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seagull - 2009/6/15 11:24:00
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5月10日()

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新(あたら)しい週(しゅう)が始(はじ)まり、また仕事(しごと)に勤(いそ)しむ日々(ひび)。
朋也(ともや)「おはようございます」
作業員(さぎょういん)「おう」
口々(くちぐち)に挨拶(あいさつ)はしてくれるが、やはりそれだけで終(お)わってしまう。
まだ自分(じぶん)の居場所(いばしょ)が無(な)いように思(おも)えた。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、これ持(も)ってろ」
朋也(ともや)「なんすか?」
芳野(よしの)さんから、束(たば)になった紙(かみ)を渡(わた)された。
中(なか)には英数字(えいすうじ)の羅列(られつ)が印字(いんじ)されていた。
芳野(よしの)「伝票(でんぴょう)だ。これが絶縁管(ぜつえんかん)、これは防水(ぼうすい)ケース…」
芳野(よしの)さんが口々(くちぐち)に説明(せつめい)してはくれたが、さっぱり理解(りかい)できなかった。[/wrap]

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5月11日()

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朋也(ともや)「おはようございます」
作業員(さぎょういん)「おう、坊主(ぼうず)、おはようさん」
作業員(さぎょういん)「おはよ」
翌日(よくじつ)には、ちょっとは慣(な)れたのか、坊主(ぼうず)と来(き)た。こんなものだろう。
着替(きが)えに行(い)こうとすると、年輩(ねんぱい)の同僚(どうりょう)に呼(よ)び止(と)められた。
作業員(さぎょういん)「若(わか)いの、おまえさん、天気予報(てんきよほう)見(み)たか?」
朋也(ともや)「いえ、見(み)てないっす」
作業員(さぎょういん)「そうかあ。夕方(ゆうがた)から雨(あめ)らしいから、気(き)ィつけるこったな」
作業員(さぎょういん)「雨(あめ)だけはどうにもならないからなあ」
口々(くちぐち)に皆(みんな)が言(い)った。
やはり電気(でんき)を扱(あつか)う仕事(しごと)だけに、水(みず)には気(き)をつかうのだろう。
朋也(ともや)「今日(きょう)、雨(あめ)らしいっすね」
芳野(よしの)「そうだな。親方(おやかた)も言(い)ってた」
朋也(ともや)「降(ふ)ったらどうなるんですか?」
芳野(よしの)「降(お)り方(かた)にもよる。ひどければ中止(ちゅうし)だ」
朋也(ともや)「小雨(こさめ)くらいだったら、どうするんですか?」
芳野(よしの)「危険(きけん)だが防水(ぼうすい)シート被(かぶ)せて手早(てばや)く終(お)わらせる」
朋也(ともや)「そんなことできるんですか?」
芳野(よしの)「工期(こうき)は待(ま)ってくれないからな」
午前中(ごぜんちゅう)は晴(は)れていた空(そら)も、お昼(ひる)を過(す)ぎた頃(ころ)から曇(くも)りだした。
あと一件(いっけん)を残(のこ)して、今(いま)にも降(お)り出(だ)しそうな空模様(そらもよう)となっていた。
朋也(ともや)「芳野(よしの)さん、降(お)りそうですけど大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
芳野(よしの)「やかましい。さっさとカバー持(も)ってこい。そろそろ終(お)わるぞ」
黙々(もくもく)と作業(さぎょう)する芳野(よしの)さんだったが、時々(ときどき)空(そら)を見上(みあ)げ舌打(したう)ちする姿(すがた)を見(み)た。
こんな神経質(しんけいしつ)な芳野(よしの)さんを見(み)るのは初(はじ)めてだった。
頬(ほお)に冷(つめ)たいものを感(かん)じたのは、最後(さいご)の現場(げんば)がようやく折(お)り返(かえ)しするかどうかというところだった。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、今(いま)すぐ防水(ぼうすい)シート二枚(にまい)持(も)ってこい!」
朋也(ともや)「は、はいっ、わかりました!」
俺(おれ)は慌(あわ)てて軽(けい)トラへと走(はし)り、水色(みずいろ)のシートをひっ掴(つか)み梯子(はしご)を駆(か)け上(あ)がる。
それだけの間(あいいだ)にもどんどんとアスファルトが黒(くろ)く染(そ)まっていく。
芳野(よしの)「基盤(きばん)と俺(おれ)の手(て)を隠(かく)すようにしろ。絶対(ぜったい)に離(はな)すな」
俺(おれ)はシートを広(ひろ)げて、必死(ひっし)で芳野(よしの)さんをかばった。
雨(あめ)は俺(おれ)たちを容赦(ようしゃ)なく叩(たた)き始(はじ)め、巻(ま)きだした風(かぜ)はシートを剥(は)がそうとしていた。
だが途中(とちゅう)から俺(おれ)は雨(あめ)すら気(き)にならなくなっていた。
芳野(よしの)さんの手際(てぎわ)が、あまりにもかけ離(はな)れていた。
今(いま)まで覚(おぼ)えてきたことと同(おな)じ作業(さぎょう)をしているはずなのに、スピードも正確(せいかく)さも何(なに)もかも違(ちが)って見(み)えた。
しかも出来上(できあ)がりの配線(はいせん)ときたら、見本(みほん)かと思(おも)えるほどの綺麗(きれい)さだった。
配線(はいせん)の正確(せいかく)さは言(い)うに及(およ)ばないが、綺麗(きれい)さも重要(じゅうよう)な要素(ようそ)、と教(おそ)わっていた。
配線(はいせん)に流(なが)れをつけて処理(しょり)をするのは、ひとえに漏電(ろうでん)や発火(はっか)などを防(ふせ)ぐため。
それを俺(おれ)の何倍(なんばい)もの早(はや)さでこなしていた。
芳野(よしの)「寒(さむ)いか?」
朋也(ともや)「…いえ」
珍(めずら)しく黙(だま)り込(こ)んでいる俺(おれ)に、芳野(よしの)さんが話(はな)しかけてきた。
朋也(ともや)「ただ、芳野(よしの)さんはやっぱりすごいなって思(おも)って」
芳野(よしの)「…なんだそりゃ」
雨(あめ)は夜(よる)になっても、降(ふ)り続(つづ)いていた。
俺(おれ)は窓(まど)に寄(よ)って、外(そと)の様子(ようす)を眺(なが)めていた。
渚(なぎさ)「雨(あめ)、たくさん降(ふ)ってても、お仕事(しごと)ですか」
いつの間(ま)にか、渚(なぎさ)が隣(となり)に立(た)っていた。
朋也(ともや)「いや、たくさん降(ふ)ったら、休(やす)みらしい」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか。雨(あめ)、降(ふ)り続(つづ)いたらいいです」
朋也(ともや)「学校(がっこう)じゃないんだからな、おまえ…」
朋也(ともや)「休(やす)みになっても、仕事(しごと)が進(すす)まないで、工期(こうき)だけが近(ちか)づいてくるんだぞ」
渚(なぎさ)「あ、そうでした。考(かんが)えが足(た)りなかったです」
朋也(ともや)「いや、実(じつ)は俺(おれ)も実感(じっかん)なかったんだけどな…そういうことなんだと思(おも)う」
学校(がっこう)という場所(ばしょ)は、限度(げんど)があるにしても、何(なに)もしないでも、前(まえ)に進(すす)んでいけた。
今(いま)は、やらなければ前(まえ)に一歩(いっぽ)も進(すす)まない。
休(やす)んでしまえば、仕事(しごと)はしわ寄(よ)せとなって後(あと)に押(お)し寄(よ)せる。
何一(なにひと)ついいことなんてなかった。
渚(なぎさ)「でも、休(やす)みになれば、お買(か)い物(もの)とか、一緒(いっしょ)にいけます」
いや、あった。
渚(なぎさ)「あ、でも、朋也(ともや)くんは、家(いえ)で休(やす)んでいたほうがいいですか」
朋也(ともや)「いや、いいよ。休(やす)みになったら、一緒(いっしょ)に買(か)い物(もの)いこう」
渚(なぎさ)「はい」
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seagull - 2009/6/19 10:41:00
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5月12日()

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翌朝(よくあさ)は電話(でんわ)のベルで目(め)が覚(さ)めた。
まだもう少(すこ)し、眠(ねむ)れるような時間(じかん)だった。
布団(ふとん)から這(は)いだし、受話器(じゅわき)を取(と)る。
声(こえ)『あ、岡崎(おかざき)くんかい?』
親方(おやかた)の声(こえ)だった。
朋也(ともや)「どうしたんですか?
こんなに朝早(あさはや)くから」
親方(おやかた)『今日(きょう)ね、大雨(おおあめ)だから仕事休(しごとやす)み』
朋也(ともや)「え?
そうなんですか?」
親方(おやかた)『うん、芳野(よしの)に聞(き)いたら、伝(つた)えてないって言(い)うから一応(いちおう)電話(でんわ)したんだけど、知(し)らなかったみたいね』
朋也(ともや)「はあ」
親方(おやかた)『明日(あした)までにはやむって聞(き)いてるから、明日(あした)は出勤(しゅっきん)してね。雨足(あまあし)がひどくなるようだったら、そこで決(き)めるから』
朋也(ともや)「はい、わかりました。お疲(つか)れさまです」
親方(おやかた)『はい、お疲(つか)れさん』
受話器(じゅわき)を置(お)く。外(そと)では、雨(あめ)の降(ふ)る音(おと)がしていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
渚(なぎさ)も起(お)き出(だ)していて、布団(ふとん)の上(うえ)にぺたんと座(すわ)っていた。
朋也(ともや)「ああ、仕事休(しごとやす)みになった」
渚(なぎさ)「それは…残念(ざんねん)でした」
朋也(ともや)「ああ。でも、おまえは学校(がっこう)あるだろ。それまで、ゆっくり寝(ね)てろよ」
渚(なぎさ)「はい、そうします」
ふたり、布団(ふとん)をかぶって、また横(よこ)になった。
………。
……。
…。
目(め)を覚(さ)ます。外(そと)が暗(くら)いので、時間(じかん)がよくわからない。
時計(とけい)を見(み)ると、もうすでに11時(じ)を回(まわ)っていた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ」
飛(と)び起(お)きると、隣(となり)の布団(ふとん)はすでに片(かた)づけられていて、渚(なぎさ)の姿(すがた)はなかった。
ひとりでちゃんと起(お)きて、出(で)かけていったようだ。
朋也(ともや)(だよな…いつもそうしてんだもんな…)
枕元(まくらもと)に渚(なぎさ)の書(か)き置(お)きを見(み)つける。
『朋也(ともや)くんへ。朝(あさ)ご飯(はん)は用意(ようい)しておきました。お昼(ひる)は申(もう)しわけないですけど、おひとりでお願(ねが)いします。それではいってきます』
もう昼(ひる)に近(ちか)い時間(じかん)だったけど、用意(ようい)されていた朝食(ちょうしょく)を食(た)べる。
朋也(ともや)(さて、と…)
片(かた)づけを済(す)ませた後(あと)、俺(おれ)は考(かんが)える。
これから、何(なに)をしよう。
そもそも俺(おれ)には、趣味(しゅみ)というものがなかった。
映画(えいが)だって見(み)ないし、音楽(おんがく)も聴(き)かない。スポーツもしなければ、車(くるま)にも乗(の)らない。
よくよく考(かんが)えてみると…
朋也(ともや)(…なんて俺(おれ)は、退屈(たいくつ)な人間(にんげん)なんだろう)
よくもまあ、こんな奴(やつ)を好(す)いてくれる女(おんな)の子(こ)がいたものだ…。
趣味(しゅみ)を見(み)つけるのもいいことかもしれなかったが、今日(きょう)はたまたまできたひとりの時間(じかん)だ。
そうそうあるわけではないから、ひとりの趣味(しゅみ)を作(つく)ったとしても、続(つづ)くはずもなかった。
朋也(ともや)(なら、今日一日(きょういちにち)を、なんとか乗(の)りきろう…)
さて、何(なに)をして乗(の)りきるか。
テレビを見る
テレビを付(つ)ける。
チャンネルを一通(ひととお)り替(か)えてみるも、面白(おもしろ)そうな番組(ばんぐみ)はやっていなかった。
朋也(ともや)(こんな時間(じかん)じゃな…)
画面(がめん)には、フィットネスをする女性(じょせい)が映(うつ)し出(だ)されていた。
朋也(ともや)「………」
足(あし)を伸(の)ばした体勢(たいせい)が同(おな)じだったので、試(ため)しにやってみる。
『いち、に、さん、し』
朋也(ともや)「いち、に、さん、し」
『生理痛(せいりつう)を抑(おさ)える効果(こうか)もあります』
朋也(ともや)「へぇー」
朋也(ともや)「って、何(なに)やってんだよ、俺(おれ)はあぁーっ!」
あまりの情(なさ)けなさに身(み)もだえする。
朋也(ともや)「はぁ…」
ひとりきりで過(す)ごす時間(じかん)が、こんなにも苦痛(くつう)だとは思(おも)いもしなかった。
何(なに)もしないでいると退屈(たいくつ)。何(なに)かしようとしても、それをひとりきりでしている状況(じょうきょう)が情(なさ)けなくて耐(た)えられなくなる。
朋也(ともや)(渚(なぎさ)…)
思(おも)えば、なんでもふたりでしてきたんだな、と思(おも)う。
朋也(ともや)(早(はや)く帰(かえ)ってきてくれよ…)
朋也(ともや)(それで、ふたりで買(か)い物(もの)いこうぜ…)
俺(おれ)は降(お)りしきる雨(あめ)の中(なか)、傘(かさ)をさして立(た)っていた。
ズボンの裾(すそ)が濡(ぬ)れていくこともいとわずに。
………。
……。
…。
下校(げこう)する生徒(せいと)が視界(しかい)に入(はい)る。
次々(つぎつぎ)と目(め)の前(まえ)を通(とお)り過(す)ぎていく。
中(なか)に、三年(さんねん)のエンブレムを付(つ)けている連中(れんちゅう)を見(み)つける。
朋也(ともや)(ああ、こいつらが、渚(なぎさ)の同級生(どうきゅうせい)かよ…)
目(め)が合(あ)うと、あからさまに、離(はな)れていった。
声(こえ)「朋也(ともや)くんっ」
待(ま)ちわびていた声(こえ)。
渚(なぎさ)が坂(さか)を小走(こばし)りに下(くだ)りてくる。
朋也(ともや)「危(あぶ)ないぞ」
渚(なぎさ)「びっくりしました。朋也(ともや)くん、迎(むか)えに来(き)てくれたんですか」
朋也(ともや)「ああ。ちょっと近(ちか)くまで来(き)たから」
渚(なぎさ)「近(ちか)くって…こんな雨(あめ)の中(なか)で、お散歩(さんぽ)ですか?」
朋也(ともや)「あ、ああ、そう。散歩(さんぽ)」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)にびっくりしました」
渚(なぎさ)「でも、うれしかったです」
通(とお)り過(す)ぎていく生徒(せいと)たちが、じろじろと俺(おれ)たちのことを見(み)ていった。
当然(とうぜん)だろう、この組(く)み合(あ)わせでは。
朋也(ともや)「いこう、渚(なぎさ)」
また渚(なぎさ)に悪(わる)い噂(うわさ)が立(た)ちかねないと思(おも)って、早々(そうそう)にその場(ば)から立(た)ち去(さ)った。
一度(いちど)家(いえ)に戻(もど)り、渚(なぎさ)が着替(きが)えるのを待(ま)ってから、スーパーに買(か)い物(もの)に出(で)かけた。
俺(おれ)がかごを持(も)って、渚(なぎさ)がそこに商品(しょうひん)を入(い)れていく。
今日(きょう)あった出来事(できごと)を話(はな)しながら。
それだけのことが、テレビを見(み)るよりも、ゲームをするよりも楽(たの)しかった。
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seagull - 2009/6/19 10:42:00
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5月13日()

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翌日(よくじつ)は晴(は)れ。通常通(つうじょうどお)りの業務(ぎょうむ)となった。
親方(おやかた)「…というわけで、事故(じこ)には注意(ちゅうい)してがんばって下(くだ)さい」
親方(おやかた)「今日(きょう)も一日(いちにち)がんばりましょう」
朝礼(ちょうれい)の後(あと)、皆(みんな)それぞれの現場(げんば)へと向(む)かう。
俺(おれ)と芳野(よしの)さんも軽(けい)トラへと乗(の)り込(こ)んだ。
芳野(よしの)「…腹減(はらへ)った」
芳野(よしの)さんが不機嫌(ふきげん)そうに呟(つぶや)いた。
午後二時(ごごにじ)を回(まわ)っても、午前中(ごぜんちゅう)の仕事(しごと)が終(お)わらなかったので、昼休憩(ひるきゅうけい)をとらずに仕事(しごと)をしているからだ。
原因(げんいん)は舗装(ほそう)が終(お)わらず待(ま)たされたのと、俺(おれ)の手際(てぎわ)の悪(わる)さにある。
こういうときは何(なに)を言(い)っても言(い)い訳(わけ)にしかならない。
俺(おれ)は黙々(もくもく)と作業(さぎょう)に取(と)り組(く)んだ。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、あと残(のこ)り何件(なんけん)だ?」
作業(さぎょう)が終(お)わり、掃除(そうじ)をしているときに芳野(よしの)さんが訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「えっと…、五件(ごけん)です」
伝票(でんぴょう)を見返(みかえ)しながら言(い)った。最近(さいきん)は俺(おれ)が持(も)つようになっていた。
もっとも確認(かくにん)は芳野(よしの)さんがするのだが。
芳野(よしの)「四時(よじ)か…。こりゃ終(お)わらないな…」
芳野(よしの)「最後(さいご)の新築(しんちく)だけは六時(ろくじ)にガス屋(や)が来(く)るから、それまでに終(お)わらさないとな」
朋也(ともや)「どうするんですか?」
芳野(よしの)「決(き)まってる。順番変(じゅんばんか)えて残業(ざんぎょう)だ。先(さき)に新築(しんちく)の屋内(おくない)、行(い)くぞ」
朋也(ともや)「現場(げんば)、反対方向(はんたいほうこう)っすよ。遠回(とおまわ)りになりますけど…」
芳野(よしの)「仕方(しかた)ないだろ」
朋也(ともや)「はあ」
芳野(よしの)さんが腰(こし)のポケットから何(なに)かを取(と)り出(だ)す。
それは、携帯電話(けいたいでんわ)だった。
社会人(しゃかいじん)ともなれば、もはや必携(ひっけい)なのだろうか。
芳野(よしの)「親方(おやかた)には報告(ほうこく)したから行(い)くぞ。最後(さいご)の新築(しんちく)を行(い)ってからは順番通(じゅんばんどお)りだ」
電話(でんわ)を終(お)え、俺(おれ)にそう言(い)った。
朋也(ともや)「あの、どのくらいで終(お)わる予定(よてい)ですか?」
芳野(よしの)「九時(くじ)か、十時(じゅうじ)か。そう簡単(かんたん)には終(お)わらないだろうな」
ちょっとだけ気(き)が重(おも)くなった。
明日(あした)もあるのだ。できれば早(はや)く帰(かえ)りたいと思(おも)うのは人情(にんじょう)だろう。
芳野(よしの)「仕方(しかた)ないな…。岡崎(おかざき)、次(つぎ)の現場(げんば)から見(み)てろ」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「何(なに)もするな。ただ、材料(ざいりょう)と道具(どうぐ)だけは全部(ぜんぶ)足元(あしもと)に置(お)いておけ」
朋也(ともや)「…はあ」
結局(けっきょく)足手(あして)まといだ。
仕方(しかた)ない。やれることを一生懸命(いっしょうけんめい)しよう。
既(すで)に日(ひ)は暮(く)れていた。
時計(とけい)を見(み)ると、午後八時(ごごはちじ)を過(す)ぎていた。
この数時間(すうじかん)は何(なに)もしていないと思(おも)えた。
ただ芳野(よしの)さんの指示(しじ)で動(うご)き、工具(こうぐ)を渡(わた)し、材料(ざいりょう)を運(はこ)び、部品(ぶひん)を揃(そろ)えるだけだった。
だがその甲斐(かい)もあったのか、残(のこ)り五件(ごけん)の現場(げんば)がほぼ半分(はんぶん)の時間(じかん)で終(お)わったのも事実(じじつ)だ。
朋也(ともや)「お疲(つか)れさまです」
芳野(よしの)「おう」
会社(かいしゃ)へ戻(もど)ってきたのは、九時(くじ)を過(す)ぎた頃(ころ)だった。
芳野(よしの)「遅(おそ)くまで悪(わる)かったな。送(おく)ってやるから乗(の)れ」
着替(きが)えて出(い)てくると、芳野(よしの)さんが待(ま)っていた。
朋也(ともや)「いいです。歩(ある)いて帰(かえ)ります」
芳野(よしの)「馬鹿(ばか)、遠慮(えんりょ)なんかするな」
俺(おれ)は強引(ごういん)に軽(けい)トラへ乗(の)せられた。
朋也(ともや)「…すんませんでした」
芳野(よしの)「何謝(なにあやま)ってんだ?」
朋也(ともや)「今日(きょう)、何(なに)もできなくて」
芳野(よしの)「できないのは今(いま)に始(はじ)まったことじゃないだろ。気(き)にするな」
芳野(よしの)さんはそう言(い)ってくれたが、自己嫌悪(じこけんお)は無(な)くならなかった。
夕飯(ゆうはん)の間(あいだ)も、今日(きょう)の仕事(しごと)の体(てい)たらくぶりを振(ふ)り返(かえ)っていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、聞(き)いていますか」
朋也(ともや)「え?
ああ、もちろん」
渚(なぎさ)「じゃ、今(いま)、言(い)ったこと言(い)ってみてください」
朋也(ともや)「あ、ああ、ええと…」
次(つぎ)の日曜(にちよう)がどうとか言(い)ってたんだよな…。
次(つぎ)の日曜(にちよう)は、確(たし)か…
創立者祭
朋也(ともや)「創立者祭(そうりつしゃさい)」
渚(なぎさ)「例年(れいねん)ならそうです。ですけど、今年(ことし)は違(ちが)うって今(いま)、言(い)ったばかりです」
今年(ことし)は…そう。
模試
朋也(ともや)「模試(もし)」
渚(なぎさ)「そうです。朋也(ともや)くん、ちゃんと聞(き)いてました」
朋也(ともや)「ああ。おまえの話(はなし)は、全部(ぜんぶ)聞(き)いてる。寝言(ねごと)だってな」
渚(なぎさ)「え…寝言(ねごと)なんて言(い)ってるんでしょうか、わたし」
朋也(ともや)「ああ。朋也(ともや)くん、超(ちょう)カッコイイです、もう好(す)きすぎて困(こま)りますって」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか…とても恥(は)ずかしいです…」
冗談(じょうだん)で言(い)ったのに…本当(ほんとう)にそんな夢(ゆめ)を見(み)ているのか…。
渚(なぎさ)「寝言(ねごと)言(い)わないように、気(き)をつけます」
朋也(ともや)「気(き)をつけても、無理(むり)だって」
渚(なぎさ)「夢(ゆめ)の中(なか)のお話(はなし)、聞(き)かれたくないです…」
朋也(ともや)「いや、ま、寝言(ねごと)は、置(お)いておいてだ」
朋也(ともや)「で、模試(もし)がどうした」
朋也(ともや)「えっ、模試(もし)っ!?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、驚(おどろ)くタイミングがヘンです」
朋也(ともや)「じゃ、日曜(にちよう)、学校行(がっこうい)くのか?」
渚(なぎさ)「はい、ごめんなさいです。朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に居(い)られないです」
朋也(ともや)「そうか…ま、仕方(しかた)ないな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「えーと…じゃ、渚(なぎさ)は、進学(しんがく)する気(き)なんだな」
渚(なぎさ)「あ、いえ…」
渚(なぎさ)「進学(しんがく)するつもりはないです」
朋也(ともや)「でも、模試(もし)って、志望校(しぼうこう)に対(たい)して自分(じぶん)の点数(てんすう)が足(た)りるかどうとか、見(み)るためのものだよな?」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
渚(なぎさ)「でも、わたしはただ…」
渚(なぎさ)「みんなが受(う)けるものなので、一緒(いっしょ)に受(う)けたかっただけです」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
それは、渚(なぎさ)の性格(せいかく)を考(かんが)えてみれば簡単(かんたん)にわかったことだった。
学校(がっこう)でみんながすることをひとりだけ、しないわけがなかった。
朋也(ともや)「そうだったな…じゃ、頑張(がんば)ってこい」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「でも、朋也(ともや)くんは…」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)」
ここで心配(しんぱい)なんてさせれるか。
朋也(ともや)「適当(てきとう)に時間(じかん)を潰(つぶ)しておくから」
朋也(ともや)「実家(じっか)に顔出(かおだ)すのは、模試(もし)が終(お)わってからでいいよな」
渚(なぎさ)「はい」
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seagull - 2009/6/19 10:44:00
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5月14日()

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今日(きょう)の仕事(しごと)も、もう終(お)わろうという時(とき)。
芳野(よしの)「はあ?」
芳野(よしの)さんが携帯(けいたい)で驚(おどろ)いた声(こえ)を出(だ)していた。
作業中(さぎょうちゅう)に電話(でんわ)をしているのも初(はじ)めてだが、こんな顔(かお)を見(み)るのも初(はじ)めてだった。
芳野(よしの)「…はい、わかりました。ここ、終(お)わらせたら行(い)きます」
朋也(ともや)「どうしたんですか?」
芳野(よしの)「急(きゅう)な仕事(しごと)が入(はい)った。室内機(しつないき)の交換(こうかん)に行(い)ってた親方(おやかた)の仲間(なかま)が車(くるま)で事故(じこ)った」
芳野(よしの)「命(いのち)に別状(べつじょう)はないが足(あし)を折(お)ったらしく、工事(こうじ)できる奴(やつ)が俺(おれ)の他(はか)にいない」
朋也(ともや)「俺(おれ)でよければ一緒(いっしょ)に行(い)きますけど」
芳野(よしの)「おまえは帰(かえ)れ」
朋也(ともや)「でも、芳野(よしの)さん一人(ひとり)残業(ざんぎょう)させるのは気(き)が引(ひ)けます」
そこに着信音(ちゃくしんおん)が響(ひび)いた。
芳野(よしの)「はい、芳野(よしの)です。………代(か)わります」
芳野(よしの)さんは黙(だま)って、俺(おれ)に携帯(けいたい)を渡(わた)した。
朋也(ともや)「はい、岡崎(おかざき)ですけど」
親方(おやかた)『お疲(つか)れさん』
親方(おやかた)だった。
親方(おやかた)『いきなりで悪(わる)いんだけど、岡崎君(おかざきくん)さ、今晩(こんばん)芳野(よしの)に付(つ)き合(あ)ってくれないか?』
朋也(ともや)「え?」
親方(おやかた)『室内機(しつないき)さ、一人(ひとり)で設置(せっち)するの、無理(むり)なんだ。天井(てんじょう)まで持(も)ち上(あ)げないといけないから』
朋也(ともや)「はい、わかりました。行(い)きます」
親方(おやかた)『そう言(い)ってくれると助(たす)かるよ。じゃ、芳野(よしの)に代(か)わって』
俺(おれ)たちは一度(いちど)会社(かいしゃ)へ戻(もど)り、車(くるま)を乗(の)り換(か)えた。
軽(けい)トラではなく大(おお)きめのワンボックスだ。
朋也(ともや)「何(なん)ですか?
この馬鹿(ばか)でかい段(だん)ボール」
芳野(よしの)「室内機(しつないき)だ」
朋也(ともや)「あの、室内機(しつないき)って何(なん)ですか?」
芳野(よしの)「…業務用(ぎょうむよう)のエアコンだ。店(みせ)とかで見(み)たことくらいあるだろ」
どうして最初(さいしょ)からそう言(い)わないんだろうか。
芳野(よしの)「天井(てんじょう)から吊(つ)るタイプだから、どうしても人手(ひとで)が二人(ふたり)いるんだ」
朋也(ともや)「そうですね。両方(りょうほう)から持(も)ち上(あ)げないといけないっすね」
芳野(よしの)「結構(けっこう)時間(じかん)がかかるぞ。帰(かえ)らなくていいのか?」
朋也(ともや)「いえ、大丈夫(だいじょうぶ)です」
渚(なぎさ)が夕飯(ゆうはん)を作(つく)って待(ま)ってるだろうが、こればかりは仕方(しかた)がなかった。
しばらく走(はし)っていると、芳野(よしの)さんが携帯(けいたい)を投(な)げて寄越(よこ)した。
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)に電話(でんわ)くらいかけとけ。心配(しんぱい)させるな。昨日(きのう)も残業(ざんぎょう)したんだろうが」
朋也(ともや)「…あ、ありがとうございます」
が、扱(あつか)い方(かた)がわからない…。
芳野(よしの)「番号入(ばんごうい)れて、通話(つうわ)ボタン」
朋也(ともや)「あ、はい…」
言(い)われた通(とお)りに操作(そうさ)する。
耳(みみ)に当(あ)てると、コール音(おと)が鳴(な)っていた。
それが途切(とぎ)れ、一瞬(いっしゅん)の無音(ぶおん)の後(あと)、はい、と渚(なぎさ)の声(こえ)。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)か、俺(おれ)」
渚(なぎさ)『朋也(ともや)くんですか。どうしましたか』
朋也(ともや)「えっと…仕事(しごと)が遅(おそ)くまでかかりそうなんだ…」
朋也(ともや)「だから、悪(わる)いんだけど、夕飯(ゆうはん)、ひとりで食(た)べてくれるか」
渚(なぎさ)『はい。わかりました』
聞(き)き分(わ)けのいい返事(へんじ)。
渚(なぎさ)は頑固(がんこ)だけど、決(けっ)してわがままじゃない。
朋也(ともや)「じゃあ」
渚(なぎさ)『はい。お仕事(しごと)、がんばってください』
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「ええと…切(き)るのはこのボタンでいいのかな…」
赤(あか)いボタンを押(お)して、電話(でんわ)を切(き)った。
朋也(ともや)「ありがとうございます」
芳野(よしの)「ああ」
………。
芳野(よしの)「室内機(しつないき)の取(と)り替(か)えは、そう難(むずか)しいものじゃない」
芳野(よしの)「ただ古(ふる)い室内機(しつないき)の中(なか)には埃(ほこり)が溜(た)まってるから、落(お)とさないように気(き)をつけろ」
芳野(よしの)「周(まわ)りにはシートを被(かぶ)せた方(ほう)がいい」
芳野(よしの)さんは俺(おれ)に道具持(どうぐも)ちをさせて、一(ひと)つ一(ひと)つ説明(せつめい)しながら作業(さぎょう)をしてくれた。
重(おも)たい室内機(しつないき)を二人(ふたり)がかりで外(はず)し、新(あたら)しい支柱(しちゅう)を埋(う)め込(こ)む。
が、そこで強度(きょうど)に問題(もんだい)があるらしく、芳野(よしの)さんは天井(てんじょう)を外(はず)し始(はじ)めた。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、覗(のぞ)いてみろ」
俺(おれ)は足場(あしば)に登(のぼ)り、黒々(くろぐろ)と開(ひら)いた天井裏(てんじょううら)を覗(のぞ)き込(こ)んだ。
見(み)たことのない、いわば別世界(べっせかい)が見(み)えた。
細長(ほそなが)い金属(きんぞく)の支柱(しちゅう)がモルタルの天井(てんじょう)を支(ささ)え、通(とお)された梁(はり)に沿(そ)ってコードが伸(の)びている。
長年(ながねん)で溜(た)まった埃(ほこり)が懐中電灯(かいちゅうでんとう)の光(ひかり)を反射(はんしゃ)させ、キラキラと輝(かがや)かせていた。
芳野(よしの)「天井(てんじょう)ってのは、案外脆(あんがいもろ)い作(つく)りだ」
芳野(よしの)「支柱(しちゅう)で引(ひ)っかけてるだけだから、ケーブルの処理(しょり)は必(かなら)ず梁(はり)か柱(はしら)にしてるだろ」
芳野(よしの)「エアコンなんかも一緒(いっしょ)だ。支柱(しちゅう)へ力(ちから)を分散(ぶんさん)させて吊(つ)れば問題(もんだい)ない」
芳野(よしの)「今(いま)は見(み)るだけでいい。一回(いっかい)でも見(み)れば、必(かなら)ず役(やく)に立(た)つ」
朋也(ともや)「はい、わかりました」
そして芳野(よしの)さんは作業(さぎょう)に戻(もど)った。
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seagull - 2009/6/21 11:25:00
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5月15日()

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芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、これ」
芳野(よしの)さんは小(ちい)さな黒板(こくばん)を俺(おれ)に差(さ)し出(だ)した。
黒板(こくばん)には工事(こうじ)現場(げんば)の地名(ちめい)と、先(さき)ほど処理(しょり)していた配電盤(はいでんばん)の説明(せつめい)が書(か)かれていた。
芳野(よしの)「それ持(も)って立(た)ってろ」
朋也(ともや)「はい」
俺(おれ)は言(い)われたとおりにした。
朋也(ともや)「何(なに)すか、これ」
芳野(よしの)「工事現場台帳(こうじげんばだいちょう)に写真(しゃしん)がないといけないんだ」
朋也(ともや)「台帳(だいちょう)っすか?
どういうものなんですか?」
芳野(よしの)「…詳(くわ)しいことは親方(おやかた)に聞(き)け」
芳野(よしの)さんは、俺(おれ)にいろいろな作業(さぎょう)をさせて、それを写真(しゃしん)に撮(と)っていた。
芳野(よしの)「格好(かっこう)は適当(てきとう)でいいから、とにかく動(うご)くな」
朋也(ともや)「いいんですか?
適当(てきとう)で」
芳野(よしの)「かまわん」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にいいんすか?
全然(ぜんぜん)別(べつ)のことやってますよ」
芳野(よしの)「やかましい。それらしく見(み)えればいいんだ」
芳野(よしの)さんは声(こえ)を荒(あら)げて言(い)った。これ以上(いじょう)言(い)わない方(ほう)が身(み)のためだ。
作業(さぎょう)が終(お)わり、助手席(じょしゅせき)に乗(の)る。
横(よこ)では、芳野(よしの)さんが、カメラを手(て)に、何(なに)かを熱心(ねっしん)に見(み)ていた。
覗(のぞ)き込(こ)んでみると、その本体(ほんたい)に、小(ちい)さなモニターがついていて、それで今(いま)撮(と)った写真(しゃしん)を確認(かくにん)していた。
朋也(ともや)「それ、デジタルカメラってやつですか?」
芳野(よしの)「ああ。なんだ、これも初(はじ)めてか?」
朋也(ともや)「ええ」
芳野(よしの)「ほら」
手渡(てわた)してくれる。
芳野(よしの)「これを押(お)していけば、今(いま)撮(と)った画像(がぞう)が見(み)られる」
言(い)われた通(とお)り、操作(そうさ)してみる。
液晶(えきしょう)のモニターには、工事内容(こうじないよう)が書(か)かれた黒板(こくばん)とスケールを添(そ)えられた絶縁管(ぜつえんかん)など、工程表(こうていひょう)に書(か)かれていた内容(ないよう)が映(うつ)し出(だ)されていた。
朋也(ともや)「今(いま)はもう、普通(ふつう)のカメラは使(つか)わないんすか」
芳野(よしの)「使(つか)い捨(す)てカメラでもできる。だがデジタルカメラの方(ほう)が安(やす)い」
朋也(ともや)「そうなんですか」
驚(おどろ)きもあったが、一方(いっぽう)で一抹(いちまつ)の寂(さび)しさのようなものもあった。
携帯(けいたい)だって同(おな)じ。
そんなものを使(つか)っていた風景(ふうけい)は、学生時代(がくせいじだい)には、どこにもなかった。
俺(おれ)の知(し)らないところで、普及(ふきゅう)して、そして、外(そと)の風景(ふうけい)は変(か)わってしまっていた。
芳野(よしの)「おい、どうした?」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「考(かんが)え事(ごと)か?」
少(すこ)しの間(あいだ)、物思(ものおも)いに耽(ふけ)っていたらしい。
朋也(ともや)「いえ…」
でも、こうして自分(じぶん)の仕事(しごと)も助(たす)けられているのだから、それは悪(わる)いことではないはずだった。
朋也(ともや)「それで、この写真(しゃしん)、どうするんですか?」
努(つと)めて明(あか)るく、そう訊(き)いた。
芳野(よしの)「後(あと)で元請(もとう)けへ提出(ていしゅつ)する」
朋也(ともや)「その後(あと)は?」
芳野(よしの)「さあな。どっかで保管(ほかん)してるんだろ」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さん」
芳野(よしの)「なんだ?」
ぱしゃ。
俺(おれ)は振(ふ)り向(む)いた芳野(よしの)さんめがけてシャッターを切(き)った。
暗(くら)かったのか雷光(らいこう)にも似(に)たフラッシュが勝手(かって)にでた。
朋也(ともや)「…あ、芳野(よしの)さん、驚(おどろ)いてますね」
写真(しゃしん)は見事(みごと)に芳野(よしの)さんの驚(おどろ)いた顔(かお)を切(き)り抜(ぬ)いていた。
芳野(よしの)「…おい」
朋也(ともや)「すみません。ちょっとだけ驚(おどろ)かそうと思(おも)ったんですけど」
芳野(よしの)「いや、いい」
芳野(よしの)さんはいきなり俺(おれ)からカメラを取(と)り上(あ)げた。
芳野(よしの)「で、どんな恥(は)ずかしい写真(しゃしん)がいいんだ?」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「おまえは俺(おれ)を勝手(かって)に撮(と)った。だから俺(おれ)もおまえの写真(しゃしん)を撮(と)る。問題(もんだい)あるか?」
俺(おれ)は嫌(いや)な予感(よかん)がした。
芳野(よしの)「答(こた)えろ」
朋也(ともや)「…い、いいえ」
渚(なぎさ)「で、どんな写真(しゃしん)を撮(と)られましたか」
朋也(ともや)「半(はん)ケツ」
渚(なぎさ)「はんけつ…それは、なんですか?」
朋也(ともや)「半分(はんぶん)ケツ出(だ)しの略(りゃく)」
渚(なぎさ)「お尻(しり)撮(と)られたんですかっ」
朋也(ともや)「ああ。半分(はんぶん)で許(ゆる)しておいてやるって…」
朋也(ともや)「半分(はんぶん)だったら、丸出(まるだ)しのほうがいいって言(い)っても、聞(き)かないんだ、あの人(ひと)」
朋也(ともや)「それで、普通(ふつう)の顔(がお)しとけって言(い)うんだ」
朋也(ともや)「俺(おれ)も意地(いじ)になって、その格好(かっこう)のまま、次(つぎ)の現場(げんば)まで行(い)ってやったよ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか、おかしいです」
俺(おれ)の話(はなし)を聞(き)いている間(あいだ)、渚(なぎさ)はずっと笑(わら)っていた。
その笑顔(えがお)につれられて、俺(おれ)も笑(わら)う。
ふたりで、ずっと笑(わら)っていた。
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seagull - 2009/6/21 11:27:00
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5月16日()

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渚(なぎさ)「それでは、いってきます」
今日(きょう)は模試(もし)の日(ひ)。
朋也(ともや)「ああ、いってらっしゃい」
いつもは見送(みおく)られる俺(おれ)が、渚(なぎさ)を見送(みおく)る。
また、ひとりきりの時間(じかん)が始(はじ)まった。
とりあえず、目先(めさき)はやることがある。
今日(きょう)は晴天(せいてん)だったから、布団(ふとん)を干(ほ)して、コインランドリーに洗濯(せんたく)に出(で)かける。
午前中(ごぜんちゅう)はそれで潰(つぶ)せそうだった。
布団(ふとん)も干(ほ)した。洗濯(せんたく)もした。
やることもなくなり、俺(おれ)はぼーっとテレビを見(み)ていた。
朋也(ともや)(渚(なぎさ)は模試(もし)頑張(がんば)ってるってのに、俺(おれ)は何(なに)やってんだろ…)
朋也(ともや)(ま、平日(へいじつ)頑張(がんば)ってるから、いいか…)
短(みじか)いニュースが終(お)わり、料理(りょうり)のレシピ番組(ばんぐみ)が始(はじ)まる。
献立(こんだて)は、簡単(かんたん)チャーハンと画面(がめん)に出(で)ていた。
朋也(ともや)(これぐらいなら、ありものでできそうだな…)
気(き)づけばもうお昼(ひる)だ。俺(おれ)はその作(つく)り方(かた)を一通(ひととお)り覚(おぼ)える。
そして、実践(じっせん)。
料理(りょうり)は得意(とくい)なほうではなかったが、拍子抜(ひょうしぬ)けしてしまうほどに簡単(かんたん)にできてしまう。
簡単(かんたん)、と名前(なまえ)が付(つ)くだけのことはある。
味見(あじみ)してみると、なかなかにうまい。
朋也(ともや)(ひとりの時(とき)は、しばらくこれだけでいけそうだな)
皿(さら)に盛(さか)ろうとしたところで…
がちゃり。
玄関(げんかん)のドアが開(ひら)いていた。
秋生(あきお)「よぅ」
…オッサンだった。
秋生(あきお)「お、なんだ、飯作(めしつく)ってんのか」
秋生(あきお)「はっ、なんだか、嫁(よめ)に逃(に)げられた男(おとこ)みたいで、なっさけねぇ姿(すがた)だなぁ、おい」
勝手(かって)に上(あ)がってくる。
秋生(あきお)「まともに作(つく)れてんのか?」
秋生(あきお)「どれ、味見(あじみ)してやろう」
秋生(あきお)「ん…」
秋生(あきお)「コショウが足(た)らないな」
秋生(あきお)「ぱっぱっと」
秋生(あきお)「ん…これだな。この苦(にが)み。これが大人(おとな)のチャーハンってもんだぜ」
秋生(あきお)「ほら、早(はや)く食(く)えよ」
秋生(あきお)「食(く)って、とっとと遊(あそ)びにいくぞ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…え?」
秋生(あきお)「何(なに)死(し)んだ魚(さかな)が豆鉄砲(まめでっぽう)食(く)らったような顔(かお)してんだよ」
朋也(ともや)「たぶんそれ、表情(ひょうじょう)ひとつ変(か)わらないかと」
秋生(あきお)「何(なに)おっかなびっくりした顔(かお)してんだ、って意味(いみ)だよっ、通(つう)じねぇ奴(やつ)だなっ」
朋也(ともや)「いや、遊(あそ)びにいくって…俺(おれ)と?」
秋生(あきお)「ああ。今日(きょう)はてめぇひとりで暇(ひま)してるって、言(い)うじゃないか。だから、誘(さそ)いにきてやったんじゃねぇか」
朋也(ともや)「ああ…渚(なぎさ)の仕業(しわざ)か…」
秋生(あきお)「別(べつ)に頼(たの)まれたわけじゃねぇよ。ただ、今日(きょう)はたまたま俺(おれ)も暇(ひま)していただけだ」
朋也(ともや)「いや、あんた、いっつも子供(こども)と遊(あそ)んでるじゃん」
秋生(あきお)「そいつらも今日(きょう)はいねぇって意味(いみ)だよっ」
朋也(ともや)「あの、冷(さ)めるから、食(く)いながら話(はな)していい?」
秋生(あきお)「ああ、勝手(かって)にしろよ」
秋生(あきお)「…しっかし汚(きたな)ねぇ部屋(へや)だな、もっといい部屋(へや)に渚(なぎさ)を住(す)ませろ、馬鹿(ばか)」
朋也(ともや)「仕方(しかた)ねぇだろ、金(かね)、ねぇんだから」
朋也(ともや)「で、なんだ、遊(あそ)びにいくって、どこに何(なに)しにいくんだよ」
秋生(あきお)「んなこと決(き)めて来(く)るかよ」
秋生(あきお)「いいか、小僧(こぞう)…」
秋生(あきお)「それを考(かんが)えるのも、遊(あそ)びのうちなんだぜ…?」
いまいち格好(かっこう)いいのか悪(わる)いのか、よくわからないセリフだった。
秋生(あきお)「で、てめぇはどうしたい」
朋也(ともや)「野球(やきゅう)とかは嫌(いや)だぞ。こっちは肉体労働(にくたいろうどう)なんだから、休(やす)みの日(ひ)まで、体(からだ)動(うご)かしたくない」
秋生(あきお)「また、なまっちょろいことを…」
秋生(あきお)「まぁ、いい。その意見(いけん)、尊重(そんちょう)してやろう。なぜなら…」
秋生(あきお)「…遊(あそ)びは仲良(なかよ)くだからだ」
それも、格好(かっこう)いいのか悪(わる)いのか、よくわからない。
秋生(あきお)「ピンポンダッシュなんてどうだ」
全然(ぜんぜん)尊重(そんちょう)されていなかった!
朋也(ともや)「何(なに)が楽(たの)しいんだよ…」
秋生(あきお)「ハラハラドキドキするじゃねぇかよ」
朋也(ともや)「やめてくれ」
秋生(あきお)「ちっ、ノリの悪(わる)い奴(やつ)だな…」
秋生(あきお)「じゃあ、そうだな…大(だい)の大人(おとな)がふたりも揃(そろ)ってんだからな…」
秋生(あきお)「エッチな遊(あそ)びするかっ」
朋也(ともや)「ぶっ」
俺(おれ)は思(おも)わずチャーハンを吹(ふ)き出(だ)してしまう。
朋也(ともや)「エッチな遊(あそ)びって、どんなだよ…」
秋生(あきお)「例(たと)えば、そうだな…」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)の背中(せなか)に、クモのおもちゃを入(い)れてやる」
秋生(あきお)「すると、思(おも)わず服(ふく)を脱(ぬ)ぎ捨(す)ててしまうってわけだ」
朋也(ともや)(………)
朋也(ともや)(…いいかもしんない)
朋也(ともや)「って、何(なに)考(かんが)えてんだ、俺(おれ)はぁぁーっ!」
秋生(あきお)「今(いま)のは俺(おれ)のアイデアだぞ」
朋也(ともや)「いや、そういう意味(いみ)じゃなく」
秋生(あきお)「で、なんだよ、それも反対(はんたい)なのかよ」
別にいいけど
オッサンがいれば、なにをしたって罪(つみ)をなすりつけられるだろう。
朋也(ともや)「別(べつ)にいいけど」
だから、あまり深(ふか)く考(かんが)えず、そう答(こた)えた。
秋生(あきお)「よし、じゃ、まず、オモチャの調達(ちょうたつ)だ。いくぞっ」
朋也(ともや)「まだ洗(あら)い物(もの)がっ」
秋生(あきお)「んなの後(あと)だよ、後(あと)っ」
引(ひ)きずられるようにして、部屋(へや)を後(あと)にする。
秋生(あきお)「ここ、行(い)きつけのオモチャ屋(や)だ」
朋也(ともや)「行(い)きつけって…」
秋生(あきお)「ちーっす」
オッサンを先頭(せんとう)に、店内(てんない)に入(はい)る。
声(こえ)「とぅっ!」
何(なに)かが、かけ声(ごえ)と共(とも)に落(お)ちてきた。
秋生(あきお)「甘(あま)いねぇ…」
オッサンの飛(と)び退(しりぞ)いた場所(ばしょ)、そこに白(しろ)い棒(ぼう)を振(ふ)り下(お)ろした格好(かっこう)の中年男性(ちゅうねんだんせい)がうずくまっていた。
謎(なぞ)の男(おとこ)「はっ!」
さらに棒(ぼう)を横(よこ)に薙(な)ぐ。
オッサンがその上(うえ)を飛(と)んだ。
謎(なぞ)の男(おとこ)「はっ!
はっ!
はっ!」
秋生(あきお)「ふんっ、ふんっ、ふんっ」
次々(つぎつぎ)と繰(く)り出(だ)される攻撃(こうげき)をぎりぎりのところでかわしていくオッサン。
そして…
謎(なぞ)の男(おとこ)「はっ!」
ぼこっ!
朋也(ともや)「イテェ!」
オッサンがいきなり目(め)の前(まえ)から消(き)えたものだから、俺(おれ)が殴(なぐ)られていた。
謎(なぞ)の男(おとこ)「なんじゃ…おまえの連(つ)れにしては鈍(にぶ)い奴(やつ)じゃな」
秋生(あきお)「悪(わる)いがそいつは素人(しろうと)だ。見逃(みのが)してやってくれ」
謎(なぞ)の男(おとこ)「ふん…あんた、これが本物(ほんもの)のビームサーベルでなくて助(たす)かったな」
秋生(あきお)「はは、本物(ほんもの)のビームサーベルなんてこの世(よ)にないぜ」
謎(なぞ)の男(おとこ)「ふふ…まぁな」
謎(なぞ)の男(おとこ)「いらっしゃい」
謎(なぞ)の男(おとこ)「ゆっくり見(み)ていきな」
…どんな店員(てんいん)だ。
秋生(あきお)「おい、小僧(こぞう)。すげぇ、気色(きしょく)の悪(わる)いのあるぞ。見(み)ろよ、へへっ」
オッサンは早速(さっそく)、クモのオモチャを手(て)にして、喜(よろこ)んでいた。
秋生(あきお)「で、作戦(さくせん)なんだが…」
秋生(あきお)「どっちかが、大(おお)きなクモを発見(はっけん)する役(やく)。そしてもうひとりが、早苗(さなえ)の背中(せなか)にクモを入(い)れる役(やく)」
秋生(あきお)「どっちがいい?」
朋也(ともや)「俺(おれ)がクモを入(い)れたら、問題(もんだい)あるだろ」
秋生(あきお)「どこにもないねぇ」
あんた、それでも夫(おっと)か。
秋生(あきお)「なら、じゃんけんで決(き)めるか」
秋生(あきお)「それなら、文句(もんく)ねぇだろ?」
朋也(ともや)「いや、ありまくるが…」
秋生(あきお)「なんだよ、これぐらいのことでびびってやがんのか」
秋生(あきお)「そんな小(ちい)さな肝(きも)っ玉(たま)で、渚(なぎさ)を守(まも)っていけるのかよ」
朋也(ともや)「わかったよ…受(う)けてやるよ…」
秋生(あきお)「ふん…そうこねぇとな…」
うまく乗(の)せられている気(き)もするが、こんなことで渚(なぎさ)を守(まも)っていけないなんて言(い)われたくない。
それに勝(か)てばいいんだ。勝(か)てば。
秋生(あきお)「いくぞ…じゃんけん、ぽんっ」
オッサンがパー。
俺(おれ)がグー。
朋也(ともや)「…ぐはー」
秋生(あきお)「いいか、失敗(しっぱい)するんじゃねぇぞ。失敗(しっぱい)したら、俺(おれ)が渚(なぎさ)にしてやるからなっ」
あんた、それでも親(おや)か。
しかし…
俺(おれ)なんかが、早苗(さなえ)さんの背中(せなか)に手(て)を突(つ)っ込(こ)んでもいいのだろうか…。
それで、嫌(きら)われてしまうなんてことになったら…。
しかも、そのことが渚(なぎさ)にばれたら…。
朋也(ともや)「うああぁぁぁー…」
秋生(あきお)「なんて顔(かお)してんだよ」
朋也(ともや)「やっぱ、まずいって…」
秋生(あきお)「何(なに)を心配(しんぱい)してやがんだ?
嫌(きら)われるかもしれないとか思(おも)ってんのか?」
朋也(ともや)「ま、まあ…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だっての。あいつが人(ひと)を嫌(きら)うことなんてねぇよ」
秋生(あきお)「特(とく)におまえだったらな」
秋生(あきお)「って、いつの間(ま)に、おまえが早苗(さなえ)にとって特別(とくべつ)な男(おとこ)になってんだよぉーーっ!!」
朋也(ともや)「あんたが言(い)ったんだろがっ」
秋生(あきお)「まぁ、今回(こんかい)は許(ゆる)してやる。入(い)れろ」
もう、むちゃくちゃだ…。
とうとう古河(ふるかわ)パンの前(まえ)までやってくる。
朋也(ともや)(すげぇ緊張(きんちょう)する…)
秋生(あきお)「いいか、今(いま)から俺(おれ)が早苗(さなえ)を呼(よ)んでくる」
秋生(あきお)「で、うおっ、超(ちょう)でけぇクモが這(は)ってるっ、あ、そっちにいきやがったぁっ!って言(い)うからな」
秋生(あきお)「おまえは、それを捕(つか)まえる振(ふ)りをして、早苗(さなえ)の背中(せなか)にクモを入(い)れる」
秋生(あきお)「ちゃんと、うわぁ、服(ふく)の中(なか)に入(い)っちゃいましたぁ!って芝居(しばい)しろよ。聞(き)いてんのか、コラ」
朋也(ともや)「あ、ああ…聞(き)いてるよ…」
なんで、こんなことになってんだ、俺(おれ)…。
秋生(あきお)「そうしたら、白昼(はくちゅう)堂々(どうどう)、その肌(はだ)を晒(さら)しちまうって寸法(すんぽう)だ」
秋生(あきお)「ああ、ドキドキするな」
朋也(ともや)「すんげぇしてるよ…」
秋生(あきお)「遊(あそ)びはこうでなくっちゃな」
秋生(あきお)「じゃ、行(い)ってくる」
オッサンが店内(てんない)に入(はい)る。
すぐ、早苗(さなえ)さんを引(ひ)き連(つ)れて出(で)てくる。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、こんにちは。今日(きょう)は、ひとりだったんでしたね」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんと遊(あそ)んでる最中(さいちゅう)ですか?」
朋也(ともや)「え、ええ…」
その無垢(むく)な笑顔(えがお)が今(いま)の俺(おれ)には痛(いた)い…。
秋生(あきお)「うおっ、超(ちょう)でけぇクモが這(は)ってるっ!」
ああ、オッサンの芝居(しばい)が始(はじ)まった…。
早苗(さなえ)「えっ?」
秋生(あきお)「あ、そっちにいきやがったぁっ!」
早苗(さなえ)「えっ?
どこですかっ」
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんの背後(はいご)に立(た)つ。
朋也(ともや)(すみません、早苗(さなえ)さん…)
片手(かたて)には隠(かく)し持(も)っていたクモのオモチャ。
朋也(ともや)「ああ、早苗(さなえ)さんの背中(せなか)這(は)ってます!」
もう一方(いっぽう)の手(て)で早苗(さなえ)さんの上着(うわぎ)の裾(すそ)を引(ひ)っ張(ぱ)って…
そして、クモのオモチャを差(さ)し入(い)れる。
早苗(さなえ)さんの体温(たいおん)を手(て)の甲(こう)に感(かん)じながら、奥(おく)まで。
すっと、手(て)を抜(ぬ)く。
朋也(ともや)「うわぁ…早苗(さなえ)さんの背中(せなか)に入(い)っちゃいました!」
早苗(さなえ)「え…」
早苗(さなえ)「ええ…?」
ぶわっ。
…え?
早苗(さなえ)「誰(だれ)か取(と)ってくださーーーーいっ!」
脱兎(だっと)のごとく走(はし)り去(さ)った。
秋生(あきお)「やべぇ、予想外(よそうがい)の展開(てんかい)だっ」
秋生(あきお)「おい、小僧(こぞう)、止(と)めないとまずい。あいつは永遠(えいえん)、町中(まちなか)を泣(な)きながら走(はし)り続(つづ)けるぞっ」
…ああ…
…泣(な)かせた…
…俺(おれ)が早苗(さなえ)さんを泣(な)かせた…
秋生(あきお)「おい、小僧(こぞう)、聞(き)いてるのかっ」
朋也(ともや)「え…ええ?」
秋生(あきお)「挟(はさ)み撃(う)ちだ。でないと、今回(こんかい)の早苗(さなえ)は止(と)まらないっ」
早苗(さなえ)「ああぁーーんっ」
今(いま)、びゅぅと早苗(さなえ)さんが公園(こうえん)の向(む)こうを走(はし)っていった。
主婦(しゅふ)「あっらー…今日(きょう)の早苗(さなえ)さんは、すごい勢(いきお)いねぇ…」
隣(となり)の家(いえ)の庭(にわ)から主婦(しゅふ)が顔(かお)を覗(のぞ)かせて言(い)った。
秋生(あきお)「いいか、おまえは、そっちだ。俺(おれ)はあいつの後(あと)を追(お)う。いいな」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
秋生(あきお)「よし、いくぞ」
秋生(あきお)「うおぉーーっ、早苗(さなえ)ーーっ!
今(いま)のは俺(おれ)じゃないぞぉーーーっ!」
オッサンは駆(か)けていった。
朋也(ともや)「くそぅ…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、すみませぇーーーーんっ!」
俺(おれ)も叫(さけ)びながら、走(はし)り出(だ)した。
この日(ひ)、三人(さんにん)の雄叫(おさけ)びが、日(ひ)が暮(く)れるまで町中(まちなか)に飛(と)び交(か)っていたという。
朋也(ともや)「って、そのうちの一人(ひとり)、俺(おれ)だよ…」
渚(なぎさ)「びっくりしました」
渚(なぎさ)「帰(かえ)ってきたら、家(いえ)の前(まえ)をお母(かあ)さんが走(はし)ってました」
朋也(ともや)「いや、本当(ほんとう)、申(もう)し訳(わけ)なく思(おも)ってるって」
クモは、最初(さいしょ)早苗(さなえ)さんがいた場所(ばしょ)に落(お)ちていたというオチまでついていた…。
渚(なぎさ)「どうせ、お父(とう)さんが言(い)い出(だ)したことです。わかってます」
朋也(ともや)「いや、ま、俺(おれ)も悪(わる)ノリしちゃったというか…意地(いじ)を張(は)りすぎたというか…」
渚(なぎさ)「でも、なんだか、楽(たの)しそうでした」
朋也(ともや)「マジかよ…」
渚(なぎさ)「はい。三人(さんにん)で遊(あそ)んでるみたいに見(み)えました」
早苗(さなえ)さんは必死(ひっし)だったと思(おも)うが…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、お父(とう)さんとも、お母(かあ)さんとも、とても仲(なか)がいいです」
朋也(ともや)「そうかよ…」
朋也(ともや)「まぁ…昔(むかし)なら、こうして一緒(いっしょ)に走(はし)り回(まわ)るなんてことなかったからな…」
渚(なぎさ)「はい。今(いま)までお父(とう)さんとお母(かあ)さんと一緒(いっしょ)に走(はし)った人(ひと)はいませんでした」
渚(なぎさ)「わたしも、走(はし)るのは苦手(にがて)なので、したことなかったぐらいです」
渚(なぎさ)「なので、朋也(ともや)くん、今日(きょう)はとても絆(きずな)を深(ふか)めたんだと思(おも)います」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに嫌(きら)われてなきゃいいけど…」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)でした。ぜんぜん怒(おこ)ってなかったです」
朋也(ともや)「まぁね…」
ふぅ…
平日(へいじつ)よりも疲(つか)れた気(き)がするぞ…。
朋也(ともや)「それで、おまえのほうはどうだった?」
渚(なぎさ)「模試(もし)ですか。いつも通(どお)りにできました」
朋也(ともや)「点数(てんすう)いいと、いいな」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「あの、それで…」
渚(なぎさ)「来週(らいしゅう)の日曜(にちよう)は、創立者祭(そうりつしゃさい)です」
朋也(ともや)「ああ、そうだったな」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「創立者祭(そうりつしゃさい)は、わたし、たくさん楽(たの)しみたいと思(おも)ってます。今度(こんど)は観客(かんきゃく)としてです」
渚(なぎさ)「模擬店(もぎてん)もたくさんでますから、いろんなもの食(た)べて回(まわ)ります」
渚(なぎさ)「そう決(き)めました」
朋也(ともや)「うん、いいんじゃないか。今年(ことし)はゆっくりしろよ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「ですから…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、一緒(いっしょ)に居(い)てほしいです」
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)「無理(むり)でしょうか…」
渚(なぎさ)「お仕事(しごと)ありますか?」
朋也(ともや)「いや、まだないと思(おも)うけど…」
朋也(ともや)「そっか…一般客(いっぱんきゃく)も入場(にゅうじょう)OKだったんだよな」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「もし都合(つごう)が合(あ)えば、創立者祭(そうりつしゃさい)、来(き)てほしいです」
渚(なぎさ)「それで…わたしの隣(となり)に居(い)てくれたら、すごくうれしいです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとふたりで、出(だ)し物見(ものみ)て回(まわ)りたいです。いろんなクラブの催(もよお)しも見(み)たいです」
朋也(ともや)「うん、まぁ、今(いま)のところは大丈夫(だいじょうぶ)だと思(おも)う」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「もちろん無理(むり)は言(い)わないですので、できたらで、いいです…」
渚(なぎさ)「でも、そうしたいです。わたしの我(わ)がままですけど…」
矛盾(むじゅん)した頼(たの)み方(かた)だった。どれだけ渚(なぎさ)が、切(せつ)に願(ねが)っているかがわかる。
その思(おも)いは俺(おれ)も同(おな)じだ。
きっと、こんな機会(きかい)はもう二度(にど)とないだろう。
あの学校(がっこう)で、制服姿(せいふくすがた)の渚(なぎさ)とデートするなんて。
是非(ぜひ)とも実現(じつげん)したい。
それは、俺(おれ)が卒業(そつぎょう)する日(ひ)まで、ずっと求(もと)めてやまなかった光景(こうけい)だったはずだ。
朋也(ともや)「ああ、そうしような」
繰(く)り返(かえ)し、俺(おれ)は答(こた)えていた。
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key天空 - 2009/7/6 12:05:00
LZ真强大,太厉害了。~~~!!!!
seagull - 2009/7/6 18:49:00
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5月17日()

,0,]
親方(おやかた)「岡崎君(おかざきくん)さ、ちょっといいかな?」
朋也(ともや)「なんすか?」
朝礼(ちょうれい)が終(お)わったあと、俺(おれ)は親方(おやかた)に呼(よ)び止(と)められた。
親方(おやかた)「今日(きょう)の現場(げんば)、手違(てちが)いで昼(ひる)からになっちゃったんだ。で、遊(あそ)ばせておくのもなんだから、これ整理(せいり)してくれない?」
渡(わた)されたのは、伝票(でんぴょう)の束(たば)だった。厚(あつ)さは10センチはある。
親方(おやかた)「日付順(ひづけじゅん)に並(なら)べてくれればいいから」
朋也(ともや)「わかりました」
俺(おれ)は雑多(ざった)に縛(しば)られた伝票(でんぴょう)をまとめなおした。
見(み)ると、現物(げんぶつ)が頭(あたま)に浮(う)かぶのもあれば全(まった)く知(し)らない品番(ひんばん)の物(もの)もある。
朋也(ともや)「えっと、三月(さんがつ)だから…」
一(ひと)つ一(ひと)つ丁寧(ていねい)に並(なら)べた。
朋也(ともや)「終(お)わりました」
親方(おやかた)「ご苦労(くろう)さん。お茶(ちゃ)煎(い)れるから、一休(ひとやす)みしていいよ」
朋也(ともや)「はい、ありがとうございます」
やけに大(おお)きな湯飲(ゆの)みを片手(かたて)にぼーっとしていると、芳野(よしの)さんが帰(かえ)ってきた。
朋也(ともや)「おかえりなさい」
芳野(よしの)「おう」
芳野(よしの)さんは通(とお)り過(す)ぎようとして、机(つくえ)の前(まえ)で止(と)まった。
朋也(ともや)「どうしたんすか?」
芳野(よしの)「おまえが整理(せいり)したのか」
朋也(ともや)「ええ、親方(おやかた)に言(い)われて」
芳野(よしの)「すごいな」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「いや、伝票(でんぴょう)の整理(せいり)」
朋也(ともや)「日付順(ひづけじゅん)に並(なら)べただけっすよ」
芳野(よしの)「俺(おれ)には無理(むり)だからな」
朋也(ともや)「はあ」
芳野(よしの)「五分(ごふん)でキレる」
朋也(ともや)「そうなんですか」
その光景(こうけい)が見(み)たかったが、言(い)うのは止(や)めた。
午後(ごご)からの仕事(しごと)も終(お)わり、軽(けい)トラは事務所(じむしょ)に向(む)かって走(はし)っていた。
芳野(よしの)「今週(こんしゅう)終(お)わりから忙(いそが)しくなる」
朋也(ともや)「そうっすか」
芳野(よしの)「新(あたら)しい契約(けいやく)が入(はい)ったからな。うちみたいな下請(したう)けでも、かなり大(おお)きい仕事(しごと)だ」
朋也(ともや)「大(おお)きいってどのくらいですか?」
芳野(よしの)「細(こま)かいところまでは知(し)らんが、額(がく)が一千万(いっせんまん)単位(たんい)だ」
芳野(よしの)「親方(おやかた)もいろいろ無理(むり)をして、義理(ぎり)を果(は)たしてたからな」
芳野(よしの)「いつか親方(おやかた)も元請(もとう)けになって、会社(かいしゃ)を大(おお)きくしたいんだろう」
朋也(ともや)「なるといいですね」
芳野(よしの)「なるんじゃない。俺(おれ)たちがそうするんだ」
呟(つぶや)くように言(い)った芳野(よしの)さんに、俺(おれ)は黙(だま)って頷(うなず)いた。
帰(かえ)ってくると、渚(なぎさ)は歌(うた)いながら上機嫌(じょうきげん)で夕飯(ゆうはん)を作(つく)っていた。
渚(なぎさ)「だんご、だんごっ」
朋也(ともや)「夕飯(ゆうはん)、だんごなのか?」
渚(なぎさ)「違(ちが)います。豚汁(とんじる)です」
朋也(ともや)「じゃあ、ぶた、ぶたっ、て歌(うた)え」
渚(なぎさ)「そんな歌(うた)、ないです」
朋也(ともや)「いいじゃないか、替(か)え歌(うた)で。それだと夕飯(ゆうはん)の献立(こんだて)がわかって便利(べんり)だ」
渚(なぎさ)「便利(べんり)でなくていいです。わたしはただ楽(たの)しくて歌(うた)ってるだけです」
朋也(ともや)「何(なに)が、そんなに楽(たの)しいんだよ」
渚(なぎさ)「創立者祭(そうりつしゃさい)です」
朋也(ともや)「ああ…」
俺(おれ)はさっき芳野(よしの)さんから聞(き)いたことを伝(つた)えなくてはならない。
朋也(ともや)「あのな、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「今週(こんしゅう)の終(お)わりからさ、忙(いそが)しくなりそうなんだ」
渚(なぎさ)「そうなんですか…」
朋也(ともや)「ああ。今日(きょう)、そう言(い)われた」
朋也(ともや)「だから、もし俺(おれ)が行(い)けなかったらさ…」
ひとりで楽(たの)しめよ…。
そう言(い)いそうになって、口(くち)をつぐんだ。
ひとりきりで模擬店(もぎてん)を回(まわ)って、楽(たの)しいはずがない。
もし日曜(にちよう)、仕事(しごと)が入(はい)ってしまったら、そうなるのだろうか。
渚(なぎさ)は、周(まわ)りが賑(にぎ)わう中(なか)、ひとりで模擬店(もぎてん)を回(まわ)って、発表会(はっぴょうかい)を見(み)るのだろうか…。
…そんな想像(そうぞう)したくもない。
普通(ふつう)に授業(じゅぎょう)があればよかったのに…。
祭(まつ)りなんて、なければよかったのに。
ひとりきりの祭(まつ)りほど、寂(さび)しいものなんてなかった。
朋也(ともや)「もし、さ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「行(い)けなかったらさ、早苗(さなえ)さんに連絡(れんらく)するよ」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんだったら、駆(か)けつけてくれるよ」
渚(なぎさ)「いえ…構(かま)わないです」
渚(なぎさ)「それに、この一年(いちねん)はふたりでがんばるって…そう決(き)めました」
朋也(ともや)「でも、それとこれとは関係(かんけい)ないだろ」
渚(なぎさ)「いえ、わたしは本当(ほんとう)に構(かま)わないです」
渚(なぎさ)「ただ、朋也(ともや)くんが来(き)てくれたら、うれしいなって」
渚(なぎさ)「そう思(おも)うだけです」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「そっか…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「わかったよ」
俺(おれ)もそれ以上(いじょう)は、何(なに)も言(い)わなかった。[/wrap]

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5月18日()

