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seagull - 2009/5/19 13:23:00
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5月6日()

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渚(なぎさ)「それでは、いってきます」
朋也(ともや)「いってきます」
早苗(さなえ)「はい、仲良(なかよ)くいってらっしゃい」
秋生(あきお)「気(き)ぃ付(つ)けていけよ」
ふたりに見送(みおく)られ、家(いえ)を出(で)る。
なんだか、小学生(しょうがくせい)の兄妹(あにいもうと)のような見送(みおく)られ方(かた)だった。
いや、兄妹(あにいもうと)じゃなくて…姉弟(してい)なのか…。
違和感(いわかん)バリバリだが。
渚(なぎさ)「ああ、もう一週間(いっしゅうかん)もないです。次(つぎ)の日曜(にちよう)には、発表会(はっぴょうかい)です」
朋也(ともや)「あんまり焦(あせ)るな。台本(だいほん)もできたじゃないか」
渚(なぎさ)「はい。でも、ちゃんとセリフを覚(おぼ)えなくてはダメです」
朋也(ともや)「でも、覚(おぼ)えるだけじゃ駄目(だめ)だぞ」
渚(なぎさ)「はい、わかってます。演(えん)じなくてはなりません」
渚(なぎさ)「演(えん)じること、それは、役(やく)になりきることです」
渚(なぎさ)「とても大変(たいへん)なことですが、その人物(じんぶつ)になりきって演(えん)じてみたいと思(おも)います」
見(み)ろ。そこらへんにいる素人(しろうと)を連(つ)れてきたほうがマシだと思(おも)えたあの渚(なぎさ)が、こんなにも演劇部員(えんげきぶいん)らしくなっている。
今(いま)はもう、やる気(き)のある素人(しろうと)並(な)みだ。胸(むね)を張(は)ってそう言(い)える。
昼休(ひるやす)みは、部室(ぶしつ)で演劇部(えんげきぶ)のミーティング。
朋也(ともや)「それで…俺(おれ)たちは何(なに)をすればいい」
朋也(ともや)「そろそろ役割分担(やくわりぶんたん)してもらわなくちゃ、準備(じゅんび)もできないぞ」
渚(なぎさ)「はい、そうですね」
渚(なぎさ)「でも…後(あと)、何(なに)が必要(ひつよう)なのでしょうか」
朋也(ともや)「おまえな…」
朋也(ともや)「音楽(おんがく)とか、効果音(こうかおん)とか、照明(しょうめい)とか、たっくさんあるだろう?」
朋也(ともや)「それぐらい俺(おれ)でもわかるぞ」
渚(なぎさ)「すみません。わたし、本当(ほんとう)全然知(ぜんぜんし)らなくて…」
春原(すのはら)「音楽(おんがく)って?
僕(ぼく)、ピアノなんて弾(ひ)けないけど」
朋也(ともや)「いや、生(なま)でなくていいだろ」
春原(すのはら)「効果音(こうかおん)は?
爆竹(ばくちく)とかでいいの?」
朋也(ともや)「そんなアクションシーンはないだろ」
春原(すのはら)「照明(しょうめい)って?
体育館(たいいくかん)の照明(しょうめい)のスイッチをパチパチ切(き)り替(か)えるだけでいいの?」
朋也(ともや)「簡単(かんたん)な照明(しょうめい)だな、おい」
春原(すのはら)「おまえねっ、さっきから文句(もんく)ばっかり言(い)いやがって、どうしろって言(い)うんだよ!」
朋也(ともや)「知(し)るか、俺(おれ)だって素人(しろうと)だ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)だって、素人(しろうと)だっ」
渚(なぎさ)「あの、わたしも素人(しろうと)です」
こんな奴(やつ)らが演劇部(えんげきぶ)。
渚(なぎさ)「どうしましょう…」
朋也(ともや)「ちっ…いくぞ」
渚(なぎさ)「どこへですか?」
朋也(ともや)「職員室(しょくいんしつ)だ。こんな時(とき)のための顧問(こもん)だろ」
渚(なぎさ)「あ、そうですっ」
渚(なぎさ)「幸村先生(こうむらせんせい)がいました」
幸村(こうむら)「うむ…」
幸村(こうむら)「そうだの…いろいろといる」
春原(すのはら)「相変(あいか)わらず、とろいしゃべり方(かた)だな、この人(ひと)は」
渚(なぎさ)「ゆっくり聞(き)きましょう、春原(すのはら)さん」
幸村(こうむら)「大切(たいせつ)なのはみっつ…」
幸村(こうむら)「美術(びじゅつ)、音響(おんきょう)と、照明(しょうめい)…だの」
幸村(こうむら)「美術(びじゅつ)は、衣装(いしょう)や、舞台道具(ぶたいどうぐ)を用意(ようい)する」
幸村(こうむら)「音響(おんきょう)は…あらかじめテープに編集(へんしゅう)しておいた背景音楽(はいけいおんがく)や効果音(こうかおん)を流(なが)す」
幸村(こうむら)「照明(しょうめい)は…数種類(すうしゅるい)のライトを使(つか)い分(わ)け、舞台(ぶたい)を効果的(こうかてき)に照(て)らし出(だ)す」
幸村(こうむら)「もし、三人(さんにん)しかいないというのであれば…」
幸村(こうむら)「美術(びじゅつ)は先(さき)に用意(ようい)し…」
幸村(こうむら)「残(のこ)りを役者(やくしゃ)と音響(おんきょう)と照明(しょうめい)に振(ふ)り分(わ)けるのがよかろう…」
渚(なぎさ)「わかりました。では、そうします」
渚(なぎさ)「ありがとうございました」
幸村(こうむら)「そうそう…」
幸村(こうむら)「…今週(こんしゅう)は演劇部(えんげきぶ)、合唱部(がっしょうぶ)…どちらの番(ばん)だったかの」
渚(なぎさ)「今週(こんしゅう)は演劇部(えんげきぶ)です」
渚(なぎさ)「そして今日(きょう)は演劇部(えんげきぶ)の活動(かつどう)、初日(しょにち)です」
嬉(うれ)しそうに胸(むね)を張(は)って言(い)った。
幸村(こうむら)「うむ…では、放課後(ほうかご)」
渚(なぎさ)「はい。よろしくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「やっぱり、音響(おんきょう)と照明(しょうめい)なんだな、必要(ひつよう)なのは」
春原(すのはら)「どっちが、どっちをする」
朋也(ともや)「おまえ、照明(しょうめい)っぽいよな」
春原(すのはら)「どういう意味(いみ)だよっ」
朋也(ともや)「こう、オンオフ、オンオフを繰(く)り返(かえ)すだけって単純(たんじゅん)さが合(あ)ってると思(おも)って」
春原(すのはら)「じゃ、おまえも照明(しょうめい)じゃないかよっ」
朋也(ともや)「俺(おれ)は繊細(せんさい)だからな。音響向(おんきょうむ)きだ」
朋也(ともや)「それでいいよな、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい、構(かま)いません。それでお願(ねが)いします」
放課後(ほうかご)もまた、部室(ぶしつ)に集(あつ)まっていた。
そこには、顧問(こもん)である幸村(こうむら)の姿(すがた)もあった。
春原(すのはら)「こんなに種類(しゅるい)、あるのかよ…」
目(め)の前(まえ)には、蓋(ふた)を開(あ)けたダンボールの数々(かずかず)。中(なか)には、照明器具(しょうめいきぐ)が詰(つ)まっていた。
春原(すのはら)「こりゃオンオフだけの単純(たんじゅん)な問題(もんだい)じゃないぞ…」
幸村(こうむら)「どれだけ大変(たいへん)かは劇(げき)による…」
幸村(こうむら)「そんな展開(てんかい)の早(はや)い劇(げき)をやるつもりかな…」
渚(なぎさ)「いえ、ゆっくりと進(すす)むお話(はなし)です。とてもなだらかです」
朋也(ともや)「ああ、なんの起伏(きふく)もない。クライマックスすらない」
幸村(こうむら)「ふむ…なら、簡単(かんたん)だろうて」
春原(すのはら)「なんかつまんねぇな…。ピカピカ光(ひか)らせてさ、ディスコみたくフィーバーしようぜ」
朋也(ともや)「おまえ、すげぇダサいからな」
朋也(ともや)「で、音響(おんきょう)なんだが、ジィさん。どうすりゃいいんだ」
幸村(こうむら)「効果音(こうかおん)は、その鍵盤(けんばん)で鳴(な)らすがよい」
春原(すのはら)「おっ、シンセサイザーじゃんっ。んなのがあんのかよっ」
それをダンボールの中(なか)から引(ひ)っ張(ぱ)り出(だ)してきて、コンセントを繋(つな)いで電源(でんげん)を入(い)れてみる。
春原(すのはら)「鍵盤(けんばん)ごとにテープが貼(は)ってあるじゃん。『戦慄(せんりつ)』…ってなんだ?」
春原(すのはら)「押(お)してみよ」
春原(すのはら)が勝手(かって)に鍵盤(けんばん)を叩(たた)く。すると、効果音(こうかおん)が鳴(な)った。
春原(すのはら)「うお…びっくりした…いい音(おと)出(だ)すじゃんっ」
春原(すのはら)「へへ、おもしろそっ」
朋也(ともや)「おまえ、照明(しょうめい)だからな」
春原(すのはら)「いいじゃん、いいじゃん、ちょっと触(さわ)らせてよっ」
春原(すのはら)「お、おい、岡崎(おかざき)っ」
朋也(ともや)「なんだよ」
春原(すのはら)「おまえの後(うし)ろに…」
春原(すのはら)「藤林杏(ふじばやしきょう)があぁぁぁぁぁーーーーっ!」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)殴(なぐ)られるからな…」
春原(すのはら)「他(ほか)には…そうだな」
春原(すのはら)「み、美佐枝(みさえ)さんが…」
春原(すのはら)「おっぱい丸出(まるだ)しで歩(ある)いてるうぅぅーーーーーっ!?」
朋也(ともや)「それも絶対(ぜったい)蹴(け)られるからな」
春原(すのはら)「後(あと)は…そうだなぁ…」
春原(すのはら)「え?
渚(なぎさ)ちゃん、なに?」
春原(すのはら)「えぇっ!?」
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)より、僕(ぼく)のほうが好(す)きになっちゃったってぇーーっ!?」
朋也(ともや)「ありえないからな…」
春原(すのはら)「そ、そうか…わかったよ…」
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)には内緒(ないしょ)で駆(か)け落(お)ちして…ふたりで暮(く)らそう…」
春原(すのはら)「手(て)を取(と)り合(あ)って、暗(くら)い森(もり)の中(なか)を進(すす)むふたり…」
春原(すのはら)「はぁ…はぁ…」
春原(すのはら)「背後(はいご)から、迫(せま)り来(く)る何(なに)か…」
春原(すのはら)「振(ふ)り返(かえ)ると、そこには…」
春原(すのはら)「怒(いか)り狂(くる)った岡崎(おかざき)がああぁぁーーーっ!」
ゲシッ!
朋也(ともや)「俺(おれ)は化(ば)け物(もの)かっ!」
蹴飛(けと)ばしておく。
朋也(ともや)「ていうか、おまえの劇(げき)、こんな効果音(こうかおん)、使(つか)わないだろ…」
渚(なぎさ)「あ、はい。音楽(おんがく)だけでいいかもしれないです」
朋也(ともや)「じゃ、そうしようぜ」
春原(すのはら)「ええぇぇーーーーーーっ!」
朋也(ともや)「うるさいからな…」
春原(すのはら)「うおおぉぉぉぉーーーーっ!」
ゲシッ!
朋也(ともや)「で、曲(きょく)のほうだが、どうすりゃいい」
幸村(こうむら)「ふむ…」
幸村(こうむら)「音楽(おんがく)はたくさん聴(き)くかの」
朋也(ともや)「いや、悪(わる)いが、ほとんど聴(き)かない」
幸村(こうむら)「ふむ…だとしたら…」
幸村(こうむら)「音楽室(おんがくしつ)にある教材(きょうざい)のレコードから、場面(ばめん)に合(あ)った音楽(おんがく)を探(さが)すのがよかろう…」
春原(すのはら)「それってクラシックや音楽(おんがく)の教科書(きょうかしょ)に載(の)ってる音楽(おんがく)じゃないの?」
春原(すのはら)が口(くち)を挟(はさ)む。
幸村(こうむら)「ふむ…それ以外(いがい)はなかろうな」
春原(すのはら)「だっせーの。もっとこう、ボンバヘッ!てな感(かん)じの音楽(おんがく)がノリノリでいいのにさ」
朋也(ともや)「そのほうが、ダサいからな」
春原(すのはら)「おまえ、ボンバヘッ!を馬鹿(ばか)にすんのかよっ!」
朋也(ともや)「いいから、おまえ、この照明(しょうめい)、体育館(たいいくかん)まで移動(いどう)させておけよ」
春原(すのはら)「あん?
おまえは」
朋也(ともや)「俺(おれ)と渚(なぎさ)は音楽室(おんがくしつ)へいく」
渚(なぎさ)「春原(すのはら)さん、ひとりで大丈夫(だいじょうぶ)でしょうか」
朋也(ともや)「バスケん時(とき)に見(み)たろ。あいつ、体(からだ)だけは丈夫(じょうぶ)なんだ。力仕事(ちからしごと)は任(まか)せておけ」
俺(おれ)たちは階段(かいだん)を上(のぼ)り、廊下(ろうか)の突(つ)き当(あ)たりにある音楽室(おんがくしつ)に入(はい)る。
朋也(ともや)「そもそも、イメージに合(あ)う音楽(おんがく)って、どんなのなんだよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)にはそれすらわからないぞ」
渚(なぎさ)「わたしにもわからないです。聴(き)いてみないと」
朋也(ともや)「聴(き)くって、ここにあるレコード全部(ぜんぶ)聴(き)いて探(さが)すのか?」
音楽室(おんがくしつ)の奥(おく)にはさらに小部屋(こべや)があって、そこを覗(のぞ)くと、気(き)が遠(とお)くなるような数(かず)のレコード盤(ばん)を確認(かくにん)することができた。
朋也(ともや)「何日(なんにち)かかるんだよ、一体(いったい)…」
声(こえ)「こんにちは、おふたりさん」
入(い)り口(ぐち)のほうから声(こえ)が聞(き)こえてきた。
振(ふ)り返(かえ)ると、そこに仁科(にしな)と杉坂(すぎさか)が立(た)っていた。
朋也(ともや)「よぅ」
渚(なぎさ)「こんにちは、仁科(にしな)さん、杉坂(すぎさか)さん」
杉坂(すぎさか)「今(いま)、幸村先生(こうむらせんせい)に言(い)われて、駆(か)けつけたんです」
杉坂(すぎさか)「劇(げき)に使(つか)う曲(きょく)をお探(さが)しとか」
渚(なぎさ)「はい。そうなんです」
渚(なぎさ)「けど…レコードが多(おお)すぎて、どうしていいかわからないんです」
杉坂(すぎさか)「それなら、お手伝(てつだ)いできそうです」
杉坂(すぎさか)「りえちゃん、ほとんどのクラシックは知(し)っていますから」
杉坂(すぎさか)「ねぇ、りえちゃん」
仁科(にしな)「はい。任(まか)せておいて下(くだ)さい」
仁科(にしな)「どんな曲調(きょくちょう)のをお探(さが)しですか?」
朋也(ともや)「おまえ、ストーリーを教(おし)えたほうが早(はや)いんじゃないのか」
渚(なぎさ)「そうですね。お話(はな)ししたいです。聞(き)いていただけますか」
仁科(にしな)「はい、もちろんです」
渚(なぎさ)「というわけで、女(おんな)の子(こ)は寂(さび)しくなくなりました」
渚(なぎさ)「おしまいです」
仁科(にしな)「………」
仁科(にしな)「えっと…」
渚(なぎさ)は、本当(ほんとう)にストーリーを聞(き)かせただけだった。
仁科(にしな)「その…どんな世界(せかい)なんでしょう、そこは」
だから、仁科(にしな)は困(こま)った様子(ようす)でそう訊(き)いた。
渚(なぎさ)「世界(せかい)、と言(い)いますと、どんな木(き)が生(は)えて、どんな果物(くだもの)がなる、とかそういうことでしょうか?」
朋也(ともや)「おまえな、地理(ちり)の授業(じゅぎょう)じゃねぇんだから、もっとわかりやすく表現(ひょうげん)する何(なに)かがあるだろ?」
渚(なぎさ)「何(なに)かって…その世界(せかい)には女(おんな)の子(こ)しかいないんです」
朋也(ともや)「いや、そういう意味(いみ)じゃなくて、その世界(せかい)は洋風(ようふう)なのか、和風(わふう)なのか、とかさ」
朋也(ともや)「要(よう)は世界観(せかいかん)だよ」
渚(なぎさ)「小屋(こや)がひとつ、ぽつんとあって、外(そと)はずっと何(なに)もない大地(だいち)が続(つづ)いてます」
仁科(にしな)「うーん…」
仁科(にしな)は考(かんが)え込(こ)む。あまりに特徴(とくちょう)に乏(とぼ)しい世界(せかい)で、曲(きょく)のイメージが湧(わ)かないのだ。
朋也(ともや)「小屋(こや)はどんなだ。中(なか)には何(なに)がある」
渚(なぎさ)「小屋(こや)の中(なか)には、机(つくえ)があります」
朋也(ともや)「そりゃ、あるだろうな。どんなだよ」
渚(なぎさ)「普通(ふつう)の机(つくえ)です。そこでお茶(ちゃ)を飲(の)むと落(お)ち着(つ)きそうです」
その場(ば)にいた渚(なぎさ)以外(いがい)全員(ぜんいん)が、顔(かお)をしかめた。
朋也(ともや)「他(ほか)には」
渚(なぎさ)「他(ほか)には何(なに)もないです」
朋也(ともや)「おまえ、それでどうして、その話(はなし)を幻想物語(げんそうものがたり)なんて呼(よ)べたんだよ。ぜんぜん幻想的(げんそうてき)じゃないじゃないか」
渚(なぎさ)「でも、幻想的(げんそうてき)な世界(せかい)なんです…」
朋也(ともや)「だから、どこが」
渚(なぎさ)「雰囲気(ふんいき)です」
朋也(ともや)「伝(つた)わらねぇよ、それじゃ…」
朋也(ともや)「ストーリーも、子供向(こどもむ)けの童話(どうわ)みたいで、ぜんぜん悲(かな)しくないし…」
渚(なぎさ)「とっても悲(かな)しいんです」
朋也(ともや)「どこが」
渚(なぎさ)「それは…」
仁科(にしな)「世界(せかい)にたったひとり残(のこ)された女(おんな)の子(こ)のお話(はなし)だから」
仁科(にしな)が答(こた)えていた。
渚(なぎさ)「はい、そうです」
仁科(にしな)「なんとなくわかってきました」
仁科(にしな)「その子(こ)の気持(きも)ちになってみればいいんです」
仁科(にしな)「家(いえ)や学校(がっこう)で、ひとりじゃないんです」
仁科(にしな)「世界(せかい)でひとりきりなんです」
仁科(にしな)「それはとても、悲(かな)しいことですよね」
渚(なぎさ)「はい、とても悲(かな)しいことです」
杉坂(すぎさか)「どんな曲(ま)が合(あ)いそう?」
仁科(にしな)「音楽(おんがく)も、もの悲(かな)しくあるべきです」
仁科(にしな)「使(つか)う曲(きょく)は一曲(いっきょく)だけでいいと思(おも)います」
仁科(にしな)「とても悲(かな)しいピアノ曲(きょく)を一曲(いっきょく)だけ」
仁科(にしな)「それをテーマとして、要所(ようしょ)で流(なが)して、後(あと)は無音(ぶおん)です」
朋也(ともや)「こいつ、俺(おれ)より音響係然(おんきょうかかりぜん)としてるんだけど」
杉坂(すぎさか)「曲(きょく)はどうするの?」
仁科(にしな)「うん…ラヴェルの作品(さくひん)の中(なか)から、いかがでしょう」
さっぱりわからない。
朋也(ともや)「まぁ、おまえのセンスを信(しん)じるよ」
仁科(にしな)「わかりました。それでは少(すこ)し時間(じかん)を下(くだ)さい。合(あ)ったものを探(さが)してみますので」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、それでいいか?」
渚(なぎさ)「はい。よろしくお願(ねが)いします」
深々(ふかぶか)と頭(あたま)を下(さ)げた。
渚(なぎさ)「後(あと)は、衣装(いしょう)が必要(ひつよう)です」
朋也(ともや)「ああ、そうだったな」
それも幸村(こうむら)に言(い)われるまで気(き)づかなかったことだった。
朋也(ともや)「どうするんだ?」
渚(なぎさ)「はい、それは、自分(じぶん)の手(て)で作(つく)ります」
朋也(ともや)「そんなことできるのか?」
渚(なぎさ)「家庭(かてい)の授業(じゅぎょう)で教(おそ)わっただけですけど…」
渚(なぎさ)「それでもがんばれば、できるんじゃないかと…そう思(おも)います」
朋也(ともや)「前向(まえむ)きなのはいいけどさ…」
朋也(ともや)「あんまり自分(じぶん)ひとりで抱(かか)え込(こ)みすぎるなよ」
朋也(ともや)「家(いえ)だったら、俺(おれ)だって暇(ひま)なんだしさ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「でも、こんなこと男(おとこ)の子(こ)に頼(たの)めないです」
朋也(ともや)「そりゃ、そうだろうけどさ…」
早苗(さなえ)「任(まか)しておいてくださいっ」
早苗(さなえ)さんなら、間違(まちが)いなくそう答(こた)えてくれると思(おも)っていた。
帰宅後(きたくご)、早苗(さなえ)さんに相談(そうだん)してみることを、俺(おれ)は渚(なぎさ)に薦(すす)めてみたのだ。
渚(なぎさ)「え…お母(かあ)さん、忙(いそが)しいです」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。仕事(しごと)の合間(あいま)を見(み)て、ちょっとずつやりますから」
渚(なぎさ)「でも、時間(じかん)もそんなにないです」
朋也(ともや)「それは、おまえも同(おな)じだろ」
朋也(ともや)「それにおまえは、演劇(えんげき)の練習(れんしゅう)のほうが大事(だいじ)だ。衣装作(いしょうつく)りに時間(じかん)をとられてたら、元(もと)も子(こ)もないじゃないか」
朋也(ともや)「違(ちが)うか?」
早苗(さなえ)「そうですよ、渚(なぎさ)」
早苗(さなえ)「協力(きょうりょく)させてください」
渚(なぎさ)「それでは…お言葉(ことば)に甘(あま)えさせていただきます」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さん、よろしくお願(ねが)いします」
渚(なぎさ)はまた頭(あたま)を下(さ)げた。
早苗(さなえ)「はいっ」
こうして、いろんな人(ひと)が動(うご)き始(はじ)めた。
ささやかな夢(ゆめ)を叶(かな)えようと頑張(がんば)ってきた渚(なぎさ)のために。
秋生(あきお)「おぅ、おかえり。俺様(おれさま)の素晴(すば)らしい遺伝子(いでんし)を受(う)け継(つ)ぎし娘(むすめ)と、どっかの馬(うま)の骨(ほね)」
渚(なぎさ)「ただいまです」
朋也(ともや)「ただいま…」
秋生(あきお)「いいものを借(か)りてきてやったぞ。ほら、受(う)け取(と)れ」
オッサンが差(さ)し出(だ)すのは一本(いっぽん)のビデオテープだった。
渚(なぎさ)「なんでしょうか」
秋生(あきお)「演劇(えんげき)を録(と)ったビデオだ。参考(さんこう)になるだろ」
渚(なぎさ)「はい。わたし、演劇(えんげき)見(み)たことないですから、助(たす)かります」
演劇部(えんげきぶ)、部長(ぶちょう)の爆弾発言(ばくだんはつげん)Part2。
秋生(あきお)「そうか、そりゃあ、いいタイミングだったなぁ」
2、3年(ねん)は遅(おそ)かったと思(おも)う。
渚(なぎさ)「ありがとうございます。早速(さっそく)見(み)ます」
秋生(あきお)「よしよし」
秋生(あきお)「おい、小僧(こぞう)、てめぇには何(なに)もない。物欲(ものほ)しそうなツラで立(た)ってんじゃねぇ」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に見(み)ましょう、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「いいのか、ひとりで見(み)なくても」
渚(なぎさ)「ふたりで見(み)たほうがきっと楽(たの)しいです」
渚(なぎさ)「それに朋也(ともや)くんにも研究(けんきゅう)してほしいです。それで、わたしの演技(えんぎ)のダメなところ、指摘(してき)してほしいです」
秋生(あきお)「誉(ほ)めまくれよ、てめぇ」
朋也(ともや)「聞(き)こえてるぞ、本人(ほんにん)に」
渚(なぎさ)「そうですっ、お世辞(せじ)なんて言(い)ってほしくないです。厳(きび)しくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)だ。俺(おれ)はお世辞(せじ)なんて言(い)わねぇよ」
渚(なぎさ)「そうです。朋也(ともや)くん、ハッキリ言(い)ってくれます。すごく勉強(べんきょう)になります」
秋生(あきお)「てめぇ、何様(なにさま)だよ。人(ひと)に意見(いけん)するほど偉(えら)ぇのかよ」
秋生(あきお)「まだ満足(まんぞく)にアレも生(は)えそろってねぇ、ガキのくせによ」
この人(ひと)のアレは何本(なんほん)生(は)えてるのだろう。
渚(なぎさ)「いきましょう、朋也(ともや)くん」
秋生(あきお)「おう、勉強(べんきょう)してきやがれ」
ブラウン管(かん)に映(うつ)し出(だ)された映像(えいぞう)。
それは、まさしく人(ひと)の心(こころ)を揺(ゆ)さぶる劇(げき)だった。
ドラマや、映画以上(えいがいじょう)に、オーバーアクションで、体当(たいあ)たりな演技(えんぎ)。
それが言葉(ことば)では表(あらわ)しきれない思(おも)いを伝(つた)えていた。
もし、生(なま)で見(み)ていたなら、その圧倒的(あっとうてき)な思(おも)いに打(う)ちのめされていただろう。
俺(おれ)も、しっかりと演劇(えんげき)を見(み)たことはなかったから、それは衝撃的(しょうげきてき)な体験(たいけん)だった。
そんなふうに夢中(むちゅう)になっていたため、一緒(いっしょ)に見(み)ていた渚(なぎさ)の存在(そんざい)を忘(わす)れていた。
隣(となり)を見(み)てみる。
渚(なぎさ)「ぐすっ…」
…大泣(だいな)きしていた。
朋也(ともや)「おい、泣(な)いてたら研究(けんきゅう)にならねぇぞ」
渚(なぎさ)「は、はい」
俺(おれ)が渡(わた)したティッシュで涙(なみだ)を拭(ふ)く。
渚(なぎさ)「でも、ものすごく感動(かんどう)してしまったんです」
渚(なぎさ)「なんだか、すごく懐(なつ)かしくて」
朋也(ともや)「おまえ、初(はじ)めて見(み)たんだろ」
渚(なぎさ)「そのはずですけど…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「でも、演劇(えんげき)って、こんなにすごいものだったんですね…」
渚(なぎさ)「わたしのなんか、これに比(くら)べたら…ままごとみたいなものです」
朋也(ともや)「ああ、俺(おれ)もそう思(おも)った」
渚(なぎさ)「そ、そうですよね…」
朋也(ともや)「でも、いいんじゃねぇの」
朋也(ともや)「ままごとだってさ、真剣(しんけん)にやれば、それは演劇(えんげき)だろ。観客(かんきゃく)がいるかいないかの違(ちが)いだけだ」
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)「そうですね…そうかもしれないです」
朋也(ともや)「ああ、だから頑張(がんば)っていこうぜ」
俺(おれ)はリモコンの巻(ま)き戻(もど)しボタンを押(お)した。
晩御飯(ばんごはん)を食(た)べてからも、繰(く)り返(かえ)し、何度(なんど)も見(み)た。
朋也(ともや)「ふわ…俺(おれ)、眠(ねむ)いよ…」
そういえば、昨晩(さくばん)はほとんど寝(ね)ていなかったことを思(おも)い出(だ)す。
渚(なぎさ)「はい、おやすみなさいです」
朋也(ともや)「まだ、見(み)てるのか、おまえ」
渚(なぎさ)「はい。もう少(すこ)しで何(なに)か、ヒントが掴(つか)めそうな気(き)がするんです」
朋也(ともや)「そうか。でも、ほどほどにしとけよ」
渚(なぎさ)「はい。寝不足(ねぶそく)にはならないよう、ほどほどにします」
朋也(ともや)「ああ。じゃあな、おやすみ」
俺(おれ)は退散(たいさん)を決(き)め込(こ)む。
部屋(へや)を出(で)ると、オッサンも自分(じぶん)の部屋(べや)から出(で)てきたところだった。
秋生(あきお)「ちっ、なんだ、こんな夜遅(よるおそ)くまで渚(なぎさ)とラブラブか」
秋生(あきお)「あいつは俺(おれ)のあそこのあれがああなって、生(う)まれてきたんだぞ」
秋生(あきお)「そう考(かんが)えると、どうだ、気色悪(きしょくわる)いだろう」
相変(あいか)わらず何(なに)を言(い)いたいのか、さっぱりわからない。
朋也(ともや)「そういや、オッサン」
秋生(あきお)「なんだ、小僧(こぞう)」
朋也(ともや)「もしかしたら、演劇(えんげき)かもしれない」
秋生(あきお)「何(なに)が」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)がわずかに憶(おも)えていた話(はなし)だよ」
秋生(あきお)「どうして、そう思(おも)う」
朋也(ともや)「ビデオを見(み)て、懐(なつ)かしいと言(い)っていた」
秋生(あきお)「そうか…もう一度(いちど)、話(はなし)の内容(ないよう)を言(い)ってみろ」
俺(おれ)は今(いま)から渚(なぎさ)が演(えん)じようとしている劇(げき)の内容(ないよう)を話(はな)した。
秋生(あきお)「ふん…」
秋生(あきお)「ずばり言(い)おう、小僧(こぞう)」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「それはきっと、演劇(えんげき)じゃねぇよ」
朋也(ともや)「どうして、わかる」
秋生(あきお)「もし、あいつが昔(むかし)にそういった類(たぐい)の劇(げき)を見(み)ているとしてもだ」
秋生(あきお)「それは、俺(おれ)がすべて把握(はあく)している」
秋生(あきお)「俺(おれ)の記憶(きおく)になければ、それは違(ちが)うってこった」
一緒(いっしょ)にあれだけの時間(じかん)をかけて、物置(ものおき)を探(さが)してくれた人間(にんげん)の言葉(ことば)だ。今更(いまさら)疑(うたが)う気(き)も起(お)こらない。
朋也(ともや)「そうか…」
秋生(あきお)「しかし、なんだ、今(いま)の話(はなし)をあいつは演劇(えんげき)にしようとしてるのか」
朋也(ともや)「そうだが」
秋生(あきお)「おもしろいのか、それ」
朋也(ともや)「………」
何(なに)も答(こた)えられない。
秋生(あきお)「ちっ、まぁ、いい。内容(ないよう)を追究(ついきゅう)する歳(とし)でもねぇな」
朋也(ともや)「ああ、俺(おれ)もそう思(おも)うよ」
秋生(あきお)「せいぜいサポートしてやってくれ」
俺(おれ)の脇(わき)を抜(ぬ)けて、洗面所(せんめんじょ)のほうへ向(む)かっていった。
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seagull - 2009/5/20 17:06:00
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5月7日()

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渚(なぎさ)「それでは、いってきます」
朋也(ともや)「いってきます」
早苗(さなえ)「はい、いってらっしゃい」
秋生(あきお)「おぅ、エンジョイしてきやがれ」
いつものように、二人(ふたり)に見送(みおく)られ、家(いえ)を後(あと)にする。
渚(なぎさ)「わかりました」
登校(とうこう)する生徒(せいと)に混(ま)じって歩(ある)きながら、渚(なぎさ)は話(はなし)を始(はじ)める。
朋也(ともや)「何(なに)が」
渚(なぎさ)「歌(うた)を取(と)り入(い)れたら、今(いま)よりもっとよくなるはずです」
朋也(ともや)「歌(うた)?」
渚(なぎさ)「そうです。ビデオの演劇(えんげき)では、クライマックスで、みんなで歌(うた)ってました」
朋也(ともや)「ああ、そうだったな」
渚(なぎさ)「それをわたしも取(と)り入(い)れたいです」
朋也(ともや)「あれは、出演者(しゅつえんしゃ)全員(ぜんいん)で歌(うた)うからいいんじゃないのか?」
朋也(ともや)「おまえひとりで歌(うた)っても、盛(も)り上(あ)がらないだろ」
渚(なぎさ)「やめておいたほうがいいでしょうか…」
朋也(ともや)「おまえ、歌(うた)には自信(じしん)あるのか?」
渚(なぎさ)「演劇(えんげき)はまだやったことがありません。けど、歌(うた)は音楽(おんがく)の時間(じかん)とかに歌(うた)ったことがあります」
朋也(ともや)「そりゃそうだろう。俺(おれ)だってある」
渚(なぎさ)「ですから、できれば歌(うた)を入(い)れたいです。とても良(よ)くなる予感(よかん)がします」
朋也(ともや)「そっか…まぁ、好(す)きにすればいいと思(おも)うけど」
朋也(ともや)「けどな、劇(げき)が良(よ)くなるとか、そんなこと考(かんが)えなくていいと思(おも)うぜ」
渚(なぎさ)「はい?」
朋也(ともや)「歌(うた)いたいなら、歌(うた)えばいい。俺(おれ)が言(い)いたいのはそれだけだよ」
渚(なぎさ)「わかりました。歌(うた)いたいです。ですから、歌(うた)います」
朋也(ともや)「ああ、歌(うた)え。精一杯(せいいっぱい)な。それが一番大事(いちばんだいじ)だ」
渚(なぎさ)「はいっ」
今(いま)、目(め)の前(まえ)で渚(なぎさ)が演(えん)じている。
手(て)には手作(てづく)りの台本(だいほん)。
演劇(えんげき)のストーリーは、聞(き)いた話(はなし)のまんまだった。
世界(せかい)にひとり取(と)り残(のこ)されてしまった女(おんな)の子(こ)が、ガラクタを集(あつ)めて人形(にんぎょう)を作(つく)りました。
すると、それが動(うご)き出(だ)して、女(おんな)の子(こ)は寂(さび)しくなくなりました。
めでたし、めでたし、と。
実際(じっさい)、割(わ)り当(あ)てられた時間(じかん)は短(みじか)ったから、それぐらいがちょうどいいのかもしれない。
渚(なぎさ)の練習風景(れんしゅうふうけい)を見(み)ながら、ふと、その話(はなし)を初(はじ)めて聞(き)いた時(とき)に覚(おぼ)えた既視感(きしかん)のようなものを思(おも)い出(だ)していた。
記憶(きおく)のどこかにある情景(じょうけい)が渚(なぎさ)の演技(えんぎ)に重(かさ)なるかと期待(きたい)していたが、それもなかった。
そこまで完成(かんせい)していないのだ。
朋也(ともや)(いや…この物語(ものがたり)は、完成(かんせい)しないのだろうな)
そんな予感(よかん)がしていた。
あまりに手(て)がかりが少(すく)なすぎる。
それに、それを探(さが)してるのは俺(おれ)ひとりだ。
渚(なぎさ)はもう、満足(まんぞく)してるじゃないか。
俺(おれ)も、こいつの心配(しんぱい)だけをしていよう。
そして、創立者祭(そうりつしゃさい)を無事(ぶじ)終(お)えたら…
もっと恋人(こいびと)らしいことをして過(す)ごそう。
今(いま)はただ、こうして見守(みまも)っていることが俺(おれ)の役目(やくめ)なのだ。
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seagull - 2009/5/20 17:08:00
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5月8日()

