)満足(まんぞく)しているようだった。
朋也(ともや)「でも、探(さが)さないと、演劇(えんげき)できないだろ」
渚(なぎさ)「できます。あのままのお話(はなし)でいいと思(おも)います」
朋也(ともや)「そうかよ…」
そもそも話(はなし)の全貌(ぜんぼう)や、出所(しゅっしょ)を知(し)りたいのは俺(おれ)だけなのだ。
これ以上(いじょう)、無理強(むりじ)いするのもためらわれた。
渚(なぎさ)「では…」
渚(なぎさ)が立(た)ち上(あ)がっていた。
渚(なぎさ)「練習(れんしゅう)したいと思(おも)います。朋也(ともや)くん、付(つ)き合(あ)ってもらえますか」
朋也(ともや)(ゴールデンウィークだってのになぁ…)
朋也(ともや)(演劇(えんげき)に一生懸命(いっしょうけんめい)で、デートだってしてないじゃないか、俺(おれ)たち…)
俺(おれ)は渚(なぎさ)の練習姿(れんしゅうすがた)を眺(なが)め続(つづ)けていた。
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seagull - 2009/5/16 17:13:00
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5月4日()

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古河(ふるかわ)家(いえ)での生活(せいかつ)も三日目(みっかめ)。
今日(きょう)も休(やす)みだったから、ずっと渚(なぎさ)と一緒(いっしょ)にいた。
けど、恋人同士(こいびとどうし)が過(す)ごすような時間(じかん)ではなく、ひとつの目標(もくひょう)…演劇(えんげき)の発表(はっぴょう)に向(む)けて邁進(まいしん)する時間(じかん)だ。
渚(なぎさ)は、台本(だいほん)を書(か)き始(はじ)めた。
台本(だいほん)の書(か)き方(かた)なんて、俺(おれ)も渚(なぎさ)も知(し)らなかったから、ただ喋(しゃべ)るセリフをレポート用紙(ようし)に連(つら)ねていくだけだった。
俺(おれ)はその隣(となり)で、渚(なぎさ)が悩(なや)みながら紡(つむ)ぎだしていくセリフをじっと見(み)つめていた。
そこから、何(なに)か思(おも)い出(だ)せるのではないかと期待(きたい)していたのだ。
でも、渚(なぎさ)の稚拙(ちせつ)なセリフを見(み)ていると、なんだか最初(さいしょ)に抱(だ)いた物語(ものがたり)の印象(いんしょう)からどんどんかけ離(はな)れていくような気(き)がして、俺自身(おれじしん)混乱(こんらん)し始(はじ)める。
渚(なぎさ)「あの…何(なに)か、ヘンでしょうか…」
渚(なぎさ)が手(て)を止(と)めて、不安(ふあん)そうな顔(かお)でこっちを見(み)ていた。
朋也(ともや)「え、どうして?」
渚(なぎさ)「だって、今(いま)、顔(かお)を手(て)で覆(おお)って、うなってました」
朋也(ともや)「ああ…いや、気(き)にしなくていい」
渚(なぎさ)「いえ、ヘンなところあったら、言(い)ってください。直(なお)したいです」
朋也(ともや)「いや、大丈夫(だいじょうぶ)。おまえ、字(じ)、うまいな」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「でも、お話(はなし)の感想(かんそう)が欲(ほ)しかったです」
朋也(ともや)「ああ、まだ序盤(じょばん)だからな。こんなもんだろう」
渚(なぎさ)「そうですか。良(よ)かったです」
そんな感想(かんそう)で納得(なっとく)したのか、再(ふたた)びレポート用紙(ようし)に向(む)かって、考(かんが)え始(はじ)める。
まぁ、こいつに文才(ぶんさい)があるわけもなく…。
俺(おれ)の期待(きたい)が過剰(かじょう)だったのだろう。
夕方(ゆうがた)になると、夕飯(ゆうはん)の買(か)い物(もの)に付(つ)き合(あ)って、荷物(にもつ)持(も)ちをした。
そして夕食(ゆうしょく)の時間(じかん)。
秋生(あきお)「明日(あした)は、連休最後(れんきゅうさいご)の休(やす)みだ」
渚(なぎさ)と早苗(さなえ)さんがふたりで用意(ようい)してくれた晩御飯(ばんごはん)を前(まえ)に、オッサンが話(はなし)を始(はじ)めていた。
渚(なぎさ)「はい、そうです」
秋生(あきお)「そこで早苗(さなえ)と考(かんが)えたんだ」
渚(なぎさ)「何(なに)をですか?」
秋生(あきお)「けっ、簡単(かんたん)に教(おし)えてたまるか。というわけで、ここでクイズだ」
秋生(あきお)「俺(おれ)と早苗(さなえ)が考(かんが)えた連休最後(れんきゅうさいご)の過(す)ごし方(かた)とは、次(つぎ)のうちのどれだ?」
秋生(あきお)「1、ピクニック」
秋生(あきお)「2、ピクピク」
秋生(あきお)「3、ピグミー族(ぞく)」
秋生(あきお)「さあ、どれだ」
朋也(ともや)(アホな問題(もんだい)だ…)
渚(なぎさ)「全部(ぜんぶ)、字(じ)が似(に)てて、悩(なや)みます」
朋也(ともや)「アホな子(こ)だろ、おまえっ!」
秋生(あきお)「おめぇ、人(ひと)の娘(むすめ)を親(おや)の前(まえ)でアホ呼(よ)ばわりすんじゃねぇっ」
秋生(あきお)「ひとりでピグミー族(ぞく)してろ」
早苗(さなえ)「楽(たの)しかったら、呼(よ)んでくださいね」
朋也(ともや)(こ、この人(ひと)もだ…)
秋生(あきお)「渚(なぎさ)、さぁ、答(こた)えはどれだ」
渚(なぎさ)「はい、1番(ばん)のピクニックです」
秋生(あきお)「ブーッ。正解(せいかい)は2番(ばん)のピクピクでした」
秋生(あきお)「よぅし、明日(あした)はみんなでピクピクだ!」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんは、ひとりでピクピクしててください」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、わたしたちはピクニックにいきましょうね」
秋生(あきお)「けっ、嘘(うそ)だ。正解(せいかい)だよ。そう、ピクニックだ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ、とても楽(たの)しみです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、一日(いちにち)、演劇(えんげき)のこと忘(わす)れて遊(あそ)んでもいいですか」
渚(なぎさ)は俺(おれ)に訊(き)いていた。
朋也(ともや)「ああ、いいんじゃねぇの」
渚(なぎさ)「良(よ)かったです。明日(あした)はたくさん遊(あそ)びましょう」
秋生(あきお)「ちっ、しゃあねぇ、こいつも連(つ)れていってやるか」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。最初(さいしょ)から岡崎(おかざき)さんも入(はい)っていましたよ」