,0,]
おばちゃん「お疲(つか)れさまです」
朋也(ともや)「あ、いえ」
今日(きょう)は、民家(みんか)の電気工事(でんきこうじ)に来(き)ていた。
おばちゃんに挨拶(あいさつ)され、戸惑(とまど)いながらの仕事(しごと)だった。
朋也(ともや)「こういう仕事(しごと)もあるんですね」
芳野(よしの)「うちは少(すく)ないが、電気関係(でんきかんけい)なら大概(たいがい)はする」
朋也(ともや)「はあ、覚(おぼ)えないといけないっすね」
芳野(よしの)「基本(きほん)は一緒(いっしょ)だから、コツさえ掴(つか)めば割合(わりあい)簡単(かんたん)だ」
朋也(ともや)「了解(りょうかい)っす」
午後(ごご)になって、屋根裏(やねうら)での作業(さぎょう)になった。
テスターで試験(しけん)したところ、二階(にかい)のコンセントが通電(つうでん)しにくく、どこかで漏電(ろうでん)している可能性(かのうせい)があるそうだ。
とはいえ配電盤(はいでんばん)には漏電(ろうでん)防止(ぼうし)スイッチがあり、滅多(めった)なことでは火事(かじ)など起(お)きない。
それでも、頻繁(ひんぱん)にブレーカーが落(お)ちるので俺(おれ)たちに修理依頼(しゅうりいらい)がきたのだ。
芳野(よしの)「テスターの針(はり)、どうなってる?」
朋也(ともや)「動(うご)きません」
芳野(よしの)「なら、もう少(すこ)し奥(おく)へ行(い)ってくる。合図(あいず)を出(だ)すから、出(で)たらブレーカーを上(あ)げてテストしろ」
朋也(ともや)「はい、わかりました」
芳野(よしの)さんは奥(おく)へと消(き)えていった。
入(はい)り込(こ)んだ天井裏(てんじょううら)を覗(のぞ)き込(こ)んでいると、芳野(よしの)さんの懐中電灯(かいちゅうでんとう)が二回(にかい)点滅(てんめつ)した。
合図(あいず)だ。
俺(おれ)は通電(つうでん)チェックをした。すると、さっきまでの抵抗(ていこう)が無(な)くなっていた。
朋也(ともや)「オッケーです」
芳野(よしの)「よし、ケーブルを30センチ持(も)ってこい。両端(りょうはし)の皮膜(ひまく)は4センチずつ剥(む)け」
俺(おれ)は言(い)われたとおりに加工(かこう)し、芳野(よしの)さんに手渡(てわた)した。
芳野(よしの)「ネズミか何(なに)かに囓(かじ)られたんでしょう。これが原因(げんいん)です」
芳野(よしの)さんはおばちゃんに虫(むし)が食(く)ったようなケーブルを見(み)せた。
芳野(よしの)「一応(いちおう)処理(しょり)はしておきましたので大丈夫(だいじょうぶ)でしょう」
芳野(よしの)「何(なに)かありましたら連絡(れんらく)下(くだ)さい」
芳野(よしの)さんと俺(おれ)はおばちゃんに丁寧(ていねい)なお礼(れい)を言(い)われ、次(つぎ)の現場(げんば)へと向(む)かった。
仕事(しごと)を終(お)え、事務所(じむしょ)で着替(きが)えていると…
親方(おやかた)「うーん、時間(じかん)がないよね」
芳野(よしの)「夜勤(やきん)入(い)れますか?」
親方(おやかた)「それだと負担(ふたん)が大(おお)きすぎるよ」
奥(おく)から芳野(よしの)さんと親方(おやかた)が話(はな)す声(こえ)が聞(き)こえてきた。
どうやら作業日程(さぎょうにってい)が厳(きび)しく、人手(ひとで)が足(た)らないらしい。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「はい、なんすか」
呼(よ)ばれて、ジーパンのチャックを締(し)めながら、顔(かお)を出(だ)す。
芳野(よしの)「おまえ、土曜日(どようび)出(で)られるか?」
朋也(ともや)「ええ、土曜日(どようび)なら」
芳野(よしの)「日曜(にちよう)は?」
今週(こんしゅう)の日曜(にちよう)は創立者祭(そうりつしゃさい)だ。こればかりは外(はず)すわけには行(い)かない。
朋也(ともや)「すみません。できれば今週(こんしゅう)の日曜日(にちようび)は空(あ)けてほしいです」
芳野(よしの)さんは、ああと頷(うなず)いて日程(にってい)表(おもて)を眺(なが)めた。
芳野(よしの)「そうか。じゃ、土曜日(どようび)は出(で)てくれ。日曜(にちよう)はもともと休(やす)みだから気(き)にせず休(やす)め」
朋也(ともや)「はい、わかりました。ありがとうございます」
朋也(ともや)「ただいま」
渚(なぎさ)「お帰(かえ)りなさいです」
家事(かじ)の手(て)を止(と)め、こちらを向(む)く渚(なぎさ)。
朋也(ともや)「日曜(にちよう)、大丈夫(だいじょうぶ)そうだ」
渚(なぎさ)「え、仕事(しごと)、ないですか」
朋也(ともや)「ああ、気(き)にせず休(やす)めって言(い)ってもらえた」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか。それはとてもうれしいです」
渚(なぎさ)「これで、創立者祭(そうりつしゃさい)、朋也(ともや)くんと過(す)ごせます」
朋也(ともや)「ああ、そうだな」
渚(なぎさ)「もう少(すこ)しでできます。待(ま)っててください」
朋也(ともや)「ああ」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の後(うし)ろを抜(ぬ)けて、部屋(へや)で落(お)ち着(つ)く。
キッチンからは、渚(なぎさ)の鼻歌(はなうた)が聞(き)こえ続(つづ)けていた。
[/wrap]
hydraliskz - 2009/7/9 17:12:00
非常感谢!
我游戏中的第一个存档是去年7月1号,当时日语刚学不久,中日双开对照着看,还是非常吃力,之后就搁下了>_< 不过前阵子再玩时,发现很多内容能看懂了\^O^/ 这个文本我放在ppc上看,不懂的单词就记录下来,正在琢磨怎么方便地导入背单词软件。如果能找到中文对照就好了,可惜找来找去也只有那个机器翻译版-_-‖
楼主加油!我也要加油,追上楼主的进度。
seagull - 2009/7/12 15:06:00
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5月19日()

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芳野(よしの)「ここは玉交換(たまこうかん)と清掃(せいそう)だけだな」
朋也(ともや)「はい、そうっすね」
俺(おれ)は伝票(でんぴょう)を確認(かくにん)しながら言(い)った。
邪魔(じゃま)にならないように軽(けい)トラを止(と)め、材料(ざいりょう)と工具(こうぐ)を確認(かくにん)した。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、先(さき)に玉(たま)を外(はず)してこい」
朋也(ともや)「はい、わかりました」
荷台(にだい)にある梯子(はしご)の紐(ひも)をゆるめ始(はじ)めた。
何度(なんど)もやった仕事(しごと)だ。
手順(てじゅん)も、清掃(せいそう)も、もう一人(ひとり)で出来(でき)ると思(おも)う。
が、今日(きょう)の現場(げんば)は運(うん)が悪(わる)かった。
朋也(ともや)「…どうするよ」
呆然(ぼうぜん)と呟(つぶや)くしかない現場(げんば)だった。
俺以外(おれいがい)の作業員(さぎょういん)が見(み)れば、何(なん)の変哲(へんてつ)もない現場(げんば)。
ただ足場(あしば)が悪(わる)く右側(みぎがわ)に梯子(はしご)を立(た)てられないだけ。
左側(ひだりがわ)に梯子(はしご)を掛(か)け、右手(みぎて)を伸(の)ばせば簡単(かんたん)な作業(さぎょう)。
今(いま)まではわざわざ反対側(はんたいがわ)に回(まわ)り込(こ)み、左手(ひだりて)一本(いっぽん)でこなすことが出来(でき)た。
どうしようもない場面(ばめん)だけ無理(むり)な体勢(たいせい)で作業(さぎょう)をした。
それでも街灯(がいとう)を包(つつ)み込(こ)むケースにすら届(とど)かない。
もし外(はず)そうとするなら、安全帯(あんぜんおび)を梯子(はしご)ごと電柱(でんちゅう)に引(ひ)っかけて固定(こてい)し、身(み)を乗(の)り出(だ)す必要(ひつよう)があった。
芳野(よしの)「どうかしたか」
朋也(ともや)「い、いえ。何(なん)でもないっす」
梯子(はしご)の上(うえ)で逡巡(しゅんじゅん)している俺(おれ)は、芳野(よしの)さんから見(み)れば不思議(ふしぎ)だろう。
俺(おれ)は覚悟(かくご)を決(き)めた。
ポケットに入(い)れていた安全帯(あんぜんおび)を最大限(さいだいげん)まで伸(の)ばし、梯子(はしご)を電柱(でんちゅう)に固定(こてい)した。
その上(うえ)で腹(はら)に付(つ)いているフックで外(はず)れないようにした。
これなら、最悪(さいあく)でも俺(おれ)は宙吊(ちゅうづ)りになるだけで済(す)む。
朋也(ともや)「…よし」
後(あと)は、目一杯(めいっぱい)体(からだ)を伸(の)ばすだけだ。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)。ちょっと待(ま)て」
朋也(ともや)「は、はい?」
芳野(よしの)「足(あし)、踏(ふ)み外(はず)して落(お)ちたら腹筋(ふっきん)がいかれる」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「今(いま)すぐ降(お)りてこい」
朋也(ともや)「え?
どういうことですか?」
芳野(よしの)「右肩(みぎかた)が上(あ)がらないんだったよな」
俺(おれ)はとっさに何(なに)を言(い)われているのかわからなかった。
芳野(よしの)「早(はや)くしろ」
朋也(ともや)「は、はい…」
俺(おれ)は言(い)われるままに梯子(はしご)を降(お)りていった。
結局(けっきょく)、そこの現場(げんば)は芳野(よしの)さんが一人(ひとり)で作業(さぎょう)をこなした。
俺(おれ)は上(のぼ)まで材料(ざいりょう)を持(も)っていったり、工具(こうぐ)を運(はこ)んでいただけだった。
次(つぎ)の現場(げんば)に向(む)かう途中(とちゅう)…
朋也(ともや)「…何(なん)で、わかったんですか?」
俺(おれ)はそう訊(き)いてみた。
芳野(よしの)「何(なに)が」
朋也(ともや)「その…右肩(みぎかた)が上(あ)がらないことです」
もし仕事(しごと)を辞(や)めろと言(い)われても仕方(しかた)ないと思(おも)う。
けど、何(なに)も言(い)わずにいてくれた芳野(よしの)さんの気持(きも)ちだけは知(し)りたかった。
芳野(よしの)「見(み)ていればわかる」
朋也(ともや)「ならどうして何(なに)も言(い)わなかったんすか」
芳野(よしの)「言(い)ってどうなることでもないだろ。それとも治(なお)る見込(みこ)みがあるのか?」
朋也(ともや)「い、いえ」
芳野(よしの)「ならいいだろ」
朋也(ともや)「よくないっすよっ」
芳野(よしの)「落(お)ち着(つ)け」
朋也(ともや)「ずっと何(なに)も言(い)わず、肩(かた)がおかしいの、隠(かく)してたんすよ、俺(おれ)」
芳野(よしの)「でも、努力(どりょく)はしてただろ」
俺(おれ)は顔(かお)を上(あ)げた。
単(たん)なる慰(なぐさ)めにしか聞(き)こえなかった。
芳野(よしの)「確(たし)かに肩(かた)が上(あ)がらないってのは、この仕事(しごと)には向(む)かないと思(おも)う」
芳野(よしの)「けど、おまえはずっと努力(どりょく)してたし、どうにもならないような時(とき)でも自分(じぶん)で何(なん)とかしようとしてただろ」
芳野(よしの)「俺(おれ)はそれをずっと見(み)てきた」
そんなところまで…見(み)ていてくれたんだ…。
朋也(ともや)「ありがとうございます」
俺(おれ)は泣(な)きそうな声(こえ)で礼(れい)を言(い)った。
芳野(よしの)「馬鹿(ばか)。礼(れい)なんて言(い)うな」
芳野(よしの)「俺(おれ)は礼(れい)を言(い)われることなんてしていない。いや、できなかった。おまえのせいでな」
朋也(ともや)「…え?」
芳野(よしの)「手伝(てつだ)ってやろうにも、黙(だま)ったまま、ひとりでやるもんだから、手伝(てつだ)えなかった」
芳野(よしの)「けど、今後(こんご)は、俺(おれ)を頼(たよ)れ」
朋也(ともや)「でも…」
芳野(よしの)「何(なん)のために俺(おれ)がいると思(おも)ってるんだ?」
朋也(ともや)「これ以上(いじょう)、迷惑(めいわく)なんてかけられないっすよ…」
芳野(よしの)「言(い)っておくが、おまえのことで迷惑(めいわく)なんて思(おも)ったことはない」
芳野(よしの)「だから、遠慮(えんりょ)なく頼(たよ)れ」
芳野(よしの)「俺(おれ)も一人(ひとり)じゃ何(なに)もできない」
芳野(よしの)「だから親方(おやかた)や、仲間(なかま)のみんな、おまえがいる」
芳野(よしの)「仕事(しごと)だからな。できない事(ごと)は頼(たよ)っていいんだ」
芳野(よしの)「そして、その時(とき)には聞(き)かせてもらおう」
芳野(よしの)「礼(れい)の言葉(ことば)をな」
俺(おれ)は小(ちい)さく、はいと呟(つぶや)いた。
聞(き)こえたかどうかはわからない。
けど、芳野(よしの)さんは頷(うなず)いてくれたように見(み)えた。[/wrap]

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5月20日()

,0,]
朋也(ともや)「おはようございます」
作業員(さぎょういん)「おー」
親方(おやかた)「おつかれさん。暑(あつ)い中(なか)ご苦労(くろう)さん」
朋也(ともや)「そうっすね。最近(さいきん)は夏(なつ)みたいに暑(あつ)いっす」
作業員(さぎょういん)「そういや坊主(ぼうず)、タオル持(も)ってないんか?」
朋也(ともや)「いえ、持(も)ってないっす」
作業員(さぎょういん)「ジョニーさーん、タオルってなかったですかね?」
ジョニー「伝票入(でんぴょうい)れの下(した)にあっただろ、ボーイ」
作業員(さぎょういん)「おー、あったあった。坊主(ぼうず)、これ持(も)っていけや」
朋也(ともや)「いいんすか?」
ジョニー「なに、もらいもんだから気(き)にすんな、ボーイ」
朋也(ともや)「ありがとうございます」
今(いま)まで話(はなし)をしなかったから気(き)づかなかったが、案外(あんがい)面白(おもしろ)い人(ひと)が多(おお)いのかもしれない。
ロッカーで区切(くぎ)られた更衣室(こういしつ)で、芳野(よしの)さんに会(あ)った。
朋也(ともや)「おはようございます」
芳野(よしの)「おう。あ、岡崎(おかざき)、これ」
ごん。
芳野(よしの)「…受(う)け取(と)れ、それくらい」
朋也(ともや)「いきなり投(な)げないでください。で、なんすか、これ」
芳野(よしの)さんが投(な)げつけてきたのは、新品(しんぴん)のベルトだった。
大(おお)きな袋(ふくろ)が二(ふた)つ付(つ)き、片方(かたほう)は何(なに)かを差(さ)し込(こ)めるようになっている。
芳野(よしの)「さっさと付(つ)けろ」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「作業着(さぎょうぎ)に通(とお)して、しっかり締(し)める。毎日(まいにち)見(み)てるだろうが」
朋也(ともや)「は、はい」
俺(おれ)は、見(み)よう見(み)まねでベルトの親玉(おやだま)を締(し)めつけた。
芳野(よしの)「あと、これ」
朋也(ともや)「投(な)げないでください。近(ちか)いんですから」
芳野(よしの)さんは残念(ざんねん)そうに、椅子(いす)の上(うえ)へ小箱(こばこ)を置(お)いた。
開(あ)けてみると、真新(まあたら)しい工具(こうぐ)が入(はい)っていた。
朋也(ともや)「…これ、使(つか)ってもいいんですか?」
芳野(よしの)「道具無(どうぐな)しでベルト締(し)めるのか?」
朋也(ともや)「あ、ありがとうございます」
俺(おれ)は慌(あわ)ててビニールを外(はず)し、ベルト――工具袋(こうぐぶくろ)へ差(さ)し込(こ)んだ。
それだけで嬉(うれ)しかった。
芳野(よしの)「今日(きょう)、八件(はっけん)だから手早(てばや)くな」
朋也(ともや)「はい」
芳野(よしの)「最初(さいしょ)は何処(どこ)だ?」
朋也(ともや)「え?」
こつん。
頭(あたま)を拳(こぶし)で軽(かる)く殴(なぐ)られる。
芳野(よしの)「…確認(かくにん)しろ。前(まえ)も言(い)っただろうが」
朋也(ともや)「はいっ、すみません」
俺(おれ)は急(いそ)いでダッシュボードに入(はい)っている地図(ちず)と伝票(でんぴょう)を取(と)り出(だ)した。
朋也(ともや)「えっと、一件目(いっけんめ)は中通(なかどお)りの街路(がいろ)で補修(ほしゅう)です。分電盤(ぶんでんばん)のチェックと玉交換(たまこうかん)、清掃(せいそう)もあります。二件(にけん)目(め)は……」
芳野(よしの)さんは時々(ときどき)頷(うなず)きながら、軽(けい)トラを走(はし)らせていた。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、やってこい」
朋也(ともや)「はい?」
芳野(よしの)「分電盤(ぶんでんばん)のチェック、玉交換(たまこうかん)と清掃(せいそう)だから、一人(ひとり)でできるだろ」
朋也(ともや)「いいんですか?」
芳野(よしの)「それくらいできるだろ」
朋也(ともや)「は、はいっ」
俺(おれ)が答(こた)えると、芳野(よしの)さんはさっさと二本(にほん)隣(となり)の電柱(でんちゅう)へ登(のぼ)ってしまった。
初(はじ)めて、一人(ひとり)でやる仕事(しごと)。
いつもやっていることではあったが、一人(ひとり)となると緊張(きんちょう)した。
芳野(よしの)さんが登(のぼ)った電柱(でんちゅう)はドラム缶(かん)みたいなトランス(変電機(へんでんき))があり、そちらでショートしてないか、ヒューズは大丈夫(だいじょうぶ)か、などを調(しら)べていた。
朋也(ともや)「そちらは大丈夫(だいじょうぶ)ですかー?」
芳野(よしの)「問題(もんだい)ない」
小(ちい)さく声(こえ)が返(かえ)ってきた。俺(おれ)も作業(さぎょう)を始(はじ)めていいみたいだ。
まずは足場(あしば)の確保(かくほ)。
電柱(でんちゅう)は事故防止(じこぼうし)のために、下(した)から三(さん)、四本(しほん)の足場(あしば)を抜(ぬ)いている。
まずはそれをしっかりと取(と)り付(つ)ける。
慎重(しんちょう)に登(のぼ)りきったら、安全帯(あんぜんおび)を金具(かなぐ)に括(くく)って、電柱(でんちゅう)と一体化(いったいか)させる。
これなら落(お)ちることはないし、万(まん)が一足(ひとあし)を滑(なめ)らせても、宙(ちゅう)づりになるだけだ。
難(なん)を言(い)えば、簡単(かんたん)には降(お)りられないことくらいだ。
そのため、いつもなら梯子(はしご)を使(つか)うところだが、今(いま)は芳野(よしの)さんが使(つか)っている。
俺(おれ)は慎重(しんちょう)に、いつもの作業(さぎょう)に取(と)りかかった。
朋也(ともや)「終(お)わりました」
芳野(よしの)「ああ。じゃ、ちょっと待(ま)ってろ」
そう言(い)って芳野(よしの)さんは、電柱(でんちゅう)を登(のぼ)りだした。
三分(さんぶん)くらい上(あ)で見(み)ていた芳野(よしの)さんは、一回(いっかい)だけ頷(うなず)いて降(お)りた。
芳野(よしの)「よし、まあいいだろ」
朋也(ともや)「はい?」
芳野(よしの)「だから、あれでいい」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「…もういい」
芳野(よしの)さんは黙(だま)り込(こ)んで軽(けい)トラに乗(の)り込(こ)んでしまった。
俺(おれ)も追(お)いかけるようにして、助手席(じょしゅせき)に乗(の)り込(こ)む。
朋也(ともや)「…ひょっとして褒(ほ)めてくれたんですか?」
芳野(よしの)「ん?」
朋也(ともや)「いや、さっきのあれでいいって」
芳野(よしの)「まぁな」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんに褒(ほ)められたの、初(はじ)めてな気(き)がしますよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)、上達(じょうたつ)してるってことですよね」
芳野(よしの)「毎日(まいにち)同(おな)じことやってるんだからな、当然(とうぜん)だろ」
正直(しょうじき)、嬉(うれ)しかった。
ずっと違和感(いわかん)のあったこの場所(ばしょ)。
それが自分(じぶん)の居場所(いばしょ)として、馴染(なじみ)んでいくのが実感(じっかん)できた。
事務所(じむしょ)にいても、みんなから、声(こえ)をかけてもらえるようになった。
煤(すす)まみれの先輩(せんぱい)たち。
朋也(ともや)(ああ、本当(ほんとう)に、あの頃(ころ)からは考(かんが)えられない…)
窓(まど)の外(そと)に下校(げこう)していくどこかの学校(がっこう)の生徒(せいと)を見(み)ながら思(おも)った。
あの頃(ころ)、机(つくえ)を並(なら)べていた連中(れんちゅう)は、みんな進学(しんがく)して、今(いま)もなお、勉学(べんがく)に励(はげ)んでいるのだ。
俺(おれ)だけ、ここにいる。
でも、ひとりじゃない。
同(おな)じように、毎日(まいにち)煤(すす)にまみれる人(ひと)たちと一緒(いっしょ)だ。
それが俺(おれ)が選(えら)んで…新(あたら)しく手(て)に入(い)れた場所(ばしょ)だった。[/wrap]

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5月21日()

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芳野(よしの)「じゃ、始(はじ)めるぞ。さっき説明(せつめい)した手順(てじゅん)、覚(おぼ)えてるな」
俺(おれ)はざっと頭(あたま)の中(なか)で作業工程(さぎょうこうてい)を流(なが)した。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)っす」
芳野(よしの)「よし。あと、今日(きょう)は後(あと)で補助(ほじょ)してくれ。防水(ぼうすい)ボックスの修理(しゅうり)だからな」
朋也(ともや)「はい、わかりました」
芳野(よしの)「斜(しゃ)ニッパ、取(と)ってくれ」
朋也(ともや)「はい。……あれ、芳野(よしの)さん、持(も)ってなかったですか?」
芳野(よしの)「手(て)が塞(ふさ)がって取(と)れないんだ。左手(ひだりて)に寄(よ)こせ」
朋也(ともや)「はい」
芳野(よしの)「あと、三芯(さんしん)のVVFケーブル210ミリ、両端(りょうはし)の皮(かわ)、むいとけ」
朋也(ともや)「何(なに)センチですか。圧着(あっちゃく)なら2センチ切(き)りますけど」
芳野(よしの)「4センチ出(だ)してれば、どっちでもできる。覚(おぼ)えておけ」
芳野(よしの)「25……いや38のラッピング、取(と)ってくれ。長(なが)さは……」
芳野(よしの)さんはリード線(せん)の束(つか)の長(なが)さを測(はか)っていた。
朋也(ともや)「保護管(ほごかん)っすね。標準(ひょうじゅん)ですか、難燃(なんねん)ですか?」
ラッピングとは電線(でんせん)をまとめる保護管(ほごかん)のことだ。
材質(ざいしつ)にいくつかあり、難燃性(なんねんせい)のものもある。
芳野(よしの)「一応(いちおう)難燃(なんねん)でやっておくか。燃(も)えたら事(こと)だしな」
朋也(ともや)「12センチくらいでいいですか?」
芳野(よしの)「ああ、そんなもんだ。よくわかったな」
朋也(ともや)「何(なん)となくですけど」
芳野(よしの)「黒(くろ)のブッシュ、切(き)っておけ。切(き)り口(くち)の枠(わく)に合(あ)うように。寸法(すんぽう)は任(まか)せる」
朋也(ともや)「はい」
俺(おれ)は配電盤(はいでんばん)に入(い)れられた切(き)り込(こ)み口(くち)の寸法(すんぽう)を測(はか)った。
切(き)られっぱなしの金属板(きんぞくばん)をそのまま放(ほう)っておくと腐食(ふしょく)し、そこを通(とお)る電線(でんせん)すら痛(いた)めてしまう。
それをカバーするのがブッシュというプラスチックの保護材(ほござい)だ。
俺(おれ)はブッシュにナイフを当(あ)てた。
ナイフには1センチ刻(きざ)みの印(じるし)をつけてある。
これは時間短縮(じかんたんしゅく)の知恵(ちえ)で、いちいちメジャーなどで測(はか)っていては作業効率(さぎょうこうりつ)が落(お)ちるのだ。
センチ単位(たんい)で大体(だいたい)の当(あ)たりを付(つ)け切(き)り取(と)り、ブッシュを填(は)める。
何度(なんど)もやっている作業(さぎょう)なので、ほとんど狂(くる)いもなく切(き)り込(こ)み口(くち)に収(おさ)まった。
朋也(ともや)「終(お)わりました」
芳野(よしの)「おう。じゃ、片(かた)づけてくれ。こっちも終(お)わる」
朋也(ともや)「はい、わかりました」
帰(かえ)りの車(くるま)の中(なか)。
芳野(よしの)「今日(きょう)は手際(てぎわ)が良(よ)かったな」
朋也(ともや)「そうっすか。ありがとうございます」
芳野(よしの)「まあ、覚(おぼ)えてなきゃ怒鳴(どな)るだけだが」
俺(おれ)は苦笑(くしょう)で返(かえ)した。
朋也(ともや)「ええ、どんどん怒(おこ)ってください。俺(おれ)なんかまだまだですから」
芳野(よしの)「言(い)ってろ」
芳野(よしの)さんは俺(おれ)を少(すこ)しだけ見(み)て、笑(わら)った。男臭(おとこくさ)い笑(え)みだった。
[/wrap]
seagull - 2009/7/14 13:30:00
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5月22日()

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着替(きが)えていると、親方(おやかた)から呼(よ)ばれた。
親方(おやかた)「岡崎(おかざき)くん、悪(わる)いんだけど、ちょっと待(ま)っててもらえるかな?」
朋也(ともや)「どうかしたんですか?」
親方(おやかた)「いやね、芳野(よしの)が急(きゅう)な仕事(しごと)で他(ほか)の現場(げんば)に呼(よ)ばれちゃって、居(い)ないんだよ」
朋也(ともや)「じゃ、今日(きょう)の予定(よてい)はどうするんですか?」
芳野(よしの)「すぐに済(す)むって言(い)ってたから、とりあえずは待(ま)ってておいてよ」
朋也(ともや)「はい、分(わ)かりました」
俺(おれ)は言(い)われたとおり、事務所(じむしょ)で待機(たいき)することにした。
…ぼーっ。
暇(ひま)だ。する事(こと)がない。
向(む)こうでは事務仕事(じむしごと)をしているので前(まえ)みたいに何(なに)か手伝(てつだ)おうとしたが、丁寧(ていねい)に断(ことわ)られてしまった。
どうやら俺(おれ)にできることはないらしい。
まあいいか。とりあえず、お茶(ちゃ)でも煎(い)れよう。
親方(おやかた)「岡崎(おかざき)くん。ちょっと」
朋也(ともや)「はい、なんすか?」
親方(おやかた)「今日(きょう)の現場(げんば)なんだけど、地図(ちず)と伝票(でんぴょう)、持(も)ってるかな?」
朋也(ともや)「あ、はい。一応(いちおう)用意(ようい)だけはしてますけど」
親方(おやかた)「品番(ひんばん)、全部(ぜんぶ)わかる?」
言(い)われて俺(おれ)は胸(むね)ポケットに入(い)れていた数枚(すうまい)の伝票(でんぴょう)を見(み)た。
見(み)たことない番号(ばんごう)は一(ひと)つもない。
この組(く)み合(あ)わせなら、今(いま)までやってきた作業(さぎょう)ばかりだった。
朋也(ともや)「たぶん大丈夫(だいじょうぶ)だと思(おも)います。全部(ぜんぶ)覚(おぼ)えてる番号(ばんごう)ですから」
親方(おやかた)「じゃあさ、先(さき)に現場(げんば)へ行(い)って作業(さぎょう)しておいてよ。芳野(よしの)、捕(つか)まえたら、向(む)かわせるから」
朋也(ともや)「え?
結構遠(けっこうとお)いですけど…」
ここからだと10キロちょっとくらいのところに、今日(きょう)の現場(げんば)はあった。
親方(おやかた)「送(おく)っていくから。梯子(はしご)と部品(ぶひん)は全部(ぜんぶ)運(はこ)ぶし、今日(きょう)は重機(じゅうき)、いらないはずだから」
朋也(ともや)「いいんですか?
俺(おれ)がひとりでやっちゃっても」
親方(おやかた)「そろそろ大丈夫(だいじょうぶ)じゃないかって、芳野(よしの)と言(い)ってたとこだったからね。まあ、なんかあったら連絡(れんらく)だけは忘(わす)れないようにね」
朋也(ともや)「はあ」
いきなりのことで、俺(おれ)はどうしていいのかわからなかった。
ただ、ひとりで作業(さぎょう)をするというのに、不安(ふあん)はなかった。
現場(げんば)へ行(い)くと、既(すで)に街灯(がいとう)は設置(せっち)されていた。
どうやら配線(はいせん)とテストだけが回(まわ)ってきたらしい。
俺(おれ)はビニールに包(つつ)まれた部品(ぶひん)の数々(かずかず)と、ドラムに巻(ま)き付(つ)けられたケーブルを取(と)り出(だ)した。
朋也(ともや)「えーっと、あそこから出(で)るんだから…とすると…」
口(くち)の中(なか)で呟(つぶや)きながら、ひとつひとつ手順(てじゅん)を確(たし)かめる。
いつの間(ま)にか覚(おぼ)えていた。
所々(ところどころ)詰(つ)まることもあるが、部品(ぶひん)を組(く)み合(あ)わせれば思(おも)い出(だ)せた。
前(まえ)に失敗(しっぱい)したところ。
何度(なんど)やってもできなかったところ。
芳野(よしの)さんに叱(しか)られ叱(しか)られ覚(おぼ)えたところ。
それが全部(ぜんぶ)繋(つな)がっていた。
安全帯(あんぜんおび)を外(はず)し、俺(おれ)は電柱(でんちゅう)を降(お)りた。
後(あと)は点灯(てんとう)テストをするだけだった。
本来(ほんらい)は配電盤(はいでんばん)で自動管理(じどうかんり)するのだが、テスト用(よう)に取(と)り付(つ)けたスイッチを入(い)れた。
街灯(がいとう)は強(つよ)い陽射(ひざ)しの中(なか)でも、煌々(こうこう)と照(て)っていた。
朋也(ともや)「点(つ)いた…」
嬉(うれ)しかった。本当(ほんとう)に、嬉(うれ)しかった。
片(かた)づけをしていると、見慣(みな)れた軽(けい)トラが止(と)まった。
芳野(よしの)さんが来(き)たようだ。
朋也(ともや)「お疲(つか)れさまっす」
芳野(よしの)「ん」
芳野(よしの)さんは、ほとんど俺(おれ)を素通(すどお)りする形(かたち)で街灯(がいとう)を見(み)ていた。
芳野(よしの)「これ、ひとりでやったのか?」
朋也(ともや)「はい。ひとつずつ思(おも)い出(だ)しながらやりました」
芳野(よしの)「接点(せってん)の処理(しょり)、確(たし)かめたか?」
朋也(ともや)「はい。回路(かいろ)ごとと、最後(さいご)に全部(ぜんぶ)」
芳野(よしの)「皮膜(ひまく)、きちんと取(と)ったか?」
朋也(ともや)「はい、長(なが)さもちゃんと測(はか)りました」
芳野(よしの)「掃除(そうじ)、したか?」
朋也(ともや)「もう少(すこ)しで終(お)わります」
芳野(よしの)「よし。良(よ)くやった」
朋也(ともや)「あ、ありがとうございますっ」
芳野(よしの)「工具(こうぐ)、軽(けい)トラに積(つ)んでおけ。送(おく)ってやろう」
朋也(ともや)「はい。じゃ、片付(かたづ)けを先(さき)にやっちゃいますね」
芳野(よしの)「ああ」
俺(おれ)は再(ふたた)び片(かた)づけに戻(もど)った。
朋也(ともや)「片(かた)づけ、終(お)わりました」
芳野(よしの)「ああ」
芳野(よしの)さんは、まだ街灯(がいとう)を見(み)続(つづ)けていた。
朋也(ともや)「どうしたんすか?」
芳野(よしの)「いや、別(べつ)に」
朋也(ともや)「どっか間違(まちが)えてますか?」
芳野(よしの)「通電(つうでん)してるから大丈夫(だいじょうぶ)か。気(き)にするな」
朋也(ともや)「はあ」
芳野(よしの)「明日(あした)、休(やす)みだろ?」
朋也(ともや)「あ、はい。明日(あした)は外(はず)したくない用事(ようじ)があるんで」
芳野(よしの)「学園祭(がくえんさい)だったか?」
朋也(ともや)「ええ」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)と行(い)くのか?」
朋也(ともや)「はい。一緒(いっしょ)にいてやりたいんです」
芳野(よしの)「そうか。ゆっくり休(やす)んでこい」
朋也(ともや)「はい、ありがとうございます」
芳野(よしの)「じゃ、帰(かえ)るか」
朋也(ともや)「はい」
俺(おれ)は意気揚々(いきようよう)と帰(かえ)った。
こんなに充実(じゅうじつ)した気分(きぶん)は、本当(ほんとう)に久(ひさ)し振(ぶ)りだった。
そして、明日(あした)は、渚(なぎさ)と過(す)ごす創立者祭(そうりつしゃさい)。
最高(さいこう)の一日(いちにち)になると思(おも)った。[/wrap]

[wrap=

5月23日()

,0,]
渚(なぎさ)「よく眠(ねむ)れましたか」
朝食(ちょうしょく)をとりながら、渚(なぎさ)が訊(き)いてくる。
朋也(ともや)「それはこっちのセリフだっての」
渚(なぎさ)「わたしですか」
渚(なぎさ)「わたしは、たっぷり寝(ね)られました」
朋也(ともや)「目(め)赤(あか)くないか?」
渚(なぎさ)「決(けっ)してそんなことはないと思(おも)います」
朋也(ともや)「おまえ、絶対(ぜったい)、わくわくして寝(ね)られなかったよな」
渚(なぎさ)「そんな子供(こども)じゃないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのほうこそ、わくわくして寝(ね)られなかったんじゃないですか」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「えっと、それは…」
渚(なぎさ)「…デートだからです」
朋也(ともや)「そういえば、そうだな」
渚(なぎさ)「そうです。ですから、朋也(ともや)くん、寝(ね)られなかったはずです」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「それは…わたしとデートだからです」
何度(なんど)も言(い)わせるのは楽(たの)しい。
渚(なぎさ)「…あんまり可愛(かわい)くない彼女(かのじょ)でごめんなさいですけど」
渚(なぎさ)はそう続(つづ)けた。
朋也(ともや)「おまえな」
朋也(ともや)「学生時代(がくせいじだい)から言(い)ってるだろ。自分(じぶん)のこと卑下(ひげ)するなって」
渚(なぎさ)「あ、はい。そうでした…」
朋也(ともや)「ほら、もう一回(いっかい)最初(さいしょ)から訊(き)いてくれ」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、わくわくして寝(ね)られなかったはずです」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「それは、デートだからです」
渚(なぎさ)「こんな可愛(かわい)い彼女(かのじょ)と」
渚(なぎさ)「って、自分(じぶん)でこんなこと言(い)ってたくないですっ」
かなり愉快(ゆかい)だ。
渚(なぎさ)「それでは、先(さき)にいきます」
渚(なぎさ)が戸口(とぐち)に立(た)つ。
朋也(ともや)「ああ。一時間(いちじかん)後(あと)に合流(ごうりゅう)だな」
一般(いっぱん)への開放(かいほう)は10時(じ)からとなっていた。
渚(なぎさ)「はい。待(ま)ってます」
朋也(ともや)「いってらっしゃい」
渚(なぎさ)「いってきます」
渚(なぎさ)を見送(みおく)った後(あと)、部屋(へや)に引(ひ)き返(かえ)す。
朝(あさ)のワイドショーを見(み)ながら、時間(じかん)を潰(つぶ)していると、電話(でんわ)が鳴(な)った。
朋也(ともや)「はい、もしもし。岡崎(おかざき)ですけど」
親方(おやかた)『岡崎君(おかざきくん)かい?』
朋也(ともや)「あ、お疲(つか)れっす」
親方(おやかた)『あのさ、昨日(きのう)の現場(げんば)で何(なに)があったか知(し)らないかい?』
朋也(ともや)「え?
特(とく)に何(なに)もなかったっすけど」
親方(おやかた)『いや、さっき芳野(よしの)が、すみません、俺(おれ)のミスですから直(なお)してきますって』
俺(おれ)は何(なに)も言(い)えなかった。
芳野(よしの)さんがミスをするはずがなかった。
初(はじ)めて俺(おれ)がひとりでやったところだから。
親方(おやかた)『何度(なんど)訊(き)いても、申(もう)し訳(わけ)ありません、俺(おれ)のミスです、としか言(い)わないんだよ』
朋也(ともや)「俺(おれ)も今(いま)から行(い)きますっ」
親方(おやかた)『いや、岡崎(おかざき)くんが行(い)く必要(ひつよう)はないんだけ…』
朋也(ともや)「失礼(しつれい)しますっ」
俺(おれ)は電話(でんわ)を切(き)ると、慌(あわ)てて家(いえ)を飛(と)び出(だ)した。
昨日(きのう)の現場(げんば)は北側(きたがわ)の農道沿(のうどうぞ)いだから…!
俺(おれ)は走(はし)った。
バスとか乗(の)れれば良(い)いのだが、生憎(あいにく)と路線(ろせん)とかがわからない。
道(みち)だけは知(し)ってるが、結構(けっこう)な距離(きょり)だ。
けど、行(い)かなきゃいけない。
芳野(よしの)さんは、俺(おれ)がどうしても今日(きょう)学園祭(がくえんさい)に行(い)かなきゃいけないことを知(し)ってた。
だから、ただ『俺(おれ)のミスだ』としか言(い)わなかったんだ。
渚(なぎさ)をひとりで放(ほう)っておくのは嫌(いや)だ。
けど、このまま芳野(よしの)さんひとりが背負(せお)い込(こ)むのは、もっと嫌(いや)だった。
まだ開場(かいじょう)まで時間(じかん)はある。
現場(げんば)へ行(い)って、謝(あやま)って、作業(さぎょう)を終(お)わらせて、学校(がっこう)へ行(い)く。
絶対(ぜったい)に間(ま)に合(あ)わせるんだ。
朋也(ともや)「…お、おつかれ、さま…です」
芳野(よしの)「おまえの方(ほう)が疲(つか)れてるだろ」
足(あし)がつるくらいに走(はし)った俺(おれ)は、現場(げんば)に着(つ)いたときには息(いき)も絶(た)え絶(た)えだった。
朋也(ともや)「すみませんでした…」
息(いき)が戻(もど)ると、俺(おれ)は黙々(もくもく)と作業(さぎょう)をする芳野(よしの)さんに頭(あたま)を下(さ)げた。
芳野(よしの)「何(なに)がだ」
朋也(ともや)「俺(おれ)がちゃんとしてれば、こんなことにはならなかったはずですから」
芳野(よしの)「俺(おれ)のミスだ。おまえのせいじゃない」
朋也(ともや)「でも…」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…仕事(しごと)の邪魔(じゃま)だ。帰(かえ)れ」
朋也(ともや)「俺(おれ)がやりますっ。お願(ねが)いですから、後始末(あとしまつ)をさせてください!」
芳野(よしの)「駄目(だめ)だ。帰(かえ)れ」
朋也(ともや)「お願(ねが)いです!
責任(せきにん)を取(と)らせてください!」
芳野(よしの)「でかい声(こえ)を出(だ)すな」
朋也(ともや)「すんません!
すみませんでした!」
頭(あたま)を下(さ)げた俺(おれ)の視界(しかい)に、芳野(よしの)さんの靴(くつ)が入(はい)った。
芳野(よしの)「聞(き)き分(わ)けのない子供(こども)か、おまえは…。帰(かえ)れっていってるだろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)が昨日(きのう)間違(まちが)えたんじゃないですかっ。何(なん)で芳野(よしの)さんがっ」
芳野(よしの)「おまえの不始末(ふしまつ)を見(み)つけられなかった。だから俺(おれ)のミスだ」
芳野(よしの)さんは、それだけ言(い)って、作業(さぎょう)へ戻(もど)ってしまった。
俺(おれ)は何(なに)もできず、ただ頭(あたま)を下(さ)げていた。
悔(くや)しくて、自分(じぶん)が情(なさ)けなくて、泣(な)き出(だ)したいくらいだった。
芳野(よしの)「頭(あたま)なんか下(さ)げなくてもいい。帰(かえ)れ」
ケーブルの被膜(ひまく)を取(と)りながら、芳野(よしの)さんが言(い)った。
朋也(ともや)「帰(かえ)れないです」
芳野(よしの)「…楽(たの)しみにしてたんだろ」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「学園祭(がくえんさい)だ。おまえ、自分(じぶん)で言(い)ってたじゃないか」
朋也(ともや)「…はい」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)、待(ま)ってるんだろ」
朋也(ともや)「はい」
芳野(よしの)「なら、側(そば)にいてやれ。それが岡崎(おかざき)の役目(やくめ)だ」
朋也(ともや)「だから行(い)けないんです」
芳野(よしの)「どうしてだ。今日(きょう)は楽(たの)しんでくればいい」
朋也(ともや)「もし、俺(おれ)がこのまま放(ほう)り出(だ)して学校(がっこう)へ行(い)ったら、あいつが悲(かな)しみます」
朋也(ともや)「俺(おれ)…あいつに嘘(うそ)はつけないです」
朋也(ともや)「だから絶対(ぜったい)に心(こころ)から楽(たの)しめないっす」
朋也(ともや)「それに自分(じぶん)のしでかしたことは、自分(じぶん)で責任(せきにん)を取(と)らないと、顔向(かおむ)けもできないです」
朋也(ともや)「ですから、この作業(さぎょう)はしないといけないんです」
芳野(よしの)「馬鹿(ばか)だな、おまえ」
朋也(ともや)「そうですね」
芳野(よしの)さんは、前髪(まえがみ)を邪魔(じゃま)そうにかき分(わ)けた。
芳野(よしの)「…25の低圧絶縁管(ていあつぜつえんかん)、6m持(も)ってこい。今(いま)すぐ」
朋也(ともや)「え…?」
芳野(よしの)「さっさと動(うご)け」
朋也(ともや)「は、はいっ」
仕事(しごと)が終(お)わると、俺(おれ)は着替(きが)えもせずに汚(よご)れた作業着(さぎょうぎ)のまま、学校(がっこう)へ向(む)かった。
陽(よう)はすでに暮(く)れている。
まだ学校(がっこう)にいるだろうか。それとももう、アパートに帰(かえ)っているだろうか。
少(すこ)しでも可能性(かのうせい)があるなら、こうして駆(か)けつける以外(いがい)なかった。
校門前(こうもんまえ)にぽつんと人影(ひとかげ)があった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ」
寄(よ)っていくと、その影(かげ)が顔(かお)をあげた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「ごめん…」
謝(あやま)るしかなかった。
渚(なぎさ)「謝(あやま)らないでください。朋也(ともや)くんは、何(なに)も謝(あやま)るようなことしてないです」
渚(なぎさ)「はじめから、こうなるかもしれないって、言(い)ってくれてました」
渚(なぎさ)「それなのに、わたし、ひとりで浮(う)かれて、来(き)てほしいようなこと言(い)い続(つづ)けて…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんをこんなふうに、焦(あせ)らせて、心配(しんぱい)かけて…」
渚(なぎさ)「謝(あやま)るのはわたしのほうです。我(わ)がまま言(い)って、ごめんなさいでした」
朋也(ともや)「こんなの、我(わ)がままじゃねぇよ…普通(ふつう)じゃないか」
朋也(ともや)「付(つ)き合(あ)ってるふたりが、楽(たの)しくデートするなんてさ…」
朋也(ともや)「ささやかすぎるよ…」
朋也(ともや)「もっと言(い)ってくれたっていいんだ。叶(かな)える努力(どりょく)をし続(つづ)けるからさ…」
朋也(ともや)「いや、努力(どりょく)ですらないよな…」
朋也(ともや)「俺(おれ)がそうしたいんだからな…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)と、楽(たの)しいことたくさんしたいからな…」
朋也(ともや)「今回(こんかい)は…ダメだったけどさ…」
朋也(ともや)「だから、謝(あやま)るなよな、おまえも…」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「じゃあ、ひとつだけ我(わ)がまま言(い)っていいですか」
朋也(ともや)「ああ、なんでも言(い)ってくれ」
渚(なぎさ)「これを、一緒(いっしょ)に食(た)べてください」
胸(むね)に抱(だ)いていた紙袋(かみぶくろ)から取(と)りだしたのは、焼(や)きトウモロコシだった。
渚(なぎさ)「冷(さ)めてしまっていますけど…」
これを二本(にほん)買(か)って、ずっと待(ま)ち続(つづ)けてくれていたのだ。
朋也(ともや)「ああ、もちろん」
その一本(いっぽん)を袋(ふくろ)から引(ひ)き抜(ぬ)く。
渚(なぎさ)「とても大(おお)きいです。夕(ゆう)ご飯(はん)、食(た)べられなくなりそうです」
朋也(ともや)「いいんじゃないか。たまの祭(まつ)りの日(ひ)なんだから」
渚(なぎさ)「そうですよね…えへへ」
嬉(うれ)しそうに、自分(じぶん)の分(ぶん)を袋(ふくろ)から取(と)りだした。
それを食(た)べながら、ふたりで帰(かえ)った。
今日一日(きょういちにち)得(え)られるはずだった楽(たの)しみを取(と)り返(かえ)すように、話(はなし)をして笑(わら)いながら。[/wrap]

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5月24日()

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翌朝(よくあさ)。
事務所(じむしょ)に向(む)かう俺(おれ)の足取(あしど)りは重(おも)かった。
正直(しょうじき)、行(い)きたくなかった。
あれだけ迷惑(めいわく)をかけて、どの面下(つらさ)げて行(い)けるというのか。
一歩一歩(いっぽいっぽ)会社(かいしゃ)に近(ちか)づく度(たび)、訳(わけ)の分(わ)からない恐怖(きょうふ)と苦(にが)く広(ひろ)がる自己嫌悪(じこけんお)は増(ま)すばかりだ。
やがて会社(かいしゃ)の前(まえ)に着(つ)いた。
引(ひ)き戸(と)に手(て)を掛(か)け、俺(おれ)はため息(いき)を吐(は)き覚悟(かくご)を決(き)めた。
朋也(ともや)「おはようございますっ。昨日(きのう)はすいませんでしたっ」
親方(おやかた)「おはようさん。で、何謝(なにあやま)ってんの?」
作業員(さぎょういん)「おお、若(わか)いの。昨日(きのう)、わざわざ走(はし)って現場(げんば)まで行(い)ったんだってなぁ」
作業員(さぎょういん)「最近(さいきん)の若(わか)いモンにしちゃ、見上(みあ)げた根性(こんじょう)だのう」
俺(おれ)は呆然(ぼうぜん)として、顔(かお)を見上(みあ)げた。
皆(みんな)、俺(おれ)を咎(とが)めるどころか褒(ほ)めてくれた。
朋也(ともや)「あの…、何(なん)で…」
ジョニー「何(なん)でって、現場(げんば)に駆(か)けつけたんだろ、ボーイ」
朋也(ともや)「はあ」
ジョニー「ヘイ、ユーさん、この子(こ)、事情(じじょう)を知(し)らないのか、ボーイ」
何(なに)を言(い)っているのか、さっぱりわからない。
ただユーさんというのは、芳野(よしの)さんのことのようで、その呼(よ)びかけに応(おう)じて奥(おく)から出(で)てきた。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)か、おはよう」
珍(めずら)しいことに笑(わら)っていた。
朋也(ともや)「おはようございます」
芳野(よしの)「不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)してるな」
朋也(ともや)「当(あ)たり前(まえ)ですよ。てっきり怒(おこ)られるもんだと思(おも)って覚悟(かくご)して来(き)たんですから…」
芳野(よしの)「ミスは仕方(しかた)ないことだ」
芳野(よしの)「問題(もんだい)は、どうやって取(と)り返(かえ)すか、だ」
穏(おだ)やかな言葉(ことば)だった。
芳野(よしの)「自分(じぶん)に出来(でき)ることを精一杯(せいいっぱい)やれば、必(かなら)ず誰(だれ)かが評価(ひょうか)してくれる」
芳野(よしの)「俺(おれ)は、この仕事(しごと)のそういう所(ところ)が気(き)に入(い)ってる」
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)は、昨日(きのう)自分(じぶん)に出来(でき)ることを最大限(さいだいげん)こなしたと俺(おれ)は思(おも)ってる」
芳野(よしの)「だから皆(みんな)にそう話(はな)した」
芳野(よしの)「皆(みんな)も同(おな)じように思(おも)ってくれた」
朋也(ともや)「で、でも俺(おれ)がちゃんとしていれば…」
芳野(よしの)「おまえがしくじるのには慣(な)れてるよ」
芳野(よしの)さんが言(い)ってくれるのはありがたいが、俺(おれ)は納得(なっとく)できなかった。
朋也(ともや)「で、でも、芳野(よしの)さんは休(やす)みを潰(つぶ)してまで…」
芳野(よしの)「おまえのためじゃない。お客(きゃく)さんのためだ」
芳野(よしの)「昨日(きのう)までに終(お)わらさないといけない仕事(しごと)だったからな」
芳野(よしの)「まだ納得(なっとく)できないか?」
黙(だま)って首(くび)を横(よこ)に振(ふ)った。
俺(おれ)は逆(ぎゃく)に申(もう)し訳(わけ)ない気持(きも)ちでいっぱいだった。
だから、芳野(よしの)さんの厚意(こうい)に甘(あま)えることが出来(でき)なかった。
すると芳野(よしの)さんの表情(ひょうじょう)が微妙(びみょう)に変(か)わった。
ほんのわずかだけど、たとえようもないくらい。
芳野(よしの)「…もし、申(もう)し訳(わけ)ないとか反省(はんせい)してるなんてつまらないことを考(かんが)えてるなら、覚(おぼ)えておけ」
芳野(よしの)「この仕事(しごと)をずっとやる気(き)なら、いつかおまえにも新人(しんじん)がつくだろう」
芳野(よしの)「おまえのように、若(わか)くて、向(む)こう見(み)ずな新人(しんじん)だ」
芳野(よしの)「その時(とき)、その新人(しんじん)がミスをしたならおまえがフォローしてやれ」
芳野(よしの)「俺(おれ)に何(なに)かを返(かえ)したいと思(おも)うなら、そうしてやれ」
芳野(よしの)「それがおまえの仕事(しごと)だ」
芳野(よしの)「そして、それが…」
芳野(よしの)「愛(め)だ」
最後(さいご)の一言(いちごん)はないほうがいいと思(おも)った…。
が、言(い)っていることに対(たい)しては、返(かえ)す言葉(ことば)がなかった。
まだ俺(おれ)は負(お)ぶわれた子供(こども)に過(す)ぎない。
だがいつの日(ひ)か一人(ひとり)で立(た)って、歩(ある)くときがくる。
だからこそ。
朋也(ともや)「…はいっ、わかりました!
覚(おぼ)えておきます!」
朋也(ともや)「これからも…一生(いっしょう)…懸命(けんめい)……がんば…りま…す…」
もう言葉(ことば)にならなかった。だから何回(なんかい)も、何回(なんかい)も頭(あたま)を下(さ)げた。
芳野(よしの)「何(なに)泣(な)きそうになってんだ」
呆(あき)れたように芳野(よしの)さんが呟(つぶや)き、皆(みんな)が労(いたわ)るように肩(かた)を叩(たた)いてくれた。
後(あと)で思(おも)い返(かえ)すことがあれば、今日(きょう)こそが俺(おれ)の仕事始(しごとはじ)めなのかもしれない。
[/wrap]
綾 - 2009/7/14 16:33:00
つくづく根性のある方ですねぇ…:miffy4:

手伝ってあげようか:miffy5:
seagull - 2009/7/14 21:58:00
ありがとうございます。
どうやってですか?
私はこの二日間、別の漫画を翻訳するから、更新できません。
とある便当屋さん - 2009/7/15 1:01:00
直接掲示板送信しちゃいなよ~
良い返事を期待しようぜ:miffy5:
seagull - 2009/7/18 11:40:00
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同棲編,0,]


いろんなことが、軌道(きどう)に乗(の)り始(はじ)めた。
仕事(しごと)はあの日(ひ)以来(いらい)、順調(じゅんちょう)。
夜(よる)になれば、渚(なぎさ)とたくさん話(はなし)ができて、仕事(しごと)の疲(つか)れを吹(ふ)き飛(と)ばせた。
朝起(あさお)きるのだけは相変(あいか)わらず辛(つら)かったけど、渚(なぎさ)の寝顔(ねがお)を見(み)ていると、やる気(き)が湧(わ)いてきた。
渚(なぎさ)も学校(がっこう)では、仁科(にしな)と杉坂(すぎさか)と会(あ)って話(はな)すことが多(おお)くなった。
それは、合唱部(がっしょうぶ)が活動(かつどう)を終(お)え、ようやく時間(じかん)ができたからだった。
そうして、ふたりの生活(せいかつ)は落(お)ち着(つ)きを見(み)せ始(はじ)めた。
週(しゅう)に一度(いちど)の古河家訪問(ふるかわけほうもん)。その行(い)きがけ。
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん、相談(そうだん)があります」
タッパーを抱(かか)えた渚(なぎさ)がそう口(ぐち)を開(ひら)いていた。
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんのことです」
朋也(ともや)「オッサンがどうした。また早苗(さなえ)さんにセクハラして困(こま)らせてるのか?」
渚(なぎさ)「違(ちが)います」
渚(なぎさ)「ええと…その…」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんが昔(むかし)に一緒(いっしょ)に演劇(えんげき)をやっていた人(ひと)たちが、小(ちい)さな劇団(げきだん)を作(つく)って、旗揚(はたあ)げ公演(こうえん)をするらしいんです」
朋也(ともや)「へぇ…そりゃなんつーか、よかったな」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)としては心中(しんちゅう)穏(おだ)やかではないだろう。
自分(じぶん)が夢(ゆめ)を諦(あきら)めさせていなければ、オッサンはその一員(いちいん)で居(い)られたのにと思(おも)っているはずだ。
渚(なぎさ)「その公演(こうえん)の招待状(しょうたいじょう)がお父(とう)さんにも来(き)てるんです」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、行(い)きたいはずです」
朋也(ともや)「だろうな。昔(むかし)の仲間(なかま)の公演(こうえん)なんだし」
渚(なぎさ)「でも、仕事(しごと)があるから行(い)かないって言(い)ってるんです」
朋也(ともや)「仕事(しごと)って、そんな半日(はんにち)ぐらい、何(なに)を今更(いまさら)」
渚(なぎさ)「いえ、半日(はんにち)じゃないんです。だって、公演(こうえん)場所(ばしょ)は九州(きゅうしゅう)ですから」
朋也(ともや)「ぐあ…遠(とお)いな…」
渚(なぎさ)「高速(こうそく)バスで行(い)っても、二日(ふつか)がかりになります」
朋也(ともや)「でも、二日(ふつか)ぐらい店(みせ)を空(あ)けてもいいんじゃねぇの?」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、よくお店(みせ)を抜(ぬ)け出(だ)して遊(あそ)びにいきますけど、それでも毎朝(まいあさ)のパンはちゃんと焼(や)いていました」
朋也(ともや)「そうか…じゃ、二日(ふつか)休業(きゅうぎょう)するしかねぇな」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、それを怠(おこた)りたくないから、行(い)かないって言(い)ってるんだと思(おも)うんです」
渚(なぎさ)「ずっと、休(やす)みなく続(つづ)けてきたパン屋(や)なので…」
それだけの理由(りゆう)じゃなく、意地(いじ)もあるんじゃないだろうか。
渚(なぎさ)の前(まえ)では、そんなものにはまったく興味(きょうみ)がない振(ふ)りをしているとか。
なんとなくそんな気(き)がする。
渚(なぎさ)「でも、わたしはどうしても、行(い)ってきてほしいんです」
朋也(ともや)「ああ、わかるよ」
渚(なぎさ)「ですので…朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「代(か)わりに、焼(や)いてくれませんか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「おまえが?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんですっ」
渚(なぎさ)「今(いま)、ちゃんと朋也(ともや)くんって言(い)いました」
朋也(ともや)「オッサンの代(か)わりなんて無理(むり)だって」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ウチで働(はたら)いていました」
朋也(ともや)「パンは焼(や)いたことねぇっての」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんも手伝(てつだ)ってくれます」
朋也(ともや)(ふっ…)
朋也(ともや)(それは心強(こころづよ)いのだろうか…)
思(おも)わず遠(とお)い目(め)をしてしまう。
朋也(ともや)「それに、俺(おれ)だって仕事(しごと)がある」
渚(なぎさ)「次(つぎ)の土日(どにち)です。土曜(どよう)は、仕事(しごと)ないから暇(ひま)だって朋也(ともや)くん言(い)ってました」
朋也(ともや)「まぁな…」
渚(なぎさ)「わたしは学校(がっこう)なので、早朝(そうちょう)と午後(ごご)からしか手伝(てつだ)えないです」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)はわたしが焼(や)けたらいいんですけど…力仕事(ちからしごと)なので、たくさんは無理(むり)なんです」
渚(なぎさ)「ですので、朋也(ともや)くんにお願(ねが)いしたいんです」
渚(なぎさ)「ダメでしょうか…」
ダメじゃなくて無理
朋也(ともや)「ダメじゃなくて、無理(むり)だっての」
朋也(ともや)「それにオッサンだって、俺(おれ)なんかに任(まか)せてくれないよ」
渚(なぎさ)「わたしからもお願(ねが)いしますので」
朋也(ともや)「お願(ねが)いしても無駄(むだ)に決(き)まってるよ」
朋也(ともや)「あの人(ひと)、あれで結構(けっこう)職人気質(しょくにんきしつ)だからな」
それに今回(こんかい)の件(けん)だけは、意地(いじ)を張(は)り通(とお)すに違(ちが)いなかった。
渚(なぎさ)「そうかもしれないですけど…」
朋也(ともや)「それに、劇団(げきだん)のほうも、今回(こんかい)っきりってわけじゃないだろ?
旗揚(はたあ)げってぐらいだから、これからなんだよ」
朋也(ともや)「この先(さき)に、近(ちか)くにも来(く)るよ」
渚(なぎさ)「そうですね。そうかもしれないです」
きっと渚(なぎさ)が割(わ)って入(はい)ってくるほど、オッサンも相手(あいて)と自然(しぜん)な関係(かんけい)を保(たも)ちづらくなるだろう。
ここは、渚(なぎさ)を引(ひ)かせるほうがいいと思(おも)った。
朋也(ともや)「オッサンだって、返事(へんじ)ぐらいは書(か)くだろうし、そこまで俺(おれ)たちが心配(しんぱい)しなくてもいいって」
渚(なぎさ)「はい…」
小(ちい)さく頷(うなず)き、それっきりその話題(わだい)は持(も)ち出(だ)してこなかった。
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另:以下是光玉不足非要进入二周目时渚生气的那段(上面的选项选另一个),偷懒就不注音了,不在我的注音路线当中。


が…結局、渚の説得も実らず、オッサンは首を縦に振ることはなかった。
帰り道、渚はずっと怒っていた。
渚「まだ朋也くんに任せられないって、朋也くんにすごく失礼なこといわれましたっ」
渚「お父さん、意固地ですっ」
朋也「いやまぁ、俺のことをかばってくれるのはありがたいけどさ…そう興奮するなよ…」
渚「もう少しで説得できそうだっだんですっ、惜しいかったんですっ」
渚「なんだかすごく悔しいですっ」
渚「ぷん、ぷんっ」
渚がこんなに怒るなんで、珍しいこともあるもんだ。
朋也「怒ってるおまえって面白いな」
渚「え?なにがおもしろいですか」
渚「顔」
渚「え?そんなにへんでしたか…」
朋也「あと、今時、ぷんぷんって口に出して怒る奴がいるんだなぁーと」
渚「恥ずかしいですっ」
いや、またその顔になってるし…。
渚の知らない一面が見られたようで、得した気がした一日だった。
WhiteClover - 2009/7/19 12:54:00
が…結局(けっきょく)、渚(なぎさ)の説得(せっとく)も実(みの)らず、オッサンは首(くび)を縦(たて)に振(ふ)ることはなかった。
帰(かえ)り道(みち)、渚(なぎさ)はずっと怒(おこ)っていた。
渚「まだ朋也(ともや)くんに任(まか)せられないって、朋也(ともや)くんにすごく失礼(してれい)なこといわれましたっ」
渚「お父(とう)さん、意固地(いこじ)ですっ」
朋也「いやまぁ、俺(ぼく)のことをかばってくれるのはありがたいけどさ…そう興奮(こうふん)するなよ…」
渚「もう少(すこ)しで説得(せっとく)できそうだっだんですっ、惜(お)しいかったんですっ」
渚「なんだかすごく悔(くや)しいですっ」
渚「ぷん、ぷんっ」
渚がこんなに怒(おこ)るなんで、珍(めずら)しいこともあるもんだ。
朋也「怒(おこ)ってるおまえって面白(おもしろ)いな」
渚「え?なにがおもしろいですか」
渚「顔(かお)」
渚「え?そんなにへんでしたか…」
朋也「あと、今時(いまどき)、ぷんぷんって口(くち)に出(だ)して怒(おこ)る奴(やつ)がいるんだなぁーと」
渚「恥(は)ずかしいですっ」
いや、またその顔(かお)になってるし…。
渚の知(し)らない一面(いちめん)が見(み)られたようで、得(とく)した気(き)がした一日(いちにち)だった。

帮楼主注了吧
seagull - 2009/7/19 14:27:00
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早苗,0,]