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春原(すのはら)「ライトは、実際(じっさい)に体育館(たいいくかん)に吊(つる)してみるまで、試(ため)すこともできない」
春原(すのはら)「で、それができるのは明後日(あさって)のリハーサルのみ」
春原(すのはら)「やることが全然(ぜんぜん)ないんだけど…」
朋也(ともや)「おまえなんかマシじゃないか」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうは、仁科(にしな)·杉坂(すぎさか)コンビが勝手(かって)にやってくれてるから、自分(じぶん)の存在意義(そんざいいぎ)すら見失(みうしな)いがちだ」
春原(すのはら)「はぁ…張(は)り合(あ)いがないねぇ」
俺(おれ)はじっと、渚(なぎさ)の練習風景(れんしゅうふうけい)を見(み)つめていた。
顧問(こもん)の幸村(こうむら)も、同(おな)じように椅子(いす)に腰(こし)を下(お)ろして、その様子(ようす)を眺(なが)めている。
台本(だいほん)のコピーを手(て)に持(も)ち、たまに間違(まちが)いを指摘(してき)する。
でもそれは、台本(だいほん)を持(も)っていない俺(おれ)たちでも気(き)づくレベルのものだけだ。
渚(なぎさ)の演技(えんぎ)は、演技(えんぎ)を指導(しどう)できるところまでも達(たっ)していないということだった。
けど、それでも…
言(い)われることに何度(なんど)も頷(うなず)いて…
額(ひたい)から汗(あせ)が流(なが)れ出(だ)しても、拭(ぬぐ)おうともせずに懸命(けんめい)に練習(れんしゅう)に打(う)ち込(こ)む姿(すがた)を見(み)ていると…
これが渚(なぎさ)が求(もと)めていた学生生活(がくせいせいかつ)だったんだと…今更(いまさら)ながらに思(おも)えた。
声(こえ)「失礼(しつれい)します」
声(こえ)がして、入室(にゅうしつ)してきたのは、仁科(にしな)·杉坂(すぎさか)コンビ。
渚(なぎさ)「あ、仁科(にしな)さん、杉坂(すぎさか)さん、こんにちは」
渚(なぎさ)「音楽(おんがく)のほう、迷惑(めいわく)かけてしまってますが、どうなりましたでしょうか」
渚自身(なぎさじしん)、気(き)にかかっていたのだろう、俺(おれ)よりも早(はや)く寄(よ)っていった。
仁科(にしな)「こちらです」
仁科(にしな)が手(て)に持(も)ったテープを見(み)せた。
渚(なぎさ)「あ、見(み)つかったんですかっ」
仁科(にしな)「はい」
杉坂(すぎさか)「おかけしますね」
隣(となり)で、杉坂(すぎさか)がラジカセを胸(むね)の前(まえ)まで持(も)ち上(あ)げていた。
ピアノのソロが部室(ぶしつ)に鳴(な)り渡(わた)る。
目(め)を閉(と)じると…一瞬(いっしゅん)だけど、違(ちが)う風景(ふうけい)に立(た)っているような気(き)がした。
渚(なぎさ)「素敵(すてき)です」
うっとりした顔(かお)で渚(なぎさ)が言(い)った。
朋也(ともや)「素敵(すてき)はわかってる。イメージには合(あ)うのか、どうなんだ」
渚(なぎさ)「びっくりするぐらいに、ぴったりです」
仁科(にしな)「よかったです」
仁科(にしな)がにっこりと微笑(ほほえ)む。
仁科(にしな)「この曲(きょく)は、ラヴェルの『マ·メール·ロワ』という作品(さくひん)の曲(きょく)なんです」
仁科(にしな)「『マ·メール·ロワ』とはマザーグースの事(こと)で、いわゆる童話(どうわ)です」
仁科(にしな)「もともとラヴェルの生徒(せいと)だった友人(ゆうじん)の子供(こども)二人(ふたり)に弾(ひ)かせるために、ピアノ連弾(れんだん)曲(きょく)として作(つく)られました」
仁科(にしな)「ラヴェルが幻想的(げんそうてき)な曲(きょく)を多(おお)く作(つく)ったのと、この曲(きょく)が童話(どうわ)を元(もと)にした楽曲(がっきょく)なので、幻想的(げんそうてき)な世界(せかい)に合(あ)うかもしれないと思(おも)って」
春原(すのはら)「今(いま)の英語(えいご)?」
朋也(ともや)「日本語(にほんご)だったろ…」
まぁ、それぐらい理解不能(りかいふのう)。
でも、仁科(にしな)が音楽(おんがく)を大好(だいす)きなことがよくわかった。そんなに熱心(ねっしん)に話(はな)す姿(すがた)を見(み)たことがない。
仁科(にしな)「喜(よろこ)んでもらえてよかったです」
杉坂(すぎさか)「これ、りえちゃんがピアノソロ用(よう)に編曲(へんきょく)し直(なお)したんです」
渚(なぎさ)「えっ?」
杉坂(すぎさか)「譜面(ふめん)だけ書(か)いて、それを知(し)り合(あ)いのピアノが上手(じょうず)な方(かた)に渡(わた)して、弾(ひ)いてもらったんです」
幸村(こうむら)「ほぅ…」
幸村(こうむら)「より、親(した)しみやすくなっとる…」
仁科(にしな)「だとしたら、成功(せいこう)です」
幸村(こうむら)「ふむ…なかなか…できることではない」
渚(なぎさ)「すごいです、仁科(にしな)さんっ」
仁科(にしな)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「それはこちらのセリフです」
渚(なぎさ)「素敵(すてき)な音楽(おんがく)、ありがとうございます」
春原(すのはら)「やったな、岡崎(おかざき)。これで再生(さいせい)ボタンを押(お)す練習(れんしゅう)ができるなっ」
一回(いっかい)やれば十分(じゅうぶん)な練習(れんしゅう)だった。
渚(なぎさ)「曲(きょく)に合(あ)わせて、練習(れんしゅう)してみます」
朋也(ともや)「ああ、そうだな」
渚(なぎさ)「それでは、お願(ねが)いします」
また、練習(れんしゅう)が再開(さいかい)された。
誰(だれ)も居(い)なかったはずの部室(ぶしつ)には、渚(なぎさ)、俺(おれ)、春原(すのはら)、幸村(こうむら)、仁科(にしな)、杉坂(すぎさか)。
いつのまにか、俺(おれ)たちは、こんなにもたくさんの人間(にんげん)と同(おな)じ時間(じかん)を共有(きょうゆう)するようになっていた。
ひたむきに頑張(がんば)り続(つづ)ける渚(なぎさ)と同(おな)じ時間(じかん)を、そばにいて、共有(きょうゆう)して…
そして、みんなで一緒(いっしょ)に喜(よろこ)びを分(わ)かち合(あ)おうと…
そのために。
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seagull - 2009/5/22 11:22:00
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5月10日()

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木曜(もくよう)、金曜(きんよう)と過(す)ぎ、創立者祭(そうりつしゃさい)、前日(ぜんじつ)の土曜(どよう)。
今日(きょう)は午後(ごご)から、体育館(たいいくかん)で明日(あした)のリハーサルが行(おこな)われる。
渚(なぎさ)は朝(あさ)からそのことで頭(あたま)が一杯(いっぱい)で、登校中(とうこうちゅう)でさえ自分(じぶん)の作(つく)った台本(だいほん)から目(め)を離(はな)せないでいた。
朋也(ともや)「おまえな…漢字(かんじ)の書(か)き取(と)りテストじゃないんだから、今更(いまさら)頑張(がんば)っても無駄(むだ)だろ?」
朋也(ともや)「きっと、自然(しぜん)に体(からだ)が動(うご)いてくれるよ」
朋也(ともや)「あれだけ練習(れんしゅう)したんだからな」
この三日(みっか)、ずっとそばにいた俺(おれ)ならそれがわかった。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「あ…朋也(ともや)くん、何(なに)か言(い)いましたか?」
朋也(ともや)「聞(き)こえてなかったのかよ…」
渚(なぎさ)「ごめんなさいです。もう一回(いっかい)言(い)ってくれますか?」
朋也(ともや)「好(す)きだ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
真顔(まがお)のまま言(い)って、すぐに台本(だいほん)に目(め)を戻(もど)す。
いつもなら、しばらくは照(て)れたり、ぼぅっとしてくれたりするのに…重症(じゅうしょう)だ。
これはいかん。リラックスさせてあげなければ。
朋也(ともや)「おい、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「え…なにか今(いま)、言(い)いましたか?」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)とエッチなことしたい」
渚(なぎさ)「すみません、後(あと)にしてほしいです」
そう言(い)って、すぐに台本(だいほん)に目(め)を戻(もど)す。
朋也(ともや)(後(あと)だったらいいのか…覚(おぼ)えておこう)
じゃなくて、今(いま)の言葉(ことば)に動揺(どうよう)すらしてくれないとは、本当(ほんとう)に余裕(よゆう)がない証拠(しょうこ)だ。
このままリハーサルに入(はい)ったら、舞台(ぶたい)の上(うえ)で頭(あたま)が真(ま)っ白(しろ)に、なんてことにもなりかねない。
それで自信(じしん)をなくして、明日(あした)の本番(ほんばん)に影響(えいきょう)が出(で)るなんてことになっては目(め)も当(あ)てられない。
どうやって、リラックスさせたものか…。
心を奪う
そう。俺(おれ)の魅力(みりょく)で心(こころ)を奪(うば)ってしまえばいい。
男(おとこ)として、演劇(えんげき)なんかに負(ま)けているなんて、とても屈辱的(くつじょくてき)なことだ。
俺(おれ)は制服(せいふく)の前(まえ)ボタンを外(はず)し、さらにシャツをはだけさせ、素肌(すはだ)を露出(ろしゅつ)させる。
男(おとこ)の色気(いろけ)がむんむんと漂(ただよ)う格好(かっこう)だった。
朋也(ともや)「おい、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ってば」
渚(なぎさ)「…はい?」
目(め)がこちらに向(む)く。
俺(おれ)は髪(かみ)をふぁさあと掻(か)き上(あ)げてみせる。
渚(なぎさ)「あの…用(よう)がないなら、集中(しゅうちゅう)したいので…」
男(おとこ)としての魅力(みりょく)が、台本(だいほん)に負(ま)けた…。
朋也(ともや)「あーーーっ!
もう、脱(ぬ)いでやるっ!」
朋也(ともや)「次(つぎ)、隣(となり)見(み)た時(とき)、俺(おれ)が素(す)っ裸(はだか)でも同(おな)じセリフ言(い)えよ、おまえっ」
渚(なぎさ)「えっ?
そんなの驚(おどろ)きますっ」
上着(うわぎ)を脱(ぬ)ぎ始(はじ)めた俺(おれ)を見(み)て、ようやく慌(あわ)ててくれる。
渚(なぎさ)「どうしたんですか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「いや、おまえの心(こころ)を奪(うば)おうと思(おも)ってだな…」
渚(なぎさ)「すでに奪(うば)われてます」
朋也(ともや)「あ、そっか」
渚(なぎさ)「はい。そうです」
…台本(だいほん)に目(め)を戻(もど)してしまった。
朋也(ともや)「………」
胸(むね)をはだけた男(おとこ)がひとり。
朋也(ともや)(アホだ…)
大丈夫(だいじょうぶ)なんだろうか、こんなので。
午前(ごぜん)の授業(じゅぎょう)が終(お)わり、放課(ほうか)となる。
三年(さんねん)のほとんどは、真(ま)っ直(す)ぐ帰宅(きたく)することになるが、その他(ほか)の生徒(せいと)は、明日(あした)の創立者祭(そうりつしゃさい)の準備(じゅんび)に入(はい)る。
学祭(がくさい)のような催(もよお)しに、半日(はんにち)しか準備時間(じゅんびじかん)を割(さ)かないというのが、実(じつ)に進学校(しんがくこう)らしい。
人(ひと)の行(い)き交(か)いの激(はげ)しい昇降口(しょうこうぐち)を抜(ぬ)け、俺(おれ)たちは、体育館(たいいくかん)に向(む)けて歩(ある)いていた。
渚(なぎさ)「ああ、心臓(しんぞう)ばくばく言(い)ってます」
春原(すのはら)「渚(なぎさ)ちゃん、いいおまじないを教(おし)えてやるよ」
春原(すのはら)「こうして、手(て)に字(じ)を書(か)いて三回(さんかい)飲(の)み込(こ)むんだよ」
春原(すのはら)が手(て)に書(か)いたのは、三回(さんかい)とも『入』だった。
そんなもの食(く)ってどうなるのだろうか。
渚(なぎさ)「はぁ…それでもおさまらないです」
収(おさ)まるわけない。
春原(すのはら)「じゃあね、観客(かんきゃく)を人(ひと)だと思(おも)わない、というのはどう?」
渚(なぎさ)「何(なん)だと思(おも)えばいいんでしょうか」
春原(すのはら)「そうだねぇ…エイリアン」
間違(まちが)っていないか、それも。
春原(すのはら)「みんな、地球(ちきゅう)を侵略(しんりゃく)しにきたんだ。だから、渚(なぎさ)ちゃんが舞台(ぶたい)で演技(えんぎ)してようが、関心(かんしん)がないんだ」
渚(なぎさ)「でも、関心(かんしん)がないのは困(こま)ります。見(み)てほしいです」
春原(すのはら)「じゃあ、関心(かんしん)はある。渚(なぎさ)ちゃんの演技次第(えんぎしだい)で、地球(ちきゅう)を侵略(しんりゃく)しようか決(き)めようとしてるんだ」
春原(すのはら)「頑張(がんば)らないとダメだろ?」
渚(なぎさ)「ああ、それは、ものすごいプレッシャーですっ」
朋也(ともや)「おまえら、アホアホトークやめぃっ!」
聞(き)いている俺(おれ)のほうまで、頭(あたま)がおかしくなりそうだった。
渚(なぎさ)「アホアホトークじゃないです。真剣(しんけん)に相談(そうだん)に乗(の)ってもらってます」
春原(すのはら)「そうそう、おばあちゃんの知恵袋並(ちえぶくろな)みに博学(はくがく)な僕(ぼく)に嫉妬(しっと)するのはわかるけどさ」
春原(すのはら)の馬鹿袋(ばかぶくろ)、と呼(よ)んでやりたい。
渚(なぎさ)「ああ、でも、なんだか落(お)ち着(つ)いた気(き)がします」
朋也(ともや)「マジかよ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの口(くち)の悪(わる)いのを聞(き)いてると、なんかいつも通(どお)りだなって思(おも)えました」
朋也(ともや)「そりゃよかったよ…」
春原(すのはら)の馬鹿(ばか)さ加減(かげん)のおかげだった。
たくさんの生徒(せいと)がパイプ椅子(いす)を並(なら)べていた。
壇上(だんじょう)では、白(しろ)いスクリーンが用意(ようい)されていて、そこに映像(えいぞう)が映(うつ)し出(だ)されていた。
何部(何部)かは知(し)らないが、映写機(えいしゃき)の調子(ちょうし)を見(み)ているようだった。
渚(なぎさ)「ああ、どきどきしてきました…」
朋也(ともや)「おまえ、さっき落(お)ち着(つ)いたって言(い)ってなかったか…」
渚(なぎさ)「すみません。やっぱり、こうしてみなさんががんばってる風景(ふうけい)を見(み)てしまうとダメです…」
渚(なぎさ)「こんなにたくさんの人(ひと)たちが関(かか)わっていて、わたしのために時間(じかん)を割(さ)いてもらって、舞台(ぶたい)に上(あ)がるなんて…」
朋也(ともや)「まぁ、その気持(きも)ちはわかるけどさ…」
朋也(ともや)「でも、おまえのためじゃない。おまえも、この場(ば)を盛(も)り上(あ)げる側(がわ)のひとりだろ?」
渚(なぎさ)「あ、そう言(い)われると、そうです」
渚(なぎさ)「わたしもがんばらないとダメです」
朋也(ともや)「そういうことだよ」
渚(なぎさ)「あ、仁科(にしな)さんと杉坂(すぎさか)さんです」
見(み)ると、こっちに向(む)けて歩(ある)いてくるところだった。
仁科(にしな)「みなさん、こんにちは」
杉坂(すぎさか)「こんにちは」
渚(なぎさ)「はい、こんにちはっ」
仁科(にしな)「緊張(きんちょう)しているようですね」
渚(なぎさ)「はい…舞台(ぶたい)の上(うえ)にあがるなんて、初(はじ)めてですから」
杉坂(すぎさか)「りえちゃん、慣(な)れてるよね」
仁科(にしな)「慣(な)れているといっても、それはヴァイオリンを持(も)ってだから」
仁科(にしな)「何(なに)も持(も)たずに上(あ)がるのは、私(わたし)も初(はじ)めてです」
渚(なぎさ)「緊張(きんちょう)、してますか」
仁科(にしな)「もちろんです」
ヴァイオリンのコンクールでいくつもの受賞歴(じゅしょうれき)がある仁科(にしな)からその言葉(ことば)が出(で)たのは意外(いがい)だった。
渚(なぎさ)「仁科(にしな)さんでも、緊張(きんちょう)するんですね」
仁科(にしな)「誰(だれ)でも、初(はじ)めてのことに挑戦(ちょうせん)するときはそうですよ」
同(おな)じ緊張(きんちょう)した空気(くうき)を共有(きょうゆう)できてか、渚(なぎさ)は幾分(いくぶん)落(お)ち着(つ)けたようだった。
声(こえ)「合唱部(がっしょうぶ)の方(かた)、次(つぎ)なので準備(じゅんび)お願(ねが)いしまーす」
拡声器(かくせいき)を使(つか)った声(こえ)が届(とど)いた。
杉坂(すぎさか)「りえちゃん」
仁科(にしな)「うん」
仁科(にしな)「お互(たが)いがんばりましょうね」
渚(なぎさ)「はいっ」
合唱部(がっしょうぶ)のリハーサルを俺(おれ)たちは見届(みとど)ける。
上手(じょうず)いとか、下手(へた)とかは俺(おれ)たち三人(さんにん)にはわからない。
けど、間違(まちが)いなく、心(こころ)は動(うご)かされた。
それは聞(き)く前(まえ)と、聞(き)いた後(あと)の気分(きぶん)が違(ちが)っていたのだから、間違(まちが)いない。
それを感動(かんどう)と呼(よ)ぶのは簡単(かんたん)な気(き)がしたけど、でも、きっとそうなのだと思(おも)う。
続(つづ)けて、演劇部(えんげきぶ)が呼(よ)び出(だ)された。
渚(なぎさ)「はいっ」
渚(なぎさ)は大(おお)きな声(こえ)で返事(へんじ)をした。
ぴんと背筋(せすじ)を伸(の)ばした姿勢(しせい)で歩(ある)いていく。
春原(すのはら)「いっちょ、やりますか」
朋也(ともや)「ああ」
俺(おれ)と春原(すのはら)はそれを追(お)った。
我(わ)が演劇部(えんげきぶ)の部長(ぶちょう)の後(あと)を。
渚(なぎさ)「ただいまです」
朋也(ともや)「ただいま」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
秋生(あきお)「おぅ、お帰(かえ)り、俺(おれ)たちの愛(あい)の結晶(けっしょう)よ」
秋生(あきお)「ちなみに、てめぇは違(ちが)うぞ」
朋也(ともや)「わかってるよ…」
早苗(さなえ)「練習通(れんしゅうどお)りにできましたか?」
早速(さっそく)リハーサルのことを訊(き)いてくる。
渚(なぎさ)「えっと…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうでしたか」
自分(じぶん)では言(い)いにくいのだろう。俺(おれ)に振(ふ)った。
朋也(ともや)「ああ。練習通(れんしゅうどお)り。問題(もんだい)なかったよ」
早苗(さなえ)「それは、よかったです」
秋生(あきお)「さすが俺(おれ)たちの娘(むすめ)だ。明日(あした)にゃタレント事務所(じむしょ)から引(ひ)っ張(ぱ)りだこだな」
朋也(ともや)「さすがにそこまでは」
秋生(あきお)「そうですねって言(い)っておけよ、てめぇはよぅっ!」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは、そんなこと言(い)わないです」
秋生(あきお)「ああ、わかってるよ…だから、頼(たよ)れるんだろうけどさ…親(おや)としてはだなぁ…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、サインいまのうちにくれますかっ」
朋也(ともや)「親馬鹿(おやばか)だぁ…」
秋生(あきお)「はっ、てめぇだって、自分(じぶん)に娘(むすめ)ができれば、こうならぁ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)ならねぇよ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、なると思(おも)います」
朋也(ともや)「どうしてだよ」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんに似(に)てるからです」
秋生(あきお)「なにっ…こいつとかっ」
オッサンの目(め)がぎろりと俺(おれ)に向(む)いた。
秋生(あきお)「娘(むすめ)よ…」
渚(なぎさ)「はい」
秋生(あきお)「父(とう)さん、すごくショックだ」
朋也(ともや)「本人前(ほんにんまえ)にして言(い)わんでください」
渚(なぎさ)「だって、ふたりとも口(くち)が悪(わる)いところそっくりです」
渚(なぎさ)「なのに、実(じつ)は優(やさ)しいところとか」
秋生(あきお)「褒(ほ)めるなら、俺(おれ)だけを褒(ほ)めてくれ」
あんた、どんな大人(おとな)だ。
渚(なぎさ)「だから朋也(ともや)くんも、子供(こども)できたら、とても優(やさ)しくしてしまいます」
渚(なぎさ)「とてもいいお父(とう)さんです」
朋也(ともや)「そうかねぇ…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)も、きっと優(やさ)しいお母(かあ)さんになります」
早苗(さなえ)「だから、おふたりの子供(こども)はとても幸(しあわ)せですね」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「………」
ものすごい発言(はつげん)をさらっとされたのは気(き)のせいだろうか…。
渚(なぎさ)「あの、わたし、そんな…泣(な)き虫(むし)ですから…とてもじゃないですけど、なれないです…」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。わたしも、泣(な)き虫(むし)ですよっ」
んなことで胸(むね)を張(は)らんでください。
秋生(あきお)「そうだぞ、渚(なぎさ)。要(よう)は、愛(あい)だろ、愛(あい)」
渚(なぎさ)「は、はい…」
秋生(あきお)「だが、てめぇには愛(あい)はなぁーーーーいっ!」
朋也(ともや)「決(き)めつけるなっ」
その晩(ばん)、自分(じぶん)の部屋(へや)にひとりでいると…とんとん、とノックの音(おと)。
朋也(ともや)「はい、どうぞ」
ドアが小(ちい)さく開(ひら)いて、隙間(すきま)から渚(なぎさ)が顔(かお)を出(だ)した。
渚(なぎさ)「もう、寝(ね)ますか?」
朋也(ともや)「いや、まだだけど」
渚(なぎさ)「じゃ、入(はい)っていいですか」
朋也(ともや)「ああ」
体(からだ)を滑(すべ)り込(こ)ませて、ドアを閉(し)めた。
渚(なぎさ)「隣(となり)、いいですか」
朋也(ともや)「ああ」
座布団(ざぶとん)を持(も)ってきて、俺(おれ)の隣(となり)に置(お)くと、その上(うえ)に膝(ひざ)を折(お)って座(すわ)った。
いつもは渚(なぎさ)が寝(ね)ているような時間(じかん)。
少(すこ)しだけ後(うし)ろめたいことをしているような、そんな気分(きぶん)になる。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「いえ、別(べつ)にこれといって、用(よう)はなかったんですけど…」
朋也(ともや)「どうせ、興奮(こうふん)して眠(ねむ)れないんだろ?」
渚(なぎさ)「やっぱり…わかりますか」
朋也(ともや)「おまえがぐっすり寝(ね)てたほうが驚(おどろ)くよ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「そうですよね…昨日(きのう)からずっと緊張(きんちょう)しっぱなしで、迷惑(めいわく)かけてます」
朋也(ともや)「女(おんな)の子(こ)らしくて、俺(おれ)はそういうの見(み)てると楽(たの)しいけどな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ヘンです」
朋也(ともや)「ヘンなものか。男(おとこ)ってのはそういうもんなんだよ」
渚(なぎさ)「だと、少(すこ)しはラクになれますけど…」
朋也(ともや)「ああ、目一杯(めいっぱい)緊張(きんちょう)してくれ」
渚(なぎさ)「目一杯(めいっぱい)緊張(きんちょう)してます」
それは確(たし)かなことだと思(おも)う。
今(いま)も少(すこ)し目(め)が潤(うる)んでいるように見(み)える。
じっとその憂(うれ)いだ顔(かお)を見(み)つめていると、キスしたくなってくる。
でも、そんなことをしても今(いま)の渚(なぎさ)にとってはなんの足(た)しにもならないだろう。
俺(おれ)の欲求(よっきゅう)が満(み)たされるだけだ。だから、我慢(がまん)しておく。
明日(あした)の創立者祭(そうりつしゃさい)さえ無事終(ぶじお)われば、いくらでもそうする時間(じかん)ができるはずだった。
渚(なぎさ)「でも、それだけじゃなくて…」
渚(なぎさ)「いろいろと考(かんが)えてしまうんです」
朋也(ともや)「何(なに)を」
渚(なぎさ)「今日(きょう)も、帰(かえ)ってきた時(とき)にすごく思(おも)いました」
渚(なぎさ)「いかに自分(じぶん)が、お父(とう)さんとお母(かあ)さんに愛(あい)されてるかってことです」
渚(なぎさ)「わたし、本当(ほんとう)に愛(あい)されてます」
朋也(ともや)「ああ、わかるよ」
朋也(ともや)「あんな親(おや)、なかなかいないだろうな」
渚(なぎさ)「そうです」
渚(なぎさ)「なのに、です…」
渚(なぎさ)「わたしは、お父(とう)さんとお母(かあ)さんに謝(あやま)れていないことがあるんです」
朋也(ともや)「謝(あやま)る?
なんか悪(わる)いことしたのか?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「何(なに)をしたんだよ」
渚(なぎさ)「わからないです」
朋也(ともや)「はぁ?」
渚(なぎさ)「それをずっと知(し)りたかったんです…」
渚(なぎさ)「でも、ふたりは教(おし)えてくれないんです」
朋也(ともや)「よくわからないな…」
朋也(ともや)「おまえはどうして、悪(わる)いことをしたって思(おも)うようになったんだよ」
渚(なぎさ)「ふたりが、昔(むかし)の話(はなし)をしてくれないからです」
渚(なぎさ)「わたしの記憶(きおく)にもないような…わたしが小(ちい)さかった頃(ころ)の話(はなし)です」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「写真(しゃしん)とか…残(のこ)ってるはずなのに、見(み)たこともないです」
渚(なぎさ)「訊(き)いても…いつもはぐらかされて…」
渚(なぎさ)「…だからです」
渚(なぎさ)「わたしに隠(かく)しているということは、それはわたしに気(き)を使(つか)っているということです」
渚(なぎさ)「それぐらいわかります…」
渚(なぎさ)「そういう時(とき)、お父(とう)さん、いつも優(やさ)しくなりますから…」
渚(なぎさ)「きっと、そこにはわたしが謝(あやま)らなければいけないことが…隠(かく)されてるんです」
渚(なぎさ)「わたしは体(からだ)が弱(よわ)いですので…」
渚(なぎさ)「そのことが関係(かんけい)しているんだと思(おも)います」
渚(なぎさ)「わたし、知(し)りたいです」
渚(なぎさ)「知(し)って、謝(あやま)りたいです」
渚(なぎさ)「ずっとそう…思(おも)ってるんです」
朋也(ともや)「………」
──負(お)い目(め)をあいつに背負(せお)わせたくないんだ…
──きっと、あいつはこう思(おも)うだろ…
──自分(じぶん)のせいで、俺(おれ)と早苗(さなえ)は夢(ゆめ)を諦(あきら)めたって…
──でも、あいつ、気(き)づき始(はじ)めてるんだ…
──そういうところには敏感(びんかん)だからな…
オッサンの言葉(ことば)が…次々(つぎつぎ)と思(おも)い出(だ)された。
渚(なぎさ)「…朋也(ともや)くん?」
朋也(ともや)「え…ああ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、何(なに)か知(し)ってるんですか」
朋也(ともや)「どうして?」
渚(なぎさ)「今(いま)、考(かんが)え事(ごと)、してました」
朋也(ともや)「別(べつ)のことだよ」
渚(なぎさ)「それに…お父(とう)さんとよく夜遅(よるおそ)くに話(はなし)をしてました…」
朋也(ともや)「違(ちが)う。勝手(かって)に決(き)めつけるな」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に、朋也(ともや)くん、何(なに)も知(し)らないんですか」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「知(し)ってるなら、教(おし)えてほしいです」
もしかして…今(いま)の渚(なぎさ)なら…。
それを受(う)け入(い)れられるんじゃないか。
受(う)け入(い)れた上(うえ)で、前(まえ)に進(すす)めるんじゃないか。
そうも思(おも)えた。
もしそれができるなら、俺(おれ)はそうしてほしかった。
けど、何(なに)も…こんな日(ひ)にそうすることはない。
明日(あした)は創立者祭(そうりつしゃさい)で…渚(なぎさ)の晴(は)れの舞台(ぶたい)で…
渚(なぎさ)が一番目指(いちばんめざ)していた日(ひ)だ。
そんな日(ひ)の前日(ぜんじつ)を、何(なに)も選(えら)ぶことなどない。
朋也(ともや)「あのな、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おまえは、そういうことに過敏(かびん)になりすぎてる」
朋也(ともや)「落(お)ち着(つ)いて考(かんが)えてみろ」
朋也(ともや)「ふたりが過去(かこ)を話(はな)さない理由(りゆう)なんて、他(ほか)にもいくつだって考(かんが)えられる」
朋也(ともや)「おまえは、自分(じぶん)が悪(わる)いとすぐ思(おも)ってしまうのが癖(くせ)だからな…」
朋也(ともや)「だから、今回(こんかい)も思(おも)い過(す)ごしだよ」
渚(なぎさ)「………」
黙(だま)り込(こ)んでしまった。
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん…」
しばらくして、ようやく口(くち)を開(ひら)いた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、もう眠(ねむ)いですか」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)にそんなことないけど」
渚(なぎさ)「でも、もう寝(ね)たほうがいいと思(おも)います」
朋也(ともや)「………」
今(いま)、ここで話(はなし)を終(お)わらせてしまって…渚(なぎさ)は眠(ねむ)ることができるのだろうか。
心配(しんぱい)だった。
でも、これ以上(いじょう)ふたりでいて…大切(たいせつ)な明日(あした)のために休(やす)めない、というのも避(さ)けたい。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「ここで一緒(いっしょ)に寝(ね)るか?
布団(ふとん)並(なら)べてさ…」
渚(なぎさ)「…ありがとうございます」
渚(なぎさ)「でも、それは、お父(とう)さんにばれたら、大変(たいへん)なことになりそうですので…」
朋也(ともや)「そうかもしれないけどさ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、遅(おそ)くまでありがとうございました」
渚(なぎさ)が立(た)ち上(あ)がって、座布団(ざぶとん)を片(かた)づける。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「おまえ、寝(ね)られるのかよ…」
渚(なぎさ)「はい…実(じつ)はさっきからものすごく眠(ねむ)いんです」
渚(なぎさ)「今(いま)、布団(ふとん)に入(はい)ったら、ぱっと眠(ねむ)れそうです」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)か…?」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「と、話(はな)してる間(あいだ)に眠気(ねむけ)が覚(さ)めそうですので、失礼(しつれい)します」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、おやすみなさい」
朋也(ともや)「ああ、おやすみ」
音(おと)を立(た)てずにドアを閉(し)めて、渚(なぎさ)は部屋(へや)を後(あと)にした。
朋也(ともや)「………」
大丈夫(だいじょうぶ)なんだろうか、本当(ほんとう)に…。
俺(おれ)は電気(でんき)を消(け)してからも、しばらく起(お)きていることにした。
誰(だれ)かが起(お)き出(だ)してこないか…じっと耳(みみ)を澄(す)ませていた。
………。
どれだけ時間(じかん)が経(た)っただろうか…。
いつまでも続(つづ)く静(しず)けさの中(なか)で、俺(おれ)は眠(ねむ)りに落(お)ちていた。
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seagull - 2009/5/22 11:24:00
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5月11日()