ああ、またこそばゆい感(かん)じ。
本当(ほんとう)に仲(なか)のいい家族(かぞく)だと思(おも)った。
トントン、とノックの音(おと)がした。
秋生(あきお)「開(あ)けろ、小僧(こぞう)」
秋生(あきお)「つっか、俺様(おれさま)の家(いえ)だから、断(ことわ)りはいらねぇか」
返事(へんじ)もしていないのに、がらり、と戸(と)を開(あ)け放(はな)つ。
秋生(あきお)「よぅ、小僧(こぞう)」
朋也(ともや)「なんだよ、オッサン」
秋生(あきお)「おめ、そのオッサンてのはやめろ」
朋也(ともや)「あんたが、小僧(こぞう)というのをやめれば、やめてやるよ」
秋生(あきお)「てめぇ、生意気(なまいき)だぞ。まだロクにアレも生(は)えてねぇような若造(わかぞう)のくせに」
…この人(ひと)のアレは大人(おとな)になってから生(は)えてきたのだろうか。
秋生(あきお)「まぁ、いい。聞(き)け」
俺(おれ)の正面(しょうめん)にどかと腰(こし)を落(お)ち着(つ)けた。
秋生(あきお)「いいか、今(いま)から話(はな)すことは、渚(なぎさ)には内緒(ないしょ)だぞ」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)にも、ここで俺(おれ)と内緒話(ないしょばなし)をしたことは言(い)うな。蒸(む)し返(かえ)したくない」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「む…茶(ちゃ)が欲(ほ)しいな」
秋生(あきお)「おい、早苗(さなえ)ーっ、茶(ちゃ)をいれてくれーっ!」
秋生(あきお)「って、早苗(さなえ)にも内緒(ないしょ)だって言(い)っただろ、今(いま)!」
秋生(あきお)「おい、場所(ばしょ)を変(か)えるぞ、小僧(こぞう)」
秋生(あきお)「早(はや)くしろ、早苗(さなえ)が来(く)るだろっ」
秋生(あきお)「バレたら、どうしてくれるんだよ、てめーっ」
朋也(ともや)(この人(ひと)は頭(あたま)オカシイぞ、絶対(ぜったい)…)
オッサンの後(あと)について、部屋(へや)を出(で)る。
秋生(あきお)「外(そと)に出(で)るぞ、小僧(こぞう)」
秋生(あきお)「ふぅ…危(あぶ)なかった。これで一安心(ひとあんしん)だな」
朋也(ともや)「そうっすね」
適当(てきとう)に相(あい)づちを打(う)っておく。
秋生(あきお)「実(じつ)はだな、小僧(こぞう)」
声(こえ)「はい、お茶(ちゃ)です」
秋生(あきお)「おぅ、早苗(さなえ)、サンキュな」
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さんも、どうぞ。熱(あつ)いから気(き)をつけてくださいね」
早苗(さなえ)さんから、湯気(ゆげ)の上(あ)がる湯飲(ゆの)みを受(う)け取(と)る。
ずずーっ。
秋生(あきお)「ふぅ、落(お)ち着(つ)くなぁ。やっぱ日本人(にほんじん)は茶(ちゃ)だぜ」
秋生(あきお)「いいか、念(ねん)を押(お)すが、渚(なぎさ)や早苗(さなえ)には内緒(ないしょ)だぞ」
早苗(さなえ)「わたしがどうかしましたか?」
秋生(あきお)「って、真横(まよこ)に居(い)るじゃねぇかああぁぁぁーーーっ!」
早苗(さなえ)「湯飲(ゆの)み空(あ)くまで待(ま)ってますから、気(き)にせずにどうぞ」
秋生(あきお)「くそ、小僧(こぞう)、とっとと飲(の)んで返(かえ)せ」
ずずーっ。
家(いえ)の前(まえ)で立(た)って茶(ちゃ)を飲(の)む不気味(ぶきみ)な大人(おとな)たち。
秋生(あきお)「ふぅ、下(さ)げてくれ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「おかわりはいかがですか」
秋生(あきお)「いい」
ふたりの湯飲(ゆの)みを盆(ぼん)に載(の)せて、早苗(さなえ)さんが戻(もど)っていく。
秋生(あきお)「これで落(お)ち着(つ)いて話(はなし)ができるわけだな」
朋也(ともや)「あんたが早苗(さなえ)さんさえ呼(よ)ばなければな」
秋生(あきお)「んな馬鹿(ばか)みてぇなことするか、馬鹿(ばか)」
秋生(あきお)「しかし、なんで突(つ)っ立(た)って、話(はなし)をしなきゃならねぇんだ」
秋生(あきお)「戻(もど)るぞ、小僧(こぞう)」
家(いえ)の中(なか)に戻(もど)っていく。
秋生(あきお)「でだ、小僧(こぞう)」
ようやく話(はなし)が始(はじ)まった。
秋生(あきお)「あれはどうなった、あれは」
朋也(ともや)「あれって、なんだよ」
秋生(あきお)「あれと言(い)えば、あれだ。それぐらい察(さっ)しろ、馬鹿(ばか)」
秋生(あきお)「おまえ、探(さが)してたじゃないか」
朋也(ともや)「ああ、あれか」
秋生(あきお)「そう、それだ。あれからどうなった」
朋也(ともや)「べつに、どうもなってない」
秋生(あきお)「そうか…」
秋生(あきお)「別(べつ)にな、俺(おれ)はそれに関(かん)してはどうとも思(おも)ってねぇんだよ」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)が小(ちい)さい時(とき)に使(つか)ってたオマルになんて興味(きょうみ)はねぇんだ」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)だってないけど」
秋生(あきお)「おまえ、必死(ひっし)で探(さが)してただろうがっ!」
朋也(ともや)「んなもん、必死(ひっし)で探(さが)すかぁっ!」
声(こえ)「おふたりさーん、夜遅(よるおそ)いですら、お静(しず)かにお願(ねが)いしますねー」
廊下(ろうか)から早苗(さなえ)さんの声(こえ)。
騒(さわ)がしい内緒話(ないしょばなし)だった。
秋生(あきお)「ちっ、まぁ、いい。オマルは置(お)いておいてだ」
朋也(ともや)「いや、置(お)いておいてじゃなくて、オマルじゃないんだ」
秋生(あきお)「うっせぇなぁ、オマルにしとけ」
朋也(ともや)「するかっ」
秋生(あきお)「ちっ、じゃあこうだ。作戦名(コードネーム):オマル、ということでどうだ」
秋生(あきお)「これなら、あたかもオマルのようでオマルじゃない」
朋也(ともや)「もう、どーでもいいです」
秋生(あきお)「そうか。よし、話(はなし)を続(つづ)けるぞ」
秋生(あきお)「別(べつ)におまえがオマルを探(さが)そうと、どーでもいいんだ、俺(おれ)は」
なんか引(ひ)っかかる…。
秋生(あきお)「けどな、それとは違(ちが)うものをひょいと見(み)つけられたら困(こま)るんだな、これが」
朋也(ともや)「それが物置(ものおき)の中(なか)にあるのか」
秋生(あきお)「ああ、その通(とお)りだ」
秋生(あきお)「そして、それは渚(なぎさ)が探(さが)してるものでもある」
朋也(ともや)「なんだよ、それは」
秋生(あきお)「聞(き)きたいか」