6月(がつ)の初(はじ)め、仕事(しごと)の現場(げんば)が古河(ふるかわ)の実家近(じっかちか)くになった。
俺(おれ)は休憩時間(きゅうけいじかん)の合間(あいま)を見(み)て、早苗(さなえ)さんに会(あ)いに、古河家(ふるかわけ)を訪(おとず)れていた。
早苗(さなえ)
オッサンが店先(みせさき)で誰(だれ)かと話(はな)していた。
相手(あいて)はスーツ姿(すがた)の若(わか)い男(おとこ)だ。俺(おれ)と同(おな)い年(どし)ぐらいの。
しばらく待(ま)ってみる。
やがて男(おとこ)はオッサンに深々(ふかぶか)と礼(れい)をして、そして立(た)ち去(さ)っていった。
入(い)れ代(か)わりに、俺(おれ)は店先(みせさき)に顔(かお)を出(だ)した。
朋也(ともや)「ちっす」
秋生(あきお)「…んだ、てめぇか」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)かと思(おも)って、びっくりしたじゃねぇか」
朋也(ともや)「なんだ、またやましいことでもしてるのか」
秋生(あきお)「何(なに)もねぇよ」
秋生(あきお)「で、なんの用(よう)だよ、てめぇ」
秋生(あきお)「仕事着(しごとぎ)のままでよ」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)にこれといった用(よう)はないんだけど」
秋生(あきお)「ちっ…冷(ひ)やかしかよ」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは」
秋生(あきお)「町内会(ちょうないかい)の集(あつ)まりで出(で)てるよ」
朋也(ともや)「そりゃタイミングが悪(わる)い時(とき)に来(き)たもんだ」
秋生(あきお)「ちっ、なんだよ、早苗(さなえ)目的(もくてき)かよ…」
秋生(あきお)「早苗早苗(さなえさなえ)言(い)ってないで、たまには秋生(あきお)っちの顔(かお)を見(み)に来(き)たぐらい言(い)えねぇのか」
朋也(ともや)「…言(い)ってほしいか?」
秋生(あきお)「ああ、言(い)ってほしいね」
朋也(ともや)「じゃ、試(ため)してやろう」
俺(おれ)は踵(きびす)を返(かえ)して、店前(みせまえ)から離(はな)れる。
そして、その位置(いち)から登場(とうじょう)し直(なお)す。
朋也(ともや)「ちっす」
秋生(あきお)「…んだ、てめぇか」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)かと思(おも)って、びっくりしたじゃねぇか」
朋也(ともや)「勘違(かんちが)いするなよ、俺(おれ)だ。朋也(ともや)だよ」
秋生(あきお)「で、なんの用(よう)だよ、てめぇ」
朋也(ともや)「秋生(あきお)っち元気(げんき)かなって…」
朋也(ともや)「って、んなこと言(い)わせんなよっ」
秋生(あきお)「ちっ…こっちまで恥(は)ずいだろ」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは」
秋生(あきお)「町内会(ちょうないかい)の集(あつ)まりで出(で)てるよ」
朋也(ともや)「そりゃ最高(さいこう)のタイミングで来(き)たもんだ」
秋生(あきお)「てめぇ…仮(かり)にも俺(おれ)はあいつの夫(おっと)だぞ」
朋也(ともや)「んなもん関係(かんけい)ねぇよ…」
朋也(ともや)「今日(きょう)はたっぷり…あんたの元気(げんき)な姿(すがた)、拝(おが)ませてもらうぜ!」
秋生(あきお)「よっしゃぁ、いっちょ裸(はだか)で仕事(しごと)するかぁーーっ!」
秋生(あきお)「って、キモすぎて、客(きゃく)が逃(に)げるわあぁぁーーっ!」
朋也(ともや)「あんたが言(い)い出(だ)したんじゃないか」
秋生(あきお)「もういいっ、元(もと)に戻(もど)せっ」
朋也(ともや)「ああ…俺(おれ)も限界(げんかい)を感(かん)じてたよ…」
秋生(あきお)「で、あがって早苗(さなえ)でも待(ま)つのか?」
朋也(ともや)「いや、そんなに時間(じかん)ねぇし、すぐ行(い)くよ」
秋生(あきお)「そっか…ま、勝手(かって)にしろ」
オッサンが店(みせ)の中(なか)に戻(もど)っていく。
俺(おれ)もその後(あと)に続(つづ)いた。
秋生(あきお)「ふぅ…」
秋生(あきお)「喉渇(のどかわ)いた…てめぇ店番(みせばん)してろ」
朋也(ともや)「んなこと頼(たの)むな」
秋生(あきお)「一瞬(いっしゅん)だ」
朋也(ともや)「一瞬(いっしゅん)でも頼(たの)むなっての」
俺(おれ)の言(い)うことも無視(むし)して、家(いえ)の奥(おく)に入(はい)っていった。
その前(まえ)に、レジ台(だい)の上(うえ)に何(なに)かを置(お)いていった。
何気(なにげ)なく俺(おれ)はそれに目(め)を向(む)けた。
A4のコピー紙(し)をホッチキスで止(と)めた書類(しょるい)だった。
…田村塾(たむらじゅく)·開校案内(かいこうあんない)。
そうタイトルにあった。
朋也(ともや)「…塾(じゅく)?」
秋生(あきお)「何(なに)勝手(かって)に見(み)てんだよ、てめぇは」
茶(ちゃ)の入(はい)ったボトルを手(て)にオッサンが戻(もど)ってきていた。
朋也(ともや)「これ、塾(じゅく)の開校案内(かいこうあんない)ってどういうことだよ」
オッサンはレジ台(だい)の上(うえ)にグラスをふたつ並(なら)べ、黙(だま)ったままお茶(ちゃ)を注(そそ)ぐ。
朋也(ともや)「なぁ、オッサン」
秋生(あきお)「ほらっ」
そのひとつを俺(おれ)に突(つ)きだした。
朋也(ともや)「あ、ああ…サンキュ」
ふたり、並(なら)んで立(た)ったまま、お茶(ちゃ)をすする。
秋生(あきお)「ふぅ…早苗(さなえ)の入(い)れた茶(ちゃ)はうまい」
朋也(ともや)「同感(どうかん)」
秋生(あきお)「………」
朋也(ともや)「で、塾(じゅく)って何(なに)?」
秋生(あきお)「てめぇよ…」
秋生(あきお)「隠(かく)してる話(はなし)を聞(き)きたがるなんて、女々(めめ)しい奴(やつ)だよな…」
朋也(ともや)「違(ちが)うよ」
朋也(ともや)「この家(いえ)のことは、俺(おれ)にとっても、大事(だいじ)なことなんだよ」
朋也(ともや)「それだけだ」
秋生(あきお)「ちっ…うまいこと言(い)いやがる」
秋生(あきお)「…まだ誰(だれ)にも言(い)うんじゃねぇぞ」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「おまえも、この家(いえ)で暮(く)らしてる時(とき)は、何度(なんど)も遭遇(そうぐう)したろうが…」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)の奴(やつ)が学習塾(がくしゅうじゅく)を開(ひら)いてる」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「この辺(あた)りにはちゃんとした塾(じゅく)もなかったからな」
秋生(あきお)「でも、それができちまうんだよ」
朋也(ともや)「この近(ちか)くにか?」
秋生(あきお)「ああ、歩(ある)いていけるよ」
秋生(あきお)「さっき、挨拶(あいさつ)にきやがったんだよ。そこの先生(せんせい)がな。それ持(も)ってよ」
秋生(あきお)「ここで早苗(さなえ)が塾(じゅく)をやっているのを知(し)ってやがったんだ」
朋也(ともや)「なんて言(い)ってきたんだ」
秋生(あきお)「まず、早苗(さなえ)に講師(こうし)を依頼(いらい)してきた」
秋生(あきお)「それで、今(いま)教(おし)えてる生徒(せいと)も一緒(いっしょ)にどうかってよ」
秋生(あきお)「つまり、早苗(さなえ)と教(おし)えてる生徒(せいと)、両方(りょうほう)を自分(じぶん)の塾(じゅく)に引(ひ)き込(こ)もうってなわけだ」
朋也(ともや)「それ…なんか、許(ゆる)せないんだけど…」
秋生(あきお)「いや、違(ちが)う。おまえの考(かんが)えてるのとは違(ちが)うぞ、きっと」
朋也(ともや)「どうして」
秋生(あきお)「そいつはな…早苗(さなえ)の教(おし)え子(ご)なんだ」
朋也(ともや)「え…?」
秋生(あきお)「おまえには話(はな)しただろう。早苗(さなえ)は昔(むかし)、学校(がっこう)の教員(きょういん)だったって」
秋生(あきお)「その時(とき)の教(おし)え子(ご)のひとりだ」
秋生(あきお)「そいつは、卒業(そつぎょう)する時(とき)、早苗(さなえ)と約束(やくそく)したらしい」
秋生(あきお)「いつか、自分(じぶん)もこの町(まち)で子供(こども)たちに勉強(べんきょう)を教(おし)えたいって」
秋生(あきお)「町(まち)を出(で)て、大学(だいがく)で勉強(べんきょう)して、教員免許(きょういんめんきょ)をとって…」
秋生(あきお)「それでまたこの町(まち)に戻(もど)ってきた」
秋生(あきお)「立派(りっぱ)じゃねぇの」
秋生(あきお)「だから、そいつからしてみれば、早苗(さなえ)の前(まえ)で誓(ちか)った夢(ゆめ)を叶(かな)えることになるんだよ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)にも、単純(たんじゅん)にもっといい環境(かんきょう)で勉強(べんきょう)を教(おし)えさせてあげたいってな言(い)い方(かた)だった」
秋生(あきお)「この町(まち)のことも思(おも)ってるし、子供(こども)たちのことも大切(たいせつ)に考(かんが)えてやがる」
秋生(あきお)「まだ早苗(さなえ)とは会(あ)わせていねぇんだけどよ…」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)、その話(はなし)聞(き)いたら、なんて言(い)うだろうな…」
朋也(ともや)「行(い)くのかな…」
秋生(あきお)「行(い)くわけねぇよ。行(い)かれたら、店(みせ)が潰(つぶ)れらぁ」
秋生(あきお)「あいつが店(みせ)に居(い)るから、みんな足(あし)を運(はこ)んでくれるんだよ」
秋生(あきお)「てめぇも、それぐらいわかってんじゃなかったのか」
朋也(ともや)「ああ…そうだったな」
それだけではないと思(おも)ったけど、オッサンが早苗(さなえ)さんを必要(ひつよう)とする考(かんが)えに水(みず)を差(さ)したくなかった。
秋生(あきお)「それにあいつも、パンは好(す)きだ」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちふたりで、今日(きょう)まで頑張(がんば)ってきたことだからな」
秋生(あきお)「行(い)くわけねぇよ」
朋也(ともや)「じゃあ…」
秋生(あきお)「ああ」
秋生(あきお)「生徒(せいと)だけを…譲(ゆず)っちまうかもな」
俺(おれ)も、それはありえることだと思(おも)った。
朋也(ともや)「でも…早苗(さなえ)さんが続(つづ)けていきたいことなんだろ?」
秋生(あきお)「ああ。もちろん」
秋生(あきお)「でも、あいつもさ、ほら、我(わ)がまま言(い)う奴(め)じゃないからさ…」
そう。
いつだって俺(おれ)も同(おな)じことで悩(なや)んできたはずだ。
渚(なぎさ)がそうだったから。
だから、今(いま)のオッサンの葛藤(かっとう)もわかる。
秋生(あきお)「さぁて、どうすっかな」
最後(さいご)には、暗(くら)い空気(くうき)を吹(ふ)き飛(と)ばすように、笑顔(えがお)で言(い)った。
後日(ごじつ)、また俺(おれ)は休憩時間(きゅうけいじかん)に抜(ぬ)け出(だ)して、古河(ふるかわ)の家(いえ)に向(む)かっていた。
今日(きょう)こそ、早苗(さなえ)さんに会(あ)えればいいが。
小学生(しょうがくせい)が、一団(いちだん)となって正面(しょうめん)から歩(ある)いてくる。
すれ違(ちが)った後(あと)に、古河(ふるかわ)パンの前(まえ)に立(た)つ早苗(さなえ)さんの手(て)を振(ふ)る姿(すがた)を見(み)て俺(おれ)はようやく気(き)づく。
朋也(ともや)(早苗(さなえ)さんの、教(おし)え子(ご)か…)
よく見(み)れば、知(し)った顔(かお)があったのだろう。
早苗(さなえ)「あら、朋也(ともや)さん」
早苗(さなえ)「こんにちはっ」
朋也(ともや)「ちっす」
朋也(ともや)「今(いま)、終(お)わったところですか」
早苗(さなえ)「はい。朋也(ともや)さんのほうは、まだ仕事中(しごとちゅう)ですか?」
朋也(ともや)「ええ。近(ちか)くでやってるんで、休憩時間(きゅうけいじかん)に抜(ぬ)けてきちゃいました」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんと話(はな)せたら、疲(つか)れも吹(ふ)き飛(と)ぶなぁって思(おも)って」
早苗(さなえ)「こんなおばさんでよければ、いくらでもお相手(あいて)しますよ」
朋也(ともや)「とんでもない。ちょっと年上(としうえ)の女(おんな)の子(こ)と話(はな)す感覚(かんかく)っすよ」
早苗(さなえ)「女(おんな)の子(こ)ですか。それはうれしいです」
本当(ほんとう)に、早苗(さなえ)さんは変(か)わらない。
女学生(じょがくせい)がそのまま主婦(しゅふ)になってしまったような…いつまでもそんな人(ひと)だった。
朋也(ともや)「ちっ…あいつらいいよなぁ」
早苗(さなえ)「なんです?」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに勉強(べんきょう)教(おし)えてもらえて、ですよ」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも、教(おし)えてほしかったですか?」
朋也(ともや)「もちろん」
早苗(さなえ)「ありがとうございます。でも、さすがにそれだけ大(おお)きいと無理(むり)ですね」
早苗(さなえ)「わたしが教(おし)えられるのは高校受験(こうこうじゅけん)までの勉強(べんきょう)なので」
朋也(ともや)「それでもすごいじゃないすか」
早苗(さなえ)「すごくないですよ」
早苗(さなえ)「それに、朋也(ともや)さんは、もう勉強(べんきょう)する必要(ひつよう)もないですから」
朋也(ともや)「そりゃあ、受験勉強(じゅけんべんきょう)はね…」
早苗(さなえ)「受験勉強(じゅけんべんきょう)以外(いがい)に、教(おし)えられる勉強(べんきょう)なんてわたしにはないですよ?」
朋也(ともや)「………」
──おい、早苗(さなえ)。おまえが教(おし)えてやるか。
不意(ふい)にオッサンの言葉(ことば)が思(おも)い出(だ)された。
朋也(ともや)(あの冗談(じょうだん)は確(たし)か…渚(なぎさ)が俺(おれ)を不能(ふのう)呼(よ)ばわりしたときにでたもので…)
教(おし)えてもらえることがひとつあるとすれば、それだったり…
朋也(ともや)「ノオォォォォォーーッ!」
早苗(さなえ)「はい?」
すみません。俺(おれ)は最悪(さいあく)な男(おとこ)です。
心(こころ)の中(なか)で謝(あやま)っておく。
朋也(ともや)「はは…そうっすね。残念(ざんねん)っす」
早苗(さなえ)「それにそれも、もうすぐ終(お)わります」
………。
…え。
朋也(ともや)「今(いま)、なんて言(い)いました?」
早苗(さなえ)「終(お)わるって言(い)ったんですよ。ウチの学習塾(がくしゅうじゅく)」
早苗(さなえ)「近(ちか)くにもっとちゃんとした塾(じゅく)ができるんです」
早苗(さなえ)「今(いま)、教(おし)えてる子供(こども)たちは、そちらに移(うつ)ることになります」
朋也(ともや)「そ、そうなんですか…」
初耳(はつみみ)だとばかりに驚(おどろ)くべきだったのだろうけど…
俺(おれ)は、もう…
自分(じぶん)が身(み)を引(ひ)いてしまうことを決(き)めていた早苗(さなえ)さんが、不憫(ふびん)に思(おも)えて…それどころじゃなかった。
早苗(さなえ)「元気(げんき)ないですね?」
朋也(ともや)「それは、だって…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんがそんなふうに簡単(かんたん)に決(き)めてしまえるなんて…」
早苗(さなえ)「簡単(かんたん)なことではなかったですよ」
早苗(さなえ)「こう見(み)えても、悩(なや)みました」
笑顔(えがお)で言(い)われても…。
でも、それが早苗(さなえ)さんだった。
早苗(さなえ)「でも…そのほうがいいと思(おも)いました」
朋也(ともや)「それは…そいつとの約束(やくそく)、抜(ぬ)きにしてもですか」
早苗(さなえ)「…知(し)ってたんですね」
朋也(ともや)「すみません。オッサンから聞(き)きました」
朋也(ともや)「教(おし)えたら、いいじゃないですか」
朋也(ともや)「子供(こども)なんていくらでもいる。譲(ゆず)るなんてことはないですよっ」
早苗(さなえ)「でも、親御(おやご)さんたちが遠慮(えんりょ)してくれたんです」
朋也(ともや)「え…?」
早苗(さなえ)「わたしは、パン屋(や)さんです」
朋也(ともや)「ええ…そうですね…」
早苗(さなえ)「パン屋(や)の仕事(しごと)の合間(あいま)を縫(ぬ)って、塾(じゅく)を開校(かいこう)していたんです」
早苗(さなえ)「ですから親御(おやご)さんたちは、わたしを楽(らく)にする、という意味(いみ)も込(こ)めて、お子(ご)さんたちを新(あたら)しい塾(じゅく)に移(うつ)すことにしてくれたんです」
朋也(ともや)「でも、早苗(さなえ)さんは、好(す)きでやっていたんでしょ?
それはちゃんと言(い)ったんですか?」
早苗(さなえ)「はい、もちろんです」
朋也(ともや)「じゃ、なんでわかってくれないんだよ…」
早苗(さなえ)さんは…そういう押(お)しが弱(よわ)そうだった。
けど…そう、オッサンなら。
朋也(ともや)「オッサンが居(い)るじゃないか。オッサンなら、真剣(しんけん)に言(い)い聞(き)かせてくれる」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん」
いきなり名前(なまえ)を呼(よ)ばれた。
朋也(ともや)「は、はい…」
早苗(さなえ)「聞(き)いてください、朋也(ともや)さん」
渚(なぎさ)に似(に)ていた。
朋也(ともや)「はい…聞(き)きます」
そう言(い)われると、俺(おれ)は無抵抗(むていこう)になってしまう。
早苗(さなえ)「わたしなんかでも、役(やく)に立(た)てていました」
真(ま)っ直(す)ぐ俺(おれ)を見(み)て言(い)った。
早苗(さなえ)「でも、わたしなんかを必要(ひつよう)としない状況(じょうきょう)になったなら…」
早苗(さなえ)「それが一番(いちばん)だなって…そう思(おも)います」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に、早苗(さなえ)さんは…それでいいんですか」
早苗(さなえ)「はい。もう、十分(じゅうぶん)です」
これまで我(わ)がままを聞(き)いてもらっていたのは、自分(じぶん)のほうだとばかりに言(い)った。
朋也(ともや)「………」
そろそろ、戻(もど)らなければいけない時間(じかん)だった。
こんな短(みじか)い時間(じかん)じゃ、話(はなし)にならない。
でも、長(なが)い時間(じかん)があったとしても…
もう、すでに心(こころ)を決(き)めていた早苗(さなえ)さんを説得(せっとく)するなんて、できそうもなかった。
そんな自信(じしん)さえ、俺(おれ)にはない。
無力(むりょく)を痛感(つうかん)する。
早苗(さなえ)さんと知(し)り合(あ)ってから、長(なが)い間(あいだ)、そばにいて、近(ちか)くで見(み)てきたはずなのに…。
ただ俺(おれ)は浮(う)かれていただけなのかもしれなかった。
朋也(ともや)「あのな、渚(なぎさ)。話(はなし)がある」
その日(ひ)の晩(ばん)、俺(おれ)は夕食(ゆうしょく)の席(せき)で、話(はなし)を切(き)りだした。
渚(なぎさ)「はい、なんですか」
箸(はし)を置(お)いて聞(き)く体勢(たいせい)をとる。
朋也(ともや)「いや、箸(はし)は置(お)かなくてもいいから。食(た)べながらで」
渚(なぎさ)「はい」
再(ふたた)び箸(はし)を持(も)って、煮染(にぞ)めたれんこんを口(くち)に運(はこ)ぶ。
朋也(ともや)「昼間(ひるま)な、おまえの実家(じっか)に行(い)ってきた」
渚(なぎさ)「何(なに)か、用(よう)があったんですか?」
朋也(ともや)「いや、近(ちか)くで仕事(しごと)してたから、休憩(きゅうけい)で抜(ぬ)け出(だ)しただけ」
渚(なぎさ)「そうですか」
朋也(ともや)「それで、早苗(さなえ)さんと話(はなし)をしてきた」
渚(なぎさ)「はい。どんな話(ばなし)か、聞(き)かせてもらえるとうれしいです」
朋也(ともや)「ああ、それを聞(き)いてほしいんだよ」
俺(おれ)は新(あたら)しく開校(かいこう)される塾(じゅく)のことと、早苗(さなえ)さんの決(き)めたことを話(はな)した。
渚(なぎさ)「知(し)らなかったです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ずるいです。ひとりでわたしの家族(かぞく)の問題(もんだい)抱(かか)えて…」
渚(なぎさ)「すぐに相談(そうだん)してほしいです」
朋也(ともや)「ああ、悪(わる)い…」
渚(なぎさ)「あ…いえ、そんなに責(せ)めてるわけではないです」
渚(なぎさ)「わたしも、一緒(いっしょ)に考(かんが)えたいです」
朋也(ともや)「そうだな…このまま、生徒(せいと)を譲(ゆず)っちまうなんてことになったら、早苗(さなえ)さん可哀想(かわいそう)だもんな」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、お母(かあ)さんのこと好(す)きです」
朋也(ともや)「ああ、好(す)きだよ。当然(とうぜん)じゃん。おまえの母親(ははおや)なんだし」
朋也(ともや)「つっか、まさか、おまえ妬(や)いてんじゃないだろうな」
渚(なぎさ)「あ…いえ、決(けっ)してそんなことはないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばりましょう」
朋也(ともや)「いや、何(なに)を頑張(がんば)ればいいんだか…」
渚(なぎさ)「そうです。考(かんが)えないといけないです」
しばらくふたり、唸(うな)りながら、ご飯(はん)を食(た)べる。
渚(なぎさ)「こういうのはどうでしょう」
朋也(ともや)「お、思(おも)いついたか」
渚(なぎさ)「はい。お母(かあ)さんが教(おし)えている子供(こども)たちとお話(はなし)をするんです」
渚(なぎさ)「みんな、お母(かあ)さんの塾(じゅく)を辞(や)めたくないはずですから、きっと味方(みかた)になってくれます」
朋也(ともや)「それで、親(おや)たちの家(いえ)を回(まわ)って、説(と)き伏(ふ)せると」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)「確(たし)かにな…。単純(たんじゅん)だけど、一番(いちばん)効果(こうか)がありそうだ」
渚(なぎさ)「そうしましょう。朋也(ともや)くん、時間(じかん)作(つく)れますか」
朋也(ともや)「そうだな…近(ちか)いうちに休(やす)みを入(い)れるよ」
次(つぎ)の休(やす)みの日(ひ)。
俺(おれ)たちは午後(ごご)から動(うご)き始(はじ)めた。
土曜(どよう)だったから、ガキどもも、家(いえ)に帰(かえ)ってきているはずだ。
渚(なぎさ)「名簿(めいぼ)をお父(とう)さんに言(い)って、拝借(はいしゃく)してきました」
渚(なぎさ)「これで、一軒一軒(いっけんいっけん)回(まわ)れます」
朋也(ともや)「でもさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちが、ガキ連中(れんちゅう)の親(おや)といちいち顔(がお)を合(あ)わせていたんじゃ、俺(おれ)たちが後(うし)ろで糸引(いとひ)いてるって丸(まる)わかりじゃん」
渚(なぎさ)「あ、そうです。それは盲点(もうてん)でした」
朋也(ともや)「ひとり捕(つか)まえてさ、集(あつ)めてもらおうぜ」
渚(なぎさ)「あ、朋也(ともや)くん、頭(あたま)いいです」
渚(なぎさ)が公衆電話(こうしゅうでんわ)から、生徒(せいと)のひとりと連絡(れんらく)を取(と)る。
その渚(なぎさ)が出(で)てきた。
朋也(ともや)「どうだった」
渚(なぎさ)「はい。今(いま)からみんなに電話(でんわ)して、集(あつ)めていただけることになりました」
そして、30分(ぷん)後(あと)。
俺(おれ)たちの周(まわ)りはとても賑(にぎ)やかになっていた。
ガキども「何(なん)ですか、ボクたち忙(いそが)しいんですけど」
ガキども「この人(ひと)たち、付(つ)き合(あ)ってんのかなぁ」
…こ、こいつら。
ガキども「おねぇちゃんは、こいつと付(つ)き合(あ)ってるんですか?」
…おまえ、日本語(にほんご)おかしいぞ。
渚(なぎさ)「あ…いえ…付(つ)き合(あ)ってると言(い)いますか…」
ガキども「付(つ)き合(あ)ってないんですか?」
渚(なぎさ)「いえ…付(つ)き合(あ)ってます…」
ガキども「ねぇちゃん、やるぅ!
ヒューヒューっ!」
ガキどもが一気(いっき)に盛(も)り上(あ)がる。
朋也(ともや)「てめぇら、静(しず)かにしろっ」
ガキども「なにこいつ?
彼女(かのじょ)できたからって、自信(じしん)持(も)っちゃってるよ」
ガキども「哀(あわ)れみで、付(つ)き合(あ)ってくれてんだよ?
気(き)づいてないの?」
朋也(ともや)「てめぇら、もう一回(いっかい)言(い)ってみろ…二度(にど)と口利(くちき)けないようにしてやるぞ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、子供相手(こどもあいて)に本気(ほんき)で怒(おこ)ったらダメですっ」
朋也(ともや)「こいつら、子供(こども)と認(みと)めていいのかっ」
ガキども「法的(ほうてき)には疑(うたが)いようもなく、子供(こども)と認(みと)められますが?」
朋也(ともや)「いくつだよ、てめぇっ」
ガキども「なっちゃんが、ぴーーーんちっ!」
どすっ!
朋也(ともや)「こらぁ、今(いま)、なっちゃんに話(はな)してかけてねぇよっ!
勝手(かって)にピンチに仕立(した)て上(あ)げるなっ!」
朋也(ともや)「つーか、一年前(いちねんまえ)と同(おな)じ手(て)をまだ使(つか)ってるのか、おまえはっ」
朋也(ともや)「とっとと、落(お)としちまえっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、落(お)ち着(つ)いてください」
ガキども「そうそう、おねぇちゃんの言(い)う通(とお)りです」
おまえ、さっき、ヒューヒュー言(い)ってなかったか。
渚(なぎさ)「ええとですね、みなさんに今日(きょう)、わざわざお集(あつ)まりいただいたのは…」
ガキどもが静(しず)まったのを見計(みはか)らって、渚(なぎさ)が話(はなし)を始(はじ)める。
渚(なぎさ)「わたしのお母(かあ)さんのことなんです」
渚(なぎさ)「みなさんも、お母(かあ)さんから聞(き)いていると思(おも)いますけど、みなさんは新(あたら)しい塾(じゅく)に移(うつ)ることになっています」
渚(なぎさ)「そうですよね?」
ガキども「はい、そうです」
渚(なぎさ)、おまえもこいつらの先生(せんせい)になれる。
渚(なぎさ)「それは、みなさんのお母(かあ)さんが、わたしのお母(かあ)さんにこれ以上(いじょう)迷惑(めいわく)かけないようにと考(かんが)えてくれた結果(けっか)なんです」
渚(なぎさ)「でも、わたしのお母(かあ)さんは、引(ひ)き続(つづ)き、みなさんに勉強(べんきょう)を教(おし)えたいんです」
渚(なぎさ)「みなさんも、お母(かあ)さんに勉強(べんきょう)教(おし)えてほしいですよね?」
ガキども「それは、そうなんですけど…」
渚(なぎさ)「どうしましたか。何(なに)か、問題(もんだい)ありますか」
ガキども「その…早苗(さなえ)さん、ここのところ、疲(つか)れてたみたいだったし…」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)がその一言(いちげん)に言葉(ことば)を失(うしな)ってしまう。
ガキども「睡眠不足(すいみんぶそく)みたいだったよね…」
ガキども「うん…」
気(き)を使(つか)ったのは、親(おや)たちだけじゃなくて、こいつらもだったのか…。
しかし、こんなガキまでも心配(しんぱい)させてしまう早苗(さなえ)さんの疲(つか)れようなんて、想像(そうぞう)もできなかった。
俺(おれ)は渚(なぎさ)の顔(かお)を見(み)た。
渚(なぎさ)「わたし、気(き)づかなかったです…」
朋也(ともや)「なにが」
渚(なぎさ)「考(かんが)えればわかったことです。浅(あさ)はかでした」
朋也(ともや)「だから、なにがだよ…」
渚(なぎさ)「わたしが居(い)なくなって、いろんな負担(ふたん)がお母(かあ)さんにかかってしまっていたんです」
渚(なぎさ)「パン屋(や)に、家事(かじ)に、塾(じゅく)…」
それに、町内会(ちょうないかい)の仕事(しごと)だって、引(ひ)き受(う)けてしまってるんじゃないのか…。
オッサンからその用(よう)で外出(がいしゅつ)していることを聞(き)かされたことがあった。
そう、渚(なぎさ)の言(い)うとおり。考(かんが)えればわかったことだった。
俺(おれ)も、そこまで頭(あたま)が回(まわ)っていなかった。
そもそも、ひとりの主婦(しゅふ)に兼任(けんにん)できる仕事(しごと)の量(りょう)ではなくなってしまっていたのだ。
なら、俺(おれ)にも責任(せきにん)がある。
渚(なぎさ)を連(つ)れ去(さ)ってしまった。
でも、そんなことは早苗(さなえ)さんは、一言(いちげん)として言(い)ってくれない。
俺(おれ)たちにどんな負(お)い目(め)も感(かん)じさせないようにしていたのだ。
それを俺(おれ)たちが勝手(かって)に問題(もんだい)を掘(ほ)り返(かえ)して…それで知(し)られたくないようなことも知(し)ってしまって…。
こんなこと、絶対(ぜったい)に俺(おれ)や渚(なぎさ)に知(し)られたくなかったはずだ。
思(おも)い出(だ)してみればいい。学生時代(がくせいじだい)、渚(なぎさ)に弁当(べんとう)も作(つく)ってやれないぐらい忙(いそが)しかったはずだ。
俺(おれ)が古河(ふるかわ)パンで働(はたら)くようになったときも、その時間(じかん)ができるからと喜(よろこ)んでいたはずだ…。
早苗(さなえ)さんの性格(せいかく)からすれば、もっと遠(とお)い昔(むかし)に犠牲(ぎせい)にしてもいい夢(ゆめ)だった。
どこかで引(ひ)け目(め)を感(かん)じながら、ずっと続(つづ)けてきたことなのかもしれない。
そして、今回(こんかい)の件(けん)。
引(ひ)き際(きわ)だと思(おも)ったのだろう。
ガキども「そりゃあ…ボクたちだって、早苗先生(さなえせんせい)に教(おし)えてほしいです」
ガキども「たっちゃん、それは言(い)いっこなしのはずだよ」
…だから、おまえらいくつだ。
俺(おれ)たちはガキどもと別(わか)れて、再(ふたた)び古河(ふるかわ)パンの店先(みせさき)にまで戻(もど)ってきていた。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、ありがとうございました」
秋生(あきお)「おぅ」
渚(なぎさ)から名簿(めいぼ)を受(う)け取(と)るオッサン。
秋生(あきお)「てめぇらも人(ひと)のためによくここまで、できるな」
渚(なぎさ)「でも、本当(ほんとう)に、なんとかしたいんです」
秋生(あきお)「わかってるよ。ありがたいこった」
秋生(あきお)「で、どうにかなりそうなのか」
渚(なぎさ)「いえ、それが…困(こま)ってしまいました」
秋生(あきお)「あん?」
朋也(ともや)「なぁ、オッサン」
朋也(ともや)「あんたがもっとカバーしてやれば早苗(さなえ)さん、塾(じゅく)を続(つづ)けられるんじゃないのか?」
俺(おれ)は言(い)いたいことを言(い)っていた。
秋生(あきお)「なんだ、てめぇは俺(おれ)がなにもせずに指(ゆび)をくわえて見(み)てたとでも思(おも)ってんのか」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんに限(かぎ)って、そんなことは絶対(ぜったい)にないです」
秋生(あきお)「いや、指(ゆび)をくわえて見(み)てた」
朋也(ともや)「あんたって人(ひと)はあぁぁーーっ!」
思(おも)わずその首根(くびね)っこを掴(つか)んで怒鳴(どな)りつけてしまう。
秋生(あきお)「こら、落(お)ち着(つ)けっ」
秋生(あきお)「別(べつ)にあいつが塾(じゅく)に専念(せんねん)してもらっても、俺(おれ)は一向(いっこう)に構(かま)わねぇがよ…」
秋生(あきお)「けどな…パンをふたりで焼(や)く…」
秋生(あきお)「それは俺(おれ)たちを家族(かぞく)として繋(つな)ぎ止(と)めてくれた、一番大切(いちばんたいせつ)な作業(さぎょう)だったんだ」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)は…わかるだろ?」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「それをお母(かあ)さんがやめるわけないです」
秋生(あきお)「ああ…言(い)ったって無駄(むだ)なんだよ」
秋生(あきお)「それ以外(いがい)のことは、すでにふたりでやってるしな…」
秋生(あきお)「なかなか難(むずか)しい話(ばなし)だってことだ」
朋也(ともや)「オッサンはそれでいいのかよ…」
秋生(あきお)「あん?」
朋也(ともや)「大好(だいす)きな人(ひと)が…やりたいことできなくなっても」
秋生(あきお)「そんなの嫌(いや)に決(き)まってらぁ」
秋生(あきお)「だがな、早苗(さなえ)のあの性格(せいかく)だと…」
秋生(あきお)「強引(ごういん)な手段(しゅだん)をとってもいい結果(けっか)にはならねぇだろ」
秋生(あきお)「ま、てめぇにはわからないだろうけどな」
確(たし)かに…オッサンが一番(いちばん)早苗(さなえ)さんのことはわかっているはずだった。
あれから一週間(いっしゅうかん)が過(す)ぎた。
明日(あした)は古河塾(ふるかわじゅく)の、最後(さいご)の授業(じゅぎょう)が行(おこな)われる日(ひ)。
今更(いまさら)、もう何(なに)もできない。
それはわかっていた。
けど…
芳野(よしの)「おい、どこへ行(い)くんだよっ、飯(めし)はっ」
朋也(ともや)「いらないっすっ」
休憩(きゅうけい)になると、俺(おれ)は古河(ふるかわ)パンへと足(あし)を向(む)けていた。
………。
オッサンの姿(すがた)は相変(あいか)わらずなく、早苗(さなえ)さんだけが、ひとりで店番(みせばん)をしていた。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「こんにちは」
朋也(ともや)「オッサンは?」
早苗(さなえ)「バットを持(も)って、出(で)ていきましたよ」
朋也(ともや)「こんな時(とき)なのに、のんきな人(ひと)だな…ったく」
早苗(さなえ)「こんな時(とき)?
どんな時(とき)ですか?」
朋也(ともや)「え?
いや…」
そう訊(き)かれた俺(おれ)は、思(おも)わず言葉(ことば)を濁(にご)してしまう。
早苗(さなえ)さんは、とぼけているのだろうか?
あるいは、俺(おれ)がこんなに心配(しんぱい)していることを知(し)らないだけか…。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、このところよくきてくれますね」
朋也(ともや)「え、ええ…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)には、内緒(ないしょ)ですか?」
朋也(ともや)「まぁ…仕事(しごと)さぼってるみたいに思(おも)われるし…」
早苗(さなえ)「そこまでして会(あ)いにきてくれるなんて…」
早苗(さなえ)「もしかして、わたし、朋也(ともや)さんに好(す)いてもらっていますか」
どきっ…
胸(むね)が高鳴(たかな)る。
なんて答(こた)えよう…。
好き
朋也(ともや)「ええ…好(す)きです」
本当(ほんとう)に…それは思(おも)う。
渚(なぎさ)には、誤解(ごかい)されそうで悪(わる)いけど…。
でも、素直(すなお)な感情(かんじょう)だ。
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんのことが好(す)きだ。
早苗(さなえ)「ありがとうございます」
早苗(さなえ)「わたしも、朋也(ともや)さんのこと、好(す)きですよ」
朋也(ともや)「はは…ありがとうございます」
両思(りょうおも)いだ…なんて思(おも)いながら俺(おれ)も礼(れい)を言(い)った。
告白(こくはく)しあった、ふたり。
本当(ほんとう)に、早苗(さなえ)さんは女学生(じょがくせい)のようで…
学生時代(がくせいじだい)の頃(ころ)に帰(かえ)ったかのような…懐(なつ)かしい感覚(かんかく)。
気恥(きは)ずかしい感覚(かんかく)。
早苗(さなえ)さんが、俺(おれ)の目(め)の前(まえ)まで寄(よ)ってきた。
笑顔(えがお)を見(み)せた後(あと)…
俺(おれ)の背中(せなか)に腕(うで)を回(まわ)し、抱(だ)きしめてくれた。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
朋也(ともや)「服(ふく)、汚(よご)れますよ…」
早苗(さなえ)「エプロンしてますから、大丈夫(だいじょうぶ)です」
朋也(ともや)「………」
早苗(さなえ)さんの体温(たいおん)…温(あたた)かかった。
その首筋(くびすじ)に鼻(はな)を当(あ)てる。
すごくいい匂(にお)いがした。
ああ…絶対(ぜったい)に、渚(なぎさ)に誤解(ごかい)される…。
いや、誤解(ごかい)じゃないのか、これは…。
いけないことをしている…。
離(はな)れないとまずいよな…。
でも、さらに早苗(さなえ)さんは強(つよ)く俺(おれ)を抱(だ)きしめた。
そして、片手(かたて)で俺(おれ)の頭(あたま)を撫(な)でた。
まるで…子供(こども)をあやすように。
早苗(さなえ)「勉強(べんきょう)は教(おし)えられないですけど、これぐらいならしてあげられます」
早苗(さなえ)「それにしても、大(おお)きな子供(こども)ですね」
俺(おれ)は、自分(じぶん)が恥(は)ずかしい…。
早苗(さなえ)「訊(き)いていいですか?
お母(かあ)さんのこと」
朋也(ともや)「はい…」
早苗(さなえ)「お母(かあ)さんは、どんな人(ひと)でしたか」
朋也(ともや)「ぜんぜん覚(おぼ)えてないんです」
朋也(ともや)「物心(ものごころ)ついたときには、もういなかったですから…」
早苗(さなえ)「少(すこ)しでも、同(おな)じようにできたら、と思(おも)ったんですが…」
朋也(ともや)「ああ、ひとつ思(おも)い出(だ)しました」
早苗(さなえ)「なんですか?」
朋也(ともや)「よくキスしてくれました」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)ですかっ?」
俺(おれ)が悪戯(いたずら)っぽく言(い)ったからだろう、冗談(じょうだん)と受(う)け取(と)って、早苗(さなえ)さんは笑(わら)った。
朋也(ともや)「本当(ほんとう)ですって」
俺(おれ)は聞(き)き分(わ)けのない子供(こども)に戻(もど)っていた。
早苗(さなえ)「仕方(しかた)のない子(こ)ですね」
頭(あたま)から手(て)を離(はな)すと、顔(かお)と顔(かお)を突(つ)き合(あ)わせた。
早苗(さなえ)「どこにですか?」
俺(おれ)の鼻先(はなさき)に息(いき)を吹(ふ)きかけながら訊(き)いた。
朋也(ともや)「口(くち)がいい」
俺(おれ)はクソガキだ。
あいつらと一緒(いっしょ)だ。
でも、こうしていたい。
早苗(さなえ)さんの前(まえ)では、きっと…
飾(かざ)るほどに損(そん)をするんだと…そう思(おも)う。
早苗(さなえ)「口(くち)にするには、朋也(ともや)さんは大(おお)きすぎますね」
早苗(さなえ)「ですので…」
…ちょん。
鼻先(はなさき)に温(あたた)かく湿(しめ)った感触(かんしょく)。
早苗(さなえ)さんは背伸(せの)びをして、俺(おれ)の鼻(はな)にキスをしていた。
どれだけの間(あいだ)、抱(だ)いてもらっていただろう。
ものすごく長(なが)い時間(じかん)だったと思(おも)う。
離(はな)れた後(あと)も、合(あ)わさっていた部分(ぶぶん)から早苗(さなえ)さんの匂(にお)いが漂(ただよ)っている気(き)がした。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんには、内緒(ないしょ)ですよ?」
朋也(ともや)「はは、当然(とうぜん)っす…殺(ころ)されるっすよ」
心配(しんぱい)してきたのに…
俺(おれ)のほうが、慰(なぐさ)められてしまった。
でも、それが歳(とし)の差(さ)なんだろうか。
親(おや)の包容力(ほうようりょく)なんだろうか。
…俺(おれ)の知(し)らない。
俺(おれ)は店(みせ)を後(あと)にした。
声(こえ)「あの、朋也(ともや)さんっ」
背後(はいご)で声(こえ)。
振(ふ)り返(かえ)ると、早苗(さなえ)さんが店(みせ)の外(そと)まで出(で)てきていた。
朋也(ともや)「はい?」
早苗(さなえ)「お仕事(しごと)、頑張(がんば)ってくださいね」
朋也(ともや)「はい」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんも…」
朋也(ともや)「諦(あきら)めずに、頑張(がんば)ってください」
それしか言(い)えなかった。
言(い)いたいこと、たくさんあるのに…
胸(むね)の内(うち)に渦巻(うずまき)いているのに…
それだけしか言(い)えなかった。
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「今(いま)の言葉(ことば)、覚(おぼ)えていてくれるだけでいいです」
朋也(ともや)「俺(おれ)も、そう思(おも)ってるってこと…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)やオッサンと同(おな)じように、です」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)「はいっ」
早苗(さなえ)さんの笑顔(えがお)。
俺(おれ)も負(ま)けないぐらいの笑顔(えがお)を残(のこ)して、その場(ば)を去(さ)る。
その先(さき)に…
芳野(よしの)「よぅ」
芳野(よしの)さんがいた。
芳野(よしの)「最近(さいきん)よくいなくなると思(おも)っていた、そういうことか…」
芳野(よしの)「時間(じかん)もまだ大丈夫(だいじょうぶ)そうだな。紹介(しょうかい)してもらおうか」
朋也(ともや)「はい?」
芳野(よしの)「何(なに)とぼけてるんだ」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)なんだろ」
朋也(ともや)「誰(だれ)がですか?」
芳野(よしの)「おまえ、会(あ)ってたじゃないか」
朋也(ともや)(ぐあ…)
全身(ぜんしん)から冷(ひ)や汗(あせ)がどっと溢(あふ)れ出(で)る。
朋也(ともや)(まさか…店(みせ)の中(なか)で抱(だ)き合(あ)ってるところまで見(み)られてた…!?)
芳野(よしの)「おまえはまだ見習(みなら)いだ」
芳野(よしの)「仕事(しごと)を教(おし)えている俺(おれ)は、いわばおまえの命(いのち)も預(あず)かっていることになる」
芳野(よしの)「おまえの彼女(かのじょ)だって、そんな奴(やつ)の顔(かお)を見(み)ておきたいんじゃないのか」
芳野(よしの)「俺(おれ)も、直(じか)にあって、信用(しんよう)してもらいたい」
芳野(よしの)「自分(じぶん)の大事(だいじ)な人(ひと)を、安心(あんしん)して預(あず)けてもらいたい」
芳野(よしの)「だから、紹介(しょうかい)しろと言(い)っているんだ」
朋也(ともや)「い、いや…」
背後(はいご)に人(ひと)の気配(けはい)。
早苗(さなえ)「こんにちは。はじめまして」
朋也(ともや)(ぐはーっ!)
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんの、同僚(どうりょう)の方(かた)でいらっしゃいますか?」
芳野(よしの)「どうも。初(はじ)めまして。芳野(よしの)と言(い)います」
これを修羅場(しゅらじょう)、というのだろうか…。
芳野(よしの)「こいつの面倒見(めんどうみ)させてもらっています」
早苗(さなえ)「古河早苗(ふるかわさなえ)です。ここで働(はたら)いています」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんのこと、今後(こんご)ともよろしくお願(ねが)いしますね」
芳野(よしの)「はい、任(まか)せておいて下(くだ)さい」
『この人(ひと)は彼女(かのじょ)の母親(ははおや)です』と説明(せつめい)して、誤解(ごかい)を解(と)けばいいのだろうけど…
もし、店(みせ)の中(なか)の出来事(できごと)を見(み)られていたとしたら…
朋也(ともや)(間違(まちが)いなく、いけない関係(かんけい)だと思(おも)われる…)
俺(おれ)は、嫌(いや)な汗(あせ)をかきながら、黙(だま)って立(た)ちつくしている他(ほか)なかった。
朋也(ともや)(早(はや)く終(お)わってくれ…)
朋也(ともや)(そもそも、芳野(よしの)さんは、無口(むくち)なほうだし…すぐ終(お)わるはず…)
芳野(よしの)「古河(ふるかわ)さん…」
朋也(ともや)(あの芳野(よしの)さんが、自(みずか)ら話(はなし)を切(き)り出(だ)そうとしてる!?)
早苗(さなえ)「はい、なんでしょう」
芳野(よしの)「こいつみたいな男(おとこ)には、あなたのような人(ひと)が必要(ひつよう)なんです」
考(かんが)え得(う)る最悪(さいあく)の話題(わだい)に突入(とつにゅう)しようとしている…。
芳野(よしの)「俺(おれ)たちのような人間(にんげん)は、ひとりで生(い)きてしまうと、ロクなことにならない」
芳野(よしの)「役(やく)に立(た)たないことばかりして、生(い)きてしまう…」
芳野(よしの)「けど、あなたがいれば、こいつは、懸命(けんめい)に汗水(あせみず)流(なが)して、金(かね)を稼(かせ)いでいける」
芳野(よしの)「それが自分(じぶん)のためであっても…」
芳野(よしの)「誰(だれ)かの、ためになっているんです」
早苗(さなえ)「それは…とても素敵(すてき)なことですね」
芳野(よしの)「そうです。素晴(すば)らしいことです」
芳野(よしの)「だから、どうか、こいつを…」
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)を…」
芳野(よしの)「いつまでも、あなたを幸(しあわ)せにするために生(い)きさせてやって下(くだ)さい」
早苗(さなえ)「え?」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、わたしを幸(しあわ)せにするために生(い)きてくれるんですか?」
芳野(よしの)「もちろんです」
芳野(よしの)さんが俺(おれ)の代(か)わりに確約(かくやく)してくれていた!
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)ですかっ、ありがとうございますっ」
早苗(さなえ)「でも、朋也(ともや)さんは、大変(たいへん)ですね。大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
早苗(さなえ)「わたしのことは、忘(わす)れていてもらっても構(かま)いませんよ」
芳野(よしの)「え?」
早苗(さなえ)「ですので、まず一番(いちばん)に…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)のことを幸(しあわ)せにしてあげてくださいね」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…時(とき)に、古河(ふるかわ)さん」
早苗(さなえ)「はい」
芳野(よしの)「その…渚(なぎさ)さん…とは?」
早苗(さなえ)「はい。朋也(ともや)さんと一緒(いっしょ)に暮(く)らしている女(おんな)の子(こ)です」
芳野(よしの)「では…あなたは…?」
早苗(さなえ)「はい。その子(こ)の母親(ははおや)です」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)さんの横顔(よこがお)が見(み)る見(み)る青(あお)ざめていく…。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)よ…」
朋也(ともや)「は、はい…」
芳野(よしの)「ひとりで生(い)きて、道(みち)を踏(ふ)み外(はず)せ…」
そう言(い)い残(のこ)して、風(かぜ)と共(とも)に去(さ)っていった。
早苗(さなえ)「素敵(すてき)な先輩(せんぱい)さんですねっ」
朋也(ともや)「これから、恐(おそ)ろしい先輩(せんぱい)に変(か)わることでしょう…」
渚(なぎさ)「明日(あした)です…」
渚(なぎさ)がぽつりと呟(つぶや)いた。
それだけで何(なに)を言(い)いたいのかがわかる。
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「結局(けっきょく)、俺(おれ)たちには何(なに)もできなかった…」
渚(なぎさ)「いえ、朋也(ともや)くんはやっぱり優(やさ)しかったです」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「子供(こども)たち集(あつ)めて、話(はなし)を聞(き)いたりしました」
朋也(ともや)「それだけじゃん…」
渚(なぎさ)「今日(きょう)も、お母(かあ)さんに会(あ)いに行(い)きました」
朋也(ともや)「え?」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんから、電話(でんわ)がありました」
渚(なぎさ)「ありがとうございました、と言(い)ってました」
朋也(ともや)「それ…どういう意味(いみ)で?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが帰(かえ)ってから、気(き)づいたんだそうです」
渚(なぎさ)「もしかしたら、朋也(ともや)くんは、自分(じぶん)を励(はげ)ましにきてくれたんじゃないかって」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、やっぱり優(やさ)しかったです」
朋也(ともや)「でも、やっぱり…何(なに)もできなかったんだよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうが逆(ぎゃく)に慰(なぐさ)められたぐらいだ…」
渚(なぎさ)「いえ、お母(かあ)さんには届(とど)いてるはずです。朋也(ともや)くんの、励(はげ)まし」
渚(なぎさ)「だからこそ、電話(でんわ)でお礼(れい)を言(い)ってきたんです」
朋也(ともや)「でも…」
朋也(ともや)「現状(げんじょう)は変(か)わっていないんだ…」
朋也(ともや)「明日(あした)になれば、古河塾(ふるかわじゅく)は終(お)わってしまう…」
朋也(ともや)「それは、早苗(さなえ)さんだけの問題(もんだい)じゃない」
朋也(ともや)「みんなで決(き)めたことなんだからな…」
朋也(ともや)「あのクソガキどもとさ…」
だから…
…どうしようもないことなんだ。
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんを励(はげ)ましにいったんじゃない。
慰(なぐさ)めにいっただけなんだ。
そして…
抗(あらが)いようもなく、終(お)わりは訪(おとず)れるんだ。
翌日(よくじつ)、最後(さいご)の授業(じゅぎょう)が行(おこな)われた。
俺(おれ)は最後(さいご)の最後(さいご)だけは立(た)ち会(あ)いたいと、無理(むり)をして駆(か)けつけていた。
スーツ姿(すがた)の若(わか)い男(おとこ)が立(た)っていた。
そいつが新(あたら)しい塾(じゅく)の先生(せんせい)で、そして早苗(さなえ)さんのかつての教(おし)え子(ご)。
早苗(さなえ)「田村(たむら)くん」
早苗(さなえ)さんがその名(な)を呼(よ)んだ。
田村(たむら)「はい」
早苗(さなえ)「それでは、今後(こんご)ともこの子(こ)たちをよろしくお願(ねが)いします」
田村(たむら)「はい、命(いのち)にかえても」
早苗(さなえ)「それは大(おお)げさですよっ」
田村(たむら)「はは…ですね」
田村(たむら)「古河先生(ふるかわせんせい)の引継(ひきつ)というだけで、緊張(きんちょう)してしまうんですよ」
早苗(さなえ)「そんな緊張(きんちょう)しなくとも、田村(たむら)くんも、もう立派(りっぱ)な指導者(しどうしゃ)ですよ」
田村(たむら)「まだまだです。これからですよ」
田村(たむら)「ですが、そう言(い)われるように頑張(がんば)ります」
早苗(さなえ)「はい、頑張(がんば)ってくださいね」
ガキども「………」
その足元(あしもと)にはガキども。
ガキども「ボク…泣(な)きそう…ぐすっ」
ガキども「こら、今(いま)泣(な)いたら、また早苗先生(さなえせんせい)に心配(しんぱい)かけるだろっ」
ガキども「心(こころ)おきなく、僕(ぼく)らを引(ひ)き渡(わた)せるよう…僕(ぼく)らは最後(さいご)まで笑(わら)ってないと…」
ガキども「いつもみたいにさ…ははっ」
…おまえら、実(じつ)は大人(おとな)だろ。
声(こえ)「ぐすっ」
後(うし)ろで大(おお)きく鼻(はな)をすする音(おと)がした。
渚(なぎさ)「とてもかなじいおわがれでずっ」
朋也(ともや)「ガキどもが我慢(がまん)してるのに、おまえが泣(な)くなっ!」
渚(なぎさ)「ですがっ…」
朋也(ともや)「大(だい)の大人(おとな)のおまえが泣(な)いたら、こいつらが耐(た)えてる意味(いみ)がないだろ…」
渚(なぎさ)「は、はい…こらえます」
主婦(しゅふ)「古河(ふるかわ)さん、子供(こども)たちがお世話(せわ)になりました」
教(おし)え子(ご)の親(おや)たちが、代(か)わる代(が)わる、早苗(さなえ)さんに礼(れい)を言(い)っていく。
早苗(さなえ)「いえ、楽(たの)しかったですからっ」
そして…
別(わか)れの時(とき)はきた。
早苗(さなえ)「それでは、みなさん、お元気(げんき)で」
オッサンの口(くち)の悪(わる)さには、よく泣(な)かされていた早苗(さなえ)さんだったけど…
今(いま)は、ずっと笑顔(えがお)でいた。
それが早苗(さなえ)さんだ。
早苗(さなえ)さんらしすぎて…見(み)ていて痛々(いたいた)しい。
もっと、わがまま言(い)えば良(よ)かったんだ。
どんなに不格好(ぶかっこう)でも…
この子(こ)たちは自分(じぶん)たちが教(おし)えるって…
そう胸(むね)を張(は)って言(い)えたら、良(よ)かったんだ。
そうすればきっと、誰(だれ)も咎(とが)めない。
──でも、わたしなんかを必要(ひつよう)としない状況(じょうきょう)になったなら…
──それが一番(いちばん)だなって…そう思(おも)います。
朋也(ともや)(違(ちが)うだろ…早苗(さなえ)さん)
言葉(ことば)にはできなかったけど…それが違(ちが)うってことだけは俺(おれ)にもわかる。
ガキどもが…連(つ)れられていく。
新(あたら)しい先生(せんせい)の後(あと)についていく。
みんな、押(お)し黙(だま)って、平静(へいせい)を装(よそお)っていた。
早苗(さなえ)さんは、ずっと手(て)を振(ふ)っていた。
そして…
子供(こども)たちがもう振(ふ)り返(かえ)らないとわかると…
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)さんは泣(な)いた。
目(め)を手(て)で隠(かく)して…女学生(じょがくせい)のように泣(な)いていた。
渚(なぎさ)「お母(かあ)さん…」
渚(なぎさ)よりも早(はや)く、オッサンが近(ちか)づいていった。
そして、震(ふる)える早苗(さなえ)さんの肩(かた)に手(て)を置(お)いていた。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)…」
早苗(さなえ)「………」
秋生(あきお)「俺(おれ)は違(ちが)うと思(おも)うぞ…」
秋生(あきお)「何(なに)が一番(いちばん)かなんて決(き)めるのは…」
秋生(あきお)「他人(たにん)じゃねぇ」
秋生(あきお)「自分自身(じぶんじしん)でいいんじゃねぇのか」
ああ…
オッサンが俺(おれ)のわだかまりを言葉(ことば)にしてくれていた。
やっぱり、この人(ひと)だけはわかっていたんだ。
秋生(あきお)「どんなに不格好(ぶかっこう)でも…」
秋生(あきお)「突(つ)き進(すす)んでいけばいいんじゃねぇのか」
秋生(あきお)「それでぶっ倒(たお)れたりした時(とき)には…」
秋生(あきお)「一休(ひとやす)みすればいい」
秋生(あきお)「それだけのことだろ」
秋生(あきお)「そんな塾(じゅく)でいいんじゃねぇのか。古河塾(ふるかわじゅく)ってやつは」
早苗(さなえ)「………」
秋生(あきお)「だから、叫(さけ)べよ」
秋生(あきお)「わがまま言(い)ってやれよ」
秋生(あきお)「わたしについてきてくれってさ」
秋生(あきお)「な…」
秋生(あきお)「そうしたいだろ?」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)「…はい」
早苗(さなえ)「…そうしたいです」
はっきりと早苗(さなえ)さんが言(い)った。
秋生(あきお)「よし、いけっ」
どん、とオッサンに背中(せなか)を押(お)されて、よろめいた。
でも、すぐに足(あし)をしっかり地(ち)に据(す)えると、駆(か)けだした。
ガキどもの背(せ)を追(お)って。
早苗(さなえ)「みなさんっ!」
そして、叫(さけ)んだ。
一同(いちどう)が振(ふ)り返(かえ)る。
田村(たむら)「古河先生(ふるかわせんせい)、どうしましたか」
早苗(さなえ)「あ、あの…」
朋也(ともや)「頑張(がんば)れ、早苗(さなえ)さん!」
渚(なぎさ)「がんばってください、お母(かあ)さんっ」
俺(おれ)たちはここぞとばかりに叫(さけ)んだ。
少(すこ)しでも、その背(せ)を押(お)せるなら。
早苗(さなえ)「ええとですね…」
早苗(さなえ)「今(いま)からわがまま、言(い)いますっ」
田村(たむら)「はい?」
早苗(さなえ)「わたしは…」
早苗(さなえ)「この子(こ)たちを教(おし)え続(つづ)けたいですっ」
早苗(さなえ)「この子(こ)たちの先生(せんせい)であり続(つづ)けたいですっ」
早苗(さなえ)「不格好(ぶかっこう)な塾(じゅく)ですが…」
早苗(さなえ)「時(とき)には疲(つか)れを見(み)せてしまう先生(せんせい)かもしれませんが…」
早苗(さなえ)「それでもですっ」
早苗(さなえ)「それでも、そうありたいんです」
早苗(さなえ)「わたしがそうしたいんです」
早苗(さなえ)「それが、わたしの一番(いちばん)なんです」
早苗(さなえ)「だから、どうかっ…」
早苗(さなえ)「わたしについてきてくださいっ」
言(い)いきった。
主婦(しゅふ)「………」
親(おや)たちは、困惑(こんわく)していた。
けど、子供(こども)たちは…
あんなにひねくれた悪(あく)ガキどもだったけど…
今(いま)だけは素直(すなお)だった。
先(さき)を争(あらそ)うように、早苗(さなえ)さんの元(もと)に駆(か)けつけていた。
ガキども「早苗先生(さなえせんせい)ーっ!」
ガキども「ボクたち、迷惑(めいわく)かけ続(つづ)けてもいいんですかっ」
早苗(さなえ)「迷惑(めいわく)なんて、とんでもありませんよ」
早苗(さなえ)「わたしからのお願(ねが)いですから」
早苗(さなえ)「先生(せんせい)、わがまま言(い)っちゃってますけどいいですか」
ガキども「もちろんですっ」
ガキども「いやっほーーぅ!
早苗先生(さなえせんせい)最高(さいこう)ーーーっ!」
ガキども「ボク、惚(ほ)れちゃいそう!」
ガキども「幸(しあわ)せですかーーっ!」
ガキども「さなえっ、ボンバイエッ!」
皆(みんな)、思(おも)い思(おも)いに歓喜(かんき)の声(こえ)をあげて、早苗(さなえ)さんの周(まわ)りを飛(と)び跳(は)ねた。
こんなにもガキどもに好(す)かれている大人(おとな)が、他(ほか)にいるだろうか。
きっといない。町中(まちなか)探(さが)しても。
そして、それを感(かん)じていたのは、俺(おれ)だけじゃない。
ここに居合(いあ)わせた全員(ぜんいん)が、同(おな)じことを思(おも)っただろう。
だから唖然(あぜん)としていた親(おや)たちの表情(ひょうじょう)も、やがて微笑(ほほえ)みに変(か)わって…
早苗(さなえ)さんとガキどもの周(まわ)りに集(あつ)まってきて…
いつしか輪(わ)となって、見守(みまも)っていた。
田村(たむら)「古河先生(ふるかわせんせい)」
田村(たむら)という男(おとこ)が、先頭(せんとう)に立(た)って話(はな)しかける。
田村(たむら)「先生(せんせい)は、本当(ほんとう)に、僕(ぼく)の目指(めざ)すべき目標(もくひょう)です」
早苗(さなえ)「いえ…わたしは、ただ自分(じぶん)のしたいようにしているだけですから」
田村(たむら)「でも、その夢(ゆめ)が純粋(じゅんすい)で真(ま)っ直(す)ぐだからですよ」
田村(たむら)「子供(こども)たちは、作(つく)った笑顔(えがお)なんて、簡単(かんたん)に見抜(みぬ)いてしまいますから」
早苗(さなえ)「だとしたら、わたしも子供(こども)なんです」
田村(たむら)「それは素晴(すば)らしいことですよ」
田村(たむら)「どうかいつまでも、そのままで居(い)てください」
早苗(さなえ)「はいっ」
これでもう…ガキ共(ども)は、古河塾(ふるかわじゅく)から連(つ)れ去(さ)られることはないだろう。
渚(なぎさ)「よかったです」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「さてと…店番(みせばん)に戻(もど)るか」
伸(の)びをして、オッサンが店(みせ)の中(なか)に戻(もど)っていった。
確(たし)かにそれは正(ただ)しい判断(はんだん)で、ガキどもの饗宴(きょうえん)はなかなか終(お)わりそうにもなかった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、俺(おれ)も仕事(しごと)に戻(もど)るな」
渚(なぎさ)「はい、夕(ゆう)ご飯(はん)作(つく)って待(ま)ってます」
その夜(よる)、早苗(さなえ)さんから電話(でんわ)があった。
渚(なぎさ)が話(はな)した後(あと)、俺(おれ)に代(か)わった。
内容(ないよう)は、今日(きょう)のこと、そして今日(きょう)までのことに対(たい)する礼(れい)だった。
俺(おれ)たちのおかげで、勇気(ゆうき)が出(だ)せたんだと。
夢中(むちゅう)で、掴(つか)み取(と)ることができたんだと。
心地(ここち)よい早苗(さなえ)さんの声(こえ)。俺(おれ)は頷(うなず)きながら、静(しず)かに聞(き)いていた。
隣(となり)では、渚(なぎさ)が穏(おだ)やかな顔(かお)で、そんな俺(おれ)のことを見(み)ていた。
その手(て)に触(ふ)れる。
指(ゆび)を絡(から)ませて、繋(つな)いだ。
受話器(じゅわき)の向(む)こうでは、早苗(さなえ)さんがこれからのことを夢(ゆめ)一杯(いっぱい)に話(はな)し始(はじ)めていた。
古河(ふるかわ)という家族(かぞく)の中(なか)にいられている自分(じぶん)を…
幸(しあわ)せな奴(やつ)だと思(おも)った。
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seagull - 2009/7/20 17:09:00
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同棲編,0,]


そうして慌(あわ)ただしい時間(じかん)が過(す)ぎた。
いつものように、仕事(しごと)を終(お)え、芳野(よしの)さんの運転(うんてん)する軽(けい)トラの助手席(じょしゅせき)に乗(の)り込(こ)んでいた。
流(なが)れる風景(ふうけい)に、帰宅(きたく)する学生(がくせい)やサラリーマンの姿(すがた)を見(み)ながら、自分(じぶん)の存在(そんざい)価値(かち)なんてものをぼぅっと考(かんが)えていた。
芳野(よしの)さんはいつものように無口(むくち)だった。
そのぶん、流(なが)しっぱなしのラジオが、無言(むごん)の空白(くうはく)を埋(う)めてくれていた。
それが常(つね)だった。
そのスピーカーから、聞(き)き覚(おぼ)えのあるイントロが流(なが)れ出(だ)した。
弦(げん)をぶったぎるようにかき鳴(な)らす、激(はげ)しいギターのリフ。
ドラムと共(とも)に入(はい)るシャウト。
ああ、こんな偶然(ぐうぜん)があるなんて…
俺(おれ)は芳野(よしの)さんの横顔(よこがお)を見(み)た。
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「…そういや、昔(むかし)、おまえに嘘(うそ)をつかれたよな」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「ドラムやってるってさ」
朋也(ともや)「そ、そうでしたね…」
芳野(よしの)「もうひとりの奴(やつ)も、ギターなんて弾(ひ)いたことなかったんだろ」
朋也(ともや)「その通(とお)りです…」
芳野(よしの)「あれはなんだったんだ?」
朋也(ともや)「………」
正直に答える
朋也(ともや)「たぶん、想像通(そうぞうどお)りっす」
芳野(よしの)「主犯(しゅはん)はあいつか?」
朋也(ともや)「ええ。妹(いもうと)がファンだったらしくて…」
芳野(よしの)「ふん…」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)も、その後(あと)でCD買(か)うぐらい、好(す)きになって…」
何(なに)を言(い)い訳(わけ)してるのだろう、俺(おれ)は…。
あの日(ひ)の俺(おれ)はなんて言(い)っていた?
ファンじゃないから、直接(ちょくせつ)訊(き)いたらいいとか、そういうことを言(い)っていなかったか?
それが今(いま)はなんだ…こんなに焦(あせ)って…。
皮肉(ひにく)なものだ…。
今(いま)は、仕事(しごと)の先輩(せんぱい)と後輩(こうはい)。
そんな親密(しんみつ)な関係(かんけい)になってから、あの時(とき)のことがばれるなんて…。
芳野(よしの)「そいつは、どうも」
芳野(よしの)「………」
…気(き)まずい。
歌う
朋也(ともや)「あの、俺(おれ)、この曲(きょく)、全部(ぜんぶ)そらで歌(うた)えるんですよ」
芳野(よしの)「………」
俺(おれ)はラジオから流(なが)れてくるメロディに合(あ)わせて、歌(うた)った。
実際(じっさい)、一度(いちど)も歌詞(かし)を間違(まちが)うことなく、歌(うた)えた。
自分(じぶん)で言(い)っておいてなんだが、驚(おどろ)いた。
きっかけは俺(おれ)が春原(すのはら)のテープを台無(だいな)しにしたことだったけど…
その後(あと)俺(おれ)は、自分(じぶん)でCDを買(か)うまでに興味(きょうみ)を持(も)ったのだった。
一時期(いちじき)は、毎日(まいにち)のように聴(き)いていたことを思(おも)い出(だ)す。
朋也(ともや)(聴(き)きまくってたんだよな…)
ラジオはすでに次(つぎ)の曲(きょく)に変(か)わっていた。
歌謡曲風(かようきょくふう)のヒップホップだ。
春原(すのはら)が好(す)きそうな。
朋也(ともや)「正直(しょうじき)、今(いま)まで忘(わす)れてましたけど…」
朋也(ともや)「また聴(き)きたくなりました」
朋也(ともや)「そもそも俺(おれ)、CDそんなに持(も)ってないし、聴(き)かないけど…」
朋也(ともや)「それでもです」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)さんは、車(くるま)を停(と)めた。
まだ、場所(ばしょ)は駅前(えきまえ)だ。
芳野(よしの)「…昔話(むかしばなし)をしてやろうか」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「あるロック少年(しょうねん)の話(はなし)だ」
朋也(ともや)「あ、はい」
思(おも)わずそう答(こた)えてしまっていたが…
本当(ほんとう)に、俺(おれ)なんかが聞(き)いていい話(はなし)なのだろうか。
でも、きっと、俺(おれ)が証明(しょうめい)してしまったのだ。
芳野(よしの)さんの歌(うた)を、俺(おれ)が本当(ほんとう)に好(す)きであることを。
自分(じぶん)の責任(せきにん)だ。
そもそも、その責任(せきにん)は二年前(にねんまえ)に負(お)うべきものだった。
芳野(よしの)「じゃ、まずコーヒー買(か)ってこい」
芳野(よしの)「長(なが)くなるからな」[/wrap]

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芳野,0,]