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………。
目(め)が覚(さ)めた。
いつの間(ま)にか眠(ねむ)ってしまっていたのか…。
体(からだ)を横(よこ)にするだけで、寝(ね)ないつもりでいたのに…。
時計(とけい)をたぐり寄(よ)せて、顔(かお)の前(まえ)まで持(も)ってくる。
早朝(そうちょう)もいいところだ。
寝起(ねお)き直後(ちょくご)の記憶(きおく)とは変(へん)なもので、ちゃんと寝直(ねなお)そうとした瞬間(しゅんかん)に寒気(かんき)のようなものが全身(ぜんしん)を走(はし)った。
それからようやく気(き)づく。
…俺(おれ)は今(いま)、物音(ものおと)がして目覚(めざ)めたのではなかったのか。
そして、それはすぐに嫌(いや)な予感(よかん)に変(か)わる。
俺(おれ)は体(からだ)を起(お)こした。
でも、この時間(じかん)だったら、パンを焼(や)く支度(したく)に入(はい)っていてもおかしくはない。
だから、そう…きっとオッサンが立(た)てた物音(ものおと)に違(ちが)いない。
そう言(い)い聞(き)かせて、心(こころ)を落(お)ち着(つ)かせた。
ゆっくりと廊下(ろうか)を歩(ある)いていく。
その間(あいだ)、物音(ものおと)は一度(いちど)もしなかった。
俺(おれ)は居間(いま)へと辿(たど)り着(つ)いた。
そこに…小(ちい)さな背中(せなか)があった。
渚(なぎさ)の…背中(せなか)だった。
突(つ)っ立(た)ってる俺(おれ)に気(き)づいて、渚(なぎさ)が振(ふ)り返(かえ)った。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
朋也(ともや)「おまえ、なんだよ…ずっと起(お)きてたのか…」
朋也(ともや)「今日(きょう)は大切(たいせつ)な日(ひ)だろ…なにやってんだよ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、聞(き)いてください」
床(ゆか)には、いろいろな物(もの)が広(ひろ)げられていた。
それは、アルバムだったり、ノートだったり。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「知(し)らなかったんです」
聞(き)くのが恐(こわ)かった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、何(なに)も考(かんが)えるな」
朋也(ともや)「とりあえず体(からだ)を休(やす)めろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)が起(お)こしてやるから」
朋也(ともや)「そうしたら、いつものようにふたりで学校(がっこう)に行(い)こう」
朋也(ともや)「台本読(だいほんよ)みながら、練習(れんしゅう)しながらいこう」
朋也(ともや)「隣(となり)で聞(き)いててやるからさ」
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)」
朋也(ともや)「ほら、部屋(へや)まで連(つ)れていってやるから」
渚(なぎさ)は布団(ふとん)の中(なか)で横(よこ)になっている。
壁(かべ)のほうを向(む)いているので、顔(かお)は見(み)えない。
まだ起(お)きているだろうか…。
寝息(ねいき)は一向(いっこう)に聞(き)こえてこなかった。
だから、俺(おれ)もずっと寝(ね)ずにいた。
家(いえ)を出(で)る寸前(すんぜん)、着替(きが)えをする渚(なぎさ)を部屋(へや)に残(のこ)し、俺(おれ)は廊下(ろうか)に出(で)た。
そこにオッサンが立(た)ちつくしていた。
秋生(あきお)「ちっ…最悪(さいあく)の事態(じたい)じゃねぇか、この野郎(やろう)」
俺(おれ)に気(き)づいて、そう吐(は)き捨(す)てた。
秋生(あきお)「居間(いま)に広(ひろ)げられていたあれはなんだ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)が見(み)つけだしたんだ。俺(おれ)が見(み)つけた時(とき)は手遅(ておく)れだった」
秋生(あきお)「それで、渚(なぎさ)は…」
秋生(あきお)「全部(ぜんぶ)…知(し)っちまったんだろ…」
朋也(ともや)「ああ…」
秋生(あきお)「あいつ…また、学校(がっこう)に行(い)かなくなっちまうのかな…」
壁(かべ)に額(ひたい)を押(お)しつけて、くぐもった声(こえ)で言(い)った。
秋生(あきお)「あんな元気(げんき)にさ…学校行(がっこうい)ってたのにな…」
秋生(あきお)「くそぅ…」
この人(ひと)が、こんなに落(お)ち込(こ)む姿(すがた)を、俺(おれ)は想像(そうぞう)すらできずにいた。
朋也(ともや)「オッサン…」
俺(おれ)はかける言葉(ことば)を探(さが)した。
あんたはいい父親だ
朋也(ともや)「あんたは間違(まちが)いなく、いい父親(ちちおや)だ」
朋也(ともや)「あんたみたいな奴(やつ)…なかなかいねぇよ」
朋也(ともや)「だから時間(じかん)が経(た)てば、あいつもわかってくれる」
朋也(ともや)「けどさ…俺(おれ)と渚(なぎさ)は今日(きょう)のために頑張(がんば)ってきたことがあるんだ」
朋也(ともや)「それだけは達成(たっせい)したい」
秋生(あきお)「ああ…」
秋生(あきお)「そうか、演劇(えんげき)だな…」
秋生(あきお)「叶(かな)えてやってくれ…頼(たの)む」
懇願(こんがん)するようにオッサンは…頭(あたま)を壁(かべ)に擦(こす)らせた。
いつもと変(か)わらない風景(ふうけい)。
同(おな)じように登校(とうこう)する生徒(せいと)にまぎれて、俺(おれ)たちは肩(かた)を並(なら)べて歩(ある)く。
もうそんなことにも慣(な)れてきた頃(ころ)だったのに。
坂(さか)の下(した)で、渚(なぎさ)は足(あし)を止(と)めていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは知(し)っていましたか」
そして、初(はじ)めて会(あ)った日(ひ)のような顔(かお)で、坂(さか)を見上(みあ)げたまま言(い)った。
あの日(ひ)は、桜(さくら)が舞(ま)っていた。
朋也(ともや)「何(なに)を」
渚(なぎさ)「わたしのお父(とう)さんが役者(やくしゃ)をやっていたこと」
朋也(ともや)「いや…初耳(はつみみ)だけど」
本当(ほんとう)に知(し)らなかった。
渚(なぎさ)「舞台(ぶたい)にたくさん出(で)て、それがテレビで流(なが)れたこともあったんです」
朋也(ともや)「へぇ…」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんは、ずっと中学校(ちゅうがっこう)の先生(せんせい)をしていたんです」
渚(なぎさ)「勉強(べんきょう)を教(おし)えることが大好(だいす)きだったみたいです」
渚(なぎさ)「写真(しゃしん)やビデオで見(み)るふたりはとても幸(しあわ)せそうでした」
渚(なぎさ)「だって、ふたりは夢(ゆめ)を叶(かな)えていたんですから」
渚(なぎさ)「そして、それは、ずっと続(つづ)くはずだったんです」
渚(なぎさ)「わたしさえ…いなければ」
朋也(ともや)「そりゃ違(ちが)う、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「聞(き)いてください、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「わたしのせいなんです、お父(とう)さんとお母(かあ)さんが夢(ゆめ)を諦(あきら)めたのは」
朋也(ともや)「違(ちが)う、渚(なぎさ)」
朋也(ともや)「あのふたりは、今(いま)だって幸(しあわ)せなはずだ…」
渚(なぎさ)「夢(ゆめ)は…諦(あきら)めてしまいました」
渚(なぎさ)「違(ちが)いますか」
朋也(ともや)「いや…それはそうかもしれないけど…」
朋也(ともや)「でも、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「………」
続(つづ)ける言葉(ことば)が見(み)つからなかった。
渚(なぎさ)「そして、今(いま)、わたしは…」
渚(なぎさ)「ふたりの夢(ゆめ)を犠牲(ぎせい)にして…自分(じぶん)の夢(ゆめ)だけ叶(かな)えようとしてます」
渚(なぎさ)「ひどい子供(こども)です」
渚(なぎさ)「恩知(おんし)らずです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんにも、そうです」
渚(なぎさ)「わたしの夢(ゆめ)を叶(かな)えるために…たくさんの時間(じかん)を無駄(むだ)にさせてしまってます」
朋也(ともや)「俺(おれ)は好(す)きでやってきたんだよ…」
朋也(ともや)「何(なに)を今更(いまさら)言(い)ってんだよ…」
渚(なぎさ)「………」
ああ…また…
ここからやり直(なお)しなのだろうか…。
いろんなことがあって、ふたりでここまで来(き)たのに…。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「ここまでやってきたんだ…」
朋也(ともや)「後少(あとすこ)しじゃないか。頑張(がんば)ろうぜ…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「ほら、いこう」
その手(て)を取(と)って…俺(おれ)は坂(さか)を登(のぼ)り始(はじ)めた。
春原(すのはら)「ふわぁ…」
春原(すのはら)「すんげぇ眠(ねむ)いんですけど」
朋也(ともや)「おまえ、緊張感(きんちょうかん)ってものがないのな」
春原(すのはら)「だって、こんな早(はや)くに来(く)るなんて平日(へいじつ)だってないぜ?」
春原(すのはら)「しかも日曜(にちよう)だし…」
朋也(ともや)「おまえ、照明係(しょうめいがかり)だろ。しっかりしろ」
春原(すのはら)「眠(ねむ)たさのあまり、ライトのオンオフを連射(れんしゃ)して、ディスコみたいにしちまいそうだよ…」
朋也(ともや)「やめてくれ」
春原(すのはら)「いや、それぐらい眠(ねむ)いんだってば」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)と代(か)わるか?
再生(さいせい)ボタン押(お)すだけだし」
春原(すのはら)「いや…」
春原(すのはら)「そっちはそっちで、眠(ねむ)たさのあまりDJばりのスクラッチをやって、観客(かんきゃく)を踊(おど)らせてしまいそうだよ…」
朋也(ともや)「安心(あんしん)しろ。テープデッキにそんな機能(きのう)はない」
春原(すのはら)「まぁ、それだけ寝惚(ねぼ)けてるってこった…」
春原(すのはら)「でも、ま、渚(なぎさ)ちゃんのためだ…頑張(がんば)るかぁ」
渚(なぎさ)「………」
春原(すのはら)「渚(なぎさ)ちゃん?」
渚(なぎさ)「…え?
あ…はい」
春原(すのはら)「いや、別(べつ)に用(よう)はないんだけどさ…」
渚(なぎさ)の様子(ようす)の違(ちが)いに気(き)づいて、春原(すのはら)は目(め)が覚(さ)めたようだった。
春原(すのはら)(渚(なぎさ)ちゃん、なんかヘンじゃないか…?)
俺(おれ)の隣(となり)に来(き)て、そう訊(き)いた。
朋也(ともや)(ちょっとな…)
春原(すのはら)(どうしたんだよ…)
朋也(ともや)(おまえはいつも通(どお)りでいてくれ…後(あと)は俺(おれ)がなんとかするから)
春原(すのはら)(………)
不服(ふふく)そうな目(め)を俺(おれ)に向(む)けた後(あと)、すぐいつもの顔(かお)に戻(もど)って、渚(なぎさ)の元(もと)に寄(よ)っていく。
春原(すのはら)「おまじない、教(おし)えてやるよ、渚(なぎさ)ちゃん」
少(すこ)しだけ春原(すのはら)に助(たす)けられた気持(きも)ちになる。
校内(こうない)は、一般客(いっぱんきゃく)と生徒(せいと)ですでに賑(にぎ)わい始(はじ)めていた。
俺(おれ)たちは、体育館(たいいくかん)の端(はし)で、発表会(はっぴょうかい)の開幕(かいまく)を待(ま)っていた。
朋也(ともや)「いいか、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「余計(よけい)なことを考(かんが)えるな。劇(げき)のことだけ考(かんが)えてろ」
朋也(ともや)「ほら、もう少(すこ)しで出番(でばん)じゃないか」
朋也(ともや)「緊張(きんちょう)してきただろ?
台本(だいほん)、見返(みかえ)しておかなくていいのか」
朋也(ともや)「ほら、台本(だいほん)」
渚(なぎさ)が握(にぎ)っていた台本(だいほん)を胸(むね)の前(まえ)まで持(も)ち上(あ)げて見(み)せる。
朋也(ともや)「終(お)わったら、打(う)ち上(あ)げしような」
朋也(ともや)「俺(おれ)はおまえとふたりきりがいいんだけどな」
朋也(ともや)「まぁ、早苗(さなえ)さんは可愛(かわい)いから呼(よ)ぶとしよう」
朋也(ともや)「ちっ、まぁ、オッサンも呼(よ)んでやるか」
朋也(ともや)「な、四人(よたり)で打(う)ち上(あ)げしよう」
朋也(ともや)「だからさ、今(いま)はやれることをしようぜ」
渚(なぎさ)「はい…」
ようやく、渚(なぎさ)が台本(だいほん)を開(ひら)き、目(め)を落(お)とし始(はじ)めた。
体育館(たいいくかん)の壇上(だんじょう)では、今(いま)、まさに幕(まく)が開(ひら)こうとしていた。
観客(かんきゃく)も集(あつ)まりつつある。
俺(おれ)はその中(なか)に、オッサンと早苗(さなえ)さんの姿(すがた)を探(さが)した。
演技(えんぎ)に入(はい)る前(まえ)に、渚(なぎさ)の前(まえ)に現(あらわ)れかねない。
ふたりの励(はげ)ましは、渚(なぎさ)をさらに傷(きず)つけると思(おも)ったから、それは避(さ)けたかった。
ふたりの言葉(ことば)は、本当(ほんとう)に優(やさ)しいだろうから。
けど、遠目(とおめ)にはふたりを見(み)つけることができない。
朋也(ともや)「いいか、渚(なぎさ)、台本読(だいほんよ)んでろよ。俺(おれ)、ちょっとここ離(はな)れるから」
渚(なぎさ)「………」
返事(へんじ)はなかったけど、聞(き)こえていたはずだ。
渚(なぎさ)を春原(すのはら)に任(まか)せて、俺(おれ)はふたりを探(さが)しに向(む)かった。
館内(かんない)では見(み)つからず、外(そと)へと出(で)た。
人混(ひとご)みの中(なか)、ようやくその姿(すがた)を見(み)つけることができた。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「あ、岡崎(おかざき)さん。助(たす)かりました。迷子(まいご)になってたんです、わたし」
実(じつ)に早苗(さなえ)さんらしかった。
見(み)たところ、ひとりのようだった。
朋也(ともや)「オッサンと一緒(いっしょ)に来(こ)なかったんですか」
早苗(さなえ)「はい。先(さき)に行(い)ってろ、と言(い)われました」
朋也(ともや)「来(く)る気(き)あんのかな…」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。渚(なぎさ)の晴(は)れ舞台(ぶたい)です。見逃(みのが)すはずがないです」
俺(おれ)は来(こ)ないんじゃないかと思(おも)い始(はじ)めていた。
よく考(かんが)えてみればいい。
今(いま)、渚(なぎさ)の前(まえ)に現(あらわ)れるのは、辛辣(しんらつ)な過去(かこ)を突(つ)きつけるのと同(おな)じことだ。
なら、早苗(さなえ)さんは、今朝起(けさお)きたことを知(し)らないということだろうか。
早苗(さなえ)さんの顔(かお)をじっと見(み)つめる。
早苗(さなえ)「……?」
どちらにしても、劇(げき)が無事(ぶじ)に終(お)わるまでは、早苗(さなえ)さんも、渚(なぎさ)に会(あ)わせるべきでない。
今(いま)は、初(はじ)めて観客(かんきゃく)を前(まえ)にして劇(げき)を演(えん)ずるというプレッシャーが、今朝(けさ)知(し)った事実(じじつ)の悲(かな)しみの深(ふか)さに勝(まさ)ることを祈(いの)るだけだった。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)はどこにいますか」
朋也(ともや)「あいつ今(いま)、集中(しゅうちゅう)して、台本読(だいほんよ)んでますから、そっとしておいてやりましょう」
早苗(さなえ)「そうですね」
朋也(ともや)「その代(か)わりと言(い)っては、なんですけど、俺(おれ)が案内(あんない)しますよ」
朋也(ともや)「とりあえずは、模擬店(もぎてん)でも」
俺(おれ)は立(た)ち並(なら)ぶ屋台(やたい)を指(さ)さした。
早苗(さなえ)「はいっ」
早苗(さなえ)さんは笑顔(えがお)で頷(うなず)いてくれた。
演劇部(えんげきぶ)の演目(えんもく)開始時間(かいしじかん)、その寸前(すんぜん)を見計(みはか)らって、俺(おれ)は早苗(さなえ)さんを体育館(たいいくかん)へと連(つ)れてきた。
渚(なぎさ)の姿(すがた)はもう館内(かんない)になかった。控(ひか)え室(しつ)となっている用具庫(ようぐこ)で、衣裳(いしょう)に着替(きが)えて出番(でばん)を待(ま)っているはずだった。
朋也(ともや)「それでは、俺(おれ)もやることありますから」
早苗(さなえ)「はい、とても楽(たの)しかったです。ありがとうございました」
朋也(ともや)「こっちこそ」
早苗(さなえ)「あ、磯貝(いそがい)さんっ」
早苗(さなえ)「挨拶(あいさつ)してきますね」
すぐに知人(ちじん)を見(み)つけて、早苗(さなえ)さんは寄(よ)っていった。
この分(ぶん)だと、渚(なぎさ)を励(はげ)ますために探(さが)し始(はじ)める、ということもなさそうだった。
俺(おれ)も急(いそ)いで、その場(ば)を後(あと)にする。
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)、おまえ、どこほっつき歩(ある)いてやがったんだよ」
朋也(ともや)「悪(わる)い」
春原(すのはら)「ほら、もう、渚(なぎさ)ちゃん、袖(そで)で控(ひか)えてる」
春原(すのはら)「頼(たの)むぜ、音響係(おんきょうがかり)さん」
朋也(ともや)「おまえこそな、照明係(しょうめいがかり)さん」
春原(すのはら)「任(まか)せておけって」
それだけの会話(かいわ)を交(か)わして、春原(すのはら)とも別(わか)れる。
俺(おれ)は控(ひか)え室(しつ)から、小(ちい)さな階段(かいだん)を上(のぼ)り、舞台(ぶたい)の袖(そで)までやってくる。
そこに衣裳姿(いしょうすがた)の渚(なぎさ)がいた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ」
声(こえ)をかける。
振(ふ)り返(かえ)ったその顔(がお)に向(む)けて、親指(おやゆび)を立(た)てて見(み)せた。
どんな表情(ひょうじょう)も作(つく)らずに、渚(なぎさ)は頷(うなず)いた。
そして、前(まえ)を向(む)いた。
拍手(はくしゅ)が起(お)きている。
出番(でばん)だった。
舞台袖(ぶたいそで)から渚(なぎさ)が歩(あゆ)み出(で)た。中央(ちゅうおう)へと歩(ほ)を進(すす)める。
早苗(さなえ)さん手作(てづく)りの衣装(いしょう)が、ここからでもとてもよく映(は)えて見(み)えた。
会場(かいじょう)がその少女(しょうじょ)の登場(とうじょう)に活気(かっき)づく。
黄色(きいろ)い声(こえ)も飛(と)ぶ。
俺(おれ)の背中(せなか)からも、どこのクラスにあんな可愛(かわい)い子(こ)が居(い)たんだ、という実行委員(じっこういいん)たちの話(はな)し声(ごえ)も聞(き)こえてきた。
誇(ほこ)らしかった。
渚(なぎさ)が一礼(いちれい)する。
同時(どうじ)にライトが落(お)ちた。
そして光(ひかり)の中(なか)に、ひとりの少女(しょうじょ)が浮(う)かび上(あ)がった。
じっと、立(た)ちつくしていた。
………。
……。
………。
長(なが)い間(あいだ)、黙(だま)ったままでいた。
演出(えんしゅつ)かと思(おも)っていた観客(かんきゃく)も、あまりに長(なが)い沈黙(ちんもく)に、異変(いへん)を感(かん)じ取(と)る。
やがてそれは、どよめきとなって、館内(かんない)に広(ひろ)がり始(はじ)めた。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)はじっと、光(ひかり)の中(なか)の少女(しょうじょ)を見(み)つめていた。
演(えん)じてくれ…渚(なぎさ)。
俺(おれ)は祈(いの)った。
──わたしのせいなんです、ふたりが夢(ゆめ)を諦(あきら)めたのは…
──そして、今(いま)、わたしは…
──ふたりの夢(ゆめ)を犠牲(ぎせい)にして…自分(じぶん)の夢(ゆめ)だけ叶(かな)えようとしてます…
渚(なぎさ)の口(くち)が小(ちい)さく動(うご)いた気(き)がした。
  …そんなことできないです。
そう読(よ)みとれた。
そして、渚(なぎさ)は…泣(な)き始(はじ)めた。
ずっと、堪(た)えていた涙(なみだ)が溢(あふ)れだした。
しゃくり上(あ)げ、子供(こども)のように泣(な)いた。
それは今(いま)まで見(み)た中(なか)で、一番辛(いちばんつら)い泣(な)き方(かた)だった。
人(ひと)の夢(ゆめ)を犠牲(ぎせい)にして生(い)きる自分(じぶん)。
そんな現実(げんじつ)を突(つ)きつけられ、どうしていいかわからない辛(つら)さ。
支(ささ)えとなるすべてを失(うしな)った辛(つら)さだった。
俺(おれ)はもう見(み)てられなくなって…顔(かお)を伏(ふ)せた。
やっぱり、駄目(だめ)だった…。
ずっと頑張(がんば)ってきたのに…。
声(こえ)「夢(ゆめ)を叶(かな)えろ、渚(なぎさ)ああぁーーーーーーーーっ!」
怒声(どせい)が、体育館(たいいくかん)にこだました。
聞(き)き覚(おぼ)えのある声(こえ)。
朋也(ともや)「オッサン…」
俺(おれ)は袖(そで)のカーテン越(こ)しに、その姿(すがた)を探(さが)した。
それは入(い)り口(ぐち)に逆光(ぎゃっこう)を背負(せお)ってあった。
館内(かんない)すべての注目(ちゅうもく)を集(あつ)めて。
秋生(あきお)「渚(なぎさ)あぁぁーーーーっ!」
秋生(あきお)「馬鹿(ばか)か、おめぇはーーーっ!」
秋生(あきお)「子(こ)の夢(ゆめ)が親(おや)の夢(ゆめ)なんだよっ!」
秋生(あきお)「おまえが叶(かな)えればいいんだっ!」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、おまえが夢(ゆめ)を叶(かな)えるのを夢見(ゆめみ)てんだよっ!!」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、夢(ゆめ)を諦(あきら)めたんじゃねぇっ」
秋生(あきお)「自分(じぶん)たちの夢(ゆめ)をおまえの夢(ゆめ)にしたんだっ!」
秋生(あきお)「親(おや)とはそういうもんなんだよっ!」
秋生(あきお)「家族(かぞく)ってのは、そういうもんなんだよっ!」
秋生(あきお)「だから、あの日(ひ)からずっと…」
秋生(あきお)「パン焼(や)きながら、ずっと…」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、それを待(ま)ちこがれて生(い)きてきたんだよ!」
秋生(あきお)「ここでおめぇが挫(くじ)けたら、俺(おれ)たちゃ落(お)ち込(こ)むぞ、てめぇーーっ!」
秋生(あきお)「責任重大(せきにんじゅうだい)だぞ、てめぇーーっ!!」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)、居(い)るんだろ、どこかに!
おめぇも言(い)ってやれぇっ!」
………。
少(すこ)しの間(あいだ)の後(あと)…
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)ーっ!
がんばれーっ!」
早苗(さなえ)さんの声(こえ)が観客席(かんきゃくせき)の中(なか)から聞(き)こえてきた。
呼ぶ
早苗(さなえ)さんの励(はげ)ましは、なんだか的外(まとはず)れだった。
けど、それに便乗(びんじょう)しない手(て)はない。
朋也(ともや)「俺(おれ)たちも、同(おな)じだぞ、渚(なぎさ)っ!」
朋也(ともや)「春原(すのはら)や俺(おれ)ができなかったことを、今(いま)、おまえが叶(かな)えようとしてくれてるんだっ!」
朋也(ともや)「わかるかっ、俺(おれ)たちの挫折(ざせつ)した思(おも)いも、おまえが今(いま)、背負(せお)ってんだよっ!」
朋也(ともや)「だから、叶(かな)えろ、渚(なぎさ)っ!」
怒鳴(どな)りつけた。
渚(なぎさ)が…顔(かお)をあげる。
もう泣(な)いていなかった。
真(ま)っ直(す)ぐに…虚空(こくう)を見据(みす)えていた。
…連(つ)れていってくれ、渚(なぎさ)。
この町(まち)の願(ねが)いが、叶(かな)う場所(ばしょ)に。
渚(なぎさ)が、胸(むね)に手(て)を当(あ)てた。
それは、最初(さいしょ)の台詞(せりふ)を言(い)う時(とき)。
物語(ものがたり)が始(はじ)まる。
冬(ふゆ)の日(ひ)の、幻想物語(げんそうものがたり)が。
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seagull - 2009/5/23 15:42:00
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幻想世界X

,0,]
世界(せかい)に、雪(ゆき)が降(お)り始(はじ)めた。
急(いそ)がないといけなかった。
僕(ぼく)は見(み)あたる最後(さいご)のガラクタを拾(ひろ)い上(あ)げると、それを背(せ)の袋(ふくろ)に入(い)れ、家路(いえじ)を急(いそ)いだ。
扉(とびら)を開(あ)ける。
いつものように、彼女(かのじょ)がそこにいた。
僕(ぼく)に気(き)づいて、目(め)をこっちに向(む)けた。
ゆっくりと腕(うで)を広(ひろ)げる。
その動作(どうさ)はひどく遅(おそ)かった。
僕(ぼく)は寄(よ)っていって、その腕(うで)の中(なか)に収(おさ)まる。
…すごく冷(つめ)たくなってるよ…。
僕(ぼく)は首(くび)を振(ふ)る。そんなことはどうだっていいんだ。
時間(じかん)がないんだ。
…なにもできなくて、ごめんね…
僕(ぼく)は首(くび)を振(ふ)る。
ずっと、こうして彼女(かのじょ)の腕(うで)に包(つつ)まれていたかったけど、そうしているわけにもいかなかった。
僕(ぼく)はその腕(うで)を抜(ぬ)ける。
…もう、いくの?
僕(ぼく)は頷(うなず)く。
…そばにいてほしいよ。
…ずっと、ふたりでいよ。
うん。そのためになんだ。
そのために、僕(ぼく)はいくんだ。
これから先(さき)も、ずっとふたりでいられるように。
彼女(かのじょ)の寂(さび)しげな表情(ひょうじょう)…
それを振(ふ)りきって、僕(ぼく)は表(おもて)に出(で)た。
積(つ)み上(あ)げられたガラクタの山(やま)の前(まえ)までやってくる。
そして、今日(きょう)拾(ひろ)ってきたガラクタをその上(うえ)にそっと載(の)せる。
もう、なんの形(かたち)かわからない。
もう、なんの形(かたち)でもない。
最後(さいご)のガラクタを載(の)せた途端(とたん)、片側(かたがわ)が、がらがらと音(おと)をたてて崩(くず)れた。
僕(ぼく)はうなだれる。
ガラクタを拾(ひろ)ってきては、積(つ)み上(あ)げていくだけ。
それの繰(く)り返(かえ)し。
もし…
心(こころ)から願(ねが)うことで、ガラクタたちが形(かたち)になっていくんだとしたら…
僕(ぼく)ひとりじゃ無理(むり)なんだ…。
だって、僕(ぼく)は…
人(ひと)じゃなかったから。
手(て)を見(み)る。
四角(しかく)くて、ざらついた指(ゆび)…。
僕(ぼく)こそが、願(ねが)いにより作(つく)り出(だ)されたガラクタ人形(にんぎょう)。
もう、どこにも行(い)けないのだろうか。
この場所(ばしょ)から。
  …そばにいてほしいよ。
  …ずっと、ふたりでいよ。
今(いま)聞(き)いた彼女(かのじょ)の言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)す。
それが、もう…
もう、何(なに)もしなくていいから…と言(い)っているようで辛(つら)かった。
悲(かな)しかった。
泣(な)きたかった。
なんて、無力(むりょく)なんだろう。
僕(ぼく)は空(そら)を見上(みあ)げる。
この世界(せかい)が、彼女(かのじょ)を苦(くる)しめているのだ。
ずっと、この世界(せかい)は、彼女(かのじょ)に過酷(かこく)だけを強(つよ)いてきた。
ずっと、ひとりきりで居(い)させて…
ふたりになって寂(さび)しくなくなったと思(おも)ったら、彼女(かのじょ)を動(うご)けなくして…
ああ…
僕(ぼく)は吠(ほ)えるように、体(からだ)を反(そ)らせた。
ぎぎぎと瓦礫(がれき)をすり合(あ)わせたような嫌(いや)な音(おと)がした。
…泣(な)いて…いるの?
彼女(かのじょ)の声(こえ)がした。
ぎぎぎ。
彼女(かのじょ)がゆっくりと歩(ある)いてきて、そして、僕(ぼく)の背中(せなか)を抱(だ)いた。
…どうしたの…?
ぎぎぎ。
…悲(かな)しいことを…思(おも)いだした…?
ぎぎぎ。
…違(ちが)うよね…
…この世界(せかい)が…悲(かな)しいんだよね…
ぎ…。
…遠(とお)くへいく?
………。
…目指(めざ)してた場所(ばしょ)までふたりでいく?
………。
…ふたりで…
…ここから歩(ある)いて…。
………。
…いろんなものがあって…
…楽(たの)しくて…
…温(あたた)かな場所(ばしょ)…
…そこまで。
………。
…きみは…
…そうしたいんだよね?
………。
僕(ぼく)は…もう、泣(な)くのはやめて、前(まえ)を向(む)いていた。
そうしたい。
僕(ぼく)は、力強(ちからづよ)く頷(うなず)いていた。
…じゃ…いこう。
雪(ゆき)が降(お)り積(つ)もって、この大地(だいち)が雪原(せつげん)に変(か)わる前(まえ)に。
長(なが)い、旅(たび)の始(はじ)まり。
遠(とお)い…記憶(きおく)の中(なか)にある場所(ばしょ)までの。
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seagull - 2009/5/23 15:43:00
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5月11日()

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渚(なぎさ)「続(つづ)きを思(おも)い出(だ)しました」
朋也(ともや)「あん?
なんのことだ」
渚(なぎさ)「お話(はなし)の続(つづ)きです」
朋也(ともや)「聞(き)かせてくれ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「女(おんな)の子(こ)と人形(にんぎょう)は、その世界(せかい)を出(で)ることにしたんです」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「人形(にんぎょう)は、ずっと遠(とお)くに、別(べつ)の世界(せかい)があることを知(し)っていたからです」
渚(なぎさ)「そこは、人(ひと)がたくさんいる、温(あたた)かな世界(せかい)です」
渚(なぎさ)「だから、ふたりは、今(いま)の寂(さび)しい世界(せかい)を抜(ぬ)け出(だ)すことを誓(ちか)って、旅(たび)に出(で)ます」
朋也(ともや)「それで…どうなるんだ」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「長(なが)い旅(たび)をして、その先(さき)で…」
朋也(ともや)「その先(さき)で?」
渚(なぎさ)「歌(うた)を歌(うた)います」
朋也(ともや)「歌(うた)?」
渚(なぎさ)「はい。歌(うた)です」
朋也(ともや)「マジかよ…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)です。ですから、劇(げき)の最後(さいご)にわたしが歌(うた)ったのは合(あ)っていたんです」
渚(なぎさ)「ちゃんと、話(はなし)の続(つづ)きになっていたんです」
朋也(ともや)「いや、でもさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「その女(おんな)の子(こ)、だんご大家族(だいかぞく)は歌(うた)わないだろ、さすがに」
渚(なぎさ)「それはわたしの趣味(しゅみ)です」
朋也(ともや)「知(し)ってるよ。それ以外(いがい)、考(かんが)えられるか」
朋也(ともや)「おまえ、ちゃんと劇(げき)が出来(でき)ていたのにさ…最後(さいご)にあれ歌(うた)うから、みんなひっくり返(かえ)ってたぜ?」
朋也(ともや)「感動(かんどう)が台無(だいな)しだ」
渚(なぎさ)「でも、微笑(ほほえ)ましいと思(おも)いました」
朋也(ともや)「そりゃそうかもしれないけどさ…」
朋也(ともや)「…ま、いいか」
朋也(ともや)「最高(さいこう)の出来(でき)だったよ、おまえの劇(げき)」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか?」
朋也(ともや)「ああ、俺(おれ)はお世辞(せじ)は言(い)わねぇよ。知(し)ってるだろ」
渚(なぎさ)「はい、知(し)ってます」
渚(なぎさ)「だから素直(すなお)に喜(よろこ)びます」
渚(なぎさ)「えへへ」
屈託(くったく)なく笑(わら)う渚(なぎさ)。
悲(かな)しみは乗(の)り越(こ)えられただろうか。
オッサンの言葉(ことば)を信(しん)じて。
それとも、まだまだこれからだろうか。
でも今(いま)は、この余韻(よいん)に浸(ひた)っていよう。
一(いっ)ヶ月(げつ)、頑張(がんば)ってきたんだからな。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)がこっちを向(む)く。
俺(おれ)はその顔(かお)に自分(じぶん)の顔(かお)を近(ちか)づけた。
声(こえ)「何(なに)しようとしてんだ、てめぇ」
殺気(さっき)を帯(お)びた声(こえ)。
渚(なぎさ)「あ、お父(とう)さん」
何(なに)をされようとしていたかも気(き)づいていない渚(なぎさ)が、後(うし)ろを向(む)いた。
秋生(あきお)「おめぇ、今(いま)、渚(なぎさ)にキスしようとしてただろ」
秋生(あきお)「いいか、こいつは、俺(おれ)のあそこから飛(と)び出(で)たものが、巨大化(きょだいか)して出来上(できあ)がったんだぞ」
秋生(あきお)「どうだ、そう考(かんが)えると、気色悪(きしょくわる)くてキスできまい」
この人(ひと)のあそこは実(じつ)に神秘的(しんぴてき)だ。
秋生(あきお)「つーわけで、夕飯(ゆうはん)だ。打(う)ち上(あ)げも兼(か)ねてるからな、飲(の)んで食(く)って騒(さわ)ぐぜ」
渚(なぎさ)「はい、とても楽(たの)しみです」
渚(なぎさ)「いきましょう、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「ああ」
こうして、辛(つら)さや悲(かな)しみ、喜(よろこ)びまでも、すべて詰(つ)め込(こ)んだような一日(いちにち)が終(お)わった。
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seagull - 2009/5/23 15:44:00
[wrap=

5月12日()

,0,]
翌日(よくじつ)は、待(ま)ちに待(ま)った…というのも子供(こども)っぽいが、ようやく恋人同士(こいびとどうし)で過(す)ごせる休日(きゅうじつ)だった。
午後(ごご)から、商店街(しょうてんがい)へと繰(く)り出(だ)して、羽(はね)を伸(の)ばした。
演劇(えんげき)の達成感(たっせいかん)も手伝(てつだ)ってか、本当(ほんとう)に子供(こども)のように、俺(おれ)と渚(なぎさ)ははしゃいだ。
女(おんな)の子(こ)向(む)けのアクセサリーや小物(こもの)が並(なら)ぶ店(みせ)にも、初(はじ)めて入(はい)った。
ゲーセンで、男(おとこ)の子(こ)向(む)けのゲームを二人(ふたり)でプレイした。
無意味(むいみ)に、春原(すのはら)の部屋(へや)にも寄(よ)った。
あんたら幸(しあわ)せそうっすね!というツッコミが返(かえ)ってきた。
予想通(よそうどお)りで笑(わら)えた。
朋也(ともや)「ここまで、きたんだ。学校(がっこう)に寄(よ)ってかないか」
俺(おれ)はそう提案(ていあん)してみた。
渚(なぎさ)「でも、学校(がっこう)閉(し)まってると思(おも)います」
朋也(ともや)「なんとでもなるよ」
渚(なぎさ)「え、それは、いけないことだと思(おも)います」
朋也(ともや)「だからいいんじゃん。ドキドキして面白(おもしろ)いと思(おも)うぜ」
朋也(ともや)「ほら、いこう」
渚(なぎさ)「あっ、待(ま)ってくださいっ」
先(さき)に、校門(こうもん)を乗(の)り越(こ)える。
後(あと)からのぼってきた渚(なぎさ)を抱(だ)きかかえ、地面(じめん)に降(お)ろす。
渚(なぎさ)「すみません、動(うご)きにくい服(ふく)でして…」
すぐ目(め)の前(まえ)に渚(なぎさ)の顔(かお)。
少(すこ)し見(み)つめ合(あ)った後(あと)、離(はな)れる。
渚(なぎさ)「すごくドキドキしてます」
朋也(ともや)「だろ」
その手(て)を引(ひ)く。
朋也(ともや)「いこう」
校内(こうない)に忍(しの)び込(こ)むのもたやすかった。
探(さが)せば、どこかの鍵(かぎ)は開(ひら)いているものなのだ。
俺(おれ)たちは、演劇部(えんげきぶ)の部室前(ぶしつまえ)まで来(き)ていた。
渚(なぎさ)「入(はい)れますか」
朋也(ともや)「下(した)、開(ひら)いてる」
渚(なぎさ)「そこから潜(もぐ)り込(こ)むんですか」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「服(ふく)、汚(よご)れちゃいます」
朋也(ともや)「そんなのはたけばいいだろ?」
渚(なぎさ)「これは、その…新(あたら)しい服(ふく)でして…」
渚(なぎさ)「今日(きょう)のデートのためにと…」
朋也(ともや)「嫌(いや)か?」
渚(なぎさ)「ええと…」
渚(なぎさ)「もうなんでもいいです。どこまでもついていきますっ」
朋也(ともや)「そうか。よし、先入(さきいれ)るな」
朋也(ともや)「あ、俺(おれ)が先(さき)に入(はい)って、中(なか)から開(あ)けてやればよかったんだな」
開(ひら)いてみせる。
渚(なぎさ)「遅(おそ)いですっ」
朋也(ともや)「ま、いいじゃん。こんなこと、普段(ふだん)しないだろ?」
渚(なぎさ)「女(おんな)の子(こ)がそんなところから出入(でい)りしてたら、ヘンな子(こ)です」
朋也(ともや)「そうそう。普段(ふだん)できない。だから、ドキドキして面白(おもしろ)いんじゃん」
朋也(ともや)「ふぅ…」
息(いき)を整(ととの)える。
しんとしていた。
こんな大(おお)きな建物(たてもの)の中(なか)にふたりきりでいる。
誰(だれ)も立(た)ち入(い)れない場所(ばしょ)。
大声(おおごえ)をあげても誰(だれ)にも届(とど)かない場所(ばしょ)。
胸(むね)が高鳴(たかな)る。
今(いま)まで、遊(あそ)び回(まわ)っていた場所(ばしょ)とは違(ちが)うんだ。
今(いま)、本当(ほんとう)にふたりだけでいるんだ。
この閉(と)ざされた場所(ばしょ)に。
渚(なぎさ)の横顔(よこがお)を見(み)る。
まだ、不安(ふあん)なのだろうか。誰(だれ)もいない廊下(ろうか)をドア越(こ)しに覗(のぞ)いていた。
俺(おれ)の彼女(かのじょ)…
乱暴(らんぼう)に言(い)ってしまえば、俺(おれ)のもので…
他人(たにん)がしたいと思(おも)ってもできないことでも、俺(おれ)なら許(ゆる)されるんだ。
渚(なぎさ)に片思(かたおも)いの奴(しゃつ)め…うらやましいだろう。
いるかどうか知(し)らないけどさ…。
いや、きっといる。こんなに可愛(かわい)い奴(やつ)、クラスにちょっとしかいない。
俺(おれ)は寄(よ)っていって、そっとその背中(せなか)を抱(だ)きしめた。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
じっとしていてくれる。
誰(だれ)も、こんなことできないんだ。俺(おれ)だけなんだ。
その首筋(くびすじ)に鼻(はな)を埋(う)める。
渚(なぎさ)のいい匂(にお)いに満(み)たされる。
こっちを向(む)かせて…キスしよう。
肩(かた)に置(お)いた手(て)に力(ちから)を込(こ)める。
渚(なぎさ)「あ…」
俺(おれ)の意図(いと)に気(き)づく前(まえ)に、渚(なぎさ)が声(こえ)をあげていた。
本当(ほんとう)に誰(だれ)か来(き)たのか?
その視線(しせん)の先(さき)を追(お)ってみる。
…黒板(こくばん)だった。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「あれ、なんですか」
朋也(ともや)「あれって?」
渚(なぎさ)「なにか書(か)いてあります」
渚(なぎさ)「…わたしの名前(なまえ)です」
俺(おれ)の手(て)を振(ふ)りきって、黒板(こくばん)の前(まえ)まで歩(ある)いていく。
渚(なぎさ)「わたし、日直(にっちょく)になってますっ」
朋也(ともや)「ああ、ずいぶん前(まえ)の落書(らくしょ)きだな、忘(わす)れてた」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんですかっ」
朋也(ともや)「ああ、そうだけど」
渚(なぎさ)「もう、こんなことしたらダメです」
渚(なぎさ)は、チョークを手(て)に持(も)つ。
…チョーク?
渚(なぎさ)は、自分(じぶん)の名前(なまえ)の隣(となり)に、何(なに)かを書(か)き足(た)す。
渚(なぎさ)「わたしひとりにしたら、ダメです」
…岡崎朋也(おかざきともや)。俺(おれ)の名前(なまえ)だった。
渚(なぎさ)「なんでも、一緒(いっしょ)がいいです」
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
すごく幸(しあわ)せな気分(きぶん)になる。
朋也(ともや)「でも、なんだか…自分(じぶん)たちで相合(あいあ)い傘(がさ)を書(か)いてるようで恥(は)ずかしいな」
渚(なぎさ)「そうですか?
ちょっと恥(は)ずかしかったですか」
朋也(ともや)「ちょっとだけな」
朋也(ともや)「でも、この場所(ばしょ)は、当分(とうぶん)誰(だれ)も訪(おとず)れないだろうからな」
朋也(ともや)「もし来年(らいねん)、新入生(しんにゅうせい)が入(はい)ってきて、また演劇部(えんげきぶ)を作(つく)ったとしても…」
朋也(ともや)「その中(なか)に、俺(おれ)たちのことを知(し)る人間(にんげん)はいないし…」
朋也(ともや)「このまま残(のこ)しておいても、いいんじゃないかな」
渚(なぎさ)「じゃ、ずっとこのままです」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「ずっと、一緒(いっしょ)です…えへへ」
これは記念(きねん)だ。
俺(おれ)たちが、ここで一緒(いっしょ)に過(す)ごして、頑張(がんば)ったという。
そして、俺(おれ)たちは出会(であ)い、付(つ)き合(あ)い始(はじ)めたという。
学校(がっこう)から抜(ぬ)け出(だ)すと、もう日(ひ)は暮(く)れかかっていた。
長(なが)い影(かげ)を伸(の)ばして、並(なら)んで歩(ある)いた。
渚(なぎさ)「今(いま)、すごく幸(しあわ)せです」
渚(なぎさ)「いろんな人(ひと)に分(わ)け与(あた)えてあげたいぐらいです…」
渚(なぎさ)「でも、身分不相応(みぶんふそうおう)といいますか…」
渚(なぎさ)「わたしには、すごく贅沢(ぜいたく)なことです…」
朋也(ともや)「んなこといったら、俺(おれ)だってそうだぞ」
朋也(ともや)「おまえみたいな彼女(かのじょ)がいてくれるんだから…」
朋也(ともや)「…贅沢(ぜいたく)すぎるだろ」
ああ、俺(おれ)はなんて恥(は)ずかしいことを言(い)ってるんだろう。
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか」
朋也(ともや)「ああ」
付(つ)き合(あ)い始(はじ)めてから、どれだけ時間(じかん)が経(た)っただろう。
付(つ)き合(あ)い始(はじ)めた頃(ころ)より、渚(なぎさ)のことが好(す)きになっていた。
渚(なぎさ)「ふたりが贅沢(ぜいたく)って思(おも)ってるなら…」
渚(なぎさ)「それはすごく恵(めぐ)まれたカップルです」
カップル…なんて、自分(じぶん)で言(い)えるのだから、笑(わら)える。
そういうところも大好(だいす)きだ。
渚(なぎさ)「相性(あいしょう)バッチリです」
渚(なぎさ)「…えへへ」
自然(しぜん)と手(て)を繋(つな)ぐ。
朋也(ともや)「………」
その手(て)が、やけに熱(あつ)かった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…?」
その顔(かお)を覗(のぞ)き込(こ)む。
渚(なぎさ)「はい…なんでしょうか」
夕日(ゆうひ)のせいか、顔かお)は赤(あか)いままだ。
俺(おれ)はそっと、その額(ひたい)に手(て)を当(あ)てた。
…熱(あつ)い。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…おまえ、熱(ねつ)あるんじゃないのか」
渚(なぎさ)「いえ、大丈夫(だいじょうぶ)です」
ずっと、気取(きど)られないようにしていたのか。
朋也(ともや)「いつから、熱(ねつ)っぽかったんだよ…」
渚(なぎさ)「ぜんぜん平気(へいき)です…」
朋也(ともや)「俺(おれ)に嘘(うそ)なんてつくなっ」
渚(なぎさ)「ごめんなさいです…」
渚(なぎさ)「実(じつ)は学校(がっこう)を出(で)てから、熱(ねつ)っぽかったです…」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)…早(はや)く言(い)ってくれ…」
渚(なぎさ)「ごめんなさいです…」
朋也(ともや)「もう、いいから…」
朋也(ともや)「帰(かえ)ろうな」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の脇(わき)に腕(うで)を回(まわ)して、歩(ある)き始(はじ)めた。
朋也(ともや)「どうでしたか、早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。落(お)ち着(つ)いてください」
朋也(ともや)「すみません…俺(おれ)が無理(むり)させすぎたかもしれないです」
早苗(さなえ)「そんなに恐縮(きょうしゅく)しないでください。自分(じぶん)の彼女(かのじょ)じゃないですか」
朋也(ともや)「え…知(し)ってたんですか」
早苗(さなえ)「わかりますよ、それぐらい。自分(じぶん)の娘(むすめ)ですから」
朋也(ともや)「至(いた)らない彼氏(かれし)っす」
早苗(さなえ)「そんなことないですよ」
早苗(さなえ)「岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「はい」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんとお呼(よ)びしていいですか」
ますます渚(なぎさ)に似(に)てきた。まぁ、渚(なぎさ)は『くん』だけど。
朋也(ともや)「ええ、そうしてください」
早苗(さなえ)「では、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はい」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)はこんなふうに体(からだ)が弱(よわ)い子(こ)ですが…末永(すえなが)くお付(つ)き合(あ)いください。よろしくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「いえ、こちらこそお願(ねが)いしたいくらいです。嫌(きら)われないようにしないと…」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。何(なに)かあったときは力(ちから)になります」
朋也(ともや)「それは頼(たの)もしいです」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも疲(つか)れたでしょう。渚(なぎさ)のことはわたしに任(まか)せて、休(やす)んでください」
朋也(ともや)「一日中(いちにちじゅう)遊(あそ)んでおいて、面目(めんぼく)ないです」
早苗(さなえ)「いいえ」
朋也(ともや)「それじゃ、お言葉(ことば)に甘(あま)えさせていただきます」
早苗(さなえ)「はいっ」
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seagull - 2009/5/23 15:44:00
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5月13日()