朋也(ともや)「話(はな)したくないなら、いいが」
秋生(あきお)「ちっ、話(はな)してやろう」
秋生(あきお)「このまま内緒(ないしょ)にしておいて、隠(かく)してあるものが俺(おれ)の秘蔵(ひぞう)エロ本(ほん)一万冊(いちまんさつ)などと想像(そうぞう)されるのも嫌(いや)だからな」
そんな想像(そうぞう)、誰(だれ)もしない。
秋生(あきお)「いいか、目(め)ん玉(たま)かっぽじってよく聞(き)け」
痛(いた)そうだ。
秋生(あきお)「あの物置(ものおき)の奥(おく)に仕舞(しまい)ってあるもの、それはだな…」
秋生(あきお)「俺(おれ)と早苗(さなえ)の過去(かこ)だ」
秋生(あきお)「昔(むかし)の写真(しゃしん)とか、ビデオテープとか、日記(にっき)だ」
思(おも)いのほか、平凡(へいぼん)なものだった。
朋也(ともや)「それがどうマズいんだよ」
秋生(あきお)「そこに居(い)るのはな…」
秋生(あきお)「…夢(ゆめ)を追(お)っていた頃(ころ)の俺(おれ)たちだからだ」
秋生(あきお)「どうだ、今(いま)のはカッコイイ言(い)い回(まわ)しだろう」
悦(えつ)に入(はい)っている。馬鹿(ばか)だ。
秋生(あきお)「知(し)ってるだろう、渚(なぎさ)は小(ちい)さい時(とき)に命(いのち)を落(お)としかけた」
朋也(ともや)「いや、知(し)らないが…」
秋生(あきお)「なんだ、聞(き)いてなかったのか」
朋也(ともや)「体(からだ)が弱(よわ)いのは知(し)ってるが」
秋生(あきお)「ああ、あの日(ひ)以来(いらい)な…」
オッサンは、遠(とお)い眼差(まなざ)しを床(ゆか)に向(む)けた。
重苦(おもくる)しい話(はなし)を始(はじ)めようとしていた。
…ぷぅ。
秋生(あきお)「すまん、屁(へ)をこいてしまった」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「あれはとても悲(かな)しい出来事(できごと)だった」
屁(へ)の匂(にお)いの中(なか)、強引(ごういん)に重苦(おもくる)しい話(ばなし)を始(はじ)めた。
秋生(あきお)「渚(なぎさ)は命(いのち)を落(お)としかけた、と言(い)ったが、それは正確(せいかく)じゃないかもしれない」
朋也(ともや)「どういうことだ」
秋生(あきお)「いや、それはまた別(べつ)の話(はなし)だ。今(いま)は置(お)いておいてくれ」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「とにかくだ、渚(なぎさ)は死(し)ぬかもしれないような状態(じょうたい)に陥(おちい)った」
秋生(あきお)「それは俺(おれ)と早苗(さなえ)のせいなんだ」
秋生(あきお)「神様(かみさま)が罰(ばち)を与(あた)えたんだと思(おも)った」
秋生(あきお)「夢(ゆめ)ばかり追(お)っていて、自分(じぶん)の娘(むすめ)をずっと独(ひと)りにしていた俺(おれ)たちに」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)を奪(うば)っていくんだと思(おも)った」
秋生(あきお)「失(うしな)ってみないと気(ぎ)づかなかったんだ」
秋生(あきお)「そして、もう一度(いちど)渚(なぎさ)が目(め)を開(あ)けたとき…」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)とふたりで誓(ちか)ったんだ」
秋生(あきお)「ずっとこいつのそばに居(い)ようってな」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「パンなんて焼(や)いたことなかったから、大変(たいへん)だったぞ」
秋生(あきお)「でも早苗(さなえ)がパンなら自信(じしん)あるからってよ」
秋生(あきお)「で、焼(や)いてみりゃあんなんだから、俺(おれ)が一(いち)から勉強(べんきょう)するしかなかった」
秋生(あきお)「…まぁ、楽(たの)しかったから、良(よ)かったけどな」
普通(ふつう)、そこまでできるだろうか…。
それとも俺(おれ)は、家族(かぞく)というものを見(み)くびっていたのだろうか。
あるいは、この家族(かぞく)が、特殊(とくしゅ)なだけか。
よくわからなかった。
秋生(あきお)「負(お)い目(め)をあいつに背負(せお)わせたくないんだ」
秋生(あきお)「きっと、あいつはこう思(おも)うだろ」
秋生(あきお)「自分(じぶん)のせいで、俺(おれ)と早苗(さなえ)は夢(ゆめ)を諦(あきら)めたって」
秋生(あきお)「でも、あいつ、感(かん)づき始(はじ)めてやがる」
秋生(あきお)「そういうところには敏感(びんかん)な奴(やつ)だからな」
秋生(あきお)「だから、思(おも)い出(だ)を物置(ものおき)の奥深(おくぶか)くに隠(かく)した」
秋生(あきお)「焼(や)いちまえばいいんだが…」
秋生(あきお)「それをすると早苗(さなえ)が悲(かな)しむだろうからな」
ふぅ、と深(ふか)く息(いき)をつく。
秋生(あきお)「な、わかったろ。そういうことだ」
秋生(あきお)「おまえの探(さが)し物(もの)は、俺(おれ)が手伝(てつだ)ってやる」
秋生(あきお)「だから渚(なぎさ)を連(つ)れていくな」
秋生(あきお)「いいな」
話(はなし)を終(お)え、オッサンが立(た)ち上(あ)がる。
秋生(あきお)「じゃあな、小僧(こぞう)。明日(あした)は楽(たの)しもうぜ」
朋也(ともや)「ああ、オッサン」
けっ、と一言(いちげん)吐(は)き捨(す)てて、部屋(へや)から出(で)ていった。
ひとりになる。
朋也(ともや)「………」
今(いま)聞(き)いた話(はなし)のせいだろうか、居心地(いごこち)が悪(わる)かった。
自分(じぶん)のような部外者(ぶがいしゃ)が、今(いま)、古河(ふるかわ)の家族(かぞく)の中(なか)にいる。
その事実(じじつ)が、居(い)たたまれないのだ。
自分(じぶん)が無粋(ぶすい)な存在(そんざい)に思(おも)えて仕方(しかた)がなかった。
朋也(ともや)(明日(あした)は俺(おれ)、遠慮(えんりょ)するべきだよな…)
家族(かぞく)水入(みずい)らずで、楽(たの)しんできてもらいたかった。
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seagull - 2009/5/17 13:35:00
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5月5日()

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翌朝(よくあさ)。俺(おれ)は過(す)ごし慣(な)れた部屋(へや)にいた。
春原(すのはら)「ふぅ…」
朋也(ともや)「おかえり」
春原(すのはら)「ただいま」
春原(すのはら)「って、おわっ!