芳野(よしの)「ずっと、昔(むかし)…」
芳野(よしの)「この町(まち)には、出来(でき)の悪(わる)い少年(しょうねん)がいた」
芳野(よしの)「親(おや)がいなかったから、小(ちい)さい頃(ころ)から、悪(わる)いことを覚(おぼ)えて…好(す)き勝手(かって)に生(い)きていたんだ」
芳野(よしの)「無謀(むぼう)なくらいが、心地(ここち)よかった」
芳野(よしの)「十三(じゅうさん)の時(とき)、少年(しょうねん)は音楽(おんがく)と出会(であ)った」
芳野(よしの)「その時代(じだい)はバンドブームで…少年(しょうねん)の仲間(なかま)が興味(きょうみ)を持(も)って始(はじ)めていたんだ」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)も他人(たにん)のギターを奪(うば)い取(と)って、弾(はじ)き始(はじ)めた」
芳野(よしの)「いろんな洋楽(ようがく)をコピーした」
芳野(よしの)「歌(うた)うことも好(す)きになった」
芳野(よしの)「他人(たにん)のライブに乱入(らんにゅう)しては、メインボーカルをかっさらったりした」
芳野(よしの)「この時(とき)も、無謀(むぼう)なことが心地(ここち)よかった」
芳野(よしの)「でも、それはもう悪(わる)いことじゃなくなっていた」
芳野(よしの)「そう…それがロックだったんだ」
芳野(よしの)「叫(さけ)ぼうが、壊(こわ)そうが、人(ひと)の波(なみ)に飛(と)び込(こ)もうが…」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)の無謀(むぼう)は、そこではすべて許(ゆる)されたんだ」
芳野(よしの)「それにすがって生(い)きていれば、少年(しょうねん)はもう後(うし)ろ指(ゆび)をさされず生(い)きていけた」
芳野(よしの)「そりゃあ、たまにははめを外(はず)すこともある」
芳野(よしの)「けど、周(まわ)りは笑(わら)っていられたんだ」
芳野(よしの)「高校(こうこう)に入(はい)って、皆(みんな)が進学(しんがく)のことを考(かんが)え始(はじ)めていた頃(ころ)も、少年(しょうねん)は音楽漬(おんがくづ)けだった」
芳野(よしの)「このまま、音楽(おんがく)で食(く)っていこう。そう彼(かれ)は思(おも)っていた」
芳野(よしの)「それ以外(いがい)考(かんが)えられなかった」
芳野(よしの)「音楽以外(おんがくいがい)じゃ、少年(しょうねん)は道(みち)を踏(ふ)み外(はず)してしまうからだ」
芳野(よしの)「彼(かれ)が踏(ふ)み外(はず)したつもりはなくても…世間(せけん)はそれを咎(とが)める」
芳野(よしの)「それは間違(まちが)ったことなんだと、正(ただ)される」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが笑(わら)えなくなるんだ」
芳野(よしの)「だから、二年(にねん)の終(お)わりには、少年(しょうねん)はそう決(き)めた」
芳野(よしの)「三年(さんねん)に上(あ)がった時(とき)、出会(であ)いがあった」
芳野(よしの)「相手(あいて)は新任(しんにん)の女性教師(じょせいきょうし)だ」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)が空(あ)き教室(きょうしつ)で、人目(ひとめ)はばからずギターを弾(ひ)いて歌(うた)っていると、迷子(まいご)のように入(はい)ってきたんだ」
芳野(よしの)「拍手(はくしゅ)をくれた。上手(じょうず)だと言(い)ってくれた」
芳野(よしの)「歌(うた)は、ラブソングだった」
芳野(よしの)「恥(は)ずかしいばかりの内容(ないよう)だったけど…」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)は真摯(しんし)に歌詞(かし)の意味(いみ)を読(よ)みとってくれた」
芳野(よしの)「その後(あと)も、歌(うた)のことをふたりで話(はな)し続(つづ)けた」
芳野(よしの)「そして、校内放送(こうないほうそう)で呼(よ)び出(だ)されて初(はじ)めて、その女性(じょせい)は自分(じぶん)が移動教室(いどうきょうしつ)の最中(さいちゅう)だったことに気(き)づいたんだ」
芳野(よしの)「聡明(そうめ)なようでいて、抜(ぬ)けた人(ひと)だった」
芳野(よしの)「それからも、少年(しょうねん)と女性教師(じょせいきょうし)は何度(なんど)か話(はな)すことがあった」
芳野(よしの)「クラスの女連中(おんなれんちゅう)は、音楽(おんがく)なんかで食(く)っていけるわけがないと彼(かれ)を笑(わら)った」
芳野(よしの)「けど、彼女(かのじょ)だけは違(ちが)ったんだ」
『…ずっと続(つづ)けていれば、叶(かな)うから、諦(あきら)めないでね』
芳野(よしの)「そう両手(りょうて)を握(にぎ)りしめて、言(い)ってくれた」
芳野(よしの)「彼(かれ)は恋(こい)に落(お)ちていたんだ、その人(ひと)に」
芳野(よしの)「そんなに話(はな)す機会(きかい)はなかったが、でも、話(はな)し始(はじ)めれば長(なが)くなり…」
芳野(よしの)「口(くち)べたな彼(かれ)でも、たくさん言(い)いたいことを話(はな)せた…」
芳野(よしの)「その女性(じょせい)は彼(かれ)のいいところを、引(ひ)き出(だ)してくれる人(ひと)だったんだ」
芳野(よしの)「別(わか)れの日(ひ)、彼(かれ)は女性教師(じょせいきょうし)に告(つ)げた」
芳野(よしの)「絶対(ぜったい)にプロになって、有名(ゆうめい)になるから、と」
芳野(よしの)「そうしたら…俺(おれ)と付(つ)き合(あ)って下(くだ)さいって」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)は、迷(まよ)いもせずに、頷(うなず)いてくれた」
芳野(よしの)「はなからプロになるなんて無理(むり)だろうと思(おも)っていたのか…」
芳野(よしの)「それでも、少年(しょうねん)にとっては良(よ)かった」
芳野(よしの)「すがるだけだった音楽(おんがく)が、目標(もくひょう)になったのだから」
芳野(よしの)「絶対(ぜったい)にこれで食(く)っていくと信(しん)じて…」
芳野(よしの)「卒業後(そつぎょうご)、少年(しょうねん)は町(まち)を離(はな)れて、上京(じょうきょう)した」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…退屈(たいくつ)か?」
朋也(ともや)「いえ、早(はや)く続(つづ)きが聞(き)きたいです」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…そんな急(せ)いて聞(き)くようないい話(はなし)じゃないがな」
言(い)って、続(つづ)きを話(はな)し始(はじ)めた。
芳野(よしの)「彼(かれ)はオーディションを受(う)けた」
芳野(よしの)「優勝(ゆうしょう)こそはしなかったものの…審査員(しんさいん)の特別賞(とくべつしょう)をもらって、そのままデビューへと繋(つな)がった」
芳野(よしの)「こんな簡単(かんたん)なものだったのかと拍子抜(ひょうしぬ)けするほどだった」
芳野(よしの)「でも、夢(ゆめ)が叶(かな)った瞬間(しゅんかん)だ」
芳野(よしの)「彼(かれ)は自分(じぶん)を否定(ひてい)してきた連中(れんちゅう)にざまぁみろって思(おも)った」
芳野(よしの)「そして…これで、もう自分(じぶん)は、音楽(おんがく)から引(ひ)き離(はな)されずに済(す)む…」
芳野(よしの)「そう思(おも)って、少年(しょうねん)はほっとした…」
芳野(よしの)「それからは、がむしゃらだった」
芳野(よしの)「何(なに)もかもがむしゃらだった」
芳野(よしの)「力(ちから)を抜(ぬ)くとか、器用(きよう)にこなすとか、そういうことが苦手(にがて)だった」
芳野(よしの)「だから、歌(うた)いたいものを、全力(ぜんりょく)で歌(うた)った」
芳野(よしの)「時(とき)には、吐(は)き出(だ)すように歌(うた)った」
芳野(よしの)「嗚咽(おえつ)のように歌(うた)った」
芳野(よしの)「醜(みにく)いものも歌(うた)った」
芳野(よしの)「醜(みにく)いものだからこそ、より一層(いっそう)、力強(ちからづよ)く歌(うた)った」
芳野(よしの)「そうしたら、それは、綺麗(きれい)に見(み)えた」
芳野(よしの)「生(い)きる、ということが瑞々(みずみず)しく見(み)えた」
芳野(よしの)「生(い)きること、それが一番(いちばん)、醜(みにく)いことだったからだ…」
芳野(よしの)「そして、ものすごい力(ちから)を生(う)んだ」
芳野(よしの)「ライブ会場(かいじょう)で、ひとつとなったとき…」
芳野(よしの)「あるいは新譜(しんぷ)が発売(はつばい)されて、それを全国(ぜんこく)のファンが一斉(いっせい)に聞(き)いたとき…」
芳野(よしの)「その日(ひ)から、しばらくは強(つよ)く生(い)きているだけの…力(ちから)を生(う)んだ」
芳野(よしの)「それが、共感(きょうかん)というものだ」
芳野(よしの)「歌(うた)は共感(きょうかん)し、人(ひと)の生(い)きる力(ちから)となる」
芳野(よしの)「それがすべてにはならないが、間違(まちが)いなく、助(たす)けになる」
芳野(よしの)「それを実感(じっかん)した」
芳野(よしの)「音楽(おんがく)に出会(であ)うまでは人(ひと)を傷(きず)つけて、自分(じぶん)まで傷(きず)つけるようなロクでもない奴(やつ)がだ…」
芳野(よしの)「他人(たにん)のことなんて、考(かんが)えもしなかった奴(やつ)がだ…」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)は自分(じぶん)の生(い)きる理由(りゆう)を見(み)つけ、それを全(まっと)うしようと心(こころ)に誓(ちか)った」
芳野(よしの)「しかし…何(なに)もかもうまくいっていたのは、そこまでだった」
芳野(よしの)「ある時(とき)、彼(かれ)の元(もと)にテレビ番組(ばんぐみ)の企画(きかく)が持(も)ち込(こ)まれた」
芳野(よしの)「それは彼(かれ)がファンの元(もと)を巡(めぐ)る、というドキュメンタリーものだった」
芳野(よしの)「それもただのファンじゃない」
芳野(よしの)「彼(かれ)の音楽(おんがく)を聴(き)いて救(すく)われた…そして今(いま)もなお逆境(ぎゃっきょう)に立(た)っている奴(やつ)らだ」
芳野(よしの)「テレビ出演(しゅつえん)は頑(かたく)なに断(ことわ)り続(つづ)けていた彼(かれ)だったが…」
芳野(よしの)「ディレクターの真摯(しんし)な姿勢(しせい)もくみ取(と)れたし…」
芳野(よしの)「なにより、実際(じっさい)そんなファンたちとふれ合(あ)うことは、今後(こんご)の自分(じぶん)のためにもなると考(かんが)えたんだ」
芳野(よしの)「そして、撮影(さつえい)が始(はじ)まった」
芳野(よしの)「手紙(てがみ)とかでは、色(いろ)んな声(こえ)を聞(き)いたりはしていたが…」
芳野(よしの)「目(め)の前(まえ)にした光景(こうけい)は、あまりに壮絶(そうぜつ)だった」
芳野(よしの)「想像以上(そうぞういじょう)だった」
芳野(よしの)「体(からだ)や生活(せいかつ)がボロボロな奴(やつ)らと彼(かれ)は出会(であ)った…」
芳野(よしの)「本当(ほんとう)に、自分(じぶん)の歌(うた)をより所(どころ)とし、すがってくれていることを感(かん)じた」
芳野(よしの)「そして、その時(とき)になって、彼(かれ)は気(き)づいた」
芳野(よしの)「自分(じぶん)の言葉(ことば)は…もう自分(じぶん)ひとりのものじゃなくなっていることに」
芳野(よしの)「しかし…」
芳野(よしの)「彼(かれ)にはさっぱり理解(りかい)できなかった」
芳野(よしの)「どうして、自分(じぶん)の曲(きょく)は、彼(かれ)らの心(こころ)の救(すく)いとなり得(え)たのか」
芳野(よしの)「そして、今後(こんご)も、支(ささ)えとして求(もと)められている」
芳野(よしの)「それに応(こた)え続(つづ)けるにはどうすればいいのか…」
芳野(よしの)「そもそも彼(かれ)がやってきた音楽(おんがく)とは、自分(じぶん)のための音楽(おんがく)だったんだ」
芳野(よしの)「自分(じぶん)のやることが咎(とが)められない場所(ばしょ)、それが音楽(おんがく)の世界(せかい)だっただけだ」
芳野(よしの)「他人(たにん)のためになんて、やった覚(おぼ)えなど一度(いちど)もなかった」
芳野(よしの)「けど、その企画(きかく)のせいで、彼(かれ)は意識(いしき)せずにはいられなくなった」
芳野(よしの)「体(からだ)にハンデがある奴(やつ)…」
芳野(よしの)「親(おや)のせいで、とんでもない苦労(くろう)をして暮(く)らしてる奴(やつ)…」
芳野(よしの)「精神(せいしん)が弱(よわ)くて、今(いま)にも壊(こわ)れてしまいそうな奴(やつ)…」
芳野(よしの)「それは、ほんの一部(いちぶ)で…」
芳野(よしの)「まだ会(あ)ったこともない何千(なんぜん)、何万(なんまん)もの、そうした奴(やつ)らが彼(かれ)の音楽(おんがく)に救(すく)いを求(もと)めていて…」
芳野(よしの)「そして彼(かれ)は、そんな奴(やつ)らのために、音楽(おんがく)を作(つく)っていかなくてはならないのだということを…認識(にんしき)させられた」
芳野(よしの)「撮影(さつえい)の最後(さいご)には、エンディング用(よう)にアコギ一本(いっぽん)で持(も)ち歌(うた)を歌(うた)うことになっていた」
芳野(よしの)「しかし、手(て)が震(ふる)えてまともに弾(ひ)けなかった」
芳野(よしの)「番組(ばんぐみ)のエンディングは彼(かれ)が歩(ある)く映像(えいぞう)を背景(はいけい)に、CDを流(なが)すだけに差(さ)し替(か)えられた」
芳野(よしの)「そして…」
芳野(よしの)「撮影(さつえい)が終(お)わってからは、彼(かれ)はこれまで通(どお)りには曲(きょく)が作(つく)れなくなっていた」
芳野(よしの)「今(いま)まで歌(うた)っていた曲(きょく)ですら、素面(しらふ)では歌(うた)えなくなった」
芳野(よしの)「現実(げんじつ)を知(し)った彼(かれ)は、昔(むかし)の自分(じぶん)はなんと浅(あさ)はかな曲(きょく)を作(つく)っていたものかと、あざ笑(わら)っていたんだ」
芳野(よしの)「現実(げんじつ)なんて、もっともっと壮絶(そうぜつ)なんだと」
芳野(よしの)「おまえが知(し)ってるのは上辺(うわべ)でしかない。格好(かっこう)を付(つ)けてるだけだったんだとな」
芳野(よしの)「彼(かれ)は悩(なや)み続(つづ)けた」
芳野(よしの)「歌(うた)も歌(うた)えない。曲作(きょくづく)りも進(すす)まない」
芳野(よしの)「所属事務所(しょぞくじむしょ)から、しばらくの休養(きゅうよう)を言(い)い渡(わた)された」
芳野(よしの)「デビューしてから、がむしゃらにレコーディングとライブを繰(く)り返(かえ)していたし…」
芳野(よしの)「彼(かれ)が疲(つか)れていると思(おも)われても仕方(しかた)がないことだった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は久々(ひさびさ)の休暇(きゅうか)を満喫(まんきつ)することもなく、怠惰(たいだ)に過(す)ごしていた…」
芳野(よしの)「半年(はんとし)が過(す)ぎた頃(ころ)だった」
芳野(よしの)「番組(ばんぐみ)の企画(きかく)で会(あ)った奴(やつ)のひとりが…」
芳野(よしの)「罪(つみ)を犯(おか)した」
芳野(よしの)「取(と)り返(かえ)しのつかないような大(おお)きな罪(つみ)だ」
芳野(よしの)「見覚(みおぼ)えのある顔(かお)が…テレビに映(うつ)っていた」
芳野(よしの)「彼(かれ)は、自分(じぶん)のせいだと思(おも)った」
芳野(よしの)「自分(じぶん)が立(た)ち止(ど)まってしまったせいだ、と」
芳野(よしの)「…進(すす)まなければならない」
芳野(よしの)「自分(じぶん)を必要(ひつよう)としてくれてる奴(やつ)らのために、自分(じぶん)は進(すす)み続(つづ)けていかなくてはならない」
芳野(よしの)「そう思(おも)った彼(かれ)は、ギターを掴(つか)んで…」
芳野(よしの)「また歌(うた)い始(はじ)めた」
芳野(よしの)「恐(おそ)らくその時(とき)から…彼(かれ)は暴走(ぼうそう)していたんだ」
芳野(よしの)「現実(げんじつ)と歌(うた)っていることの区別(くべつ)がつかなくなった」
芳野(よしの)「理想論(りそうろん)で生(い)きるようになった」
芳野(よしの)「みんなの必要(ひつよう)とするものは、それなんだと決(き)めつけて…」
芳野(よしの)「どうしてこんなことを歌(うた)っているのか、自分(じぶん)でさえよくわからなかった」
芳野(よしの)「自分(じぶん)の疑念(ぎねん)を振(ふ)り払(はら)って…歌(うた)い続(つづ)けた」
芳野(よしの)「それは、戦(たたか)いだった」
芳野(よしの)「でも、戦(たたか)い続(つづ)けるほどに、敵(てき)は増(ふ)えていくんだ」
芳野(よしの)「彼(かれ)は吠(ほ)え続(つづ)けた。糾弾(きゅうだん)し続(つづ)けた」
芳野(よしの)「自分(じぶん)が生(う)み続(つづ)ける敵(てき)に向(む)けて…」
芳野(よしの)「やがて、理想(りそう)や綺麗事(きれいごと)じゃ、太刀打(たちう)ちできなくなった」
芳野(よしの)「そいつらを薙(な)ぎ払(はら)うには、もう、現実(げんじつ)を叩(たた)きつけるしかなかった」
芳野(よしの)「その時(とき)の、彼(かれ)の向(む)き合(あ)う現実(げんじつ)ほど、痛々(いたいた)しいものはなかったからだ」
芳野(よしの)「結果(けっか)、歌(うた)は、理想(りそう)を逸脱(いつだつ)し、生臭(なまぐさ)いものとなっていった」
芳野(よしの)「与(あた)えられるものは希望(きぼう)や勇気(ゆうき)ではなく、現実(げんじつ)の苦汁(くじゅう)だけとなっていた」
芳野(よしの)「そして、彼(かれ)はラブソングさえも歌(うた)えなくなってしまっていた」
芳野(よしの)「醜(みにく)すぎたんだ」
芳野(よしの)「歌(うた)う前(まえ)に、吐(は)き気(け)がした」
芳野(よしの)「すべて偽善(ぎぜん)だ」
芳野(よしの)「自分(じぶん)は虚像(きょぞう)だ」
芳野(よしの)「もう、自己(じこ)さえ確立(かくりつ)されちゃいない」
芳野(よしの)「詩(し)が、支離滅裂(しりめつれつ)になった」
芳野(よしの)「二行目(にぎょうめ)にさしかかると、すでに一行目(いちぎょうめ)と矛盾(むじゅん)していた」
芳野(よしの)「仕舞(しまい)いには、生(い)きたいなら、死(し)ね、と歌(うた)っていた」
芳野(よしの)「異常(いじょう)だ」
芳野(よしの)「後(あと)は…虚像(きょぞう)は崩壊(ほうかい)するだけだった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は、自分(じぶん)の歌(うた)いたい歌(うた)だけを歌(うた)っているべきだったんだ」
芳野(よしの)「誰(だれ)かを救(すく)うために歌(うた)っては駄目(だめ)だったんだ」
芳野(よしの)「間違(まちが)いなく崩壊(ほうかい)する」
芳野(よしの)「彼(かれ)が、弱(よわ)すぎたのがいけないのだろうか」
芳野(よしの)「違(ちが)う。強(つよ)すぎれば、それこそ偽善(ぎぜん)だ」
芳野(よしの)「吐(は)き気(け)がした…」
芳野(よしの)「常(つね)に矛盾(むじゅん)してるんだ…」
芳野(よしの)「けど、その矛盾(むじゅん)を覆(おお)い隠(かく)さなければいけなかった」
芳野(よしの)「矛盾(むじゅん)の中(なか)にいて、矛盾(むじゅん)に気(き)づかない振(ふ)りをしなければならなかった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は音楽(おんがく)を失(うしな)うことが恐(こわ)かったからだ」
芳野(よしの)「音楽(おんがく)は彼(かれ)がすがりついていられる唯一(ゆいいつ)のものだった」
芳野(よしの)「それを守(まも)るために彼(かれ)は、薬(くすり)に手(て)を出(だ)した」
芳野(よしの)「もう、矛盾(むじゅん)だらけだ」
芳野(よしの)「後(うし)ろ指(ゆび)をさされないためにすがっていた音楽(おんがく)…」
芳野(よしの)「それを守(まも)るために、彼(かれ)は後(うし)ろ指(ゆび)をさされる行為(こうい)にまで手(て)を染(そ)めて…」
芳野(よしの)「でも、それすら、その時(とき)は気(き)づかなかった」
芳野(よしの)「彼(かれ)は、すべての矛盾(むじゅん)を覆(おお)い隠(かく)すことに、成功(せいこう)してしまったからだ」
芳野(よしの)「薬(くすり)を続(つづ)けながら、歌(うた)を歌(うた)い続(つづ)けた」
芳野(よしの)「ら行(ぎょう)がうまく歌(うた)えなくても、そのままレコーディングした」
芳野(よしの)「夜(よる)には自分(じぶん)の足(あし)で、薬(くすり)を買(か)い求(もと)めた」
芳野(よしの)「安心(あんしん)しきっていた」
芳野(よしの)「でも、すぐ足(あし)がついた」
芳野(よしの)「罪(つみ)に問(と)われ、彼(かれ)は牢獄(ろうごく)に閉(と)じこめられた」
芳野(よしの)「気(き)が付(つ)いた時(とき)には、病院(びょういん)の白(しろ)いベッドの上(うえ)で、薬漬(くすりづ)けにされていた」
芳野(よしの)「徹底的(てっていてき)に、精神(せいしん)と体(からだ)を洗(あら)い流(なが)された…」
芳野(よしの)「そして、病院(びょういん)を出(で)た時(とき)…」
芳野(よしの)「彼(かれ)の居場所(いばしょ)はどこにもなくなっていた」
芳野(よしの)「彼(かれ)の顔(かお)は誰(だれ)でも知(し)っていた」
芳野(よしの)「教祖(きょうそ)になり損(そこ)ねた、狂気(きょうき)のロッカーとして」
芳野(よしの)「誰(だれ)もが、彼(かれ)を指(ゆび)さしてひそひそ話(はなし)をした」
芳野(よしの)「過(あやま)ちを犯(おか)してしまった人間(にんげん)の末路(ばつろ)だった」
芳野(よしの)「彼(かれ)はどこに帰(かえ)ればいいのか」
芳野(よしの)「過(あやま)ちを犯(おか)してしまった、その体(からだ)で」
芳野(よしの)「体(からだ)は洗(あら)い流(なが)せても、その罪(つみ)は一生(いっしょう)彼(かれ)についてまわる」
芳野(よしの)「誰(だれ)もが知(し)る顔(かお)と共(とも)に」
芳野(よしの)「音楽(おんがく)を失(うしな)い、親(おや)もいなければ…もうすがるものもなかった」
芳野(よしの)「もともと駄目(だめ)な人間(にんげん)だった彼(かれ)だ」
芳野(よしの)「唯一(ゆいいつ)の支(ささ)えを失(うしな)ったら…」
芳野(よしの)「後(あと)は歯止(はど)めもなく、堕(お)ちていくだけだ」
芳野(よしの)「浮浪者(ふろうしゃ)のような暮(く)らしが始(はじ)まった」
芳野(よしの)「罪(つみ)を重(かさ)ねるようなこともした」
芳野(よしの)「するしかなかった」
芳野(よしの)「生(い)きていくことが、こんなにも醜(みにく)いなら、いっそ生(い)きることもやめたくなった」
芳野(よしの)「毎日(まいにち)が、絶望(ぜつぼう)の淵(ふち)だった」
芳野(よしの)「そんな暮(く)らしの中(なか)で、彼(かれ)は一度(いちど)だけ願(ねが)った…」
芳野(よしの)「田舎(いなか)に帰(かえ)りたい、と…」
芳野(よしの)「一番楽(いちばんたの)しかった頃(ころ)に、一瞬(いっしゅん)だけでも戻(もど)れるなら…」
芳野(よしの)「それだけで、いい…」
芳野(よしの)「ただ、それだけのために…」
芳野(よしの)「彼(かれ)は生(う)まれ過(す)ごした、故郷(こきょう)に帰(かえ)ってきた」
芳野(よしの)「そこで…」
芳野(よしの)「彼(かれ)は再会(さいかい)を果(は)たすことになる」
芳野(よしの)「バスから下(お)りて…」
芳野(よしの)「何(なに)も持(も)たずに、夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のように歩(ある)く彼(かれ)の先(さき)に…」
芳野(よしの)「あの日(ひ)の女性教師(じょせいきょうし)がいた」
芳野(よしの)「まったくの偶然(ぐうぜん)だった」
芳野(よしの)「そしてそれは…彼(かれ)にとって、これ以上(いじょう)ない仕打(しう)ちだった」
芳野(よしの)「なんて、むごいことをするのか…」
芳野(よしの)「そこまでして、自分(じぶん)は苦(くる)しめられなければならないのか…」
芳野(よしの)「夢(ゆめ)を誓(ちか)った相手(あいて)を前(まえ)に…」
芳野(よしの)「罪(つみ)を犯(おか)して、夢破(ゆめやぶ)れ…すべてを失(うしな)った人間(にんげん)として、現(あらわ)れなければならなかったのか…」
芳野(よしの)「この町(まち)は、俺(おれ)を憎(にく)んでいるのか…」
芳野(よしの)「俺(おれ)の罪(つみ)は、そこまで重(おも)いのか…」
芳野(よしの)「俺(おれ)の精神(せいしん)を粉々(こなごな)にうち砕(くだ)いて…」
芳野(よしの)「もう、終(お)わらせてしまいたいのか…」
芳野(よしの)「そう思(おも)った…」
芳野(よしの)「けど…」
芳野(よしの)「その人(ひと)は、穏(おだ)やかに笑(わら)ったままでいた…」
芳野(よしの)「そして、こう彼(かれ)に訊(き)いた…」
「まだ…音楽(おんがく)は続(つづ)けてる?」
「…ずっと続(つづ)けていれば、叶(かな)うから、諦(あきら)めないでね」
芳野(よしの)「その言葉(ことば)を聞(き)いて…」
芳野(よしの)「彼(かれ)は泣(な)いた」
芳野(よしの)「涙(なみだ)が後(あと)から後(あと)から溢(あふ)れてきて…止(と)まらなかった…」
芳野(よしの)「嗚咽(おえつ)を漏(も)らしながら、子供(こども)のように泣(な)き続(つづ)けた…」
芳野(よしの)「この町(まち)は…今(いま)も、昔(むかし)のままで…」
芳野(よしの)「そして、彼(かれ)が夢(ゆめ)を追(お)っていた頃(ころ)のままだったんだ…」
芳野(よしの)「少年(しょうねん)だった時(とき)のままだったんだ」
芳野(よしの)「優(やさ)しかった…」
芳野(よしの)「最初(さいしょ)から、こうしていればよかったんだ…」
芳野(よしの)「ずっと、この町(まち)にいればよかったんだ…」
芳野(よしの)「ずっと、この人(ひと)を好(す)きで居続(いつづ)ければよかったんだ…」
芳野(よしの)「そして、ずっと…この人(ひと)のためだけにラブソングを歌(うた)い続(つづ)ければよかったんだ…」
芳野(よしの)「誰(だれ)のためでもなく…」
芳野(よしの)「好(す)きな人(ひと)のためだけに…」
………。
芳野(よしの)さんは、顔(かお)を伏(ふ)せていた。
その表情(ひょうじょう)は前髪(まえがみ)が邪魔(じゃま)でよくわからなかった。
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…腹(はら)」
朋也(ともや)「え?」
芳野(よしの)「腹(はら)、減(へ)ったな」
そう言(い)って顔(かお)を上(あ)げた。
何(なに)も変(か)わらない、いつもの芳野(よしの)さんだった。
さらに続けを聞く
朋也(ともや)「その後(あと)…」
朋也(ともや)「大(おお)きくなった少年(しょうねん)と、女性教師(じょせいきょうし)はどうなったんすか」
芳野(よしの)「ああ…」
芳野(よしの)「今(いま)も彼(かれ)のそばにいてくれてるよ」
なら、よかった。
この人(ひと)は…今(いま)も歌(うた)い続(つづ)けているのだろう。
そう思(おも)った。
芳野(よしの)「そういや、おまえが通(かよ)ってた高校(こうこう)って坂(さか)の上(うえ)の進学校(しんがくこう)だったよな…」
車(くるま)に乗(の)り込(こ)んだところで、ふと思(おも)い出(だ)したように、芳野(よしの)さんが訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「ええ」
芳野(よしの)「その女性(じょせい)は…そこで教師(きょうし)をやってたんじゃなかったっけか…」
朋也(ともや)「えっ、マジっすかっ、じゃ、俺(おれ)、会(あ)ってるっす」
芳野(よしの)「いや、会(あ)ってないか…おまえ、去年(きょねん)の春(はる)に卒業(そつぎょう)したんだっけ?」
朋也(ともや)「ええ」
芳野(よしの)「じゃ、入(い)れ違(ちが)いだな。おまえが入学(にゅうがく)すると同時(どうじ)に辞(や)めている」
朋也(ともや)「なんだ…」
朋也(ともや)「でも、一応(いちおう)、名前(なまえ)、聞(き)いてもいいですか」
芳野(よしの)「ん?
ああ…」
芳野(よしの)「伊吹(いぶき)って名前(なまえ)だ。知(し)らないだろ?」
知(し)らないと言(い)おうとして、途中(とちゅう)で口(くち)をつぐむ。
伊吹(いぶき)…
それは、確(たし)か、古河(ふるかわ)パンで出会(であ)った、あの先生(せんせい)ではなかったか。
渚(なぎさ)の担任(たんにん)だったという…。
朋也(ともや)「知(し)ってます」
芳野(よしの)「なにっ?
おまえ、まさか…ダブッてんのか」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)じゃなく…」
朋也(ともや)「俺(おれ)の彼女(かのじょ)が…」
芳野(よしの)「えぇ?」
芳野(よしの)「でも、まだ学生(がくせい)なんだろ?
三年(さんねん)だとしても、おまえとタメじゃないか」
朋也(ともや)「いえ、そいつ、二回(にかい)ダブッてるんで…」
なんて、ペラペラと喋(しゃべ)ってることが渚(なぎさ)にバレたら、また、怒(おこ)られそうだが。
芳野(よしの)「マジか…」
俺(おれ)と接点(せってん)がないと確信(かくしん)して、口(くち)を滑(なめ)らせてしまったことを後悔(こうかい)しているようだった。
帰(かえ)ったら、渚(なぎさ)に教(おし)えてやろう。
朋也(ともや)「あのさ、伊吹(いぶき)って先生(せんせい)知(し)ってるか?」
晩(ばん)ご飯(はん)の席(せき)で、早速(さっそく)俺(おれ)は訊(き)いてみた。
渚(なぎさ)「はい。バスケの練習(れんしゅう)の日(ひ)に、朋也(ともや)くんも、ウチで会(あ)いました」
渚(なぎさ)「その伊吹先生(いぶきせんせい)がどうかしましたか」
朋也(ともや)「聞(き)いて、驚(おどろ)け」
朋也(ともや)「実(じつ)は、仕事場(しごとば)の直属(ちょくぞく)の先輩(せんぱい)が、その伊吹先生(いぶきせんせい)の彼氏(かれし)なんだよ」
渚(なぎさ)「えっ、それは驚(おどろ)きました」
朋也(ともや)「しかも、その先輩(せんぱい)…昔(むかし)はすげぇ売(う)れてたプロミュージシャンだったんだよ」
渚(なぎさ)「それは、すごいですっ」
朋也(ともや)「ああ、でも、その先輩(せんぱい)…芳野(よしの)さんには、いろんなことがあったんだ」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「いろんなものを失(うしな)い、そして唯一(ゆいいつ)の支(ささ)えも失(うしな)った…」
朋也(ともや)「最後(さいご)にこの町(まち)に帰(かえ)ってきて…そして、優(やさ)しい言葉(ことば)をかけてくれたのが、その伊吹先生(いぶきせんせい)だったってわけだ」
朋也(ともや)「それは、芳野(よしの)さんの、新(あたら)しい支(ささ)えだったんだ」
渚(なぎさ)「やっぱり、伊吹先生(いぶきせんせい)はすごいです…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)にすごい先生(せんせい)です」
朋也(ともや)「ちなみに、俺(おれ)にとって、その存在(そんざい)はおまえだけどな」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「だからきっと、おまえも同(おな)じぐらいすごいよ」
渚(なぎさ)「あ…ありがとうございますっ」
朋也(ともや)「礼(れい)を言(い)うのはこっちだって」
その後(あと)、芳野(よしの)さんのCDを荷物(にもつ)の中(なか)から掘(ほ)り起(お)こしてきて、渚(なぎさ)とふたりで聴(き)いた。
渚(なぎさ)「この声(こえ)、聞(き)いたことあります」
朋也(ともや)「やっぱ有名(ゆうめい)だったんだな」
渚(なぎさ)「はい。とても、素敵(すてき)な声(こえ)なので、忘(わす)れるわけないです」
渚(なぎさ)「曲(きょく)も、とてもいいです」
渚(なぎさ)には騒々(そうぞう)しすぎる音楽(おんがく)かと思(おも)ったが、気(き)に入(い)ってもらえたようだった。
芳野(よしの)さんの作(つく)る曲(きょく)は、音(おと)がハードでも、メロディ自体(じたい)はとても親(した)しみやすく、そして哀愁(あいしゅう)に満(み)ちていた。
そういう部分(ぶぶん)が、渚(なぎさ)の琴線(きんせん)にも触(ふ)れたのだろう。
朋也(ともや)「でも、このCDを出(だ)した時(とき)って、芳野(よしの)さん、今(いま)の俺(おれ)より若(わか)いんだぜ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ、それはすごいです…」
朋也(ともや)「ああ…」
迷(まよ)いのない純粋(じゅんすい)な声(こえ)。
自分(じぶん)の歌(うた)を、CDの芳野(よしの)さんは歌(うた)っていた。
他人(たにん)のためじゃないからこそ、それはより真(ま)っ直(す)ぐに届(とど)いた。
俺(おれ)はじっと天井(てんじょう)を見(み)つめながら、今日(きょう)聞(き)いた話(はなし)を思(おも)い返(かえ)していた。
俺(おれ)なんかが味(あじ)わったことのないような、栄光(えいこう)と挫折(ざせつ)。
現実(げんじつ)は、俺(おれ)が今(いま)想像(そうぞう)しているよりも、もっと壮絶(そうぜつ)だったに違(ちが)いない。
俺(おれ)は生(い)きていることは無意味(むいみ)だと思(おも)ったことはあったけど…それを終(お)わらせたいと思(おも)ったことはなかったから。
翌朝(よくあさ)。
渚(なぎさ)「あの、今日(きょう)、このCDをお借(か)りしていいですかっ」
芳野(よしの)さんのCDを手(て)に、支度(したく)をする俺(おれ)に訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「学校(がっこう)に持(も)っていくのか?
おまえにしては、勇気(ゆうき)あるな」
朋也(ともや)「よし、授業中(じゅぎょうちゅう)にがんがん聴(き)いてやれ」
渚(なぎさ)「そんなことしたらダメですっ、授業(じゅぎょう)はちゃんと先生(せんせい)の話(はなし)を聞(き)きます」
渚(なぎさ)「CDをお借(か)りするのは、帰(かえ)ってきてからです」
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)にこれを持(も)って、会(あ)いに行(い)こうかと思(おも)いまして…」
渚(なぎさ)「その…本当(ほんとう)は、卒業(そつぎょう)するまでは、こっちから会(あ)いに行(い)くことはしたくなかったんですけど…」
渚(なぎさ)「でも、これを聴(き)いたら…是非(ぜひ)とも感想(かんそう)を伝(つた)えたくなってしまいました…」
朋也(ともや)「本人(ほんにん)に、じゃなくて?」
渚(なぎさ)「はい…本人(ほんにん)さん…芳野(よしの)さんは、朋也(ともや)くん言(い)ってました」
渚(なぎさ)「大変(たいへん)なことがたくさんあったって…」
渚(なぎさ)「もしかしたら、あまり触(ふ)れられたくないことかもしれないです」
渚(なぎさ)「そういうことも伊吹先生(いぶきせんせい)に聞(き)けば、わかると思(おも)いますし…」
渚(なぎさ)「もちろん、詳(くわ)しい話(はなし)は聞(き)かないですけど…」
俺(おれ)にだってようやく打(う)ち明(あ)けてくれた昔(むかし)の話(はなし)だ。
初(はじ)めて会(あ)った人間(にんげん)にいきなり曲(きょく)の感想(かんそう)を言(い)われても、好意的(こういてき)に受(う)け取(と)ってもらえるはずがなかった。
朋也(ともや)「そうか…そうだな」
朋也(ともや)「そうしろよ」
だから、俺(おれ)はそう答(こた)えていた。
渚(なぎさ)「はい、ではお借(か)りします」
そういや、明後日(あさって)は休(やす)みだ。
明後日まで待って、一緒に行く
伊吹先生(いぶきせんせい)に会(あ)いにいく日(ひ)。
俺(おれ)たちはまず、渚(なぎさ)の実家(じっか)に立(た)ち寄(よ)っていた。
それは、伊吹先生(いぶきせんせい)へのおみやげとしてパンを買(か)うためだった。
渚(なぎさ)「ただいまです」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)さんが、店番(みせばん)をしていた。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、こんにちはっ」
朋也(ともや)「ちっす」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんっ」
早苗(さなえ)「はい、なんですか」
渚(なぎさ)「パンをいただきにきましたっ」
早苗(さなえ)「はいっ。好(す)きなだけ持(も)っていってくださいね」
渚(なぎさ)「いえ、自分(じぶん)のお金(かね)で買(か)います」
早苗(さなえ)「どうせ余(あま)ってしまうんですから、お金(かね)なんていらないですよっ」
渚(なぎさ)「いえ、そういうわけにはいかないですっ」
早苗(さなえ)「いらないですよっ」
両者(りょうしゃ)、一歩(いっぽ)も引(ひ)かない。
朋也(ともや)「じゃ…俺(おれ)、払(はら)うよ」
ふたりに驚(おどろ)かれる。なんだか面白(おもしろ)い。
朋也(ともや)「俺(おれ)、働(はたら)いてるから、大丈夫(だいじょうぶ)っすよ」
渚(なぎさ)「そんな、朋也(ともや)くん、悪(わる)いです」
早苗(さなえ)「そうですよ、朋也(ともや)さん。苦(くる)しい時(とき)は、お互(たが)い様(さま)です」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)が食(く)うんじゃないっす…」
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)に会(あ)いにいくって、昨日(きのう)、電話(でんわ)で話(はな)しました」
早苗(さなえ)「はい、そうでしたねっ」
本当(ほんとう)に覚(おぼ)えてたんかい。
渚(なぎさ)「先生(せんせい)、家(いえ)にいなかったですから、お母(かあ)さんにかけたんです」
早苗(さなえ)「はい。伊吹先生(いぶきせんせい)には、渚(なぎさ)が行(い)くこと、ちゃんと連絡(れんらく)しておきましたよ」
早苗(さなえ)「ですから、家(いえ)で待(ま)ってくれています」
渚(なぎさ)「忙(いそが)しくなかったんでしょうか…」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。心配(しんぱい)しないでお邪魔(じゃま)してきてください」
渚(なぎさ)「はい、そうします」
渚(なぎさ)「たくさん、パンを持(も)って」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)、うちのパン、大好(だいす)きでしたので」
朋也(ともや)「他人(たにん)にあげるものだから、もらい物(もの)ってのはよくないっしょ」
早苗(さなえ)「そうですね。わかりました」
早苗(さなえ)「では、一個(いっこ)10円(えん)にしておきますねっ」
朋也(ともや)「しないでくださいっ」
渚(なぎさ)「定価(ていか)でお願(ねが)いしますっ」
早苗(さなえ)「そうですか…わかりました」
早苗(さなえ)「普通(ふつう)のお客(きゃく)さんと同(おな)じようにしますねっ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
礼(れい)を言(い)って、トレイを手(て)に取(と)る渚(なぎさ)。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、パンをお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「これ、ふたつお願(ねが)いします。こっち、ひとつ、お願(ねが)いします」
てきぱきと俺(おれ)に指示(しじ)して、パンをトレイに積(つ)み上(あ)げさせる。
早苗(さなえ)「では、よろしく言(い)っておいてくださいね」
渚(なぎさ)「はい」
パンを包(つつ)んだ袋(ふくろ)を受(う)け取(と)って、古河(ふるかわ)パンを後(あと)にした。
渚(なぎさ)「こっちです」
渚(なぎさ)に先導(せんどう)されて、歩(ある)いていく。
渚(なぎさ)「もう、すぐそこです」
家(いえ)の前(まえ)で、じょうろを手(て)に、水(みず)やりをしている女性(じょせい)がいた。
渚(なぎさ)「いました」
すぐに渚(なぎさ)が声(こえ)をあげていた。
渚(なぎさ)「先生(せんせい)っ」
渚(なぎさ)は、そのそばまで駆(か)けつける。
渚(なぎさ)「こんにちはっ、古河(ふるかわ)です」
伊吹(いぶき)「こんにちは。早(はや)かったですね」
満面(まんめん)の笑(え)みで、迎(むか)える。
渚(なぎさ)「はい。早(はや)く会(あ)いたくて、早(はや)くきてしまいました」
伊吹(いぶき)「それは、先生(せんせい)、嬉(うれ)しいです」
伊吹(いぶき)「って、もう先生(せんせい)じゃないんですけどね」
伊吹(いぶき)「今日(きょう)は、よくいらっしゃいました」
伊吹(いぶき)「さぁ、あがってくださいね」
先生(せんせい)は門(もん)をくぐって、中(なか)に入(はい)る。
渚(なぎさ)「いえ…その…」
けど、渚(なぎさ)は道(みち)に立(た)ちつくしたままでいた。
伊吹(いぶき)「どうしましたか」
その渚(なぎさ)の元(もと)まで近(ちか)づいていって、優(やさ)しく訊(き)いた。
渚(なぎさ)「あの…」
渚(なぎさ)「まだ、制服(せいふく)着(き)ちゃってます…わたし…」
伊吹(いぶき)「はい、知(し)っていますよ」
渚(なぎさ)「だから、まだ家(いえ)には上(あ)がれません」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)に、気(き)を遣(つか)わせてしまうだけですから…」
伊吹(いぶき)「そんなこと、気(き)にしなくていいんですよ」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)はそう言(い)ってくれること、わかってました」
渚(なぎさ)「でも、次(つぎ)、先生(せんせい)とゆっくりお話(はな)するときは…」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)が気兼(きが)ねなく話(はな)せる自分(じぶん)でいたいんです」
渚(なぎさ)「これは、わたしが決(き)めたことです」
頑張(がんば)って、自分(じぶん)の思(おも)いを伝(つた)えていた。
伊吹(いぶき)「そうですか…わかりました」
伊吹(いぶき)「その日(ひ)を楽(たの)しみに待(ま)ってますね」
伊吹(いぶき)「がんばりましょうっ」
渚(なぎさ)「はいっ」
ふたりで、手(て)のひらをぐっと握(にぎ)り合(あ)う。
微笑(ほほえ)ましい光景(こうけい)だった。
伊吹(いぶき)「確(たし)か、岡崎(おかざき)さん」
伊吹先生(いぶきせんせい)が、俺(おれ)のほうを見(み)ていた。
朋也(ともや)「はい、岡崎(おかざき)っす」
伊吹(いぶき)「大事(だいじ)にしてくれてるんですね、渚(なぎさ)ちゃんのこと」
なんと答(こた)えたものか…。ええ、と軽(かる)く返事(へんじ)しておく。
伊吹(いぶき)「今(いま)の渚(なぎさ)ちゃんのいきいきとした表情(ひょうじょう)を見(み)ていたらわかります」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃんは、ほんとにいい彼氏(かれし)を見(み)つけましたね」
渚(なぎさ)「あ、それはすごく思(おも)います…はい…」
伊吹(いぶき)「これからも手放(てばな)さないようにしないとダメですよ」
渚(なぎさ)「はい、絶対(ぜったい)そうしますっ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)。パン」
ラブラブ話(ばなし)を断(た)ち切(き)るため、俺(おれ)は手(て)の袋(ふくろ)を抱(かか)え上(あ)げた。
渚(なぎさ)「ああ、すみません。お渡(わた)しします」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)、これ、家(うち)のパンです。よろしければ、どうぞ」
俺(おれ)から受(う)け取(と)った大(おお)きな袋(ふくろ)を手渡(てわた)す。
伊吹(いぶき)「ありがとうございます」
伊吹(いぶき)「こんなに?
すごい量(りょう)ですね。いいんですか?」
渚(なぎさ)「はい、遠慮(えんりょ)しないでください」
伊吹(いぶき)「それではいただきますね」
伊吹先生(いぶきせんせい)は、俺(おれ)にもにこりと笑(わら)いかけてくれる。
どうぞ、と手(て)を差(さ)し出(だ)して返(かえ)す。
渚(なぎさ)「ええと、あの、今日(きょう)は先生(せんせい)に伝(つた)えたいことがあってきたんです」
伊吹(いぶき)「はい、なんでしょう」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんに、CDを聴(き)かせてもらったんです」
伊吹(いぶき)「はい」
渚(なぎさ)「それが、すごくよくて…感動(かんどう)してしまいました」
渚(なぎさ)「詩(し)もメロディもすごくいいんです」
伊吹(いぶき)「はい」
渚(なぎさ)「歌声(うたごえ)がまた…すごくいいんです」
すごくいい以外(いがい)に言葉(ことば)が浮(う)かばないのか、おまえ。
伊吹(いぶき)「どんなCDなんですか。渚(なぎさ)ちゃんが、そんなに気(き)に入(い)る音楽(おんがく)なんて、先生(せんせい)も、興味(きょうみ)あります」
渚(なぎさ)「あの…これです」
言(い)って、手(て)に持(も)っていた袋(ふくろ)から一枚(いちまい)のCDを取(と)りだして先生(せんせい)に手渡(てわた)した。
伊吹(いぶき)「えっ…」
ジャケットを見(み)た先生(せんせい)は、それを思(おも)わず落(お)としそうになる。
渚(なぎさ)「わ、大丈夫(だいじょうぶ)ですかっ」
伊吹(いぶき)「あ、はい。ごめんなさい」
伊吹(いぶき)「でも、先生(せんせい)、びっくりしました」
渚(なぎさ)「はい」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃん、こんな音楽(おんがく)、聴(き)くんですね」
朋也(ともや)「それだけじゃないでしょ」
俺(おれ)は横(よこ)やりを入(い)れていた。
朋也(ともや)「しかも、先生(せんせい)の親(した)しい人(ひと)のCDだ」
伊吹(いぶき)「………」
伊吹(いぶき)「岡崎(おかざき)くん…よく、知(し)っていますね」
朋也(ともや)「その人(ひと)、俺(おれ)の仕事場(しごとば)の先輩(せんぱい)だから」
伊吹(いぶき)「え…?」
伊吹(いぶき)「ということは、あの岡崎(おかざき)くんなんですか」
朋也(ともや)「あのって…どのか、よくわからないんすけど」
伊吹(いぶき)「ごめんなさい。よくあの人(ひと)の口(くち)から、岡崎(おかざき)くんの名前(なまえ)は出(で)るんです」
…何(なに)を言(い)われてるんだろう。
伊吹(いぶき)「でも、すごい偶然(ぐうぜん)ですね」
朋也(ともや)「そう。渚(なぎさ)が、その音楽(おんがく)を気(き)に入(はい)ったのも、偶然(ぐうぜん)」
朋也(ともや)「別(べつ)に先生(せんせい)の親(した)しい人(ひと)のCDだからってわけじゃないっすよ」
渚(なぎさ)「そうです」
朋也(ともや)「こいつ、その感動(かんどう)をどうしても伝(つた)えたくなって…」
朋也(ともや)「卒業(そつぎょう)するまでは自分(じぶん)からは会(あ)わないように決(き)めていたのに、それを破(やぶ)って、ここまで来(き)たんすよ」
伊吹(いぶき)「そうなんですか…」
渚(なぎさ)「はい…それぐらい感動(かんどう)してしまいましたので」
朋也(ともや)「俺(おれ)も、人(ひと)から一回(いっかい)聴(き)かせてもらっただけだったんですけど、すごく印象(いんしょう)強(つよ)くて、すぐCD買(か)いにいきましたから」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、今(いま)まで自分(じぶん)だけ知(し)ってたなんて、ずるいです」
渚(なぎさ)「もっと早(はや)く聴(き)かせてほしかったです…」
朋也(ともや)「だって、おまえが、こんな音楽(おんがく)聴(き)けるとは思(おも)わなかったんだよ」
朋也(ともや)「いつも、だんごだんご言(い)ってるからさ」
渚(なぎさ)「もちろんだんご大家族(だいかぞく)は大好(だいす)きです」
渚(なぎさ)「でも、芳野(よしの)さんの音楽(おんがく)も大好(だいす)きです」
伊吹(いぶき)「やっぱり…」
俺(おれ)たちが騒(さわ)がしくしている中(なか)、伊吹先生(いぶきせんせい)は、ひとり呟(つぶや)いていた。
伊吹(いぶき)「祐(ゆう)くんの音楽(おんがく)はすごいんだ…」
渚(なぎさ)「もちろんですっ」
朋也(ともや)「もちろんっ」
俺(おれ)と渚(なぎさ)は声(こえ)を合(あ)わせて答(こた)えていた。
朋也(ともや)「うわっ、またラブラブ光線(こうせん)だしちまったよっ」
渚(なぎさ)「えっ?
何(なに)か、いけなかったですかっ?」
朋也(ともや)「い、いや…」
伊吹(いぶき)「ありがとうございます、お二人(ふたり)とも」
なぜか、伊吹先生(いぶきせんせい)が俺(おれ)たちに頭(あたま)を下(さ)げていた。
渚(なぎさ)「え、どうしてでしょうか」
伊吹(いぶき)「いえ、わたしがするべきことが見(み)えてきた気(き)がしましたので」
伊吹(いぶき)「それは、とても大変(たいへん)なことかもしれないですけど」
渚(なぎさ)の行動(こうどう)をきっかけにして、何(なに)かが動(うご)き始(はじ)めようとしていた。
朋也(ともや)「あのさ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おまえも、手伝(てつだ)ってやれよ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「何(なに)を手伝(てつだ)うのか、わかってんのか?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは優(やさ)しいですから、すぐわかります」
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんが、またCDを作(つく)って、いろんな人(ひと)に聴(き)いてもらえるようにすることです」
朋也(ともや)「ああ、その通(とお)り」
愚問(ぐもん)だった。
後日(ごじつ)。
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)がとてもいい案(あん)を思(おも)いついたんです」
渚(なぎさ)は夕飯(ゆうはん)の場(ば)でそう話(はなし)を切(き)りだした。
朋也(ともや)「どんな?」
渚(なぎさ)「自主制作(じしゅせいさく)です」
朋也(ともや)「自主制作(じしゅせいさく)っていうと…映画(えいが)とか、自分(じぶん)たちだけで撮(と)って見(み)せるのとかは聞(き)いたことあるけど」
渚(なぎさ)「はい。それを音楽(おんがく)CDで、するんです」
渚(なぎさ)「大(おお)きなCD屋(や)さんでは、専用(せんよう)のコーナーもあるという話(はなし)です」
朋也(ともや)「へぇ…そんなのがあったのか…」
渚(なぎさ)「すべての作業(さぎょう)を自分(じぶん)たちの手(て)でしなくてはならないので、とても大変(たいへん)です」
朋也(ともや)「だろうな。きっと、むちゃくちゃ大変(たいへん)だぞ、それ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「ですが、その代(か)わりに…」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の好(す)きな音楽(おんがく)ができます」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の好(す)きな音楽(おんがく)を続(つづ)けていけるんです」
朋也(ともや)「なるほど…」
確(たし)かに…それなら、芳野(よしの)さんも、やる気(き)になるかもしれない。
朋也(ともや)「いい案(あん)じゃないか」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「ですが、ひとつ問題(もんだい)があるんです」
渚(なぎさ)「太鼓(たいこ)を叩(たた)くひとがいないんです」
朋也(ともや)「………」
…太鼓(たいこ)。
あの芳野(よしの)さんが、和風(わふう)な音楽(おんがく)に方向転換(ほうこうてんかん)?
…んなアホな。
朋也(ともや)「…もしかしてドラムのことか?」
渚(なぎさ)「はい、そうです。すみません、いつもその名前(なまえ)を忘(わす)れてしまいます」
朋也(ともや)「いや…俺(おれ)も似(に)たようなもんだけど」
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんは、他(ほか)の楽器(がっき)はひとりでできるそうなんですが、ドラムだけは難(むずか)しいらしいんです」
朋也(ともや)「でも、芳野(よしの)さんだったら、うまい人(ひと)とか、知(し)り合(あ)いにいるんじゃないのか?」
渚(なぎさ)「それは、昔(むかし)一緒(いっしょ)にやってくれていた人(ひと)ですよね」
朋也(ともや)「だろうな」
渚(なぎさ)「頼(たの)むにはお金(かね)がかかるそうです」
朋也(ともや)「そうか…それはプロに頼(たの)むってことになるのか…」
渚(なぎさ)「はい。それに、そういう人(ひと)たちの力(ちから)を借(か)りずに作(つく)らないと意味(いみ)がないそうです」
朋也(ともや)「確(たし)かにな。プロに力借(ちからか)りてたら、自主制作(じしゅせいさく)の意味(いみ)がないよな…」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「ですので、困(こま)ってしまっています」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「叩(たた)けませんか」
朋也(ともや)「叩(たた)けません」
渚(なぎさ)「練習(れんしゅう)してみては、どうでしょう」
朋也(ともや)「あのな…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、今(いま)まで音楽(おんがく)とは無縁(むえん)の暮(く)らしをしてきたし、センスも皆無(かいむ)」
朋也(ともや)「そんな俺(おれ)が練習(れんしゅう)して、芳野(よしの)さんの後(うし)ろで叩(たた)くレベルになるなんて、生涯(しょうがい)ない」
渚(なぎさ)「生涯(しょうがい)ないなんてことは決(けっ)してないです」
渚(なぎさ)「いつかは、かなうと思(おも)います」
朋也(ともや)「十年後(じゅうねんご)ぐらいにかなえば、いいな」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「もう少(すこ)しがんばりましょう」
朋也(ともや)「じゃ、五年(ごねん)」
渚(なぎさ)「もう少(すこ)しがんばっちゃいましょう」
朋也(ともや)「じゃ、三年(さんねん)」
渚(なぎさ)「がんばって、一(いっ)ヶ月(げつ)に縮(ちぢ)めちゃいましょう」
朋也(ともや)「できるかっ」
朋也(ともや)「三年(さんねん)だって、五年(ごねん)だって無理(むり)」
朋也(ともや)「途中(とちゅう)で、挫折(ざせつ)するに決(き)まってる」
朋也(ともや)「そもそも、俺(おれ)に頼(たの)むってのがお門違(かどちが)いなんだよ。それに気(き)づけ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばり屋(や)さんです」
朋也(ともや)「そういう問題(もんだい)じゃなくて…人(ひと)には得手不得手(えてふえて)ってものがあるだろ?」
朋也(ともや)「後(あと)は適材適所(てきざいてきしょ)ってのも」
朋也(ともや)「俺(おれ)は不得手(ふえて)で、不適材(ふてきざい)なの」
渚(なぎさ)「そうなんでしょうか…」
朋也(ともや)「大体(だいたい)おまえは浅(あさ)はかなんだよ」
朋也(ともや)「どうせ、俺(おれ)がやってくれたら、うれしいって、安易(あんい)にそう思(おも)っただけだろ」
朋也(ともや)「その案(あん)に伊吹先生(いぶきせんせい)が賛同(さんどう)したか?」
渚(なぎさ)「いえ、これは、まだ言(い)ってないです」
朋也(ともや)「だろうな…言(い)ったら呆(あき)れられるよ」
渚(なぎさ)「伊吹先生(いぶきせんせい)は、呆(あき)れたりしません」
渚(なぎさ)「きっと、応援(おうえん)してくれます」
朋也(ともや)「………」
確(たし)かに…あの人(にん)なら、本当(ほんとう)にそうなりそうで恐(こわ)い。
朋也(ともや)「やめろ、言(い)うなっ」
渚(なぎさ)「はい?」
朋也(ともや)「とにかくだっ、俺(おれ)には無理(むり)。二度(にど)と、そんなアイデアを持(も)ち出(だ)すな」
渚(なぎさ)「困(こま)ってしまいました…」
渚(なぎさ)「わたし、伊吹先生(いぶきせんせい)に、とてもいい案(あん)を思(おも)いついたので任(まか)せておいてください、と胸(むね)を張(は)って帰(かえ)ってきてしまいました…」
朋也(ともや)「…おまえアホな子(こ)だろ」
渚(なぎさ)「なら、朋也(ともや)くんはアホな子(こ)の彼氏(かれし)です」
朋也(ともや)「アホな子(こ)の彼氏(かれし)かもしれないが、俺(おれ)はアホではない」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に暮(く)らしているので、うつってしまっています」
渚(なぎさ)「ですので、朋也(ともや)くんも、アホな子(こ)です」
朋也(ともや)「俺(おれ)は違(ちが)うっての。一緒(いっしょ)にすんな」
渚(なぎさ)「なら、いい案(あん)を考(かんが)えてください」
渚(なぎさ)「アホな子(こ)ではない朋也(ともや)くんなら、とてもいい案(あん)を思(おも)いつくはずです」
朋也(ともや)「む…そうきたか…」
逆(ぎゃく)に、渚(なぎさ)に俺(おれ)のずる賢(かしこ)さが移(うつ)っている気(き)がする…。
朋也(ともや)「ドラムを叩(たた)ける人(びと)ね…」
俺(おれ)は寝転(ねころ)がって、天井(てんじょう)に知(し)り合(あ)いの顔(かお)を順(じゅん)に描(えが)いていく。
誰(だれ)か、叩(たた)ける奴(やつ)がいただろうか。
それも、芳野(よしの)さんの足(あし)を引(ひ)っ張(ぱ)らないプロ並(な)みにうまい奴(やつ)…。
そんな奴(やつ)がこの町(まち)にいるのだろうか…。
朋也(ともや)(いるわけない…)
けど…
もしいるとしたら…
秋生(あきお)「…あん?」
漫画(まんが)なんかでよくある展開(てんかい)だ。
こういうときは、凄腕(すごうで)の助(すけ)っ人(ひと)が、灯台(とうだい)もと暗(くら)しのようにすぐ近(ちか)くにいるものである。
読者(どくしゃ)の意表(いひょう)を突(つ)き、そして、その後(あと)の展開(てんかい)をわくわくさせる人物(じんぶつ)。
俺(おれ)は見抜(みぬ)いた。
それが、この人(ひと)だ。
朋也(ともや)「俺(おれ)と来(き)てくれっ」
秋生(あきお)「なんだよっ!?」
秋生(あきお)「うおっ、てめぇ、力(ちから)、強(つよ)くなったなっ」
その腕(うで)を引(ひ)いて、俺(おれ)は外(そと)に連(つ)れ出(だ)した。
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんっ」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…どうした」
朋也(ともや)「紹介(しょうかい)したい人(ひと)がいるんですっ」
芳野(よしの)「あん?
こちらは?」
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)パンの主人(しゅじん)っす」
秋生(あきお)「なんかよくわからんが…古河秋生(ふるかわあきお)だ」
芳野(よしの)「芳野祐介(よしのゆうすけ)です」
秋生(あきお)「………」
朋也(ともや)「ほら、ふたり、握手(あくしゅ)して」
秋生(あきお)「なんかよくわからんが…よろしく」
芳野(よしの)「こちらこそ、何(なに)かはわからないですが、よろしくお願(ねが)いします」
ぐっと、固(かた)く手(て)を握(にぎ)り合(あ)った。
…この町(まち)最強(さいきょう)のバンドが、生(う)まれた瞬間(しゅんかん)だった。
朋也(ともや)「すげぇCD作(つく)ってくださいね」
秋生(あきお)「…あん?
こいつが何(なに)かするのか?」
朋也(ともや)「CD作(つく)るんだよ」
秋生(あきお)「おぅ、頑張(がんば)れ」
朋也(ともや)「オッサンもだよっ」
秋生(あきお)「なんだ、一曲(いっきょく)歌(うた)わせてくれるのか?」
朋也(ともや)「ボーカルじゃない。オッサンはドラムっ」
秋生(あきお)「ドラム…?」
朋也(ともや)「ああ。ドラムだよ」
秋生(あきお)「そうか…ドラムか…」
オッサンは遠(とお)い眼差(まなざ)しで、天井(てんじょう)を仰(あお)いだ。
そこに、かつての自分(じぶん)の姿(すがた)を映(うつ)し出(だ)しているのだろう。
そのプレイで、ライブ会場(かいじょう)の観客(かんきゃく)を湧(わ)かせた日々(ひび)。
やはりこの人(ひと)だったんだ…。
俺(おれ)の目(め)に狂(くる)いはなかったんだ。
秋生(あきお)「んなもん、やったことねぇや。じゃあな」
ずるぅっ!
俺(おれ)はもんどり打(う)って、床(ゆか)に滑(すべ)り込(こ)んでいた。
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「…おまえ、何(なに)がしたかったんだ?」
芳野(よしの)さんの視線(しせん)が痛(いた)かった。
朋也(ともや)「あの人(ひと)、なんでもできそうに見(み)えるから、騙(だま)されたよ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、アホな子(こ)です」
朋也(ともや)「いいよ。認(みと)めるよ…俺(おれ)はアホな子(こ)です」
それからまたしばらく時間(じかん)が経(た)った。
ある日(ひ)の晩(ばん)、帰宅(きたく)すると、やけに機嫌(きげん)のいい渚(なぎさ)が台所(だいどころ)に立(た)っていた。
ずっと、鼻歌(はなうた)を歌(うた)っている。
朋也(ともや)「何(なに)かあったのか?」
渚(なぎさ)「何(なに)もないです」
渚(なぎさ)「…えへへ」
朋也(ともや)「今(いま)、笑(わら)っただろ」
渚(なぎさ)「思(おも)い出(だ)し笑(わら)いです」
朋也(ともや)「何(なに)、思(おも)い出(だ)してたんだよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが、お父(とう)さんを芳野(よしの)さんのところまで引(ひ)っ張(ぱ)っていった話(はなし)です」
朋也(ともや)「もう忘(わす)れてくれ…」
翌日(よくじつ)。
芳野(よしの)「喜(よろこ)べ、俺(おれ)のファン」
朋也(ともや)「…え?」
芳野(よしの)「また、CDを作(つく)ることになった」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)っすかっ」
あまりに唐突(とうとつ)だったので、面食(めんく)らってしまう。
いつの間(ま)に事態(じたい)は好転(こうてん)したのだろう。
芳野(よしの)「本当(ほんとう)も何(なに)も、おまえの魂胆(こんたん)だろうが」
芳野(よしの)「それと、おまえの嫁(よめ)さんのな」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)たち、まだ結婚(けっこん)してないっす」
芳野(よしの)「そんなことは知(し)ったことじゃない」
芳野(よしの)「けど、おまえらふたりが、あの人(ひと)と結託(けったく)して、けしかけたことだろう」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)たちは、CDの感想(かんそう)を伝(つた)えただけで、何(なに)も…」
芳野(よしの)「足(た)りないドラマーを俺(おれ)に紹介(しょうかい)しようとしたじゃないか」
朋也(ともや)「あっ、そのドラムはどうなったんすか」
芳野(よしの)「やるしかないだろ」
朋也(ともや)「自分(じぶん)でですか?」
芳野(よしの)「ああ。昔(むかし)、遊(あそ)び半分(はんぶん)で叩(たた)かしてもらったことがある」
芳野(よしの)「そん時(とき)にコツだけは掴(つか)んでるんだ」
芳野(よしの)「後(あと)は、練習(れんしゅう)だな…」
朋也(ともや)「大変(たいへん)っすね」
芳野(よしの)「ああ、むちゃくちゃ大変(たいへん)だぞ」
芳野(よしの)「練習(れんしゅう)するにはスタジオを借(か)りないといけないしな…」
芳野(よしの)「そもそも、レコーディングってやつは、馬鹿(ばか)ほどお金(かね)がかかる」
芳野(よしの)「スタジオ代(だい)だけで、ン十万(じゅうまん)だぞ」
朋也(ともや)「マジっすか…」
芳野(よしの)「ああ」
芳野(よしの)「ひとりでやればレコーディングも時間(じかん)がかかるだろうし、どれだけ経費(けいひ)がかさむやら…」
芳野(よしの)「宣伝(せんでん)だって、チラシを作(つく)ったり、ライブハウスやレコードショップを回(まわ)ったり、自分(じぶん)の手(て)でしなくちゃならない」
芳野(よしの)「そうして完売(かんばい)させたとしても、赤字(あかじ)だ」
芳野(よしの)「逆(ぎゃく)にCDを作(つく)る経費(けいひ)を稼(かせ)ぐために、汗水(あせみず)流(なが)して働(はたら)くことになる…」
芳野(よしの)「インディーズってのは、そんな世界(せかい)だ」
芳野(よしの)「ロクなことがない…」
芳野(よしの)「どうして、俺(おれ)はそこまでしてやらなければならないんだ…?」
芳野(よしの)さんの言(い)うとおり、俺(おれ)たちがけしかけてしまったためだろうか。
俺(おれ)たちのせいで、後(あと)に引(ひ)けなくなってしまったのだろうか…。
本当(ほんとう)に、厄介事(やっかいごと)を俺(おれ)たちは持(も)ち込(こ)んでしまったのだろうか…。
芳野(よしの)さんの、平穏(へいおん)な生活(せいかつ)の日々(ひび)に。
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「答(こた)えは簡単(かんたん)だ」
芳野(よしの)「…自分(じぶん)がやりたいからだ」
朋也(ともや)「………」
思(おも)い出(だ)してみればいい。
二年前(にねんまえ)、春原(すのはら)がバンドをやっていると告(つ)げた時(とき)、この人(ひと)はどんな顔(かお)をした?
『へぇ…バンドか…』
『そいつは、いいなっ』
あの少年(しょうねん)のようにあどけない笑顔(えがお)が蘇(よみがえ)る。
音楽(おんがく)は、いつだって、変(か)わらず好(す)きだったんだ。
朋也(ともや)「でも、売(う)れちゃったりしたら、また…繰(く)り返(かえ)しにはならないんですか」
芳野(よしの)「大丈夫(だいじょうぶ)だ」
芳野(よしの)「もう、見(み)も知(し)らぬ他人(たにん)のことは歌(うた)わない」
芳野(よしの)「歌(うた)うのは、自分(じぶん)のことや、身近(みぢか)にいる人(ひと)のこと…」
芳野(よしの)「そうだな、この町(まち)のことを歌(うた)っていくことにする」
芳野(よしの)「それに、インディーズ以外(いがい)でやるつもりはない」
芳野(よしの)「まぁ、そもそも、今更(いまさら)俺(おれ)に誘(さそ)いが来(く)るとは思(おも)えないがな」
芳野(よしの)「もう、自分(じぶん)の稼(かせ)いだ金(かね)で…自分(じぶん)の歌(うた)いたい歌(うた)だけを形(かたち)にしていく」
芳野(よしの)「それが、俺(おれ)のやりたいことだからな」
芳野(よしの)「そして、それを、他(ほか)の誰(だれ)かにも気(き)に入(い)ってもらえたら、最高(さいこう)だ」
変(か)わらず好(す)きだったんだ。
他人(たにん)に聴(き)かせることも。
朋也(ともや)「趣味(しゅみ)っすね」
芳野(よしの)「そう。趣味(しゅみ)だ」
芳野(よしの)「とても、金(かね)のかかるな」
言(い)って、笑(わら)った。
芳野(よしの)「そうだ、おまえのことも歌(うた)にしてやろう」
朋也(ともや)「やめてくださいよっ」
芳野(よしの)「おまえが題材(だいざい)だと、いい曲(きょく)が浮(う)かびそうだ」
芳野(よしの)「例(たと)えば…」
芳野(よしの)「ラブ·アンド·スパナ」
芳野(よしの)「どうだ」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「女(おんな)のために働(はたら)く、おまえを象徴(しょうちょう)しているだろう?」
芳野(よしの)「よし、アルバムタイトルでイケそうだな」
朋也(ともや)「売(う)れなさそうっすね…」
芳野(よしの)「日本人(にほんじん)なら、やっぱ日本語(にほんご)のほうがいいか」
芳野(よしの)「じゃ…愛(あい)でスパナを回(まわ)す男(おとこ)」
朋也(ともや)「なんか恐(こわ)くないっすか」
芳野(よしの)「恐(こわ)い?」
朋也(ともや)「いっそ、頭(あたま)に恐怖(きょうふ)!!って付(つ)けてみたら、どうすか」
芳野(よしの)「恐怖(きょうふ)なら、愛(あい)じゃないだろう」
朋也(ともや)「鼻(はな)だと恐(こわ)いっすかね」
芳野(よしの)「あんまり恐(こわ)くないな…」
朋也(ともや)「ああ、思(おも)いつきましたっ」
朋也(ともや)「逆(ぎゃく)にすればいいんすよっ」
芳野(よしの)「逆(ぎゃく)?」
芳野(よしの)「こえぇぇーっ!」
朋也(ともや)「さらにサスペンスっぽくしてみましょうか」
芳野(よしの)「そんなの見(み)たくねぇーっ!」
芳野(よしの)「って、どんなアルバムだよっ!」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんが言(い)い出(だ)したんじゃないすか」
芳野(よしの)「恐怖(きょうふ)!!とか、鼻(はな)とか言(い)い出(だ)したのはおまえだ」
朋也(ともや)「でしたっけ?」
芳野(よしの)「やっぱ、ラブ·アンド·スパナだ」
朋也(ともや)「マジっすか…正直(しょうじき)、ダサいっすよ…」
芳野(よしの)「いいんだよ、俺(おれ)が良(よ)ければ」
芳野(よしの)「それが、インディーズだ」
朋也(ともや)「朗報(ろうほう)だ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「なんでしょうか」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんが、またCDを作(つく)るってさ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ」
朋也(ともや)「ああ、結構(けっこう)やる気(き)になってた」
渚(なぎさ)「実(じつ)は、わたし、昨日(きのう)のうちに知(し)ってました。えへへ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんには芳野(よしの)さんから直接聞(ちょくせつき)いてほしいということだったので、伊吹先生(いぶきせんせい)からも、口止(くちど)めされてたんです」
朋也(ともや)「そっか…」
なんだか気(き)を回(まわ)してもらったことが恥(は)ずかしくなって、頭(あたま)を掻(か)く。
朋也(ともや)「そうだよな」
朋也(ともや)「おまえと、伊吹先生(いぶきせんせい)がふたりで頑張(がんば)ってたんだもんな」
渚(なぎさ)「いえ、がんばったのは伊吹先生(いぶきせんせい)と芳野(よしの)さんです」
渚(なぎさ)「わたしは手伝(てつだ)えることがなかったですから、話(はなし)を聞(き)いていただけです」
朋也(ともや)「それでも、力(ちから)にはなっていたはずだ」
朋也(ともや)「そもそも、きっかけを与(あた)えたのはおまえだからな」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
渚(なぎさ)「だったら、うれしいです」
渚(なぎさ)「でも、本当(ほんとう)にがんばったのは、おふたりです」
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんは…簡単(かんたん)には自分(じぶん)の音楽(おんがく)を、他(ほか)の人(ひと)に聴(き)いてもらいたいとは言(い)ってくれなかったんです」
渚(なぎさ)「いつか、また、やりたい音楽(おんがく)じゃなくなってしまう…それが恐(こわ)かったみたいです」
渚(なぎさ)「でも、自分(じぶん)たちだけの手(て)で作(つく)り続(つづ)けていけば、それが守(まも)れるんです」
渚(なぎさ)「そして、自分(じぶん)のやりたい音楽(おんがく)に共感(きょうかん)してくれる人(ひと)だけが、買(か)ってくれると…そう言(い)ってました」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「それに、もう、あの人(ひと)のやりたい音楽(おんがく)の照準(しょうじゅん)はぶれないと思(おも)う」
朋也(ともや)「好(す)きな人(ひと)は、すぐそばにいて…」
朋也(ともや)「そして、好(す)きな町(まち)…その場所(ばしょ)で暮(く)らしているんだからな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、とても素敵(すてき)なことを言(い)っています」
朋也(ともや)「そうかな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「でも…夢(ゆめ)だけじゃ、食(く)っていけないからな。現実(げんじつ)は厳(きび)しい」
朋也(ともや)「そのことも、よくわかってるよ、あの人(ひと)は」
渚(なぎさ)「はい。ですので、朋也(ともや)くん、CD買(か)いましょうっ」
朋也(ともや)「ああ、言(い)われなくても買(か)うよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと、わたし、一枚(いちまい)ずつです」
朋也(ともや)「ふたりで暮(く)らしてんのに?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「まるで、いつか別(わか)れた時(とき)のために、それぞれで持(も)っておくみたいだな…」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「だったら、ふたりで一枚(いちまい)でいいですっ。朋也(ともや)くんとわたしのCDですっ」
朋也(ともや)「うそうそ」
朋也(ともや)「いいよ。一枚(いちまい)ずつ買(か)おう」
朋也(ともや)「一枚(いちまい)は聴(き)いて、一枚(いちまい)は大事(だいじ)に取(と)っておこう」
朋也(ともや)「二枚(にまい)とも、俺(おれ)たちのだ」
渚(なぎさ)「はい…そうしたいです」
それぐらいの価値(かち)はある。
なんたって、あの芳野祐介(よしのゆうすけ)が、俺(おれ)たちの暮(く)らしている町(まち)のことを歌(うた)うんだから。
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「うれしかったですか」
朋也(ともや)「そりゃ、もちろん…」
朋也(ともや)「言(い)っておくけどな、俺(おれ)はファンなんだぞ」
渚(なぎさ)「わたしもです」
渚(なぎさ)「そして、もっとたくさんのファンが待(ま)っています」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「届(とど)くといいな」
渚(なぎさ)「はいっ」
[/wrap]
seagull - 2009/7/21 11:25:00
[wrap=