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翌朝(よくあさ)。
結局(けっきょく)渚(なぎさ)の熱(ねつ)は下(さ)がらず、学校(がっこう)を欠席(けっせき)することになる。
朋也(ともや)「いってくるからな、渚(なぎさ)」
寝込(ねこ)んだままの渚(なぎさ)に声(こえ)をかける。
渚(なぎさ)「はい、いってらっしゃいです」
顔(かお)だけこちらに向(む)けて、笑顔(えがお)で送(おく)ってくれる。
廊下(ろうか)に戻(もど)ると、お粥(かゆ)を載(の)せた盆(ぼん)を持(も)って、オッサンが立(た)っていた。
秋生(あきお)「てめぇらは新婚夫婦(しんこんふうふ)かっ」
今(いま)のやり取(と)りを聞(き)かれていたようだ。
秋生(あきお)「ちっ、自分(じぶん)たちだけ楽(たの)しみやがって、俺(おれ)と早苗(さなえ)も新婚生活(しんこんせいかつ)に戻(もど)せ、この野郎(やろう)」
朋也(ともや)「無理(むり)です」
秋生(あきお)「わかってるよ、馬鹿(ばか)っ。俺(おれ)と早苗(さなえ)はアツアツだからいいんだよ、この野郎(やろう)」
朋也(ともや)「なら、言(い)うな」
秋生(あきお)「けっ…てめぇと話(はな)してたら、渚(なぎさ)の朝食(ちょうしょく)が冷(さ)めちまう。とっとと行(い)け、この野郎(やろう)」
朋也(ともや)「言(い)われなくても、行(い)くよ」
秋生(あきお)「こら待(ま)て、両手(りょうて)ふさがってるんだから、おまえが開(あ)けねぇと入(い)れないだろ、この野郎(やろう)」
今(いま)のうちに一発(いっぱつ)殴(なぐ)っておこうかと思(おも)う。
秋生(あきお)「ちなみに日中(にっちゅう)は渚(なぎさ)と話(はなし)をするからな、妬(や)くんじゃねぇぞ、この野郎(やろう)」
朋也(ともや)「なんの話(はなし)だ」
秋生(あきお)「家族(かぞく)の話(はなし)だよ。これだけはてめぇに任(まか)せておけねぇからな。しばくぞ、この野郎(やろう)」
朋也(ともや)「ああ、いい。任(まか)せるよ」
この家族(かぞく)ならば、できてしまった溝(みぞ)だって、簡単(かんたん)に埋(う)まってしまうのだろう。
そう思(おも)いながら、その場(ば)を後(あと)にした。
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seagull - 2009/5/23 15:45:00
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5月14日()

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翌朝(よくあさ)も渚(なぎさ)の熱(ねつ)は下(さ)がらなかった。
しかし俺(おれ)にできることは何(なに)ひとつなく、学校(がっこう)に行(い)くしかなかった。
昼(ひる)の間(あいだ)に、かかりつけの医者(いしゃ)も来(き)たらしい。
でも熱(ねつ)を下(さ)げる手(て)だてはなく、ただ、安静(あんせい)にして様子(ようす)見(み)する他(ほか)ない、ということだった。
ずっと、早苗(さなえ)さんの看病(かんびょう)が続(つづ)く。
俺(おれ)はその合間(あいま)を見(み)て、渚(なぎさ)に会(あ)いに行(い)くだけだった。
渚(なぎさ)「今日(きょう)も休(やす)んでしまいました」
朋也(ともや)「いいんだよ。よくなるまで、休(やす)んでいればいい」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)は、楽(たの)しかったですか」
朋也(ともや)「楽(たの)しかねぇよ」
渚(なぎさ)「どうしてですか」
朋也(ともや)「おまえがいないからだよ」
渚(なぎさ)「すみません…」
渚(なぎさ)「でも、うれしいです。そう言(い)ってもらえると」
朋也(ともや)「俺(おれ)、ずっと待(ま)ってたんだ」
渚(なぎさ)「なにをですか」
朋也(ともや)「バスケとかやってさ…」
朋也(ともや)「創立者祭(そうりつしゃさい)に向(む)けて演劇(えんげき)頑張(がんば)ったりさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「やっと、付(つ)き合(あ)ってるふたりっぽく、学校(がっこう)で過(す)ごせると思(おも)ったんだ」
朋也(ともや)「そういう生活(せいかつ)を待(ま)ってたんだ」
渚(なぎさ)「すみません…」
朋也(ともや)「そういうのって、学生生活(がくせいせいかつ)の醍醐味(だいごみ)だと思(おも)わないか」
渚(なぎさ)「思(おも)います」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に、そう思(おも)うか」
渚(なぎさ)「え?
どうしてですか?」
朋也(ともや)「だって、おまえ、そういうこと全然(ぜんぜん)意識(いしき)してくれないからさ」
渚(なぎさ)「そ、そうでしょうか…」
朋也(ともや)「おまえ、子供(こども)だからなぁ」
渚(なぎさ)「そんなことないです」
渚(なぎさ)「わたし、朋也(ともや)くんより年上(としうえ)です」
朋也(ともや)「いや、歳(とし)は関係(かんけい)ないだろ」
渚(なぎさ)「でも、ちゃんとわたしだって、そういうことしたいです」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)や、いろんなところで、朋也(ともや)くんとそういうことしたいです」
朋也(ともや)「そういうことって…?」
渚(なぎさ)「その…並(なら)んで歩(ある)いて…お話(はな)したりです」
朋也(ともや)「それって、いつもしてるような気(き)がするんだけど」
渚(なぎさ)「あ、そうかもしれないです…じゃあ…」
渚(なぎさ)「手(て)をつないで、歩(ある)きます」
朋也(ともや)「…よし」
朋也(ともや)「じゃあ、早(はや)くよくなって、そうしようぜ」
朋也(ともや)「俺(おれ)、それ期待(きたい)して、待(ま)ってるからさ」
渚(なぎさ)「はい、わかりました」
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seagull - 2009/5/23 15:47:00
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一週間(いっしゅうかん)が過(す)ぎても、二週間(にしゅうかん)が過(す)ぎても、渚(なぎさ)は学校(がっこう)には行(い)けなかった。
ずっと、下(さ)がりそうで下(さ)がらない微熱(びねつ)が続(つづ)いていた。
一度(いちど)無理(むり)して登校(とうこう)しようとしたが、立(た)って歩(ある)いただけで、熱(あつ)が上(あ)がってしまった。
5月(がつ)が終(お)わり、夏(なつ)が近(ちか)づいてきて…
6月(がつ)が来(き)て、衣替(ころもが)えをして…
夏休(なつやす)みになっても、渚(なぎさ)は部屋(へや)の中(なか)にいた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
朋也(ともや)「なんだ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「夏休(なつやす)みです」
朋也(ともや)「そうだな、夏休(なつやす)みだな」
渚(なぎさ)「わたしに構(かま)わないで、遊(あそ)んできてください」
朋也(ともや)「いいんだよ、ここに居(い)させてくれ」
渚(なぎさ)「こんなところに居(い)ても、退屈(たいくつ)です」
朋也(ともや)「退屈(たいくつ)じゃない。こうして話(はなし)できるだろ」
渚(なぎさ)「そんな夏休(なつやす)みってないです。楽(たの)しい思(おも)い出(で)もできないです」
朋也(ともや)「楽(たの)しいんだよ、これで」
渚(なぎさ)「でも、もう話(はな)す話題(わだい)もないです」
渚(なぎさ)「わたしは寝(ね)てるだけですから…」
朋也(ともや)「いいんだよ、話(はな)すことなんてなくても」
朋也(ともや)「俺(おれ)は期待(きたい)して待(ま)ってる。それを思(おも)うだけで楽(たの)しいんだよ」
渚(なぎさ)「何(なに)をですか」
朋也(ともや)「おまえと手(て)をつないで歩(ある)ける日(ひ)をだよ」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「他(ほか)のひとと…」
朋也(ともや)「…ん?」
渚(なぎさ)「他(ほか)のひとと手(て)をつないで歩(ある)いてくれても…わたしは構(かま)わないです」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)っ、怒(おこ)るぞ」
渚(なぎさ)「だって、こんなわたしが彼女(かのじょ)ではおもしろくないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが、かわいそうです…」
朋也(ともや)「おまえ、俺(おれ)を振(ふ)る気(き)かよ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はおまえのこと好(す)きなのに、おまえは違(ちが)う人(ひと)を探(さが)せって俺(おれ)に言(い)うのかよ…」
渚(なぎさ)「言(い)いたくないです…」
渚(なぎさ)「わたしも、朋也(ともや)くんのこと好(す)きですから…」
朋也(ともや)「なら、言(い)うな、馬鹿(ばか)…」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「二度(にど)と言(い)うなよ…」
渚(なぎさ)「はい…わかりました」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「ああ、なんだ」
渚(なぎさ)「手(て)、つないでくれますか」
渚(なぎさ)「歩(ある)くことはできないですけど…」
朋也(ともや)「ああ、いいよ」
渚(なぎさ)が、細(ほそ)く白(しろ)い腕(うで)を上(あ)げる。
俺(おれ)はその手(て)のひらを自分(じぶん)の両手(りょうて)で強(つよ)く握(にぎ)った。
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「疲(つか)れたろ、眠(ねむ)るか」
渚(なぎさ)「はい、そうします」
朋也(ともや)「ああ、そうしろ」
渚(なぎさ)が目(め)を閉(と)じる。
じわっと、押(お)し出(だ)された涙(なみだ)が零(こぼ)れた。
せめて…夢(ゆめ)の中(なか)では、ふたりで歩(ある)けますように。
二学期(にがっき)が始(はじ)まった。
学校(がっこう)では、皆(みな)、来春(らいしゅん)の自分(じぶん)を見据(みす)えて、脇目(わきめ)も振(ふ)らず勉強(べんきょう)していた。
休(やす)み時間(じかん)になっても、机(つくえ)を離(はな)れず、参考書(さんこうしょ)に向(む)かっていた。
そんな中(なか)、俺(おれ)だけは、渚(なぎさ)のことを考(かんが)えていた。
あいつが今年(ことし)学校(がっこう)に居(い)たのは、たった一(いっ)ヶ月(げつ)だけだ。
その短(みじか)い間(あいだ)に、俺(おれ)はあいつと出会(であ)って、ひとつの目標(もくひょう)に向(む)かって頑張(がんば)って…
俺(おれ)が三年(さんねん)かかっても、できなかったことをやり遂(と)げた。
そして、俺(おれ)はあいつのことを好(す)きになっていた。
最初(さいしょ)は自分(じぶん)を支(ささ)えてくれる存在(そんざい)として、必要(ひつよう)とした。
でも、今(いま)はただ、好(す)きなだけだった。
一緒(いっしょ)に同(おな)じ時間(じかん)を過(す)ごしたい。
それだけだ。
不良(ふりょう)とダブリの組(く)み合(あ)わせとか、後(うし)ろ指(さ)さされたっていい。
校内(こうない)をふたりで歩(ある)きたかった。
今(いま)は、それだけが俺(おれ)の望(のぞ)みだった。
残暑(ざんしょ)の厳(きび)しい9月(がつ)が終(お)わり、秋(あき)の気配(けはい)が近(ちか)づく頃(ころ)。
俺(おれ)はオッサンに呼(よ)び出(だ)され、古河(ふるかわ)家(いえ)の話(はな)し合(あ)いの場(ば)に会(かい)すことになる。
秋生(あきお)「まぁ、てめぇには言(い)っておいたほうがいいと思(おも)ってな」
オッサンはそれだけを言(い)って、頬杖(ほおづえ)をついてそっぽを向(む)く。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん」
早苗(さなえ)さんが話(はなし)を引(ひ)き継(つ)いだ。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)は、もう一年(いちねん)、三年生(さんねんせい)をやることになるかもしれないです」
朋也(ともや)「え…」
朋也(ともや)「それは…卒業(そつぎょう)できないって…ことですか…」
早苗(さなえ)「はい、このままだと」
俺(おれ)はそこまで頭(あたま)が回(まわ)っていなかった。
ただ、本当(ほんとう)に回復(かいふく)するのを待(ま)ち続(つづ)けていただけなのだ。
今更(いまさら)自分(じぶん)を馬鹿(ばか)だと思(おも)った。
朋也(ともや)「………」
早苗(さなえ)「先生(せんせい)は中退(ちゅうたい)して、療養(りょうよう)に専念(せんねん)すべきじゃないかと、言(い)ってくれました」
早苗(さなえ)「学業(がくぎょう)がすべてじゃないですから」
早苗(さなえ)「わたしたちも、学歴(がくれき)になんてこだわりません」
早苗(さなえ)「すべてはあの子(こ)の意志(いし)に任(まか)せたいと思(おも)います」
早苗(さなえ)「だからもし、あの子(こ)が卒業(そつぎょう)できなくても…」
早苗(さなえ)「そこでどんな選択(せんたく)をしようとも…」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、受(う)け入(い)れてあげてくださいね」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「嫌(いや)だ…」
早苗(さなえ)「え…?」
朋也(ともや)「嫌(いや)だって言(い)ったんです」
朋也(ともや)「俺(おれ)はあいつと卒業(そつぎょう)したい。それ以外(いがい)は嫌(いや)なんです」
秋生(あきお)「わがまま言(い)うな、馬鹿(ばか)」
秋生(あきお)「てめぇなんかより、本人(ほんにん)のほうがよっぽど辛(つら)ぇんだ」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんの気持(きも)ちはよくわかります」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、この半年(はんとし)、ずっと渚(なぎさ)のそばに居(い)てくれた人(ひと)です」
早苗(さなえ)「とても、深(ふか)い絆(きずな)が生(う)まれたんだと思(おも)います」
早苗(さなえ)「だから、一緒(いっしょ)に卒業(そつぎょう)できないこと、その辛(つら)さはよくわかります」
秋生(あきお)「てめぇ、だから、本人(ほんにん)のほうが辛(つら)ぇって言(い)ってんだろ、馬鹿(ばか)」
早苗(さなえ)「いえ、秋生(あきお)さん。同(おな)じくらい辛(つら)いんだと思(おも)いますよ」
秋生(あきお)「ちっ、なら一緒(いっしょ)にダブっちまえ、馬鹿(ばか)」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、まだ渚(なぎさ)は卒業(そつぎょう)できないと決(き)まったわけではないですよ」
秋生(あきお)「ああ、そうだな。わりぃ」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん。まだいいです。でも、ゆっくりでいいですから、考(かんが)えていってください」
早苗(さなえ)「そんな日(ひ)が来(く)るかもしれない、ということを」
朋也(ともや)「………」
わかっている。目(め)の前(まえ)のふたりは、渚(なぎさ)にとって最高(さいこう)の両親(りょうしん)だ。
そのふたりが、間違(まちが)ったことを考(かんが)えるはずがない。
俺(おれ)ひとりが子供(こども)なんだ。
だったら、今(いま)は素直(すなお)に返事(へんじ)をするしかなかった。
朋也(ともや)「…はい」
11月(がつ)になると、突然(とつぜん)肌寒(はださむ)くなった。
俺(おれ)は風邪(かぜ)をこじらせ、それを移(うつ)すまいと、しばらく渚(なぎさ)に会(あ)わないようにした。
12月(がつ)もあっという間(ま)に過(す)ぎ去(さ)ろうとしていた。
けど、クリスマスだけは…と、忙(いそが)しく過(す)ぎる時間(じかん)の中(なか)で、俺(おれ)は足(あし)を止(と)めていた。
恋人同士(こいびとどうし)には、特別(とくべつ)な日(ひ)だ。
そして、俺(おれ)には、その恋人(こいびと)…渚(なぎさ)の誕生日(たんじょうび)でもあった。
とてもとても大切(たいせつ)な日(ひ)だ。
こんな日(ひ)だけは、どうかゆっくりと、時間(じかん)が流(なが)れてほしい。
渚(なぎさ)の部屋(へや)で、ささやかなパーティーをした。
俺(おれ)、渚(なぎさ)、早苗(さなえ)さん、オッサンといういつもの面々(めんめん)で。
早苗(さなえ)さんが作(つく)ってくれたケーキは、十九本(じゅうきゅうほん)のろうそくともみの木(き)が立(た)ち並(なら)ぶ、クリスマスケーキとバースデイケーキを兼(か)ねたものだった。
その火(ひ)を渚(なぎさ)が吹(ふ)いて消(け)した。
渚(なぎさ)は一口(ひとくち)だけ食(た)べて、残(のこ)りを三人(さんにん)で食(た)べた。
俺(おれ)は、おもちゃ屋(や)を何軒(なにけん)も回(まわ)って見(み)つけだした、だんご大家族(だいかぞく)の大(おお)きなぬいぐるみを渚(なぎさ)にプレゼントした。
喜(よろこ)んだ後(あと)、渚(なぎさ)は返(かえ)すものがないと言(い)って、落(お)ち込(こ)んだ。
でも、早苗(さなえ)さんがだんご大家族(だいかぞく)の歌(うた)を歌(うた)いだすと、渚(なぎさ)も笑顔(えがお)で歌(うた)い出(だ)した。
いつしかみんなで、だんご大家族(だいかぞく)の歌(うた)を合唱(がっしょう)していた。
渚(なぎさ)は本当(ほんとう)に楽(たの)しそうに歌(うた)っていた。
歌(うた)い終(お)わった後(あと)、渚(なぎさ)はみんなに礼(れい)を言(い)って…
そして泣(な)いた。
渚(なぎさ)「ありがとうございます、朋也(ともや)くん、お父(とう)さん、お母(かあ)さん…」
渚(なぎさ)「こんなわたしのために…」
秋生(あきお)「こんな、じゃねぇ。渚(なぎさ)、てめぇは俺(おれ)たちの大事(だいじ)な家族(かぞく)なんだよ」
秋生(あきお)「おまえが幸(しあわ)せになれば、俺(おれ)たちも幸(しあわ)せになれらぁ」
秋生(あきお)「だから、幸(しあわ)せになれ、渚(なぎさ)」
秋生(あきお)「誰(だれ)よりもな」
渚(なぎさ)「はい、がんばります」
涙(なみだ)を拭(ぬぐ)いて、頷(うなず)いた。
秋生(あきお)「よしっ」
その数時間前(すうじかんまえ)には…
渚(なぎさ)の留年(りゅうねん)が決定(けってい)していたのだった。
1月(がつ)、2月(がつ)も療養(りょうよう)に費(つい)やした。
体(からだ)を動(うご)かさなければ、平熱(へいねつ)を保(たも)てる状態(じょうたい)にまで落(お)ち着(つ)いた。
ふたりで、窓(まど)から初雪(はつゆき)も見(み)た。
風邪(かぜ)を引(ひ)かないようにと、その体(からだ)を後(うし)ろから抱(だ)きながら。
小(ちい)さくて弱(よわ)い存在(そんざい)。
それでも、頑張(がんば)り続(つづ)ける存在(そんざい)。
ずっと、守(まも)っていきたいと思(おも)った。
3月(がつ)。
まだ冷(つめ)たい風(かぜ)が吹(ふ)く日(ひ)。
卒業式(そつぎょうしき)が行(おこな)われた。
朋也(ともや)「なぁ、春原(すのはら)」
春原(すのはら)「あん?」
朋也(ともや)「今(いま)から、窓(まど)ガラスをふたりで割(わ)って回(まわ)らないか」
春原(すのはら)「なんだよ、それ」
朋也(ともや)「いや、そうすれば、留年(りゅうねん)するかなって、さ」
春原(すのはら)「留年(りゅうねん)じゃなくて、退学(たいがく)な」
朋也(ともや)「そっか…だったら意味(いみ)ねぇな」
春原(すのはら)「……?」
その日(ひ)、俺(おれ)は卒業(そつぎょう)した。
大切(たいせつ)なものを、残(のこ)したままで。
渚(なぎさ)「卒業(そつぎょう)おめでとうございます」
表(おもて)で、渚(なぎさ)が待(ま)っていた。
初(はじ)めてデートした時(とき)のお気(き)に入(はい)りの服(ふく)を着(き)て。
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、こんな風(かぜ)が冷(つめ)たい日(ひ)に出(で)るんじゃねぇよ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)は、校門(こうもん)まで行(い)きたかったです」
朋也(ともや)「体力(たいりょく)つけてからにしてくれ」
渚(なぎさ)「見(み)たかったんです、どうしても」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの…最後(さいご)の学生服姿(がくせいふくすがた)」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「そうだよな…」
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)、卒業(そつぎょう)しちまった」
朋也(ともや)「二度(にど)と、あの学校(がっこう)には戻(もど)れなくなったんだ」
朋也(ともや)「二度(にど)と、叶(かな)えられなくなったんだ」
朋也(ともや)「手(て)をつないでさ…校内(こうない)を歩(ある)くこと」
朋也(ともや)「他(ほか)にもさ、いっぱいやりたいことあったんだ」
朋也(ともや)「春(はる)だけじゃなくて、夏(なつ)も、秋(あき)も、冬(ふゆ)もさ…」
朋也(ともや)「どんな時(とき)もさ、おまえとふたりで過(す)ごしたかったんだ」
朋也(ともや)「おまえとの思(おも)い出(で)、たくさん作(つく)りたかったんだ」
朋也(ともや)「学校(がっこう)なんて、大嫌(だいきら)いだったけどさ…」
朋也(ともや)「おまえとなら、いつまでだって過(す)ごしていたいと思(おも)ったんだ」
朋也(ともや)「そんなこと思(おも)うなんてさ…思(おも)わなかった」
朋也(ともや)「ずっと腐(くさ)ったような学生生活(がくせいせいかつ)を続(つづ)けてきて…」
朋也(ともや)「それでも、おまえと過(す)ごした一(いっ)ヶ月(げつ)だけはさ…」
朋也(ともや)「…楽(たの)しかったんだ」
なぜだか、視界(しかい)が揺(ゆ)らいで…仕方(しかた)がなかった。
俺(おれ)は顔(かお)を伏(ふ)せた。
朋也(ともや)「幸(しあわ)せだったんだ…」
朋也(ともや)「ずっと過(す)ごしていたい…」
朋也(ともや)「おまえと、あの大嫌(だいきら)いな学校(がっこう)でずっと過(す)ごしていたい…」
堪(た)えきれず、涙(なみだ)が頬(ほお)を伝(つた)い始(はじ)めた。
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は…そうしたかったんだ…」
朋也(ともや)「そう…」
涙声(なみだごえ)になって…聞(き)き取(と)れないような声(こえ)で…俺(おれ)は喋(しゃべ)り続(つづ)けた。
朋也(ともや)「なのに…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はもう…」
もう…
朋也(ともや)「………」
…言葉(ことば)が出(で)なかった。
代(か)わりに涙(なみだ)が、とめどなくあふれ出(で)た。
ぽたぽたと地面(じめん)に落(お)ち続(つづ)けていた。
子供(こども)のように、俺(おれ)は泣(な)き続(つづ)けた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「なんだよ…」
渚(なぎさ)「手(て)をつないでもいいですか」
朋也(ともや)「なんでだよ…」
渚(なぎさ)「歩(ある)きたいです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと、手(て)をつないで歩(ある)きたいです」
朋也(ともや)「やめとけよ…また熱(ねつ)…ぶり返(かえ)すぞ…」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。ちょっとだけです」
渚(なぎさ)「いいですか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…好(す)きにしろよ」
渚(なぎさ)「はい。好(す)きにします」
俺(おれ)の手(て)より冷(つめ)たい手(て)。
それが俺(おれ)の手(て)をぐっと握(にぎ)った。
渚(なぎさ)「歩(ある)きましょう、朋也(ともや)くん」
俺(おれ)の泣(な)き濡(ぬ)れた顔(かお)を笑(わら)いもせずに…穏(おだ)やかな顔(かお)で、そう渚(なぎさ)は言(い)った。
俺(おれ)たちは歩(ある)いた。
春(はる)の光(ひかり)の中(なか)を。
ゆっくりと、ゆっくりと。
ずっと手(て)をつないで。
渚(なぎさ)の小(ちい)さな手(て)が、愛(あい)おしくて…仕方(しかた)がなかった。
渚(なぎさ)が、好(す)きで好(す)きで、仕方(しかた)がなかった。
俺(おれ)は…立(た)ち止(ど)まってしまった。
朋也(ともや)「俺(おれ)もやっぱり…留年(りゅうねん)するべきだったんだ…」
渚(なぎさ)「違(ちが)います、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「そんなことで足(あし)を止(と)めたらダメです」
渚(なぎさ)「がんばれるなら、がんばるべきなんです」
渚(なぎさ)「進(すす)めるなら、前(まえ)に進(すす)むべきなんです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは、進(すす)んでください」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…渚(なぎさ)は、強(つよ)くなったな」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「だから、わたしは…」
渚(なぎさ)「もう一年(いちねん)がんばります」
朋也(ともや)「そうか…」
朋也(ともや)「そう決(き)めたのか、渚(なぎさ)は」
渚(なぎさ)「はい。決(き)めました」
俺(おれ)のいない学校(がっこう)で渚(なぎさ)は大丈夫(だいじょうぶ)だろうか。
さらなるハンデを背負(せお)って。
また、あの坂(さか)の下(した)で、立(た)ち止(ど)まってしまわないだろうか。
俺(おれ)がその背(せ)を押(お)してやらなくて大丈夫(だいじょうぶ)だろうか。
登(のぼ)っていけるだろうか。
歩(ある)いていけるだろうか。
………。
でも、ずっと頑張(がんば)り続(つづ)けて…
そして、最後(さいご)にはやり遂(と)げたこいつだったから…
きっと、登(のぼ)っていける…
その先(さき)へ、歩(ある)いていける。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)」
俺(おれ)はその細(ほそ)い肩(かた)を抱(だ)きしめた。
朋也(ともや)「俺(おれ)、ずっと待(ま)ってるから…」
そして、
朋也(ともや)「頑張(がんば)れ…」
励(はげ)ました。
渚(なぎさ)「はい、がんばります」
今度(こんど)は立(た)ち止(ど)まることなく…歩(ある)きたかった。
どこまでも、どこまでも。
ずっと続(つづ)く、坂道(さかみち)でも…
ふたりで。
[/wrap]
一家一台ことみ弐号 - 2009/5/23 22:30:00
おめでとう…
それとごくろうさま…なの
:miffy5:
seagull - 2009/5/25 14:44:00
[wrap=

幻想世界XI,0,]


彼女(かのじょ)の歩(あゆ)みが止(と)まった。
長(なが)いこと、雪(ゆき)の上(うえ)にうずくまっていた。
僕(ぼく)は彼女(かのじょ)の顔(かお)にかぶった雪(ゆき)を払(はら)い退(の)ける。
すると、笑顔(えがお)が現(あらわ)れた。
彼女(かのじょ)は手(て)を伸(の)ばして、自分(じぶん)の体(からだ)を引(ひ)っ張(ぱ)りあげるように、雪(ゆき)を掻(か)いた。
でも、前(まえ)には進(すす)まなかった。
僕(ぼく)は彼女(かのじょ)のお腹(はら)の下(した)に潜(もぐ)り込(こ)む。
力(ちから)を振(ふ)り絞(しぼ)る。
ずず、と彼女(かのじょ)の体(からだ)が動(うご)いた。
…ありがとう。
声(こえ)が聞(き)こえた。
僕(ぼく)の体(からだ)がきしみをあげる。
後(あと)、何歩(なんほ)で辿(たど)り着(つ)けるのだろうか。
後(あと)、一歩(いっぽ)のところまで来(き)てるのだろうか。
それとも、まだ果(は)てしない数(かず)を数(かぞ)えなければならないのだろうか。
だったら…無理(むり)だ。
絶望感(ぜつぼうかん)に打(う)ちひしがれる。
………。
不意(ふい)に、僕(ぼく)の体(からだ)が持(も)ち上(あ)がる。
僕(ぼく)の下(した)にさらに、何(なに)かがいた。
小(ちい)さな…獣(けもの)たち。
こんなところにも…いたんだ。
彼(かれ)らの力(ちから)は…つたなく、小(ちい)さかった。
でも、たくさんの数(かず)で、力(ちから)を合(あ)わせて…僕(ぼく)の体(からだ)を押(お)し進(すす)めてくれる…。
………。
やがて、また僕(ぼく)はひとりきりの力(ちから)で歩(ある)いていた。
獣(けもの)たちは…もうどこにも見(み)えない。
振(ふ)り返(かえ)ることもせずに僕(ぼく)たちは進(すす)んだ。
勇気(ゆうき)だけをもらって…。
[/wrap]
seagull - 2009/5/25 14:44:00
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渚·後日,0,]