誰(だれ)かいるっ!」
朋也(ともや)「俺(おれ)だ。今更(いまさら)驚(おどろ)くな」
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)…」
春原(すのはら)「僕(ぼく)は…朝(あさ)だけは、穏(おだ)やかな時間(じかん)が約束(やくそく)されていると信(しん)じていたんだ…」
春原(すのはら)「朝食(ちょうしょく)を食(く)ってきて、こうしてコーヒーを入(い)れて、部屋(へや)に戻(もど)ってくる」
朋也(ともや)「俺(おれ)のも入(い)れてくれ」
春原(すのはら)「そして小鳥(ことり)のさえずりを聞(き)きながら、コーヒーを飲(の)む…」
朋也(ともや)「俺(おれ)のも入(い)れろって」
春原(すのはら)「朝(あさ)だけは、そんな僕(ぼく)のささやかな幸(しあわ)せが続(つづ)くと思(おも)ってたんだ…」
朋也(ともや)「つーか、おまえのをくれ」
ぶつぶつと何事(なにごと)か呟(つぶや)き続(つづ)ける春原(すのはら)の手(て)からコーヒーカップを奪(うば)い取(と)る。
ずずー
朋也(ともや)「ん、案外(あんがい)うまいな」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)、てめぇを今(いま)ここで、ぶっ殺(ころ)ーーーーーすっ!!」
朋也(ともや)「まぁまぁ、落(お)ち着(つ)け」
春原(すのはら)「平穏(へいおん)な日々(ひび)をこの手(て)にぃーーっ!」
朋也(ともや)「おまえ、そんな大声(おおごえ)で叫(さけ)んでると、また、ラグビー部(ぶ)の連中(れんちゅう)が…」
声(こえ)「おらぁ、朝(あさ)っぱらからうるせぇのはこの部屋(へや)かぁーーっ!」
どんっっ!
ドアを蹴(け)り開(あ)けて、いかつい男(おとこ)が現(あらわ)れた。
男(おとこ)「どっちだ」
朋也(ともや)「こっち」
俺(おれ)は素早(すばや)く春原(すのはら)を指(さ)さす。
男(おとこ)「ちと付(つ)き合(あ)えや」
春原(すのはら)「ひ、ひいぃっ…」
春原(すのはら)「う…」
うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーっ…
部屋(へや)から引(ひ)きずり出(だ)されていった。
ちゅんちゅん…
小鳥(ことり)のさえずりを聞(き)きながら、ずず、とコーヒーをすする。
ずっと忘(わす)れていたような、静(しず)かな朝(あさ)だった。
春原(すのはら)「イツツ…で、岡崎(おかざき)…今日(きょう)はどうしたって?」
腫(は)れ上(あ)がった頬(ほお)を冷(ひ)えたジュースの缶(かん)で冷(ひ)やしながら、春原(すのはら)は訊(き)いた。
もう言(い)い争(あらそ)う気力(きりょく)も失(う)せているようだ。
朋也(ともや)「別(べつ)に」
春原(すのはら)「学校(がっこう)があったって、こんなに早(はや)く起(お)きないだろ?」
朋也(ともや)「おまえこそ」
春原(すのはら)「いや、僕(ぼく)は早起(はやお)きしたんじゃない。寝(ね)てないだけだ」
春原(すのはら)「ふわ…」
春原(すのはら)「つーか、限界(げんかい)…」
朋也(ともや)「寝(ね)るなら、おまえの分(ぶん)の昼飯(ひるめし)食(く)っていい?」
春原(すのはら)「うーん…」
春原(すのはら)「………」
春原(すのはら)はすでに目(め)を閉(と)じている。
朋也(ともや)「おい、頷(うなず)いてから寝(ね)ろ」
春原(すのはら)「………」
返事(へんじ)はない。
………。
男(おとこ)ふたりがいて静(しず)かだというのも、居心地(いごこち)が悪(わる)いものだった。
朋也(ともや)「………」
でも、ここが俺(おれ)がずっと居(い)た場所(ばしょ)だった。
…あいつに出会(であ)うまで。
家族(かぞく)なんて言葉(ことば)には、嫌(いや)なイメージしかなかった。
それが、今日(きょう)はなんだ。
連休最後(れんきゅうさいご)の休(やす)み…。
それを家族(かぞく)水入(みずい)らずで過(す)ごしてもらうために、俺(おれ)はひとり朝早(あさはや)くに古河(ふるかわ)の家(いえ)を抜(ぬ)け出(で)てきた。
俺(おれ)が他人(たにん)の家族(かぞく)のために気(き)を使(つか)ったのだ。
自分(じぶん)でも、その行動(こうどう)を不思議(ふしぎ)に思(おも)った。
俺(おれ)は渚(なぎさ)と居(い)たかった。
だったら、一緒(いっしょ)にいればよかったのだ。
いつものように利己的(りこてき)に振(ふ)る舞(ま)っていればよかったのだ。
でも、俺(おれ)は薄々(うすうす)と気(ぎ)づき始(はじ)めていた。
俺(おれ)は、渚(なぎさ)だけじゃなく…古河(ふるかわ)の家(いえ)を好(す)きになり始(はじ)めていた。
あんな家族(かぞく)があるなんて、知(し)らなかった。
人間(にんげん)とはみんな利己的(りこてき)で、家族(かぞく)は暗黙(あんもく)の了解(りょうかい)で、そのことに目(め)を瞑(つぶ)りながら、暮(く)らしている。
そう思(おも)っていた。
なのに…
あの家(いえ)に居(い)ると、とても落(お)ち着(つ)いてしまう。
もうどこにも行(い)きたくなくなってしまう。
ああ、滑稽(こっけい)だ。
こんな俺(おれ)が。
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)、何(なに)笑(わら)ってんの」
春原(すのはら)の声(こえ)。
朋也(ともや)「あん?」
春原(すのはら)「なんか、楽(たの)しいことでもあるの?」
春原(すのはら)「教(おし)えろよ、退屈(たいくつ)じゃん」
朋也(ともや)「別(べつ)に、なんもねぇよ」
春原(すのはら)「ちっ…渚(なぎさ)ちゃんに振(ふ)られでもして、泣(な)きにきたのかと思(おも)ってたのにな…」
朋也(ともや)「そんなことあるかよ…」
朋也(ともや)「ただ、逃(に)げてきただけだよ」
朋也(ともや)「家族愛(かぞくあい)に当(あ)てられそうになってな」
春原(すのはら)「家族愛(かぞくあい)?」
朋也(ともや)「ピクニックだってよ。家族(かぞく)でもないのに俺(おれ)もメンバーに入(い)れられてた」
春原(すのはら)「そりゃ渚(なぎさ)ちゃんの彼氏(かれし)だからだろ?」
朋也(ともや)「いや、まだ両親(りょうしん)にはばれてないと思(おも)うけど」
春原(すのはら)「ま、仲(なか)が良(よ)ければ同(おな)じことだろ」
春原(すのはら)「でも、んなことしたら、渚(なぎさ)ちゃん、ショック受(う)けるんじゃないの?」
朋也(ともや)「ちゃんと書(か)き置(お)きしてきたよ。用事(ようじ)できたから、みんなで行(い)ってくれってさ」