同棲編,0,]


そして、6月(がつ)も終(お)わり…
梅雨(つゆ)も明(あ)ける頃(ころ)。
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん」
夕食(ゆうしょく)の席(せき)で。
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「お話(はなし)がありますっ」
いつになく力(ちから)が入(はい)っていた。
言(い)いにくいことに違(ちが)いなかった。
朋也(ともや)「どうした、水着(みずぎ)が欲(ほ)しいのか?」
渚(なぎさ)「いえ、違(ちが)いますっ」
渚(なぎさ)「あ、いえ…欲(ほ)しくないわけではないです…」
朋也(ともや)「よし、明日(あした)は休(やす)みだし、買(か)いにいくかっ」
渚(なぎさ)「ああ、そんな…本当(ほんとう)に水着(みずぎ)なんて買(か)ってしまっていいんでしょうか…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も見(み)てみたいしな。どうせスクール水着(みずぎ)しか持(も)ってなかったんだろ?」
渚(なぎさ)「はい…でも、スクール水着(みずぎ)でも、ぜんぜん構(かま)わないです」
朋也(ともや)「俺(おれ)が構(かま)うっての」
朋也(ともや)「やっぱ彼女(かのじょ)には可愛(かわい)くいてもらいたいしな」
朋也(ともや)「男(おとこ)たちの視線(しせん)を釘付(くぎづ)けにする渚(なぎさ)。ああ…なんて優越感(ゆうえつかん)」
渚(なぎさ)「そんな、わたしの水着姿(みずぎすがた)なんて、誰(だれ)も見(み)ないと思(おも)いますっ」
渚(なぎさ)「そんなにスタイル…よくないですので…」
朋也(ともや)「可愛(かわい)いけりゃなんでもOK」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)くも…」
ない、と否定(ひてい)しかけたところで、俺(おれ)は渚(なぎさ)を睨(にら)みつける。
卑下(ひげ)するな、という言(い)いつけをそうして思(おも)い出(だ)させてやった。
渚(なぎさ)「ああ…そうですよね…わたし、可愛(かわい)いですから、きっとなんでもOKですっ」
渚(なぎさ)「って、こんなこと言(い)ってたら、わたしヘンな子(こ)ですっ」
最高(さいこう)に愉快(ゆかい)だ。
渚(なぎさ)「もう、朋也(ともや)くん、わたしで遊(あそ)んでる気(き)がしますっ」
朋也(ともや)「まぁ、そうふくれるなって。明日(あした)はショッピングでハッスルしようぜ」
渚(なぎさ)「はいっ」
渚(なぎさ)「って、違(ちが)いますっ」
朋也(ともや)「え?
買(か)い物(もの)、行(い)きたくねぇの?」
渚(なぎさ)「ああ、それはとてもうれしいのですが、明日(あした)はダメです」
朋也(ともや)「どうして?」
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「お話(はなし)がありますっ」
振(ふ)り出(だ)しに戻(もど)っていた。
朋也(ともや)「どうしたんだよ、改(あらた)まって」
渚(なぎさ)「はい…あのですね…」
朋也(ともや)「嫌(いや)だ」
渚(なぎさ)「え?
話(はなし)、まだしてないです」
朋也(ともや)「おまえのことだ。きっと、俺(おれ)の気(き)が進(すす)まないようなことを提案(ていあん)しようとしてる」
渚(なぎさ)「それは、そうかもしれないです…」
渚(なぎさ)「でも、もうふたりで暮(く)らし始(はじ)めて、2ヶ月(げつ)です」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「週(しゅう)に一度(いちど)、わたしの家(いえ)には来(き)てもらっていますが…」
渚(なぎさ)「でも…」
渚(なぎさ)「まだ、朋也(ともや)くんの家(いえ)には行(い)っていないです…」
やっぱり…。
なんてことだ。
天国(てんごく)から、地獄(じごく)の底(そこ)へ叩(たた)き落(お)とされた気分(きぶん)だった。
あんなにも楽(たの)しい気分(きぶん)でいたのに…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、卒業(そつぎょう)してから…お父(とう)さんに何度(なんど)会(あ)いましたか」
朋也(ともや)「知(し)るか」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、わたしにはちゃんと正直(しょうじき)に話(はな)さないとダメです」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「一度(いちど)、荷物(にもつ)を取(と)りに行(い)って…それっきりだよ…」
渚(なぎさ)「そうですか…」
渚(なぎさ)「では、明日(あした)、会(あ)いに行(い)きましょう」
朋也(ともや)「嫌(いや)だ」
渚(なぎさ)「どうしてですか」
朋也(ともや)「俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「一生懸命(いっしょうけんめい)、働(はたら)いてるんだ…」
渚(なぎさ)「はい、わかってます」
朋也(ともや)「休(やす)みの日(ひ)ぐらい…おまえとふたりで過(す)ごしたい」
渚(なぎさ)「次(つぎ)の休(やす)みは、朋也(ともや)くんとふたりで過(す)ごします。約束(やくそく)します」
朋也(ともや)「嫌(いや)だ。明日(あした)もだ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
朋也(ともや)「おまえは…わかってくれてたんじゃないのか」
朋也(ともや)「あの人(ひと)と俺(おれ)の距離(きょり)をさ…」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に埋(う)まらない距離(きょり)をさ」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「でも、朋也(ともや)くんも、社会人(しゃかいじん)になって、たくさん辛(つら)いことありました」
渚(なぎさ)「ぜんぶ乗(の)り越(こ)えて、がんばってきました」
渚(なぎさ)「今(いま)なら、もっと前向(まえむ)きに、会(あ)いにいけるんじゃないかって、そう思(おも)います」
朋也(ともや)「………」
そうだろうか…。
俺(おれ)は…強(つよ)くなったのだろうか。
あの日(ひ)、あの場所(ばしょ)から逃(に)げ出(だ)してきた俺(おれ)が。
ただ、それをもう見(み)ないようにと、目(め)を背(そむ)けてきただけじゃないのか…。
それ以外(いがい)のことだったら、なんだって頑張(がんば)る。
おまえのために、渚(なぎさ)。
だから…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「わたしが居(い)ます。ずっとそばに居(い)ます」
渚(なぎさ)「ふたりだったら、なんだってがんばれるはずです」
渚(なぎさ)「違(ちが)いますか」
………
朋也(ともや)「………」
そう言(い)われると…違(ちが)うとは言(い)えなかった。
なんだって、ふたりで頑張(がんば)りたかった。
ずっと、頑張(がんば)ってきたんだから…。
でも…本当(ほんとう)に…
強(つよ)くなっていけるのだろうか…ふたりなら。
こんなにも…どうしようもないことでも…。
朋也(ともや)「じゃあさ…」
朋也(ともや)「ずっと、手(て)を繋(つな)いでいてくれるか」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「離(はな)したら…俺(おれ)はもう、逃(に)げるからな」
渚(なぎさ)「はい、帰(かえ)ってくるまで、絶対(ぜったい)に離(はな)さないです」
翌朝(よくあさ)。
ふたりは、岡崎(おかざき)、という表札(ひょうさつ)の前(まえ)に立(た)っていた。
卒業(そつぎょう)してから、ずっと訪(おとず)れていなかった場所(ばしょ)。
そして…渚(なぎさ)に至(いた)っては、本当(ほんとう)に初(はじ)めてだった。
渚(なぎさ)「緊張(きんちょう)します…」
渚(なぎさ)からしてみると、同棲(どうせい)している彼氏(かれし)の親(おや)に初(はじ)めて会(あ)う、それ以外(いがい)の何(なん)でもない状況(じょうきょう)だ。
ああ…あの人(ひと)が、普通(ふつう)の親(おや)だったらよかったのに。
そうすれば渚(なぎさ)も、俺(おれ)がオッサンや早苗(さなえ)さんと仲(なか)がいいように…新(あたら)しい家族(かぞく)が増(ふ)えたような、楽(たの)しい気分(きぶん)になれただろう。
そうなれない親(おや)で、申(もう)し訳(わけ)なかった。
朋也(ともや)「おまえ、汗(あせ)かいてる」
渚(なぎさ)「あ、はい…」
繋(つな)いだ手(て)をあげる。
朋也(ともや)「乾(かわ)かそうか」
渚(なぎさ)「いえ、いいです」
渚(なぎさ)「その…朋也(ともや)くんさえ、気持(きも)ち悪(わる)くなければ…」
渚(なぎさ)「ああ、いえ…気持(きも)ち悪(わる)くても離(はな)さないですっ」
ぎゅっ、と握(にぎ)った手(て)に力(ちから)を入(い)れた。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あのさ…悪(わる)いな」
渚(なぎさ)「え?」
朋也(ともや)「彼氏(かれし)の親(おや)に会(あ)うってだけでも、プレッシャーなのにさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も、問題(もんだい)抱(かか)えてて…」
朋也(ともや)「それも、見(み)てないといけなくてさ…」
渚(なぎさ)「いえ、ぜんぜん平気(へいき)です」
渚(なぎさ)「ああ、いえ…朋也(ともや)くんのお父(とう)さんに会(あ)うのは緊張(きんちょう)します」
渚(なぎさ)「こんな子(こ)で、気(き)に入(い)ってもらえるかなって…」
渚(なぎさ)「ですが、朋也(ともや)くんの問題(もんだい)は、わたしも一緒(いっしょ)になって努力(どりょく)できることが、とてもうれしいです」
渚(なぎさ)「ああ、いえ…うれしいと言(い)っては失礼(しつれい)でした」
朋也(ともや)「いや、いいよ」
朋也(ともや)「その気分(きぶん)、わかるし」
朋也(ともや)「おまえと出会(であ)ってからは、ずっと俺(おれ)、そんな気持(きも)ちでいたからな」
渚(なぎさ)「そうですか…なら、よかったです」
渚(なぎさ)「では、行(い)きましょう、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「ああ」
親父(おやじ)は、居間(いま)で何(なに)も体(からだ)にかけずに寝入(ねい)っていた。
渚(なぎさ)「いつも、こんなところで寝(ね)てらっしゃるんでしょうか」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「風邪(かぜ)、引(ひ)いてしまいます」
朋也(ともや)「慣(な)れてるんだよ、この人(ひと)は」
朋也(ともや)「おい、親父(おやじ)」
俺(おれ)はその肩(かた)を揺(ゆ)すった。
親父(おやじ)「ん…」
喉(のど)が鳴(な)った。続(つづ)いて目(め)が開(ひら)いた。
親父(おやじ)「あぁ…」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんじゃないか…」
体(からだ)を起(お)こし、膝(ひざ)を立(た)てて座(すわ)った。
渚(なぎさ)「あの、はじめましてっ」
その親父(おやじ)に向(む)かって、渚(なぎさ)が深々(ふかぶか)と頭(あたま)を下(さ)げていた。
親父(おやじ)「え…」
俺以外(おれいがい)の誰(だれ)かがこの家(いえ)にいる。それは、かつてない状況(じょうきょう)だった。
でも親父(おやじ)は一瞬(いっしゅん)驚(おどろ)いた後(あと)、すぐ落(お)ち着(つ)きを取(と)り戻(もど)してみせた。
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんの…お友達(ともだち)かい」
渚(なぎさ)「はい…わたし、古河渚(ふるかわなぎさ)と言(い)います」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとは、高校(こうこう)で、同(おな)じ学年(がくねん)で…親(した)しくしてもらってました」
親父(おやじ)「ああ…今(いま)は?」
渚(なぎさ)「今(いま)は…ええと…その…」
俺(おれ)は繋(つな)いでいた手(て)を親父(おやじ)の目(め)の前(まえ)に突(つ)きつけた。
朋也(ともや)「付(つ)き合(あ)ってる」
親父(おやじ)「ほぅ…朋也(ともや)くんも、ついに…」
親父(おやじ)「それは、よかったよかった」
なんて、嫌(いや)みな笑(え)みなのだろう…。
渚(なぎさ)「今(いま)は、ふたりで暮(く)らしてます」
親父(おやじ)「どこにだい?」
渚(なぎさ)「近(ちか)くのアパートです。今度(こんど)、案内(あんない)します」
やめてくれ。
親父(おやじ)「アパート…狭(せま)いんじゃないのかい?」
渚(なぎさ)「狭(せま)いかもしれないですが、広(ひろ)くなんてなくていいです」
渚(なぎさ)「今(いま)の広(ひろ)さで十分(じゅうぶん)です」
親父(おやじ)「最初(さいしょ)のうちは、家賃(やちん)もきついだろ」
…あんたに何(なに)がわかるって言(い)うんだ。
親父(おやじ)「この家(いえ)は借家(かりいえ)だけどね…遠慮(えんりょ)なく使(つか)ったらいい。部屋(へや)なら余(あま)っている」
渚(なぎさ)「いえ…贅沢(ぜいたく)すぎます」
渚(なぎさ)「わたしたち、自分(じぶん)たちの力(ちから)だけでがんばろうって、家(いえ)を出(で)たんです」
渚(なぎさ)「ですから…ありがたいお話(はなし)ですけど、甘(あま)えられないです」
親父(おやじ)「そうかい…」
親父(おやじ)「いつでもいい。辛(つら)くなったら、言(い)っておいで」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
…とてもいい人(ひと)です。
その目(め)がそう言(い)っていた。
だから、次(つぎ)言(い)おうとしたことが予想(よそう)できた。
渚(なぎさ)「あの…お父(とう)さん」
渚(なぎさ)が親父(おやじ)をそう呼(よ)んだ。
親父(おやじ)「うん?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんを…ずっと連(つ)れ出(だ)したままで、ごめんなさいです」
親父(おやじ)「いや…」
渚(なぎさ)「辛(つら)いのは、お父(とう)さんのほうかもしれないです」
渚(なぎさ)「ですから…」
言(い)うな…
…いつでも朋也(ともや)くんを連(つ)れてきます。
それは言(い)わないでくれ。
俺(おれ)はぎゅっ、と渚(なぎさ)の手(て)を強(つよ)く握(にぎ)りしめていた。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)は口(くち)を開(ひら)いたまま…止(と)まっていた。
渚(なぎさ)「ああ…その…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)…ごめんなさいです」
…思(おも)いは通(つう)じた。
親父(おやじ)「いや…そんな謝(あやま)ってもらわなくとも…」
親父(おやじ)「こうして会(あ)いにきてもらえただけでも、うれしいから」
渚(なぎさ)「はい」
親父(おやじ)「うん、本当(ほんとう)…」
親父(おやじ)「いつでも来(き)たらいい」
渚(なぎさ)「はい、ありがとうございます」
そこからは、当(あ)たり障(さわ)りのない話題(わだい)が続(つづ)く。
裏(うら)の空(あ)き地(ち)もなくなって、この辺(あた)りも少(すこ)しずつ変(か)わっていってるとか、そんな内容(ないよう)だった。
渚(なぎさ)は根気(こんき)よく相(あい)づちを打(う)ち、俺(おれ)は隣(となり)で聞(き)いているだけだった。
親父(おやじ)「朋也(ともや)くん?」
朋也(ともや)「え…?」
いきなり話(はなし)を振(ふ)られていた。
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんは…毎日(まいにち)、この子(こ)の手料理(てりょうり)を食(た)べているんだってね」
そう言(い)い直(なお)した。
朋也(ともや)「あ、ああ…」
親父(おやじ)「うらやましい。私(わたし)はいつも店屋物(てんやもの)だから」
渚(なぎさ)「あの…もうすぐお昼(ひる)ですから、作(つく)りましょうか」
渚(なぎさ)「ね」
これぐらいいいですよね、と俺(おれ)にも目配(めくば)せした。
親父(おやじ)と食卓(しょくたく)を囲(かこ)むなんて、ぞっとした。
そもそも何年(なんねん)ぶりになるだろう。
でも、これを耐(た)えれば、しばらく顔(かお)を合(あ)わせずに済(す)む。
それはさっき、渚(なぎさ)が態度(たいど)で約束(やくそく)してくれていた。
朋也(ともや)「ああ…」
だから、我慢(がまん)しようと思(おも)った。
冷蔵庫(れいぞうこ)を開(ひら)く渚(なぎさ)。
渚(なぎさ)「何(なに)もないです」
朋也(ともや)「やっぱ買(か)ってこないと駄目(だめ)か」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に来(き)てくれますか」
朋也(ともや)「もちろん」
親父(おやじ)をひとり残(のこ)し、俺(おれ)たちはスーパーへ買(か)い物(もの)に出(で)た。
戻(もど)ってきた時(とき)には、すでに一時(いちじ)を回(まわ)っていた。
渚(なぎさ)「遅(おそ)くなってしまいました。急(いそ)いで作(つく)りますので」
親父(おやじ)「いいよ、気長(きなが)に待(ま)ってるから」
親父(おやじ)の前(まえ)を駆(か)け抜(ぬ)け、台所(だいどころ)に戻(もど)る。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、手伝(てつだ)ってくれますか」
朋也(ともや)「ああ、手伝(てつだ)うけどさ…」
朋也(ともや)「このままでやるの?」
俺(おれ)は何時間(なんじかん)も繋(つな)いだままでいる、手(て)を持(も)ち上(あ)げてみせた。
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)の左手(ひだりて)で押(お)さえつけて、おまえの右手(みぎて)の包丁(ほうちょう)でさばく」
渚(なぎさ)「うまくやりましょう」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)、怪我(けが)するよっ!」
渚(なぎさ)「そうでしょうか」
朋也(ともや)「もう、いい。俺(おれ)の負(ま)け。離(はな)すから、ぞんぶんさばいてくれ」
渚(なぎさ)「離(はな)さないです」
朋也(ともや)「逃(に)げないから」
渚(なぎさ)「そんなの関係(かんけい)ないです」
朋也(ともや)「離(はな)してくれないと、俺(おれ)の左手(ひだりて)が危険(きけん)だ」
渚(なぎさ)「そうですか…だったら、仕方(しかた)がないです」
朋也(ともや)「その代(か)わり、腰持(こしも)っててやるから」
渚(なぎさ)「そんなとこ持(も)たれたら、わたしが怪我(けが)しますっ」
朋也(ともや)「うそ、うそ。すぐ後(うし)ろで見守(みまも)っててやるから」
渚(なぎさ)「だったら、安心(あんしん)です」
朋也(ともや)「じゃ、離(はな)すぞ」
渚(なぎさ)「はい」
ずっと指(ゆび)を曲(ま)げていたためか、開(ひら)くだけで痛(いた)みが走(はし)るほどだった。
ようやく手(て)のひらが外気(がいき)に触(ふ)れる。
ふたりぶんの汗(あせ)が冷(つめ)たくなっていく。
渚(なぎさ)「それでは、始(はじ)めます」
朋也(ともや)「おう、頑張(がんば)れ」
食卓(しょくたく)の椅子(いす)に座(すわ)ってぼーっと渚(なぎさ)の後(うし)ろ姿(すがた)を見(み)ていたら、遠(とお)くから話(はな)し声(ごえ)が聞(き)こえてきた。
テレビでもつけたのだろうか。
さらに聞(き)き耳(みみ)を立(た)てる。
親父(おやじ)の声(こえ)が混(ま)じっていた。
朋也(ともや)(客(きゃく)か…?)
覗(のぞ)いてみる。ちょうど俺(おれ)と向(む)かい合(あ)う格好(かっこう)で、見知(けんち)らぬ男(おとこ)が立(た)っていた。
男(おとこ)「こんにちは」
そいつが俺(おれ)に頭(あたま)を下(さ)げた。
親父(おやじ)「ん…朋也(ともや)くん」
床(ゆか)に座(すわ)り込(こ)んだままの親父(おやじ)も、俺(おれ)を振(ふ)り返(かえ)った。
親父(おやじ)「こちら、四條(しじょう)さん」
親父(おやじ)「私(わたくし)の、仕事仲間(しごとなかま)だよ」
仕事仲間(しごとなかま)…。
昔(むかし)のだろうか、新(あたら)しい人(ひと)だろうか。
昔(むかし)の仕事仲間(しごとなかま)なら、信用(しんよう)できた。
俺(おれ)の知(し)る限(かぎ)り、悪(わる)い人(にん)はいなかったはずだ。
活気(かっき)あった時代(じだい)の武勇伝(ぶゆうでん)を語(かた)り合(あ)うだけの呑(の)み仲間(なかま)だった。
けど、新(あたら)しい仕事仲間(しごとなかま)だというなら、絶対(ぜったい)に信用(しんよう)できない。
今(いま)の親父(おやじ)に、相手(あいて)を善人(ぜんじん)か悪人(あくにん)かなんて、判断(はんだん)できるはずがないからだ。
うまく儲(もう)け話(ばなし)を持(も)ちかけられれば、疑(うたが)いもせず乗(の)ってしまうに違(ちが)いなかった。
朋也(ともや)「仕事(しごと)って、なんのだよ」
親父(おやじ)「古物商(こぶつしょう)だよ」
聞(き)いたことがなかった。
朋也(ともや)「帰(かえ)れ」
俺(おれ)は低(ひく)い声(こえ)で、言(い)い放(はな)っていた。
男(おとこ)「え…?」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くん、この人(ひと)はね、いい人(ひと)なんだよ」
朋也(ともや)「帰(かえ)れって言(い)ってんだよ」
親父(おやじ)の言葉(ことば)なんて無視(むし)して、繰(く)り返(かえ)した。
男(おとこ)「あ、ああ…」
男(おとこ)「岡崎(おかざき)さん、また、今度(こんど)来(く)るよ」
朋也(ともや)「二度(にど)とくんなっ」
朋也(ともや)「次(つぎ)俺(おれ)が見(み)たら、叩(たた)き出(だ)してやるからなっ」
親父(おやじ)「………」
親父(おやじ)は呆然(ぼうぜん)と男(おとこ)の背(せ)を見送(みおく)っていた。
朋也(ともや)「なぁ…」
朋也(ともや)「昔(むかし)の仕事仲間(しごとなかま)に、相談(そうだん)したか」
親父(おやじ)「うん…」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)かっ」
親父(おやじ)「いや…まだだった…」
朋也(ともや)「………」
怒(いか)りのあまり、言葉(ことば)が出(で)ない…。
親父(おやじ)「でもね…そろそろ運(うん)が向(む)いてくるんじゃないかってね…」
親父(おやじ)「ずっと、いいことなかったからね…」
親父(おやじ)「今度(こんど)こそ、本当(ほんとう)に…」
その肩(かた)をひっ掴(つか)む。
朋也(ともや)「そんな大事(だいじ)なこと、勘(かん)なんかで決(き)めるな、馬鹿(ばか)っ!」
朋也(ともや)「あんたのどうしようもない運(うん)や勘(かん)なんかでっ…」
朋也(ともや)「あんたは、俺(おれ)のことをどう思(おも)ってるか知(し)らないけどなっ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)だって、そんな自覚(じかく)なんてさらさらねぇけどなっ…」
朋也(ともや)「でもなっ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はあんたの家族(かぞく)なんだよっ!」
親父(おやじ)「………」
しばらく、止(と)まったままでいた。
顎(あご)に手(て)を当(あ)てた。
そして、無精(ぶしょう)ひげを撫(な)でた。
親父(おやじ)「朋也(ともや)くん…」
親父(おやじ)「今日(きょう)はほら…」
親父(おやじ)「女(おんな)の子(こ)も来(き)てくれてることだし…」
なんだ…?
それが今(いま)の、言(い)い訳(わけ)か?
家族(かぞく)だと言(い)われて、肯定(こうてい)できない言(い)い訳(わけ)か?
朋也(ともや)「………」
なんでもいい。殴(なぐ)りつけたい。
壁(かべ)でも、窓(まど)ガラスでもいい。
堪える
俺(おれ)は目(め)を閉(と)じてみる。
息(いき)を落(お)ち着(つ)ける。
朋也(ともや)(渚(なぎさ)…)
朋也(ともや)(…渚(なぎさ)…渚(なぎさ)…)
その名(な)を心(こころ)の中(なか)で、連呼(れんこ)した。
朋也(ともや)(もう少(すこ)しで落(お)ち着(つ)けるからな…渚(なぎさ)…)
震(ふる)えていた手(て)…
朋也(ともや)「………」
それが温(あたた)かな別(べつ)の手(て)に、包(つつ)まれていた。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
ああ…本当(ほんとう)に…
一瞬(いっしゅん)で、気持(きも)ちが落(お)ち着(つ)いてしまう。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、大(おお)きな声(こえ)出(だ)してました」
朋也(ともや)「いや…なんでもない」
渚(なぎさ)「では、朋也(ともや)くん。手伝(てつだ)ってほしいです」
渚(なぎさ)「ちょっと、大変(たいへん)なところに差(さ)しかかりますので」
朋也(ともや)「ああ…」
状況(じょうきょう)を悟(さと)って、この場(ば)から連(つ)れ出(だ)してくれた渚(なぎさ)に感謝(かんしゃ)した。
その後(あと)、俺(おれ)と親父(おやじ)は一言(いちげん)も会話(かいわ)を交(か)わさずに過(す)ごした。
ただ、渚(なぎさ)と世間話(せけんばなし)をした。
何年(なんねん)ぶりかに囲(かこ)む、食卓(しょくたく)だったけど…
そこは家族(かぞく)の食卓(しょくたく)じゃなかった。
ただ、顔見知(かおみし)りが集(あつ)まっただけの…
それも、あまり親交(しんこう)が深(ふか)くない人(ひと)たちの、ちょっと気(き)まずいような…
…そんな食卓(しょくたく)だった。
帰(かえ)り。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、今日(きょう)はがんばりました」
朋也(ともや)「なんもしてねぇけど…」
渚(なぎさ)「いえ、会(あ)いに来(き)ました」
渚(なぎさ)「そして、最後(さいご)まで居(い)ました」
朋也(ともや)「まぁな…ずっと逃(に)げてたからな…俺(おれ)…」
渚(なぎさ)「わたしは、こんなのでもいいと思(おも)います」
渚(なぎさ)「疎遠(そえん)にさえ、ならなければ」
朋也(ともや)「家族(かぞく)でさえ、なくてもか…?」
朋也(ともや)「おまえ、昔(むかし)に言(い)ったじゃないか…離(はな)れていても、どこかで通(つう)じ合(あ)っていればいいって…」
朋也(ともや)「どこも通(つう)じていない」
朋也(ともや)「心(こころ)のどこも…通(つう)じ合(あ)っていないんだよ」
朋也(ともや)「それでもいいのか」
渚(なぎさ)「いえ、その最後(さいご)のつながりが…疎遠(そえん)にならないこと、だと思(おも)います」
繋(つな)がっているのか…今(いま)も。
渚(なぎさ)「男(おとこ)の子(こ)なんて、家(いえ)を出(で)てしまうと、正月(しょうがつ)ぐらいしか帰(かえ)ってこなくなるものだと、近所(きんじょ)の人(ひと)も言(い)っていました」
朋也(ともや)「………」
もし、本当(ほんとう)に一年(いちねん)に一度(いちど)や二度(にど)でいいと言(い)うなら…
だったら、耐(た)えられそうな気(き)がした。
そしてそれが、少(すこ)しでも前向(まえむ)きな姿勢(しせい)にとってもえるなら、救(すく)われる思(おも)いだ。
ずっと…いつだって、逃(に)げていた俺(おれ)だったから。
渚(なぎさ)には、そんな姿(すがた)、見(み)られたくなかった。
でも、結局(けっきょく)は…その渚(なぎさ)が隣(となり)に居(い)てくれるから、だけど…。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はときどき恐(こわ)くなるんだよ」
渚(なぎさ)「何(なに)がでしょうか」
朋也(ともや)「生(い)きる意味(いみ)を考(かんが)えるとさ」
渚(なぎさ)「生(い)きる意味(いみ)、ですか」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、渚(なぎさ)に出会(であ)うことができた」
朋也(ともや)「そして…渚(なぎさ)と一緒(いっしょ)に居(い)ることができた」
朋也(ともや)「俺(おれ)はさ…おまえと一緒(いっしょ)にいて、おまえを幸(しあわ)せにできれば、幸(しあわ)せなんだ」
朋也(ともや)「どれだけ仕事(しごと)がキツくても、汗(あせ)だくになって働(はたら)き続(つづ)ける」
朋也(ともや)「そして、家(いえ)に帰(かえ)ってきたら、おまえがいる」
朋也(ともや)「そんな毎日(まいにち)が、俺(おれ)の唯一(ゆいいつ)の幸(しあわ)せなんだ」
朋也(ともや)「だから、それが俺(おれ)の生(い)きる意味(いみ)なんだと思(おも)う」
朋也(ともや)「でもそれは、ただツイていただけなんじゃないか、って思(おも)う」
朋也(ともや)「もし、渚(なぎさ)と出会(であ)ってなかったら俺(おれ)は今(いま)、どうしてただろう…」
朋也(ともや)「どんな目標(もくひょう)を持(も)って、生(い)きてただろう」
朋也(ともや)「あんな家庭(かてい)で…あんな親(した)しかいなくて…」
朋也(ともや)「卒業(そつぎょう)したら、友達(ともだち)もいなくなって…」
朋也(ともや)「一緒(いっしょ)に頑張(がんば)れる奴(やつ)も…」
朋也(ともや)「こいつのために、頑張(がんば)ろうなんて奴(やつ)もいなくて…」
朋也(ともや)「何(なに)を糧(かて)に暮(く)らしてただろう…」
朋也(ともや)「今(いま)の俺(おれ)からしたら、渚(なぎさ)と一緒(いっしょ)に暮(く)らす以外(いがい)に、生(い)きる意味(いみ)なんて持(も)てなかったと思(おも)う」
朋也(ともや)「だから、恐(こわ)いんだよ…」
朋也(ともや)「出会(であ)いは仕組(しく)まれた運命(うんめい)とか言(い)うけどさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、そんなもの信(しん)じないから」
朋也(ともや)「結局(けっきょく)は運(うん)なんだと思(おも)う」
朋也(ともや)「今(いま)の俺(おれ)は渚(なぎさ)と出会(であ)えて幸運(こううん)だった」
朋也(ともや)「そう考(かんが)えると、普遍的(ふへんてき)な生(い)きる意味(いみ)なんてない気(き)がする」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「その時(とき)は…別(べつ)の誰(だれ)かが、朋也(ともや)くんのそばに居(い)たと思(おも)います」
朋也(ともや)「そうだろうか…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はひとりだったと思(おも)う」
朋也(ともや)「おまえだから、一緒(いっしょ)に居(い)たいと思(おも)ったんだ」
朋也(ともや)「別(べつ)におまえの前(まえ)だからって、いいように言(い)ってるんじゃない」
朋也(ともや)「あの時(とき)の俺(おれ)は、そうだったんだ」
朋也(ともや)「歳(とし)を取(と)ったら、また考(かんが)え方(かた)が変(か)わったのかもしれないけど…」
朋也(ともや)「それでもたぶん、渚(なぎさ)と出会(であ)ってなかったら、今(いま)はひとりだったと思(おも)う」
朋也(ともや)「それで…親父(おやじ)のことで悩(なや)んで…」
朋也(ともや)「支(ささ)えもなく、途方(とほう)に暮(く)れていたんじゃないかな…」
そして、生(い)きる意味(いみ)もないと悟(さと)った俺(おれ)は、どうなっていただろうか。
恐怖(きょうふ)の根元(こんげん)はそこにある。
生(い)きる、というあまりに漠然(ばくぜん)とした質量(しつりょう)の存在(そんざい)が、小(ちい)さな俺(おれ)という存在(そんざい)を飲(の)み込(こ)んでいく気(き)がした。
それは、圧倒的(あっとうてき)で…抗(あらが)いようもない。
ひとり叫(さけ)んでも、無駄(むだ)なのだ。
大(おお)きな意志(いし)には届(とど)きようもない。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)、そっちに行(い)っていいか…」
渚(なぎさ)「あ、はい…どうぞ」
俺(おれ)は自分(じぶん)の布団(ふとん)から抜(ぬ)けだし、渚(なぎさ)の隣(となり)に潜(もぐ)り込(こ)んだ。
渚(なぎさ)の体温(たいおん)で温(あたた)かかった。
しばらく触(ふ)れもせず、暗闇(くらやみ)の中(なか)で、互(たが)いの顔(かお)を見(み)つめ合(あ)った。
それから、結局(けっきょく)、俺(おれ)は渚(なぎさ)を抱(だ)きしめた。
その小(ちい)さな背中(せなか)に両腕(りょううで)を回(まわ)して、引(ひ)き寄(よ)せた。
胸(むね)と胸(むね)が合(あ)わさる。温(あたた)かい。
額(ひたい)と額(ひたい)も当(あ)てる。鼻(はな)も触(ふ)れさせ合(あ)う。
渚(なぎさ)のいい匂(にお)いがした。
俺(おれ)の支(ささ)えはこんなにも小(ちい)さかったけど、抱(だ)きしめているだけで子供(こども)のように安心(あんしん)できた。
そう、俺(おれ)はそんな存在(そんざい)に出会(であ)えた。
運(うん)が良(よ)かった。
それは、事実(じじつ)だ。
受(う)け止(と)めて、そのことはもう深(ふか)く考(かんが)えないようにしよう。
そして、後(あと)はただ、その存在(そんざい)を守(まも)り続(つづ)ける。
そのことだけを考(かんが)えて生(い)きていこう。
そう思(おも)った。
7月(がつ)も半(なか)ばを過(す)ぎると、蒸(む)し暑(あつ)い日(ひ)が多(おお)く続(つづ)くようになった。
夕方(ゆうがた)になると、西日(にしび)も強(つよ)くなり、部屋(へや)の温度(おんど)は急上昇(きゅうじょうしょう)する。
このままでは夕飯(ゆうはん)の支度(したく)をする渚(なぎさ)が、暑(あつ)さで辛(つら)い思(おも)いをすることになると思(おも)って、休(やす)みの日(ひ)に扇風機(せんぷうき)を探(さが)しにゴミ捨(す)て場(ば)へと出(で)かけた。
本格的(ほんかくてき)な夏(なつ)が来(く)る前(まえ)に買(か)い換(か)える人(ひと)が多(おお)いのだろう、そう苦労(くろう)もせず、完動品(かんどうひん)を見(み)つけだすことができた。
風力(ふうりょく)を替(か)えるのも、首(くび)を振(ふ)らせるのも、すべて手動(しゅどう)だったけど、どこだって手(て)を伸(の)ばせば届(とど)くような部屋(へや)だから、それだけの機能(きのう)で十分(じゅうぶん)だった。
部屋(へや)の片隅(かたすみ)に設置(せっち)する。
朋也(ともや)「これだけで、部屋(へや)が急(きゅう)に狭(せま)くなった気(き)がするな…」
渚(なぎさ)「でも、夏(なつ)が来(き)たって気(き)がします。なんだか風流(ふうりゅう)です」
朋也(ともや)「それは言(い)えるな」
スイッチを入(い)れて、回(まわ)してみる。
渚(なぎさ)「すごく涼(すず)しいです」
渚(なぎさ)が顔(かお)を近(ちか)づけて、前髪(まえがみ)をはためかせる。
朋也(ともや)「でも、やっぱ、クーラーも欲(ほ)しいよな」
渚(なぎさ)「いえ、扇風機(せんぷうき)だけで十分(じゅうぶん)です」
朋也(ともや)「これからどんどん暑(あつ)くなるんだぞ?」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。実家(じっか)にいるときも、そんなに冷房(れいぼう)は使(つか)ってませんでしたので」
朋也(ともや)「でも、この部屋(へや)…西日(にしび)が強(つよ)いからな」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。我慢(がまん)できます」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)か?」
渚(なぎさ)「はい。本当(ほんとう)です」
朋也(ともや)「ま、暑(あつ)かったら、パンツ一枚(いちまい)になってればいいか」
渚(なぎさ)「ならないですっ」
渚(なぎさ)「ちゃんと服(ふく)着(き)て、エプロン付(つ)けて、夕(ゆう)ご飯(はん)作(つく)ります」
朋也(ともや)「強風(きょうふう)で扇風機(せんぷうき)回(まわ)してな」
渚(なぎさ)「強風(きょうふう)では回(まわ)さないですけど、回(まわ)させていただきます」
朋也(ともや)「電気代(でんきだい)、けちんなよ」
渚(なぎさ)「はい」
そして、本格的(ほんかくてき)な夏(なつ)の到来(とうらい)。
滝(たき)のような汗(あせ)を流(なが)しながら、働(はたら)いた。
その日(ひ)は、仕事(しごと)も早(はや)く片(かた)づいていた。
親方(おやかた)「岡崎(おかざき)くんと、芳野(よしの)くん」
着替(きが)え終(お)えたところで、親方(おやかた)から声(こえ)をかけられた。
親方(おやかた)「ちょっと話(はなし)があるんだけど、いいかな」
朋也(ともや)「あ、はい。なんでしょうか」
芳野(よしの)さんは、黙(だま)って頷(うなず)くだけだった。
親方(おやかた)「ま、かけてよ」
朋也(ともや)「はい」
三人(さんにん)、向(む)かい合(あ)わせに座(すわ)る。
親方(おやかた)「ええとね、岡崎(おかざき)くん」
朋也(ともや)「はい」
親方(おやかた)は俺(おれ)のほうを見(み)て、話(はな)し始(はじ)める。
親方(おやかた)「わたしのね、古(ふる)い同僚(どうりょう)の人間(にんげん)なんだがね、今(いま)は元請(もとうけ)の会社(かいしゃ)で部長(ぶちょう)をやってるんだ」
朋也(ともや)「はぁ」
親方(おやかた)「そいつがね、現場(げんば)を監督(かんとく)できる人間(にんげん)を探(さが)してるんだよ」
朋也(ともや)「はぁ」
親方(おやかた)「勿論(もちろん)、岡崎(おかざき)くんが今(いま)すぐに現場監督(げんばかんとく)になれるわけじゃないけど、見習(みなら)いという形(かたち)でね」
親方(おやかた)「待遇(たいぐう)は正社員(せいしゃいん)だから今(いま)より給料(きゅうりょう)も上(あ)がるし、保障(ほしょう)もあるから」
親方(おやかた)はこれくらい、と計算機(けいさんき)を叩(たた)いて見(み)せてくれた。
朋也(ともや)「はあ、すごいっすね」
俺(おれ)の給料(きゅうりょう)の1.5倍(ばい)近(ちか)くあった。
親方(おやかた)「そりゃここより遙(はる)かに大(おお)きい会社(かいしゃ)だしね」
親方(おやかた)「どうだろう。いってみる気(き)はないかい」
朋也(ともや)「え…?
俺(おれ)っすか?」
芳野(よしの)「だから、おまえに話(はな)してるんだろ」
朋也(ともや)「でも、芳野(よしの)さんは…?」
芳野(よしの)「俺(おれ)は駄目(だめ)だ」
朋也(ともや)「そんな、これってものすごくいい話(はなし)じゃないっすか」
芳野(よしの)「そうだな」
朋也(ともや)「なら、芳野(よしの)さんが行(い)くべきですよ。現場監督(げんばかんとく)を欲(ほ)しいって話(はなし)じゃないですか」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんだったら、どこでも監督(かんとく)できるくらい実力(じつりょく)もあるし」
芳野(よしの)「いや、ここはおまえが行(い)くべきだ」
芳野(よしの)さんは譲(ゆず)らなかった。
いつもの怒鳴(どな)り声(ごえ)ではなく、穏(おだ)やかな声(こえ)で。
芳野(よしの)「俺(おれ)はこの会社(かいしゃ)を大(おお)きくしていきたいと思(おも)ってる」
芳野(よしの)「それに親方(おやかた)には恩義(おんぎ)があるしな」
朋也(ともや)「でも、何(なん)で俺(おれ)なんすか」
芳野(よしの)「勘違(かんちが)いするなよ。おまえを俺(おれ)の代(か)わりにってわけじゃない」
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)は俺(おれ)なんかと違(ちが)って物覚(ものおぼ)えは早(はや)いし、計数(けいすう)にも強(つよ)い。現場(げんば)だけの人間(にんげん)じゃないんだ」
芳野(よしの)「おまえは一生(いっしょう)下請(したう)けの現場(げんば)で終(お)わるようなタマじゃない」
芳野(よしの)「拾(ひろ)ってきたときはどうなるかと思(おも)ったが、おまえは俺(おれ)の期待(きたい)に応(こた)えてくれた」
芳野(よしの)「それどころか、俺(おれ)や親方(おやかた)の期待(きたい)や思(おも)いなんか越(こ)えて成長(せいちょう)した」
芳野(よしの)「元請(もとうけ)に行(い)けば、現場(げんば)の規模(きぼ)も大(おお)きくなる。給料(きゅうりょう)も増(ふ)えるし、生活(せいかつ)も楽(らく)になる」
芳野(よしの)「やれることが増(ふ)えるんだ」
芳野(よしの)「おまえにはまだまだ可能性(かのうせい)がある。それをここだけで潰(つぶ)したくない」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)は芳野(よしの)さんと、親方(おやかた)と一緒(いっしょ)に働(はたら)きたいって…」
親方(おやかた)「それは違(ちが)うよ、岡崎(おかざき)くん。そう言(い)ってくれるのは有(あ)り難(がた)いけどね」
親方(おやかた)は照(て)れたのか、鼻(はな)をかきながら言(い)った。
親方(おやかた)「僕(ぼく)も最初(さいしょ)は芳野(よしの)に勧(すす)めたんだ。どうかってね」
親方(おやかた)「そしたら『岡崎(おかざき)に行(い)かしてやってくれ』って言(い)ったのが、芳野(よしの)なんだよ」
親方(おやかた)「最初(さいしょ)は驚(おどろ)いたけど、話(はなし)を聞(き)いたら僕(ぼく)もそう思(おも)った」
それだけ言(い)って、親方(おやかた)は芳野(よしの)さんを見(み)た。
芳野(よしの)「俺(おれ)は人付(ひとづ)き合(あ)いは下手(へた)だし、技術(ぎじゅつ)以外(いがい)には取(と)り柄(え)なんかない」
芳野(よしの)「職人(しょくにん)にはなれるかもしれないが、監督(かんとく)は難(むずか)しいと思(おも)う」
芳野(よしの)「だからおまえになってほしいって思(おも)ってる」
芳野(よしの)「行(い)って、勉強(べんきょう)して、監督(かんとく)になってこい」
芳野(よしの)「俺(おれ)は、岡崎(おかざき)の下(した)で仕事(しごと)ができる日(ひ)を待(ま)ってる」
朋也(ともや)「そ、そんな…」
俺(おれ)は照(て)れたように、顔(かお)を伏(ふ)せた。
どんな顔(かお)をしていいかわからなかったのだ。
褒(ほ)められたことが…認(みと)められたことが、純粋(じゅんすい)に嬉(うれ)しかった。
俺(おれ)がそんな人間(にんげん)に成長(せいちょう)してたなんて…
あんなに、人間(にんげん)付(つ)き合(あ)いを拒絶(きょぜつ)し続(つづ)けてた学生時代(がくせいじだい)の俺(おれ)から…
こんなにも、変(か)わっていけるんだ、人(ひと)は。
それはあいつのおかげでもあった。
俺(おれ)は大好(だいす)きな人(ひと)の顔(かお)を思(おも)い浮(う)かべていた。
朋也(ともや)(すげぇ、セミの声(こえ)…)
朋也(ともや)(ま、これだけ木(ぎ)があるんだから、当(あ)たり前(まえ)か…)
何人(なんにん)もの生徒(せいと)が、俺(おれ)の姿(すがた)を訝(いぶか)しげに見(み)ていった。
薄汚(うすぎよご)れた作業着姿(さぎょうぎすがた)で、下校(げこう)していく生徒(せいと)をじろじろと見(み)ているのだから、当然(とうぜん)だった。
それでも、今(いま)の俺(おれ)は嬉(うれ)しさが先走(さきばし)って、そんなことはどうでもよくなっていた。
だから、渚(なぎさ)の姿(すがた)が見(み)えた直後(ちょくご)、周(まわ)りの目(め)も気(き)にせず、駆(か)けだしていた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ」
渚(なぎさ)「あ…朋也(ともや)くん、どうしましたか」
朋也(ともや)「聞(き)いてくれ、とてもいい話(はなし)なんだ」
渚(なぎさ)「ちょっと待(ま)ってください、ここまだ、学校(がっこう)の中(なか)です」
朋也(ともや)「いいじゃないか、そんなこと、どうでも」
渚(なぎさ)「落(お)ち着(つ)いてください、朋也(ともや)くん。わたしはどこにも行(い)かないです」
渚(なぎさ)「ずっと、朋也(ともや)くんのそばにいます」
笑顔(えがお)で、俺(おれ)の逸(そ)った気持(きも)ちを抑(おさ)えた。
それでも渚(なぎさ)の歩(ある)くペースに合(あ)わせるのはもどかしい。
朋也(ともや)「これ以上(いじょう)我慢(がまん)してたら、鼻血(はなぢ)が出(で)そうだぞ」
渚(なぎさ)「出(で)ないです」
ようやく、校門(こうもん)を出(で)た。
渚(なぎさ)「はい、学校(がっこう)を出(で)ました。聞(き)かせてください」
朋也(ともや)「うーん、そうだな…」
朋也(ともや)「ただで聞(き)かせてやるのはもったいないなぁ」
待(ま)たされた代(か)わりに、焦(あせ)らしてやる。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、お父(とう)さんと同(おな)じこと言(い)ってます」
朋也(ともや)「げ…マジか」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、いつもそうやって、遊(あそ)びます」
朋也(ともや)「今(いま)すぐ聞(き)け、聞(き)いてくれ」
渚(なぎさ)「はい、教(おし)えてください」
朋也(ともや)「つーのも、なんか填(は)められた気(き)がして嫌(いや)だな…」
渚(なぎさ)「やっぱりお父(とう)さん、そっくりです」
朋也(ともや)「聞(き)け、この野郎(やろう)」
渚(なぎさ)「今(いま)の言(い)い方(かた)も、お父(とう)さんそっくりです」
朋也(ともや)「ぐあーっ、どうしろって言(い)うんだよっ!」
渚(なぎさ)「ますます似(に)てきました」
朋也(ともや)「帰(かえ)る」
渚(なぎさ)「はい、帰(かえ)りましょう」
朋也(ともや)「ついてくるなっ」
渚(なぎさ)「帰(かえ)る家(いえ)は、同(おな)じです」
朋也(ともや)「そっか…そうだったな」
朋也(ともや)「くそっ」
渚(なぎさ)「お話(はな)しながら帰(かえ)りましょう」
渚(なぎさ)が横(よこ)に並(なら)ぶ。
朋也(ともや)「ちっ、わかったよ。話(はな)してやる」
俺(おれ)は観念(かんねん)する。
渚(なぎさ)「はい、聞(き)きたいです」
朋也(ともや)「仕事場(しごとば)の親方(おやかた)から、とってもいい話(はなし)をいただいたんだ」
渚(なぎさ)「どんなですか」
朋也(ともや)「昔(むかし)の同僚(どうりょう)が建設会社(けんせつかいしゃ)の部長(ぶちょう)さんをやってるらしいんだ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「それでゆくゆく現場(げんば)の監督(かんとく)できる人間(にんげん)を探(さが)してるらしい」
朋也(ともや)「社員雇用(しゃいんこよう)でな」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「もしかして、それに朋也(ともや)くん…」
朋也(ともや)「ああ。推薦(すいせん)してくれるって」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか。とても素敵(すてき)なお話(はなし)です」
渚(なぎさ)「うれしいです」
朋也(ともや)「俺(おれ)だって、嬉(うれ)しいよ」
渚(なぎさ)「よかったです、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「ああ、良(よ)かった」
朋也(ともや)「こんなに早(はや)くさ、そんなチャンスが来(く)るとは思(おも)わなかった」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばってましたから」
朋也(ともや)「いや、まだまだだけどさ…」
朋也(ともや)「それでも、こんないいこともあるんだな…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)によかったです」
自分(じぶん)のことのように喜(よろこ)んでくれる渚(なぎさ)。
その姿(すがた)を見(み)られただけでも、よかったと思(おも)う。
渚(なぎさ)「今日(きょう)の晩(ばん)ご飯(はん)は、ちょっと豪勢(ごうせい)にしてしまいます。いいですかっ」
朋也(ともや)「決(き)まってからのほうがいいと思(おも)うけど…ま、ちょっとだけなら、いいかな」
渚(なぎさ)「では、ちょっとだけ奮発(ふんぱつ)して、買(か)い物(もの)してしまいます」
朋也(ともや)「ああ。後(あと)、祝杯(しゅくはい)もあげよう」
渚(なぎさ)「ジュースでいいですかっ」
朋也(ともや)「おまえな…俺(おれ)は、社会人(しゃかいじん)だぞ?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、いくつでしたか」
朋也(ともや)「18だけど…」
渚(なぎさ)「未成年(みせいねん)です」
朋也(ともや)「未成年(みせいねん)でも、もう学生(がくせい)じゃないんだ、目(め)をつぶれよ」
渚(なぎさ)「ダメです」
朋也(ともや)「ぐあぁーっ」
渚(なぎさ)「叫(さけ)んでもダメです」
朋也(ともや)「かんぱーいっ」
ちんっ。
グラスを合(あ)わせる音(おと)が六畳半(ろくじょうはん)の部屋(へや)に響(ひび)く。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、これで満足(まんぞく)です」
グラスに注(そそ)がれているものは、アルコール分(ぶん)0.2%のシャンパン。
渚(なぎさ)「これだったら、未成年(みせいねん)でも飲(の)めます」
朋也(ともや)「50本(ほん)飲(の)んで、意地(いじ)でも酔(よ)ってやる…」
渚(なぎさ)「お腹(なか)いっぱいになって、ご飯(はん)が食(た)べられなくなります」
朋也(ともや)「頑張(がんば)るよ」
渚(なぎさ)「そんなことがんばっちゃダメです」
渚(なぎさ)「せっかくの料理(りょうり)がもったいないです」
ちゃぶ台(だい)に目(め)を移(うつ)す。
そこにはたっぷりの千切(せんぎ)りキャベツが添(そ)えられた大(おお)きなトンカツ。
渚(なぎさ)「スーパーでは最高(さいこう)級(きゅう)のお肉(にく)ですので、とても柔(やわ)らかいと思(おも)います」
それを見(み)ると思(おも)い出(だ)す。
朋也(ともや)「そういや、おまえん家(いえ)に初(はじ)めていったときも、トンカツだったよな」
渚(なぎさ)「あ…そういえばそうです」
渚(なぎさ)「お肉(にく)も、おんなじかもしれないです」
朋也(ともや)「キャベツの千切(せんぎ)りも同(おな)じぐらいの山(やま)だったよ」
渚(なぎさ)「たくさん付(つ)け合(あ)わせたほうが、おいしいですから」
渚(なぎさ)「こうやって、一緒(いっしょ)にソースかけて」
やることまで全部(ぜんぶ)、同(おな)じ。
見(み)ていて、微笑(ほほえ)ましかった。
あの頃(ころ)より、ずっと大変(たいへん)な生活(せいかつ)になっているのに、あの頃(ころ)より、ずっと安(やす)らいでいる。
あの日(ひ)は、違和感(いわかん)さえ覚(おぼ)えていたはずだ、俺(おれ)は。
こんな心休(こころやす)まる穏(おだ)やかな日常(にちじょう)に。
でも、今(いま)は、こんな日常(にちじょう)があるからこそ、前(まえ)に進(すす)んでいける。
後片(あとかた)づけをふたりで終(お)えると、渚(なぎさ)はひとり、机(つくえ)に向(む)かう。
朋也(ともや)「宿題(しゅくだい)か?」
渚(なぎさ)「はい、二科目(にかもく)も出(で)てしまいました」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「手伝(てつだ)おうか?」
渚(なぎさ)「ズルはダメです」
朋也(ともや)「そっか…ズルか」
渚(なぎさ)「はい。ひとりでやらないとダメです」
今日(きょう)は寝(ね)るまで、ふたりで喜(よろこ)びを分(わ)かち合(あ)っていたいと思(おも)ったのだが、そうもいかないようだった。
勉強(べんきょう)する渚(なぎさ)の後(うし)ろで、音量(おんりょう)を小(ちい)さくしてテレビを見(み)ていた。
朋也(ともや)(面白(おもしろ)くない…)
朋也(ともや)(ああ…このままテレビを見(み)て、今日(きょう)という喜(よろこ)びに満(み)ちた日(ひ)が終(お)わってしまうのだろうか…)
渚(なぎさ)を振(ふ)り返(かえ)る。
脇目(わきめ)も振(ふ)らず宿題(しゅくだい)をしていた。
後ろから抱きつく
机(つくえ)に向(む)かっていた渚(なぎさ)の真後(まうし)ろに座(すわ)り、その背中(せなか)に抱(だ)きついた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
振(ふ)り返(かえ)る渚(なぎさ)。まつげの数(かず)まで数(かぞ)えられるような距離(きょり)。
朋也(ともや)「いや、抱(だ)きつきたくなっただけ。邪魔(じゃま)か?」
渚(なぎさ)「いえ、ぜんぜん邪魔(じゃま)ではないです」
朋也(ともや)「このままでも、宿題(しゅくだい)できるか?」
渚(なぎさ)「はい…そのままだったら、ぜんぜん構(かま)わないです」
渚(なぎさ)「安心(あんしん)できて、逆(ぎゃく)にはかどるかもしれません」
朋也(ともや)「暑(あつ)くないか?」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。扇風機(せんぷうき)も回(まわ)ってます」
朋也(ともや)「そっか…じゃ、こうしてる」
渚(なぎさ)「はい」
机(つくえ)の上(うえ)に広(ひろ)げられたノートに目(め)を落(お)とす。
目(め)の動(うご)きで、字(じ)を追(お)っているのがわかる。
たまにぱちくり、と瞬(まばた)きをした。
頭(あたま)を悩(なや)ませているのか、唇(くちびる)に力(ちから)を入(い)れている。
朋也(ともや)(…可愛(かわい)い)
もっと強く抱きしめてみる
俺(おれ)は思(おも)わず、抱(だ)きしめる腕(うで)に力(ちから)を込(こ)めていた。
渚(なぎさ)「あ…」
唇(くちびる)の結(むす)びが解(と)け、小(ちい)さな声(こえ)が漏(も)れた。
朋也(ともや)「あ、悪(わる)い…」
渚(なぎさ)「いえ…ちょっと驚(おどろ)いてしまっただけで…」
渚(なぎさ)「その…強(つよ)くしてもらっても、ぜんぜん構(かま)わないです」
朋也(ともや)「マジで?」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「じゃ、そうしたくなったら、そうするな」
渚(なぎさ)「はい」
再(ふたた)び、ノートに目(め)を戻(もど)す。
朋也(ともや)(でも、渚(なぎさ)って、本当(ほんとう)にいい匂(にお)いするなぁ…)
朋也(ともや)(風呂上(ふろあ)がりでもないのに…)
首筋(くびすじ)に鼻(はな)を当(あ)てて、その匂(にお)いに包(つつ)まれる。
朋也(ともや)(髪(かみ)の匂(にお)いかな…)
朋也(ともや)(体(からだ)のほうはどうなんだろう…)
朋也(ともや)(女(おんな)の子(こ)は、汗(あせ)をかいても、いい匂(にお)いがするのか…?)
調べてみる
上着(うわぎ)の襟(えり)を引(ひ)っ張(ぱ)って、胸元(むなもと)に鼻面(はなづら)を突(つ)っ込(こ)んでみる。
渚(なぎさ)「わぁっ」
渚(なぎさ)が声(こえ)をあげて、飛(と)び退(の)いていた。
朋也(ともや)「気(き)にしないで、勉強(べんきょう)しててくれ」
渚(なぎさ)「今(いま)のはちょっと…」
朋也(ともや)「さすがに邪魔(じゃま)だったか…」
渚(なぎさ)「いえ、そういうわけではないですけど…」
渚(なぎさ)「ちょっとびっくりしてしまいました…」
渚(なぎさ)「でも、その…」
渚(なぎさ)「こんな明(あか)るいところで、あんまり見(み)てほしくないです…」
朋也(ともや)「何(なに)を?」
渚(なぎさ)「えっ…」
朋也(ともや)「何(なに)も見(み)ようなんてしてないけど」
渚(なぎさ)「ああ…わたしの勘違(かんちが)いでした…」
なぜか顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしている。
渚(なぎさ)「では、勉強(べんきょう)に戻(もど)ります」
朋也(ともや)「ああ」
再(ふたた)び、机(つくえ)に向(む)かう。
俺(おれ)も、先(さき)ほどと同(おな)じように寄(よ)り添(そ)う。
今度(こんど)は驚(おどろ)かずに、じっとしていてくれるだろう。
襟(えり)を引(ひ)っ張(ぱ)って、隙間(すきま)を空(あ)けた。
渚(なぎさ)「………」
顔(かお)を突(つ)っ込(こ)む。
渚(なぎさ)「あの…朋也(ともや)…くん…」
鎖骨(さこつ)の辺(あた)りに鼻(はな)を当(あ)てて、息(いき)を吸(す)った。
くんくん…
渚(なぎさ)「わぁっ」
また、飛(と)び退(の)かれた。
朋也(ともや)「ありゃ?」
渚(なぎさ)「今(いま)、朋也(ともや)くん、何(なに)してましたかっ」
朋也(ともや)「え?
なにって…」
そういえばさっき、あんまり見(み)てほしくない、とか言(い)っていたが…。
ああ、そうか。
朋也(ともや)「おまえ、胸(むね)を見(み)られてるもんだと思(おも)ったんだな」
朋也(ともや)「違(ちが)うよ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)でしょうか…」
朋也(ともや)「ああ。体(からだ)の匂(にお)い嗅(か)いでただけだから、安心(あんしん)しろ」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「そっちのほうが、嫌(いや)ですっ」
朋也(ともや)「え?
そうなの?」
渚(なぎさ)「お風呂入(ふろはい)ってない女(おんな)の子(こ)の体(からだ)の匂(にお)いなんて嗅(か)いだらダメですっ」
朋也(ともや)「そりゃ、悪(わる)い…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ヘンだと思(おも)いますっ」
朋也(ともや)「いや、好(す)きな女(おんな)の子(こ)の匂(にお)いを嗅(か)ぎたくなるのは、自然(しぜん)だと思(おも)うけどな…」
渚(なぎさ)「だって、期待(きたい)に添(そ)える匂(にお)いじゃないかもしれないです」
渚(なぎさ)「って、絶対(ぜったい)わたし、ヘンなこと言(い)ってますっ」
朋也(ともや)「そうか?」
渚(なぎさ)「はい…ですので、もう、匂(にお)い嗅(か)いだらダメです」
渚(なぎさ)「お風呂(ふろ)入(い)るまでは、匂(にお)い嗅(か)ぐの禁止令(きんしれい)です」
朋也(ともや)「そりゃ残念(ざんねん)…」
朋也(ともや)「なんか、女(おんな)の子(こ)の未知(みち)の領域(りょういき)を開拓(かいたく)している気(き)がして、面白(おもしろ)かったのに」
渚(なぎさ)「開拓(かいたく)したらダメですっ」
日曜(にちよう)の午後(ごご)。
俺(おれ)たちは、来客(らいきゃく)を待(ま)っていた。
渚(なぎさ)は夕(ゆう)べからそわそわしていた。
それは…緊張(きんちょう)もするだろう。
相手(あいて)が相手(あいて)だけに。
呼(よ)び鈴(りん)が鳴(な)った。
俺(おれ)と渚(なぎさ)は顔(かお)を見合(みあ)わせる。
渚(なぎさ)「はいっ」
朋也(ともや)「はいっ」
ふたり同時(どうじ)に返事(へんじ)をして、立(た)ち上(あ)がる。
そして、ふたりで出迎(でむか)えた。[/wrap]

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芳野,0,]


芳野(よしの)「こんにちは」
…芳野祐介(よしのゆうすけ)を。
渚(なぎさ)「お茶(ちゃ)、どうぞ」
芳野(よしの)「お構(かま)いなく」
渚(なぎさ)「狭(せま)くて、申(もう)し訳(わけ)ないです」
芳野(よしの)「いえ、懐(なつ)かしいと思(おも)ってたところですよ」
芳野(よしの)「自分(じぶん)も、似(に)た部屋(へや)に住(す)んでいました」
渚(なぎさ)「そうでしたか…」
渚(なぎさ)「あのっ、改(あらた)めてご挨拶(あいさつ)を」
芳野(よしの)「そうですね」
芳野(よしの)「芳野祐介(よしのゆうすけ)です」
渚(なぎさ)「古河渚(ふるかわなぎさ)ですっ」
渚(なぎさ)は力(ちから)が入(はい)りっぱなしだった。
渚(なぎさ)「あの…お会(あ)いできて、とてもうれしいです」
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんの音楽(おんがく)、とても好(す)きなので」
芳野(よしの)「ありがとうございます」
朋也(ともや)「おまえ、『いい』とか『好(す)き』以外(いがい)に感想(かんそう)はないのか」
渚(なぎさ)「あ…ごめんなさいです」
芳野(よしの)「いや…岡崎(おかざき)よ」
芳野(よしの)「そんな素朴(そぼく)な感想(かんそう)が嬉(うれ)しいもんなんだよ」
渚(なぎさ)「そうですか…だったら、よかったです」
芳野(よしの)「それでは、こちらがようやく完成(かんせい)した新(あたら)しいアルバムです」
芳野(よしの)「お受(う)け取(と)り下(くだ)さい、渚(なぎさ)さん」
渚(なぎさ)「あ、はいっ」
渚(なぎさ)「お、お金(かね)っ…」
芳野(よしの)「いりませんよ」
芳野(よしの)「あなたとこいつのおかげで、完成(かんせい)した一枚(いちまい)です」
芳野(よしの)「私(わたし)からふたりに贈(おく)らせて下(くだ)さい」
渚(なぎさ)「で、でも…」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
俺(おれ)は、この場(ば)はもらっておけ、と頷(うなず)いた。
また、店(みせ)で見(み)つけたら、お金払(かねはら)って買(か)えばいいと思(おも)った。
渚(なぎさ)「はい…では、ありがとうございます」
それを受(う)け取(と)った。
芳野(よしの)「渚(なぎさ)さん、その代(か)わりと言(い)ってはなんですが、約束(やくそく)してほしいんです」
渚(なぎさ)「はい?」
芳野(よしの)「こいつみたいな男(おとこ)には、あなたのような人(ひと)が必要(ひつよう)なんです」
聞(き)いたことのある口上(こうじょう)だった…。
芳野(よしの)「俺(おれ)たちのような人間(にんげん)は、ひとりで生(い)きてしまうと、ロクなことにならない」
芳野(よしの)「役(やく)に立(た)たないことばかりして、生(い)きてしまう…」
芳野(よしの)「けど、あなたがいれば、こいつは、懸命(けんめい)に汗水(あせみず)流(なが)して、金(かね)を稼(かせ)いでいける」
芳野(よしの)「それが自分(じぶん)のためであっても…」
芳野(よしの)「誰(だれ)かの、ためになっているんです」
渚(なぎさ)「はい、それは…とても素敵(すてき)なことだと思(おも)います」
芳野(よしの)「そうです。素晴(すば)らしいことです」
芳野(よしの)「だから、どうか、こいつを…」
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)を…」
芳野(よしの)「いつまでも、あなたを幸(しあわ)せにするために生(い)きさせてやって下(くだ)さい」
初(はじ)めて聞(き)いたセリフだったら、俺(おれ)も感動(かんどう)していただろうに…。
渚(なぎさ)「はい…約束(やくそく)します」
渚(なぎさ)がCDを胸(むね)に当(あ)て、頷(うなず)いていた。
渚(なぎさ)「こんな、わたしですけど…」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、おまえじゃなきゃ、こんなに頑張(がんば)れていないよ」
渚(なぎさ)「だったら、うれしいです」
朋也(ともや)「いい加減(かげん)自信(じしん)持(も)てっての」
渚(なぎさ)「はいっ、自信(じしん)、持(も)っちゃいます」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、わたしのためにがんばってほしいです」
朋也(ともや)「ああ、頑張(がんば)るぞ」
芳野(よしの)「ふ…」
芳野(よしの)「おまえら、恥(は)ずかしいぐらいに仲(なか)いいな」
朋也(ともや)(しまったぁ!)
いつの間(ま)にか、俺(おれ)までラブラブウェーブに飲(の)まれていた!
芳野(よしの)「けどな…」
芳野(よしの)「時間(じかん)が経(た)てば、変(か)わっていくこともあるだろう」
芳野(よしの)「たったひとつのことだって、守(まも)っていくのは難(むずか)しいものだ」
芳野(よしの)「でも、ふたりなら、きっと大丈夫(だいじょうぶ)」
芳野(よしの)「この町(まち)から愛(あい)が消(き)えてしまわぬ限(かぎ)り…」
頼(たの)むから口(くち)に出(だ)さずに、歌(うた)ってください。
芳野(よしの)「じゃあ、そろそろおいとまするよ」
朋也(ともや)「え、もうっすか」
芳野(よしの)「ああ。これから用(よう)があるんだ。隣町(となりまち)まで出(で)なきゃならない」
渚(なぎさ)「そうですか…残念(ざんねん)です」
渚(なぎさ)「でも、とても楽(たの)しかったです」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は、ありがとうございました」
芳野(よしの)「こちらこそ。ごちそうさまでした」
芳野(よしの)「ではまた、渚(なぎさ)さん」
渚(なぎさ)「はい。またお会(あ)いできたらうれしいです」
芳野(よしの)「はい。必(かなら)ず」
芳野(よしの)「じゃあな、岡崎(おかざき)。明日(あした)からはしゃかりき働(はたら)けよ」
朋也(ともや)「うっす」
俺(おれ)と渚(なぎさ)はアパートの前(まえ)に並(なら)んで、芳野(よしの)さんを見送(みおく)った。
しばらく行(い)った先(さき)で、振(ふ)り返(かえ)る。
芳野(よしの)「幸(しあわ)せにな!」
本当(ほんとう)に恥(は)ずかしい人(ひと)だった…。
渚(なぎさ)「芳野(よしの)さんは、とてもいい人(ひと)です」
朋也(ともや)「おまえとは、合(あ)いそうだよな…あの、恥(は)ずかしさは」
渚(なぎさ)「それに話(はな)されることも、詩(し)のようにとても深(ふか)いです」
渚(なぎさ)「感動(かんどう)してしまいました」
渚(なぎさ)「とても素敵(すてき)な人(ひと)です」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「そっかよ」
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
朋也(ともや)「なんだよ」
じっと、俺(おれ)の顔(かお)を見(み)て…
そっと、手(て)を繋(つな)いだ。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんも、素敵(すてき)な人(ひと)です」
渚(なぎさ)「そして、朋也(ともや)くんは一番大事(いちばんだいじ)な人(ひと)です」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)…」
そして今(いま)…
小(ちい)さな六畳間(ろくじょうま)に、芳野(よしの)さんの新(あたら)しい歌(うた)が鳴(な)り渡(わた)っている。
─Love & Spanner
そのタイトルトラックは、本当(ほんとう)に俺(おれ)の歌(うた)だった。
そして、それは、そのまま…芳野(よしの)さんの歌(うた)でもあった。
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seagull - 2009/7/28 20:47:00
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同棲編,0,]