店(みせ)に入(い)ると、大(おお)きな箱(はこ)を持(も)った早苗(さなえ)さんが、右往左往(うおうさおう)していた。
朋也(ともや)「おはようございます」
早苗(さなえ)「あ、朋也(ともや)さん。おはようございます」
朋也(ともや)「あの、代(か)わります」
早苗(さなえ)「はい、それではお願(ねが)いしますね」
秋生(あきお)「お、来(き)やがったか」
オッサンも奥(おく)から顔(かお)を覗(のぞ)かせる。
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「おはようございます」
挨拶(あいさつ)だけは丁寧(ていねい)にしておく。
秋生(あきお)「ああ、おはよ」
秋生(あきお)「てめぇ、エプロン着(つ)けろよ」
朋也(ともや)「え…持(も)ってないんだけど」
早苗(さなえ)「ああ、そうでした、忘(わす)れてました」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんのぶんも、用意(ようい)してあるんですよ」
朋也(ともや)「あ、そうなんすか。ありがたいっす」
早苗(さなえ)「パンダでよかったですか?」
朋也(ともや)「パンダ?
何(なに)がですか?」
早苗(さなえ)「柄(がら)とマークです」
秋生(あきお)「白黒(しろくろ)のチェックで、胸元(むなもと)にパンダのマーク」
秋生(あきお)「俺(おれ)のお古(ふる)だ。なんだ、嫌(いや)なのか、この野郎(やろう)」
朋也(ともや)「いえ…それでいいっす」
秋生(あきお)「ああ、パンダのように死(し)にものぐるいで働(はたら)けよなっ」
パンダにそんなイメージない。
卒業(そつぎょう)した日(ひ)。
就職活動(しゅうしょくかつどう)もしていなかった俺(おれ)は、見事(みごと)に路頭(ろとう)に迷(まよ)っていた。
早苗(さなえ)「卒業(そつぎょう)おめでとうございます、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「晴(は)れてプーっす」
朋也(ともや)「進路相談(しんろそうだん)、逃(に)げ続(つづ)けてたから」
秋生(あきお)「ま、いいんじゃねぇのか。生(い)きる方法(ほうほう)なんて、いくらだってあるんだからな」
早苗(さなえ)「当面(とうめん)の予定(よてい)はどうなっていますか」
朋也(ともや)「これといって、なにも……」
秋生(あきお)「呆(あき)れた奴(やつ)だな…何(なに)も考(かんが)えてねぇのかよ…」
秋生(あきお)「なんつぅ甲斐性(かいしょ)ナシだよ、おまえは」
早苗(さなえ)「大変(たいへん)だったんですよ、朋也(ともや)さんも」
早苗(さなえ)さんはそう庇(かば)ってくれるが、どう考(かんが)えても俺(おれ)の怠慢(たいまん)だった。
秋生(あきお)「やりたいこともねぇのかよ?」
朋也(ともや)「ああ…思(おも)いつかない」
秋生(あきお)「だからと言(い)って、ふらふら遊(あそ)んでるわけにもいかねぇだろうが」
朋也(ともや)「そりゃそうだろうけど、あてもないんだよ」
秋生(あきお)「ふん…」
オッサンは仕方(しかた)がないとため息(いき)をついた。
秋生(あきお)「おまえ、しばらくウチで働(はたら)くか?」
朋也(ともや)「え、いいのか?」
秋生(あきお)「ああ。そうすりゃ、早苗(さなえ)の塾(じゅく)も、もう少(すこ)しは規模(きぼ)を大(おお)きくできるってもんだろ」
早苗(さなえ)「そうですね」
早苗(さなえ)「それに、もし、朝早(あさはや)くてもよろしければ…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)にお弁当(べんとう)を作(つく)ってあげられます」
早苗(さなえ)「ずっと、作(つく)ってあげたかったんです」
秋生(あきお)「そうだったな。そう言(い)ってたな、おまえ」
秋生(あきお)「よし、満場一致(まんじょういっち)じゃねぇか」
秋生(あきお)「ちなみに時給(じきゅう)30円(えん)だけどな」
朋也(ともや)「やめときます」
秋生(あきお)「ばぁか、冗談(じょうだん)だ。でも、マジで安(やす)いぞ、覚悟(かくご)しとけ」
早苗(さなえ)「その代(か)わり三食(さんしょく)ご飯(はん)付(つ)き、部屋代(へやだい)も無料(むりょう)です」
朋也(ともや)「ありがとうございます」
そうして、ふたりの厚意(こうい)により、俺(おれ)は古河(ふるかわ)パンでバイトとして働(はたら)くことになったのだった。
出勤(しゅっきん)は朝(あさ)の5時(じ)。
すでにオッサンはパンを焼(や)き始(はじ)めていて、それに合流(ごうりゅう)する。
開店(かいてん)は7時(じ)。それに最初(さいしょ)の焼(や)き上(あ)がりを間(ま)に合(あ)わせるようにする。
開店(かいてん)してからは、レジに回(まわ)る。
古河(ふるかわ)パンは、午前(ごぜん)7時(じ)から9時(じ)までが、一番(いちばん)客(きゃく)の入(い)りが多(おお)い時間帯(じかんたい)だった。
今(いま)まで、そんな時間(じかん)に店(みせ)に出(で)てきたことがなかったから知(し)らなかった。
だから、予想(よそう)していた以上(いじょう)に大変(たいへん)だった。
春休(はるやす)みの間(あいだ)は、朝(あさ)も早苗(さなえ)さんが一緒(いっしょ)に働(はたら)いてくれた。
早苗(さなえ)さんは、オッサンの焼(や)いたパンを運(はこ)んできて、トレイに並(なら)べていく。
そして、来店(らいてん)する客(きゃく)を天性(てんせい)の人当(ひとあ)たりの良(よ)さで出迎(でむか)える。
そうして働(はたら)いている早苗(さなえ)さんは、とても輝(かがや)いて見(み)えて、魅力的(みりょくてき)だった。
オッサンは、まったく素敵(すてき)な人(ひと)を嫁(よめ)にもらったものだと思(おも)う。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん」
いきなり声(ごえ)をかけられて、どきっとする。
朋也(ともや)「は、はい。なんです?」
早苗(さなえ)「今(いま)わたしがしていることは、春休(はるやす)みが終(お)わったら、朋也(ともや)さんに引(ひ)き継(つ)いでもらうお仕事(しごと)です」
早苗(さなえ)「だから、しっかり覚(おぼ)えてくださいね。どのパンがどこにあって、それがおいくらであるとか」
朋也(ともや)「了解(りょうかい)っす」
早苗(さなえ)「頑張(がんば)ってくださいね」
午後(ごご)になると、客足(きゃくあし)は途絶(とだ)えがちになる。
そこからは、呑気(のんき)なものだった。
俺(おれ)がこれまで見(み)てきた、いつもの閑散(かんさん)とした古河(ふるかわ)パンに戻(もど)る。
すでに最終(さいしゅう)のパンを焼(や)き上(あ)げたオッサンが店内(てんない)を手持(ても)ちぶさたでうろつく。
秋生(あきお)「かっ、暇(ひま)だなぁ」
秋生(あきお)「よし、早苗(さなえ)のパンでキャッチボールでもするか」
朋也(ともや)「しねぇよ」
秋生(あきお)「かっ、仕事(しごと)は楽(たの)しんでするもんだぞ。そう、肩肘張(かたひじは)るなって」
声(こえ)「ごめんくださーい」
客(きゃく)が入(はい)ってきた。と思(おも)ったら、渚(なぎさ)だった。
朋也(ともや)「なんだ、紛(まぎ)らわしいな」
春休(はるやす)みに入(はい)って、ようやく渚(なぎさ)の熱(ねつ)は引(ひ)いた。
今(いま)は、無理(むり)をしない程度(ていど)に家(いえ)の周(まわ)りをよく散歩(さんぽ)している。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの働(はたら)いてる姿(すがた)、こっちから見(み)たかったんです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、エプロン、似合(にあ)ってます。可愛(かわい)いです、えへへ」
少(すこ)し恥(は)ずかしい。
渚(なぎさ)「何(なに)か、手伝(てつだ)えることありますか」
朋也(ともや)「見(み)ての通(とお)り、暇(ひま)を持(も)て余(あま)してるぐらいだよ」
秋生(あきお)「よし、早苗(さなえ)のパンで、雪合戦(ゆきがっせん)でもするか」
秋生(あきお)「ま、正確(せいかく)にはパン合戦(がっせん)だけどな」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さん、後(うし)ろにいます」
秋生(あきお)「なにっ」
オッサンが振(ふ)り向(む)いた先(さき)に、涙(なみだ)ぐむ早苗(さなえ)さんがいた。
早苗(さなえ)「わたしのパンは…」
早苗(さなえ)「人(びと)にぶつけるためのものだったんですねーーーっ!」
後(うし)ろを向(む)いて、走(はし)り去(さ)った。
秋生(あきお)「俺(おれ)は大好(だいす)きだぞぉーーーっ!」
オッサンも、いつものようにその後(しり)を追(お)いかけていった。
渚(なぎさ)とふたりだけになる。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばってます」
朋也(ともや)「そうかな…」
渚(なぎさ)「素敵(すてき)です」
朋也(ともや)「単(たん)なるレジ打(う)ちだけどな」
声(こえ)「ごめんくださーい」
そこへ、本物(ほんもの)の客(きゃく)が入(はい)ってきた。
渚(なぎさ)「いらっしゃいませ」
渚(なぎさ)が笑顔(えがお)で応対(おうたい)する。
ふっ、と穏(おだ)やかな気持(きも)ちになった。
一瞬(いっしゅん)だけ俺(おれ)は、こうしてふたりで働(はたら)く未来(みらい)を想像(そうぞう)してしまったのだ。
[/wrap]
seagull - 2009/5/29 18:51:00
[wrap=

4月5日()

,0,]
4月(がつ)の始業式(しぎょうしき)の朝(あさ)。
渚(なぎさ)「それでは…」
渚(なぎさ)「いってきます」
朋也(ともや)「ああ」
早苗(さなえ)「いってらっしゃい」
秋生(あきお)「おぅ、いってこい」
渚(なぎさ)はひとりで登校(とうこう)する。
これから毎日(まいにち)。
また、坂(さか)の下(した)で立(た)ち止(ど)まって、思(おも)い悩(なや)んだりしないだろうか…。
きっと…しない。
あの日(ひ)から、ずっと強(つよ)くなったんだから。
だから俺(おれ)も、ここで見送(みおく)る。
朋也(ともや)「…頑張(がんば)れよな」
そう励(はげ)まして。
渚(なぎさ)「はいっ」
その夜(よる)、俺(おれ)は渚(なぎさ)の部屋(へや)に赴(おもむ)いた。
夕食(ゆうしょく)の場(ば)では、楽(たの)しげに話(はな)していた渚(なぎさ)だったけど、俺(おれ)には無理(むり)をしているように見(み)えた。
きっとオッサンや早苗(さなえ)さんも気(き)づいていただろう。
朋也(ともや)「俺(おれ)だ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「あ、はい。どうしましたか」
中(なか)から声(こえ)が返(かえ)ってくる。
朋也(ともや)「入(はい)るぞ」
渚(なぎさ)「はい、どうぞ」
渚(なぎさ)は、だんご大家族(だいかぞく)のぬいぐるみを抱(だ)いて、座(すわ)り込(こ)んでいた。
今(いま)、じっと学校(がっこう)の出来事(できごと)を振(ふ)り返(かえ)って、落(お)ち込(こ)んでいたところだったのかもしれない。
朋也(ともや)「座(すわ)るな」
渚(なぎさ)「座布団(ざぶとん)、持(も)ってきます」
朋也(ともや)「いいよ」
渚(なぎさ)「お尻(しり)、痛(いた)いと思(おも)います」
朋也(ともや)「いいっての」
渚(なぎさ)「そうですか…」
浮(う)かした腰(こし)をもう一度(いちど)下(お)ろして、ぬいぐるみをぎゅっと抱(だ)き直(なお)した。
朋也(ともや)「クラスで話(はな)せる奴(やつ)、いそうか?」
渚(なぎさ)「なんだか二年(にねん)も留年(りゅうねん)していると、話題(わだい)が合(あ)わない気(き)がします」
朋也(ともや)「おまえは、おばさんかよ…」
朋也(ともや)「たった二歳(にさい)なんて、歳(とし)の差(さ)なんて呼(よ)べないっての」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
ふと思(おも)う。
こんな俺(おれ)の叱咤(しった)も、渚(なぎさ)を追(お)いつめているだけなのだろうか。
今(いま)のは渚(なぎさ)の言(い)い訳(わけ)だった。
朋也(ともや)「みんなさ…知(し)ってるのかな」
渚(なぎさ)「何(なに)をでしょうか」
朋也(ともや)「おまえがさ…その、二年(にねん)もダブってること」
渚(なぎさ)「知(し)ってると思(おも)います」
渚(なぎさ)「始業式(しぎょうしき)のときから、話題(わだい)にのぼってたみたいです」
渚(なぎさ)「ウチのクラスにそういう子(こ)がいるって」
渚(なぎさ)「ちょっと聞(き)いてしまいました…」
朋也(ともや)「そっか…」
渚(なぎさ)「それに、みんなは一年(いちねん)の頃(ころ)から同(おな)じ学年(がくねん)で、顔(かお)を知(し)ってますけど…」
渚(なぎさ)「わたしは、転校生(てんこうせい)みたいなものですから…すぐばれちゃいます」
朋也(ともや)「でも、知(し)った顔(かお)もあるだろ?」
朋也(ともや)「仁科(にしな)や杉坂(すぎさか)」
渚(なぎさ)「はい。クラスが一緒(いっしょ)だったらいいな、って思(おも)ってました」
違(ちが)えば会(あ)う機会(きかい)も少(すく)ないか…。
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「でもさ…」
朋也(ともや)「おまえ、性格(せいかく)いいからさ、寄(よ)っていっても、嫌(いや)がられないと思(おも)うぜ?」
渚(なぎさ)「はい、だといいです…」
朋也(ともや)「ああ、みんなも、おまえのこと好(す)きになるって」
朋也(ともや)「要(よう)は、きっかけだけだと思(おも)うけどな」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「後(あと)は…そう、演劇部(えんげきぶ)だ」
朋也(ともや)「続(つづ)けるんだろ?」
渚(なぎさ)「はい、続(つづ)けたいです」
朋也(ともや)「今年(ことし)はちゃんと正規(せいき)のやり方(かた)で、部員集(ぶいんあつ)められるじゃないか」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
渚(なぎさ)「ですけど…」
朋也(ともや)「けど、なんだよ」
渚(なぎさ)「顧問(こもん)の先生(せんせい)がいないです」
朋也(ともや)「どうして、幸村(こうむら)が…」
そこまで言(い)って、俺(おれ)は思(おも)い出(だ)した。
渚(なぎさ)「幸村先生(こうむらせんせい)、去年(きょねん)、退職(たいしょく)されましたので…」
朋也(ともや)「ああ、そうだったよ…」
渚(なぎさ)「でも、新任(しんにん)の先生(せんせい)がいらっしゃったので、引(ひ)き継(つ)いでもらえるかもしれません」
朋也(ともや)「それだっ、すぐに頼(たの)みにいけっ」
渚(なぎさ)「はい…そうするつもりでした」
渚(なぎさ)「でも、ちょっと…」
朋也(ともや)「ちょっと、なんだよ」
渚(なぎさ)「ちょっと、恐(こわ)そうな先生(せんせい)ですので…躊躇(ちゅうちょ)してしまいました」
朋也(ともや)「恐(こわ)そうって、見(み)た目(め)だけだろ?」
渚(なぎさ)「いえ、前(まえ)の学校(がっこう)では生活指導(せいかつしどう)をしていたそうで、今日(きょう)の挨拶(あいさつ)でも、ビシバシいくって…そう言(い)ってました」
そうだよな…。
先生(せんせい)が皆(みんな)、幸村(こうむら)のような好々爺(こうこうや)とは限(かぎ)らないのだ。
渚(なぎさ)「体育会系(たいいくかいけい)の先生(せんせい)でして、演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)という感(かん)じではなかったです」
朋也(ともや)「そっかよ…」
顔(かお)を手(て)で覆(おお)う。
なんて…前途多難(ぜんとたなん)なのだろう、こいつの学校生活(がっこうせいかつ)は。
どうしてもっと、ありふれていないのか。
人並(ひとな)みに友達(ともだち)がいて、楽(たの)しいおしゃべりができて、部活(ぶかつ)に精(せい)を出(だ)せて…
どうして、そんなささやかな幸(しあわ)せさえ、与(あた)えられないのだろう。
渚(なぎさ)「ごめんなさいです、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「なにがだよ…」
泣(な)いているような声(こえ)が出(で)てしまった。
渚(なぎさ)「心配(しんぱい)かけてしまいました」
朋也(ともや)「いいんだよ…ひとりで抱(かか)えられたら、もっと悲(かな)しいよ」
渚(なぎさ)「いえ、単(たん)なる泣(な)き言(ごと)です」
渚(なぎさ)「がんばると決(き)めたからには、がんばります」
朋也(ともや)「ああ、もちろん頑張(がんば)ってほしい」
朋也(ともや)「でも、ひとりでぬいぐるみなんて抱(だ)きしめてないで、俺(おれ)に言(い)ってくれよ」
渚(なぎさ)「これも、朋也(ともや)くんのつもりです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんにもらったものですし…」
渚(なぎさ)「ですから、朋也(ともや)くんに話(はなし)を聞(き)いていてもらってる気分(きぶん)でした」
渚(なぎさ)「すごく、落(お)ち着(つ)きます」
渚(なぎさ)「その代(か)わり、力(ちから)いっぱい抱(だ)きしめてしまいましたけど」
渚(なぎさ)「…えへへ」
こいつなりに頑張(がんば)っているんだ。人(ひと)には弱音(よわね)を吐(は)かないよう。
俺(おれ)はそれを無理(むり)に吐(は)かせようとしているのかもしれない。
強(つよ)くなろうとしている渚(なぎさ)の足(あし)を引(ひ)っ張(ぱ)っているだけなのかもしれない。
朋也(ともや)「でも、話(はなし)は俺(おれ)も聞(き)かせてくれよな」
朋也(ともや)「それは弱音(よわね)じゃなくて、相談(そうだん)とかさ…そういうのになるから」
渚(なぎさ)「はい。お願(ねが)いします」
渚(なぎさ)「でも、朋也(ともや)くんとはもっと楽(たの)しい話(はなし)がしたいです」
渚(なぎさ)「今日(きょう)、学校(がっこう)でこんなことがありましたって、笑顔(えがお)で話(はな)したいです」
朋也(ともや)「ああ、そうだな。そんな話(はなし)が増(ふ)えるといいな」
渚(なぎさ)「はい。増(ふ)やせるようにします」
けど…
それからも、渚(なぎさ)の口(くち)から、学校(がっこう)での楽(たの)しい話(はなし)を聞(き)くことはなかった。
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seagull - 2009/5/29 19:37:00
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4月6日()

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朋也(ともや)「顧問(こもん)のほうはどうにかなったのか?」
次(つぎ)の日(ひ)の夜(よる)も、俺(おれ)は渚(なぎさ)の部屋(へや)にいた。
渚(なぎさ)「あ、はい…」
渚(なぎさ)「昨日(きのう)話(はな)しました、新任(しんにん)の簑島先生(みのしませんせい)に受(う)け持(も)ってもらえることになりました」
朋也(ともや)「そっか。よかったじゃん」
渚(なぎさ)「はい、とてもよかったです」
表情(ひょうじょう)からすると、諸手(しょて)をあげて喜(よろこ)べる状況(じょうきょう)ではないらしい。
朋也(ともや)「どうしたんだよ。すんなりいかなかったのか?」
渚(なぎさ)「え、いえ…すんなりとはいったのですが、なんと言(い)いますか…」
朋也(ともや)「状況(じょうきょう)を言(い)えよ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「放課後(ほうかご)、わたしは職員室(しょくいんしつ)まで掛(か)け合(あ)いに行(い)きました」
渚(なぎさ)「簑島先生(みのしませんせい)、職員室(しょくいんしつ)にいらっしゃったので、その場(ば)で話(はなし)をしました」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「そうしたら、その…あまり乗(の)り気(き)でない顔(かお)をされまして…」
朋也(ともや)「全然(ぜんぜん)すんなりじゃないじゃないかよ…」
渚(なぎさ)「いえ、ですが、ちょうど隣(となり)で教頭先生(きょうとうせんせい)が話(はなし)を聞(き)いていまして…」
渚(なぎさ)「その場(ば)で簑島先生(みのしませんせい)を演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)に任命(にんめい)しました」
朋也(ともや)「なるほど…」
朋也(ともや)「そん時(とき)、その簑島(みのしま)って奴(やつ)、どんな顔(かお)してた」
渚(なぎさ)「それは…あまり言(い)いたくないです」
よくて舌打(したう)ち、最悪(さいあく)…なんだろう。見当(けんとう)もつかない。
体育会系(たいいくかいけい)の教師(きょうし)が演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)になんてつかされたら、面白(おもしろ)くないに決(き)まっている。
渚(なぎさ)「ですが、簑島先生(みのしませんせい)は、陸上(りくじょう)部(ぶ)の副(ふく)顧問(こもん)と掛(か)け持(も)ちですので、そんなに見(み)てもらえないと思(おも)います」
それは残念(ざんねん)なことなのか、それとも救(すく)いなのだろうか、よくわからなかった。
でも、顧問(こもん)がいない時(とき)は活動(かつどう)してはいけないはずだから、いいことなわけがない。
渚(なぎさ)「それに…」
まだ苦難(くなん)の続(つづ)きはあった。
渚(なぎさ)「新入部員(しんにゅうぶいん)が集(あつ)まらなければ、やっぱり廃部(はいぶ)になってしまいますので…」
朋也(ともや)「そう…だったな」
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seagull - 2009/5/29 19:37:00
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4月7日()

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渚(なぎさ)「今日(きょう)は、部員募集(ぶいんぼしゅう)のビラを作(つく)りました」
渚(なぎさ)「去年(きょねん)と同(おな)じように、だんご大家族(だいかぞく)を可愛(かわい)くあしらいました」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「昼休(ひるやす)みに掲示板(けいじばん)に貼(は)りました」
渚(なぎさ)「帰(かえ)り、掃除当番(そうじとうばん)だったので、教室(きょうしつ)の掃除(そうじ)してたら…どうしてか、そのビラが教室(きょうしつ)の床(ゆか)に落(お)ちてました」
渚(なぎさ)「どうしてだろう、って拾(ひろ)い上(あ)げたんです」
渚(なぎさ)「そうしたら、周(まわ)りの人(ひと)たちが、ああ、見(み)つかっちゃったって…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「知(し)らないうちに剥(は)がされて、クラスの人(ひと)たちの間(あいだ)で回(まわ)されてたんです」
渚(なぎさ)「…何(なに)が悪(わる)かったんでしょうか」
ただでさえ二年(にねん)も留年(りゅうねん)しているという特異(とくい)な存在(そんざい)だ。
何(なに)をしても、揚(あ)げ足(あし)を取(と)られるようにして、からかわれるのだろう。
俺(おれ)が学校(がっこう)に居(い)たなら…その場(ば)で慰(なぐさ)めて…
そして、放課後(ほうかご)になったら、またふたりで、ビラを貼(は)って回(まわ)れたのに。
渚(なぎさ)「だんご大家族(だいかぞく)でしょうか…」
朋也(ともや)「いや、何(なに)も悪(わる)くない」
朋也(ともや)「ただ、もう少(すこ)し時間(じかん)がかかるんだと思(おも)う」
朋也(ともや)「だから、今(いま)は辛抱(しんぼう)だ」
渚(なぎさ)「また、剥(は)がされたら、ちょっと嫌(いや)です…」
朋也(ともや)「ああ、そういう自己主張(じこしゅちょう)も大事(だいじ)だと思(おも)う。ちゃんと言(い)ったか?」
渚(なぎさ)「あ、はい…」
渚(なぎさ)「もう剥(は)がさないでほしいですって、言(い)いました」
朋也(ともや)「ああ、ならいいよ。もう剥(は)がされない」
渚(なぎさ)「わかりました…そう信(しん)じて、明日(あした)、貼(は)り直(なお)します」
朋也(ともや)「ああ」
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seagull - 2009/5/29 19:39:00
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4月8日()

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渚(なぎさ)「お疲(つか)れのところ申(もう)し訳(わけ)ないですが…また、話(はなし)、聞(き)いてくれますか」
朋也(ともや)「ああ、もちろん」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は朝(あさ)からビラを張(は)り直(なお)しました」
渚(なぎさ)「今度(こんど)は剥(は)がされなかったです」
渚(なぎさ)「遠目(とおめ)に見(み)てたら、新入生(しんにゅうせい)らしき女(おんな)の子(こ)が来(き)て、掲示板(けいじばん)の前(まえ)で立(た)ち止(ど)まりました」
渚(なぎさ)「たぶん、演劇部(えんげきぶ)のビラも見(み)ていただけたのではないかと…そう思(おも)います」
朋也(ともや)「ああ、きっと見(み)てるよ」
朋也(ともや)「つーか、無視(むし)できないインパクトがあるからな」
渚(なぎさ)「はい、少(すこ)しでも興味(きょうみ)を持(も)ってもらえたら、うれしいです」
朋也(ともや)「説明会(せつめいかい)はいつあるんだっけ?」
渚(なぎさ)「明後日(あさって)の土曜日(どようび)です」
渚(なぎさ)「体育館(たいいくかん)で合同(ごうどう)で行(おこな)われます」
去年(きょねん)、渚(なぎさ)が復学(ふくがく)したのは、それらが終(お)わってしまってからだった。
だから、自分勝手(じぶんかって)にやった去年(きょねん)とは勝手(かって)が違(ちが)う。
けど、そうした場(ば)を用意(ようい)してもらったほうが、渚(なぎさ)にとってはやりやすいだろう。
渚(なぎさ)「ものすごく、不安(ふあん)です」
朋也(ともや)「結局(けっきょく)、去年(きょねん)だって、練習(れんしゅう)しただけで、本番(ほんばん)やんなかったもんな」
渚(なぎさ)「はい…そうでした」
渚(なぎさ)「今年(ことし)は、朋也(ともや)くんと練習(れんしゅう)した時(とき)のことを思(おも)い出(だ)して、やってみます」
朋也(ともや)「そうだよな。間(あいだ)は空(あ)いちまったけど、練習(れんしゅう)したんだから、大丈夫(だいじょうぶ)だよな」
渚(なぎさ)「はい。朋也(ともや)くんがそばで見(み)ていてくれてるって…そう思(おも)ってやります」
朋也(ともや)「なんか死(し)んだ人(ひと)みたいだな」
渚(なぎさ)「そんなことないです。朋也(ともや)くん、その時(とき)はお仕事(しごと)がんばってます」
朋也(ともや)「だな」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)は…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんに…そばで見(み)ていてほしいです」
渚(なぎさ)「そうしたら、すごく心強(こころづよ)くて…安心(あんしん)できて…」
渚(なぎさ)「何(なん)だって、がんばれる気(き)がします…」
弱(よわ)さを吐露(とろ)した。
その途端(とたん)に、辛(つら)さがこみ上(あ)げてきたのか、目(め)を潤(うる)ませた。
でも、涙(なみだ)を流(なが)したりはしなかった。
必死(ひっし)で堪(た)えた後(あと)…
渚(なぎさ)「でも、今(いま)はひとりで大丈夫(だいじょうぶ)ですっ」
笑(わら)って、そう言(い)った。
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seagull - 2009/5/31 9:27:00
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4月10日()

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今日(きょう)は、クラブの説明会(せつめいかい)の日(ひ)だった。
不安(ふあん)と緊張(きんちょう)のためか、渚(なぎさ)は朝(あさ)から何(なに)を言(い)っても上(うわ)の空(そら)だった。
出(で)かける時間(じかん)になっても、演説内容(えんぜつないよう)を書(か)いたノートに目(め)を落(お)としていた。
朋也(ともや)「おーい、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「え、呼(よ)びましたか」
ワンテンポ遅(おく)れて、俺(おれ)の呼(よ)びかけに気(き)づく。
朋也(ともや)「もう出(で)ないと、遅刻(ちこく)するぞ」
渚(なぎさ)「もうちょっとです。もうちょっとだけ暗記(あんき)に時間(じかん)を使(つか)いたいです」
再(ふたた)び、ノートに見入(みい)る。
ああ、こんなので大丈夫(だいじょうぶ)なのだろうか。
朋也(ともや)「おーい、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「え?
呼(よ)びましたか」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)とエッチなことしたい」
渚(なぎさ)「すみません。帰(かえ)ってきてからにしてください」
すぐノートに目(め)を戻(もど)す。
朋也(ともや)(帰(かえ)ってきてからだったら、いいのか…)
朋也(ともや)(って、演劇(えんげき)のリハーサルの日(ひ)も、朝(あさ)からこうだったよな…)
去年(きょねん)のことを思(おも)い出(だ)して、俺(おれ)は思(おも)わず苦笑(くしょう)してしまう。
渚(なぎさ)「それでは、いってきます」
朋也(ともや)「ああ、いってらっしゃい」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「頑張(がんば)れよ」
渚(なぎさ)「…はいっ」
最後(さいご)には笑顔(えがお)で返事(へんじ)をしてくれた。
仕事(しごと)の間(あいだ)も、渚(なぎさ)のことが心配(しんぱい)で、気(き)が気(き)でなかった。
今頃(いまごろ)は、体育館(たいいくかん)の壇上(だんじょう)に立(た)っている頃(ころ)だろうか。
つたなくても、精一杯(せいいっぱい)、説明(せつめい)をしているだろうか。
それとも、何(なに)も言(い)えず…立(た)ちつくしてしまっているだろうか。
朋也(ともや)(ああ、悪(わる)いほうに考(かんが)えるなっ)
頭(あたま)を振(ふ)る。
からん。
ドアが開(ひら)いて、客(きゃく)が店内(てんない)を覗(のぞ)いていた。
朋也(ともや)「いらっしゃいませ」
1時(じ)を回(まわ)ったところで、渚(なぎさ)は帰宅(きたく)した。
店番(みせばん)は早苗(さなえ)さんに任(まか)せて、遅(おそ)めの昼(ひる)をふたりで取(と)った。
渚(なぎさ)「…去年(きょねん)の演劇(えんげき)の時(とき)ぐらい緊張(きんちょう)しました」
ご飯(はん)を食(た)べながら、渚(なぎさ)の話(はなし)が始(はじ)まる。
朋也(ともや)「ああ、だろうな。わかるよ」
渚(なぎさ)「演説(えんぜつ)は…朋也(ともや)くんが聞(き)いてたら、ぜんぜんダメだ、とか言(い)いそうな出来(でき)でしたけど…」
渚(なぎさ)「それでも、最後(さいご)まで壇上(だんじょう)に立(た)って…話(はなし)をしました」
渚(なぎさ)「みんなで力(ちから)を合(あ)わせて、ひとつのことを成(な)し遂(と)げる…」
渚(なぎさ)「それは素敵(すてき)なことですから、一緒(いっしょ)にやってみませんかって」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「不格好(ぶかっこう)でもいい。思(おも)いが伝(つた)わればな」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「それで…戻(もど)ってくる時(とき)に、パチパチって拍手(はくしゅ)が聞(き)こえてきました」
渚(なぎさ)「仁科(にしな)さんと杉坂(すぎさか)さんでした」
朋也(ともや)「話(はなし)できたのか?」
渚(なぎさ)「少(すこ)しだけです。お元気(げんき)ですか、とか、がんばってますね、とか」
朋也(ともや)「そっか、良(よ)かったな」
渚(なぎさ)「はい」
頑張(がんば)っていれば、いいことは絶対(ぜったい)にある。
ささやかなことでも、積(つ)み重(かさ)なって、きっと合計(ごうけい)では良(よ)かったと思(おも)えるようになる。
それは、俺(おれ)が最後(さいご)の学校生活(がっこうせいかつ)で知(し)ったことだった。
あんなにも嫌(きら)いだった学校生活(がっこうせいかつ)の中(なか)で、知(し)ったことだった。
朋也(ともや)「それで、いつ、部員(ぶいん)は入(はい)ってくるんだ?」
渚(なぎさ)「来週(らいしゅう)の水曜(すいよう)までに、顧問(こもん)の先生(せんせい)に入部届(にゅうぶとど)けを出(だ)します」
渚(なぎさ)「つまり、その日(ひ)までに二人(ふたり)以上(いじょう)、届(とど)け出(で)がなければ…」
朋也(ともや)「ああ…」
演劇部(えんげきぶ)は、また廃部(はいぶ)になる、ということだった。
渚(なぎさ)「とても、たくさんの新入生(しんにゅうせい)がいましたから…」
朋也(ともや)「ああ、ふたり以上(いじょう)は絶対(ぜったい)いるよ。演劇(えんげき)に興味(きょうみ)ある奴(やつ)」
朋也(ともや)「興味(きょうみ)なくても、部長(ぶちょう)がおまえみたいな可愛(かわい)い女(おんな)の子(こ)だって知(し)ったら、俺(おれ)なら迷(まよ)わず入(はい)っちまうけどな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、なかなか入(はい)ってくれなかったです」
朋也(ともや)「そうだっけ?」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)「あまのじゃくだったんだよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ものすごく正直(しょうじき)です」
朋也(ともや)「まぁ、言(い)いたいことは言(い)うほうだけど…」
朋也(ともや)「でも…ずっとおまえのそばに居(い)ただろ」
渚(なぎさ)「はい…そうです」
渚(なぎさ)「いつでも、そばに居(い)てくれました」
朋也(ともや)「春原(すのはら)の馬鹿(ばか)もな」
渚(なぎさ)「馬鹿(ばか)なんて言(い)ってはダメです」
朋也(ともや)「そんなふうに、また、人(ひと)が集(あつ)まってくるよ」
渚(なぎさ)「はい…だとうれしいです」
そして、週(しゅう)が明(あ)けた。
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seagull - 2009/5/31 9:28:00
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4月12日()

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渚(なぎさ)「では…いってきます」
朋也(ともや)「ああ、いってらっしゃい」
期待(きたい)と不安(ふあん)、両方(りょうほう)を胸(むね)に抱(だ)いて、渚(なぎさ)は出(で)かけていった。
月曜(げつよう)、入部届(にゅうぶとど)けは提出(ていしゅつ)されなかった。[/wrap]

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4月13日()

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火曜(かよう)も同(おな)じく。[/wrap]

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4月14日()

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そして、最終日(さいしゅうび)の水曜(すいよう)。
渚(なぎさ)「ただいまです…」
帰(かえ)ってきた、その渚(なぎさ)の表情(ひょうじょう)で結果(けっか)がわかる。
渚(なぎさ)「入部届(にゅうぶとど)けはひとつも出(で)なかったです」
朋也(ともや)「そっか…」
もう、どんな言葉(ことば)をかけていいかもわからない。
渚(なぎさ)「やっぱり今時(いまどき)、演劇(えんげき)なんて流行(はや)らないんだと思(おも)います」
渚(なぎさ)「それは、去年(きょねん)、幸村先生(こうむらせんせい)も言(い)っていました」
朋也(ともや)「そんなもんなのかな…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「これで、演劇部(えんげきぶ)はまた廃部(はいぶ)となってしまいました」
朋也(ともや)「そうか…」
朋也(ともや)「でも、やれることはやったんだからさ、そんなに落(お)ち込(こ)むなよ」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「そもそも創立者祭(そうりつしゃさい)が終(お)われば三年生(さんねんせい)は引退(いんたい)でしたので…」
朋也(ともや)「そうだな。創立者祭(そうりつしゃさい)も今年(ことし)はゆっくり、見(み)て回(まわ)ればいいじゃないか」
渚(なぎさ)「はい、そうします」
渚(なぎさ)「去年(きょねん)の創立者祭(そうりつしゃさい)は忙(いそが)しかったですけど、とても楽(たの)しかったです」
渚(なぎさ)「わたし、舞台(ぶたい)の上(うえ)で大泣(おおな)きしてしまいましたけど…」
渚(なぎさ)「それでも、とてもいい思(おも)い出(で)です」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)…思(おも)い出(で)に浸(ひた)ってるんじゃねぇよ」
朋也(ともや)「いい思(おも)い出(で)はこれからもっとたくさん、作(つく)っていくんだろ」
渚(なぎさ)「ごめんなさいです…そうでした」
友達(ともだち)も一向(いっこう)にできないらしく、学校(がっこう)での話題(わだい)も聞(き)かなくなっていった。
それでも渚(なぎさ)は決(けっ)して、遅刻(ちこく)したり、欠席(けっせき)したりすることはなかった。
ただ、唇(くちびる)を強(つよ)く結(むす)んで、家(いえ)を出(で)ていった。
渚(なぎさ)は頑張(がんば)り続(つづ)けた。
そんな渚(なぎさ)を、俺(おれ)や早苗(さなえ)さんやオッサンは温(あたた)かく迎(むか)えた。
この家族(かぞく)の中(なか)では、渚(なぎさ)は笑顔(えがお)でいられた。[/wrap]

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渚·後日,0,]


渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…いますか」
渚(なぎさ)の声(こえ)。
朋也(ともや)「どうした?
遅刻(ちこく)するぞ」
俺(おれ)は作業(さぎょう)の手(て)を止(と)めて、顔(かお)を上(あ)げた。
渚(なぎさ)「今日(きょう)は店(みせ)の前(まえ)に出(で)てきてくれなかったものですから」
朋也(ともや)「ああ…悪(わる)い」
渚(なぎさ)「いえ、ここでいいです。お忙(いそが)しいようですので」
渚(なぎさ)「いってきます」
朋也(ともや)「ああ、いってらっしゃい」
俺(おれ)の声(こえ)を聞(き)いて、安心(あんしん)したように、渚(なぎさ)は家(いえ)を後(あと)にした。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は思(おも)い直(なお)して、後(あと)を追(お)って店(みせ)を出(で)た。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ」
渚(なぎさ)「え?」
足(あし)を止(と)め、渚(なぎさ)が道(みち)の途中(とちゅう)で振(ふ)り返(かえ)る。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
朋也(ともや)「いってらっしゃい」
それだけを言(い)い直(なお)した。
渚(なぎさ)「あ、はい」
渚(なぎさ)「いってきますっ」
照(て)り返(かえ)す陽光(ようこう)の中(なか)で、渚(なぎさ)は笑(わら)って言(い)った。
そして、いつしか俺(おれ)は…
渚(なぎさ)を自分(じぶん)の力(ちから)だけで守(まも)っていきたいと…
そう思(おも)うようになっていた。
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seagull - 2009/6/5 9:38:00
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同棲編,0,]


客足(きゃくあし)も途絶(とだ)え始(はじ)めた午後(ごご)、いつものように俺(おれ)は店内(てんない)で暇(ひま)を持(も)てあましていた。
オッサンは最後(さいご)のパンを焼(や)き終(お)えると、宿題(しゅくだい)を終(お)えた子供(こども)のように嬉々(きき)としてどこかに出(で)かけてしまった。
朋也(ともや)(少(すこ)し、外(そと)の空気(くうき)を吸(す)ってこよう…)
俺(おれ)は表(おもて)に出(で)た。
晴(は)れ渡(わた)った空(そら)を見(み)ながら伸(の)びをする。
朋也(ともや)「ふぅ…」
そのまま視線(しせん)を下(お)ろした先(さき)…
公園(こうえん)の高(たか)い位置(いち)に、人(ひと)がいるのを見(み)つけた。
高(たか)い位置(いち)、というのはまさしく空中(くうちゅう)で、一瞬(いっしゅん)驚(おどろ)く。
が、よく見(み)ると、なんてことはなく、梯子(はしご)に登(のぼ)った作業員(さぎょういん)だった。
街灯(がいとう)を取(と)りつけているようだ。
それは見覚(みおぼ)えのある光景(こうけい)だった。
学生(がくせい)の時(とき)に、俺(おれ)もその仕事(しごと)を一日(いちにち)だけ、手伝(てつだ)ったことがあった。
そして、あの日(ひ)、俺(おれ)は思(おも)い知(し)ったはずだった。
いかに自分(じぶん)が、ぬくぬくと暮(く)らしていたかを。
そして、厳(きび)しい社会(しゃかい)が待(ま)っていることを。
なのに俺(おれ)は、未(ま)だなお、古河家(ふるかわけ)というぬるま湯(ゆ)に浸(つ)かっていた。
あの時(とき)の作業員(さぎょういん)だって、自分(じぶん)とさほど歳(とし)の変(か)わらない男(おとこ)で…そのことでもショックを受(う)けたはずだ。
朋也(ともや)(なのに、俺(おれ)はまだ、こんなところで…)
歯(は)がゆさと共(とも)に、いろんなことを思(おも)い出(だ)していた。
そして、その厳(きび)しさに見合(みあ)う対価(たいか)が得(え)られることも。
あの額(がく)ならば、自分(じぶん)の力(ちから)だけで食(く)っていける。オッサンや早苗(さなえ)さんに頼(たよ)らずに。
俺(おれ)は目(め)を凝(こ)らし、作業員(さぎょういん)の顔(かお)を判別(はんべつ)しようとした。
遠(とお)くてよくわからない。けど、背格好(せかっこう)が似(に)ている気(き)がする。
別(べつ)に違(ちが)ったっていい。俺(おれ)は焦燥(しょうそう)に駆(か)られて走(はし)り出(だ)していた。
作業員(さぎょういん)「ふぅ…」
作業員(さぎょういん)は地面(じめん)に降(お)り立(た)ち、煙草(たばこ)をふかしていた。
納得(なっとく)がいく仕事(しごと)ができたのか、街灯(がいとう)を見上(みあ)げて、何度(なんど)か頷(うなず)いている。
朋也(ともや)「芳野(よしの)…さんっ」
その名(な)を呼(よ)んだ。
芳野(よしの)「あん?」
顔(かお)がこちらに向(む)く。芳野祐介(よしのゆうすけ)…いや、芳野(よしの)さんだった。
朋也(ともや)「ちっす」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…ああ。よぅ」
少(すこ)し考(かんが)えた後(あと)、思(おも)い出(だ)したように、挨拶(あいさつ)を返(かえ)してくれた。
芳野(よしの)「ええと…確(たし)か、手伝(てつだ)ってくれた奴(やつ)だったよな…」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っす」
芳野(よしの)「ああ、そう。岡崎(おかざき)な」
芳野(よしの)「どうした。また暇(ひま)なのか」
朋也(ともや)「俺(おれ)を雇(やと)ってくださいっ」
そう頭(あたま)を下(さ)げていた。
芳野(よしの)「え、マジか…」
朋也(ともや)「ええ。マジっす」
芳野(よしの)「それは助(たす)かるがな…。こっちは、いつだって人手不足(ひとでぶそく)だからな」
芳野(よしの)「けど、おまえも知(し)ってるように、きつい仕事(しごと)だ」
朋也(ともや)「覚悟(かくご)の上(うえ)っす」
芳野(よしの)「一年前(いちねんまえ)のおまえは、一本立(いっぽんだ)てるだけでへたれてたよな」
朋也(ともや)「それは…慣(な)れれば大丈夫(だいじょうぶ)だと思(おも)います」
芳野(よしの)「………」
朋也(ともや)「頑張(がんば)ります」
芳野(よしの)「そうか…」
芳野(よしの)「OK。雇(やと)おう」
芳野(よしの)「いつから働(はたら)ける」
朋也(ともや)「来月頭(らいげつとう)からお願(ねが)いしたいっす」
芳野(よしの)「よし、わかった」
芳野(よしの)「じゃ、改(あらた)めてよろしく」
朋也(ともや)「よろしくお願(ねが)いします」
握手(あくしゅ)をした。