春原(すのはら)「だとしても、だよ」
春原(すのはら)「自分(じぶん)のこと避(さ)けてるんじゃないかって、渚(なぎさ)ちゃん、思(おも)うんじゃない?」
朋也(ともや)「そんなの今更(いまさら)だろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)のことはあいつだって、よくわかってるよ」
春原(すのはら)「そうかねぇ…それ、おまえの自惚(うぬぼ)れなんじゃない?」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、おまえのひがみに聞(き)こえるぞ」
春原(すのはら)「いや、違(ちが)うね。渚(なぎさ)ちゃんは、いつだって不安(ふあん)に思(おも)ってるんだよ」
春原(すのはら)「自信(じしん)がないんだよ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)にはそう見(み)えるけどねぇ」
朋也(ともや)「違(ちが)う。俺(おれ)のおかげで、いろんなことに自信(じしん)が持(も)ててきたって、そう言(い)ってくれてるんだぞ」
春原(すのはら)「だからだろ?」
朋也(ともや)「何(なに)が言(い)いたいんだよ…」
春原(すのはら)「いろんなことに自信(じしん)がついてきたのは、おまえのおかげ」
春原(すのはら)「おまえがいてくれるからなんだろ?」
春原(すのはら)「じゃあ、そいつがいなくなったら、どうなるんだよ」
春原(すのはら)「いくら、いろんなことに自信(じしん)がつこうがさ…」
春原(すのはら)「おまえがいつまで自分(じぶん)のことを好(す)きでいてくれるか…」
春原(すのはら)「そのことだけには永遠(えいえん)に自信(じしん)が持(も)てないってことだよ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)にはこれ以上(いじょう)わかりやすい説明(せつめい)は無理(むり)だね」
春原(すのはら)「けど、今(いま)の言(い)いたいことがおまえにわからなかったら、おまえら長(なが)くねぇよ」
朋也(ともや)「………」
春原(すのはら)「ふわ…マジ、限界(げんかい)…」
春原(すのはら)「寝(ね)ていい?」
朋也(ともや)「ああ」
春原(すのはら)はコタツに足(あし)を突(つ)っ込(こ)んだまま、仰向(あおむ)けに倒(たお)れる。
すぐ寝息(ねいき)が聞(き)こえてきた。
俺(おれ)は寮(りょう)を飛(と)び出(だ)していた。
──それでも、朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に居(い)られたら…
──もっと、がんばれる気(き)がしてます。
あれは…
いなくなってしまったら、頑張(がんば)れないと…
俺(おれ)にすがるようにして伝(つた)えた言葉(ことば)だったのだろうか。
渚(なぎさ)らしい…控(ひか)えめな言(い)い方(かた)で。
公園(こうえん)に、ひとりの女(おんな)の子(こ)の姿(すがた)があった。
胸(むね)に手(て)を当(あ)てたまま、不安(ふあん)げな表情(ひょうじょう)できょろきょろと首(くび)を動(うご)かしていた。
俺(おれ)は寄(よ)っていった。
渚(なぎさ)「あ…」
驚(おどろ)いた後(あと)、安堵(あんど)の表情(ひょうじょう)に変(か)わった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、探(さが)してました」
渚(なぎさ)「ピクニックです。今日(きょう)」
渚(なぎさ)「忘(わす)れてましたか」
俺(おれ)は息(いき)を整(ととの)える。
そして、平静(へいせい)を装(よそお)って言(い)った。
朋也(ともや)「急用(きゅうよう)を思(おも)い出(だ)したから、家(いえ)に帰(かえ)るってさ…書(か)き置(お)き、置(お)いてあっただろ」
渚(なぎさ)「いえ…わたし、知(し)らないです」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんが、朋也(ともや)くんを探(さが)してこいって」
ため息(いき)をついて、俺(おれ)は頭(あたま)を垂(た)れた。
朋也(ともや)「ったく…あのオッサンは…」
地面(じめん)に向(む)けてそう呟(つぶや)く。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あのさ…渚(なぎさ)…」
徐々(じょじょ)に顔(かお)を上(あ)げていく。
朋也(ともや)「おまえさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「今(いま)も不安(ふあん)なのか…」
渚(なぎさ)「なにがですか?」
朋也(ともや)「俺(おれ)がおまえのこと、いつか嫌(きら)いになるんじゃないかって…」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「いえ…そんなことないです」
言(い)いよどんだ。
渚(なぎさ)「わたし…嫌(きら)われないようにがんばります」
朋也(ともや)「頑張(がんば)る…?」
朋也(ともや)「頑張(がんば)らなくていいんだよ、そんなこと…」
渚(なぎさ)「どうしてですか」
朋也(ともや)「だって嫌(きら)いになんてならねぇよ」
朋也(ともや)「頑張(がんば)らなくても、今(いま)のおまえのままで…」
渚(なぎさ)「でも、心配(しんぱい)です」
朋也(ともや)「おまえさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が、おまえのこと、どれぐらい好(す)きか知(し)らないだろ」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「おまえもさ…俺(おれ)のこと好(す)きなんだろ?」
渚(なぎさ)「はい、もちろん好(す)きです」
朋也(ともや)「でも、きっとさ…」
朋也(ともや)「それ以上(いじょう)に、俺(おれ)はおまえのこと好(す)きだ」
渚(なぎさ)「それは…本当(ほんとう)ですか」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「もし、それが本当(ほんとう)なら…朋也(ともや)くんは、ものすごいことになってます」
渚(なぎさ)「どきどきして、うれしくて、恥(は)ずかしくて…」
渚(なぎさ)「でも、不安(ふあん)で、心配(しんぱい)で…」
渚(なぎさ)「苦(くる)しくて…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、大変(たいへん)です…」