渚(なぎさ)「ただいまです」
朋也(ともや)「ちっす」
真夏日(まなつび)の午後(ごご)、またふたりで古河家(ふるかわけ)の敷居(しきい)を跨(また)いでいた。
秋生(あきお)「おぅ、おかえり。暑(あつ)かったろ」
渚(なぎさ)「はい、とても暑(あつ)かったです」
秋生(あきお)「あんまり長(なが)いこと陽(ひ)の下(した)にいたら駄目(だめ)だぞ」
渚(なぎさ)「わかってます」
秋生(あきお)「店(みせ)ん中(なか)も、冷房(れいぼう)がねぇから暑(あつ)いのなんのって」
秋生(あきお)「中入(なかはい)ってクーラーつけて、休(やす)めよ」
渚(なぎさ)「いえ、暑(あつ)いのには慣(な)れてますから、ぜんぜん平気(へいき)です」
秋生(あきお)「ああ…そうか、アパートにもクーラーなんてないのか」
秋生(あきお)「おい、早苗(さなえ)!」
思(おも)い出(だ)したように、オッサンは家(いえ)の奥(おく)に呼(よ)びかけた。
秋生(あきお)「渚(なぎさ)が帰(かえ)ってきたから、冷(つめ)たいもの入(い)れてやってくれ!」
…俺(おれ)は。
渚(なぎさ)「ですが、扇風機(せんぷうき)があります。朋也(ともや)くんが、見(み)つけてきてくれました」
秋生(あきお)「んなもんあっても部屋(べや)が暑(あつ)かったら、生(なま)ぬるい風(かぜ)しかこねぇだろ」
渚(なぎさ)「結構涼(けっこうすず)しいです」
秋生(あきお)「まぁ、やせ我慢(がまん)するな。暑(あつ)かったら、いつでも涼(すず)みに戻(もど)ってこい」
渚(なぎさ)「いえ、朋也(ともや)くん仕事(しごと)でもっと暑(あつ)い思(おも)いをしているのに、ひとり涼(すず)みになんて来(く)れないです」
渚(なぎさ)「家(いえ)で帰(かえ)りを待(ま)っててたいです」
秋生(あきお)「ちっ…親心(おやごころ)を汲(く)んでくれねぇ娘(むすめ)だな」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんは、寂(さび)しいだけなんですよ」
早苗(さなえ)さんが、お盆(ぼん)を持(も)って下(くだ)りてきた。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、こんにちは」
夏服姿(なつふくすがた)が目(め)に眩(まぶ)しい。
早苗(さなえ)「みなさん、アイスコーヒーでよかったですか」
秋生(あきお)「ああ、今日(きょう)も魅力的(みりょくてき)だぜ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「ありがとうございますっ」
ぜんぜん会話(かいわ)が噛(か)み合(あ)っていない。
朋也(ともや)「いただきます」
ちゃんと俺(おれ)の分(ぶん)もあった。
4人(にん)がストローの刺(さ)さった冷(ひ)えたグラスを手(て)に、話(はなし)を続(つづ)ける。
店(みせ)の中(なか)で、家族(かぞく)揃(そろ)って団欒(だんらん)というのもこの家(いえ)だから、為(な)せる技(わざ)な気(き)がする。
今(いま)、客(きゃく)が入(はい)ってきて、この様相(ようそう)を目(め)の当(あ)たりにしたとしても驚(おどろ)きもせずに、パンを買(か)い求(もと)めることだろう。
渚(なぎさ)「やっぱり、お父(とう)さん、寂(さび)しいですか」
秋生(あきお)「そりゃあな…ずっと、19年間(ねんかん)、一緒(いっしょ)に暮(く)らしてきたんだからな…」
秋生(あきお)「夏(なつ)がくれば思(おも)い出(だ)すよ…一緒(いっしょ)に山(やま)や海(うみ)に行(い)ったりしたこと…」
渚(なぎさ)「そういわれると、困(こま)ってしまいます」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ、渚(なぎさ)。今(いま)から言(い)う秋生(あきお)さんのわがままに頷(うなず)けば、我慢(がまん)してもらえます」
渚(なぎさ)「え…なんでしょうか」
秋生(あきお)「ふん…そう簡単(かんたん)に言(い)えるかよ。というわけで、クイズだ」
秋生(あきお)「俺(おれ)が考(かんが)えたこの夏(なつ)のイベントとは、さぁどれだ?」
秋生(あきお)「1、海(うみ)でバーベキュー」
秋生(あきお)「2、海(うみ)でバッタンキュー」
秋生(あきお)「3、海(うみ)でバーバラ藤岡(ふじおか)」
秋生(あきお)「さあ、どれだ」
朋也(ともや)(最後(さいご)の誰(だれ)だ…)
渚(なぎさ)「全部(ぜんぶ)、字(じ)が似(に)てて、悩(なや)みます」
朋也(ともや)「最後(さいご)のぜんぜん違(ちが)っただろっ!」
秋生(あきお)「バーまで一緒(いっしょ)だったじゃねぇかよっ」
秋生(あきお)「てめぇはひとりでバーバラ藤岡(ふじおか)してろ」
早苗(さなえ)「楽(たの)しかったら、呼(よ)んでくださいね」
朋也(ともや)(ああ、イッツ·アホアホ·ワールド…)
秋生(あきお)「渚(なぎさ)、さぁ、答(こた)えはどれだ」
渚(なぎさ)「はい、1番(ばん)の海(うみ)でバーベキューです」
秋生(あきお)「ブーッ。正解(せいかい)は2番(ばん)の海(うみ)でバッタンキューでした」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんは、ひとりでバッタンキューしててください」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、わたしたちはバーベキューしましょうね」
秋生(あきお)「けっ、そうだよ、正解(せいかい)だよ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですかっ。それはとても楽(たの)しみですっ」
秋生(あきお)「よぅし、決定(けってい)だな」
早苗(さなえ)「お盆休(ぼんやす)みにと、思(おも)っているんですが、朋也(ともや)さん、休(やす)みとれそうですか?」
朋也(ともや)「たぶん、大丈夫(だいじょうぶ)だと思(おも)います」
秋生(あきお)「てめぇはシャカリキ働(はたら)いてろ」
渚(なぎさ)「ダメですっ、朋也(ともや)くんが行(い)かなかったら、わたしも行(い)かないです」
秋生(あきお)「ちっ…荷物持(にもつも)ちとして連(つ)れてってやるか」
渚(なぎさ)「それもダメですっ、朋也(ともや)くん、毎日(まいにち)仕事(しごと)でとても疲(つか)れてるんです」
朋也(ともや)「いいよ、別(べつ)に。荷物持(にもつも)ちでも」
秋生(あきお)「よっしゃぁーっ!
自分(じぶん)でいいって言(い)ったぞ、こいつ!」
渚(なぎさ)「言(い)ってもダメですっ、わたしが許(ゆる)さないですっ」
俺(おれ)の代(か)わりに自分(じぶん)の父親(ちちおや)と戦(たたか)ってくれている。頼(たの)もしい彼女(かのじょ)だった。
早苗(さなえ)「わたしは秋生(あきお)さんの力自慢(ちからじまん)なところ、見(み)てみたいですよっ」
秋生(あきお)「任(まか)せろ、全部(ぜんぶ)持(も)ってやらぁ」
早苗(さなえ)さんの一言(ひとごと)で、簡単(かんたん)に話(はなし)は片(かた)づいた。
秋生(あきお)「くそぅ…どうして、俺(おれ)が荷物持(にもつも)ちに…」
渚(なぎさ)と早苗(さなえ)さんは、いつものようにふたりで台所(だいどころ)でお喋(しゃべ)りをしながら夕飯(ゆうはん)の支度(したく)。
俺(おれ)は店(みせ)の手伝(てつだ)いだった。
秋生(あきお)「てめぇが現(あらわ)れてから、俺(おれ)のポジションが三枚目(さんまいめ)になっているのは気(き)のせいか?」
朋也(ともや)「それまでは二枚目(にまいめ)だったのか…」
秋生(あきお)「当然(とうぜん)だ。俺様(おれさま)は一家(いっか)の大黒柱(だいこくばしら)なんだぞ」
秋生(あきお)「正直(しょうじき)おまえに話(はな)すのはどうかと思(おも)うが、渚(なぎさ)の奴(やつ)だってな…」
秋生(あきお)「お父(とう)さんに惚(ほ)れてしまいそうです…でも、それはイケナイことです…」
秋生(あきお)「ああ、渚(なぎさ)はヘンな子(こ)ですっ!…ってな、思春期(ししゅんき)を送(おく)ってたんだぜ…」
…絶対(ぜったい)ウソだ。
秋生(あきお)「そして、おまえが現(あらわ)れて…」
秋生(あきお)「今(いま)でも、お父(とう)さんが一番好(いちばんす)きですが、あのヘナチンで我慢(がまん)します…って言(い)って、おまえに乗(の)り換(か)えたんだ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)がヘナチンなんて言(い)うかっ!」
秋生(あきお)「言(い)うんだよ、この、ヘナチンがっ!」
朋也(ともや)「ヘナチンじゃねぇよっ!」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)が言(い)ってるんだから、ヘナチンなんだよっ!」
声(こえ)「おふたりさーん、お店(みせ)でヘンな言葉(ことば)叫(さけ)ばないでくださいねーっ」
遠(とお)くから早苗(さなえ)さんの声(こえ)。
秋生(あきお)「む…ごほんっ」
秋生(あきお)「ヘナチョコ…」
囁(ささや)くように言(い)ってきた。
朋也(ともや)「違(ちが)うっての!」
秋生(あきお)「じゃあ、なんだ、男(おとこ)としての汚名(おめい)は返上(へんじょう)できたってわけか?」
朋也(ともや)「う…」
言葉(ことば)に詰(つ)まる。
秋生(あきお)「今頃(いまごろ)、早苗(さなえ)の奴(やつ)と話(はな)してるはずさ。わたしの彼(かれ)、全然(ぜんぜん)ダメなの、ってさ」
キャラが違(ちが)う。
秋生(あきお)「てめぇ、平和(へいわ)な一家(いっか)に嫌(いや)な問題(もんだい)を持(も)ち込(こ)むんじゃねぇよ」
朋也(ともや)「前(まえ)にも言(い)ったじゃないか…渚(なぎさ)のこと、大事(だいじ)に思(おも)ってるってよ…」
秋生(あきお)「てめぇがそう言(い)って、何年(なんねん)経(た)ったよ!?」
朋也(ともや)「いや、二(に)ヶ月(げつ)ぐらいだけど」
秋生(あきお)「それでも、長(なが)ぇよ…」
秋生(あきお)「つーか、おまえ、その間(あいだ)、どうしてんの?」
…とても嫌(いや)なことを訊(き)く人(ひと)だった。
秋生(あきお)「よし、エロ本(ほん)持(も)って帰(かえ)れ」
ああ…今(いま)なら、その言葉(ことば)も魅惑的(みわくてき)に感(かん)じられてしまう…。
秋生(あきお)「それか、早苗(さなえ)の下着(したぎ)のほうがいいか」
ずるッガシャーーーーンッ!
思(おも)いきり後頭部(こうとうぶ)を、入(い)り口(ぐち)のドアにぶつけてしまう。
秋生(あきお)「てめぇ、店(みせ)を破壊(はかい)する気(き)かよっ!」
朋也(ともや)「あんたが、とんでもないこと言(い)うからだろっ!」
秋生(あきお)「ちっ、静(しず)かにしろ…また、早苗(さなえ)のやつに叱(しか)られるだろ」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「で…」
秋生(あきお)「どっちがいいんだよ」
朋也(ともや)(…俺(おれ)に選(えら)べと!?)
オッサンの秘蔵エロ本
朋也(ともや)「エ…エロ本(ほん)…」
秋生(あきお)「お、ついにもらう気(き)になったか。後(あと)でバレないように包(つつ)んで渡(わた)すなっ」
朋也(ともや)「ああ…」
これぐらいなら、可愛(かわい)いもんだろう…。
夕飯(ゆうはん)をいただくと、今日(きょう)も早(はや)めに帰宅(きたく)する。
明日(あした)からはまた仕事(しごと)だった。
渚(なぎさ)「四人(よにん)で海(うみ)なんて、とても素敵(すてき)です。楽(たの)しみです」
朋也(ともや)「俺(おれ)はちょっと悔(くや)しいよ。先(さき)に計画(けいかく)を立(た)てたかった」
渚(なぎさ)「でも、朋也(ともや)くん、忙(いそが)しかったです」
朋也(ともや)「考(かんが)えるなんていつだってできるからな…これじゃ単(たん)なる甲斐性(かいしょ)ナシだよ」
朋也(ともや)「とりあえず、夏休(なつやす)みが始(はじ)まったらプールに行(い)こう」
渚(なぎさ)「はい、構(かま)わないですけど、どうしてですか?」
朋也(ともや)「あのふたりに見(み)られる前(まえ)に、先(さき)に見(み)ておきたいんだよ」
渚(なぎさ)「何(なに)をですか?」
朋也(ともや)「おまえの水着姿(みずぎすがた)」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「ふたりで選(えら)んだ新(あたら)しい水着(みずぎ)だしさ」
朋也(ともや)「とにかく、まずは俺(おれ)が独(ひと)り占(じ)め」
渚(なぎさ)「はい…わかりました」
渚(なぎさ)「ちょっと大胆(だいたん)なので、恥(は)ずかしいですけど…」
朋也(ともや)「大胆(だいたん)って、あんなの普通(ふつう)だろ?」
渚(なぎさ)「お腹(なか)とか、見(み)せてしまいます」
朋也(ともや)「そりゃ、水着(みずぎ)だからな」
渚(なぎさ)「はい、でも、勇気(ゆうき)を出(だ)して着(き)たいです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんに見(み)てもらいたいです」
朋也(ともや)「ああ、楽(たの)しみにしてるよ」
渚(なぎさ)「はい」
照(て)れ笑(わら)いする渚(なぎさ)を見(み)て思(おも)う。
本当(ほんとう)に…いいことが続(つづ)いている。
働(はたら)き始(はじ)めた頃(ころ)は、あんなに辛(つら)かったけど…
でも、それを乗(の)り越(こ)えれば、こんな日々(ひび)が待(ま)っているんだ。
渚(なぎさ)「ところで…それはなんですか」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の胸元(むなもと)を見(み)て、訊(き)いていた。
そこに俺(おれ)は、紙袋(かみぶくろ)を抱(だ)いていた。
中身(なかみ)は…オッサンからもらったエロ本数冊(ほんすうさつ)。
渚(なぎさ)「預(あず)かり物(もの)ですか?」
朋也(ともや)「いや、なんていうか…私物(しぶつ)」
渚(なぎさ)「実家(じっか)に忘(わす)れたままだったんですか?」
朋也(ともや)「ま、そんなとこ」
渚(なぎさ)「なんですか。ちょっと気(き)になります」
女(おんな)の勘(かん)なのか…やけに食(く)いついてくる。
朋也(ともや)「雑誌(ざっし)だよ。捨(す)ててもいいんだけどな…一応(いちおう)」
渚(なぎさ)「なんの雑誌(ざっし)ですか?」
朋也(ともや)「ええと…車(くるま)とかバイクとかの」
朋也(ともや)「おまえ、興味(きょうみ)ないだろ?」
渚(なぎさ)「はい、ないですけど…」
渚(なぎさ)「でも、朋也(ともや)くんが好(す)きなら、わたしも好(す)きになるようにしたいです」
渚(なぎさ)「そうしたほうが、たくさんお話(はなし)できます」
朋也(ともや)「無理(むり)しなくてもいいって」
渚(なぎさ)「無理(むり)じゃないです。そうしたいんです」
渚(なぎさ)「帰(かえ)ったら、ちょっと読(よ)んでみたいです」
朋也(ともや)「そ、そうか…うーん、どうしような…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、なんだか困(こま)った顔(かお)です」
朋也(ともや)「え?
そうか…?」
このまま持(も)って帰(かえ)ったら間違(まちが)いなく、ばれる…。
オッサンには悪(わる)いが、どこかで捨(す)ててしまわないと…。
渚(なぎさ)「何(なに)か探(さが)してるんですか?
さっきから、きょろきょろしてます」
朋也(ともや)「いや…何(なに)も」
捨(す)てる隙(すき)がなかった…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、先(さき)にシャワー浴(あ)びてきてください」
朋也(ともや)「後(あと)でいい」
渚(なぎさ)「いつも、朋也(ともや)くんが先(さき)です」
朋也(ともや)「今日(きょう)は後(あと)がいい」
渚(なぎさ)「………」
じっと、見(み)つめられる。
にこっと笑(わら)ってみる。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ヘンです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「その雑誌(ざっし)ですか」
朋也(ともや)(完璧(かんぺき)に感(かん)づかれてる…)
渚(なぎさ)「わたしが見(み)たら、いけない雑誌(ざっし)なんですか」
渚(なぎさ)「いけないって言(い)うんなら見(み)ないです」
渚(なぎさ)「でも、その…隠(かく)し事(ごと)とかは、いけないと思(おも)います」
渚(なぎさ)「わたし、朋也(ともや)くんに何(なに)も隠(かく)してないです」
ああ…胸(むね)が苦(くる)しい。
そんなふうに責(せ)められると、もう無抵抗(むていこう)になってしまう。
朋也(ともや)「ごめん…」
朋也(ともや)「エ…エロ本(ほん)です」
がくっ、と膝(ひざ)を床(ゆか)について、うなだれる。
渚(なぎさ)「エッチな本(ほん)ですか」
朋也(ともや)「はい、エッチな本(ほん)です」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、見(み)たかったんですか」
朋也(ともや)「そりゃ男(おとこ)だからね…」
渚(なぎさ)「そうですか…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「ちょっと、ショックです」
朋也(ともや)「ああ、悪(わる)かったよ…」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)い子(こ)がいたんでしょうか…」
朋也(ともや)「いや、まだ見(み)てないから、知(し)らないけど」
渚(なぎさ)「じゃ、いるかもしれないから、見(み)るんですか…」
朋也(ともや)「ま、そうなるかな…」
渚(なぎさ)「それは…他(ほか)の女(おんな)の子(こ)のほうがいいという意味(いみ)でしょうか…」
朋也(ともや)「え?」
まさか、こいつは…雑誌(ざっし)の女(おんな)の子(こ)に嫉妬(しっと)してるのだろうか。
朋也(ともや)「違(ちが)うぞ、渚(なぎさ)。俺(おれ)はいつだって、おまえが一番(いちばん)」
朋也(ともや)「いや、一番(いちばん)というか、好(す)きなのはおまえだけ」
朋也(ともや)「他(ほか)の女(おんな)になんか、好(す)きなんて感情(かんじょう)すら抱(だ)かないって」
朋也(ともや)「これは本当(ほんとう)」
渚(なぎさ)「ありがとうございます…」
渚(なぎさ)「じゃあ、朋也(ともや)くん…わたしのせいで、他(ほか)の人(ひと)のを見(み)たくなるんでしょうか…」
渚(なぎさ)「また、わたし、朋也(ともや)くんを我慢(がまん)させてしまってたんでしょうか…」
朋也(ともや)「いや…まぁ…そういうことに…なるのかな…」
渚(なぎさ)「ちゃんと言(い)ってほしいです」
渚(なぎさ)「言(い)ってくれたら…」
渚(なぎさ)「………」
…ごくり。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「テレビ見(み)ましょう」
ずるぅ!
思(おも)わず足(あし)を滑(なめ)らせてしまう。
渚(なぎさ)「ニュース見(み)ないとダメです」
朋也(ともや)(ま…可愛(かわい)い反応(はんのう)も見(み)れたし…)
本(ほん)の入(はい)った紙袋(かみぶくろ)をそのまま、ゴミ箱(ばこ)に突(つ)っ込(こ)む。
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)がその様子(ようす)を見(み)て、声(こえ)をあげていた。
朋也(ともや)「いいんだって。ほら、テレビ見(み)ようぜ」
渚(なぎさ)「はい」
ふたり寄(よ)り添(そ)うようにして、座(すわ)り直(なお)す。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、やっぱり優(やさ)しいです」
朋也(ともや)「んなことないけどさ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのそういうところ、すごく好(す)きです」
渚(なぎさ)「えへへ…」
俺(おれ)が全部悪(ぜんぶわる)いのに、そんなことを言(い)われると本当(ほんとう)に自分(じぶん)が嫌(いや)な奴(やつ)に思(おも)えてしまう。
猛省(もうせい)…。
夏休(なつやす)みが始(はじ)まった。
去年(きょねん)までは、俺(おれ)にも当然(とうぜん)のようにあったものだったのに、突然(とつぜん)それはなくなっていた。
そして、それは二度(にど)と訪(おとず)れないものだった。
長(なが)い休暇(きゅうか)なんて、あるとしたら、もう老後(ろうご)にしかない。
それまで、俺(おれ)はずっと働(はたら)き続(つづ)けるのだろう。
本当(ほんとう)に、子供(こども)のように遊(あそ)んでいられる時間(じかん)は終(お)わってしまったのだ。
そのことを今更(いまさら)になって、痛感(つうかん)していた。
朋也(ともや)「ずっと家(いえ)で待(ま)ってんのも、暇(ひま)だろ。好(す)きなことしてろよ」
渚(なぎさ)「ウチの学校(がっこう)、宿題(しゅくだい)が多(おお)いですから、そんなに遊(あそ)んでるわけにもいかないです」
朋也(ともや)「宿題(しゅくだい)やるんなら、実家帰(じっかかえ)れよ。涼(すず)しいだろ」
渚(なぎさ)「いえ、この部屋(へや)でやります」
今(いま)は陽(ひ)が暮(く)れてしばらく経(た)っていたからマシだったが、日中(にっちゅう)この部屋(へや)はうだるような暑(あつ)さになる。
ふたりで過(す)ごす休日(きゅうじつ)は、出払(ではら)っていることが多(おお)いので、俺(おれ)はそう経験(けいけん)することもないが、渚(なぎさ)は違(ちが)う。
これから毎日(まいにち)のように、その暑(あつ)さの中(なか)で過(す)ごすことになるのだ。
朋也(ともや)「クーラー…買(か)ってもいい?」
渚(なぎさ)「いらないです」
強情(ごうじょう)だ…。
朋也(ともや)「そんなに高(たか)くなくて、あると思(おも)うけどな…」
渚(なぎさ)「冷房(れいぼう)の風(かぜ)は、あんまり体(からだ)によくないです」
渚(なぎさ)「扇風機(せんぷうき)の風(かぜ)が、いいです」
そう言(い)われると、強引(ごういん)に押(お)しきることもできなくなる。
朋也(ともや)「ひとつ言(い)っておくけどさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)のためを思(おも)って、無理(むり)しすぎんなよ」
渚(なぎさ)「こんなこと、ぜんぜん平気(へいき)です」
渚(なぎさ)「実家(じっか)に帰(かえ)ってろと言(い)われたほうが、つらいです」
渚(なぎさ)「この部屋(へや)で朋也(ともや)くんの帰(かえ)りを待(ま)って、いろんなこと考(かんが)えて…」
渚(なぎさ)「今日(きょう)の夕飯(ゆうはん)は何(なに)を作(つく)ろう、とか…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、前(まえ)は何(なに)をおいしそうに食(た)べてたっけ、とか…」
渚(なぎさ)「そういうの、すごく楽(たの)しくて、幸(しあわ)せです」
渚(なぎさ)「それをダメって言(い)われると、悲(かな)しいです」
渚(なぎさ)「だって、ここは…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとわたしの家(いえ)です」
朋也(ともや)「………」
そうか…。
俺(おれ)のほうが、よっぽど、軽薄(けいはく)だった…。
あの日(ひ)、ふたりで生活(せいかつ)を始(はじ)めた日(ひ)から…
この場所(ばしょ)は、アパートの一室(いっしつ)ではなく…俺(おれ)たちの家(いえ)だったはずだ。
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
朋也(ともや)「でも、体壊(からだこわ)したら元(もと)も子(こ)もないからな。それだけは念頭(ねんとう)に置(お)いてくれよ」
渚(なぎさ)「はい」
今度(こんど)は素直(すなお)に頷(うなず)いてくれた。
去年(きょねん)の夏(なつ)は、渚(なぎさ)はずっと、寝込(ねこ)んでいた。
だから、渚(なぎさ)の夏服姿(なつふくすがた)を見(み)ているだけでも、嬉(うれ)しい気持(きも)ちになる。
夏休(なつやす)みに入(はい)って、最初(さいしょ)の土曜日(どようび)。約束通(やくそくどお)り、渚(なぎさ)を連(つ)れて市営(しえい)プールへと出(で)かけた。
ものすごい人(ひと)の数(すう)でいきなり面食(めんく)らってしまったけど、それも直(じか)に慣(な)れてしまう。
数時間後(すうじかんあと)には、その混雑(こんざつ)の中(なか)で、恥(は)じらいもなくはしゃぐ俺(おれ)たちの姿(すがた)があった。
俺(おれ)の知(し)り合(あ)いには会(あ)わなかったけど、古河(ふるかわ)パンの常連客(じょうれんきゃく)が子連(こづ)れで来(き)ていて、渚(なぎさ)が何度(なんど)も水着姿(みずぎすがた)を冷(ひ)やかされていた。
俺(おれ)はその隣(となり)で笑(わら)っていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、見(み)た目(め)も優(やさ)しくなった気(き)がします」
朋也(ともや)「え…そうか?」
渚(なぎさ)「はい。わたしが他(ほか)の人(ひと)に話(はな)しかけられていた時(とき)も、ずっと笑(わら)ってました」
朋也(ともや)「そりゃ、自分(じぶん)の彼女(かのじょ)がいろんな人(びと)に可愛(かわい)い可愛(かわい)い言(い)われてたら、頬(ほお)も緩(ゆる)むだろ」
渚(なぎさ)「でも、昔(むかし)だったら、朋也(ともや)くん、違(ちが)ってたと思(おも)います」
朋也(ともや)「どうしてたかな」
渚(なぎさ)「…ちょっと離(はな)れて、立(た)ってただけだと思(おも)います」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…そうかもな」
朋也(ともや)「知(し)らない人(ひと)と一緒(いっしょ)に笑(わら)い合(あ)うなんてしなかったかもな…」
その時(とき)の俺(おれ)はきっと、こう考(かんが)えていただろう。
うぜぇ…と。
あの頃(ころ)は他人(たにん)のちょっかいや、おせっかいが、ただただ鬱陶(うっとう)しかった。
人(ひと)の繋(つな)がりが、鬱陶(うっとう)しかった。
今(いま)は、そうじゃなくなっているとしたら…
渚(なぎさ)から始(はじ)まった人(ひと)との繋(つな)がりの中(なか)で、俺(おれ)も知(し)っていったのだろうか。
そんなに悪(わる)いものじゃないということを。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「手(て)、つないでいいですか」
朋也(ともや)「あ、ああ」
もうなんだっていい。
自分(じぶん)に笑(わら)えた。
朝礼(ちょうれい)で、親方(おやかた)からお盆休(ぼんやす)みについての話(はなし)があった。
全員(ぜんいん)、三連休(さんれんきゅう)をとることができた。
学生(がくせい)の頃(ころ)に比(くら)べると、あまりに短(みじか)い休(やす)みだったけど、それでも今(いま)の俺(おれ)には十分(じゅうぶん)だった。
芳野(よしの)「おまえはどうするんだ?」
朋也(ともや)「ちゃんと、予定(よてい)あります」
芳野(よしの)「彼女(かのじょ)と旅行(りょこう)にでもいくのか」
朋也(ともや)「海(うみ)にいきます」
朋也(ともや)「彼女(かのじょ)だけじゃなくて、彼女(かのじょ)と家族(かぞく)と一緒(いっしょ)に」
芳野(よしの)「ほぅ、家族(かぞく)ぐるみで付(つ)き合(あ)いがあるのか。今時(いまどき)珍(めずら)しい」
朋也(ともや)「芳野(よしの)さんは、どうするんですか」
芳野(よしの)「俺(おれ)か…どうするだろうな」
朋也(ともや)「伊吹(いぶき)さんとどっか行(い)かないんですか」
芳野(よしの)「そうだな…そうできたらいいな」
それだけを言(い)って、先(さき)に事務所(じむしょ)を後(あと)にする。
芳野(よしの)さんなりの照(て)れ隠(かく)しなのだろうか。
俺(おれ)も、出遅(でおく)れないように後(あと)を追(お)った。
朋也(ともや)「ただいま」
渚(なぎさ)「おかえりなさいです」
渚(なぎさ)はこの暑(あつ)い中(なか)、火(ひ)の前(まえ)に立(た)っていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、先(さき)にシャワー浴(あ)びますか」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…今日(きょう)もすげぇ暑(あつ)かったし…」
朋也(ともや)「つーか、おまえも、汗(あせ)かいてる」
額(ひたい)やこめかみに、びっしり汗(あせ)の粒(つぶ)が浮(う)かんでいた。
渚(なぎさ)「平気(へいき)です」
両手(りょうて)が塞(ふさ)がっていて、拭(ぬぐ)うこともできないらしい。
俺(おれ)はハンカチを取(と)り出(だ)し、汗(あせ)を拭(ぬぐ)ってやる。
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)「これ、かき混(ま)ぜ続(つづ)けないと焦(こ)げてしまうんです」
朋也(ともや)「じゃ、こんなことされても、手(て)は止(と)めちゃいけないな」
渚(なぎさ)「え…?」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の体(からだ)を背後(はいご)から抱(だ)きしめる。
渚(なぎさ)「あ…はい…手(て)、止(と)められないです…」
さらに、汗(あせ)で湿(しめ)った頬(ほお)に自分(じぶん)の頬(ほお)を擦(す)りつけた。
渚(なぎさ)「ああ、揺(ゆ)れます…」
朋也(ともや)「じゃ、じっとしてる」
渚(なぎさ)「いえ、もう、そろそろできます」
コンロの火(ひ)を止(と)めた。
渚(なぎさ)「はい…これで危(あぶ)なくないです…どうしてもらってもいいです」
女(おんな)の子(こ)に『どうしてもらってもいい』なんて言(い)われると否(いな)が応(おう)でも興奮(こうふん)してしまう…。
朋也(ともや)「じゃ…こっち向(む)いてくれる?」
渚(なぎさ)「はい」
弛(たる)めた腕(うで)の中(なか)で、渚(なぎさ)が半回転(はんかいてん)する。
その渚(なぎさ)をぎゅっと抱(だ)きしめる。汗(あせ)ばんだ体(からだ)が合(あ)わさった。
渚(なぎさ)「シャワー浴(あ)びてからでなくて、よかったですか…」
朋也(ともや)「どうせまた汗(あせ)かくし」
渚(なぎさ)「じゃ…」
渚(なぎさ)から、抱(だ)く腕(うで)に力(ちから)を入(い)れてくれる。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい、朋也(ともや)くん…」
上体(じょうたい)だけを離(はな)し、見(み)つめ合(あ)う。
可愛(かわい)い唇(くちびる)。
渚(なぎさ)も、それと気(ぎ)づいたのだろう。目(め)を閉(と)じて…口(くち)を差(さ)し出(だ)してきた。
俺(おれ)も口(くち)を寄(よ)せる。
プルルルルル…
合(あ)わさる寸前(すんぜん)で、電話(でんわ)が鳴(な)り始(はじ)めた。
渚(なぎさ)「あ…電話(でんわ)です」
渚(なぎさ)「ちょっと出(で)てきます」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
無視(むし)しておいても、また後(あと)でかかってくるだろうに…。
俺(おれ)は渋々(しぶしぶ)、渚(なぎさ)の体(からだ)を解放(かいほう)した。
渚(なぎさ)は電話(でんわ)の前(まえ)で膝(ひざ)をつき、受話器(じゅわき)を取(と)った。
渚(なぎさ)「はい…あ、はい、そうです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
受話器(じゅわき)を手(て)で押(お)さえて渚(なぎさ)がこっちを見(み)た。
渚(なぎさ)「木下(きのした)さん、という男性(だんせい)の方(かた)です」
朋也(ともや)「え?
俺(おれ)?」
渚(なぎさ)「はい」
木下(きのした)…誰(だれ)だっただろうか。
思(おも)い出(だ)せないまま、受話器(じゅわき)を受(う)け取(と)った。
朋也(ともや)「はい、代(か)わりました」
声(こえ)『朋也(ともや)くんかいっ?』
年輩(ねんぱい)の声(こえ)。すぐ親父(おやじ)の昔(むかし)の仕事仲間(しごとなかま)だと思(おも)い出(だ)す。
朋也(ともや)「はい、そうですけど」
木下(きのした)『あんたの親父(おやじ)さん…捕(つか)まっちゃったよ』
……え?
木下(きのした)『やばいもの取引(とりひき)してたんだってさ…』
…なんて?
木下(きのした)『朋也(ともや)くん、聞(き)こえてる?』
…なにが?
…どうしたって?
…何(なに)も理解(りかい)できない。
…どうしてだ?
木下(きのした)『朋也(ともや)くんってばっ、あんたの親父(おやじ)さん、警察(けいさつ)に捕(つか)まっちまったって、そう言(い)ってるんだよ?』
親父(おやじ)が…
どうしたって?
ああ…わからない。
何(なに)も理解(りかい)できない。
俺(おれ)はいつから、こんなに馬鹿(ばか)になってしまったんだ…。
木下(きのした)『さっきの子(こ)に代(か)わってくれよ、話(はな)しておくから』
木下(きのした)『ね、ほら、彼女(かのじょ)に代(か)わろう』
木下(きのした)『朋也(ともや)くんには後(あと)で、落(お)ち着(つ)いてから話(はなし)をしてもらうように言(い)っておくからさ』
俺(おれ)は、受話器(じゅわき)から手(て)を離(はな)す。床(ゆか)に落(お)ちた。
それを慌(あわ)てて拾(ひろ)い上(あ)げる渚(なぎさ)の姿(すがた)を、ぼーっと見(み)ていた。
小(ちい)さな町(まち)だったから、噂(うわさ)が回(まわ)るのは早(はや)かった。
数日後(すうじつご)には俺(おれ)は親方(おやかた)に呼(よ)び出(だ)され…
悪(わる)いが、就職(しゅうしょく)の話(はなし)はなかったことにしてくれ、と言(い)われた。
親方(おやかた)「誰(だれ)も、岡崎(おかざき)くんが悪(わる)いなんて思(おも)っていないよ」
親方(おやかた)「ここでは今(いま)まで通(どお)り、働(はたら)いてくれればいい」
親方(おやかた)「みんな、岡崎(おかざき)くんのことはよくわかってるから」
親方(おやかた)「でも、ちょっと時期(じき)が悪(わる)かったよね…」
ああ…ずっと頑張(がんば)って…手(て)に入(い)れようとしていたものなのに。
頑張(がんば)っていれば、その先(さき)にはちゃんといいことが待(ま)ってるんだって…
そう思(おも)っていたのに。
なくしてしまった…。
俺(おれ)のせいじゃなく…
あの人(ひと)のせいで。
俺(おれ)はもう、あの人(ひと)とは関係(かんけい)なく生(い)きていけると思(おも)っていたのに…。
全部(ぜんぶ)、自分(じぶん)の手(て)でこれからはなんでもできると思(おも)っていたのに…。
愛(あい)する人(ひと)も、俺(おれ)の手(て)で幸(しあわ)せにできると思(おも)ってたのに…。
なのに…。
ああ…こんなことってない。
俺(おれ)は呪(のろ)われてるのか…。
…あの人(ひと)に。
歩(ある)いていく先(さき)に…女(おんな)の子(こ)がいた。
こっちを向(む)いて、立(た)っていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、待(ま)ってました」
そう俺(おれ)に話(はな)しかけてきた。
朋也(ともや)「おまえ、こんなところでなにしてんだよ…」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に、朋也(ともや)くんのお父(とう)さんに会(あ)いに行(い)きます」
誰(だれ)から聞(き)いたんだろう…。
親方(おやかた)か…芳野(よしの)さんか…。
朋也(ともや)「戻(もど)ってろ」
渚(なぎさ)「どうしてですか。ついていってはダメですか」
朋也(ともや)「駄目(だめ)だ」
渚(なぎさ)「今(いま)だけはわがまま言(い)わせてください。とても大事(だいじ)なことですから」
朋也(ともや)「俺(おれ)にとっては、大事(だいじ)かもしれない」
朋也(ともや)「けどな、おまえには関係(かんけい)ないだろ…」
渚(なぎさ)「それはそうかもしれないですけど…」
渚(なぎさ)「でも、わたしひとりは思(おも)っていたいです。わたしにも、大事(だいじ)なことだって…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが、わたしに関係(かんけい)ないって、そう思(おも)っても…」
渚(なぎさ)「わたしだけは関係(かんけい)あって、それはとても大事(だいじ)なことだと…そう思(おも)いたいです」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…勝手(かって)にしろ」
ふたりで電車(でんしゃ)に揺(ゆ)られ、隣町(となりまち)までやってくる。
親父(おやじ)はこの町(まち)の拘置所(こうちしょ)にいるという話(はなし)だった。
警察(けいさつ)で道(みち)を訊(き)いて、その場所(ばしょ)に辿(たど)り着(つ)く。
背中(せなか)では、渚(なぎさ)が小(ちい)さく息(いき)を切(き)っていた。
よくもまぁ、俺(おれ)の早足(はやあし)についてこれたものだ。
振(ふ)り返(かえ)りもせず、その門(もん)をくぐった。
ガラスの向(む)こうにいる親父(おやじ)は…まるで囚人(しゅうじん)だった。
まだ被疑者(ひぎしゃ)でしかなかったのだろうけど。
親父(おやじ)「………」
普段通(どお)りの、穏和(おんわ)な表情(ひょうじょう)。
俺(おれ)を前(まえ)にしても、眉(まゆ)一(ひと)つ動(うご)かさなかった。
それが、許(ゆる)せなかった。
慌(あわ)てて、頭(あたま)を下(さ)げてほしかった。
許(ゆる)しを乞(こ)うてほしかった。
これまでの…十年分(じゅうねんぶん)の謝罪(しゃざい)と共(とも)に。
親父(おやじ)「………」
でも…黙(だま)ったままだった。
だから、俺(おれ)から口(くち)を開(ひら)いた。
朋也(ともや)「あんたは…」
朋也(ともや)「あんたは一体(いったい)何(なに)がしたいんだよ…」
声(こえ)が震(ふる)えるのを押(お)さえられなかった。
朋也(ともや)「人(ひと)の人生(じんせい)の邪魔(じゃま)なんてして、楽(たの)しいのかよ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はあんたを親(おや)だなんて、思(おも)ってねぇ…」
朋也(ともや)「けどな、世(よ)の中(なか)はそう思(おも)ってくれないんだ」
朋也(ともや)「俺(おれ)はあんたの息子(むすこ)なんだよ…」
朋也(ともや)「犯罪(はんざい)を犯(おか)した男(おとこ)の息子(むすこ)なんだよっ…」
親父(おやじ)「………」
朋也(ともや)「もう、喋(しゃべ)る気(き)もないのかよ…」
朋也(ともや)「迷惑(めいわく)かけ続(つづ)けた息子(むすこ)に言(い)う言葉(ことば)もないのかよ…」
朋也(ともや)「ふ…」
朋也(ともや)「ふざけんなよぉっ!」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんっ」
温(あたた)かい手(て)が、俺(おれ)の背中(せなか)に触(ふ)れた。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「もういい…」
朋也(ともや)「これ以上(いじょう)話(はな)すことなんてねぇよ…」
朋也(ともや)「そのまま一生(いっしょう)、不自由(ふじゆう)な生活(せいかつ)してろっ」
吐(は)き捨(す)てて、背(せ)を向(む)けた。
もうどこをどう歩(ある)いたかもわからない。
目(め)の奥(おく)が怒(いか)りでチカチカして、どんな景色(けしき)も入(はい)ってこなかった。
気(き)づいた時(とき)には、眩しい陽(ひ)の下(した)にいた。
腕(うで)が震(ふる)えている。
もう一方(いっぽう)の手(て)で掴(つか)んでも、震(ふる)えはやまない。
朋也(ともや)「うああぁーーっ!」
仕方(しかた)なく、壁(かべ)を殴(なぐ)りつけた。
打(う)ちつけられた拳(こぶし)から、じんじんと痛(いた)みが伝(つた)わってくる。
震(ふる)えが収(おさ)まり、代(か)わりにひどい痛(いた)みが手(て)を覆(おお)った。
声(こえ)「朋也(ともや)くんっ」
遠(とお)くで声(こえ)がした。
朋也(ともや)「………」
走(はし)ってくる足音(あしおと)。
いきなり、抱(だ)きつかれた。
渚(なぎさ)「なにやってるんですか、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「手(て)、見(み)せてください」
渚(なぎさ)「…ひどいです…」
渚(なぎさ)「なんてことしてるんですかっ…」
痛(いた)かった手(て)が、何(なに)かに縛(しば)られる。
それにより痛(いた)みが一時的(いちじてき)に弱(よわ)まってしまったようだ。
すると、また怒(いか)りがこみ上(あ)げてきて、腕(うで)が震(ふる)え始(はじ)めた。
また、壁(かべ)に打(う)ちつけるしかない。
腕(うで)を引(ひ)く。
渚(なぎさ)「あっ…ダメです、朋也(ともや)くんっ!」
打(う)ちつける寸前(すんぜん)、強(つよ)く体(からだ)を締(し)めつけられた。
朋也(ともや)「こらっ…邪魔(じゃま)じゃないか…」
渚(なぎさ)「邪魔(じゃま)してるんですっ」
渚(なぎさ)「馬鹿(ばか)なことしようとしてる、朋也(ともや)くんの邪魔(じゃま)してるんですっ」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)じゃないっ…こうしないと収(おさ)まらないんだよっ…」
朋也(ともや)「やらせろっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、正気(しょうき)じゃないですっ」
朋也(ともや)「正気(しょうき)だよっ、冷静(れいせい)だよっ、だからこうするしかないんだよっ」
渚(なぎさ)「見(み)てください、朋也(ともや)くんっ」
頬(ほお)を両手(りょうて)で掴(つか)まれた。
そして引(ひ)き寄(よ)せられる先(さき)に、渚(なぎさ)の顔(かお)があった。
渚(なぎさ)「わかりますか、朋也(ともや)くん。渚(なぎさ)です」
朋也(ともや)「正気(しょうき)だって、言(い)ってるだろ、馬鹿(ばか)っ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの彼女(かのじょ)の渚(なぎさ)です」
朋也(ともや)「んなこたぁ、わかってるっ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんを大好(だいす)きな渚(なぎさ)です…」
朋也(ともや)「ああ…」
渚(なぎさ)「それで、朋也(ともや)くんも大好(だいす)きでいてくれてると信(しん)じてる渚(なぎさ)です」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「違(ちが)いましたか…」
渚(なぎさ)「わたしの言(い)ってること、間違(まちが)ってましたか…」
朋也(ともや)「いや…」
朋也(ともや)「合(あ)ってる…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も…
大好(だいす)きだから…」
渚(なぎさ)「なら、すがってください」
渚(なぎさ)「わたしは朋也(ともや)くんのために今(いま)、ここにいるんです」
渚(なぎさ)「他(ほか)の誰(だれ)のためでもないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのため、だけにです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「手(て)を回(まわ)してください」
渚(なぎさ)「それで、抱(だ)きしめてください」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)の背中(せなか)に腕(うで)を回(まわ)す。そして、それに力(ちから)をこめた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
汗(あせ)の滲(にじ)む渚(なぎさ)の首筋(くびすじ)に、俺(おれ)は顔(かお)を押(お)し当(あ)てた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい、朋也(ともや)くん」
手(て)のひらで何度(なんど)も背中(せなか)をなぞる。
合(あ)わせられる部分(ぶぶん)は、すべて合(あ)わせようと力(ちから)を籠(ご)める。
そうして、その存在(そんざい)を強(つよ)く確(たし)かめる。
それは支(ささ)えで、俺(おれ)を繋(つな)ぎ止(と)めてくれる。
怒(いか)りの感情(かんじょう)はやがて、大好(だいす)きな渚(なぎさ)を思(おも)う穏(おだ)やかな気持(きも)ちに変(か)わっていった。
渚(なぎさ)「落(お)ち着(つ)きましたか」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…手(て)が痛(いた)い」
渚(なぎさ)「お風呂(ふろ)に入(い)ると浸(し)みます、きっと」
朋也(ともや)「だろうな…シャワーだけにしとくよ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)の肩越(かたご)しに、通行人(つうこうにん)の姿(すがた)が見(み)える。
彼(かれ)らは、抱(だ)き合(あ)う俺(おれ)たちを見(み)て見(み)ぬふりして、通(とお)り過(す)ぎていく。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「結婚(けっこん)しよう」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)は迷(まよ)いもなく答(こた)えていた。
朋也(ともや)「いいのか…?」
渚(なぎさ)「はい、わたしも朋也(ともや)くん以外(いがい)にいないと思(おも)ってました…ずっと」
渚(なぎさ)「だから…うれしいです」
朋也(ともや)「…本当(ほんとう)にか?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)みたいな情(なさ)けない男(おとこ)でもいいのか」
渚(なぎさ)「わたしだって、情(なさ)けないです」
渚(なぎさ)「でも、こうして、わたしたちはお互(たが)いを支(ささ)えとしてがんばっていけます」
渚(なぎさ)「そうして、今(いま)まで強(つよ)くなってきました」
渚(なぎさ)「だから、これからは、もっと強(つよ)くなっていけると思(おも)います」
渚(なぎさ)「ふたり、一緒(いっしょ)だったらです」
朋也(ともや)「………」
全身(ぜんしん)に広(ひろ)がっていく感覚(かんかく)がある。
それは心(こころ)から発(はっ)されたものなのだろうか。
それとも渚(なぎさ)の言葉(ことば)からだろうか。
いや、渚自身(なぎさじしん)からか…。
なんでもいい。
幸(しあわ)せだった。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)」
朋也(ともや)「ずっと、そばに居(い)てくれるか」
渚(なぎさ)「はい、ずっとそばに居(い)ます」
朋也(ともや)「どんなときも、いつまでも…」
渚(なぎさ)「はい、どんなときも、いつまでも、そばに居(い)ます」
なら、何度(なんど)でも立(た)ち上(あ)がれる気(き)がする。
朋也(ともや)「ありがとう…」
朋也(ともや)「なら、俺(おれ)は渚(なぎさ)を幸(しあわ)せにする」
渚(なぎさ)「はい、お願(ねが)いします」
いつまでも、ふたりで…
生(い)きよう。
土曜(どよう)の朝(あさ)。
俺(おれ)は、ひとり古河家(ふるかわけ)の前(まえ)に立(た)っていた。
自分(じぶん)の娘(むすめ)を男(おとこ)に取(と)られるというのは、どれほどショックなことだろうか。
俺(おれ)にはよくわからない。
けど、例(たと)えば、今(いま)、別(べつ)の誰(だれ)かが渚(なぎさ)を奪(うば)っていくというなら、俺(おれ)は失意(しつい)の底(そこ)に叩(たた)き落(お)とされるだろう。
それと似(に)た苦(くる)しみをあのふたりが味(あじ)わうというのであれば…
いや、それでも俺(おれ)は渚(なぎさ)が欲(ほ)しい。
ただひとつ自負(じふ)できるのは、世界(せかい)で一番(いちばん)、俺(おれ)が渚(なぎさ)を必要(ひつよう)としているということだ。
そして、渚(なぎさ)もそう思(おも)ってくれてると信(しん)じている。
だから、誰(だれ)が邪魔(じゃま)しようとも、無意味(むいみ)なんだと思(おも)う。
ここからは男(おとこ)らしくいこう。
俺(おれ)は足(あし)を踏(ふ)み出(だ)した。
早苗(さなえ)「いらっしゃいませ」
店番(みせばん)は、早苗(さなえ)さんだった。
早苗(さなえ)「あら、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「早(はや)かったですね」
朋也(ともや)「ええ…渚(なぎさ)と一緒(いっしょ)に家(いえ)を出(で)ましたから」
俺(おれ)は事前(じぜん)に、話(はなし)があるので伺(うかが)いますと連絡(れんらく)を入(い)れておいた。
朋也(ともや)「オッサンは?」
早苗(さなえ)「目(め)を離(はな)した隙(すき)に、どこかに遊(あそ)びに行(い)ってしまいました」
早苗(さなえ)「ごめんなさいね」
朋也(ともや)「いえ…」
早苗(さなえ)「大事(だいじ)な話(はなし)があるんでしょう?」
朋也(ともや)「わかりますか」
早苗(さなえ)「はい。電話口(でんわぐち)で話(はな)してる時(とき)から、声(こえ)がすごく緊張(きんちょう)してましたよ」
早苗(さなえ)さんのことだ。内容(ないよう)の見当(けんとう)もついているのだろう。
早苗(さなえ)「お父(とう)さんの件(けん)は…大変(たいへん)でしたね」
朋也(ともや)「いえ…俺(おれ)は大丈夫(だいじょうぶ)っす。なんてことないですよ」
朋也(ともや)「ただ、やっぱり渚(なぎさ)が…」
朋也(ともや)「こんな俺(おれ)でもいいのかって…」
早苗(さなえ)「そんなことは誰(だれ)も気(き)にしません。渚(なぎさ)もわたしも秋生(あきお)さんも」
朋也(ともや)「でも世間(せけん)が気(き)にするんです」
朋也(ともや)「現(げん)に俺(おれ)は、それで就職口(しゅうしょくぐち)を失(うしな)っちまいました」
早苗(さなえ)「それは…残念(ざんねん)なことでした」
早苗(さなえ)「でも、方法(ほうほう)はたくさんあるはずです」
早苗(さなえ)「道(みち)は一本(いっぽん)ではないですから」
早苗(さなえ)「あの子(こ)だって…どんな道(みち)でも、朋也(ともや)さんと一緒(いっしょ)に歩(あゆ)んでくれるはずです」
早苗(さなえ)「どこまでも」
早苗(さなえ)「そうですよね?」
やっぱり見透(みす)かされていたのだ。
本当(ほんとう)に、この人(ひと)には頭(あたま)が上(あ)がらない。
朋也(ともや)「ええ。そう言(い)ってくれてます」
早苗(さなえ)「それは間違(まちが)いなく本心(ほんしん)です。信(しん)じてあげてください」
朋也(ともや)「はい、ありがとうございます」
秋生(あきお)「くそ…あのガキども…」
バットを肩(かた)に抱(かか)えて、オッサンが現(あらわ)れた。
朋也(ともや)「ちっす」
秋生(あきお)「なんだ、てめぇ。どうして居(い)るんだ」
朋也(ともや)「ちゃんと電話(でんわ)しただろ、今日(きょう)は顔(かお)を出(だ)すって」
秋生(あきお)「んな細(こま)かいこと、いちいち覚(おぼ)えてられるかよっ」
相変(あいか)わらず乱暴(らんぼう)な口振(くちぶ)りだった。
秋生(あきお)「で、なんだ。パンでも買(か)いにきたのか」
秋生(あきお)「悪(あく)ぃがいくら娘(むすめ)の彼氏(かれし)だからって、割安(わりやす)にはしねぇぜ」
秋生(あきお)「あえて、倍額(ばいがく)だっ!」
朋也(ともや)「定価(ていか)で売(う)れよっ!」
秋生(あきお)「てめぇ、何様(なにさま)のつもりだよ」
朋也(ともや)「少(すく)なくともパンを買(か)うときは客(きゃく)だろっ」
秋生(あきお)「ちっ…なら、早苗(さなえ)のパンを買(か)え。あれなら定価(ていか)で売(う)ってやる」
朋也(ともや)「後(うし)ろに早苗(さなえ)さん、居(い)るんだけど」
秋生(あきお)「え?」
早苗(さなえ)「わたしのパンは…」
早苗(さなえ)「定価(ていか)だったんですねーーーーーーっ!!」
泣(な)きながら、走(はし)り去(さ)っていった。
秋生(あきお)「待(ま)てっ、定価(ていか)で合(あ)ってんじゃねぇのかっ!?」
秋生(あきお)「ちっ…あいつ混乱(こんらん)してやがる…仕方(しかた)がねぇっ」
オッサンが早苗(さなえ)さんのパンを頬張(ほおば)る。そして…
秋生(あきお)「明日(あした)からはおまえのパンはひとつ一万円(いちまんえん)だぁぁーーーーーーっ!」
同(おな)じように走(はし)っていった。
朋也(ともや)(この店(みせ)、先(さき)長(なが)くないなぁ…)
それをアホのようにぽかんと見届(みとど)ける俺(おれ)。
つーか、俺(おれ)は大事(だいじ)な話(はなし)をしにきたんじゃなかったのか。
後(あと)を追(お)う。
秋生(あきお)「ちっ…追(お)いつけなかったぜ…」
オッサンが立(た)ち尽(つ)くしていた。
朋也(ともや)「なぁ、オッサン」
朋也(ともや)「俺(おれ)、大事(だいじ)な話(はなし)があるんだよ。落(お)ち着(つ)いて聞(き)いてくれないか」
秋生(あきお)「ほぅ、俺(おれ)に話(ばなし)か。聞(き)いてほしいか」
朋也(ともや)「ああ、聞(き)いてほしい」
俺(おれ)は精一杯(せいいっぱい)の真剣(しんけん)さで、オッサンの目(め)を見(み)た。
今(いま)まででもそうだった。
普段(ふだん)はのらりくらりとしていても、こちらの真剣(しんけん)さが伝(つた)われば、この人(ひと)はちゃんと話(はなし)を聞(き)いてくれる。
秋生(あきお)「なるほど、いい目(め)だ」
朋也(ともや)「ああ、今回(こんかい)はマジなんだ」
秋生(あきお)「よし、だったら…」
朋也(ともや)「なんだ」
秋生(あきお)「真剣勝負(しんけんしょうぶ)だ」
俺(おれ)が馬鹿(ばか)だった…。
この人(ひと)に真剣(しんけん)な時(とき)などない。それがよくわかった。
秋生(あきお)「へっ…久々(ひさびさ)に腕(うで)が鳴(な)るぜ…」
公園(こうえん)で、俺(おれ)とオッサンは距離(きょり)を置(お)いて向(む)かい合(あ)っていた。
オッサンの手(て)には軟球(なんきゅう)。そして俺(おれ)の手(て)には金属(きんぞく)バット。
以前(いぜん)に対戦(たいせん)したときとは逆(ぎゃく)だ。
秋生(あきお)「ふん、この界隈(かいわい)じゃ、パンを焼(や)くトルネードと呼(よ)ばれた男(おとこ)だぜ」
秋生(あきお)「時速(じそく)160キロのストレートを受(う)けてみよっ!」
プロに行(い)け。
秋生(あきお)「まぁ、ホームランまでは要求(ようきゅう)しねぇ」
秋生(あきお)「ヒット性(せい)の当(あ)たりだったらいい。ボテボテのゴロやトップフライでなければ、てめぇの勝(か)ちにしてやるよ」
なめられたものだった。
いくらオッサンが並(なみ)はずれた運動神経(うんどうしんけい)を持(も)っているとしても、前(まえ)に飛(と)ばすぐらいはできるだろう。
要(よう)は、当(あ)たりさえすればいいのだ。
秋生(あきお)「そうしたら、話(はなし)を聞(き)いてやるよ」
朋也(ともや)「聞(き)くだけじゃねぇ、無条件(むじょうけん)で了承(りょうしょう)しろっ」
秋生(あきお)「あん?」
朋也(ともや)「話(はなし)を聞(き)くだけなんて、誰(だれ)にでもできるだろ。そんなの勝(か)つ気(き)も起(お)こらねぇ」
朋也(ともや)「俺(おれ)の言(い)うことに黙(だま)って頷(うなず)け、いいなっ!」
秋生(あきお)「はんっ、なら、俺(おれ)が勝(か)ったら、おまえの言(い)うことには聞(き)く耳(みみ)持(も)たねぇからな」
朋也(ともや)「ああ、いいぜ」
秋生(あきお)「おもしれぇ…」
秋生(あきお)「勝負(しょうぶ)だ、小僧(こぞう)!」
オッサンが振(ふ)りかぶり…
投球(とうきゅう)。
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
朋也(ともや)「くあ…」
…完敗(かんぱい)だった。
朋也(ともや)(マジ、かすりもしねぇ…)
秋生(あきお)「てめぇ、肩(がた)でも痛(いた)めてるのか」
朋也(ともや)「あん?」
秋生(あきお)「そんな右肩(みぎかた)を庇(かば)うようなスイングじゃ、当(あ)たるわけねぇだろ、馬鹿(ばか)」
朋也(ともや)「怪我(けが)なんかしてねぇよ」
秋生(あきお)「そうだな。そんなものを言(い)い訳(わけ)にされても困(こま)るからな」
秋生(あきお)「まぁ、またやりたくなったら、いつでも言(い)ってこい」
秋生(あきお)「うわーはっはっはっは!」
豪快(ごうかい)に笑(わら)いながら、去(さ)っていった。
朋也(ともや)(なるほどな…)
朋也(ともや)(バットを振(ふ)ることすら、ままならないのか、俺(おれ)は…)
朋也(ともや)(つーか…)
朋也(ともや)「アホか、俺(おれ)は…」
こんなことで、大事(だいじ)な機会(きかい)を逸(いっ)するなんて。
急(いそ)いで、オッサンの後(あと)を追(お)う。
朋也(ともや)「おい、オッサン、あれは冗談(じょうだん)だ」
朋也(ともや)「話(はなし)を聞(き)いてくれよ」
秋生(あきお)「あん?」
秋生(あきお)「男(おとこ)に二言(にごん)はねぇはずだろ。俺(おれ)はおまえをそんな風(ふう)に育(そだ)てた覚(おぼ)えはないぞ」
朋也(ともや)「確(たし)かに育(そだ)てられた覚(おぼ)えはないが、あんな勝負(しょうぶ)で話(はなし)を聞(き)いてもらえないなんて馬鹿(ばか)げてる」
秋生(あきお)「あんな勝負(しょうぶ)だとぉ?」
秋生(あきお)「おまえな、勝負(しょうぶ)という名目(めいもく)で戦(たたか)った以上(いじょう)、内容(ないよう)なんて関係(かんけい)ねぇ」
秋生(あきお)「水道管(すいどうかん)ゲームで戦(たたか)おうが、それは真剣勝負(しんけんしょうぶ)。男(おとこ)の勝負(しょうぶ)だ。違(ちが)うか」
無理(むり)だ…。この人(ひと)を説得(せっとく)なんてできるはずがない。
あんな約束(やくそく)をした俺(おれ)が馬鹿(ばか)だったのだ…。
秋生(あきお)「まぁ、かするぐらいには練習(れんしゅう)してから、来(こ)い」
秋生(あきお)「小学生(しょうがくせい)よりは楽(たの)しませてくれよな」
早苗(さなえ)「今日(きょう)は帰(かえ)りますか」
朋也(ともや)「はい」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「俺(おれ)、アホっす」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「あの人(ひと)、遊(あそ)んでるだけなんですよ」
朋也(ともや)「小学生相手(しょうがくせいあいて)によほど飽(あ)きていたのか、俺(おれ)を代(か)わりにして遊(あそ)んでるだけなんです」
朋也(ともや)「そんなことに付(つ)き合(あ)っちまって、大事(だいじ)な話(はなし)できなくなったなんて、どう渚(なぎさ)に言(い)えばいいんですか…」
早苗(さなえ)「打(う)っちゃえばいいんですよ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「俺(おれ)、渚(なぎさ)にしか言(い)ってなかったですけど…肩(かた)が不自由(ふじゆう)なんです」
朋也(ともや)「だから、簡単(かんたん)なことじゃないんす」
早苗(さなえ)「バットが振(ふ)れないですか」
朋也(ともや)「いえ、振(ふ)れます。そこまでは不自由(ふじゆう)ではないです」
早苗(さなえ)「なら、努力(どりょく)をすれば届(とど)くかもしれませんよ」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)のためを思(おも)って、頑張(がんば)ってみてはどうでしょうか」
早苗(さなえ)「それでもダメな時(とき)は、わたしに相談(そうだん)してください」
言(い)って、にっこりと笑(わら)う。
早苗(さなえ)さんの言(い)うとおりだった。
努力(どりょく)すれば、いつかは届(とど)く。
どんな不格好(ぶかっこう)でも。
俺(おれ)はそれを身(み)をもって知(し)ってきたはずだ。
それが、どんなことであっても。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)は本当(ほんとう)に、早苗(さなえ)さんには頭(あたま)が上(あ)がらないっすよ」
早苗(さなえ)「はい?
わたしは思(おも)ったことを言(い)ってるだけですよ」
朋也(ともや)「だからですよ」
翌日(よくじつ)。
また俺(おれ)はこの場所(ばしょ)に立(た)っていた。
秋生(あきお)「ふん、懲(こ)りずにこの小僧(こぞう)はよっ…」
リベンジ。
早苗(さなえ)「おふたりとも、頑張(がんば)ってくださいねー」
今日(きょう)は早苗(さなえ)さんまで、応援(おうえん)にきている。
平和(へいわ)なパン屋(や)だった。
秋生(あきお)「落差(らくさ)1メートルを誇(ほこ)るフォークを受(う)けてみよっ!」
プロに行(い)け。
朋也(ともや)「こいっ」
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
またリベンジ。
秋生(あきお)「なんで、こんな雨(あめ)の日(ひ)に戦(たたか)わなきゃならねぇんだよっ!」
秋生(あきお)「高校球児(こうこうきゅうじ)か、俺(おれ)たちはっ」
早苗(さなえ)「すぐお風呂(ふろ)入(はい)れるように沸(わ)かしてありますからねー」
傘(かさ)をさした早苗(さなえ)さんも公園(こうえん)の入(い)り口(ぐち)に立(た)っていた。
朋也(ともや)「真剣勝負(しんけんしょうぶ)に状況(じょうきょう)なんて関係(かんけい)ないだろ?」
秋生(あきお)「む…確(たし)かになっ」
秋生(あきお)「しかし、もう俺(おれ)はこりごりだ」
秋生(あきお)「だから、これで最後(さいご)だ」
秋生(あきお)「もう再戦(さいせん)は受(う)けつけねぇからな」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…ああ」
秋生(あきお)「ちっ、七(なな)つに分身(ぶんしん)する魔球(まきゅう)を受(う)けてみよっ!」
雑技団(ざつぎだん)に行(い)け。
秋生(あきお)「うおりゃっ!」
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
すぱーんっ!
空振(からぶ)り。
すぱーんっ!
…空振(からぶ)り。
秋生(あきお)「どうだ、わかったかよ…」
………。
諦(あきら)めるのか…?
こんなところで?
いや…
朋也(ともや)「頼(たの)むっ、もう一球(いっきゅう)だけだっ!」
俺(おれ)はそう叫(さけ)びながら、オッサンに駆(か)け寄(よ)っていた。
朋也(ともや)「もう、一球(いっきゅう)だけ、勝負(しょうぶ)してくれ!」
秋生(あきお)「ちっ、なんなんだ、こいつは」
秋生(あきお)「何(なに)を必死(ひっし)になってんだよ」
秋生(あきお)「勝(か)てねぇよ、てめぇには」
秋生(あきお)「それぐらい力(ちから)の差(さ)があんだよ、てめぇと俺様(おれさま)には」
秋生(あきお)「いい加減(かげん)悟(さと)りやがれっ…」
吐(は)き捨(す)てて店(みせ)に戻(もど)っていく。
俺(おれ)は呆然(ぼうぜん)と雨(あめ)の中(なか)、立(た)ちつくしていた。
その俺(おれ)に、すっと、傘(かさ)が差(さ)し出(だ)される。
早苗(さなえ)さんだった。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
朋也(ともや)「知(し)ってんじゃないすか、あの人(ひと)」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「なんか今(いま)、教鞭(きょうべん)垂(た)れられてた気(き)がしたんです」
朋也(ともや)「おまえはまだまだ子供(こども)だって…」
朋也(ともや)「誰(だれ)かを守(まも)るなんて、おこがましい話(はなし)だって…」
早苗(さなえ)「考(かんが)えすぎですよ。秋生(あきお)さんはいつだってあの調子(ちょうし)です」
朋也(ともや)「そうっすかね…」
早苗(さなえ)「さ、戻(もど)りましょう」
朋也(ともや)「いえ、俺(おれ)は残(のこ)ります」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「力(ちから)に差(さ)があるんだったら、後(あと)は熱意(ねつい)ぐらいしか残(のこ)らないっすから」
早苗(さなえ)「そうですねっ」
早苗(さなえ)さんは、俺(おれ)の言葉(ことば)ににっこりと笑(わら)う。
早苗(さなえ)「今回(こんかい)だけは止(と)めません」
早苗(さなえ)「とても大事(だいじ)なことですからね」
早苗(さなえ)「風邪引(かぜひ)いても頑張(がんば)ってください」
早苗(さなえ)「倒(たお)れるまで」
傘(かさ)が下(さ)げられ、俺(おれ)は再(ふたた)び雨(あめ)に打(う)たれる。
そんな俺(おれ)を笑顔(えがお)のまま、早苗(さなえ)さんは見(み)つめていた。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)、早苗(さなえ)さんのことも好(す)きっすよ」
早苗(さなえ)「はいっ」
オッサンの投球(とうきゅう)を頭(あたま)に描(えが)きながら、俺(おれ)は素振(そぶ)りを続(つづ)けた。
二度(にど)とすることはないだろう、野球(やきゅう)。
今(いま)だけのために。
たった一球(いっきゅう)だけのために。
雨煙(あめけむり)の向(む)こう、人(ひと)が立(た)っていた。
秋生(あきお)「すんげぇ雨(あめ)だな、おい」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「ボール、見(み)えるか」
朋也(ともや)「きっと、縫(ぬ)い目(め)まで見(み)えるよ」
秋生(あきお)「上等(じょうとう)だ。最後(さいご)の一球(いっきゅう)だ、いいな」
朋也(ともや)「ああ」
俺(おれ)はバットを構(かま)える。
朋也(ともや)(こんなに、真剣(しんけん)に野球(やきゅう)なんてやったことなかったな…)
体育(たいいく)の授業(じゅぎょう)でさえも。
朋也(ともや)(卒業(そつぎょう)してからそれをやってるなんて、笑(わら)える)
赤(あか)い傘(かさ)が見(み)えた。早苗(さなえ)さんも、見(み)てくれている。
オッサンが投球(とうきゅう)モーションに入(はい)る。
雨(あめ)が目(め)に染(し)みて、よく見(み)えない。
…振(ふ)りかぶった。
朋也(ともや)(いち…)
朋也(ともや)(にの…)
朋也(ともや)「さんっ!」
音(おと)はしなかった。
ただ、手応(てごた)えだけがあった。
…どうなったんだろう。
視界(しかい)の端(はし)で赤(あか)い傘(かさ)が揺(ゆ)れていた。
早苗(さなえ)「ホーーームラン!」
早苗(さなえ)さんが告(つ)げていた。
俺(おれ)はバットを投(な)げ捨(す)てて、駆(か)けていた。
オッサンの正面(しょうめん)。
地面(じめん)に滑(すべ)り込(こ)むようにして、土下座(どげざ)して…
そして、額(ひたい)を泥(どろ)に擦(す)りつけ、叫(さけ)んでいた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)を俺(おれ)にくださいっ!」
朋也(ともや)「………」
雨(あめ)の音(おと)だけが聞(き)こえる。
体(からだ)の温度(おんど)が下(さ)がっていく。
それでも、胸(むね)の鼓動(こどう)だけは速(はや)くて…
いつまでも、息(いき)が落(お)ち着(つ)かなかった。
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「かっ…」
秋生(あきお)「…俺(おれ)に似(に)てるぜ、こいつ」
早苗(さなえ)「わたしはずっと前(まえ)から気(き)づいてましたよ。そっくりです」
オッサンと早苗(さなえ)さんの話(はな)し声(ごえ)が聞(き)こえてくる。
秋生(あきお)「大人(おとな)になりたくて、はやってたんだ」
早苗(さなえ)「そうですね」
秋生(あきお)「まだまだガキのくせによ」
早苗(さなえ)「だからこそ、ですよ」
秋生(あきお)「ああ、そうだな」
………。
……。
…答(こた)えは一向(いっこう)に出(で)なかった。
秋生(あきお)「おまえ、泥(どろ)で洗顔(せんがん)パックでもしてるのか」
秋生(あきお)「いい加減(かげん)、顔(かお)、上(あ)げたらどうなんだ」
早苗(さなえ)「もう、いいんですよ、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「え…?」
朋也(ともや)「その…答(こた)えは…」
秋生(あきお)「おまえ、自分(じぶん)で言(い)ったことも忘(わす)れたのか」
朋也(ともや)「え?」
秋生(あきお)「勝負(しょうぶ)に勝(か)ったら、自分(じぶん)の言(い)うことに黙(だま)って頷(うなず)けって言(い)ったじゃねぇか」
秋生(あきお)「それを聞(き)いた直後(ちょくご)に俺(おれ)は頷(うなず)いてんだよ、馬鹿(ばか)っ」
秋生(あきお)「だがな…」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)が辛(つら)い思(おも)いをするようなことがあれば、すぐさま連(つ)れて帰(かえ)るぞ」
早苗(さなえ)「良(よ)かったですね、朋也(ともや)さん」
早苗(さなえ)「さあ、立(た)ち上(あ)がってください」
朋也(ともや)「はい」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)はわたしたちの夢(ゆめ)です」
早苗(さなえ)「そして、今日(きょう)からは、朋也(ともや)さんもわたしたちの夢(ゆめ)です」
早苗(さなえ)「ふたりの幸(しあわ)せがわたしたちの夢(ゆめ)なんです」
早苗(さなえ)「だから幸(しあわ)せになってくださいね、あの子(こ)と一緒(いっしょ)に」
秋生(あきお)「てめぇだけ不幸(ふこう)になれ、このやろ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんっ」
秋生(あきお)「冗談(じょうだん)だ、馬鹿(ばか)っ」
秋生(あきお)「おまえも、幸(しあわ)せになれ」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「幸(しあわ)せになる。あいつと」
秋生(あきお)「おぅ、噂(うわさ)をすればだな。お姫様(ひめさま)のお着(つ)きだ」
振(ふ)り返(かえ)ると、もうひとつ赤色(あかいろ)の傘(かさ)が、近(ちか)づいてくるところだった。
話(はな)したいことがたくさんある。
俺(おれ)は泥(どろ)を飛(と)ばして、駆(か)け寄(よ)っていった。
こうして、俺(おれ)と渚(なぎさ)は婚約(こんやく)した。
籍(せき)を入(い)れるのは、渚(なぎさ)が卒業(そつぎょう)してからにする。
後(あと)、半年後(はんとしご)のことだ。
いろんなことがあった、夏(なつ)が終(お)わった。
一度(いちど)、どん底(ぞこ)に突(つ)き落(お)とされた俺(おれ)は、もう一度(いちど)這(は)い上(あ)がれた。
渚(なぎさ)が居(い)てくれたからだ。
渚(なぎさ)が辛(つら)そうな顔(かお)で帰(かえ)ってきた日(ひ)は、渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)って眠(ねむ)った。
俺(おれ)の精神(せいしん)が疲(つか)れきってしまった日(ひ)は、渚(なぎさ)の胸(むね)に顔(かお)を押(お)し当(あ)てて眠(ねむ)った。
そうして、ふたりでひとつのように、日々(ひび)を暮(く)らした。
もう何(なに)も恐(おそ)れるものはなかった。
俺(おれ)には渚(なぎさ)さえ居(い)てくれればよかった。
ずっと、強(つよ)く生(い)きていける。
何度(なんど)転(ころ)ぼうが、這(は)い上(あ)がっていける。
そして俺(おれ)の人生(じんせい)は、ただ渚(なぎさ)とふたりで幸(しあわ)せになる。それだけが目標(もくひょう)だった。
こんなにも簡単(かんたん)に答(こた)えが出(で)た。
ずっと、邁進(まいしん)していこう。
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seagull - 2009/7/28 20:54:00
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同棲編(接上),0,]