朋也(ともや)「あのな、渚(なぎさ)」
朋也(ともや)「話(はなし)がある」
俺(おれ)たちは、向(む)かい合(あ)って座(すわ)っていた。
渚(なぎさ)「はい、なんでしょう」
朋也(ともや)「俺(おれ)、新(あたら)しい仕事(しごと)見(み)つけたんだ」
渚(なぎさ)「…え?
仕事(しごと)、変(か)えるんですか?」
渚(なぎさ)にとっては寝耳(ねみみ)に水(みず)。それは当然(とうぜん)で、一日(いちにち)でこんな大事(だいじ)なことを決(き)めてしまうなんて、自分(じぶん)でも驚(おどろ)くほどだった。
でも、現実(げんじつ)を突(つ)きつけられてしまえば、もう、誰(だれ)かを頼(たよ)りにする生活(せいかつ)なんて、これ以上(いじょう)続(つづ)けていられなかった。
渚(なぎさ)「パン屋(や)のお仕事(しごと)、合(あ)わなかったですか」
朋也(ともや)「いや、違(ちが)う。そういう問題(もんだい)じゃないんだ」
朋也(ともや)「正直(しょうじき)、オッサンや早苗(さなえ)さんと働(はたら)くのは楽(たの)しい」
朋也(ともや)「仕事(しごと)も楽(らく)だし、ご飯(はん)だって宿(やど)だって付(つ)いてる」
朋也(ともや)「でもそれじゃダメなんだ。甘(あま)すぎるんだよ」
朋也(ともや)「オッサンや早苗(さなえ)さんに頼(たよ)ってばっかで…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、腑抜(ふぬ)けになっちまう」
朋也(ともや)「だから、別(べつ)の仕事(しごと)に就(つ)くことにした」
朋也(ともや)「たぶん、きつい仕事(しごと)だけどさ…それでも今(いま)よりもっとたくさん稼(かせ)げる」
朋也(ともや)「それで、近(ちか)くにアパートを見(み)つけて、下宿(げしゅく)する」
朋也(ともや)「そうして誰(だれ)にも頼(たよ)らず、自分(じぶん)の力(ちから)だけでやっていきたいんだ」
渚(なぎさ)「この家(いえ)…出(で)るんですか」
朋也(ともや)「ああ、出(で)る」
渚(なぎさ)「そんな…寂(さび)しいです」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は正座(せいざ)をして、改(あらた)まって渚(なぎさ)に向(む)き直(なお)った。
朋也(ともや)「一緒(いっしょ)にきてくれないか、渚(なぎさ)」
そう告(つ)げていた。
朋也(ともや)「寂(さび)しくなったら、ここに帰(かえ)ってきたらいい」
朋也(ともや)「いつだって、そうしてくれて構(かま)わない」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)はそうならないように頑張(がんば)りたい」
朋也(ともや)「俺(おれ)の手(て)で、おまえを幸(しあわ)せにしてみたいんだ」
朋也(ともや)「俺(おれ)だけの力(ちから)で」
朋也(ともや)「だから、そう決(き)めたんだ」
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)」
朋也(ともや)「ふたりで暮(く)らしてくれないか」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「はい、わかりました」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんがそう言(い)ってくれるなら、わたしはついていきます」
嬉(うれ)しかった。
俺(おれ)は、渚(なぎさ)を自分(じぶん)の力(ちから)だけで、守(まも)っていく。
生(い)きていく理由(りゆう)を見(み)つけた気(き)がした。
渚(なぎさ)「まだ学生(がくせい)ですから…いろんなことできないですけど…」
朋也(ともや)「いいんだよ、何(なに)もしてくれなくても、そばに居(い)てくれれば」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、自分(じぶん)ひとりの力(ちから)を試(ため)したいんだから」
歯車(はぐるま)はきしみをあげて、回(まわ)っていく。
いや、それを回(まわ)しているのは、俺(おれ)の思(おも)いだ。
人(ひと)の、思(おも)いだ。
18歳(さい)の今(いま)、俺(おれ)はそのことに気(き)づいた。
休(やす)みの日(ひ)に、ふたりでアパートを訪(おとず)れた。
6畳半(じょうはん)のワンルーム。トイレも風呂(ふろ)もついて、一月3万(いちがつまん)という安(やす)さだった。
だけど、築(ちく)20年(ねん)を越(こ)えていたから、相当(そうとう)に古(ふる)い。
普通(ふつう)の女(おんな)の子(こ)だったら、こんなところに連(つ)れてこられたなら…
そして、それがこの先(さき)の住(す)まいだと言(い)われたならば血相(けっそう)を変(か)えて帰(かえ)ってしまうだろう。
でも、渚(なぎさ)は違(ちが)った。
渚(なぎさ)「素敵(すてき)です」
まだ何(なに)もないシミだらけの部屋(へや)を見渡(みわた)して言(い)った。
そして、小(ちい)さな流(なが)しの前(まえ)に立(た)つ。
渚(なぎさ)「とんとんとんって」
渚(なぎさ)「毎日(まいにち)、朋也(ともや)くんのご飯(はん)作(つく)ります」
朋也(ともや)「いや、学業(がくぎょう)に差(さ)し支(つか)えるから、いいよ」
朋也(ともや)「ただ、渚(なぎさ)はここで暮(く)らしてくれるだけでいいんだ」
朋也(ともや)「そうしたら、俺(おれ)はずっと頑張(がんば)れる」
渚(なぎさ)「そんなの嫌(いや)です」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんだけ、がんばらないでほしいです」
渚(なぎさ)「わたしも、がんばりたいです」
朋也(ともや)「ああ、そうだったな…」
朋也(ともや)「ふたりで頑張(がんば)ろう」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「後(あと)は…おまえの両親(りょうしん)の説得(せっとく)か」
いまだ、オッサンと早苗(さなえ)さんには話(はなし)を切(き)り出(だ)せずにいた。
住居(じゅうきょ)と仕事(しごと)、このふたつを自分(じぶん)の手(て)で用意(ようい)してからにしたかったのだ。
俺(おれ)たちの決意(けつい)の固(かた)さを、そうして示(しめ)したかった。
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「でも、わたしが頼(たの)めば、なんとかなると思(おも)います」
朋也(ともや)「いや、それは卑怯(ひきょう)だろ」
渚(なぎさ)「え?
卑怯(ひきょう)、でしょうか…」
朋也(ともや)「俺(おれ)がおまえを連(つ)れていくんだからな」
朋也(ともや)「俺(おれ)が言(い)わないと、向(む)こうだって、本当(ほんとう)の気持(きも)ちがぶつけられないだろ?」
渚(なぎさ)「それはそうかもしれないです。わたしだと、きっと優(やさ)しいことしか言(い)わないです」
朋也(ともや)「ああ。それに、これだけは男(おとこ)の務(つと)めだ。おまえに助(たす)けられたら、俺(おれ)が鬱(うつ)になるよ」
渚(なぎさ)「そうですか…」
渚(なぎさ)「わかりました。今回(こんかい)は朋也(ともや)くんにお任(まか)せします」
その日(ひ)の夜(よる)、まずは早苗(さなえ)さんに、打(う)ち明(あ)けてみた。
早苗(さなえ)「そうですか」
早苗(さなえ)「わたしは反対(はんたい)しません。どちらかというと賛成(さんせい)です」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)…連(つ)れていくんですよ、渚(なぎさ)を」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はい」
早苗(さなえ)「あの子(こ)は朋也(ともや)さんと出会(であ)ってから、とても強(つよ)くなりました」
早苗(さなえ)「そして、今(いま)も、強(つよ)くなろうとしてるんです」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんと、ふたりで」
朋也(ともや)「ええ…」
早苗(さなえ)「そんなふたりが決(き)めたことです。わたしには見送(みおく)ることしかできません」
朋也(ともや)「………」
目頭(まがしら)が熱(あつ)くなるのを感(かん)じた。
今(いま)、俺(おれ)がしようとしてること…
それは、早苗(さなえ)さんが積(つ)み重(かさ)ねてきたものすべてを、奪(うば)うことじゃないのか…。
いつか来(く)る日(ひ)だとしても…
それでも、それが俺(おれ)で良(よ)かったのか。
朋也(ともや)「すみません…俺(おれ)なんかで」
だから、そう謝(あやま)っていた。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、自分(じぶん)に自信(じしん)を持(も)ってください」
早苗(さなえ)「きっと、朋也(ともや)さんは、自分(じぶん)で思(おも)っている以上(いじょう)に、素敵(すてき)な男性(だんせい)ですよ」
朋也(ともや)「そんなことないでしょう…」
早苗(さなえ)「いえ…」
早苗(さなえ)「だって、あの子(こ)が、好(す)きになった人(ひと)ですから」
そう…それだけは自信(じしん)が持(も)てる。
あいつは俺(おれ)を好(す)きでいてくれてるから…
だから、連(つ)れていける。
早苗(さなえ)「もちろん、わたしも好(す)きですよ」
朋也(ともや)「はは…ありがとうございます」
早苗(さなえ)「それに、秋生(あきお)さんも」
朋也(ともや)「マジっすか」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「いや、あの人(ひと)が一番(いちばん)の壁(かべ)なんすけど」
早苗(さなえ)「まだ、言(い)ってないんですよね」
朋也(ともや)「ええ…」
早苗(さなえ)「頑張(がんば)ってください」
早苗(さなえ)さんは、最後(さいご)に励(はげ)ましの言葉(ことば)を俺(おれ)にかけると、それ以上(いじょう)のことは何(なに)も言(い)ってこなかった。
早苗(さなえ)さんの性格(せいかく)から、いらぬ世話(せわ)を焼(や)かれかねないと思(おも)っていたが、それも杞憂(きゆう)だったようだ。
早苗(さなえ)さんもわかっているのだ。これは俺(おれ)から話(はな)さなければならないことなのだと。
ひとりの男(おとこ)として試(ため)されてる気(き)がした。
気(き)を引(ひ)き締(し)める。
とりあえず俺(おれ)は、オッサンの機嫌(きげん)がいい時(とき)を見計(みはか)らうことにした。
しかしオッサンは、ひとつの言動(げんどう)の中(なか)で、喜(よろこ)びの感情(かんじょう)と怒(いか)りの感情(かんじょう)を同居(どうきょ)させることのできる類(たぐい)まれなる才能(さいのう)に恵(めぐ)まれた人(ひと)である。
それは良(よ)く言(い)えばであって、悪(わる)く言(い)えば『超(ちょう)きまぐれな人(ひと)』だった。
午後(ごご)の平和(へいわ)な古河(ふるかわ)パン。
もうすぐ暇(ひま)を持(も)て余(あま)したオッサンが、姿(すがた)を現(あらわ)すはずだった。
朋也(ともや)(パンも焼(や)き終(お)えて、一息(ひといき)つくところだから、リラックスして話(はなし)を聞(き)いてくれるかもな…)
その姿(すがた)が現(あらわ)れるのをじっと待(ま)つ。
朋也(ともや)(緊張(きんちょう)する…)
が…
秋生(あきお)「なんじゃこりゃぁあぁぁぁーーっ!」
いきなり怒声(どせい)があがる。
その声(こえ)の主(あるじ)が肩(かた)を怒(おこ)らせて現(あらわ)れた。
朋也(ともや)「ど、どうした、オッサン」
秋生(あきお)「どうしたもこうしたもねぇぜ、最悪(さいあく)の気分(きぶん)だぜっ!」
秋生(あきお)「見(み)ろ、これ」
言(い)って、カウンターに叩(たた)きつけたものは、雑誌(ざっし)だった。
それを拾(ひろ)い上(あ)げて、俺(おれ)は目(め)を通(とお)す。
朋也(ともや)「…占(うらな)い?」
秋生(あきお)「ああ、蟹座(かにざ)の欄(らん)を見(み)てみろっ」
『今月(こんげつ)のあなたは大切(たいせつ)なものを他人(たにん)に横取(よこど)りされるかも。大(だい)ショックでしばらく寝込(ねこ)みそう』
朋也(ともや)(ぐはー…ずばり当(あ)たってるよ…)
秋生(あきお)「なっ、胸(むね)くそ悪(あく)ぃだろっ。かっ、縁起(えんぎ)でもねぇぜ」
朋也(ともや)「そ、そうだな…」
秋生(あきお)「てめぇはどうなんだ。自分(じぶん)のところ読(よ)んでみろ」
朋也(ともや)「えっと…」
朋也(ともや)「今月(こんげつ)のあなたは軽(かる)い身(み)のこなしで他人(たにん)のものを横取(よこど)りゲット!
相手(あいて)は大激怒(おおげきど)、逃(に)げるが勝(か)ち!」
秋生(あきお)「てめぇかあぁぁーーっっ!」
秋生(あきお)「しかも、逃(に)げるが勝(か)ちだとおぉぉーっ!?」
朋也(ともや)「ち、違(ちが)うって、占(うらな)いだろ、占(うらな)いっ!」
秋生(あきお)「かっ、まぁ、そうだがよっ…」
秋生(あきお)「でもな、このダークプリンセス今日子先生(きょうこせんせい)の占(うらな)いはよく当(あ)たるんだよ…」
案外(あんがい)可愛(かわい)いところのある人(ひと)だった。
秋生(あきお)「ちっ、なんにしても今月(こんげつ)は最悪(さいあく)の滑(すべ)りだしだぜ」
秋生(あきお)「いいか、しばらく俺(おれ)に近(ちか)づくんじゃねぇぞ、この疫病神(やくびょうがみ)がっ」
大股(おおまた)で歩(ある)いていった。
朋也(ともや)「………」
呆然(ぼうぜん)と立(た)ちつくす俺(おれ)。
朋也(ともや)「はぁ…どうすんだよ、俺(おれ)…」
ため息(いき)をつくしかなかった。
早苗(さなえ)「話(はなし)はできましたか」
朋也(ともや)「いえ、まだっす…」
朋也(ともや)「なんか今月(こんげつ)は無理(むり)なような気(き)がしますよ…」
朋也(ともや)「くそ…ダークプリンセス今日子(きょうこ)めっ…」
早苗(さなえ)「はい?
どちらさんですか?」
朋也(ともや)「いえ、なんでもないっす。くだらない占(うらな)い師(し)っす」
早苗(さなえ)「でも、入居(にゅうきょ)は今月(こんげつ)からなんですよね?」
朋也(ともや)「ええ、そうっす」
早苗(さなえ)「だったら、早(はや)く言(い)わないとダメですよ」
朋也(ともや)「え、ええ…」
秋生(あきお)「うわっはっはっはっはっ!」
いきなり笑(わら)い声(ごえ)が聞(き)こえてきた。
秋生(あきお)「よぅ、小僧(こぞう)」
不気味(ぶきみ)なほどに機嫌(きげん)がいい。
秋生(あきお)「これを見(み)ろ、見(み)ねぇと、てめー、しばくぞこら」
その手(て)には、ロボットのプラモデルが載(の)っていた。
秋生(あきお)「このモデルは入手困難(にゅうしゅこんなん)なんだぞ、どうだ参(まい)ったか、参(まい)ったと言(い)えこの野郎(やろう)」
あれからずっとこれを作(つく)っていたのだろうか。かなり子供(こども)っぽい人(ひと)だった。
秋生(あきお)「見(み)ろよ、このツノの部分(ぶぶん)をよぅ。痺(しび)れるぜぇ。痺(しび)れるだろ?」
朋也(ともや)「いや、さほどは」
秋生(あきお)「ちっ、この良(よ)さがわからんのか、今(いま)の若者(わかもの)はっ」
秋生(あきお)「うーむ…カッコイイぜ」
こんな機嫌(きげん)のいいオッサンを見(み)たことはない。今(いま)がチャンスだ。
朋也(ともや)「な、オッサン」
秋生(あきお)「ああん?」
俺(おれ)の声(こえ)に振(ふ)り返(かえ)るオッサン。
秋生(あきお)「あ…」
その拍子(ひょうし)に、手(て)からプラモデルが落(お)ちた。
秋生(あきお)「うお、なんてこったい!」
拾(ひろ)い上(あ)げて、無事(ぶじ)を確(たし)かめる。
秋生(あきお)「な…なんじゃこりゃああああぁぁぁぁーーーーーっ!」
秋生(あきお)「ツノが折(お)れてなくなってるじゃねぇかよぉーっ!」
秋生(あきお)「てめぇ、一緒(いっしょ)に探(さが)せよ、馬鹿(ばか)っ!」
ふたりで必死(ひっし)に床(ゆか)を探(さが)すも、それは見(み)つからなかった。
秋生(あきお)「おめぇ、やっぱ疫病神(やくびょうがみ)だよっ!」
秋生(あきお)「くそぅ、二度(にど)と、遊(あそ)んでやるもんかーっ!」
オッサンは、走(はし)り去(さ)っていった。
朋也(ともや)「………」
呆然(ぼうぜん)と立(た)ちつくす俺(おれ)…。
早苗(さなえ)「話(はなし)はできましたか」
朋也(ともや)「いえ、まだっす」
朋也(ともや)「なんかやっぱ、無理(むり)な気(き)がしてきましたよ…」
朋也(ともや)「くそ…○ンダムめっ…」
早苗(さなえ)「はい?
どちらさんですか?」
朋也(ともや)「いえ、なんでもないっす。くだらない機動戦士(きどうせんし)っす」
早苗(さなえ)「でも、きっと大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」
早苗(さなえ)「誠意(せいい)を持(も)って、真剣(しんけん)に話(はな)せばわかってもらえますよ」
朋也(ともや)「そうだといいんですけどね…」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよっ」
朋也(ともや)(ああ、今週(こんしゅう)が終(お)わってしまう…)
翌日(よくじつ)も、話(はなし)を切(き)り出(だ)せないまま、やきもきした時間(じかん)を過(す)ごしていた。
秋生(あきお)「おい、小僧(こぞう)!」
不意打(ふいう)ちのように背後(はいご)から呼(よ)ばれる。
朋也(ともや)(びっくりした…)
朋也(ともや)「なんだよ…」
冷静(れいせい)を装(よそお)って返(かえ)す。
秋生(あきお)「付(つ)き合(あ)え」
朋也(ともや)「なぁ、オッサン。店(みせ)のほうはいいのかよ」
秋生(あきお)「こんな時間(じかん)に客(きゃく)なんてこねぇよ」
秋生(あきお)「それに来(き)たら、ここから見(み)える」
朋也(ともや)「そっかよ…」
秋生(あきお)「おうよ」
秋生(あきお)「こいっ」
オッサンがバットを構(かま)える。
俺(おれ)がピッチャーだった。
朋也(ともや)「いくぞ、オッサン」
秋生(あきお)「思(おも)いきりこいよな。この界隈(かいわい)じゃ、パンを焼(や)くソーサと呼(よ)ばれた男(おとこ)だぜ」
軽(かる)く、一球(いっきゅう)投(な)げてみる。
オッサンはそのスローボールを見逃(みのが)した。
秋生(あきお)「てめぇ、なめてんのか」
朋也(ともや)「わかった、もう少(すこ)し真剣(しんけん)に投(な)げるよ」
ボールを受(う)け取(と)る。
そもそも肩(かた)があがらないから、上投(うえな)げはできない。
サイドスローなら、肘(ひじ)の力(ちから)だけでなんとか投(な)げられる。
振(ふ)りかぶり、二球目(にきゅうめ)を投(な)げた。
秋生(あきお)「ちょこざいわああぁっ!」
カィーーーーーーーーン!
大飛球(だいひきゅう)。
振(ふ)り返(かえ)っても、どこに飛(と)んでいったかわからない。
………。
……。
…ガシャーーン!
朋也(ともや)「なんか聞(き)こえたな…」
秋生(あきお)「気(き)のせいだろ。さ、仕事(しごと)だ」
朋也(ともや)「こらこら、あんたが割(わ)ったんだろっ!」
秋生(あきお)「何(なに)が悲(かな)しくて、こんな歳(とし)にもなって、窓(まど)ガラスを特大(とくだい)ホームランで割(わ)っちゃいました、ごめんなさい…」
秋生(あきお)「なんて謝(あやま)らにゃならないんだよっ!」
朋也(ともや)「事実(じじつ)だろっ!
いけよっ!」
秋生(あきお)「おまえひとりでいけ。おまえの若(わか)さなら、まだ恥(は)ずかしくねぇだろ」
朋也(ともや)「だから、割(わ)ったのはあんただろっ!」
秋生(あきお)「行(い)ってくれたら今(いま)のホームランはなかったことにしてやろう。まだ0-0だ」
朋也(ともや)「試合(しあい)なんかしてねぇよっ」
秋生(あきお)「ちっ…」
秋生(あきお)「いくしかないのか…」
朋也(ともや)「当然(とうぜん)だろ、馬鹿(ばか)」
グローブを手(て)に填(は)めたままの俺(おれ)と、バットを肩(かた)に載(の)せて歩(ある)くオッサン。
朋也(ともや)(いい歳(とし)こいて…アホなふたりだ…)
秋生(あきお)「そうだ、おまえ」
朋也(ともや)「あん?」
秋生(あきお)「今月分(こんげつぶん)の給料(きゅうりょう)…100円(えん)上乗(うわの)せしておいてやろう」
朋也(ともや)「そりゃ、どうも」
100円(えん)では嬉(うれ)しくもないが、一応(いちおう)礼(れい)を言(い)っておく。
秋生(あきお)「だからな、おまえ…」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「ひとりで行(い)ってくれ!」
だっ!と逃(に)げ出(だ)す。
朋也(ともや)「こらっ!
小学生(しょうがくせい)か、あんたはっ!」
服(ふく)の裾(すそ)を掴(つか)んで、引(ひ)き戻(もど)す。
秋生(あきお)「冗談(じょうだん)だ、馬鹿(ばか)」
朋也(ともや)「マジで逃(に)げようとしたじゃないか、今(いま)」
秋生(あきお)「くそぅ、200円(えん)だったか」
だから、そういう問題(もんだい)じゃない。
前方(ぜんぽう)にまばらだったけど、人(ひと)の集(あつ)まりが見(み)えた。
朋也(ともや)「ああ、あそこだな。近所(きんじょ)の人(ひと)たちが集(あつ)まってるぜ」
秋生(あきお)「マジか…とんでもない醜態晒(しゅうたいさら)すことになるな…」
朋也(ともや)「自業自得(じごうじとく)だろ」
秋生(あきお)「仕方(しかた)ねぇな…」
秋生(あきお)「ちぃーっす」
挨拶(あいさつ)と共(とも)に、その中(なか)に割(わ)って入(はい)る。
主婦(しゅふ)「あら、古河(ふるかわ)さん」
秋生(あきお)「おぅ、悪(わる)い悪(わる)い。それ打(う)ったの、俺(おれ)なんだ」
主婦(しゅふ)「相変(あいか)わらず、やんちゃですね、古河(ふるかわ)さんは」
秋生(あきお)「違(ちが)う、こいつが、あんちゃんの特大(とくだい)ホームラン見(み)たいよぅってせがむんだ」
朋也(ともや)「誘(さそ)ったのは、あんただろっ」
主婦(しゅふ)「ふふふ…」
主婦(しゅふ)「大丈夫(だいじょうぶ)、わかってるわよ」
おばさんは笑(わら)って俺(おれ)に言(い)った。
結局(けっきょく)、みんな知(し)っているのだ。オッサンの人柄(ひとがら)を。
だから、誰(だれ)ひとりとして非難(ひなん)しようとしない。笑(わら)い声(ごえ)だけが、ずっと続(つづ)いていた。
俺(おれ)の前(まえ)では、俺以上(おれいじょう)に子供(こども)で、言動(げんどう)も乱暴(らんぼう)で、なんの取(と)り柄(え)もないような人(ひと)だったけど…
それでも、そんな光景(こうけい)を見(み)せられたら俺(おれ)にだってわかる。
やっぱり、早苗(さなえ)さんが選(えら)んだこの人(ひと)は、いい人(ひと)なのだと。
取(と)り柄(え)はないかもしれないけど、周(まわ)りに笑(わら)いを絶(た)やさずいてくれる人(ひと)。
それは、何(なに)よりもの取(と)り柄(え)なのかもしれない。
笑(わら)っていられれば、そのとき人(ひと)は、幸(しあわ)せなのだと思(おも)うから。
なら、この人(ひと)は…
人(ひと)を幸(しあわ)せにする力(ちから)があるのだ。
西日(にしび)の中(なか)、帰路(きろ)についていた。
朋也(ともや)「俺(おれ)もさ…」
秋生(あきお)「あん?」
朋也(ともや)「人(ひと)を笑(わら)わせてみたい」
秋生(あきお)「おぅ、くすぐってやれ」
朋也(ともや)「いや、そういう意味(いみ)じゃなくて…」
朋也(ともや)「オッサンみたいにだよ」
秋生(あきお)「あん?
俺(おれ)、んなことしてたか?」
朋也(ともや)「オッサンは渚(なぎさ)や早苗(さなえ)さんだけじゃなくて、近所(きんじょ)のひとたち、みんな笑(わら)わせてるじゃないか」
秋生(あきお)「なんだよ、そりゃ…俺(おれ)がアホみたいじゃねぇかよっ」
朋也(ともや)「いや、違(ちが)うよ。きっと、いい意味(いみ)でだよ」
秋生(あきお)「ふん、わかんねぇよ、自分(じぶん)じゃ」
朋也(ともや)「だから、俺(おれ)もそうしてみたいんだ」
朋也(ともや)「自分(じぶん)の力(ちから)だけで、笑(わら)わせてみたい」
朋也(ともや)「大切(たいせつ)な人(ひと)…渚(なぎさ)を」
秋生(あきお)「………」
朋也(ともや)「連(つ)れていっていいか、あいつを」
秋生(あきお)「どこへだよ…」
朋也(ともや)「この近(ちか)くでアパート借(か)りて、俺(おれ)、独(ひと)り暮(く)らし始(はじ)めようと思(おも)ってるんだ」
朋也(ともや)「そこへ」
秋生(あきお)「んな金(かね)、あるのかよ」
朋也(ともや)「新(あたら)しい仕事(しごと)の当(あ)てもあるんだ。そこで、がむしゃらに働(はたら)いて、稼(かせ)ぐ」
朋也(ともや)「そうやって、自分(じぶん)ひとりの力(ちから)で、渚(なぎさ)を笑(わら)わせたい」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)は…」
秋生(あきお)「あいつは、なんて言(い)ってんだよ…」
朋也(ともや)「一緒(いっしょ)にいくって、そう言(い)ってくれてる」
秋生(あきお)「そっか…」
秋生(あきお)「………」
しばらく沈黙(ちんもく)が続(つづ)いた。
オッサンは何(なに)を考(かんが)えているのだろうか。
秋生(あきお)「前(まえ)に話(はな)しただろう、俺(おれ)たちがパン屋(や)を始(はじ)めた理由(りゆう)」
朋也(ともや)「ああ…」
秋生(あきお)「あいつは自分(じぶん)の小(ちい)さな体(からだ)で、精一杯(せいいっぱい)、訴(うった)えたんだ」
秋生(あきお)「そばに居(い)てくれって」
秋生(あきお)「だから俺(おれ)たちは、あいつのそばに居(い)ることにしたんだ」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「でもな、あの日(ひ)から随分(ずいぶん)と時間(じかん)が経(た)った」
秋生(あきお)「もうあいつは、あの日(ひ)のような子供(こども)じゃねぇ」
秋生(あきお)「自分(じぶん)の意志(いし)を言葉(ことば)にして、ちゃんと伝(つた)えられる」
秋生(あきお)「そのあいつが、今度(こんど)はおまえと一緒(いっしょ)に居(い)たいって言(い)うんなら…」
秋生(あきお)「俺(おれ)には何(なに)も言(い)えねぇよ…」
諦(あきら)めたように、ため息(いき)をついた。
こんなにもあっさりと認(みと)めてもらえるなんて、思(おも)ってもみなかった。
でも、それは…誰(だれ)よりも渚(なぎさ)のことがわかっていたからだと思(おも)う。
自分(じぶん)の娘(むすめ)のために、ずっと生(い)きてきたからだと…そう思(おも)う。
秋生(あきお)「いいか」
秋生(あきお)「週(しゅう)に一度(いちど)はあいつとふたりで家(いえ)に顔(かお)を出(だ)すこと」
秋生(あきお)「そして、またあいつの具合(ぐあい)が悪(わる)くなったら、早苗(さなえ)を呼(よ)ぶこと」
秋生(あきお)「この二点(にてん)を守(まも)れ」
朋也(ともや)「ああ、わかった」
秋生(あきお)「後(あと)は、好(す)きにしろ」
言(い)って、オッサンは俺(おれ)を置(お)いていくようにして先(さき)を急(いそ)いだ。
朋也(ともや)「………」
その大(おお)きな背中(せなか)に向(む)かって…
朋也(ともや)「俺(おれ)、あいつを笑(わら)わせ続(つづ)けるからっ」
そう誓(ちか)った。
あんたがこれまでそうしてきたように。
今度(こんど)は俺(おれ)が。
秋生(あきお)「ああ、そうしてやってくれ」
バットが大(おお)きく揺(ゆ)れた。
店(みせ)の前(まえ)に早苗(さなえ)さんが立(た)っていた。
早苗(さなえ)「おふたりとも、お店(みせ)すっぽかしてどこ行(い)ってたんですか?」
秋生(あきお)「はい。こいつが、野球(やきゅう)しよう、って言(い)い出(だ)しました」
どんな大人(おとな)だ、あんた…。
秋生(あきお)「それで、やっほーぅ!俺(おれ)、バッターね!とかはしゃぎまくってよ…」
秋生(あきお)「おいおい、ガキじゃないんだから、フルスイングすんなよって、たしなめたのに…」
秋生(あきお)「ちょこざいわぁぁぁー!とか叫(さけ)びながら、大振(おおぶ)りしやがってよ…」
秋生(あきお)「それで窓(まど)ガラス割(わ)って、なにやってたんだ俺(おれ)…ってブルーになってたのはどこのどいつだ、あん?」
朋也(ともや)「全部(ぜんぶ)あんただよ」
秋生(あきお)「俺(おれ)がそんな子供(こども)みてぇなことするかよ!」
早苗(さなえ)「ごめんなさいね、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「すべて見透(みす)かされてるよ」
秋生(あきお)「なんでだよっ、こいつのほうが年下(としした)なのに、どうしていい歳(とし)こいた俺(おれ)だと思(おも)うんだぁぁー!」
早苗(さなえ)「毎日(まいにち)プラモデル作(つく)ったり、三角(さんかく)ベースしてたらわかります」
秋生(あきお)「ぐわーっ!
ガキかよ、俺(おれ)はぁぁーっっ!」
頭(あたま)を抱(かか)えて、転(ころ)げ回(まわ)る。
早苗(さなえ)「それに長(なが)い付(つ)き合(あ)いですからね」
秋生(あきお)「ちっ…明日(あした)から趣味(しゅみ)はチェスだ」
早苗(さなえ)「やり方(かた)知(し)ってるんですか?」
秋生(あきお)「知(し)らねぇが、目(め)の前(まえ)に並(なら)べてうんうん唸(うな)ってれば、様(さま)になるだろ」
早苗(さなえ)「すぐに飽(あ)きそうですね」
秋生(あきお)「俺(おれ)は形(かたち)から入(はい)るんだよぉぉーっ!」
こんな人(ひと)を今(いま)さっきまで尊敬(そんけい)していたのかと思(おも)うと、鬱(うつ)になる。
早苗(さなえ)「もう暗(くら)いですから、お店(みせ)、閉(し)めましょうか」
秋生(あきお)「そうだな、今日(きょう)はゲームセットだ」
秋生(あきお)「ちなみに俺(おれ)のホームランはカウントされてるから、てめぇの負(ま)けだぞ」
秋生(あきお)「泣(な)きながら帰(かえ)れ、負(ま)け犬(いぬ)がっ」
秋生(あきお)「つーわけで、俺(おれ)はシャワーを浴(あ)びるぞ。汗(あせ)だくで気持(きも)ち悪(あく)ぃ」
早苗(さなえ)「はい」
早苗(さなえ)「お湯(ゆ)は張(は)らなくていいですか?」
秋生(あきお)「こんな暑(あつ)い日(ひ)に湯(ゆ)になんて浸(つ)かってられるかっ、溶(と)けるだろっ」
早苗(さなえ)「浸(つ)かったほうが疲(つか)れ、とれますよ?」
秋生(あきお)「いいっつってんだよっ」
オッサンが店(みせ)の中(なか)に入(はい)っていく。
早苗(さなえ)「はいはい。着替(きが)え持(も)っていきますね」
朋也(ともや)「あ、早苗(さなえ)さん」
その後(あと)に続(つづ)こうとした早苗(さなえ)さんを引(ひ)き留(と)める。
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「言(い)いましたよ、俺(おれ)」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)とのことですか?」
朋也(ともや)「はい」
早苗(さなえ)「どうでしたか」
朋也(ともや)「承諾(しょうだく)、得(う)られました」
早苗(さなえ)「そうですか。良(よ)かったですね」
朋也(ともや)「ええ」
朋也(ともや)「予定通(よていどお)り、今月末(こんげつすえ)には家(いえ)を出(で)ます」
早苗(さなえ)「はい」
[/wrap]
Leaves - 2009/6/11 10:04:00
那啥…手机的问题……悲剧的手机………
其实就是今天生日列表偶见海鸥君…
生日快乐…
注音计划完成这么多了呢…真是辛苦了…

此码无解XD
话说便当高考完了呢…
不知考的如何…是否如愿?
とある便当屋さん - 2009/6/11 11:43:00
LEAVES君..你的暗号太难解了..(掩面
seagull - 2009/6/11 13:09:00
谢谢,Leaves。
这几天忙一些其他的事,没有更新,下周还有各种考试,然后还有实训相关的事情。
不过时间如果找的话,总会有的。这个坑我一定会填完,不过这个学期我看是来不及了。
seagull - 2009/6/11 13:24:00
[wrap=

5月5日()