全部(ぜんぶ)、自分(じぶん)のことだった。
渚(なぎさ)の思(おも)いだ。
自分(じぶん)はこんなにも思(おも)われている。
それは…なんて、幸(しあわ)せなことなんだろう。
世(よ)の中(なか)にひとりでも、俺(おれ)のことが好(す)きで、思(おも)い悩(なや)んでくれる人(ひと)がいる。
離(はな)れていても。ひとりの夜(よる)も。遠(とお)くで思(おも)ってくれている。
自分(じぶん)という存在(そんざい)が、他人(たにん)の中(なか)にある。
それはなんて、頼(たの)もしい支(ささ)えだろう。
それだけで、強(つよ)くいられる。
そして、俺(おれ)も、そいつのことが好(す)きだった。
渚(なぎさ)「でも、そんなわけないです」
朋也(ともや)「信(しん)じろ」
渚(なぎさ)「信(しん)じられないです」
だったら、証明(しょうめい)するしかなかった。
朋也(ともや)「…じゃあ、勝負(しょうぶ)しようか」
渚(なぎさ)「どうやってですか」
朋也(ともや)「手(て)を繋(つな)ぐ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「強(つよ)く握(にぎ)り合(あ)う」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「離(はな)そうとしたほうが負(ま)け」
朋也(ともや)「いいか?」
渚(なぎさ)「はいっ」
大(おお)きく返事(へんじ)して、手(て)を差(さ)し出(だ)す。
俺(おれ)はそれを握(にぎ)った。
休(やす)みの日(ひ)の、公園(こうえん)。
子供連(こどもづ)れの家族(かぞく)、散歩(さんぽ)する年寄(としよ)り…。
徐々(じょじょ)に人(ひと)が増(ふ)えてくる。
その中(なか)、俺(おれ)たちは、手(て)を握(にぎ)り合(あ)ったままでベンチに座(すわ)っていた。
相当(そうとう)、恥(は)ずかしい…。
でも、こうして、ずっと握(にぎ)ってあげていれば…
渚(なぎさ)は自信(じしん)がつくはずだった。
悩(なや)むことも少(すく)なくなるはずだった。
でも…勝負(しょうぶ)なんて、本当(ほんとう)はもうどうでもよかった。
わざわざ気(き)を使(つか)って、渚(なぎさ)の家(いえ)を出(で)た休日(きゅうじつ)。
最初(さいしょ)からこうして一緒(いっしょ)にいればよかったんだ。
やりたいようにする。
そうしていれば良(よ)かったんだ。
渚(なぎさ)「あ」
突然(とつぜん)、渚(なぎさ)が声(こえ)をあげた。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんです」
朋也(ともや)「げ…マジ?」
前方(ぜんぽう)から、オッサンが肩(かた)をいからせて大股(おおまた)でやってくる。
渚(なぎさ)「強敵(きょうてき)です」
渚(なぎさ)が、さらに強(つよ)く俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)る。
秋生(あきお)「なんだよ、てめぇらっ」
秋生(あきお)「いたんなら、呼(よ)びにこいっ。ちっ…もうこんな時間(じかん)じゃねぇか…」
渚(なぎさ)「ごめんなさいです。でも、いろいろとわけがあるんです」
秋生(あきお)「遠出(とおで)はもう無理(むり)か…」
秋生(あきお)「………」
思(おも)いっきり睨(にら)まれる。
朋也(ともや)「い、いや…悪(わる)いとは思(おも)ってる…」
オッサンは俺(おれ)と渚(なぎさ)の腕(うで)をそれぞれ掴(つか)むと…
秋生(あきお)「ふんっ!」
力(ちから)ずくで引(ひ)き離(はな)した。
渚(なぎさ)「あ…」
朋也(ともや)「なにすんだよっ」
すぽっ。代(か)わりに俺(おれ)の手(て)に堅(かた)いものが握(にぎ)らされる。
バットのグリップだった。
秋生(あきお)「てめぇのせいで、ピクニック行(い)けなかったからな」
秋生(あきお)「野球(やきゅう)の相手(あいて)しろ」
朋也(ともや)「野球(やきゅう)?」
秋生(あきお)「よぅし、ガキ共(とも)を集(あつ)めてくるな」
来(き)た時(とき)と同(おな)じように大股(おおまた)で歩(ある)いていった。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんの趣味(しゅみ)です」
朋也(ともや)「ああ…前(まえ)に聞(き)いたよ」
渚(なぎさ)「それで、その…勝負(しょうぶ)のほうは…」
朋也(ともや)「引(ひ)き分(わ)けだ」
渚(なぎさ)「じゃ、同(おな)じぐらいってことですか」
朋也(ともや)「そうだな…」
渚(なぎさ)「なんだか、良(よ)かったです」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「うれしい気持(きも)ちも、苦(くる)しい気持(きも)ちも同(おな)じです」
本当(ほんとう)に、嬉(うれ)しそうに言(い)った。
だから俺(おれ)も、同(おな)じ気持(きも)ちになった。
渚(なぎさ)「…えへへ」
ふたりは今日(きょう)からも、相手(あいて)に負(ま)けないよう努力(どりょく)をし続(つづ)けていくのだろう。
相手(あいて)に好(す)きでいてもらえるように。
それはとてもいい関係(かんけい)のように思(おも)えた。
声(こえ)「おふたりさん、どうぞ」
下(した)のほうから声(こえ)がした。
朋也(ともや)「ぐあ…早苗(さなえ)さん…」
見(み)ると、早苗(さなえ)さんがレジャーシートを引(ひ)いて、その上(うえ)に座(すわ)っていた。
しかも、重箱(じゅうばこ)のような弁当(べんとう)まで用意(ようい)されている…。
朋也(ともや)「ここで、ピクニックすか…」
早苗(さなえ)「はいっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、これ、わたしも手伝(てつだ)いました。ぜひ食(た)べてください」
渚(なぎさ)「卵焼(たまごやき)きは甘(あま)くてよかったですかっ」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
腕(うで)を引(ひ)っ張(ぱ)られて、座(すわ)らされる。
早苗(さなえ)「くつろいでくださいね」
朋也(ともや)「すんげぇ目立(めだ)ってて、落(お)ち着(つ)けないんすけど」
早苗(さなえ)「気(き)になるのは最初(さいしょ)だけです」
朋也(ともや)「そうすか…」
目(め)の前(まえ)に置(お)いたコップにお茶(ちゃ)を注(つ)いでくれる。
遠(とお)くでは、オッサンが、子供(こども)たちとジャンケンを始(はじ)めている。