二学期(にがっき)が始(はじ)まって、渚(なぎさ)も学校(がっこう)に通(かよ)い始(はじ)めた。
相変(あいか)わらず友達(ともだち)はできないようだったけど、家(いえ)では俺(おれ)と話(はなし)をして笑(わら)い合(あ)えた。
渚(なぎさ)の制服(せいふく)が冬服(ふゆふく)になって、秋(あき)が来(き)たことを実感(じっかん)する。
その秋(あき)もあっという間(ま)に過(す)ぎた。
肌寒(はださむ)くなってきたと思(おも)ったら、もう冬(ふゆ)だった。
そして…
一年(いちねん)で、一番(いちばん)待(ま)ち遠(どお)しい日(ひ)がやってきた。
クリスマスと渚(なぎさ)の誕生日(たんじょうび)。
今年(ことし)はふたりきりで過(す)ごした。
デパートで、ペアの腕時計(うでどけい)を買(か)った。
渚(なぎさ)は嬉(うれ)しさのあまりか、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)って、大(おお)きく振(ふ)って歩(ある)いた。
まるで付(つ)き合(あ)って間(ま)もない高校生(こうこうせい)のカップルのように。
そして、寂(さび)れた通(とお)りにあるおもちゃ屋(や)の前(まえ)を通(かよ)ったとき。
それを見(み)つけた。
すすけたウィンドウの向(む)こうに、ぼってりと鎮座(ちんざ)していた。
だんご大家族(だいかぞく)のぬいぐるみ。
去年(きょねん)に買(か)ったものと色違(いろちが)いだった。
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「家(いえ)にある、だんご、ずっとひとりで寂(さび)しそうでしたから…一緒(いっしょ)にしてあげたいです」
渚(なぎさ)はそう言(い)って、握(にぎ)っていた手(て)に力(ちから)を込(こ)めた。
そうして、部屋(へや)の隅(すみ)には、ふたつめのだんごが並(なら)ぶことに。
渚(なぎさ)は腕時計(うでどけい)を買(か)ったことをすでに忘(わす)れているんじゃないだろうか。
そのふたつのだんごを交互(こうご)に抱(だ)いて、ずっと嬉(うれ)しそうにしていた。
俺(おれ)が呆(あき)れるぐらい。
でも、それが俺(おれ)が知(し)っている渚(なぎさ)だった。
正月(しょうがつ)は、渚(なぎさ)の実家(じっか)で過(す)ごした。
オッサンはおせちの余(あま)りをつまみに、日本酒(にほんしゅ)を飲(の)んでいた。
その隣(となり)では、早苗(さなえ)さんが年賀状(ねんがじょう)の整理(せいり)をしていた。
渚(なぎさ)は俺(おれ)と肩(かた)を並(なら)べて、テレビを見(み)ていた。
秋生(あきお)「そういや、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
秋生(あきお)「おまえ、二十歳(はたち)になったんだよな」
渚(なぎさ)「はい。二十歳(はたち)です」
そう…渚(なぎさ)はもう二十歳(はたち)だった。成人(せいじん)しているのだ。
俺(おれ)はまだ十九(じゅうきゅう)。
よく考(かんが)えると、ものすごい違和感(いわかん)だ。
渚(なぎさ)が二十代(にじゅうだい)で、俺(おれ)はまだ十代(じゅうだい)。
オッサンと話(はな)す、渚(なぎさ)の横顔(よこがお)を見(み)る。
情(なさ)けない顔(かお)。
ああ、ほんとうにおまえは人生(じんせい)の先輩(せんぱい)か。
成人女性(せいじんじょせい)か。
そう問(と)いたくなるほど、歳不相応(としふそうおう)だ。
おかしい。笑(わら)える。
秋生(あきお)「よっし、なら、約束(やくそく)を果(は)たしてもらおうかっ」
渚(なぎさ)「はい?」
話(はなし)は続(つづ)いていた。
秋生(あきお)「おまえ、約束(やくそく)してただろ」
秋生(あきお)「二十歳(はたち)になったら、俺(おれ)と一緒(いっしょ)に酒(さけ)を呑(の)むって」
渚(なぎさ)「えっ、そんな約束(やくそく)してないですっ」
秋生(あきお)「したよ」
秋生(あきお)「夜(よ)な夜(よ)なひとりで呑(の)んでる俺(おれ)に、トイレに起(お)きてきたおまえが、哀(あわ)れんで言(い)ったんだ…」
秋生(あきお)「呑(の)めるようになったら、一緒(いっしょ)に呑(の)んであげるってよ…」
渚(なぎさ)「いつですか」
秋生(あきお)「そう、あれは…おまえが小学生(しょうがくせい)の時(とき)だったかな」
渚(なぎさ)「そんなの覚(おぼ)えてないですっ」
渚(なぎさ)「しかも、寝(ね)ぼけてたに違(ちが)いないです」
そもそも、オッサンのねつ造(ぞう)かもしれない。
秋生(あきお)「なんだ…あれは嘘(うそ)だったのか…」
秋生(あきお)「くそぅ…あの日(ひ)から、ずっと楽(たの)しみにしてきたのに…」
渚(なぎさ)「え…本当(ほんとう)ですか…」
秋生(あきお)「あん?」
渚(なぎさ)「ずっと、楽(たの)しみに待(ま)っていてくれたんですか…」
秋生(あきお)「ああ…指折(ゆびお)り数(かぞ)えて生(い)きてきたさ…」
俺(おれ)も知(し)っているが…情(じょう)に訴(うった)えかけられると、渚(なぎさ)は断(ことわ)れなくなる。
でも、酒(さけ)の入(はい)った渚(なぎさ)…
朋也(ともや)(興味(きょうみ)ありすぎ…)
だから、傍観(ぼうかん)を決(き)め込(こ)む。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)がまったく呑(の)めねぇからな…」
早苗(さなえ)「そうですね。お酒(さけ)は苦手(にがて)です。すぐ気分(きぶん)が悪(わる)くなってしまうんです」
秋生(あきお)「もう、何年(なんねん)、ひとりで呑(の)んできたかわからねぇよ…」
早苗(さなえ)「わたしも、お付(つ)き合(あ)いできればよかったんですけど」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「…わかりました。呑(の)んでみます」
意(い)を決(けっ)して言(い)った。
渚(なぎさ)「でも、わたしに呑(の)めるでしょうか…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)、てめぇは俺(おれ)の娘(むすめ)だっ」
早苗(さなえ)「そうですよっ」
あんたの娘(むすめ)でもある。
渚(なぎさ)「それではいただきます」
手(て)には、日本酒(にほんしゅ)が注(そそ)がれたお猪口(ちょこ)。
秋生(あきお)「おぅ、ぐいっといけ」
渚(なぎさ)「初(はじ)めてですから、ぐいっとなんていけないです」
渚(なぎさ)「まずは味見(あじみ)です」
しかし、初(はじ)めてのアルコールが日本酒(にほんしゅ)の冷(ひ)やというのもどうかと思(おも)うが。
お猪口(ちょこ)に鼻(はな)を寄(よ)せる。
渚(なぎさ)「………」
つん、と来(き)たようだ。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、無理(むり)しなくていいですよ」
渚(なぎさ)「いえ…せめて、一杯(いっぱい)は呑(の)みます。お父(とう)さんのために」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)…今(いま)ほど、おまえを産(う)んでよかったと思(おも)った瞬間(しゅんかん)はないぞ」
こんなことで思(おも)うな。
しかも産(う)んだのは、早苗(さなえ)さんだ。
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だ。匂(にお)いほどアルコールはきつくねぇから、ぐいっと喉(のど)の奥(おく)に入(い)れちまえ」
渚(なぎさ)「はい…」
そんなことして、大丈夫(だいじょうぶ)だろうか。
倒(たお)れたりしないだろうか。
少(すこ)し心配(しんぱい)になってきたが…
でも、お猪口(ちょこ)一杯(いっぱい)ぐらいなら、無理(むり)しても気持(きも)ち悪(わる)くなる程度(ていど)で済(す)むか…。
渚(なぎさ)「いきます」
秋生(あきお)「おぅ」
ぐいっ。
渚(なぎさ)が思(おも)いきって、お猪口(ちょこ)を傾(かたむ)けた。
ごくん。
喉(のど)が鳴(な)る。
渚(なぎさ)「呑(の)みました…」
秋生(あきお)「ひゅう…」
秋生(あきお)「いい呑(の)みっぷりじゃねぇか、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「そうですか…だったら、よかったです」
秋生(あきお)「ああ、最高(さいこう)の気分(きぶん)だ」
秋生(あきお)「つーわけで、もう一回(いっかい)見(み)せてくれ」
オッサンの手(て)によって、お猪口(ちょこ)が再度(さいど)満(み)たされる。
渚(なぎさ)「あ…はい」
渚(なぎさ)「では…」
さらに傍観
もう一杯(いっぱい)ぐらいなら、大丈夫(だいじょうぶ)だろう。
俺(おれ)は見(み)ていた。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、そのへんでやめておいたほうがいいですよ」
早苗(さなえ)さんが止(と)めに入(はい)っていた。
渚(なぎさ)「いえ…まだ平気(へいき)です」
早苗(さなえ)「アルコールは時間(じかん)をおいて回(まわ)ってきますから、今(いま)は平気(へいき)でも、もう飲(の)み過(す)ぎてるかもしれませんよ?」
渚(なぎさ)「え…」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが寂(さび)しいなら、わたしが代(か)わりに呑(の)みますから」
早苗(さなえ)「ですから、渚(なぎさ)はもう、やめておきましょうね」
早苗(さなえ)「では、それを置(お)いてください」
渚(なぎさ)「これですか?」
早苗(さなえ)「はい」
渚(なぎさ)は言(い)われるままに、お猪口(ちょこ)を机(つくえ)の上(うえ)に戻(もど)す。
代(か)わりにそれを早苗(さなえ)さんが指(ゆび)で挟(はさ)んで持(も)ち上(あ)げる。
秋生(あきお)「おい、やめとけって」
早苗(さなえ)「いつも、寂(さび)しい思(おも)いをさせてしまっていたので…」
オッサンの制止(せいし)も聞(き)かず…
ごくん。
…呑(の)んでしまった。
早苗(さなえ)「………」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
早苗(さなえ)「わたしも、一杯(いっぱい)ぐらいなら平気(へいき)です」
秋生(あきお)「そうか…」
みるみるうちに、渚(なぎさ)の顔(かお)は赤(あか)くなっていった。
渚(なぎさ)「すごく火照(ほて)ってます…」
頬(ほお)を両手(りょうて)で押(お)さえて言(い)った。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「はい。気分(きぶん)は悪(わる)くないです」
渚(なぎさ)「でも、なんだかぼーっとします」
朋也(ともや)「もう、これ以上(いじょう)呑(の)むなよ」
渚(なぎさ)「なんだか、朋也(ともや)くんが遠(とお)いです」
渚(なぎさ)「もっと、寄(よ)っていいですかっ」
朋也(ともや)「十分(じゅうぶん)、近(ちか)くにいると思(おも)うぞ」
渚(なぎさ)「そんなことないです、遠(とお)いですっ」
一度(いちど)腰(こし)を上(あ)げて座(すわ)り直(なお)す。ぴったりと腕(うで)が触(ふ)れた。
渚(なぎさ)「近(ちか)くなりました。えへへ」
朋也(ともや)「言(い)っとくが、おまえ、酔(よ)ってるからな…」
渚(なぎさ)「酔(よ)ってなんかないです」
朋也(ともや)「酔(よ)ってる奴(やつ)は皆(みんな)そういうんだよ…」
渚(なぎさ)「………」
すぐそばで、じっと俺(おれ)を見(み)つめ続(つづ)けた。
渚(なぎさ)「………」
早苗(さなえ)さんやオッサンの前(まえ)だというのに…。
秋生(あきお)「てめぇ…俺(おれ)に感謝(かんしゃ)しろよ…」
早苗(さなえ)「ラブラブですねっ」
朋也(ともや)「ラブラブっつーか…これは違(ちが)うでしょ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうして、否定(ひてい)するんですか」
朋也(ともや)「ほら、渚(なぎさ)、早苗(さなえ)さん見(み)てるし…」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんがどうかしましたかっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、お母(かあ)さんが気(き)になりますかっ」
…嫉妬(しっと)!?
早苗(さなえ)「それはわたしも興味(きょうみ)ありますねっ」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、わたしを気(き)にしてくれているんですかっ」
早苗(さなえ)さんも酔(よ)ってるーッ!?
秋生(あきお)「おおっ、すげぇ修羅場(しゅらば)だなっ」
オッサンはひとり、優雅(ゆうが)に見物(けんぶつ)。
…片方(かたほう)は、あんたの嫁(よめ)なんですが。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、答(こた)えてください」
朋也(ともや)「えぇ…?」
気にしてる
朋也(ともや)「気(き)にしてるよ」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「だって、おまえの母親(ははおや)だからな」
朋也(ともや)「ずっと、健康(けんこう)でいてほしい…」
朋也(ともや)「そう思(おも)うのは当然(とうぜん)だろ?」
渚(なぎさ)「あ…はい…そうでした…」
うまくはぐらかせたようだった。
秋生(あきお)「こいつ、はぐらかしてるぞ」
朋也(ともや)(ぐは…)
渚(なぎさ)「え?」
秋生(あきお)「女(おんな)として早苗(さなえ)が気(き)になるか、どうか、答(こた)えろよ」
早苗(さなえ)「なんか、年甲斐(としがい)もなく、どきどきしてしまいますねっ」
さ、早苗(さなえ)さん…。
いかん、動揺(どうよう)するな。
心配(しんぱい)そうに見(み)つめてる渚(なぎさ)のためにも、ここは男(おとこ)らしく…。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)の胸(むね)はでかいぞ」
がちゃんっ!
男(おとこ)らしく決(き)めるつもりが、オッサンの一言(いちげん)により、机(つくえ)に突(つ)っ伏(ぷ)す結果(けっか)に…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしてそんなに動揺(どうよう)してるんですか」
秋生(あきお)「ふん…早苗(さなえ)に気(き)がある証拠(しょうこ)よ…」
渚(なぎさ)「え…本当(ほんとう)ですか、朋也(ともや)くんっ」
朋也(ともや)「ないないない」
早苗(さなえ)「ないんですかっ」
朋也(ともや)「いや、好意(こうい)はありますよっ」
渚(なぎさ)「あるんですかっ」
朋也(ともや)「ぐあーーっ!
俺(おれ)が一体(いったい)何(なに)をしたぁーっ!」
秋生(あきお)「ふん…いい勉強(べんきょう)になったろ」
秋生(あきお)「こうして、男(おとこ)は成長(せいちょう)していくんだよ」
秋生(あきお)「てめぇは、何(なに)もかもうまくいきすぎだったからな」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)も、もうよしてやれ。そんな奴(やつ)に好(す)かれていなくても、別(べつ)にいいだろが」
早苗(さなえ)「よくないですっ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)ぇーーーーーーーーーーーーっ!!」
大騒(おおさわ)ぎだった。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か…?」
渚(なぎさ)「はい、ぜんぜん…大丈夫(だいじょうぶ)です…」
朋也(ともや)「でも、気分悪(きぶんわる)いんだろ?」
渚(なぎさ)「ちょっとです」
渚(なぎさ)「横(よこ)になれば、すぐ収(おさ)まります」
朋也(ともや)「寝(ね)る時(とき)は、風呂(ふろ)に入(はい)ってからな」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は、帰(かえ)らないですか」
朋也(ともや)「面倒(めんどう)だろ」
渚(なぎさ)「あの…」
渚(なぎさ)「わたしは、ふたりきりになりたかったです…」
朋也(ともや)「今(いま)、なってるじゃん」
渚(なぎさ)「あ、はい…」
渚(なぎさ)は敷(し)いた布団(ふとん)の上(うえ)に座(すわ)ったままでいた。
朋也(ともや)「どうした?」
渚(なぎさ)「あの…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは、お母(かあ)さんのこと好(す)きです」
朋也(ともや)「ああ、好(す)きだよ」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「おまえは、愛(いと)してる」
朋也(ともや)「この違(ちが)い、わかるか?」
渚(なぎさ)「あっ…」
渚(なぎさ)「…ありがとうございます」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、礼(れい)なんて言(い)うな」
渚(なぎさ)「あの…」
朋也(ともや)「なに」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「…胸(むね)、小(ちい)さいですけど、いいですかっ」
渚(なぎさ)は…
そんなことを気(き)にしていたのだ。
おかしい。おかしすぎる。
俺(おれ)は心配(しんぱい)する渚(なぎさ)を前(まえ)に、大笑(おおわら)いしてしまう。
渚(なぎさ)「え?
え?」
朋也(ともや)「平(たい)らだって、いいよ、俺(おれ)は。おまえだったらな」
渚(なぎさ)「平(たい)らじゃないです。ちゃんと出(で)てますから、安心(あんしん)してください」
渚(なぎさ)「って、わたし、ヘンなこと言(い)っちゃってます」
渚(なぎさ)「何(なに)が安心(あんしん)なのか、よくわからないです…」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「…えへへ」
安心(あんしん)したのか、ようやく笑顔(えがお)を見(み)せてくれた。
朋也(ともや)「ほら、横(よこ)になってろよ。今(いま)、水(みず)、持(も)ってきてやるから」
渚(なぎさ)「あ、はい。お願(ねが)いします」
渚(なぎさ)を休(やす)ませ、廊下(ろうか)に出(で)る。
居間(いま)からは、早苗(さなえ)さんとオッサンの話(はな)し声(ごえ)。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、渚(なぎさ)は幸(しあわ)せそうですね」
秋生(あきお)「ん?
ああ…そうだな…」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)に…あの子(こ)は朋也(ともや)さんが好(す)きなんですね」
秋生(あきお)「みてぇだな…」
秋生(あきお)「ちっ…なんだって、あんな甲斐性(かいしょ)ナシを…」
早苗(さなえ)「いえ、朋也(ともや)さんは、最近(さいきん)の男(おとこ)の子(こ)としては、しっかりしていますよ」
秋生(あきお)「そうかよ…」
早苗(さなえ)「それに、渚(なぎさ)は朋也(ともや)さんと一緒(いっしょ)に居(い)るだけで幸(しあわ)せなんですよ」
早苗(さなえ)「ですから、それだけで…一緒(いっしょ)に居(い)られるだけで十分(じゅうぶん)なんですよ」
なんて…穏(おだ)やかな時間(じかん)なんだろう。
俺(おれ)は愛(あい)する人(ひと)と、一緒(いっしょ)に暮(く)らしている。
それを温(あたた)かく見守(みまも)ってくれる人(ひと)たちもいる。
本当(ほんとう)に…頑張(がんば)らなくちゃな…。
休(やす)みが明(あ)けようとする頃(ころ)、渚(なぎさ)が体調(たいちょう)を崩(くず)した。
休(やす)みのうちに俺(おれ)が無理(むり)をさせすぎてしまったんじゃないだろうか。
でも渚(なぎさ)は、いつものです、と言(い)った。
いつものなら、また長引(ながび)くということだった。
オッサンとの約束通(やくそくどお)り、俺(おれ)は早苗(さなえ)さんを呼(よ)んだ。
俺(おれ)が仕事(しごと)に出(で)ている間(あいだ)は、早苗(さなえ)さんが看(み)ていてくれると言(い)った。
朋也(ともや)「申(もう)し訳(わけ)ないっす…」
早苗(さなえ)「いえ、朝(あさ)のパンは焼(や)いて出(い)てくるので、店(みせ)のほうは大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが店番(みせばん)はしてていてくれます」
…それが心配(しんぱい)なんだけど。
でも、そもそもそのオッサンとの約束(やくそく)だ。
しっかり、早苗(さなえ)さんの分(ぶん)まで働(はたら)いてくれるのだろう。
渚(なぎさ)のためにも、ここは甘(あま)えておくことにした。
朋也(ともや)「やっぱり…実家(じっか)に戻(もど)らないのか?」
ある日(ひ)の晩(ばん)、そう訊(き)いてみた。
渚(なぎさ)「はい。病気(びょうき)しても、ここがわたしの家(いえ)です。ここで寝(ね)ていたいです」
渚(なぎさ)「迷惑(めいわく)ばっかりかけてしまってますけど…」
朋也(ともや)「それはいいんだけどさ…」
渚(なぎさ)「体調(たいちょう)のいい日(ひ)は手伝(てつだ)えます」
朋也(ともや)「無理(むり)すんなって」
今(いま)は、できるだけ俺(おれ)が、家事(かじ)をやっていた。
早苗(さなえ)さんにも迷惑(めいわく)をかけないように。
仕事(しごと)も順調(じゅんちょう)だったから、さほど負担(ふたん)にはならなかった。
これまでと同(おな)じように、渚(なぎさ)の微熱(びねつ)は長(なが)く続(つづ)いた。
2月(がつ)になっても、登校(とうこう)できなかった。
ある日帰(ひがえ)ってくると、早苗(さなえ)さんが、夕飯(ゆうはん)の支度(したく)をしながら待(ま)っていてくれた。
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
朋也(ともや)「うわ、申(もう)し訳(わけ)ないっす」
朋也(ともや)「俺(おれ)、代(か)わりますよ」
早苗(さなえ)「いいえ」
早苗(さなえ)「すぐできますけど、先(さき)に夕飯(ゆうはん)でいいですか?」
朋也(ともや)「あ、はい。先(さき)にいただきます」
早苗(さなえ)「先(さき)にお風呂入(ふろはい)ってもらっても構(かま)わないんですよ?」
朋也(ともや)「いえ…腹(はら)ペコペコだから」
早苗(さなえ)「では、急(いそ)いで作(つく)りますね。その間(あいだ)、渚(なぎさ)の相手(あいて)をしてあげててください」
朋也(ともや)「はい」
部屋(へや)に入(はい)ると、いつものように渚(なぎさ)は体(からだ)を横(よこ)にしていた。
これもいつものように、その額(ひたい)に手(て)を置(お)いて、熱(ねつ)を計(はか)る。
朋也(ともや)「まぁまぁだな」
朋也(ともや)「気分(きぶん)はどうだ?」
渚(なぎさ)「いいです」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんのご飯(はん)、食(た)べられるか?」
渚(なぎさ)「いつもぐらいなら、食(た)べられると思(おも)います」
朋也(ともや)「なら、調子(ちょうし)はいつも通(どお)りだな」
いつも通(どお)り、というのは、いいことなのか、悪(わる)いことなのか…
よくわからなかった。
気休(きやす)めぐらいには、なっているのだろうか…。
渚(なぎさ)は布団(ふとん)の中(なか)から、もぞもぞと手(て)を出(だ)してくると、俺(おれ)の手(て)を掴(つか)んだ。
渚(なぎさ)「でも、結局(けっきょく)また…朋也(ともや)くんや、お母(かあ)さんに迷惑(めいわく)かけてしまいました」
渚(なぎさ)「手伝(てつだ)うこともできなくて…悔(くや)しいです…」
朋也(ともや)「でも、ずっと頑張(がんば)ってきたじゃないか」
朋也(ともや)「今(いま)は、頑張(がんば)ったから、ほんの少(すこ)し休憩(きゅうけい)してるって思(おも)えよ」
朋也(ともや)「誰(だれ)も迷惑(めいわく)なんて思(おも)ってないしさ」
渚(なぎさ)「はい…」
早苗(さなえ)「今日(きょう)は、渚(なぎさ)の担任(たんにん)の先生(せんせい)とお話(はな)してきました」
お茶(ちゃ)だけ飲(の)みながら、早苗(さなえ)さんは話(はな)し始(はじ)めた。
早苗(さなえ)「もし、三学期(さんがっき)、このまま休(やす)んでしまっても、卒業(そつぎょう)させてもらえるそうです」
朋也(ともや)「え…マジっすか」
早苗(さなえ)「はい。それまでの出席(しゅっせき)も良好(りょうこう)ですし、問題(もんだい)ないということです」
朋也(ともや)「よかったな、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「あ、はい…よかったです」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)は俺(おれ)と早苗(さなえ)さんに礼(れい)を言(い)った。
朋也(ともや)「俺(おれ)たちじゃないよ。おまえが一年(いちねん)頑張(がんば)ったからだって」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、よく頑張(がんば)りましたね」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「でも、まだ終(お)わってないです」
渚(なぎさ)「できれば、残(のこ)りの授業(じゅぎょう)…出席(しゅっせき)したいです」
渚(なぎさ)「このまま終(お)わってしまうのは、寂(さび)しいです…」
朋也(ともや)「そうだな。その気持(きも)ちはわかるよ」
数(かぞ)えれば、渚(なぎさ)の学生生活(がくせいせいかつ)は残(のこ)り一(いっ)ヶ月(げつ)だった。
一(いっ)ヶ月後(つきご)には、卒業式(そつぎょうしき)が控(ひか)えていた。
早苗(さなえ)「それでは、秋生(あきお)さんがお腹(なか)を空(す)かして寂(さび)しがっていると思(おも)いますので、帰(かえ)りますね」
朋也(ともや)「はい、ありがとうございました」
早苗(さなえ)「後片(あとかた)づけは朋也(ともや)さん、お願(ねが)いできますか」
朋也(ともや)「はい、もちろん」
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんをアパートの入(い)り口(ぐち)まで見送(みおく)る。
早苗(さなえ)「これで春(はる)には、籍(せき)を入(い)れられますね」
朋也(ともや)「はい…やっとそうできます」
朋也(ともや)「きっと、仕事(しごと)の励(はげ)みになって…もっともっと頑張(がんば)れますよ、俺(おれ)」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、本当(ほんとう)にあの子(こ)を必要(ひつよう)としていてくれるんですね」
朋也(ともや)「それは、もちろん」
朋也(ともや)「あいつなしじゃ、俺(おれ)の人生(じんせい)なんて、もう考(かんが)えられないです…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)は体(からだ)が弱(よわ)い子(こ)ですが、いつまでも一緒(いっしょ)に居(い)てあげてくださいね。よろしくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「いえ、こちらこそお願(ねが)いしたいくらいです。嫌(きら)われないようにしないと…」
朋也(ともや)「あれ?
このやり取(と)り、昔(むかし)にもしたような…」
早苗(さなえ)「そうですねっ」
言(い)って、早苗(さなえ)さんは笑(わら)った。
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)にあの子(こ)は、朋也(ともや)さんと出会(であ)えてよかったです」
朋也(ともや)「俺(おれ)こそですよ。あんな可愛(かわい)いくて思(おも)いやりのある奴(やつ)が、他(ほか)の奴(やつ)じゃなくて、俺(おれ)なんか選(えら)んでくれたなんて…」
朋也(ともや)「もっといっぱい居(い)たはずですよ。あいつを幸(しあわ)せにできる奴(やつ)なんて」
早苗(さなえ)「いません」
笑(わら)えるぐらいに、きっぱりと言(い)いきられた。
やっぱり、この人(ひと)も大好(だいす)きだった。
早苗(さなえ)「それでは、失礼(しつれい)します」
朋也(ともや)「ありがとうございました」
一週間(いっしゅうかん)、二週間(にしゅうかん)が過(す)ぎても、渚(なぎさ)の熱(ねつ)は下(さ)がらなかった。
そして、卒業式(そつぎょうしき)の日(ひ)も。
渚(なぎさ)は、この部屋(べや)から外(そと)の風景(ふうけい)を眺(なが)めたまま、卒業(そつぎょう)した。
…制服(せいふく)も着(ちゃく)ず、見送(みおく)られもせず。
桜(さくら)が咲(さ)き始(はじ)める頃(ころ)…
ようやく、渚(なぎさ)の熱(ねつ)は下(さ)がり、落(お)ち着(つ)きをみせた。
起(お)き上(あ)がって、家(いえ)の中(なか)のこともするようになった。
渚(なぎさ)「制服(せいふく)です」
渚(なぎさ)はビニールの袋(ふくろ)に入(はい)った制服(せいふく)を手(て)に持(も)って、俺(おれ)の前(まえ)に立(た)っていた。
渚(なぎさ)「クリーニングから戻(もど)ってきました」
渚(なぎさ)「もう着(き)ることはないですけど、大切(たいせつ)に保管(ほかん)しておきたいと思(おも)います」
朋也(ともや)「ああ…」
それを床(ゆか)に広(ひろ)げて、丁寧(ていねい)に折(お)り畳(たたみ)み始(はじ)める。
もう、着(き)ることはできないのだろうか。
少(すこ)しだけでもいい。
あの頃(ころ)に戻(もど)ることはできないのだろうか。
やり残(のこ)してきたことを、やり遂(と)げることはできないのだろうか。
ふと、なんの脈略(みゃくりゃく)もなしに…俺(おれ)は春原(すのはら)の顔(かお)を思(おも)い出(だ)していた。
学生時代(がくせいじだい)、寮生活(りょうせいかつ)をしていた春原(すのはら)は、卒業後(そつぎょうご)、実家(じっか)に戻(もど)った。
田舎(いなか)はどこだか忘(わす)れたが、東北(とうほく)のほうだったと思(おも)う。
とにかく遠(とお)い場所(ばしょ)だ。
日々(ひび)に追(お)い立(た)てられ、お互(たが)い連絡(れんらく)を取(と)ることすらままならなかった。
学生時代(がくせいじだい)のあいつしか俺(おれ)は知(し)らなかったけど…
学生服(がくせいふく)を着(き)て、馬鹿(ばか)をやっているあいつしか知(し)らなかったけど…
でも、あいつなら、どんな無茶(むちゃ)だって一緒(いっしょ)にやってくれるはずだった。
夜(よる)を待(ま)ち、渚(なぎさ)が風呂(ふろ)に入(はい)るのを見計(みはか)らって、押(お)し入(い)れを開(ひら)く。
奥深(おくぶか)くから学生時代(がくせいじだい)の名簿(めいぼ)を引(ひ)っぱり出(だ)してきて、春原(すのはら)の実家(じっか)の電話番号(でんわばんごう)を探(さが)した。
見(み)つけると、電話(でんわ)を引(ひ)っ張(ぱ)ってきて、すぐさまダイヤルをプッシュした。
声(こえ)『はい、春原(すのはら)です』
母親(ははおや)の声(こえ)。
朋也(ともや)「あの、岡崎(おかざき)と申(もう)しますが、陽平(ようへい)さんはご在宅(ざいたく)でしょうか」
声(こえ)『どちら様(さま)ですか?』
何(なに)かの勧誘(かんゆう)と思(おも)われているのだろうか。
朋也(ともや)「学生(がくせい)の頃(ころ)の同級生(どうきゅうせい)です。岡崎(おかざき)と言(い)ってもらえれば、わかると思(おも)います」
声(こえ)『ええと…陽平(ようへい)は寮生活(りょうせいかつ)をしてまして、家(いえ)にはおりません』
朋也(ともや)「寮(りょう)?」
一瞬(いっしゅん)、一年前(いちねんまえ)の懐(なつ)かしい春原(すのはら)の部屋(へや)が思(おも)い出(だ)された。
声(こえ)『会社(かいしゃ)の寮(りょう)です』
当然(とうぜん)だった。あの場所(ばしょ)はもう、俺(おれ)の過(す)ごした春原(すのはら)の部屋(へや)ではなく…見知(みし)らぬ男子学生(だんしがくせい)の部屋(へや)となっているはずだった。
朋也(ともや)「…でしたら、そちらの連絡先(れんらくさき)を教(おし)えていただけますか」
声(こえ)『はい…よろしいでしょうか?』
朋也(ともや)「お願(ねが)いします」
………。
受話器(じゅわき)を置(お)いて、今(いま)メモした電話番号(でんわばんごう)をプッシュする。
声(こえ)『はい、さつき寮(りょう)です』
中年女性(ちゅうねんじょせい)の声(こえ)。
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)と申(もう)しますが、春原陽平(すのはらようへい)さんをお願(ねが)いしたいんですが」
声(こえ)『はい、少々(しょうしょう)お待(ま)ちください』
………。
声(こえ)『はい、代(か)わりました』
少(すこ)し作(つく)った声(こえ)。
朋也(ともや)「春原(すのはら)か、俺(おれ)だ。岡崎(おかざき)だ」
春原(すのはら)『えっ…岡崎(おかざき)?
マジかよっ?』
一瞬(いっしゅん)で、あの頃(ころ)の声(こえ)に戻(もど)る。時間(じかん)なんて関係(かんけい)ない。
朋也(ともや)「ああ。元気(げんき)か」
春原(すのはら)『元気(げんき)だけどさ…なんか理不尽(りふじん)なことが多(おお)いんだよ。聞(き)いてくれよ、おまえならわかってくれるはずだ』
朋也(ともや)「ああ、今度(こんど)ゆっくり聞(き)いてやるからな、今(いま)は俺(おれ)の話(はなし)を聞(き)け」
春原(すのはら)『ちっ、卒業(そつぎょう)しても主導権(しゅどうけん)はそっちかよ』
朋也(ともや)「いいじゃないか、よしみって奴(やつ)でよ」
春原(すのはら)『で、なんだ』
朋也(ともや)「卒業式(そつぎょうしき)をやりたいんだ」
春原(すのはら)『は…?』
朋也(ともや)「知(し)ってるだろ、渚(なぎさ)がこの春(はる)で卒業(そつぎょう)したんだ」
春原(すのはら)『ああ、渚(なぎさ)ちゃんか。おまえら、まだ付(つ)き合(あ)ってんのか。すげぇじゃん』
朋也(ともや)「んなこたぁどうでもいいんだよ、馬鹿(ばか)。話(はなし)を聞(き)け」
調子(ちょうし)が戻(もど)ってくる。するすると罵声(ばせい)が飛(と)び出(だ)す。
朋也(ともや)「この一年間(いちねんかん)、あいつは友達(ともだち)もいない学校(がっこう)でひとり頑張(がんば)ったんだ」
朋也(ともや)「でも、やっぱり卒業式(そつぎょうしき)には出(で)られなかった」
朋也(ともや)「それは寂(さび)しすぎるだろ」
朋也(ともや)「だから、あの日(ひ)の俺(おれ)たちで、卒業式(そつぎょうしき)をしたいんだ」
朋也(ともや)「たった一(いっ)ヶ月(げつ)だったけど、俺(おれ)たちは誰(だれ)よりもあいつと親(した)しく時間(じかん)を過(す)ごした奴(やつ)らだからさ」
春原(すのはら)『………』
朋也(ともや)「頼(たの)む、春原(すのはら)」
春原(すのはら)『………』
春原(すのはら)『今(いま)、研修中(けんしゅうちゅう)だからさ…』
春原(すのはら)『そんなことしてたら、クビになっちまうよ…』
朋也(ともや)「悪(わる)いなっ」
春原(すのはら)『クビになれってかッ!』
朋也(ともや)「一日(いちにち)ぐらい居(い)なくなったって、クビになんねぇよ」
春原(すのはら)『なるんだよっ』
朋也(ともや)「融通(ゆうずう)が利(き)かねぇ奴(やつ)だなぁ」
春原(すのはら)『融通(ゆうずう)が利(き)かないのは僕(ぼく)じゃなくて、会社(かいしゃ)だっ』
朋也(ともや)「なんとかなんないか?」
春原(すのはら)『そりゃあ、休(やす)みが合(あ)えばいいけどさ…』
春原(すのはら)『それでも日帰(ひがえ)りで往復(おうふく)だろ…?
辛(つら)いなぁ』
朋也(ともや)「頑張(がんば)れ、俺(おれ)のために」
春原(すのはら)『渚(なぎさ)ちゃんのためにだろっ』
朋也(ともや)「どっちも一緒(いっしょ)だ」
春原(すのはら)『じゃあさ、一日(いちにち)だけ休(やす)みを取(と)ってみる。けど、いつになるかわかんないからな』
朋也(ともや)「ああ、こっちが合(あ)わせるよ」
春原(すのはら)『じゃ、次(つぎ)はこっちから連絡(れんらく)する』
朋也(ともや)「いや、そっちからはやめてくれ」
春原(すのはら)『どうして』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)が電話(でんわ)に出(で)る可能性(かのうせい)があるから」
春原(すのはら)『………』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)が出(で)ちまったらさ、何(なに)か企(たくら)んでるのがばれるだろ?」
春原(すのはら)『………』
朋也(ともや)「もしもし?」
春原(すのはら)『おまえさ…』
春原(すのはら)『もしかして…渚(なぎさ)ちゃんと同棲(どうせい)してんのか…』
朋也(ともや)「ああ、言(い)ってなかったか」
春原(すのはら)『おまえと話(はな)すの、一年(いちねん)ぶりなんですけど』
朋也(ともや)「いや、悪(わる)い、それどころじゃなくてさぁ」
春原(すのはら)『てめぇ、ひとりだけ幸(しあわ)せそうですねぇ!』
朋也(ともや)「悪(わる)いなっ」
春原(すのはら)『クビをかけてまで、そっちに行(い)く気(き)がだんだん失(う)せてきたんですけど』
朋也(ともや)「失(う)せても来(こ)い」
春原(すのはら)『僕(ぼく)、最高(さいこう)にいい奴(やつ)ですねぇ!』
朋也(ともや)「だから、おまえに頼(たの)んでんじゃん」
春原(すのはら)『………』
春原(すのはら)『ちっ…わかったよ』
春原(すのはら)『この時間(じかん)なら、捕(つか)まるから、またかけてこい』
朋也(ともや)「ああ、そうする」
春原(すのはら)『じゃあな』
朋也(ともや)「おう」
受話器(じゅわき)を置(お)く。
あの頃(ころ)の馬鹿(ばか)をやっていた感覚(かんかく)が戻(もど)っていた。
卒業式(そつぎょうしき)だって、なんだって、やれる気(き)がした。
そう。
俺(おれ)たちは、寄(よ)せ集(あつ)めのチームでバスケ部(ぶ)にも勝(か)ったし、廃部(はいぶ)だった演劇部(えんげきぶ)も創立者祭(そうりつしゃさい)を目指(めざ)して再建(さいけん)することができた。
あの頃(ころ)の俺(おれ)たちに戻(もど)れば、なんだってできるんだ。
そして…
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、次(つぎ)の日曜(にちよう)、デートしよう」
しばらく経(た)った日(ひ)の夜(よる)、俺(おれ)はそう誘(さそ)った。
渚(なぎさ)「はい。しましょう」
渚(なぎさ)「どこにいきますか」
朋也(ともや)「内緒(ないしょ)だ」
渚(なぎさ)「どうしてですか。教(おし)えてほしいです」
朋也(ともや)「秘密(ひみつ)」
渚(なぎさ)「気(き)になります」
朋也(ともや)「別(べつ)に騙(だま)そうとか、そういうんじゃないからさ」
ただ、純粋(じゅんすい)に驚(おどろ)いて、喜(よろこ)んでほしかった。
その顔(かお)を隣(となり)で見(み)たかった。
朋也(ともや)「きっと、いい思(おも)い出(で)になるからさ。だから、楽(たの)しみに待(ま)っててくれよ」
渚(なぎさ)「そこまで言(い)うんでしたら、わかりました。何(なに)も訊(き)かずに待(ま)ってます」
そして明日(あした)は約束(やくそく)の日(ひ)。
朋也(ともや)「あのさ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「明日(あした)のデートはさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「制服(せいふく)でしたいんだ」
渚(なぎさ)「え…?」
朋也(ともや)「ダメか?」
渚(なぎさ)「制服(せいふく)って、学生服(がくせいふく)でしょうか?」
朋也(ともや)「ああ、いつも渚(なぎさ)が着(き)てたやつだよ」
渚(なぎさ)「それは恥(は)ずかしいです…」
朋也(ともや)「少(すこ)し前(まえ)までは着(き)てたじゃん」
渚(なぎさ)「そうですけど…」
渚(なぎさ)「でも、もう卒業(そつぎょう)しました」
渚(なぎさ)「ですから、嘘(うそ)をついてることになります」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。今(いま)はまだ春休(はるやす)みなんだから」
朋也(ともや)「4月(がつ)になって、入学式(にゅうがくしき)や始業式(しぎょうしき)があって、今年(こんねんど)の学業(がくぎょう)がスタートするんだ」
朋也(ともや)「だから、今(いま)は誰(だれ)も学生(がくせい)じゃない」
朋也(ともや)「誰(だれ)も迷惑(めいわく)しないんだ」
朋也(ともや)「ふたりだけ、一日(いちにち)だけ、学生(がくせい)に戻(もど)ろう」
朋也(ともや)「な」
渚(なぎさ)「でも、近所(きんじょ)の人(ひと)とかに見(み)られたら、すごく恥(は)ずかしいです」
渚(なぎさ)「わたし、いろんな方(かた)に卒業(そつぎょう)おめでとうって言(い)ってもらいました」
渚(なぎさ)「そのわたしが制服(せいふく)着(き)て歩(ある)いてたら、とてもヘンな子(こ)だと思(おも)われます」
朋也(ともや)「朝早(あさはや)いから大丈夫(だいじょうぶ)だよ」
渚(なぎさ)「帰(かえ)りは遅(おそ)いです」
朋也(ともや)「なら、着替(きが)えを持(も)っていってもいいよ。向(む)こうで着替(きが)えて帰(かえ)ってくればいい」
渚(なぎさ)「見(み)つからないでしょうか…」
朋也(ともや)「ああ、たぶんな」
渚(なぎさ)「どきどきします」
朋也(ともや)「そういうのも面白(おもしろ)いじゃないか」
渚(なぎさ)「かもしれないですけど…」
朋也(ともや)「で、どうなんだ。一緒(いっしょ)に制服(せいふく)着(き)てくれるのか?」
渚(なぎさ)「うーん…」
しばらく考(かんが)えた後(あと)…
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが、そうしてほしいのなら、そうします」
結局(けっきょく)、そう答(こた)えてくれた。
朋也(ともや)「そっか。じゃ、決(き)まり」
朋也(ともや)「朝(あさ)になって、やっぱやめる、とか言(い)うなよ?」
渚(なぎさ)「はい、言(い)いません」
渚(なぎさ)「けど、やっぱりどきどきします…」
その日(ひ)は朝(あさ)から雲(くも)一(ひと)つない晴天(せいてん)だった。
そして皆(みんな)の休(やす)みがひとつに集(あつ)まった一日(いちにち)。
奇跡(きせき)の一日(いちにち)だった。
渚(なぎさ)「おはようございます」
背中(せなか)から声(こえ)。
朋也(ともや)「おはよう」
朋也(ともや)「もう少(すこ)し寝(ね)てれば良(よ)かったのに」
渚(なぎさ)「いえ、なんだか興奮(こうふん)して、寝(ね)つけませんでした」
渚(なぎさ)「やっぱり、制服(せいふく)を着(き)て外(そと)を歩(ある)くというのはどきどきします」
朋也(ともや)「おまえなんかいいよ。卒業(そつぎょう)したの、一(いっ)ヶ月前(げつまえ)だろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)は一年前(いちねんまえ)だぜ?
アホみたいだ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、まだまだ若(わか)いです。まだまだ似合(にあ)います」
朋也(ともや)「まぁな。おまえは、結構(けっこう)な歳(とし)だもんな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…わたしのこと嫌(きら)いですか」
朋也(ともや)「大好(だいす)きだぞ」
渚(なぎさ)「あ、ありがとうございます…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「あっ、今(いま)、ごまかされそうでしたっ」
朋也(ともや)「何(なに)がだよ」
渚(なぎさ)「ひとつ年上(としうえ)なだけなのに、結構(けっこう)な歳(とし)とか言(い)わないでほしいです」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)まだ十代(じゅうだい)だぞ。おまえは?」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「二十代(にじゅうだい)ですけど…」
朋也(ともや)「そういうことだ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、わたしに制服(せいふく)着(き)てほしくないみたいですっ」
朋也(ともや)「うそ、うそ。おまえ、若(わか)いってば」
渚(なぎさ)「いいです。どうせおばさんです」
渚(なぎさ)「今日(きょう)はヘンな趣味(しゅみ)の女(おんな)の子(こ)として、朋也(ともや)くんにべったりくっついています」
渚(なぎさ)「もう、腕(うで)とかも組(く)んでしまいます」
とても素敵(すてき)な仕返(しかえ)しだった。
軽(かる)く朝食(ちょうしょく)を取(と)った後(あと)、俺(おれ)たちはそれぞれ支度(したく)にかかる。
制服(せいふく)に着替(きが)えて現(あらわ)れた渚(なぎさ)の姿(すがた)は、とても見慣(みな)れたものだった。
けど、俺(おれ)はそうでないらしく、渚(なぎさ)は俺(おれ)の姿(すがた)を見(み)るなり笑(わら)い出(だ)した。
朋也(ともや)「なに!?
そんなに、おかしいか!?」
朋也(ともや)「くそぅ、いつのまに俺(おれ)はそんなに老(ふ)けていたんだ…」
渚(なぎさ)「そんなことないです」
朋也(ともや)「むちゃくちゃ笑(わら)ってるじゃないかっ」
渚(なぎさ)「二年前(にねんまえ)の朋也(ともや)くんだからです」
渚(なぎさ)「そのままだからです」
目(め)の端(はし)には涙(なみだ)まで浮(う)かべていた。
渚(なぎさ)「出会(であ)った頃(ころ)の、あのままの朋也(ともや)くんだからです」
朋也(ともや)「なんだ、そっか…」
朋也(ともや)「じゃあ、自然(しぜん)なんだな」
渚(なぎさ)「自然(しぜん)すぎます」
朋也(ともや)「しかしなぁ…今更(いまさら)ながら、この格好(かっこう)で並(なら)んで歩(ある)くのは抵抗(ていこう)あるな…」
渚(なぎさ)「とてもヘンなふたりです」
朋也(ともや)「見(み)つからないようにいこうな」
渚(なぎさ)「はい、絶対(ぜったい)にそうしたいです」
朋也(ともや)「じゃ、出(で)かけるぞ」
渚(なぎさ)「はいっ」
家(いえ)を出(で)てからは、渚(なぎさ)じゃないが、どきどきしっぱなしだった。
辺(あた)りをずっと気(き)にしながら歩(ある)いた。
朋也(ともや)「補導(ほどう)なんかされたら、笑(わら)い事(ごと)じゃ済(す)まないよな…」
渚(なぎさ)「春休(はるやす)みですから、補導(ほどう)はされないと思(おも)います」
朋也(ともや)「そうだよな…健全(けんぜん)な春休(はるやす)みの少年(しょうねん)少女(しょうじょ)だよな」
渚(なぎさ)「だといいです」
渚(なぎさ)「この方向(ほうこう)って…」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)です」
朋也(ともや)「だな」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)に向(む)かってるんですか?」
朋也(ともや)「ああ」
俺(おれ)は頷(うなず)いた。
朋也(ともや)「意外(いがい)なデートスポットなんだ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか。信(しん)じられないです」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)に見(み)つかったら、怒(おこ)られてしまいそうです」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)だって」
渚(なぎさ)「すごいです。満開(まんかい)です」
朋也(ともや)「ああ、すげぇ綺麗(きれい)だな」
桜(さくら)の立(た)ち並(なら)ぶ坂(さか)を並(なら)んで登(のぼ)っていく。
渚(なぎさ)「これをわたしに見(み)せるためだったんですか。ありがとうございます」
朋也(ともや)「違(ちが)う。こんなの序(じょ)の口(くち)だ」
朋也(ともや)「ほら」
見上(みあ)げると、眩(まぶ)しい陽(ひ)の光(ひかり)が俺(おれ)たちの目(め)を眩(くら)ませた。
手(て)をかざし、陽(ひ)をさえぎる。
すると、見(み)えた。
俺(おれ)たちを待(ま)つ、人(ひと)たちが。
春原(すのはら)「よぅ、久(ひさ)しぶり」
朋也(ともや)「誰(だれ)だ、おまえ」
春原(すのはら)「おまえね、久(ひさ)しぶりの再会(さいかい)でそれはないだろ」
朋也(ともや)「まさか、春原(すのはら)か」
春原(すのはら)「当然(とうぜん)だ」
朋也(ともや)「うわーーーはっはっはっはっ!」
大笑(おおわら)いしてやる。
朋也(ともや)「なんつー髪(かみ)の色(いろ)してんだよっ」
春原(すのはら)「これが普通(ふつう)の色(いろ)だろっ」
朋也(ともや)「おまえには似合(にあ)わねぇよ。よしよし、後(あと)でキンキンに染(そ)めてやるからな」
春原(すのはら)「会社(かいしゃ)、クビになるよっ!」
そして、その後(うし)ろにも知(し)った顔(かお)が並(なら)んでいた。
仁科(にしな)や、杉坂(すぎさか)、皆(みんな)が制服(せいふく)を着(き)て、待(ま)ち構(かま)えていた。
渚(なぎさ)「みなさん…」
渚(なぎさ)が一歩(いっぽ)前(まえ)に出(で)た。
渚(なぎさ)「今日(きょう)は、どうしましたか」
渚(なぎさ)はまだ気(き)づいていない。
朋也(ともや)「卒業式(そつぎょうしき)だよ、古河渚(ふるかわなぎさ)とその親友一同(しんゆういちどう)のな」
渚(なぎさ)「え…?」
声(こえ)「じゃ、始(はじ)めるかな」
一番奥(いちばんおく)にいた人物(じんぶつ)…
幸村(こうむら)が静(しず)かに言(い)った。
幸村(こうむら)「これより、古河渚(ふるかわなぎさ)とその親友一同(しんゆういちどう)、その卒業式(そつぎょうしき)を行(おこな)います」
吹(ふ)く風(かぜ)の中(なか)、よく通(とお)る声(こえ)で開式(かいしき)が告(つ)げられた。
俺(おれ)たちは、校舎(こうしゃ)に向(む)かって、横一列(よこいちれつ)に並(なら)んで立(た)っていた。
幸村(こうむら)「校歌(こうか)斉唱(せいしょう)」
皆(みんな)で校歌(こうか)を歌(うた)った。
誰(だれ)もが、自分(じぶん)の卒業式(そつぎょうしき)で歌(うた)ったよりも高(たか)く高(たか)く歌(うた)った。
どこまでも、どこまでも響(ひび)き渡(わた)った。
そして、渚(なぎさ)ひとりの、卒業証書(そつぎょうしょうしょ)授与(じゅよ)。
幸村(こうむら)「…古河渚(ふるかわなぎさ)」
名(な)が呼(よ)ばれる。
渚(なぎさ)「はい」
返事(へんじ)をして、幸村(こうむら)の元(もと)に歩(ある)いていく。
差(さ)し出(だ)される卒業証書(そつぎょうしょうしょ)。
それを受(う)け取(と)った後(あと)、俺(おれ)たちを振(ふ)り返(かえ)った渚(なぎさ)の顔(かお)は、とても晴(は)れ晴(は)れしいものだった。
皆(みんな)が拍手(はくしゅ)する。
それがやむと、渚(なぎさ)はそっと胸(むね)に手(て)を当(あ)てた。
そして、ゆっくりと口(くち)を開(ひら)く。
語(かた)り始(はじ)める。
それは、送辞(そうじ)のない答辞(とうじ)だった。
渚(なぎさ)「この学校(がっこう)での生活(せいかつ)…」
渚(なぎさ)「辛(つら)いこと、たくさんありました」
渚(なぎさ)「わたしはただでさえ、引(ひ)っ込(こ)み思案(しあん)で、友達(ともだち)を作(つく)るのが下手(したて)で…」
渚(なぎさ)「それでも2年(ねん)が終(お)わる頃(ころ)には…やっと輪(わ)に入(い)れてくれる友達(ともだち)ができて…」
渚(なぎさ)「3年(ねん)になったらもっと仲良(なかよ)くなれるかなって、そう思(おも)ってました」
渚(なぎさ)「でも次(つぎ)の一年(いちねん)は、ほとんど学校(がっこう)を欠席(けっせき)してしまいました…」
渚(なぎさ)「次(つぎ)に登校(とうこう)できたのは、始業式(しぎょうしき)から二週間(にしゅうかん)が過(す)ぎた日(ひ)でした」
渚(なぎさ)「もう、新(あたら)しいクラスでは、わたしはひとりきりだと思(おも)いました」
渚(なぎさ)「時間(じかん)の流(なが)れで、変(か)わらないものはなくて…」
渚(なぎさ)「それを知(し)ったら、もう動(うご)けませんでした」
渚(なぎさ)「だから、この坂(さか)の下(した)で、立(た)ちつくしてました」
渚(なぎさ)「そして…」
渚(なぎさ)「その背中(せなか)を押(お)してくれたのが、朋也(ともや)くんでした」
渚(なぎさ)「その日(ひ)から、毎日(まいにち)…坂(さか)の下(した)で悩(なや)んで立(た)ちつくしていたわたしの背(せ)を押(お)してくれました」
渚(なぎさ)「変(か)わっていくなら、新(あたら)しい何(なに)かを見(み)つけるまでだって」
渚(なぎさ)「そう叱咤(しった)してくれました」
渚(なぎさ)「それからの一(いっ)ヶ月(げつ)、わたしは春原(すのはら)さん、仁科(にしな)さん、杉坂(すぎさか)さん、幸村先生(こうむらせんせい)…」
渚(なぎさ)「そして、もっと影(かげ)でいろんな人(ひと)に支(ささ)えられて、演劇部(えんげきぶ)を作(つく)りました」
渚(なぎさ)「絶対(ぜったい)にひとりではできなかったことです」
渚(なぎさ)「バスケットボール部(ぶ)のみなさんとも試合(しあい)をしました」
渚(なぎさ)「勝(か)てたのは、みんながひとつになれたからだと思(おも)います」
渚(なぎさ)「短(みじか)い時間(じかん)でも、力(ちから)を合(あ)わせれば、そんなすごいことができること…知(し)りました」
渚(なぎさ)「そうして創立者祭(そうりつしゃさい)の発表会(はっぴょうかい)に向(む)けてがんばりました」
渚(なぎさ)「舞台(ぶたい)の上(うえ)では泣(な)いてしまいましたけど…」
渚(なぎさ)「劇(げき)を最後(さいご)までやり遂(と)げることができました」
渚(なぎさ)「初(はじ)めて、ひとつの目標(もくひょう)に向(む)けてがんばって、そして達成(たっせい)できたんです」
渚(なぎさ)「こんなわたしでも…」
渚(なぎさ)「たくさんの人(ひと)に支(ささ)えられて」
渚(なぎさ)「でも、それからはまた、体(からだ)の調子(ちょうし)を崩(くず)して…」
渚(なぎさ)「ずっと家(いえ)で寝(ね)てました」
渚(なぎさ)「二学期(にがっき)、三学期(さんがっき)と…家族(かぞく)に支(ささ)えられ、そして、朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に…」
渚(なぎさ)「春(はる)を迎(むか)えました」
渚(なぎさ)「みんなが卒業(そつぎょう)して、幸村先生(こうむらせんせい)も退職(たいしょく)されて…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)にまた、ひとりきりになってしまいました」
渚(なぎさ)「それでも、もう一年(いちねん)、わたしはがんばってみようという気(き)になりました」
渚(なぎさ)「わたしは強(つよ)くなりたかったんです」
渚(なぎさ)「わたしは、体(からだ)は弱(よわ)いですけど…それでも強(つよ)く生(い)きたかったんです」
渚(なぎさ)「そして、そんな勇気(ゆうき)をくださったのが、ここに居(い)るみなさんです」
渚(なぎさ)「ひとりきりの一年間(いちねんかん)は辛(つら)かったです」
渚(なぎさ)「わたしは、二歳(にねん)年下(としした)のクラスメイトたちとはまったく住(す)む世界(せかい)が違(ちが)う人間(にんげん)でした」
渚(なぎさ)「班分(はんわ)けの時(とき)はいつもひとり残(のこ)ってました」
渚(なぎさ)「球技大会(きゅうぎたいかい)では、運動音痴(うんどうおんち)だから、クラスメイトに迷惑(めいわく)かけてばっかりでした」
渚(なぎさ)「創立者祭(そうりつしゃさい)もひとりで、回(まわ)って見(み)ました」
渚(なぎさ)「この一年間(いちねんかん)は、ほとんどひとりきりでした…」
渚(なぎさ)「それでも…」
渚(なぎさ)「それでもやっぱり、わたしは…」
渚(なぎさ)「それでもやっぱりわたしは…」
渚(なぎさ)「二度(にど)とない、この学校生活(がっこうせいかつ)を、かけがえなく思(おも)います」
渚(なぎさ)「一度(いちど)は嫌(きら)いになってしまった学校(がっこう)です…」
渚(なぎさ)「卒業(そつぎょう)するのに五年(ごねん)もかかりました…」
渚(なぎさ)「ひとりで残(のこ)る学校(がっこう)は寂(さび)しかったです」
渚(なぎさ)「でも今(いま)は、大好(だいす)きです」
渚(なぎさ)「最後(さいご)には…」
渚(なぎさ)「がんばれたわたしが、過(す)ごした場所(ばしょ)だからです」
渚(なぎさ)「………」
幸村(こうむら)「ふむ…」
幸村(こうむら)「卒業(そつぎょう)…おめでとう」
幸村(こうむら)の静(しず)かな祝辞(しゅくじ)。
渚(なぎさ)の長(なが)い、長(なが)い学校生活(がっこうせいかつ)が…今(いま)、終(お)わった。
同時(どうじ)に、堰(せき)を切(き)ったかのように、渚(なぎさ)の目(め)から涙(なみだ)がこぼれ始(はじ)めた。
渚(なぎさ)「ありがとう…ございます」
伏(ふ)せた顔(かお)の下(した)で、それだけを言(い)った後(あと)、泣(な)き始(はじ)めた。
一年(いちねん)ぶりに見(み)る涙(なみだ)。
それは辛(つら)いからじゃなくて、嬉(うれ)しいからだ。
思(おも)う存分(ぞんぶん)泣(な)けばいいと思(おも)った。
振(ふ)り返(かえ)ると、門(かど)のすぐ近(ちか)くにオッサンと早苗(さなえ)さんの姿(すがた)があった。
その隣(となり)には、美佐枝(みさえ)さんと伊吹先生(いぶきせんせい)の姿(すがた)も。
渚(なぎさ)の視界(しかい)にはずっと入(はい)っていたのだろう。
幸村(こうむら)「以上(いじょう)…閉式(へいしき)します」
四人(よにん)が校門(こうもん)の脇(わき)に立(た)ち、拍手(はくしゅ)をして迎(むか)えてくれる。
秋生(あきお)「おめでとよ」
早苗(さなえ)「卒業(そつぎょう)おめでとうございます」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃん、おめでとう」
美佐枝(みさえ)「おふたりさん、おめでとー」
その中(なか)、制服姿(せいふくすがた)の俺(おれ)たちは校門(こうもん)をくぐる。
俺(おれ)が一年前(いちねんまえ)に、卒業(そつぎょう)した場所(ばしょ)。
渚(なぎさ)もそれを振(ふ)り返(かえ)る。もう二度(にど)と、くぐらない門(かど)。
渚(なぎさ)「ありがとうございました」
そう最後(さいご)に渚(なぎさ)は言(い)った。
これからはどんな道(みち)を俺(おれ)たちは歩(ある)いていくのだろうか。
ただ、ひとつ確(たし)かなこと。
それは、俺(おれ)たちはずっと同(おな)じ道(みち)をいく、ということ。
渚(なぎさ)が俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)った。
渚(なぎさ)「手(て)をつないで、帰(かえ)りましょう」
それは、いつか、俺(おれ)たちが叶(かな)えようとしていた夢(ゆめ)のひとつだ。
制服姿(せいふくすがた)で、手(て)を繋(つな)いで歩(ある)く。
それを揶揄(やゆ)する連中(れんちゅう)も、あの時(とき)描(か)いた光景(こうけい)の通(とお)りだ。
朋也(ともや)「ああ」
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seagull - 2009/7/28 20:57:00
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同棲編(接上),0,]