,0,]
5月(がつ)の連休(れんきゅう)、その最後(さいご)の日(ひ)に引(ひ)っ越(こ)しをした。
秋生(あきお)「てめぇ、免許(めんきょ)を取(と)れ」
軽(けい)トラックから降(お)りて、オッサンが開口一番(かいこういちばん)そう言(い)った。
朋也(ともや)「無理言(むりい)うな。金(かね)がねぇよ」
秋生(あきお)「ふん、まぁ、これが最後(さいご)だぞ。てめぇの世話(せわ)を焼(や)くのは」
朋也(ともや)「わかってるよ、オッサン。大丈夫(だいじょうぶ)だ」
秋生(あきお)「俺(おれ)は仕事(しごと)に戻(もど)る。こいつはまた夜(よる)に取(と)りにくる」
朋也(ともや)「ああ。世話(せわ)んなったな」
秋生(あきお)「ちっ、いいなぁ…同棲生活(どうせいせいかつ)かよ…」
呟(つぶや)きながら、去(さ)っていった。
朋也(ともや)「自分(じぶん)も、早苗(さなえ)さんとふたりきりじゃんか」
その背(せ)を見送(みおく)る。
朋也(ともや)「さて、と…」
軽(けい)トラと向(む)き合(あ)う。荷台(にだい)に載(の)る荷物(にもつ)は少(すく)なかった。
めぼしいものと言(い)えば、テレビにタンス、布団(ふとん)にちゃぶ台(だい)ぐらいのものだった。
全部(ぜんぶ)、古河家(ふるかわけ)の物置(ものおき)に仕舞(しまい)われていたお古(ふる)だ。
冷蔵庫(れいぞうこ)は小(ちい)さいのが、部屋(へや)に備(そな)えつけられていた。
洗濯(せんたく)は、アパートのすぐ正面(しょうめん)にあるコインランドリーを使(つか)うことに決(き)めている。
それでも十分(じゅうぶん)だった。それ以上(いじょう)は、単(たん)なる贅沢(ぜいたく)でしかないと思(おも)った。
とりあえず布団(ふとん)を抱(かか)えて、部屋(へや)へと向(む)かう。
そこでは、渚(なぎさ)がひとりで待(ま)っていた。
まだ何(なに)もなかったけど…部屋(へや)に立(た)つ渚(なぎさ)を見(み)ただけで、俺(おれ)の胸(むね)は高鳴(たかな)ってしまう。
ふたりだけの生活(せいかつ)が本当(ほんとう)に始(はじ)まる。
それを期待(きたい)と不安(ふあん)と共(とも)に実感(じっかん)していた。
渚(なぎさ)「あ、荷物(にもつ)届(とど)きましたか」
渚(なぎさ)から先(さき)に口(くち)を開(ひら)いていた。
朋也(ともや)「ああ、悪(わる)いけど、ちょっとどいてくれ」
つっかけを脱(ぬ)いで、上(あ)がる。その際(さい)、布団(ふとん)の端(はし)が壁(かべ)に擦(す)れて、脆(もろ)い表面(ひょうめん)を削(けず)った。
朋也(ともや)「うわっ、俺(おれ)、いきなり、部屋(へや)を壊(こわ)してるよ…」
渚(なぎさ)「あの、手伝(てつだ)います」
朋也(ともや)「いや、こういうのは男(おとこ)の仕事(しごと)なんだ。見(み)ててくれ」
渚(なぎさ)「でも…」
朋也(ともや)「荷物(にもつ)も少(すく)ないしさ」
朋也(ともや)「後(あと)で、茶(ちゃ)いれてくれたらそれでいいよ」
渚(なぎさ)「でも…」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)だっての」
一時間(いちじかん)で、掃除(そうじ)まで済(す)んでしまった。
小(ちい)さなちゃぶ台(だい)に向(む)かい合(あ)って座(すわ)るふたり。
ずずーっと、渚(なぎさ)がいれてくれた茶(ちゃ)をすする。
朋也(ともや)「………」
ずずーっ。
渚(なぎさ)「………」
ずずーっ。
渚(なぎさ)「えーっと…」
渚(なぎさ)「…こういう時(とき)はなんて言(い)うんでしょうか」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「ふたりでの生活(せいかつ)のスタートです」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「なんて言(い)えばいいんでしょう」
渚(なぎさ)「スタートですから、よーい、どん、でしょうか」
朋也(ともや)「いや、それヘンだよ」
渚(なぎさ)「どうしてでしょうか」
朋也(ともや)「ゴールなんてないじゃん」
渚(なぎさ)「そう言(い)われてみると、そうです」
朋也(ともや)「お互(たが)いが助(たす)け合(あ)って暮(く)らしていくんだからさ…」
朋也(ともや)「たぶん、お願(ねが)いします、だよ」
渚(なぎさ)「あ…そうです。朋也(ともや)くん、賢(かしこ)いです」
朋也(ともや)「じゃ、やるか」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「あ、ちょっと待(ま)ってください」
朋也(ともや)「なんだよ」
渚(なぎさ)「わたし、それと一緒(いっしょ)に誓(ちか)いを立(た)てたいと思(おも)います」
朋也(ともや)「誓(ちか)い?」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)が湯飲(ゆの)みを置(お)いて、両手(りょうて)を胸(むね)の前(まえ)で合(あ)わせた。
渚(なぎさ)「わたし、古河渚(ふるかわなぎさ)は…」
渚(なぎさ)「もう泣(な)きません。どんなに辛(つら)くても、がんばって、乗(の)り越(こ)えていきます」
朋也(ともや)「いや、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「我慢(がまん)するのは、悲(かな)しい時(とき)だけでいいんだよ」
朋也(ともや)「嬉(うれ)しい時(とき)にさ、涙(なみだ)堪(た)えてたら、そっちに必死(ひっし)になってさ、喜(よろこ)びが減(へ)るだろ」
朋也(ともや)「そうは思(おも)わないか」
渚(なぎさ)「はい、そうです。きっとそうです」
渚(なぎさ)「わかりました」
渚(なぎさ)「それでは、もう一度(いちど)」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「わたし、古河渚(ふるかわなぎさ)は…」
渚(なぎさ)「もう泣(な)きません。どんなに辛(つら)くても、がんばって、乗(の)り越(こ)えていきます」
渚(なぎさ)「でもうれしい時(とき)だけは、泣(な)いてしまうかもしれません」
渚(なぎさ)「そんなわたしですが…」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いします」
手(て)を畳(たたみ)につけて、お辞儀(じぎ)をした。
朋也(ともや)「こちらこそ、お願(ねが)いします」
俺(おれ)も頭(あたま)を下(さ)げる。
渚(なぎさ)「えへへ」
渚(なぎさ)が笑(わら)う。
朋也(ともや)「よし、明(あか)るいうちにさ、近所(きんじょ)に挨拶(あいさつ)に回(まわ)ろうぜ」
渚(なぎさ)「はい」
夕飯(ゆうはん)はふたりで作(つく)った。
献立(こんだて)は焼(や)き魚(ざかな)、大根(だいこん)のお浸(ひた)し、ひじきの煮物(にもの)、それにご飯(はん)とみそ汁(しる)だけという質素(しっそ)なものだった。
それでも、できた時(とき)にはふたりしてものすごく喜(よろこ)び、そして食(た)べた時(とき)はものすごく美味(おい)しく感(かん)じた。
ふたりで、片(かた)づけ、しばらくテレビを見(み)て過(す)ごす。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、明日早(あしたはや)いです」
朋也(ともや)「ああ、早(はや)いよ」
渚(なぎさ)「そろそろお風呂入(ふろはい)って、休(やす)んだほうがいいと思(おも)います」
時間(じかん)は10時(じ)。
朋也(ともや)「そういや、おまえ、11時(じ)に寝(ね)るんだったな」
渚(なぎさ)「あ、いえ…わたしが寝(ね)たいから急(せ)かしているわけではないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの体(からだ)のことを考(かんが)えてです」
朋也(ともや)「ああ…ありがと。じゃ、そうするよ」
渚(なぎさ)「はい、そうしてください」
キッチン兼用(けんよう)の狭(せま)い通路(つうろ)に立(た)ち、カーテンを引(ひ)く。
そもそもこのカーテンさえなかったのだが、さすがに仕切(しき)りは必要(ひつよう)だということで後(あと)から取(と)りつけたものだった。
小(ちい)さなかごの上(うえ)に服(ふく)を脱(ぬ)ぎ捨(す)てて、浴室(よくしつ)に入(はい)った。
シャー…
朋也(ともや)(すんげぇ出(で)が悪(わる)い…)
蛇口(じゃぐち)をひねる。
朋也(ともや)(アチッ…)
朋也(ともや)(温度調整(おんどちょうせい)も極端(きょくたん)だな…)
ま、これも慣(な)れればなんとも思(おも)わなくなるのだろう。
渚(なぎさ)と兼用(けんよう)のシャンプーで頭(あたま)を洗(あら)う。
朋也(ともや)「お先(さき)」
渚(なぎさ)「はい。それではわたしも入(はい)ってきます」
朋也(ともや)「ああ」
入(い)れ代(か)わり、渚(なぎさ)が立(た)ち上(あ)がり、カーテンをくぐっていった。
先(さき)にドライヤーを使(つか)っておこう。
コンセントを差(さ)して、スイッチを入(い)れようとした時(とき)…
シュ…
布(めの)の擦(す)れる音(おと)がした。
俺(おれ)はカーテンを振(ふ)り返(かえ)る。
朋也(ともや)(よく考(かんが)えたら…これって、かつてなくアレな状況(じょうきょう)じゃないか…)
カーテンの下(した)には渚(なぎさ)の素足(すあし)が見(み)えている。
そこに今(いま)、スカートが落(お)ちてきた。
朋也(ともや)(ああ…これだけのことで興奮(こうふん)するのも、そういうことに疎(うと)いからだろうな、俺(おれ)たち…)
でも、これは同棲生活(どうせいせいかつ)だ。
渚(なぎさ)だって、そういった覚悟(かくご)もしてるに違(ちが)いない。
いくら、疎(うと)くても…。
朋也(ともや)(ああ、何(なに)考(かんが)えてるんだ、俺(おれ)はっ)
カーテンから目(め)を逸(そ)らす。
ふたりで頑張(がんば)ろうと決(き)めて始(はじ)めたことなのに、初日(しょにち)から、こんな欲(よく)も抑(おさ)えられないでどうする。
………。
パタン、と戸(と)が閉(し)まる音(おと)がした。
朋也(ともや)(しかし…)
朋也(ともや)(男(おとこ)とは溜(た)まっていくものだからな…我慢(がまん)にも限界(げんかい)があるよな…)
もう一度(いちど)、カーテンに目(め)を向(む)ける。
自分を落ち着かせる
朋也(ともや)(落(お)ち着(つ)け、俺(おれ)…)
朋也(ともや)(まだ仕事(しごと)の初日(しょにち)も迎(むか)えてないってのに…)
朋也(ともや)(同棲生活(どうせいせいかつ)が始(はじ)まった途端(とたん)これじゃ、オッサンや早苗(さなえ)さんに申(もう)し訳(わけ)が立(た)たないだろ…)
渚(なぎさ)の自立(じりつ)を許(ゆる)してくれたふたりの顔(かお)を思(おも)い浮(う)かべると…俺(おれ)は自然(しぜん)と落(お)ち着(つ)いていた。
ふたりの思(おも)いを踏(ふ)みにじること…それだけはできなかった。
朋也(ともや)(もっと苦労(くろう)を越(こ)えてからだ…)
朋也(ともや)(じゃなきゃ、意味(いみ)がない)
そう自分(じぶん)に言(い)い聞(き)かせた。
渚(なぎさ)「いいお湯(ゆ)でした」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、おまえ、可愛(かわい)い」
渚(なぎさ)「あ、ありがとうございます」
渚(なぎさ)「でも、風呂上(ふろあ)がりにいきなり言(い)われると、なんかヘンな気分(きぶん)です」
朋也(ともや)「我慢(がまん)してたんだ。言(い)わせてくれ」
渚(なぎさ)「はい…別(べつ)に嫌(いや)だったわけではないです」
これぐらいは許(ゆる)されるだろうと、俺(おれ)は言葉責(ことばせ)めにした。
でも、本当(ほんとう)に昔(むかし)よりも可愛(かわい)くなった気(き)がする。
それは、渚(なぎさ)が変(か)わったのか…
それとも、俺(おれ)が渚(なぎさ)を昔以上(むかしいじょう)に好(す)きになっているのか…
よくわからなかった。
体(からだ)を横(よこ)にしてからも眠気(ねむけ)は訪(おとず)れず、ずっと見慣(みな)れない天井(てんじょう)を眺(なが)めていた。
渚(なぎさ)のほうも、寝(ね)つけないようで、一向(いっこう)に寝息(ねいき)は聞(き)こえてこない。
朋也(ともや)(………)
ふと、今(いま)のふたりが滑稽(こっけい)に思(おも)えた。
今日(きょう)から始(はじ)まる暮(く)らしが、単(たん)なるままごとのような気(き)がして。
ただ、渚(なぎさ)を自分(じぶん)の力(ちから)で幸(しあわ)せにしたいという一念(いちねん)で、ここまでやってきたけど…
これから先(さき)、たくさんの困難(こんなん)が待(ま)ち受(う)けているだろう。
きっと現実(げんじつ)はそんなに甘(あま)くはない。
その現実(げんじつ)に対(たい)して俺(おれ)たちはあまりにも子供(こども)で、簡単(かんたん)に折(お)れてしまいそうにも思(おも)えた。
それを越(こ)えないと本当(ほんとう)の強(つよ)さなんて、わからない。
今(いま)は、自分(じぶん)たちで頑張(がんば)っている気(き)になっているだけだ。
オッサンや早苗(さなえ)さんも同(おな)じように考(かんが)えているのかもしれない。
若気(わかげ)の至(いた)りのひとつだと。
やりたいならやってみればいい。
自分(じぶん)たちの手(て)の届(とど)くところで。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、起(お)きてるか」
渚(なぎさ)「はい、起(お)きてます」
朋也(ともや)「俺(おれ)はさ、もっと強(つよ)くなりたい」
渚(なぎさ)「わたしもです」
朋也(ともや)「だよな…」
朋也(ともや)「だから、ふたりで頑張(がんば)ろうな」
朋也(ともや)「俺(おれ)も、明日(あした)からはオッサンも早苗(さなえ)さんもいない、甘(あま)えの利(き)かない新(あたら)しい職場(しょくば)で働(はたら)くことになる」
朋也(ともや)「きっと、予想以上(よそういじょう)に辛(つら)いんだと思(おも)う」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おまえも今(いま)、頑張(がんば)ってる」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「そうして、ふたりして、一年(いちねん)頑張(がんば)ったらさ…」
朋也(ともや)「きっとさ、何(なに)にも負(ま)けないぐらい強(つよ)くなってるよ、俺(おれ)たち」
渚(なぎさ)「わたしもそう思(おも)います」
朋也(ともや)「おまえ、誓(ちか)いを立(た)てたもんな」
渚(なぎさ)「はい、立(た)てました」
朋也(ともや)「頑張(がんば)ろうな」
渚(なぎさ)「はい」
俺(おれ)は並(なら)んだ布団(ふとん)の中(なか)で、渚(なぎさ)の手(て)を探(さぐ)った。
見(み)つけると、それを握(にぎ)った。
人(ひと)の温(ぬく)もりを感(かん)じながら、俺(おれ)は眠(ねむ)った。
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とある便当屋さん - 2009/6/11 14:35:00
嘛..俺尽力了,学校我不在乎,能继续念书就好=W=
seagull - 2009/6/12 15:17:00
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5月6日()

,0,]
仕事(しごと)は8時(じ)からだった。まだ一度(いちど)も行(い)ったことのない事務所(じむしょ)に向(む)かわなければならない。
だから余裕(よゆう)を持(も)って、6時半(じはん)に起(お)きた。
ひとり、みそ汁(しる)を温(あたた)めていると…
渚(なぎさ)「おはようございます、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)が起(お)き出(だ)してきた。
朋也(ともや)「起(お)こしちまったか、悪(わる)いな」
渚(なぎさ)「いえ、代(か)わります。朋也(ともや)くんは支度(したく)をしていてください」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、寝(ね)てろよ。まだこんな時間(じかん)だぞ。授業中(じゅぎょうちゅう)に居眠(いねむ)りするぞ」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。代(か)わってください」
朋也(ともや)「寝(ね)てろっての。こっちはそんなに手間(てま)じゃないから」
渚(なぎさ)「でも、そういうことはわたしがしたいです」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「わかったよ…」
喧嘩(けんか)はしないふたりだったけど、相手(あいて)を思(おも)いやるばかりに、こうした譲(ゆず)り合(あ)いが絶(た)えないだろう。
朋也(ともや)(こいつ、言(い)っても聞(き)かない子(こ)だからな…)
台所(だいどころ)に立(た)つ渚(なぎさ)の後(うし)ろ姿(すがた)を眺(なが)めながら、そんなことを考(かんが)えていた。
朋也(ともや)「いいか、まだ早(はや)いんだから、寝直(ねなお)せよ」
渚(なぎさ)「はい、わかりました」
朋也(ともや)「かといって、寝過(ねす)ぎるな。ちゃんと目覚(めざ)ましかけて、遅刻(ちこく)しないようにな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、いってくる」
渚(なぎさ)「いってらっしゃいです」
朋也(ともや)「おはようございます」
新(あたら)しい職場(しょくば)の戸(と)を開(ひら)ける。
中(なか)では、3人(にん)の作業服(さぎょうふく)を着(き)た男(おとこ)がだべっていた。
芳野(よしの)「来(き)たか」
芳野(よしの)さんだけが、俺(おれ)に気(き)づいてくれた。
芳野(よしの)「すぐにこれに着替(きが)えろ。ロッカーの裏(うら)だ」
指(さ)さす先(さき)に、パーティション代(か)わりにロッカーの背(せ)が並(なら)んでいた。
俺(おれ)はその後(うし)ろに回(まわ)り込(こ)み、渡(わた)された服(ふく)に着替(きが)える。
以前(いぜん)に誰(だれ)かが使(つか)っていたものなのだろう。至(いた)るところが煤(すす)に汚(よご)れた作業着(さぎょうぎ)だった。
芳野(よしの)さんの元(もと)に戻(もど)るが、同僚(どうりょう)たちとの会話(かいわ)に夢中(むちゅう)だった。
すでに出来上(できあ)がっている空気(くうき)に、自分(じぶん)がそぐわない。
居心地悪(いごこちわる)く、待(ま)ち続(つづ)ける。
そこへ、一際(ひときわ)くたびれた作業着姿(さぎょうぎすがた)の中年男性(ちゅうねんだんせい)が現(あらわ)れた。
一目(いちもく)でわかる。ここで一番偉(いちばんえら)い人(ひと)だ。
芳野(よしの)さんは、その人(ひと)の前(まえ)まで俺(おれ)を連(つ)れていった。
親方(おやかた)「芳野(よしの)くん。その子(こ)だっけ、今日(きょう)から来(く)るって言(い)ってた」
芳野(よしの)「ええ、そうです。名前(なまえ)は…」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っす」
芳野(よしの)「親方(おやかた)だ。ちゃんと挨拶(あいさつ)しろ」
親方(おやかた)「若(わか)いね。いくつだい」
朋也(ともや)「18っす」
親方(おやかた)「高校卒業(こうこうそつぎょう)したてか。そりゃ活(い)きがいいね」
親方(おやかた)「ま、最初(さいしょ)の数日(すうじつ)はキツいと思(おも)うけどさ、長(なが)く続(つづ)けたら慣(な)れるよ」
親方(おやかた)「無理(むり)しないように、頑張(がんば)ってよ」
朋也(ともや)「はい、頑張(がんば)ります」
親方(おやかた)「怪我(けが)だけは気(き)をつけてね」
その後(あと)、すぐにそれぞれの今日(きょう)の仕事場(しごとば)に向(む)かうことになる。
芳野(よしの)「いくか」
俺(おれ)は芳野(よしの)さんとコンビで仕事(しごと)をするようだった。
芳野(よしの)「変(か)わったな」
仕事場(しごとば)に向(む)かう車(くるま)の中(なか)、芳野(よしの)さんは前(まえ)を向(む)いたまま、そう言(い)った。
朋也(ともや)「え?
なにがですか?」
助手席(じょしゅせき)から訊(き)き返(かえ)す俺(おれ)。
芳野(よしの)「出会(であ)った時(とき)と、まるで別人(べつじん)のようだ」
朋也(ともや)「そうっすか…」
芳野(よしの)「ああ。あの時(とき)は、まんま子供(こども)だったものな」
朋也(ともや)「じゃ、今(いま)は、大人(おとな)に見(み)えますか」
芳野(よしの)「いや…」
芳野(よしの)「大人(おとな)になろうと懸命(けんめい)に足掻(あが)いてる子供(こども)に見(み)える」
朋也(ともや)「なんだ…結局子供(けっきょくこども)なんすね」
芳野(よしの)「でも、全然違(ぜんぜんちが)う」
朋也(ともや)「どう違(ちが)うんすか」
芳野(よしの)「真剣(しんけん)さが違(ちが)うだろ」
確(たし)かに…それは大(おお)きな違(ちが)いに思(おも)えた。
前(まえ)に進(すす)む気(き)もなければ、子供(こども)は子供(こども)のままだ。
芳野(よしの)「期待(きたい)してるぞ」
朋也(ともや)「はいっ」
芳野(よしの)「それと…一日(いちにち)で辞(や)めるのはやめてくれ。それやられると、鬱(うつ)になるからな」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)っす。真剣(しんけん)ですから」
芳野(よしの)「よし。じゃ、いくか」
車(くるま)は停止(ていし)していた。
朋也(ともや)「はい」
同時(どうじ)にドアを開(あ)けた。
芳野(よしの)「今日(きょう)はこれの設置(せっち)だ」
芳野(よしの)「前(まえ)の手伝(てつだ)いとは違(ちが)うが、基本(きほん)は一緒(いっしょ)だ」
芳野(よしの)さんは、トラックの荷台(にだい)から一抱(ひとかか)えもある段(だん)ボールを降(お)ろした。
朋也(ともや)「なんすか、これ」
芳野(よしの)「街灯(がいとう)だ。型番(かたばん)は…っつってもわからないか」
芳野(よしの)「早(はや)く覚(おぼ)えろ。材料(ざいりょう)の確認(かくにん)も仕事(しごと)の一(ひと)つだ」
芳野(よしの)さんはそう言(い)って、段(だん)ボールを開(ひら)け始(はじ)めた。
俺(おれ)も何(なに)かをしようと思(おも)い、荷台(にだい)に駆(か)け寄(よ)った。たしか工具類(こうぐるい)をチェックするはず…。
芳野(よしの)「荷台(にだい)にメットがあるから、先(さき)にかぶれ。前(まえ)にも言(い)っただろ」
いきなり注意(ちゅうい)された。俺(おれ)は慌(あわ)ててメットをかぶった。
俺(おれ)はびっくりしていた。
前(まえ)にやった、半日(はんにち)だけの手伝(てつだ)いのときには何(なに)も言(い)われなかった。
ただ、ペンチを取(と)ってくれとか、ビスを出(だ)してくれなどの指示(しじ)しか来(こ)なかった。
芳野(よしの)「返事(へんじ)は?」
朋也(ともや)「は、はい」
芳野(よしの)「よし。荷台(にだい)にもう一本梯子(いっぽんはしご)、あるだろ。反対側(はんたいがわ)から立(た)てかけて登(のぼ)ってくれ」
俺(おれ)は急(いそ)いで指示(しじ)に従(したが)った。
芳野(よしの)「落(お)とすな。それと落(お)ちるな」
朋也(ともや)「…縁起(えんぎ)でもないこと、言(い)わないでください」
俺(おれ)は街灯(がいとう)を支(ささ)えている。仮止(かりど)めはしていたが回路(かいろ)を繋(つな)げる間(あいだ)、俺(おれ)が支(ささ)えていた。
芳野(よしの)「腕(うで)の力(ちから)で支(ささ)えるな。体重(たいじゅう)を掛(か)けろ。そっちの方(ほう)が安全(あんぜん)だ」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は答(こた)えられなかった。街灯(がいとう)の支柱(しちゅう)に命綱(いのちづな)を通(とお)し、身体(しんたい)を後(うし)ろに反(そ)らすようにして街灯(がいとう)を支(ささ)えるとの説明(せつめい)は受(う)けた。
だが、できなかった。言(い)うのは簡単(かんたん)だが、ここは地上(ちじょう)ではない。
そもそも梯子(はしご)の上(うえ)で自分(じぶん)からバランスを崩(くず)せるか。地上(ちじょう)数(すう)メートルとはいえ、怖(こわ)いものは怖(こわ)い。
芳野(よしの)「いやでも覚(おぼ)えろ」
芳野(よしの)さんは簡単(かんたん)そうに言(い)った。
芳野(よしの)「よし、終(お)わり。放(はな)していいぞ」
俺(おれ)は街灯(がいとう)をそっと放(はな)した。やや前(まえ)のめりになって、固定(こてい)されていた。
芳野(よしの)「本止(ほんど)めするから見(み)ておけ」
朋也(ともや)「あ、それくらい俺(おれ)にやらせてくださいよ」
芳野(よしの)「止(や)めとけ。最初(さいしょ)は見(み)て覚(おぼ)えろ」
芳野(よしの)さんは怪訝(かいが)そうな顔(かお)をしていた。
朋也(ともや)「わかりますよ。それくらい」
いくらなんでもボルトの締(し)め方(かた)くらいはわかっている。
少(すこ)しでも仕事(しごと)をして、とにかく先(さき)に進(すす)みたかった。
芳野(よしの)「…じゃ、残(のこ)りを締(し)めてくれ。締(し)める順番(じゅんばん)は対角線(たいかくせん)。最後(さいご)に確認(かくにん)を忘(わす)れるなよ」
芳野(よしの)さんは梯子(はしご)を降(お)りていった。
俺(おれ)は言(い)われた通(とお)り、対角線(たいかくせん)にボルトを締(し)めて降(お)りていった。
芳野(よしの)さんの手際(てぎわ)には敵(かな)わないが、とにかく力一杯(ちからいっぱい)締(し)めたから問題(もんだい)ないだろう。
芳野(よしの)「終(お)わったか?」
朋也(ともや)「ええ」
芳野(よしの)「確認(かくにん)したか?」
朋也(ともや)「しましたけど、どういうことっすか?」
芳野(よしの)「最後(さいご)にもう一度(いちど)締(し)めたか?
ちゃんと止(と)まってるか、台座(だいざ)と平行(へいこう)になってるかな」
俺(おれ)と芳野(よしの)さんは再(ふたた)び梯子(はしご)を登(のぼ)った。
芳野(よしの)さんは慣(な)れた手(て)で、俺(おれ)の締(し)めたボルトを触(さわ)っていた。
その中(なか)のひとつに触(ふ)れたとき、スパナで叩(たた)いてから、おもむろに締(し)めた。
スパナは半回転(はんかいてん)もした。
朋也(ともや)「…嘘(うそ)だろ」
俺(おれ)は確(たし)かに力(ちから)の限(かぎ)り締(し)めたはずだった。
芳野(よしの)「ちゃんと締(し)まってなかったな」
朋也(ともや)「いや、でも…」
かん、と音(おと)が響(ひび)いた。メットの上(うえ)からスパナで殴(なぐ)られたのだ。
痛(いた)くはなかったが、頭(あたま)にじーんと響(ひび)き、目(め)の前(まえ)がちかちかする。
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「だから訊(き)いただろ。本当(ほんとう)にわかってるかって」
確(たし)かに訊(き)かれた。俺(おれ)もそれくらいわかると言(い)った。
だが、結果(けっか)はこのザマだった。
芳野(よしの)「締(し)め方(かた)一(ひと)つにも技術(ぎじゅつ)があるんだ。おまえはできるって言(い)ったから任(まか)せた」
返(かえ)す言葉(ことば)もない。
芳野(よしの)「この仕事(しごと)は見(み)て覚(おぼ)える。真似(まね)る。そこから始(はじ)めるんだ」
芳野(よしの)「いいか。この仕事(しごと)は、間違(まちが)えたら終(お)わりなんだ」
芳野(よしの)「もし自分(じぶん)の設置(せっち)した街灯(がいとう)が落(お)ちたらどうする?」
多分(たぶん)、いや絶対(ぜったい)に嫌(いや)な気分(きぶん)になる。
芳野(よしの)「それに、もしその下(した)に自分(じぶん)の大事(だいじ)な人(ひと)がいたらどうする?」
落(お)ちてきた街灯(がいとう)の下(した)に大事(だいじ)な人(ひと)…。俺(おれ)の頭(あたま)に渚(なぎさ)の顔(かお)が浮(う)かんだ。
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に嫌(いや)です」
芳野(よしの)「だから確実(かくじつ)にするんだ。丁寧(ていねい)に、ひたすら丁寧(ていねい)にな」
朋也(ともや)「…はい」
芳野(よしの)「それさえ忘(わす)れなければ、今(いま)はいい」
朋也(ともや)「はい」
俺(おれ)は真剣(しんけん)に頭(あたま)を下(さ)げた。
芳野(よしの)「じゃ、次(つぎ)に行(い)くぞ」
朋也(ともや)「残(のこ)りはどのくらいですか?」
芳野(よしの)「そうだな、…あと四件(よんけん)だ」
朋也(ともや)「…げ」
俺(おれ)の悲鳴(ひめい)を聞(き)いて、芳野(よしの)さんは薄(うす)く笑(わら)った。
そして、一日(いちにち)の仕事(しごと)が終(お)わる。
事務所(じむしょ)から一歩出(いっぽで)たところで、それ以上(いじょう)歩(ある)けなくなった。
腰(こし)を下(お)ろし、壁(かべ)にもたれる。
全身(ぜんしん)が限界(げんかい)を超(こ)えた労働(ろうどう)に今(いま)なお悲鳴(ひめい)を上(あ)げ続(つづ)けている。
明日(あした)、起(お)きた時(とき)が恐(こわ)い。
どれほどの筋肉痛(きんにくつう)に襲(おそ)われるのだろうか、と。
しばらく休(やす)んでから、おぼつかない足取(あしど)りで家路(いえじ)を辿(たど)った。
朋也(ともや)「ただいま」
渚(なぎさ)「おかえりなさいです」
台所(だいどころ)に立(た)つ渚(なぎさ)を見(み)ると、それだけでいくらか回復(かいふく)した気分(きぶん)になる。
渚(なぎさ)「もうすぐ夕飯(ゆうはん)できます」
朋也(ともや)「手伝(てつだ)うよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ものすごく疲(つか)れてます」
朋也(ともや)「疲(つか)れてるけど、おまえの顔(かお)見(み)たら、元気(げんき)になった」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「でも、そこで無理(むり)すると、明日(あした)に響(ひび)くと思(おも)います」
渚(なぎさ)「ですので、休(やす)んでいてください」
朋也(ともや)「手伝(てつだ)うぐらい、なんでもないんだけどな」
靴(くつ)を脱(ぬ)ぎ、渚(なぎさ)に近(ちか)づこうとしたところで、よろめく。
渚(なぎさ)のおかげで回復(かいふく)したのは気力(きりょく)だけで、体力(たいりょく)は底(そこ)をついたままだった。
渚(なぎさ)「どうしましたか?」
渚(なぎさ)が振(ふ)り返(かえ)って、俺(おれ)を不思議(ふしぎ)そうな目(め)で見(み)ていた。
朋也(ともや)「いや…」
朋也(ともや)「やっぱり、休(やす)んでおこうかな…」
渚(なぎさ)「はい」
その後(うし)ろをぶつからないように通(とお)り、部屋(へや)に入(はい)る。
腰(こし)を下(お)ろすと、体(からだ)中(なか)が痺(しび)れたように弛緩(しかん)し、そのままぶっ倒(たお)れそうになる。
精神力(せいしんりょく)で、渚(なぎさ)が夕飯(ゆうはん)を運(はこ)んでくるまで体(からだ)を起(お)こしていた。
朋也(ともや)「いただきます」
渚(なぎさ)「いただきます」
昨晩(さくばん)と同(おな)じように、質素(しっそ)な献立(こんだて)が並(なら)ぶ。
でも、疲(つか)れきった俺(おれ)には、ちょうどよかった。
肉(にく)や揚(あ)げ物(もの)だったら、喉(のど)を通(とお)らなかっただろう。
朋也(ともや)「帰(かえ)りに、買(か)い物(もの)してくるのか?」
渚(なぎさ)「いえ、ちゃんと帰(かえ)ってきて、着替(きが)えてから行(い)ってます」
朋也(ともや)「ああ、そうなのか」
想像(そうぞう)してみる。
主婦(しゅふ)に混(ま)じって、スーパーで生鮮食品(せいせんしょくひん)を買(か)い求(もと)める渚(なぎさ)の姿(すがた)を。
朋也(ともや)(いい…)
さらに気力(きりょく)+50。
…回復(かいふく)するのは気力(きりょく)ばかりだった。
渚(なぎさ)「あの、お仕事(しごと)のほうは、どうでしたか」
朋也(ともや)「ああ…肉体労働(にくたいろうどう)だから、しんどいことは確(たし)かだよ」
朋也(ともや)「でも、最初(さいしょ)だけだと思(おも)う。慣(な)れれば、もっと楽(らく)になるよ」
他(あだ)にも何(なに)か話(はな)せればよかったのだろうけど、初日(しょにち)の感想(かんそう)なんて疲(つか)れた以外(いがい)には何(なに)も浮(う)かばなかった。
渚(なぎさ)「そうですか」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばってます」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「なんだか、かっこいいです」
朋也(ともや)「今(いま)までは、格好悪(かっこうわる)かったみたいだな」
渚(なぎさ)「いえ、今(いま)まで以上(いじょう)に、という意味(いみ)です」
朋也(ともや)「いいよ、自分(じぶん)でもわかってるんだ」
朋也(ともや)「今(いま)までは、オッサンや早苗(さなえ)さんに甘(あま)えてたからな…格好(かっこう)いいわけがない」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)の社会人(しゃかいじん)には、今日(きょう)なったんだと思(おも)う」
朋也(ともや)「自分(じぶん)でも実感(じっかん)してるよ」
渚(なぎさ)「では、今日(きょう)は社会人(しゃかいじん)になった記念日(きねんび)です」
朋也(ともや)「なんかくれるのか?」
渚(なぎさ)「なにか、欲(ほ)しいでしょうか」
朋也(ともや)「なんでも欲(ほ)しい」
渚(なぎさ)「でも、わたし、何(なに)も持(も)ってないです」
朋也(ともや)「形(かたち)があるものじゃなくてもいいんじゃないかな…」
渚(なぎさ)「ええと、言葉(ことば)でもいいですか」
いい
朋也(ともや)「ああ、言葉(ことば)だって、俺(おれ)はうれしいよ」
渚(なぎさ)「それでは…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、社会人(しゃかいじん)、おめでとうございます」
渚(なぎさ)「そして、がんばってください」
渚(なぎさ)「その…わたしのために」
………。
渚(なぎさ)がそんなことを言(い)ってくれるなんて思(おも)わなかった。
胸(むね)の奥底(おうそこ)がじわっと暖(あたた)かくなる。
大好(だいす)きな人(ひと)が自分(じぶん)を必要(ひつよう)としてくれている…
それを実感(じっかん)すること、それはなんて心地(ここち)よいものなのだろう。
渚(なぎさ)「思(おも)いきったことを言(い)ってしまいました…えへへ」
朋也(ともや)「いや、いいよ。すごくやる気(き)でた」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか」
渚(なぎさ)「だったら、よかったです」
気力(きりょく)全開(ぜんかい)で、明日(あした)を迎(むか)えられる気(き)がした。
けど、体力(たいりょく)のほうは、完全(かんぜん)に底(そこ)を突(つ)いていたようで…
俺(おれ)は風呂(ぶろ)から上(あ)がると、渚(なぎさ)が入(はい)るのも待(ま)たず横(よこ)になり、そのまま気(き)を失(うしな)うようにして眠(ねむ)ってしまっていた。
もう、何(なに)をする余力(よりょく)も残(のこ)っていなかったのだ。
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seagull - 2009/6/14 22:30:00
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5月7日()