人手(ひとで)は足(た)りているらしく、一向(いっこう)にお呼(よ)びがかからない。
そもそも野球(やきゅう)は苦手(にがて)だ。
朋也(ともや)(ああ…なんつーか…)
朋也(ともや)(懐(なつ)かしい感(かん)じ…)
こんな低(ひく)い目線(めせん)を忘(わす)れていた。
地面(じめん)に群生(ぐんせい)した雑草(ざっそう)が、敷(し)き詰(つ)められた芝生(しばふ)のように広(ひろ)く見(み)える。
それを踏(ふ)みしめる子供(こども)たちも、大(おお)きく見(み)えた。
手(て)を後(うし)ろについて見上(みあ)げると、空高(そらたか)くに飛行機(ひこうき)の影(かげ)。
朋也(ともや)(ああ、なんか、すごく気持(きも)ちいい)
目(め)を細(ほそ)めてずっと見(み)ていた。
そうしながら俺(おれ)は、いつからか渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)っていた。
渚(なぎさ)「勝負(しょうぶ)の続(つづ)きですか?」
朋也(ともや)「勝負(しょうぶ)もなにも関係(かんけい)ねぇよ…」
そうしたかっただけだ。
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)が身(み)を寄(よ)せてくる。
オッサンが、バッターボックスに入(はい)っていた。
それを早苗(さなえ)さんが、大声(おおごえ)で、応援(おうえん)している。
その後(うし)ろで、俺(おれ)たちは隠(かく)れるように…
初(はじ)めてのキスをした。
深夜(しんや)0時(じ)を回(まわ)り、布団(ふとん)を敷(し)いたところで…
秋生(あきお)「よぅ、まだ起(お)きてるか」
半分開(はんぶんひら)いた戸(と)から、オッサンが顔(かお)を覗(のぞ)かせた。
朋也(ともや)「ああ、これから寝(ね)ようとしてたところだけど」
秋生(あきお)「なら、手伝(てつだ)ってやるから、こい」
朋也(ともや)「あん?」
秋生(あきお)「探(さが)し物(もの)があんだろ」
朋也(ともや)「あ、ああ」
秋生(あきお)「静(しず)かに歩(ある)けよ。渚(なぎさ)に起(お)きられたら、まずいからな…」
朋也(ともや)「ああ…」
秋生(あきお)「見(み)つからなくても、文句(もんく)言(い)うなよ」
朋也(ともや)「言(い)わない。もとから望(のぞ)み薄(うす)だからな」
秋生(あきお)「ちっ…しかし、そんなものを探(さが)そうなんて、わけわからんぞ」
朋也(ともや)「何(なに)を」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)が小(ちい)さい時(とき)に使(つか)ってたオマルだろ」
朋也(ともや)「いや、そんなもの探(さが)してないけど」
秋生(あきお)「おまえ、必死(ひっし)で探(さが)してただろうがっ、オマルを!」
朋也(ともや)「探(さが)してねぇよ!
オマルであって、オマルじゃなかったはずだろっ!」
秋生(あきお)「わけわからんこと言(い)ってんじゃねぇ、オマルはオマルだろうがっ!」
朋也(ともや)「そりゃ、作戦名(コードネーム)、コードネームだろうがっ!」
秋生(あきお)「はぁん?
コードネームだとぅ!?
俺(おれ)を馬鹿(ばか)にしてんのか、小僧(こぞう)っ!」
朋也(ともや)「あんたが付(つ)けたんだよ、オッサン!!」
秋生(あきお)「てめぇ、いい加減(かげん)ブチ切(き)れるぞ、うらあぁぁぁーーっ!」
声(こえ)「もう深夜(しんや)ですから、お静(しず)かにお願(ねが)いしますねーっ」
早苗(さなえ)さんの声(こえ)。
秋生(あきお)「静(しず)かにしろ、馬鹿(ばか)!
渚(なぎさ)が起(お)きるだろっ」
朋也(ともや)「あんたが言(い)うな…」
今(いま)ので起(お)きていなかったら、奇跡(きせき)だ。
今更(いまさら)意味(いみ)のないすり足(あし)で、オッサンは廊下(ろうか)を歩(ある)いていく。
俺(おれ)もその後(あと)に続(つづ)いた。
秋生(あきお)「ふぅ、到着(とうちゃく)」
秋生(あきお)「これより、作戦名(コードネーム):オマルを遂行(すいこう)する!」
自分(じぶん)で付(つ)けたのを思(おも)い出(だ)したようである。
朋也(ともや)「ちなみに、探(さが)すのはオマルじゃねぇぞ」
秋生(あきお)「なんだ」
朋也(ともや)「前(まえ)に話(はな)しただろ。渚(なぎさ)が小(ちい)さい時(とき)に聞(き)かされて、わずかに憶(おも)えてる話(はなし)があるって」
朋也(ともや)「もしかしたら、本(もと)として残(のこ)ってるかもしれないから、それを探(さが)したいんだ」
秋生(あきお)「本(ほん)か…本(ほん)は結構(けっこう)あるぞ。厄介(やっかい)だな」
秋生(あきお)「一万冊(いちまんさつ)はないが、千冊近(せんさつちか)くはあると思(おも)うぞ」
朋也(ともや)「何(なに)が」
秋生(あきお)「エロ本(ほん)」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)には内緒(ないしょ)だぞ、てめぇ」
ふたりで明(あ)け方(がた)近(ちか)くまで探(さが)し続(つづ)けたが、結局(けっきょく)絵本(えほん)の一冊(いっさつ)すら見(み)つけだすことができなかった。
秋生(あきお)「あれだな、おい。邪魔(じゃま)だから、捨(す)てちまったんだ、きっと」
邪魔(じゃま)だから捨(す)てるべきものは、別(べつ)にもっとあると思(おも)うが。
まぁ、実際(じっさい)、絵本(えほん)なんかを大事(だいじ)に取(と)っておく家庭(かてい)は少(すく)ないのかもしれない。
秋生(あきお)「気(き)が済(す)んだか」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「エロ本(ほん)やるから、元気(げんき)だせ」
朋也(ともや)「いらねぇよ…」
秋生(あきお)「ちっ…可愛(かわい)げのない野郎(やろう)だぜ」
秋生(あきお)「とにかく今日(きょう)はもう寝(ね)ようぜ。おまえ、明日(あした)から学校(がっこう)だろ。寝坊(ねぼう)すっぞ」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
仕方(しかた)なく、引(ひ)き上(あ)げることにした。
[/wrap]
hkuczc - 2009/5/18 23:23:00
52楼
昔話(むかしばなし)の類(るい)なら、きっと聞(き)けば思(おも)い当(あ)たるだろう。
----------------
最近在看狼辛的小说...似乎"類"在里面的注释是"たぐい"...