,0,]
翌朝(よくあさ)は痛(いた)みで起(お)きた。
案(あん)の定(じょう)、全身(ぜんしん)ひどい筋肉痛(きんにくつう)だった。
何(なに)もできない。寝(ね)ていたい。
もう一度(いちど)目(め)を瞑(つぶ)る。
ああ、心地(ここち)よい。
もう何(なに)も考(かんが)えたくない。
このままでいよう…。
………。
すーすー…。
小(ちい)さな寝息(ねいき)が聞(き)こえてきた。
隣(となり)の布団(ふとん)を見(み)る。
朋也(ともや)(…渚(なぎさ))
きっと、ひとりだったら、俺(おれ)は何(なに)もできなかった。
高校(こうこう)の時(とき)のように、遅刻(ちこく)を繰(く)り返(かえ)して…
そして、幸村(こうむら)のように、俺(おれ)をそこに繋(つな)ぎ止(と)めようとしてくれるような人(びと)も居(い)なくて…
職(しょく)を失(うしな)って…
堕落(だらく)し続(つづ)けて…
最後(さいご)には、どうなってしまっていたんだろう。
渚(なぎさ)の寝顔(ねがお)を見(み)つめたまま、そんなことを考(かんが)える。
でも、今(いま)は守(まも)りたい人(ひと)がいるから…。
朋也(ともや)(頑張(がんば)ろう…)
体(からだ)にむち打(う)って、俺(おれ)は布団(ふとん)から這(は)い出(だ)した。
朋也(ともや)「…おはようございます」
芳野(よしの)「ちゃんと来(き)たな」
芳野(よしの)さんが話(はなし)の輪(わ)から抜(ぬ)けて、俺(おれ)の前(まえ)に座(すわ)った。
朋也(ともや)「そりゃ来(き)ますよ。真剣(しんけん)に勤(つと)めるって決(き)めたっすから」
芳野(よしの)「体中(からだじゅう)痛(いた)くないか?」
朋也(ともや)「………」
痛(いた)かった。半端(はんぱ)じゃなく。
芳野(よしの)「痛(いた)くても仕事(しごと)はしっかりやれ」
芳野(よしの)「すぐに出(で)るから、早(はや)く着替(きが)えろ」
優(やさ)しい言葉(ことば)などなかった。
昨日(きのう)も感(かん)じたことだが、芳野(よしの)さんは、以前(いぜん)手伝(てつだ)った時(とき)とは、俺(おれ)への接(せっ)し方(かた)がまるで違(ちが)う。
朋也(ともや)(今(いま)は、直属(ちょくぞく)の部下(ぶか)なんだから、それも当然(とうぜん)のことか…)
朋也(ともや)(でも、ちょっと寂(さび)しいような…)
そんなことを考(かんが)えながら、煤(すす)にまみれた作業服(さぎょうふく)に着替(きが)える。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)」
袖(そで)を通(とお)そうとして、芳野(よしの)さんに呼(よ)び止(と)められた。
芳野(よしの)「これ、貼(は)っておけ」
朋也(ともや)「なんすか、これ」
芳野(よしの)「湿布(しっぷ)」
朋也(ともや)「あ、ありがとうございます」
芳野(よしの)「気(き)にするな。俺(おれ)もそうだった」
朋也(ともや)「…はあ」
俺(おれ)は頷(うなず)いたが、筋肉痛(きんにくつう)になっている芳野(よしの)さんは想像(そうぞう)できなかった。
着(つ)いた現場(げんば)は、昨日(きのう)と一緒(いっしょ)の場所(ばしょ)だった。
朋也(ともや)「同(おな)じなんですね」
芳野(よしの)「そうだ。最近(さいきん)は単発(たんぱつ)の方(ほう)が少(すく)ないからな」
今日(きょう)の仕事(しごと)は故障(こしょう)した街灯(がいとう)を外(はず)して、新(あたら)しいのと取(と)り替(か)えることだった。
芳野(よしの)「じゃ、始(はじ)めるぞ」
朋也(ともや)「お願(ねが)いします」
一抱(ひとかか)えもある街灯(がいとう)を肩(かた)に担(にな)いで、梯子(はしご)を登(のぼ)る。
昨日(きのう)は割(わり)と簡単(かんたん)だと思(おも)ったが、今日(きょう)は違(ちが)った。
体中(からだじゅう)が悲鳴(ひめい)をあげていた。
俺(おれ)は痛(いた)みを奥歯(おくば)で噛(か)み殺(ころ)しながら、作業(さぎょう)に専念(せんねん)した。
芳野(よしの)「スパナの持(も)ち方(かた)が違(ちが)う。それじゃ力(ちから)が入(はい)らないだろうが」
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「だから、ビスはドライバーと一緒(いっしょ)に中指(なかゆび)の先(さき)で支(ささ)えて穴(あな)に添(そ)えろ」
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「ねじ止(ど)め剤(ざい)が付(つ)けすぎなんだよ」
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「それ、昨日(きのう)やったじゃないか」
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「集中(しゅうちゅう)しろ。気(き)を抜(ぬ)いてると、怪我(けが)するぞ」
朋也(ともや)「………」
昨日(きのう)にも増(ま)して、怒(おこ)られっぱなしだった。
芳野(よしの)「よし、終(お)わり。帰(かえ)るぞ」
朋也(ともや)「………」
答(こた)える気力(きりょく)もない。
体力(たいりょく)は底(そこ)を突(つ)きかけている上(うえ)、気(き)が滅入(めい)っていた。
軽(けい)トラの助手席(じょしゅせき)に乗(の)ると、崩(くず)れ落(お)ちそうになった。
帰(かえ)ってくるのがやっとだった。
昨日(きのう)の疲労(ひろう)が残(のこ)ったままで、さらに新(あたら)しい疲労(ひろう)を積(つ)み上(あ)げてきた感(かん)じだ。
本当(ほんとう)に慣(な)れる日(ひ)が来(く)るのだろうか…。
こんな辛(つら)さが続(つづ)くというなら、ぞっとする。
朋也(ともや)「ただいま…」
渚(なぎさ)「おかえりなさいです」
昨日(きのう)と同(おな)じように、渚(なぎさ)は台所(だいどころ)に立(た)っていた。
今日(きょう)は手伝(てつだ)おうか、と訊(き)く余裕(よゆう)もなかった。
体(からだ)を引(ひ)きずるようにして、後(うし)ろを通(とお)り抜(ぬ)けると、部屋(へや)に倒(たお)れ込(こ)んだ。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、大丈夫(だいじょうぶ)ですか」
その様子(ようす)を見(み)てか、渚(なぎさ)が手(て)を止(と)めてやってくる。
朋也(ともや)「ああ、大丈夫(だいじょうぶ)…」
渚(なぎさ)「具合悪(ぐあいわる)いですか」
そばに膝(ひざ)をついて訊(き)いた。
朋也(ともや)「いや、本当(ほんとう)、疲(つか)れてるだけ…」
渚(なぎさ)「そうですか…」
渚(なぎさ)「今日(きょう)はスタミナ付(つ)くように、豚(ぶた)さん買(か)ってきました」
渚(なぎさ)「食(た)べて、ゆっくり休(やす)みましょう」
朋也(ともや)「ああ…そうするよ…」
渚(なぎさ)「それでは、もうしばらく待(ま)っててください」
朋也(ともや)「ああ、手伝(てつだ)えなくて、ごめんな」
渚(なぎさ)「いえ、ぜんぜん平気(へいき)です」
立(た)ち上(あ)がり、戻(もど)っていった。
今(いま)、俺(おれ)は渚(なぎさ)に支(ささ)えられている気(き)がした。
ぶっ倒(たお)れた俺(おれ)を心配(しんぱい)して、一目散(いちもくさん)に駆(か)けつけてくれる。
それだけで、ふがいない自分(じぶん)をこんちくしょうと思(おも)える。
腐(くさ)らずに奮起(ふんき)することができた。
夕飯(ゆうはん)を食(た)べる間(あいだ)、渚(なぎさ)の話(はなし)に相(あい)づちを打(う)つだけだった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、とても疲(つか)れています」
朋也(ともや)「え?」
渚(なぎさ)「疲(つか)れてるのに、一方的(いっぽうてき)に話(はなし)をしてしまって、ごめんなさいでした」
こんちくしょう。
朋也(ともや)「聞(き)いてるだけなんて、楽(らく)だって。いくらでも聞(き)くよ」
渚(なぎさ)「いえ、聞(き)くのも、結構疲(けっこうつか)れると思(おも)います」
渚(なぎさ)「それに、わたしの話(はなし)…退屈(たいくつ)ですし…」
朋也(ともや)「んなことねぇよ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「ですが、今日(きょう)は早(はや)く休(やす)みましょう」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「ああ…」
俺(おれ)は素直(すなお)に頷(うなず)いていた。
明日(あした)はもっと渚(なぎさ)と話(はなし)ができるように。
渚(なぎさ)「それでは、おやすみなさいです」
朋也(ともや)「おやすみ」
昨日(きのう)よりも一時間早(いちじかんはや)い消灯(しょうとう)。
同時(どうじ)に、俺(おれ)は深(ふか)い眠(ねむ)りに落(お)ちていた。
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seagull - 2009/6/15 11:22:00
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5月8日()

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翌日(よくじつ)も同(おな)じ場所(ばしょ)にいた。
芳野(よしの)「震(ふる)えるな、ちゃんと固定(こてい)してろ。おまえは貧弱(ひんじゃく)な小僧(こぞう)か」
朋也(ともや)「小僧(こぞう)じゃ…ないっすっ」
口(くち)では否定(ひてい)するも、壊(こわ)れた肩(かた)に足(あし)を引(ひ)っ張(ぱ)られているのは確(たし)かだ。
元通(もとどお)りになることはないにしても、多少(たしょう)の力仕事(ちからしごと)ならとたかをくくっていた。
それでも右肩(みぎかた)をかばいながらでは仕事(しごと)のスピードが上(あ)がらないのは事実(じじつ)だった。
芳野(よしの)「ケースを外(はず)してこい。俺(おれ)は皮膜処理(ひまくしょり)をやっておく」
俺(おれ)は梯子(はしご)を登(のぼ)り、電柱(でんちゅう)に取(と)り付(つ)けられた室外用(しつがいよう)のボックスを外(はず)そうとした。
芳野(よしの)「おまえは馬鹿(ばか)か。そんなの左手(ひだりて)で届(とど)くわけないだろ」
下(した)から芳野(よしの)さんの罵声(ばせい)が飛(と)んだ。
俺(おれ)も馬鹿(ばか)だと思(おも)う。何(なに)しろ、右手(みぎて)を上(うえ)に伸(の)ばせばすぐに届(とど)く位置(いち)にあるのだから。
芳野(よしの)「両手(りょうて)を使(つか)え」
朋也(ともや)「いや、これでもできますからっ」
芳野(よしの)「…なに?」
芳野(よしの)さんの声色(こわいろ)が変(か)わった。やばい。
芳野(よしの)「降(お)りてこい。今(いま)すぐ」
…さんざんに怒(おこ)られた。
芳野(よしの)「何(なん)であんなやりにくい動(うご)きなんだ、おまえは」
朋也(ともや)「いえ、俺(おれ)にはその方(ほう)がやりやすいっす」
芳野(よしの)さんはそうかと呟(つぶや)き、もう何(なに)も言(い)わなかった。
次(つぎ)の現場(げんば)でも難(むずか)しい場面(ばめん)に出(で)くわした。
だが、芳野(よしの)さんはなにも言(い)わずに黙(だま)って見(み)ていた。
一日(いちにち)の仕事(しごと)を終(お)え、助手席(じょしゅせき)に体(からだ)を預(あず)ける。後(あと)は事務所(じむしょ)に戻(もど)るだけだった。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)」
エンジンをかける前(まえ)に芳野(よしの)さんは話(はな)しかけてきた。
朋也(ともや)「…はい、なんすか?」
芳野(よしの)「もう一度(いちど)訊(き)くが、あれの方(ほう)が、本当(ほんとう)にやりやすいのか?」
いきなり問(と)われて、俺(おれ)は答(こた)えに困(こま)った。
芳野(よしの)「どうなんだ?」
朋也(ともや)「…ええ、その方(ほう)が良(い)いです。俺(おれ)は、ですけど」
芳野(よしの)さんはちら、と俺(おれ)を見(み)ただけでまた視線(しせん)を前(まえ)に戻(もど)した。
芳野(よしの)「…手順(てじゅん)が間違(まちが)ってるわけじゃないから、あれでいい」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「そのかわり怪我(けが)するな」
朋也(ともや)「あ、はいっ」
返事(へんじ)すると同時(どうじ)、ぶるん、と車体(しゃたい)がうなった。
今日(きょう)は、歩(ある)けないほど、といった疲(つか)れではなかった。
毎日(まいにち)、十分(じゅうぶん)すぎるほど睡眠(すいみん)を取(と)っているのが良(よ)かったのか。
失(うしな)われた体力(たいりょく)に対(たい)し、ようやく回復(かいふく)が追(お)いついた、という感(かん)じだった。
帰(かえ)ってきてから、初(はじ)めて夕飯(ゆうはん)の手伝(てつだ)いをすることもできた。
と言(い)っても、台所(だいどころ)は狭(せま)すぎてふたりも立(た)てなかったから、出来上(できあ)がった料理(りょうり)を部屋(へや)に運(はこ)ぶだけだったけど。
渚(なぎさ)「お仕事(しごと)のほうはどうでしたか」
朋也(ともや)「相変(あいか)わらずしんどいけど、どうにかやっていけそうだよ」
渚(なぎさ)「そうですか。それはよかったです」
朋也(ともや)「学校(がっこう)のほうはどうだった」
渚(なぎさ)「なにもないです。いつも通(どお)りでした」
悪(わる)いこともなかったのだろうけど、取(と)り立(た)てていいこともなかった、ということだった。
朋也(ともや)「そっか…」
渚(なぎさ)「あ」
渚(なぎさ)が声(こえ)を上(あ)げて箸(はし)を止(と)めていた。
朋也(ともや)「ん?
どうした」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、お箸(はし)、間違(まちが)えてます」
朋也(ともや)「え?
あ、ほんとだ。これ、おまえのだ」
朋也(ともや)「もう、これで食(た)べちゃってるんだけど」
渚(なぎさ)「替(か)えなくていいですか」
朋也(ともや)「えっと…おまえは、まだ使(つか)ってないの?」
渚(なぎさ)「いえ…口(くち)、つけてしまいました」
朋也(ともや)「よし、替(か)えよう」
渚(なぎさ)「…朋也(ともや)くん、なんかヘンなこと考(かんが)えてます」
朋也(ともや)「ばれたか…」
渚(なぎさ)「ちゃんと洗(あら)ってきます。貸(か)してください」
朋也(ともや)「ああ…」
渚(なぎさ)「そんな名残惜(なごりお)しそうな顔(かお)で見(み)ないでください」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ヘンです」
ようやく冗談(じょうだん)を言(い)う余裕(よゆう)も出(で)てきた。
この生活(せいかつ)にも慣(な)れてきたのかもしれない。
でも、俺(おれ)は、渚(なぎさ)を笑(わら)わせ続(つづ)けると誓(ちか)って、ここに来(き)たのだ。
今(いま)の俺(おれ)は、それが果(は)たせていない。
まだまだ頑張(がんば)りが足(た)らないと思(おも)った。
渚(なぎさ)「それで、明日(あした)のことなんですが…」
箸(はし)を洗(あら)って戻(もど)ってきた渚(なぎさ)が話(はなし)を切(き)り出(だ)す。
渚(なぎさ)「仕事(しごと)はお休(やす)みですか」
朋也(ともや)「ああ、大丈夫(だいじょうぶ)」
そう。明日(あした)は、同棲生活(どうせいせいかつ)を始(はじ)めて最初(さいしょ)の日曜日(にちようび)。
そして、オッサンと約束(やくそく)した、週(しゅう)に一度(いちど)、渚(なぎさ)の顔(かお)を見(み)せに行(い)く日(ひ)。
ふたりでの生活(せいかつ)は、想像(そうぞう)していた以上(いじょう)に大変(たいへん)だったけど…
それでも、俺(おれ)たちはなんとかやっていますと…そう、報告(ほうこく)しにいく日(ひ)だった。
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seagull - 2009/6/15 11:23:00
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5月9日()

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俺(おれ)と渚(なぎさ)は、ケーキを持(も)って、実家(じっか)を訪(おとず)れた。
渚(なぎさ)「ただいまです」
店先(みせさき)に暇(ひま)そうに突(つ)っ立(た)っていたオッサンに挨拶(あいさつ)した。
秋生(あきお)「ん…?」
秋生(あきお)「まさかっ…」
秋生(あきお)「いや…幻覚(げんかく)か…?」
秋生(あきお)「はたまた蜃気楼(しんきろう)か…?」
秋生(あきお)「ちがう、本物(ほんもの)だ…」
秋生(あきお)「な…」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)か…」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)なんだなっ!?」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)なんだなああぁーーーーっ!?」
朋也(ともや)「漂流(ひょうりゅう)でもしてたのか、このオッサンは」
渚(なぎさ)「はい、渚(なぎさ)です」
秋生(あきお)「よぉく、戻(もど)ってきたなぁっ!」
渚(なぎさ)を思(おも)いっきり抱(だ)きしめる。
朋也(ともや)「夜(よる)には帰(かえ)るぞ」
秋生(あきお)「ちっ、なんだこいつは。感動(かんどう)の再会(さいかい)シーンをぶち壊(こわ)しにしやがってよぉっ」
秋生(あきお)「はぁ…冷(さ)めた冷(さ)めた。とっとと早苗(さなえ)に会(あ)ってこい」
渚(なぎさ)の体(からだ)を解放(かいほう)して、くわえていたタバコに火(ひ)をつける。
朋也(ともや)「ああ、いこうぜ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
店内(てんない)では早苗(さなえ)さんがひとりで店番(みせばん)をしていた。
渚(なぎさ)「ただいまです」
早苗(さなえ)「え…」
早苗(さなえ)「まさか…」
早苗(さなえ)「ううん、幻覚(げんかく)でしょうか…」
早苗(さなえ)「それとも、蜃気楼(しんきろう)?」
早苗(さなえ)「もしかして、本物(ほんもの)ですか…?」
早苗(さなえ)「な…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)なんですねっ!」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)にネタ合(あ)わせしてるぞ、この親(おや)たちは」
早苗(さなえ)「あれ、ばれました?」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんのアイデアです」
朋也(ともや)「言(い)われなくてもわかるっす」
早苗(さなえ)「できるだけ再会(さいかい)を劇的(げきてき)にして、渚(なぎさ)を引(ひ)き留(と)めようという作戦(さくせん)です」
暇(ひま)な親(おや)たちである。
早苗(さなえ)「こんなことしても無駄(むだ)ですよね。渚(なぎさ)は朋也(ともや)さんと一緒(いっしょ)に居(い)たいですよね」
渚(なぎさ)「はい、居(い)たいです」
渚(なぎさ)「でも、わたしにはお父(とう)さんもお母(かあ)さんも大切(たいせつ)ですから、とても悩(なや)んでしまいます」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ、渚(なぎさ)。居(い)たい場所(ばしょ)に居(い)ればいいんです」
早苗(さなえ)「それで、帰(かえ)ってきたいときに帰(かえ)ってくればいいんです」
渚(なぎさ)「はい、わかりました」
渚(なぎさ)「でも、わたしは朋也(ともや)くんとふたりでがんばると決(き)めましたから…」
渚(なぎさ)「ですから、簡単(かんたん)にはあきらめません」
秋生(あきお)「ちっ、とっとと諦(あきら)めろ」
後(うし)ろにオッサンが立(た)っていた。
秋生(あきお)「俺(おれ)と早苗(さなえ)の大海(たいかい)のような愛(あい)で温々(ぬくぬく)と育(そだ)てられたほうがいいだろ、娘(むすめ)よ」
秋生(あきお)「んなカエルのカンピンタンのようなシオシオな愛(あい)よりな」
ひどい言(い)われようだ。
渚(なぎさ)「それは甘(あま)えだと思(おも)います」
そうだ、言(い)ってやれ。
渚(なぎさ)「大海(たいかい)を出(で)て、水(みず)のないような場所(ばしょ)でも生(い)きていかなければならないと思(おも)います」
渚(なぎさ)「それで…カエルのカンピンタンのように、干(ひ)からびてしまったとしても…」
渚(なぎさ)「いつか雨(あめ)は大地(だいち)を潤(うるお)します」
渚(なぎさ)「その時(とき)は、カエルのカンピンタンも、みずみずしく蘇(よみがえ)ることでしょう」
いや、カンピンタンに水(みず)をかけても戻(もど)らないと思(おも)う。
渚(なぎさ)「だから、どうかその日(ひ)まで、見守(みまも)っていてください」
朋也(ともや)「つっか、待(ま)てっ、結局(けっきょく)俺(おれ)の愛(あい)はカンピンタンなのかよっ」
渚(なぎさ)「それはたとえです」
朋也(ともや)「わかってるっ」
秋生(あきお)「ちっ、頭(あたま)の悪(わる)い奴(やつ)だな、こいつは」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、可愛(かわい)いじゃないですか。カエルさんのカンピンタンなんて」
やばい…久々(ひさびさ)にアホアホトライアングルに捕(と)らわれていた。
さっ、と横(よこ)っ飛(と)びで、脱出(だっしゅつ)する。
渚(なぎさ)「……?」
秋生(あきお)「何(なに)やってんだ、こいつは」
朋也(ともや)「いや、なんでもないっす」
渚(なぎさ)「あ、これ、ケーキです。みんなで食(た)べましょう」
渚(なぎさ)が手(て)に下(さ)げていた包(つつ)みを抱(かか)え上(あ)げた。
ケーキを食(た)べながら、団欒(だんらん)。
たった一週間(いっしゅうかん)しか経(た)っていないのに、なんだか頬(ほお)が緩(ゆる)むほどに懐(なつ)かしい。
この4人(ひと)で暮(く)らしていたことが、今(いま)思(おも)うと、滑稽(こっけい)なのだ。
本当(ほんとう)に、楽(たの)しかったのだと思(おも)う。
秋生(あきお)「へぇ…こいつが痴漢(ちかん)で捕(つか)まったってか。そりゃケッサクだな」
渚(なぎさ)「誰(だれ)もそんな話(はな)してないです」
秋生(あきお)「かっ、冗談(じょうだん)だ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんは、人(ひと)のこと言(い)えません」
早苗(さなえ)「ふたりきりになった途端(とたん)、セクハラしてくるんです。とても困(こま)ってるんですよ」
ぶっ!
思(おも)わず紅茶(こうちゃ)を吹(ふ)き出(だ)してしまう。
朋也(ともや)「マ、マジっすか」
秋生(あきお)「かっ…あんなの可愛(かわい)いもんじゃねぇかよ!」
この人(ひと)の『可愛(かわい)い』はとんでもなく破廉恥(はれんち)なことに違(ちが)いない。男(おとこ)としては、とても興味(きょうみ)をそそる。
早苗(さなえ)「あんなことされたら、仕事(しごと)に集中(しゅうちゅう)できません」
秋生(あきお)「ちっ、スカートめくりぐらいでピーピー言(い)ってんじゃねぇよっ」
…むちゃくちゃ可愛(かわい)かった!
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、小学生(しょうがくせい)みたいです」
秋生(あきお)「ああ、ハッスルパパだぜ」
ハッスルしすぎだ。
秋生(あきお)「まあ、男(おとこ)ってのはそんなもんだよな、同士(どうし)」
いきなり話(ばなし)を振(ふ)られる。
早苗(さなえ)「そうなんですか?」
女性陣(じょせいじん)の視線(しせん)が一手(いって)に集(あつ)まる。とても答(こた)えづらい状況(じょうきょう)だ…。
実際(じっさい)今(いま)も過剰(かじょう)な想像(そうぞう)をしてしまったところだから、否定(ひてい)はしないが…。
秋生(あきお)「娘(むすめ)よ、おまえもこいつにエッチなことされてんだろ。どうだ、正直(しょうじき)に言(い)ってみろ」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。朋也(ともや)くんはそんなこと絶対(ぜったい)にできない人(ひと)ですから」
秋生(あきお)「なにぃっ」
渚(なぎさ)の爆弾発言(ばくだんはつげん)Part2。
秋生(あきお)「そ、そうか…いや、ま、そう気(き)を落(お)とすんじゃないぞ、若者(わかもの)よ」
思(おも)いっきり勘違(かんちが)いされている…。
当然(とうぜん)だろう…。
俺(おれ)は、交際相手(こうさいあいて)に『この人(ひと)は不能者(ふのうしゃ)ですから』と宣言(せんげん)されたようなものなのだから…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんはとても優(やさ)しい人(ひと)です」
秋生(あきお)「そうか、優(やさ)しいのか…そういうのでカバーか…」
哀(あわ)れみの目(め)。
オッサンの中(なか)では、俺(おれ)はとても情(なさ)けない男(おとこ)として位置(いち)づけされてしまったような気(き)がする…。
かといって、今更(いまさら)…
朋也(ともや)「誤解(ごかい)っす。ちゃんと機能(きのう)するっす」
などと親(おや)の前(まえ)で弁解(べんかい)するのも、不気味(ぶきみ)すぎて嫌(いや)だが…。
好きに思わせておく
好(す)きに思(おも)わせておけばいい。俺(おれ)は紅茶(こうちゃ)をすする。
秋生(あきお)「おい、早苗(さなえ)。おまえが、教(おし)えてやるか」
ぶっ!
早苗(さなえ)「はい?
なにをですか?」
秋生(あきお)「いや、冗談(じょうだん)だから、わからなくていい」
秋生(あきお)「ま、つーわけで、男(おとこ)ってのはエッチなもんなんだよ。な、同士(どうし)」
朋也(ともや)「………」
結局(けっきょく)、それを言(い)いたかっただけなのだ、この人(ひと)は。
ケーキを食(た)べ終(お)えると、渚(なぎさ)と早苗(さなえ)さんがふたりで台所(だいどころ)に立(た)ち、仲良(なかよ)く夕飯(ゆうはん)の準備(じゅんび)を始(はじ)めた。
オッサンは店番(みせばん)に戻(もど)り、俺(おれ)もその手伝(てつだ)いをすることにした。
といっても、この時間(じかん)、客(きゃく)はこないのだが…。
秋生(あきお)「ちっ、てめぇは役立(やくた)たずだったのかよっ」
ふたりきりになると、オッサンはいきなりその話題(わだい)を持(も)ち出(だ)してきた。
朋也(ともや)「いや、正常(せいじょう)だけど」
秋生(あきお)「てめぇ、不能(ふのう)だって言(い)ったじゃないかよっ」
朋也(ともや)「言(い)ってねぇよっ、あんたの娘(むすめ)がそう誤解(ごかい)させることを言(い)っただけだっ」
秋生(あきお)「誤解(ごかい)だとぅ!?
朋也(ともや)くんダメなの、って言(い)ってたじゃねぇかよっ!」
朋也(ともや)「んなこと言(い)ってねぇよ!」
秋生(あきお)「なら、元気(げんき)なのか!」
朋也(ともや)「元気(げんき)だよっ!」
秋生(あきお)「思(おも)いっきり元気(げんき)なのかっ!」
朋也(ともや)「思(おも)いっきり元気(げんき)だよっ!」
声(こえ)「おふたりとも、お店(みせ)で騒(さわ)がないでくださいねーっ」
早苗(さなえ)さんの声(こえ)で我(われ)に返(かえ)る。
…変態(へんたい)ふたりが店番(みせばん)をするパン屋(や)になってしまっていた。
秋生(あきお)「じゃあ、なんだ…正常(せいじょう)なのか」
ひとつ咳払(せきばら)いをした後(あと)、小声(こごえ)で訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「ああ、人並(ひとな)みには…と思(おも)う」
秋生(あきお)「ってことは、あれか…。つまり、まだ手(て)を出(だ)せずにいるってわけか」
また、答(こた)えづらいことを直球(ちょっきゅう)で訊(き)いてくる人(ひと)だ…。
朋也(ともや)「ああ、そうだよ…。大事(だいじ)に思(おも)ってるんだよ。悪(わる)いか」
秋生(あきお)「いや、悪(わる)かぁない。あいつはまだ学生(がくせい)だからな」
秋生(あきお)「そういうことをすれば、不純異性交遊(ふじゅんいせいこうゆう)になる。つまり校則違反(こうそくいはん)ってなわけだ」
朋也(ともや)「だろ」
秋生(あきお)「だがな…」
秋生(あきお)「あいつはもういい歳(とし)なんだよな」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)だって、その歳(とし)の頃(ころ)には、もう渚(なぎさ)、産(う)んでたしな…」
秋生(あきお)「だから、いいと思(おも)うぜ、俺(おれ)は」
秋生(あきお)「やっちゃえ、やっちゃえ!」
秋生(あきお)「朋也(ともや)くん、やっちゃえ、ヒューーーッ!」
この人(ひと)は自分(じぶん)の娘(むすめ)を襲(おそ)わせようとしている…。
渚(なぎさ)「何(なに)をやっちゃうんですか、お父(とう)さん」
秋生(あきお)「う…」
渚(なぎさ)の登場(とうじょう)に固(かた)まる。
渚(なぎさ)「なんか、わたしの名前(なまえ)が出(で)てた気(き)がします」
秋生(あきお)「そうか…?」
渚(なぎさ)「はい。出(で)てました。イタズラですか」
秋生(あきお)「いや、なんていうか…」
渚(なぎさ)「ヘンなこと朋也(ともや)くんに、教(おし)えたらダメです」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんみたいにスカートめくりされたら、お父(とう)さんのせいです」
もっとすごいことを、けしかけられてたのだが…。
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だぞ、娘(むすめ)よ。その時(とき)にはめくるスカートもないからな」
朋也(ともや)(ぐあ…)
渚(なぎさ)「えっ、どういう意味(いみ)ですか」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)、好(す)きだ」
渚(なぎさ)「そのごまかし方(かた)は、わたしには通用(つうよう)しないですっ」
秋生(あきお)「ちっ…」
オッサンがおまえがやれ、と俺(おれ)に向(む)かって顎(あご)で指図(さしず)していた。
渚(なぎさ)「どんな悪戯(いたずら)教(おし)えたんですかっ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、好(す)きだぞ」
渚(なぎさ)「え?
あ、ありがとうございます」
渚(なぎさ)「その、わたしも…」
渚(なぎさ)「ああっ、朋也(ともや)くんには引(ひ)っかかってしまいましたっ」
アホな子(こ)だ…。
夕飯(ゆうはん)をいただいた後(あと)、明日(あした)のために早(はや)めに帰路(きろ)につく。
渚(なぎさ)「これ、肉(にく)じゃがです」
渚(なぎさ)は大(おお)きなタッパーを持(も)っていた。
渚(なぎさ)「二日分(ふつかぶん)あります」
渚(なぎさ)が早苗(さなえ)さんとふたりで作(つく)った手料理(てりょうり)だった。それを大事(だいじ)そうに抱(かか)えて歩(ある)く。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「むちゃくちゃ楽(たの)しそうだったな、おまえ」
渚(なぎさ)「はい、お母(かあ)さんと料理(りょうり)するのは楽(たの)しいです」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さん、すごくドジですから」
渚(なぎさ)「わたしもですけど…えへへ」
言(い)って、笑(わら)う。
長(なが)く見(み)ていなかった笑顔(えがお)に思(おも)えて、つらい。
でも、こいつは俺(おれ)と一緒(いっしょ)に居(い)てくれると言(い)ってくれたのだから…
俺(おれ)と頑張(がんば)るって、決(き)めてくれたのだから…
だから、俺(おれ)も頑張(がんば)らないとな…。
でも、笑(わら)わせることは努力(どりょく)で叶(かな)うことなのだろうか。
それは手近(てぢか)な何(なに)かで幸(しあわ)せを一瞬(いっしゅん)にして作(つく)り上(あ)げようとすることだ。
そんなことできるのだろうか。
今(いま)はできなくても、いいのだろうか。
いつか耐(た)え抜(ぬ)いた先(さき)に、笑(わら)えたらいいのだろうか。
その途中(とちゅう)で、挫(くじ)けてしまわないだろうか。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「うん?」
渚(なぎさ)「考(かんが)え事(ごと)、してますか?」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)に。なに?」
渚(なぎさ)「お話(はな)して帰(かえ)りましょう。そのほうが楽(たの)しいです」
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、起(お)きてますか」
朋也(ともや)「ああ…」
渚(なぎさ)「昼間(ひるま)に言(い)ったこと…まずかったでしょうか」
朋也(ともや)「うん?
なにが」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは…」
渚(なぎさ)「そんなこと絶対(ぜったい)にできない人(ひと)ですから…って」
ぎくっ。
俺(おれ)は体(からだ)を硬直(こうちょく)させる。
まさか、渚(なぎさ)からそんな話題(わだい)を…しかも消灯後(しょうとうご)に振(ふ)ってくるとは思(おも)わなかった。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、ものすごく驚(おどろ)いてました」
朋也(ともや)「いや、あれは違(ちが)う意味(いみ)でだよ…」
朋也(ともや)「それに本当(ほんとう)のことだしさ…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)だってさ、そんなことされたら嫌(いや)だろ…?」
渚(なぎさ)「あれは意味(いみ)が違(ちが)います」
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんが冗談(じょうだん)でお母(かあ)さんにしているみたいなことは、朋也(ともや)くんは絶対(ぜったい)にしないという意味(いみ)です」
朋也(ともや)「あ、ああ。わかってる。俺(おれ)には伝(つた)わったよ」
渚(なぎさ)「だったら、良(よ)かったです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「でも、普通(ふつう)に…」
話(はなし)は続(つづ)いていた。
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「普通(ふつう)に、その…そういうのは…」
渚(なぎさ)「嫌(いや)じゃないと思(おも)います…」
朋也(ともや)「………」
再(ふたた)び体(からだ)が緊張(きんちょう)してくる。
渚(なぎさ)「あの…朋也(ともや)くん…そういうこと、我慢(がまん)してるんでしたら…」
渚(なぎさ)「我慢(がまん)してもらうこと…ないです…」
黙ってじっとしている
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「どうしますか…」
渚(なぎさ)「…わたしから…のほうがいいですか」
渚(なぎさ)「その…わたし、年上(としうえ)ですので」
年上(としうえ)から何(なに)かをすることが自然(しぜん)なんて、聞(き)いたことがなかった。
でも、それが渚(なぎさ)なりの精一杯(せいいっぱい)の努力(どりょく)なのだろう。
そういうことを我慢(がまん)しているだろう俺(おれ)への、思(おも)いやりなのだろう。
渚(なぎさ)が体(からだ)を起(お)こし、近(ちか)づいてくるのがわかった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、聞(き)いていますか…」
そう耳元(みみもと)で囁(ささや)かれた。
じゃあ、頼(たの)む…と言(い)ってしまえば…
取(と)り返(かえ)しのつかないことになってしまうかもしれない。
怖(こわ)さもあった。
でも、俺(おれ)は渚(なぎさ)が大好(だいす)きだったから…
大好(だいす)きな渚(なぎさ)にしてもらえることがあるんだったら…
してもらいたい。当然(とうぜん)だった。
でも、今(いま)の俺(おれ)に、そんなものを得(う)る資格(しかく)があるのだろうか…。
そんなに俺(おれ)は頑張(がんば)っているのだろうか。
よくわからない…。
朋也(ともや)「………」
ああ、早(はや)く答(こた)えないと…。
渚(なぎさ)「あの…」
俺(おれ)が決断(けつだん)するよりも早(はや)く…渚(なぎさ)が口(くち)を開(ひら)いていた。
渚(なぎさ)「隣(となり)、入(はい)ります」
布団(ふとん)がめくられて…渚(なぎさ)がそっと滑(すべ)り込(こ)んでくる。
俺(おれ)の返事(へんじ)がないのは、ただ気(き)を使(つか)っているだけなのだと…そう思(おも)われているのだ。
何(なに)か言(い)わなくては、と思(おも)った。
けど、金縛(かなしば)りにでもあったかのように、俺(おれ)は何(なに)もできずにいた。
すりすり…
渚(なぎさ)が布団(ふとん)の中(なか)で、動(うご)く。
俺(おれ)の体(たい)にぴったりと密着(みっちゃく)すると…腕(うで)を腰(こし)に回(まわ)してきた。
渚(なぎさ)の体温(たいおん)が、半身(はんしん)に伝(つた)わってくる。
ものすごく熱(あつ)く感(かん)じられた。
こんなにも密着(みっちゃく)したことなんてなかった。
渚(なぎさ)と、くっついている。
胸(むね)が高鳴(たかな)る。
鼓動(こどう)が激(はげ)しい。
今(いま)まで生(い)きてきた中(なか)で、一番(いちばん)、速(はや)く脈(みゃく)を打(う)っている。間違(まちが)いない。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の首筋(くびすじ)に鼻(はな)を押(お)しつけた。
渚(なぎさ)の鼻息(はないき)も熱(あつ)く…その部分(ぶぶん)が火照(ほて)る。
さらに、腰(こし)に回(まわ)した腕(うで)に力(ちから)を入(い)れて…俺(おれ)を抱(だ)いてくれた。
それだけのことで…俺(おれ)はこれ以上(いじょう)ない幸(しあわ)せな気分(きぶん)になる。
渚(なぎさ)の腕(うで)の中(なか)にいる自分(じぶん)。
こんなにも俺(おれ)は、渚(なぎさ)に愛(あい)されている。
俺(おれ)が大好(だいす)きな、渚(なぎさ)に。
渚(なぎさ)「………」
そして、渚(なぎさ)は…そのままじっとしていた。
俺(おれ)は幸福感(こうふくかん)と緊張感(きんちょうかん)に包(つつ)まれたままでいた。
しばらくして、俺(おれ)はようやく気(き)づく。
渚(なぎさ)の精一杯(せいいっぱい)は、ここまでなんだと。
それに気(き)づいたとき、一気(いっき)に緊張(きんちょう)が解(と)け、俺(おれ)は思(おも)わず吹(ふ)き出(だ)してしまっていた。
渚(なぎさ)「あの…なんで笑(わら)うんですか…」
首(くび)から顔(かお)を離(はな)して、渚(なぎさ)が言(い)った。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、未(いま)だにわたしを子供(こども)みたいに思(おも)ってます」
渚(なぎさ)「わたしのほうが、年上(としうえ)です。人生(じんせい)の先輩(せんぱい)です」
朋也(ともや)「ああ、わかってるって」
渚(なぎさ)「じゃ、どうして笑(わら)ったんですか」
朋也(ともや)「いや…なんていうんだろ…幸(しあわ)せだから」
渚(なぎさ)「あ…幸(しあわ)せですか…よかったです」
渚(なぎさ)「でも、やっぱり笑(わら)うのはヘンですっ」
朋也(ともや)「じゃあ、どうしたらいい。息(いき)を荒(あら)くすればいいのか?」
渚(なぎさ)「笑(わら)うよりは、それっぽいと思(おも)います…」
朋也(ともや)「じゃ、抱(だ)きしめてみて」
渚(なぎさ)「はい…」
きゅっ。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「もっと強(つよ)く…」
渚(なぎさ)「あ、はい…」
ぎゅっ。
渚(なぎさ)「どうでしょうかっ…」
朋也(ともや)「すげぇいい…」
抱(だ)きしめてもらってるだけだが…。
朋也(ともや)「あと…耳(みみ)の穴(あな)に息(いき)、吹(ふ)きかけてくれたら、もう最高(さいこう)…」
渚(なぎさ)「はい…わかりましたっ…」
渚(なぎさ)「ふーっ」
朋也(ともや)「もっと強(つよ)くっ…」
渚(なぎさ)「ふーっ!」
…マジ最高(さいこう)。
端(はし)から見(み)れば、ままごと並(なみ)に滑稽(こっけい)だったのだろうけど…
でも、今(いま)の俺(おれ)たちにとっては、最高(さいこう)の愛(あい)し合(あ)い方(がた)だった。
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