liyucmh - 2009/5/19 0:34:00
强帖要顶,谢谢楼主的奉献精神
seagull - 2009/5/19 13:20:00
我注音的时候发现两个意思都差不多,特别是表示种类和同类的时候,不太清楚怎么区分,就用了一个常用的读音。
この類(たぐい)には関心がない。
この類(るい)の本。
这里确实是類(たぐい),因为5月6日秋生有句话:
秋生(あきお)「もし、あいつが昔(むかし)にそういった類(たぐい)の劇(げき)を見(み)ているとしてもだ」
ps:已更新。谢谢hkuczc的长期关注。
seagull - 2009/5/19 13:21:00
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幻想世界IX

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ずっと、続(つづ)いていた穏(おだ)やかな暮(く)らし。
それは、彼女(かのじょ)とふたりで居(い)れば、ずっと続(つづ)くと思(おも)っていた。
世界(せかい)にはふたりしかいなくても、ずっと続(つづ)いていくと思(おも)っていた。
でも、何(なに)かが変(か)わり始(はじ)めていた。
冬(ふゆ)の到来(とうらい)と共(とも)に。
まるで冬(ふゆ)が…彼女(かのじょ)の体力(たいりょく)を奪(うば)っていくようだった。
気温(きおん)が下(さ)がると共(とも)に、彼女(かのじょ)は眠(ねむ)ることが多(おお)くなった。
ずっと、元気(げんき)にふたりで遊(あそ)んでいたのに。
遠(とお)くには、とても不吉(ふきつ)な雲(くも)が広(ひろ)がっていた。
…雪雲(ゆきぐも)だ。
僕(ぼく)は、決心(けっしん)する時(とき)だと思(おも)った。
今(いま)、そうしなければ、すべてが手遅(ておく)れになってしまう。
今(いま)なら、まだ間(ま)に合(あ)う気(き)がした。
冬(ふゆ)がやってきてしまえば、何(なに)もかもが雪(ゆき)に埋(う)もれてしまう。
そうなる前(まえ)に。
小屋(こや)に戻(もど)ると、彼女(かのじょ)は壁(かべ)にもたれて座(すわ)って、ぼーっと窓(まど)の外(そと)を見(み)ていた。
僕(ぼく)はそれが気(き)がかりだった。
寒(さむ)さのせいだろうか。
僕(ぼく)は近(ちか)づいていって、窓(まど)の外(そと)を指(さ)さした。
彼女(かのじょ)の見(み)ている先(さき)よりも、もっと遠(とお)く。空(そら)の果(は)てを。
…ん?
彼女(かのじょ)が気(き)づいて、僕(ぼく)を見(み)る。
…あそこがどうしたの?
僕(ぼく)は指(さ)さし続(つづ)けた。
…いきたいの?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
…でも、冬(ふゆ)がくるよ。
僕(ぼく)はじっと彼女(かのじょ)の顔(かお)を見(み)続(つづ)けた。
…それでも?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
…これ以上(いじょう)、寒(さむ)くなったら、わたしは動(うご)けなくなるよ…
だったら、なおさら。
…それにね、この家(いえ)を離(はな)れたら、帰(かえ)ってこれなくなるよ…
………。
…それでも?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
…あの先(さき)には何(なに)があるの?
僕(ぼく)はぴょんぴょんと飛(と)び跳(は)ねる。
…楽(たの)しいところ?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
…いろんなものがあって…
…毎日(まいにち)が楽(たの)しくて…
…温(あたた)かな場所(ばしょ)…?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
…でも、もう間(ま)に合(あ)わないよ…
…冬(ふゆ)の雲(くも)に追(お)いつかれるよ…
僕(ぼく)は記憶(きおく)を辿(たど)る。
深(ふか)い淀(よど)みの中(なか)の記憶(きおく)を。
空(そら)だ。
空(そら)をいくんだ。
僕(ぼく)は手(て)を空(そら)に向(む)けて、滑(なめ)らせた。
…空(そら)を…いくの?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
…どうやって?
手(て)と手(て)を合(あ)わせる。
…作(つく)るの?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
…空(そら)を飛(と)んでいける…のりものを?
こくん。僕(ぼく)は大(おお)きく頷(うなず)く。
今(いま)、確(たし)かに僕(ぼく)の心(こころ)の中(なか)にある形(かたち)。
それが彼女(かのじょ)に伝(つた)わっているだろうか。
………。
彼女(かのじょ)はまた、少(すこ)しぼーっとした後(あと)…
こくん。小(ちい)さく頷(うなず)いた。
その日(ひ)から、僕(ぼく)らは、空(そら)を飛(と)ぶ乗(の)り物(もの)を作(つく)り始(はじ)めた。
僕(ぼく)がガラクタを集(あつ)めて、彼女(かのじょ)が組(く)み上(あ)げていく。
空(そら)はどんどん、曇(くも)っていく。
僕(ぼく)は組(く)み上(あ)げられていく山(やま)を見上(みあ)げる。
そこに生(は)える大(おお)きな翼(つばさ)を、僕(ぼく)は思(おも)い描(えが)いた。
冬(ふゆ)が来(く)る前(まえ)にどうか…。
その翼(つばさ)で、飛(と)べますように。
白(しろ)い息(いき)を吐(つ)く彼女(かのじょ)。
目(め)をこする。
…少(すこ)し、眠(ねむ)い。
僕(ぼく)は心配(しんぱい)げに彼女(かのじょ)を見上(みあ)げた。
…ごめんね、続(つづ)けよう。
彼女(かのじょ)は頑張(がんば)り続(つづ)けた。
彼女(かのじょ)もわかっていたのかもしれない。
今(いま)、やらないとダメだということを。
彼女(かのじょ)も自分(じぶん)で言(い)っていた。
冬(ふゆ)が来(く)れば、動(うご)けなくなってしまうと。
それがどういうことを指(さ)すのか、よくわからなかった。
でも、きっと、どうしようもなくなってしまうんだ。
だから、休(やす)みなく、作業(さぎょう)を続(つづ)けた。
僕(ぼく)も、ガラクタを彼女(かのじょ)の元(もと)に運(はこ)び続(つづ)けた。
そして、次(つぎ)、彼女(かのじょ)を見(み)た時(とき)。
冷(つめ)たい地面(じめん)に、その体(からだ)を横(よこ)たえていた。
[/wrap]
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