朋也(ともや)「俺(おれ)、こいつと一緒(いっしょ)になる…」
どんな気持(きも)ちで今(いま)、俺(おれ)はいるのだろうか。
自分(じぶん)でもよくわからなかった。
感情(かんじょう)に揺(ゆ)らぎはない。
まるで紙(かみ)に書(か)かれた文字(もじ)を読(よ)んでいるような気分(きぶん)だった。
親父(おやじ)「ほぅ…」
親父(おやじ)は感嘆(かんたん)のため息(いき)を漏(も)らした。
親父(おやじ)「そうか…それはめでたい」
親父(おやじ)「…おめでとう」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)がひとりで頭(あたま)を下(さ)げた。
親父(おやじ)「ええと、渚(なぎさ)さんと言(い)ったっけか」
渚(なぎさ)「はい、渚(なぎさ)です」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんをよろしく」
渚(なぎさ)「こちらこそ、です」
渚(なぎさ)「至(いた)らない点(てん)多々(たた)ありますが…それでも精一杯(せいいっぱい)がんばります」
親父(おやじ)「お幸(しあわ)せに」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「その…」
渚(なぎさ)「お義父(とう)さんも…がんばってください」
親父(おやじ)「こっちはのんきなもんだよ」
渚(なぎさ)「何(なに)か欲(ほ)しいものがあれば、言(い)ってください」
親父(おやじ)「大丈夫(だいじょうぶ)。ありがとう」
親父(おやじ)「………」
話(はなし)は終(お)わったようだった。
朋也(ともや)「時間(じかん)だ。いこう」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「それでは、お義父(とう)さん、また来(き)ます」
親父(おやじ)「ああ…」
痰(たん)が喉(のど)に絡(から)んだような、枯(か)れた声(こえ)。
それが哀(あわ)れみを誘(さそ)った。
しばらく渚(なぎさ)と親父(おやじ)は見(み)つめ合(あ)っていた。
渚(なぎさ)「それでは…」
未練(みれん)を振(ふ)りきるように背(せ)を向(む)けた。
渚(なぎさ)「これからはもっとたくさん、会(あ)いにきましょう」
渚(なぎさ)が俺(おれ)に言(い)った。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん?」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
そう、今日(きょう)からは、あいつは渚(なぎさ)の義理(ぎり)の父(ちち)なのだ。
深(ふか)い繋(つな)がりが出来(でき)てしまった。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
俺(おれ)の伏(ふ)せた顔(かお)を覗(のぞ)き込(こ)む渚(なぎさ)。
朋也(ともや)「いや、なんでもないよ」
朋也(ともや)「さ、いこうか」
渚(なぎさ)の手(て)を取(と)って、握(にぎ)る。
その指(よび)に金属(きんぞく)の冷(つめ)たい感触(かんしょく)。
結婚指輪(けっこんゆびわ)が光(ひか)っていた。
帰(かえ)りに、俺(おれ)と渚(なぎさ)は役所(やくしょ)に寄(よ)り、婚姻届(こんいんとどけ)けを提出(ていしゅつ)した。
…岡崎渚(おかざきなぎさ)。
それが、今日(きょう)からの渚(なぎさ)の本名(ほんみょう)だった。
渚(なぎさ)「しばらくは気(き)をつけてないと、古河(ふるかわ)って書(か)いてしまいそうです」
朋也(ともや)「だろうな」
渚(なぎさ)「岡崎渚(おかざきなぎさ)…岡崎渚(おかざきなぎさ)…岡崎渚(おかざきなぎさ)…」
だからだろうか。ずっと、口(くち)の中(なか)で小(ちい)さく繰(く)り返(かえ)していた。
渚(なぎさ)「岡崎(おかざき)って名字(みょうじ)、男(おとこ)らしいです」
朋也(ともや)「それは、俺(おれ)の名字(みょうじ)だからだろ?」
渚(なぎさ)「そうですか?
古河(ふるかわ)は女性(じょせい)っぽいです」
朋也(ともや)「それはおまえの名字(みょうじ)だからだ」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
渚(なぎさ)「でも、やっぱり岡崎渚(おかざきなぎさ)って名前(なまえ)だと強(つよ)くなれた気(き)がします」
渚(なぎさ)「なんだか…守(まも)られてる気(き)がします」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は目(め)から鱗(うろこ)が落(お)ちた気分(きぶん)だった。
そういう決(き)まりだから、としか考(かんが)えていなかった。
でも、渚(なぎさ)の言葉(ことば)で実感(じっかん)できた。
朋也(ともや)「おまえさ、よくそんな恥(は)ずかしいこと言(い)えるよな」
渚(なぎさ)「昔(むかし)に言(い)ってました、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)を転(ころ)げさせるぐらい恥(は)ずかしいこと言(い)えって」
朋也(ともや)「だっけか?」
渚(なぎさ)「そうです。言(い)ってました」
渚(なぎさ)「だから言(い)います」
渚(なぎさ)「わたしは今(いま)、世界(せかい)で一番(いちばん)、幸(しあわ)せな女(おんな)の子(こ)です」
朋也(ともや)「ぐあっ…」
朋也(ともや)「マジ、恥(は)ずかしい…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「ふたりで、幸(しあわ)せになりましょう」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
朋也(ともや)「任(まか)せとけ」
渚(なぎさ)「はいっ」
渚(なぎさ)「提出(ていしゅつ)してきました」
古河家(ふるかわけ)への報告(ほうこく)。
朋也(ともや)「これからはお義父(とう)さんと呼(よ)ばしてもらうからな」
そう言(い)うと、オッサンは両腕(りょううで)で自分(じぶん)の体(からだ)を抱(だ)いた。
秋生(あきお)「いま、ぞくぞくって来(き)たぞっ、やめてくれ、縁起(えんぎ)でもねぇ!」
とんでもない言(い)われようだった。
朋也(ともや)「だって、実際(じっさい)、義理(ぎり)の父(ちち)なんだぜ?」
秋生(あきお)「おまえがそう言(い)うんだったら、息子(むすこ)と呼(よ)ぶぞ、息子(むすこ)よっ」
こっちも、ぞくぞくっと来(き)た。
朋也(ともや)「さぶーっ、やめてくれ、お義父(とう)さん!」
秋生(あきお)「ぐあぁあああーーっ!
やめてくれ、息子(むすこ)よぉ!」
朋也(ともや)「ぐあああああぁーーっ!
やめろ、お義父(とう)さん!」
秋生(あきお)「ぐはあああああぁーーっ!」
朋也(ともや)「のおおぉぉぉぉーーっ!」
気(き)づくと、ふたりで床(ゆか)を転(ころ)げ回(まわ)っていた。
朋也(ともや)(アホなふたりだ…)
早苗(さなえ)「わたしも入(はい)っていいですか?」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは、さぶくならないっしょ?」
早苗(さなえ)「呼(よ)んでみてください」
朋也(ともや)「お義母(かあ)さん」
早苗(さなえ)「はいっ」
いつも通(どお)りだった。
その日(ひ)の晩(ばん)は、古河家(ふるかわけ)でささやかなお祝(いわ)いをしてもらった。
テーブルには出前(でまえ)で取(と)った寿司(すし)の特上(とくじょう)。それをつまみにオッサンはひとりでビールの缶(かん)を空(あ)けていく。
秋生(あきお)「で、式(しき)はいつ挙(あ)げるんだよ」
朋也(ともや)「金(かね)が貯(た)まってから」
秋生(あきお)「かぁっ、なんでこんな貧乏(びんぼう)な奴(やつ)と結婚(けっこん)しちまったんだよっ」
渚(なぎさ)「好(す)きだからです」
秋生(あきお)「正直(しょうじき)に答(こた)えるなっ、父(とう)さん悲(かな)しくなるだろっ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんも人(ひと)のこと言(い)えませんよ」
秋生(あきお)「あん?
なにがだよ…」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんも、ぜんぜんお金(かね)なかったですよ」
秋生(あきお)「う…」
早苗(さなえ)「借金(しゃっきん)して、この家(いえ)を買(か)って、お金(かね)を返(かえ)すのに毎日(まいにち)必死(ひっし)でした」
早苗(さなえ)「結婚式(けっこんしき)も2年(ねん)も後(あと)のことでした」
秋生(あきお)「そうだったっけか…」
早苗(さなえ)「でも、わたしは幸(しあわ)せでしたよ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんといつも一緒(いっしょ)にいられましたから」
秋生(あきお)「さ、早苗(さなえ)…」
秋生(あきお)「てめぇら、邪魔(じゃま)だ」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちのお祝(いわ)いじゃなかったのかよ…」
早苗(さなえ)「つまり、わたしが言(い)いたかったのは、好(す)きな人(ひと)と一緒(いっしょ)にいるのが一番(いちばん)、ということです」
渚(なぎさ)「はい。なら、朋也(ともや)くんです」
秋生(あきお)「くそぅ…なんだか、ムカツクんだよな…」
秋生(あきお)「どうして、こんな奴(やつ)をウチの娘(むすめ)は好(す)きになったんだ?」
本当(ほんとう)に祝(いわ)ってくれてるのだろうか…。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、今日(きょう)はおめでたい日(ひ)ですよっ」
秋生(あきお)「んあ?
ああ、そうか…そうだったな…」
秋生(あきお)「じゃ、かんぱーーーいっ!」
秋生(あきお)「よし、王様(おうさま)ゲームでもするかっ」
しません。
アパートに帰(かえ)りついたのは深夜(しんや)だった。
朋也(ともや)「ただいま」
渚(なぎさ)「ただいまです」
朋也(ともや)「………」
何一(なにひと)つ変(か)わらない部屋(へや)だったけど、今日(きょう)からは違(ちが)う気(き)がした。
渚(なぎさ)も同(おな)じことを思(おも)っているのだろうか、なかなか上(あ)がろうとしない。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「今日(きょう)からまた、新(あたら)しいスタートです」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「ふつつか者(もの)ですが、よろしくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「こちらこそ」
土間(どま)で頭(あたま)を下(さ)げ合(あ)うふたりがおかしい。
朋也(ともや)「さ、上(あ)がろう」
渚(なぎさ)「はい」
ふたりだけの場所(ばしょ)。
俺(おれ)たちの家(いえ)に。
風呂上(ふろあ)がりの渚(なぎさ)が、布団(ふとん)を敷(し)いて就寝準備(しゅうしんじゅんび)をしている。
その後(うし)ろ姿(すがた)を見(み)ながら俺(おれ)はぼぅーっと考(かんが)え事(ごと)をしていた。
これからやるべきことや、いろいろなこと。
朋也(ともや)(そういや…)
朋也(ともや)(今日(きょう)って新婚初夜(しんこんしょや)じゃん…)
いきなりそんなことに思(おも)い当(あ)たる。
そして、目(め)の前(まえ)には渚(なぎさ)の揺(ゆ)れる尻(しり)。
朋也(ともや)(これからやるべきこと…)
急(きゅう)に下半身(かはんしん)が疼(うず)きだす。
朋也(ともや)「ぐあーっ!」
俺(おれ)は床(ゆか)を転(ころ)げ回(まわ)った。
朋也(ともや)(こんなめでたく喜(よろこ)ばしい日(ひ)に、なんつーエッチなことを考(かんが)えてんだ、俺(おれ)はぁっ!)
朋也(ともや)(いや、でも、それが普通(ふつう)なのかもっ…)
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん?」
渚(なぎさ)が膝(ひざ)を擦(こす)らせて寄(よ)ってくる。
朋也(ともや)「い、いや…明日(あした)から仕事(しごと)だなぁって思(おも)って」
渚(なぎさ)「悲鳴(ひめい)あげるほど嫌(いや)なんですか?」
朋也(ともや)「いや、それほどでもない…オーバーだったな…」
渚(なぎさ)「がんばってください。朋也(ともや)くん、一家(いっか)の大黒柱(だいこくばしら)です」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
朋也(ともや)(でも、俺(おれ)たち付(つ)き合(あ)ってからどれだけ経(た)ってるんだよ…)
朋也(ともや)(つーか、俺(おれ)たち、夫婦(ふうふ)じゃんかよっ)
朋也(ともや)(時間(じかん)なんて問題(もんだい)ないぞ…)
朋也(ともや)(ままごとじゃねぇんだから…)
朋也(ともや)(これからは、そうしたいときにしてもいいんじゃないのか…)
朋也(ともや)(ああ、でも、こいつ…そういうこと奥手(おくて)だし…失望(しつぼう)されたらどうしよう…)
朋也(ともや)(いや、前(まえ)にそういうことは嫌(きら)いじゃないって言(い)ってたじゃん…)
朋也(ともや)(でも、そういうことって、ちゃんとこいつ、理解(りかい)してんのか…?)
朋也(ともや)(してなくて、そん時(とき)になって引(ひ)かれたらどうしよう…)
朋也(ともや)(俺(おれ)はあそこを晒(さら)したまま、がーーん、とうなだれるのだろうか…)
朋也(ともや)(そんなの嫌(いや)すぎる…)
渚(なぎさ)「わたしも早(はや)くお仕事(しごと)探(さが)して、がんばりますから」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)の一言(いちげん)で、俺(おれ)の思考(しこう)が寸断(すんだん)されていた。
渚(なぎさ)「お仕事(しごと)です。わたしひとり、遊(あそ)んでるわけにもいかないです」
朋也(ともや)「いや、いいんだよ。家(いえ)に居(い)てくれれば」
渚(なぎさ)「それは…朋也(ともや)くん、ひとりでがんばってることになります」
渚(なぎさ)「わたしもがんばりたいです」
渚(なぎさ)「もちろん、家(いえ)のこともおろそかにしないです」
渚(なぎさ)「ちゃんと、夕方(ゆうがた)には帰(かえ)ってきて、ご飯(はん)作(つく)って待(ま)ってます」
渚(なぎさ)「お洗濯(せんたく)もして、掃除(そうじ)もします」
朋也(ともや)「いや、もちろん俺(おれ)も手伝(てつだ)うけどさ…」
朋也(ともや)「えっと…」
朋也(ともや)(こいつは融通(ゆうずう)が利(き)かないからな…)
朋也(ともや)(なんて言(い)っていいものか…)
朋也(ともや)「でもさ…しばらくは休(やす)んでおけよ。調子(ちょうし)だって、戻(もど)ってはないだろ?」
渚(なぎさ)「いえ、今(いま)は元気(げんき)です」
朋也(ともや)「今(いま)はそうでもさ…いつ、また調子(ちょうし)崩(くず)すか…」
言(い)ってから、俺(おれ)はしまったと思(おも)った。
渚(なぎさ)「あの、わたしは…」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の体(からだ)が弱(よわ)いからって、いつでも弱(よわ)い自分(じぶん)でいたくないです」
渚(なぎさ)「いつ調子(ちょうし)が悪(わる)くなるか、その時(とき)のことを考(かんが)えて怯(おび)えていたくはないです」
朋也(ともや)「ああ、悪(わる)い…そうだったな…」
俺(おれ)の言(い)ったことは、渚(なぎさ)を弱(よわ)い者(もの)扱(あつか)いしたも同然(どうぜん)だった。だからそう詫(わ)びた。
渚(なぎさ)「いえ、すみません。わたしのほうこそ、きつく言(い)ってしまって…」
朋也(ともや)「いや…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「わたし、お仕事(しごと)、探(さが)していいですか」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「でもな、決(き)める時(とき)は俺(おれ)に相談(そうだん)しろよ」
渚(なぎさ)「はい、そうさせてもらいます」
朋也(ともや)「ふぅ…」
俺(おれ)は渚(なぎさ)が敷(し)いた布団(ふとん)の上(うえ)に転(ころ)がった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「わがままでごめんなさい、です」
朋也(ともや)「いや、ぜんぜん」
朋也(ともや)「おまえは、どんな女(おんな)の子(こ)よりも謙虚(けんきょ)だと思(おも)うよ」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「ああ。だって、なにひとつ贅沢(ぜいたく)言(い)わないしな」
渚(なぎさ)「別(べつ)に…何(なに)も欲(ほ)しくないです」
朋也(ともや)「それを謙虚(けんきょ)だって言(い)うんだよ」
渚(なぎさ)「そうなんでしょうか…」
朋也(ともや)「じゃあさ、こうしよう」
朋也(ともや)「おまえが仕事(しごと)を始(はじ)めてさ、もう少(すこ)し余裕(よゆう)が出来(でき)たらさ…」
朋也(ともや)「服(ふく)とか買(か)って、おしゃれしてくれよ」
渚(なぎさ)「今(いま)はまだ欲(ほ)しくないです」
渚(なぎさ)「それよりももっと、いるものがあると思(おも)います」
朋也(ともや)「そりゃわかってる。けどな、そういうことも大切(たいせつ)だと思(おも)うぞ」
朋也(ともや)「俺(おれ)だって、おまえがもっとさ、おしゃれして可愛(かわい)くなってくれれば、それだけで嬉(うれ)しい」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「わたしって、そんなにおしゃれじゃない服(ふく)、着(き)てますか…」
朋也(ともや)「いや、そういう意味(いみ)じゃなくてさ…」
朋也(ともや)「なんつーのかな、新鮮味(しんせんみ)?」
渚(なぎさ)「そうですね…新鮮味(しんせんみ)はないかもしれないです」
朋也(ともや)「な、いいだろ。そういう楽(たの)しみを少(すこ)しは作(つく)ってみてもさ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんがそうしてほしいって言(い)うのなら…わたしも少(すこ)しはそうしたい気持(きも)ちあります」
朋也(ともや)「おっ、そうか。じゃあ、決定(けってい)だ。いいな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「そうやってさ…おまえ、女(おんな)の子(こ)なんだから、もっとわがまま言(い)えよ」
朋也(ともや)「そんなのわがままですらないからさ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「じゃあ…」
渚(なぎさ)「もうひとつ我(わ)がまま言(い)っていいですか」
朋也(ともや)「ああ、どんとこい」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は…」
渚(なぎさ)「ひとつのお布団(ふとん)で寝(ね)ていいですか」
ぼぅーっと、天井(てんじょう)を見上(みあ)げていた。
ひとつの布団(ふとん)の端(はし)と端(はし)に俺(おれ)と渚(なぎさ)は寝(ね)ていた。
わずかに腕(うで)が触(ふ)れている。
渚(なぎさ)「夫婦(ふうふ)みたいです」
朋也(ともや)「いや、夫婦(ふうふ)なんだってば」
渚(なぎさ)「あ、そうでした…えへへ」
嬉(うれ)しそうだった。
渚(なぎさ)はただ、そんな関係(かんけい)を意識(いしき)したかっただけなのだろう。
それ以上(いじょう)に深(ふか)い意味(いみ)はないようだった。
だから俺(おれ)も、緊張(きんちょう)もせず、その手(て)をぎゅっと握(にぎ)った。
渚(なぎさ)も握(にぎ)り返(かえ)してくれた。
渚(なぎさ)「あの日(ひ)から、一年(いちねん)がんばりました」
朋也(ともや)「そうだな…」
渚(なぎさ)「一年前(いちねんまえ)、朋也(ともや)くん、言(い)いました」
渚(なぎさ)「一年(いちねん)がんばったら、何(なに)にも負(ま)けないぐらい強(つよ)くなれるって」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「わたし、強(つよ)くなれた気(き)がします」
朋也(ともや)「ああ、なったと思(おも)う」
渚(なぎさ)「でもまだまだです」
渚(なぎさ)「まだまだこれからです」
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
朋也(ともや)「この先(さき)、いろんなことがあるんだろうな。大変(たいへん)なこと、辛(つら)いこと、悲(かな)しいこと」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)なら、立(た)ち向(む)かっていけます」
朋也(ともや)「ああ、ふたりで行(い)こうな」
渚(なぎさ)「はい」
本当(ほんとう)に、渚(なぎさ)は強(つよ)くなった。
二年前(にねんまえ)の、出会(であ)った頃(ころ)…
思(おも)い出(だ)されるのは渚(なぎさ)の不安(ふあん)に沈(しず)む顔(かお)だけだった。
渚(なぎさ)「なに、笑(わら)ってるんですか」
渚(なぎさ)がこっちを見(み)ていた。
朋也(ともや)「いや…」
それは俺(おれ)も同(おな)じだろうか。
あの日(ひ)の俺(おれ)は滑稽(こっけい)だっただろうか。
自分(じぶん)ではよくわからなかった。
渚(なぎさ)「それでは、おやすみなさいです」
渚(なぎさ)が上(うえ)を向(む)いて、目(め)を閉(と)じた。
朋也(ともや)「ああ、おやすみ」
俺(おれ)も目(め)を閉(と)じた。
渚(なぎさ)「話(はなし)があります」
次(つぎ)の日(ひ)、夕飯時(ゆうはんじ)に渚(なぎさ)は話(はなし)を切(き)りだした。
朋也(ともや)「お、なんだ、言(い)ってみろ」
渚(なぎさ)「今日(きょう)、昼間(ひるま)に仁科(にしな)さんに電話(でんわ)しました」
朋也(ともや)「仁科(にしな)に?
また、どうして」
渚(なぎさ)「先日(せんじつ)の卒業式(そつぎょうしき)の時(とき)に、電話番号(でんわばんごう)を教(おし)えてくれたんです」
渚(なぎさ)「隣(となり)に朋也(ともや)くんも居(い)ました」
朋也(ともや)「だっけか。よく覚(おぼ)えてねぇけど」
渚(なぎさ)「用(よう)なんてなくてもいいから、かけて欲(ほ)しいって言(い)ってくれました」
渚(なぎさ)「だから、電話(でんわ)してみました」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「結構(けっこう)長話(ながばなし)になってしまいました。すみません」
朋也(ともや)「いや、いいよ」
渚(なぎさ)「仁科(にしな)さん、音楽(おんがく)の学校(がっこう)に入(はい)るために勉強中(べんきょうちゅう)だそうです」
朋也(ともや)「へぇ、浪人(ろうにん)してたのか…」
渚(なぎさ)「それで、お金(かね)も貯(た)めないといけないらしくて、アルバイトを始(はじ)めるんだそうです」
渚(なぎさ)「来月(らいげつ)からオープンする、新(あたら)しくできたファミリーレストランでです」
朋也(ともや)「ふぅん」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)にどうですか、って誘(さそ)われました」
渚(なぎさ)「わたしもお仕事(しごと)探(さが)してましたから、ちょうどいい機会(きかい)だと思(おも)いました」
渚(なぎさ)「わたし、やってみたいです」
朋也(ともや)「まぁ、待(ま)て、落(お)ち着(つ)け」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「つまり、ウェイトレスってことだよな」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)(ウェイトレスってことは、立(た)ち仕事(しごと)か…)
朋也(ともや)(辛(つら)そうだな…)
朋也(ともや)「おまえ、バイト初(はじ)めてだよな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「言(い)っとくけど、想像以上(そうぞういじょう)に辛(つら)いぞ」
渚(なぎさ)「はい、覚悟(かくご)してます」
朋也(ともや)「先輩(せんぱい)にいじめられるかもしれないぞ」
渚(なぎさ)「バイトはみんな新規募集(しんきぼしゅう)ですから、先輩(せんぱい)はいないです」
朋也(ともや)「なら、上司(じょうし)だ。上司(じょうし)にセクハラされるかもしれないぞ」
渚(なぎさ)「そんな、お客(きゃく)さんがたくさん居(い)るところでしないです」
渚(なぎさ)「それに仁科(にしな)さんも居(い)ますし」
渚(なぎさ)「もちろん頼(たよ)るなんてことはしないですけど、いざという時(とき)には協力(きょうりょく)しあえます」
確(たし)かに。知(し)り合(あ)いがひとりもいないような職場(しょくば)に送(おく)り出(だ)すよりかは、ずっと安心(あんしん)できる。
渚(なぎさ)「心配(しんぱい)してくれるのはありがたいです。でも、このぐらいのことは普通(ふつう)だと思(おも)いますから」
朋也(ともや)「そうか…そうだよな」
これ以上(いじょう)心配(しんぱい)するのも、渚(なぎさ)に体(からだ)の弱(よわ)い子(こ)という烙印(らくいん)を押(お)すようでためらわれた。
朋也(ともや)「わかった。俺(おれ)は許可(きょか)するよ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
朋也(ともや)「でもな、いちお、オッサンや早苗(さなえ)さんにも相談(そうだん)してからな」
朋也(ともや)「やっぱりそういうことは筋(すじ)だと思(おも)うから」
渚(なぎさ)「はい、構(かま)いません」
風呂(ふろ)から上(あ)がってから、タオルを頭(あたま)に巻(ま)いた格好(かっこう)で、電話(でんわ)のダイヤルをプッシュする。
渚(なぎさ)も隣(となり)にいて、成(な)りゆきを見守(みまも)っている。
プルルル…ガチャ。
声(こえ)『あいよ、古河(ふるかわ)だけども』
オッサンが出(で)た。
朋也(ともや)「俺(おれ)、岡崎(おかざき)だけど」
秋生(あきお)『おぅ、息子(むすこ)よ、どうした』
朋也(ともや)「ぐぁっ!」
ガチャン!
思(おも)わず切(き)ってしまっていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
朋也(ともや)「あ、いや…なんか電話(でんわ)の調子悪(ちょうしわる)いみたい」
渚(なぎさ)「そうですか」
かけ直(なお)す。
プルルル…ガチャ。
秋生(あきお)『あい、古河(ふるかわ)だ』
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っす、お義父(とう)さん」
秋生(あきお)『ぐおおぉーっ!』
ガチャン!
…切(き)られてしまった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
朋也(ともや)「あ、いや…もう一度(いちど)かけるな」
プルルル…ガチャ。
秋生(あきお)『あい、おまえのお義父(とう)さんだ』
ガチャンッ!
ふたり、同時(どうじ)に切(き)った。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)が不思議(ふしぎ)そうにこっちを見(み)ている。
またかけ直(なお)す。
プルルル…ガチャ。
秋生(あきお)『古河(ふるかわ)だよ…』
朋也(ともや)「あんた、自分(じぶん)で言(い)っておいて、切(き)るんじゃない」
秋生(あきお)『ああ、今(いま)のは自爆(じばく)だったな。冗談(じょうだん)がすぎた』
いや、冗談(じょうだん)ではなく本当(ほんとう)なのだけど…。
それを言(い)うとまた切(き)られそうだったので黙(だま)っておく。
秋生(あきお)『で、なんだ。子供(こども)でも産(う)まれたか』
朋也(ともや)「飛躍(ひやく)しすぎだ」
秋生(あきお)『ちっ、なら、なんだ』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)がバイトを始(はじ)めるんだけど、いいかな」
秋生(あきお)『バイトぉぅ!?』
朋也(ともや)「ああ、バイトだ。しかもウェイトレスだ」
秋生(あきお)『ウェイトレスぅぅ!?』
朋也(ともや)「しかも今日(きょう)の晩(ばん)ご飯(はん)はほっけだった」
秋生(あきお)『ほっけぇぇ!?』
朋也(ともや)「代打(だいだ)福王(ふくおう)」
秋生(あきお)『福王(ふくおう)ぅぅぅっ!?』
なんでも驚(おどろ)くらしい。
朋也(ともや)「というわけで、早苗(さなえ)さんにも伝(つた)えておいてくれ。じゃあ」
秋生(あきお)『こら、待(ま)てっ。今(いま)、ドラマの濡(ぬ)れ場(ば)に夢中(むちゅう)で、なんにも聞(き)いてなかった!』
反射的(はんしゃてき)に言葉(ことば)を返(かえ)していただけらしい。
秋生(あきお)『早苗(さなえ)に代(か)わるから、そっちに詳(くわ)しく話(はな)してくれっ』
秋生(あきお)『おい、早苗(さなえ)っ、福王(ふくおう)はどうかと思(おも)うぞっ、それだけは言(い)っておけ』
しばらく待(ま)つ。
早苗(さなえ)『もしもし、早苗(さなえ)です』
朋也(ともや)「こんばんは、岡崎(おかざき)っす」
早苗(さなえ)『岡崎(おかざき)は渚(なぎさ)の姓(せい)でもあるんですよ、朋也(ともや)さん』
朋也(ともや)「ああ、そうっすね。朋也(ともや)っす」
早苗(さなえ)『はい。なんでしょう、朋也(ともや)さん』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)がバイトを始(はじ)めるんです。俺(おれ)はやりたいようにやらせようって思(おも)ってます」
朋也(ともや)「いいですよね」
早苗(さなえ)『どんなお仕事(しごと)ですか?』
朋也(ともや)「新(あたら)しくできたファミレスです。そこのウェイトレスです」
朋也(ともや)「それに知(し)り合(あ)いも一緒(いっしょ)に働(はたら)くらしいですよ」
早苗(さなえ)『そうなんですか。それは安心(あんしん)ですね』
朋也(ともや)「ですよね。だから、いいと思(おも)うんです」
早苗(さなえ)『はい、わたしもいいと思(おも)います』
朋也(ともや)「じゃ、了承(りょうしょう)ということで」
早苗(さなえ)『はい』
俺(おれ)は振(ふ)り返(かえ)って、渚(なぎさ)に指(ゆび)でOKサインを作(つく)って見(み)せた。
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)の顔(かお)が色(いろ)めきたつ。
朋也(ともや)「それじゃ、失礼(しつれい)します」
早苗(さなえ)『はい、おやすみなさい』
朋也(ともや)「おやすみなさい」
がちゃん。
朋也(ともや)「問題(もんだい)なかったよ」
渚(なぎさ)「よかったです」
朋也(ともや)「つーわけで、頑張(がんば)れよな」
渚(なぎさ)「はい、がんばります」
渚(なぎさ)「早速(さっそく)、明日(あした)、仁科(にしな)さんに電話(でんわ)してみます」
今日(きょう)は、いつものように二人分(ふたりぶん)の布団(ふとん)が敷(し)かれた。
少(すこ)し…というか、かなり寂(さび)しい。
夫婦気分(ふうふきぶん)を満喫(まんきつ)するのは、もうお終(しま)いなのだろうか。
かといって、俺(おれ)からあんなことは言(い)い出(だ)せないし…。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「え…あ、ああ」
急(きゅう)に話(はな)しかけられて戸惑(とまど)う。
朋也(ともや)「えっと…早(はや)いけど寝(ね)るか」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「………」
じっと見上(みあ)げる天井(てんじょう)。
俺(おれ)は、新(あたら)しくできるファミリーレストランの場所(ばしょ)をその暗闇(くらやみ)に思(おも)い描(えが)いていた。
あの場所(ばしょ)はよく知(し)っている。
学生(がくせい)の頃(ころ)、通学路(つうがくろ)として毎日(まいにち)通(かよ)っていた道(みち)だ。
あの閑散(かんさん)とした場所(ばしょ)にファミレスが建(た)つというのだ。
いや、来月(らいげつ)開店(かいてん)ということは、すでにその建物(たてもの)は存在(そんざい)しているのだ。
長(なが)いことあの場所(ばしょ)を通(かよ)っていなかったから、知(し)らなかった。
だから、その場所(ばしょ)に建(た)つファミレスなど、想像(そうぞう)もできなかった。
町(まち)の姿(すがた)が変(か)わっていく。
人(ひと)の力(ちから)で変(か)えていく。
自分(じぶん)たちのために。
俺(おれ)もその一端(いったん)を担(にな)っているのだ。
それはいいことなのか、悪(わる)いことなのかわからない。
別(べつ)に動物(どうぶつ)や木(き)や森(もり)を慈(いつく)しんでいるわけじゃない。
思(おも)い出(で)の町(まち)が変(か)わっていく。
それだけが、なぜか許(ゆる)せないのだ。
渚(なぎさ)「起(お)きてますか、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)の声(こえ)がして、我(が)に返(かえ)る。
朋也(ともや)「あ?
ああ…」
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「そっち、行(い)っていいですか」
朋也(ともや)「え?」
渚(なぎさ)「やっぱり寂(さび)しかったです」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に行(い)っていいですか?」
朋也(ともや)「ああ、もちろん」
渚(なぎさ)は自分(じぶん)の布団(ふとん)から、俺(おれ)の布団(ふとん)へと潜(くぐ)ったままで移動(いどう)した。
渚(なぎさ)「落(お)ち着(つ)きます。えへへ」
俺(おれ)の肩(かた)に自分(じぶん)の肩(かた)を押(お)し当(あ)ててそう笑(わら)った。
そして、こいつも弱(よわ)かったあの頃(ころ)から変(か)わっていく。
今(いま)、俺自身(おれじしん)が恐(おそ)れているのかもしれない。
今(いま)、俺(おれ)があの日(ひ)の坂(さか)の下(した)に立(た)ち尽(つ)くしているのかもしれない。
遠(とお)く、不確(ふたし)かな未来(みらい)を見上(みあ)げて怯(おび)えてるのかもしれない。
渚(なぎさ)の首(くび)の下(した)に腕(うで)を回(まわ)し、ぐっと抱(だ)きしめた。
その首筋(くびすじ)に鼻(はな)を押(お)し当(あ)てる。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
…ずっと俺(おれ)のそばで、俺(おれ)のことを見(み)ていてくれよ…。
言(い)いたかったけど、言(い)えなかった。
今(いま)だけは、どうしてか言(い)えなかった。
それを口(くち)にすることで、その願(ねが)いを抗(あらが)いようもない圧倒的(あっとうてき)な力(ちから)に押(お)し流(なが)されてしまいそうで。
代(か)わりに、その首筋(くびすじ)にキスをした。
そうして、自分(じぶん)と渚(なぎさ)をこの場所(ばしょ)に繋(つな)ぎ止(と)めたかった。
この古(ふる)びたアパートの一室(いっしつ)に。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「いや…」
渚(なぎさ)「今日(きょう)も、仁科(にしな)さんに電話(でんわ)しました」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「そうしたら、その後(あと)、ファミリーレストランの店長(てんちょう)の方(かた)に連絡(れんらく)取(と)ってもらえました」
渚(なぎさ)「明日(あした)、面接(めんせつ)してくれます。行(い)ってきていいですか」
朋也(ともや)「ああ、もちろん」
渚(なぎさ)「では、昼間(ひるま)は家(いえ)、空(あ)けます」
朋也(ともや)「気(き)にせず行(い)ってこいよ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)は嬉(うれ)しそうだった。そんなに働(はたら)きたかったのだろうか。
いや、働(はたら)きたい、というより、ただ自分(じぶん)も何(なに)かを頑張(がんば)っていたい。それだけなのだろう。
新(あたら)しい職場(しょくば)か…。
そういや、ファミレスのバイトって、若(わか)い男(おとこ)も多(おお)いだろうな…。
朋也(ともや)「む…」
渚(なぎさ)「どうしましたか」
朋也(ともや)「あのさ、ひとつだけ気(き)をつけてほしいんだけど…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おまえは実際(じっさい)、新卒(しんそつ)の女(おんな)の子(こ)なんだからさ…言(い)い寄(よ)ってくる男(おとこ)も多(おお)いと思(おも)うけどさ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に、若(わか)い男(おとこ)とふたりきりになったりするんじゃないぞ」
渚(なぎさ)「はい、それはわかってます」
渚(なぎさ)「それに、これ、見(み)せたら大丈夫(だいじょうぶ)だと思(おも)います」
手(て)のひらを開(ひら)いて、薬指(くすりゆび)に填(は)められた指輪(ゆびわ)を見(み)せた。
朋也(ともや)「ま、そうだろうけどさ…」
朋也(ともや)「それでも、おまえ、可愛(かわい)いからさ…心配(しんぱい)だよ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「そんなことないですから、大丈夫(だいじょうぶ)です」
いや、そんなことあるから心配(しんぱい)なんだけどな…。
朋也(ともや)「店長(てんちょう)とかさ、信用(しんよう)できる人間(にんげん)かどうかとか、ちゃんと見極(みきわ)めろよ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「それと、仁科(にしな)とも今度(こんど)話(はなし)をさせてくれ。いろいろ聞(き)いておきたいしさ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「後(あと)は…」
ああ、まただ。心配(しんぱい)しすぎだ、俺(おれ)は…。
渚(なぎさ)「後(あと)は、なんでしょうか」
朋也(ともや)「いや、もういい」
朋也(ともや)「後(あと)は、無理(むり)しないように。それだけだ」
渚(なぎさ)「はい」
その後(しり)、バイトの件(けん)はとんとん拍子(びょうし)で話(はなし)が決(き)まり、来月頭(らいげつとう)からオープンスタッフとして働(はたら)くことになった。
時間(じかん)は朝(あさ)の8時(じ)から午後(ごご)4時(じ)までのローテーションに入(はい)るとのことだった。
その辺(あた)りは主婦(しゅふ)、ということで融通(ゆうずう)が利(き)くらしい。
新卒(しんそつ)で配偶者(はいぐうしゃ)あり、という履歴(りれき)は、かなり驚(おどろ)かれたらしいが、それである程度(ていど)の予防線(よぼうせん)を張(は)れた気(き)がして安心(あんしん)できた。
逆(ぎゃく)にそのことでまた、あらぬ噂(うわさ)を立(た)てられないとも限(かぎ)らなかったが…。
渚(なぎさ)「それではいってきます」
朋也(ともや)「ああ、俺(おれ)もいってきます」
振(ふ)り返(かえ)る部屋(へや)は無人(むじん)。
今日(きょう)からは、こうして、ふたりで家(いえ)を出(で)る。
渚(なぎさ)「なんだか、二年前(にねんまえ)を思(おも)い出(だ)します」
渚(なぎさ)「ふたりで、登校(とうこう)してました」
朋也(ともや)「そうだったな…毎日(まいにち)遅刻(ちこく)だったけどな」
渚(なぎさ)「今(いま)はふたりとも、もう学生(がくせい)じゃないです」
朋也(ともや)「フリーターだな」
朋也(ともや)「春原(すのはら)は研修中(けんしゅうちゅう)で…」
朋也(ともや)「仁科(にしな)は音楽(おんがく)の学校(がっこう)に入(はい)るために浪人中(ろうにんちゅう)…」
朋也(ともや)「もう、みんな高校生(こうこうせい)じゃないんだよな…」
渚(なぎさ)「はい、みんな、新(あたら)しい道(みち)を歩(ある)き始(はじ)めています」
渚(なぎさ)「わたしも負(ま)けないように、張(は)りきっていってきますっ」
朋也(ともや)「ああ、頑張(がんば)ってこい」
渚(なぎさ)「それでは」
手(て)を振(ふ)って、逆方向(ぎゃくほうこう)へと歩(ある)いていく。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)(…心配(しんぱい)だなぁ)
しばらく見送(みおく)っていた。
渚(なぎさ)「おかえりなさい、です」
帰(かえ)ってくると、渚(なぎさ)は台所(だいどころ)に立(た)って、夕飯(ゆうはん)の支度(したく)をしていた。
疲(つか)れている様子(ようす)はまったくなく、いつも通(どお)りに見(み)えた。
朋也(ともや)「どうだった、大変(たいへん)だったんじゃないのか」
渚(なぎさ)「はい、思(おも)った以上(いじょう)に大変(たいへん)でした」
渚(なぎさ)「それに今日(きょう)はオープン初日(しょにち)ですから、てんてこまいでした」
朋也(ともや)「休(やす)んでれば。後(あと)、俺(おれ)がやるよ」
渚(なぎさ)「そういうわけにはいかないです。これもちゃんとやらないとダメなんです」
渚(なぎさ)「それに朋也(ともや)くんのほうがよっぽど疲(つか)れてるはずです。重労働(じゅうろうどう)です」
朋也(ともや)「俺(おれ)は慣(な)れてるからいいんだよ、おまえは初日(しょにち)だろ?」
渚(なぎさ)「うーん…」
渚(なぎさ)「では、ふたりで作(つく)りましょう」
朋也(ともや)「ああ、それがいい」
その日(ひ)の夕飯(ゆうはん)は、二人(ふたり)で作(つく)った。
渚(なぎさ)「ものすごいお客(きゃく)の数(かず)でした」
渚(なぎさ)「何人(なんにん)か、知(し)った人(ひと)がいました」
朋也(ともや)「へぇ、昔(むかし)の同級生(どうきゅうせい)とか?」
渚(なぎさ)「いえ、古河(ふるかわ)パンの常連(じょうれん)の方(かた)とかです」
渚(なぎさ)「みなさん、わたしを見(み)て、驚(おどろ)いてました」
渚(なぎさ)「こんなところで働(はたら)いてるなんて、って」
だろうな…。
渚(なぎさ)「それで、みんな可愛(かわい)いって言(い)ってくれました」
渚(なぎさ)「そこの制服(せいふく)、とても可愛(かわい)いんです。とても似合(にあ)ってるって言(い)ってくれました」
朋也(ともや)「え…?」
マジか…。
渚(なぎさ)「すごくうれしかったです」
朋也(ともや)「その制服(せいふく)ってさ、向(む)こうに置(お)いてあるの?」
渚(なぎさ)「はい。ロッカーに入(はい)ってます」
それを着(き)た渚(なぎさ)をすごく見(み)たかった。
朋也(ともや)「そ、そうか…じゃ、休(やす)みの日(ひ)に、働(はたら)いてる姿(すがた)、見(み)に行(い)こうかな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、なんかいやらしいです」
朋也(ともや)「そうかよ…いいじゃん」
渚(なぎさ)「制服姿(せいふくすがた)、ちょっと恥(は)ずかしいんです」
朋也(ともや)「マ、マジ…?」
余計(よけい)に見(み)たくなってきた。
仕事(しごと)をサボってでも、是非(ぜひ)見(み)たい。
渚(なぎさ)「また今度(こんど)、機会(きかい)があれば…です」
朋也(ともや)「ああ…」
絶対(ぜったい)に見(み)に行(い)ってやる。
渚(なぎさ)「それにしても、レストランは大盛況(だいせいきょう)でした」
渚(なぎさ)「みんな開店(かいてん)を心待(こころま)ちにしていたのがよくわかりました」
渚(なぎさ)「この町(まち)にはファミリーレストランなんてなかったですから」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「わたし自身(じしん)も、驚(おどろ)きの連続(れんぞく)でした」
渚(なぎさ)「いろいろ変(か)わったシステムがあるんです」
渚(なぎさ)「知(し)ってますか、エレベーターの階数(かいすう)表示(ひょうじ)みたいなものが付(つ)いてるんです」
朋也(ともや)「いや、行(い)ったことないから、知(し)らないけどさ…」
渚(なぎさ)の話(はなし)は尽(つ)きることがなかった。
何(なに)もかもが初(はじ)めてで、何(なに)もかもが新鮮(しんせん)だったのだろう。
夕飯(ゆうはん)の片(かた)づけを終(お)え、一息(ひといき)ついたところで、電話(でんわ)が鳴(な)った。
渚(なぎさ)がそれを取(と)った。
渚(なぎさ)「はい、岡崎(おかざき)です」
渚(なぎさ)「そうですね。えへへ」
誰(だれ)からだろうか。仁科(にしな)だろうか。
渚(なぎさ)「はい、代(か)わります」
受話器(じゅわき)を置(お)いて、俺(おれ)を振(ふ)り返(かえ)った。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんです」
朋也(ともや)「オッサン?」
渚(なぎさ)「はい」
オッサンが電話(でんわ)を寄(よ)こしてくるなんて珍(めずら)しかった。
とりあえず俺(おれ)の記憶(きおく)の中(なか)にはない。
何(なに)か、渚(なぎさ)のことで問題(もんだい)でも持(も)ち上(あ)がったのだろうか…。
心配(しんぱい)しながら、電話(でんわ)にでる。
朋也(ともや)「もしもし」
秋生(あきお)『おぅ、馬鹿(ばか)息子(むすこ)か』
朋也(ともや)「ああ、なんだ」
秋生(あきお)『ほら、渚(なぎさ)がバイト始(はじ)めたのって今日(きょう)だろ?』
朋也(ともや)「そうだけど」
秋生(あきお)『いや、実(じつ)はだな…そのことが噂(うわさ)になって、俺(おれ)の耳(みみ)にまで入(はい)ってきたんだ』
…噂(うわさ)。
嫌(いや)な響(ひび)きだ。
朋也(ともや)「どんなだ…」
秋生(あきお)『ああ、ファミレスの制服姿(せいふくすがた)がとびっきり可愛(かわい)いってよ!』
ずるぅぅぅっ!
俺(おれ)は電話(でんわ)の前(まえ)で滑(すべ)っていた。
秋生(あきお)『うちに来(く)る客(きゃく)、みんなが口(くち)を揃(そろ)えてそう言(い)いやがる』
秋生(あきお)『気(き)になるじゃねぇか』
朋也(ともや)「見(み)に行(い)けばいいじゃないか」
秋生(あきお)『馬鹿(ばか)、んな恥(は)ずかしいことできるかよっ』
朋也(ともや)「しろよっ」
秋生(あきお)『つーわけで、写真(しゃしん)を送(おく)ってくれ』
朋也(ともや)「誰(だれ)が撮(と)るんだよ…」
秋生(あきお)『おまえだ』
朋也(ともや)「んな暇(ひま)あるかよっ」
秋生(あきお)『一日(いちにち)ぐらい仕事休(しごとやす)め』
朋也(ともや)「んなことしたら、クビになるっ」
秋生(あきお)『悪(わる)いなっ』
朋也(ともや)「クビになれってかっ」
秋生(あきお)『じゃ、頼(たの)んだぞ、孝行息子(こうこうむすこ)よ』
がちゃん…つーつー…
切(き)れた。
渚(なぎさ)「どうしましたか」
渚(なぎさ)「また、お父(とう)さん、無理(むり)なこと言(い)ってきましたか」
朋也(ともや)「あの人(ひと)、アホだろ」
渚(なぎさ)「子供(こども)っぽいとは思(おも)います」
朋也(ともや)(今(いま)のは子供(こども)っぽいというより、単(たん)なるエロオヤジだぞ…)
渚(なぎさ)「何(なに)を言(い)われましたか」
渚(なぎさ)「わたしも手伝(てつだ)います」
渚(なぎさ)「どうすればいいですか」
朋也(ともや)「いいって。無視(むし)しとこうぜ。あまりにアホらしい…」
渚(なぎさ)「そうですか?
今度(こんど)、訊(き)いてみます」
朋也(ともや)「やめとけ」
………。
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seagull - 2009/7/28 21:04:00
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同棲編(接上),0,]

ぽっかりと、午後(ごご)から時間(じかん)が空(す)いてしまった。
予定(よてい)していた仕事(しごと)を依頼主(いらいぬし)が直前(ちょくぜん)になってキャンセルしたためだ。
芳野(よしの)「じゃ、お先(さき)」
朋也(ともや)「あ、お疲(つか)れっす」
久々(ひさびさ)に歩(ある)く平日(へいじつ)の町(まち)は、少(すこ)しだけどきどきする。
学校(がっこう)を途中(とちゅう)でふけて、学生服(がくせいふく)のまま町(まち)をうろつく感覚(かんかく)を思(おも)い出(だ)していた。
さて、これからどうしよう。
家(いえ)に帰(かえ)ってもやることはないし…。
学生(がくせい)の頃(ころ)のように、ゲーセンに行(い)って遊(あそ)ぶ気(き)にもなれない(そもそも遊(あそ)んでたのは春原(すのはら)だけで、俺(おれ)は見(み)ていただけだ)。
朋也(ともや)(そうだな…)
早苗(さなえ)さんに会(あ)いたい。
渚(なぎさ)の話(はなし)も聞(き)いてもらいたいし。
歩(ほ)を古河(ふるかわ)パンへと向(む)けた。
朋也(ともや)「ちっす」
秋生(あきお)「らっしゃい…って、てめぇか」
秋生(あきお)「こんな時間(じかん)にどうした、クビにでもなったか」
朋也(ともや)「たまたま時間(じかん)が空(す)いたんだ」
秋生(あきお)「そっか。ま、なんにもねぇけどよ、とっとと帰(かえ)れ」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは?」
秋生(あきお)「町(まち)を泣(な)きっ面(つら)で徘徊中(はいかいちゅう)だ」
朋也(ともや)「また泣(な)かせたのかよ…」
朋也(ともや)「じゃ、可哀想(かわいそう)な早苗(さなえ)さんを探(さが)してくるよ」
秋生(あきお)「ちょっと待(ま)てや」
朋也(ともや)「あん?」
秋生(あきお)「おめぇ、約束(やくそく)のブツ、持(も)ってきたんだろうな」
朋也(ともや)「ブツって?」
秋生(あきお)「かーーーっ!
まさか、てめぇ、忘(わす)れちまったなんて言(い)うんじゃねぇだろうなぁ!」
朋也(ともや)「いや、マジでなんのことだか…」
秋生(あきお)「写真(しゃしん)だよ、写真(しゃしん)!
渚(なぎさ)の可愛(かわい)くてちょいエロいウェイトレス姿(すがた)の写真(しゃしん)だよ!」
この人(ひと)は変態(へんたい)だ。
朋也(ともや)「いつ誰(だれ)が、エロいっつったよっ」
秋生(あきお)「ちっ…てめぇはそんなことも知(し)らねぇのか、素人(しろうと)かよ…」
あんたはその筋(すじ)のプロなのか。
秋生(あきお)「いいか、あいつが勤(つと)めてるファミレスの制服(せいふく)は、胸元(むなもと)が強調(きょうちょう)されているので有名(ゆうめい)なんだよ!」
秋生(あきお)「だから、写真(しゃしん)が欲(ほ)しいっつーてんだよっ!
わかったか、馬鹿(ばか)!」
秋生(あきお)「はーっ、くっそーー!
想像(そうぞう)するだけでそそるぜぇ~!
見(み)てみてぇ~!」
娘(むすめ)に欲情(よくじょう)するな。
早苗(さなえ)「はい?
何(なに)を見(み)てみたいんですか?」
俺(おれ)の後(うし)ろから早苗(さなえ)さんの声(こえ)。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「あら、朋也(ともや)さん。こんにちはっ」
早苗(さなえ)「今日(きょう)はどうしましたか」
朋也(ともや)「暇(ひま)ができたから、早苗(さなえ)さんに会(あ)いにきたんです」
早苗(さなえ)「まぁ、本当(ほんとう)ですか。それはうれしいです」
早苗(さなえ)「でも、その前(まえ)に秋生(あきお)さん」
秋生(あきお)「なんだ」
早苗(さなえ)「さっきの話(はなし)はなんですか?
そそるだとか、見(み)てみたいだとか」
よからぬ話(はなし)をしていたと疑(うたが)っているようだ。
秋生(あきお)「ふっ…」
オッサンがパンのひとつを手(て)に取(と)る。
秋生(あきお)「ふはははははははっ!」
高笑(たかわら)いと共(とも)に、それを地面(じめん)に叩(たた)きつけた。
ぼんっ!
煙(けむり)が吹(ふ)きだして、辺(あた)り一面(いちめん)が真(ま)っ白(しろ)になる。
秋生(あきお)「いくぞ、小僧(こぞう)っ」
肩(かた)を掴(つか)まれて、強引(ごういん)に外(そと)に引(ひ)きずり出(だ)された。
秋生(あきお)「自分(じぶん)で作(つく)ったパンが仇(あだ)となったな、早苗(さなえ)よ」
いまだモクモクと噴煙(ふんえん)の立(た)つ店先(みせさき)を見(み)て、オッサンが呟(つぶや)く。
朋也(ともや)「どんなパン売(う)ってんだよっ!」
秋生(あきお)「今更(いまさら)なに驚(おどろ)いてんだよ、てめぇ」
…これ以上(いじょう)何(なに)も言(い)うまい。
朋也(ともや)「で、なんだよ、俺(おれ)まで連(つ)れてきて」
朋也(ともや)「俺(おれ)は早苗(さなえ)さんと話(はなし)をしたいんだよ。戻(もど)るぞ」
秋生(あきお)「こらこら、てめぇに居(い)てもらわねぇと困(こま)るんだよ」
朋也(ともや)「困(こま)るって、なんかする気(き)かよ」
秋生(あきお)「ああ。これから渚(なぎさ)のバイト先(さき)にいく」
朋也(ともや)「ひとりで行(い)ってくれ。じゃあな」
秋生(あきお)「待(ま)てっつーてるだろ!
てめぇも行(い)くんだよっ」
朋也(ともや)「なんで俺(おれ)が」
秋生(あきお)「馬鹿(ばか)やろーっ、俺(おれ)みたいな大(だい)の男(おとこ)がひとりでファミレス入(はい)ってパフェなんて食(く)えるかっ!」
朋也(ともや)「コーヒーでも飲(の)め」
秋生(あきお)「あんまり変(か)わんねーよ!」
朋也(ともや)「いや、パフェとコーヒーじゃ、ぜんぜん違(ちが)うと思(おも)うけど…」
秋生(あきお)「それにな、おまえが居(い)てくれたほうが、渚(なぎさ)が寄(よ)ってくるだろ」
秋生(あきお)「シャッターチャンス満載(まんさい)というわけだ」
朋也(ともや)「俺(おれ)じゃなくても、あんたにだって、寄(よ)ってくるだろ」
秋生(あきお)「馬鹿(ばか)、俺(おれ)は今(いま)から俺(おれ)でなくなる」
朋也(ともや)「はぁ?」
秋生(あきお)「変装(へんそう)して、おまえの友達(ともだち)、ということにするからな」
朋也(ともや)「なんで…?」
秋生(あきお)「んな親馬鹿(おやばか)なところ、見(み)つかりたくねーんだよ、わからねぇか、この気持(きも)ちが」
朋也(ともや)「はい、わかんないっす」
秋生(あきお)「とにかくだ、世間体(せけんてい)もある。隠密(おんみつ)にことを運(はこ)びてぇんだよ」
秋生(あきお)「いいな」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「写真(しゃしん)、焼(や)き増(ま)ししてやるからな」
朋也(ともや)(いや…焼(や)き増(ま)し写真(しゃしん)につられたわけではないぞ…)
協力する
朋也(ともや)(暇(ひま)だからだ…)
そう自分(じぶん)を納得(なっとく)させる。
秋生(あきお)「おい、変装(へんそう)するから、むこう向(む)いてろ」
朋也(ともや)「ああ…」
どんな手(て)の込(こ)んだ変装(へんそう)をしようというのだろう。
………。
秋生(あきお)「よし、いいぞ。ばっちりだ」
この人(ひと)はアホだ。
秋生(あきお)「見(み)ろ、どうだ、わからんだろう」
朋也(ともや)「丸(まる)わかりっす」
秋生(あきお)「ちっ、てめぇは正体(しょうたい)を知(し)ってるからだよ。知(し)らねぇ人(ひと)が見(み)たら、わかんねぇよ」
秋生(あきお)「口調(くちょう)はどうするかな。ラッパー風(ふう)に言(い)ってみるか」
秋生(あきお)「YO!
YO!
俺(おれ)、MCアキオ
マイク握(にぎ)れば最強(さいきょう)のパンヤー」
朋也(ともや)「むちゃくちゃ正体(しょうたい)バラしてるんだけど」
秋生(あきお)「マジ?
それ、やっべぇよ」
朋也(ともや)「普通(ふつう)にしてればいいんじゃねぇの」
そもそもこんな変装(へんそう)でバレないわけがない。
朋也(ともや)「とっとといこうぜ」
秋生(あきお)「オーケー、ブラザー」
この角(かど)を折(お)れれば、あの見慣(みな)れた風景(ふうけい)が広(ひろ)がる…はずだった。
小(しょう)、中(ちゅう)、高(こう)、と12年間(ねんかん)、通学路(つうがくろ)として使(つか)っていた道(みち)が。
けど、今(いま)は違(ちが)う。
今(いま)はもう、別(べつ)の風景(ふうけい)になっているのだ。
俺(おれ)がまだ見(み)たこともない、この町(まち)の姿(すがた)があるのだ。
秋生(あきお)「おい、ブラジャー」
朋也(ともや)「誰(だれ)がブラジャーだっ、ブラザーじゃなかったのか」
秋生(あきお)「そうだ、言(い)い間違(まちが)えた。まだつかないのか、ブラザー」
朋也(ともや)「もう少(すこ)しだよ」
角(かど)を折(お)れた。
朋也(ともや)「………」
心(こころ)の準備(じゅんび)だって、できてたはずなのに…。
秋生(あきお)「へぇ…」
秋生(あきお)「ここって、前(まえ)は木(き)が生(お)い茂(しげ)ってたはずだよな」
朋也(ともや)「ああ…」
秋生(あきお)「すんげぇなぁ、変(か)わるもんだな、おい」
秋生(あきお)「人(ひと)も多(おお)いしよ」
俺(おれ)は目(め)の奥(おく)に、新(あたら)しい町(まち)の姿(すがた)を刻(きざ)み込(こ)む。
そして、今(いま)、かつての風景(ふうけい)は思(おも)い出(で)に変(か)わった。
朋也(ともや)「入(はい)るか…」
階段(かいだん)を上(のぼ)り、店内(てんない)に入(はい)った。
秋生(あきお)「かっ、混(こ)んでるなぁ、みんな暇人(ひまじん)かっ」
あんたもな。
しばらく待(ま)たされることになる。
その間(あいだ)、オッサンは不審(ふしん)な動(うご)きで店内(てんない)を覗(のぞ)き見(み)する。
秋生(あきお)「おっ、いたぞっ、渚(なぎさ)だ」
朋也(ともや)「マジっ?」
そう言(い)われると一緒(いっしょ)に覗(のぞ)かずにはいられない。
ああ、悲(かな)しき男(おとこ)の習性(しゅうせい)だ。
朋也(ともや)「どれだ」
秋生(あきお)「あれだよ」
遠(とお)くてよくわからない。
でも、近(ちか)い場所(ばしょ)を歩(ある)くウェイトレスを見(み)て、その制服(せいふく)の可愛(かわい)さに目(め)を奪(うば)われる。
つーか、そいつは仁科(にしな)だった。
秋生(あきお)「おめぇ、別(べつ)の女(おんな)の子(こ)に見(み)とれてんじゃねぇよ」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちのアイドル、渚(なぎさ)ちゃんはどうしたよ」
朋也(ともや)「よくわかんないんだよ、ここからじゃ」
秋生(あきお)「ちっ、じゃあ、大人(おとな)しく待(ま)ってろ」
どか、と椅子(いす)に座(すわ)り直(なお)す。
しばらくして、ウェイトレスがやってきて、俺(おれ)たちを出迎(でむか)えた。
渚(なぎさ)「いらっしゃいませ」
つーか、渚(なぎさ)だった。
渚(なぎさ)「あ、朋也(ともや)くんです」
朋也(ともや)「よぅ」
かなり恥(は)ずかしい。
それは渚(なぎさ)も同(おな)じなようで、顔(かお)を赤(あか)らめてうつむいてしまう。
渚(なぎさ)「いきなり来(き)たら…びっくりします」
朋也(ともや)「いや、悪(わる)い。急(きゅう)に暇(ひま)が出来(でき)たんだ。だから連絡(れんらく)のしようもなくてさ…」
つーか、可愛(かわい)い。
渚(なぎさ)「あ、早(はや)く通(とお)さないとっ」
職務(しょくむ)を思(おも)い出(だ)したらしく、メニューを取(と)りだすと、俺(おれ)に向(む)かって訊(き)く。
渚(なぎさ)「一名様(いちめいさま)ですね」
朋也(ともや)「いや、二名(にめい)」
渚(なぎさ)「はい?」
俺(おれ)の指(さ)さす先(さき)、不気味(ぶきみ)な変装(へんそう)を施(ほどこ)した長身(ちょうしん)の男(おとこ)がひとり。
渚(なぎさ)「あ、えっと…」
目(め)を細(ほそ)めて、その顔(かお)をまじまじと確認(かくにん)する渚(なぎさ)。
渚(なぎさ)「お友達(ともだち)ですかっ」
朋也(ともや)「アホな子(こ)だろ、おまえ!」
渚(なぎさ)「えっ?」
本当(ほんとう)にわかっていないようだ…。
自分(じぶん)の父親(ちちおや)だというのに。
渚(なぎさ)「では、席(せき)のほうにご案内(あんない)しますね」
中(なか)に通(とお)される。
渚(なぎさ)の後(あと)について、空(す)いていた窓際(まどぎわ)のテーブルのひとつまで歩(ある)いてくる。
渚(なぎさ)「こちらです。どうぞ」
俺(おれ)とオッサンは向(む)かい合(あ)って座(すわ)る。
渚(なぎさ)「こちらメニューになります。ご注文(ちゅうもん)のほうは後(あと)ほど伺(うかが)いに参(まい)ります」
朋也(ともや)「ああ、サンキュ」
メニューを俺(おれ)たちに渡(わた)すと、渚(なぎさ)は忙(いそが)しそうに席(せき)を離(はな)れていった。
秋生(あきお)「見(み)ろ、ばれなかったじゃないか」
朋也(ともや)「ああ、忘(わす)れてたよ。あんたの娘(むすめ)が超鈍(ちょうにぶ)いことに」
秋生(あきお)「いや、あいつは鋭(するど)い。もし声(こえ)を出(だ)していたなら気(き)づかれていただろう…」
朋也(ともや)「いやもう、グラサンがなかろうが、別人(べつじん)ですと言(い)い張(は)れば、別人(べつじん)で通(とお)るんじゃないかと」
秋生(あきお)「んなバカいねぇよ」
是非(ぜひ)試(ため)してみたかった。
秋生(あきお)「おまえ、次(つぎ)渚(なぎさ)が来(き)たら、会話(かいわ)で引(ひ)き留(と)めろよ。その間(あいだ)に俺(おれ)がこいつで激写(げきしゃ)する」
隠(かく)し持(も)っていたインスタントカメラを懐(ふところ)から取(と)り出(だ)す。
朋也(ともや)「まあ、仕事(しごと)を邪魔(じゃま)しない程度(ていど)にはやってみるよ…」
別(べつ)のウェイトレスが、水(みず)を持(も)ってくる。
ウェイトレス「いらっしゃいませ」
秋生(あきお)「ちっ、おまえになんか用(よう)はねぇんだよ」
丸聞(まるき)こえだった。
ウェイトレスは怒(おこ)った様子(ようす)で戻(もど)っていった。
朋也(ともや)「少(すこ)しは自重(じじゅう)しろ」
秋生(あきお)「お、渚(なぎさ)が居(い)るぞ。呼(よ)んでくれ」
朋也(ともや)「わかってるのか、このオッサン…」
渚(なぎさ)は呼(よ)ばないでも、きてくれた。
渚(なぎさ)「お決(き)まりですか」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、ホット」
渚(なぎさ)「はい、ホットコーヒーおひとつですね」
渚(なぎさ)がくるりと体(からだ)を反転(はんてん)させて、オッサンのほうを向(む)く。
秋生(あきお)「………」
オッサンは喋(しゃべ)らずに黙(だま)っていた。
まじで声(こえ)を出(だ)すとばれると思(おも)っているのだ。
朋也(ともや)「こっちの人(ひと)はパフェ」
助(たす)け船(ぶね)を出(だ)してやる。
渚(なぎさ)「パフェはたくさん種類(しゅるい)があります。どれにしますか」
朋也(ともや)「一番(いちばん)でかいの」
渚(なぎさ)「一番(いちばん)大(おお)きいのは、チョコ&ストロベリーミックスパフェ·スペシャルになりますけど、それでよろしいでしょうか?」
朋也(ともや)「よろしい」
秋生(あきお)「………」
渚(なぎさ)「以上(いじょう)ですね」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます。しばらくお待(ま)ちください」
注文(ちゅうもん)を取(と)り終(お)え、渚(なぎさ)が去(さ)っていく。
秋生(あきお)「よろしいことあるかーーっ!」
秋生(あきお)「どうして俺(おれ)がそんなファンシーな食(た)べ物(もの)を食(く)わなきゃならねぇんだよっ!」
朋也(ともや)「パフェって言(い)ってたじゃないか」
秋生(あきお)「ちっ、たとえもわからんのか、この小僧(こぞう)は」
秋生(あきお)「んな甘(あま)いもんが食(く)えるかっ」
朋也(ともや)「とにかく、頼(たの)んでしまったんだ。渚(なぎさ)の手前(てまえ)だ、ちゃんと食(く)ってやれよ」
秋生(あきお)「嫌(いや)がらせか、この野郎(やろう)…」
その後(あと)、料理(りょうり)を運(はこ)んできたのは、別(べつ)のウェイトレスだった。
しばらく渚(なぎさ)の姿(すがた)は見(み)えなかった。
秋生(あきお)「ああん?
どうして、渚(なぎさ)が来(こ)ねぇんだ?」
秋生(あきお)「店長(てんちょう)呼(よ)んでこい、しばくぞ、こら」
ジャンボパフェを食(た)べながら、悪態(あくたい)をつく不気味(ぶきみ)な中年男性(ちゅうねんだんせい)。
秋生(あきお)「これじゃ、激写(げきしゃ)できねぇじゃねぇかよ」
+変態風味(へんたいふうみ)。
朋也(ともや)「もう、いいじゃんか、見(み)られたんだしよ」
秋生(あきお)「娘(むすめ)の晴(は)れ姿(すがた)を永遠(えいえん)に留(とど)めておきたいという親心(おやごころ)がわからんかねぇ、この馬鹿(ばか)は」
朋也(ともや)「じゃ、好(す)きにしてくれ…」
秋生(あきお)「なに他人事(たにんごと)みたいに言(い)ってんだよ、てめぇだって焼(や)き増(ま)し条件(じょうけん)でノコノコついてきたくせによ」
朋也(ともや)「ぐ…」
朋也(ともや)「こんな隠(かく)し撮(と)りのようなことをやることに気(き)が進(すす)まないだけだよっ!」
朋也(ともや)「撮(と)るなら正々堂々(せいせいどうどう)と撮(と)ればいいだろっ」
秋生(あきお)「んな恥(は)ずかしいことができるかっ」
朋也(ともや)「親(おや)ならやれっ!」
秋生(あきお)「恥(は)ずいわっ!」
朋也(ともや)「やれっ!」
渚(なぎさ)「あ、あの」
朋也(ともや)「え…?」
気(き)づくと、真横(まよこ)に渚(なぎさ)がいた。
渚(なぎさ)「他(ほか)のお客(きゃく)様(ざま)にご迷惑(めいわく)ですから、お静(しず)かにお願(ねが)いできますか」
朋也(ともや)「あ、ああ、悪(わる)い…」
秋生(あきお)「この、馬鹿(ばか)がっ」
朋也(ともや)「あんただろっ」
秋生(あきお)「てめぇだっ!」
渚(なぎさ)「あの、おふたりともです…」
朋也(ともや)「ああ、悪(わる)い…」
俺(おれ)とオッサンは黙(だま)り込(こ)む。それでようやく、渚(なぎさ)が席(せき)を離(はな)れた。
秋生(あきお)「ちっ…」
オッサンと俺(おれ)がその背(せ)を見送(みおく)る。
しかし…しばらく店内(てんない)を見回(みまわ)していて、気(き)づいたことがある。
若(わか)い男(おとこ)の客(きゃく)の視線(しせん)が、頻繁(ひんぱん)に渚(なぎさ)のほうを向(む)いているのだ。
朋也(ともや)(俺(おれ)が彼氏(かれし)として自意識過剰(じいしきかじょう)なだけか…?)
いや、角(かど)の席(せき)に座(すわ)る男連中(おとこれんちゅう)なんて、指(ゆび)までさして、全員(ぜんいん)で渚(なぎさ)の行動(こうどう)を追(お)っているじゃないか。
朋也(ともや)(制服(せいふく)マジックと言(い)うべきか…あんな格好(かっこう)をすると、渚(なぎさ)もモテモテになるんだな…)
朋也(ともや)(オッサンも、常連客(じょうれんきゃく)から可愛(かわい)い可愛(かわい)いと聞(き)かされて、ここに来(き)てるわけだし…)
そう考(かんが)えると、ちょっとした優越感(ゆうえつかん)が味(あじ)わえた。
朋也(ともや)(てめぇら、その子(こ)は俺(おれ)の嫁(よめ)だぜ…ふふふ…)
秋生(あきお)「へっ、見(み)ろよ、ウチの渚(なぎさ)が、一番(いちばん)野郎(やろう)どもの視線(しせん)を集(あつ)めてるぜ」
秋生(あきお)「てめぇら、そいつは俺(おれ)の娘(むすめ)だぜ…ふふふ…」
バカがここにふたり。
角(かく)の男連中(おとこれんちゅう)が、隣(となり)を通(とお)り過(す)ぎようとした渚(なぎさ)を呼(よ)び止(と)めた。
にやけた顔(かお)で、渚(なぎさ)に話(はな)しかけている。
男(おとこ)「バイト、何時(なんじ)に終(お)わるの?」
ナンパだった。
渚(なぎさ)「夕方(ゆうがた)に終(お)わりますけど…」
男(おとこ)「お、ちょうどいいね。晩飯(ばんめし)おごるから、一緒(いっしょ)に食(た)べにいこうよ」
渚(なぎさ)「いえ、まっすぐ帰(かえ)らないといけないですので…」
渚(なぎさ)「失礼(しつれい)します」
立(た)ち去(さ)ろうとした渚(なぎさ)の腕(うで)を一番(いちばん)手前(てまえ)の男(おとこ)が掴(つか)んでいた。
男(おとこ)「お家(うち)、そんなに厳(きび)しいの?」
逃(に)げないようにして、強引(ごういん)に話(はなし)を続(つづ)けた。
秋生(あきお)「ちっ…あいつら、黙(だま)って見(み)ておくだけにしておけばいいものを…」
秋生(あきお)「よし、しばくか」
朋也(ともや)「ああ」
珍(めずら)しく意気投合(いきとうごう)。ふたり同時(どうじ)に立(た)ち上(あ)がった。
朋也(ともや)「でも、大事(おおごと)にするなよ。店(みせ)に迷惑(めいわく)かけたら、渚(なぎさ)に怒(おこ)られるぞ」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だ、脅(おど)すだけだよ」
確(たし)かに、その顔(かお)で脅(おど)されたら恐(こわ)い。
俺(おれ)とオッサンは渚(なぎさ)を挟(はさ)む格好(かっこう)で立(た)った。
朋也(ともや)「なぁ、その手(て)、離(はな)してやってくんない?」
秋生(あきお)「じゃねぇと、あそこチョン切(き)るぞ、てめぇら」
相手(あいて)は三人(さんにん)だったが、面構(つらがま)えの悪(わる)いふたりの脅(おど)しだ。気圧(きあつ)されたように顔色(かおいろ)を変(か)えた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、大丈夫(だいじょうぶ)です…」
そう渚(なぎさ)は小声(こごえ)で言(い)ってきた。
男(おとこ)「ちっ、こんな店(みせ)、出(で)ようぜっ!」
乱暴(らんぼう)に立(た)ち上(あ)がって、俺(おれ)たちの脇(わき)を抜(ぬ)けていく男(おとこ)ども。
その時(とき)、相手(あいて)がわざとオッサンの足(あし)を踏(ふ)んだのが見(み)えた。
直後(ちょくご)…
ずてん!と大(おお)きな音(おと)を立(た)てて、男(おとこ)が尻餅(しりもち)をついていた。
朋也(ともや)(オッサン…足(あし)を引(ひ)っかけ返(かえ)したな…)
男(おとこ)「なにすんだよ、この野郎(やろう)っ!」
案(あん)の定(じょう)、逆上(ぎゃくじょう)する相手(あいて)。
秋生(あきお)「あぁ、わりぃ、わりぃ、気(き)にせず、帰(かえ)れ」
男(おとこ)「あんたのせいで、こっちは怪我(けが)したんだよっ!」
秋生(あきお)「だから、謝(あやま)ってんだろ、小僧(こぞう)がよっ」
男(おとこ)「てめぇっ」
手(て)が出(で)た。
オッサンはそれをよけて、また足(あし)を引(ひ)っかけた。
ガシャン!
男(おとこ)は自分(じぶん)たちの座(すわ)っていたテーブルに倒(たお)れ込(こ)む。グラスを倒(たお)し、水浸(みずびた)しになった。
朋也(ともや)「オッサン!」
秋生(あきお)「え?
今(いま)の俺(おれ)か?」
朋也(ともや)「あんた以外(いがい)に誰(だれ)がいるっ!」
声(こえ)「どうかされましたかっ」
直後(ちょくご)、店長(てんちょう)らしき男(おとこ)が割(わ)って入(はい)ってきた。
すでに相手(あいて)に向(む)かってくる意気(いき)などなくなっていたが。
客足(きゃくあし)が途絶(とだ)えた閉店間際(へいてんまぎわ)の時間(じかん)、俺(おれ)は店長(てんちょう)とテーブルで向(む)かい合(あ)っていた。
オッサンは…
秋生(あきお)「厄介事(やっかいごと)はおまえに任(まか)せたっ!
バイバイブーッ!」
と言(い)い残(のこ)して、逃(に)げ去(さ)っていた。
朋也(ともや)(あの人(ひと)は…ったく…)
朋也(ともや)(怒(おこ)られるのは俺(おれ)ひとりかよ…)
店長(てんちょう)「ここの店長(てんちょう)をしております、土方(ひじかた)です」
名刺(めいし)を差(さ)し出(だ)される。
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)です」
店長(てんちょう)「ええと、聞(き)いた話(はなし)によりますと…」
店長(てんちょう)「岡崎(おかざき)くんの旦那(だんな)さんということですね」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)くん?」
それは俺(おれ)だ。
店長(てんちょう)「ああ…ややこしかったですな」
店長(てんちょう)「下(した)の名前(なまえ)は…そう渚(なぎさ)くん」
ああ…渚(なぎさ)はこの店長(てんちょう)に『岡崎(おかざき)くん』と呼(よ)ばれているのか。
俺(おれ)のほうがまったく慣(な)れていないようで、恥(は)ずかしい。
朋也(ともや)「お騒(さわ)がせして、すみませんでした」
店長(てんちょう)「いやいや、大事(だいじ)な奥(おく)さんが、言(い)い寄(よ)られていたんですから、心中(しんちゅう)も穏(おだ)やかでなかったでしょう」
店長(てんちょう)「岡崎(おかざき)くんは、器量(きりょう)の良(い)い子(こ)ですから、以前(いぜん)にも同(おな)じようなことがありました」
店長(てんちょう)「でも、その時(とき)はうまくやり過(す)ごしていましたよ」
朋也(ともや)「そうなんすか…」
店長(てんちょう)「ええ、見(み)た目(め)以上(いじょう)に利発(りはつ)な子(こ)です」
店長(てんちょう)「と言(い)っては、失礼(しつれい)ですかな」
朋也(ともや)「いえ…」
店長(てんちょう)「それに履歴(りれき)を見(み)るかぎり、体(からだ)が弱(よわ)いそうですが、ここでの働(はたら)きぶりはまったく、健康(けんこう)そのものですよ」
店長(てんちょう)「いや、健康(けんこう)な人(ひと)よりも、よく働(はたら)いてくれています」
頑張(がんば)り屋(や)なあいつらしい…。
店長(てんちょう)「ですから、岡崎(おかざき)さん、心配(しんぱい)なさらずとも大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」
ああ…そうか。
それを言(い)いたかったのか、この人(ひと)は。
何(なに)も騒(さわ)ぎを起(お)こした俺(おれ)を叱(しか)るためではない。
旦那(だんな)である俺(おれ)に安心(あんしん)してもらいたかっただけなのだ。
いい人(ひと)だと思(おも)った。
店長(てんちょう)「それにこう見(み)えても、私(わたし)、武道(ぶどう)の嗜(たしな)みもございますので」
俺(おれ)が黙(だま)っていたからだろう。さらにそう付(つ)け加(くわ)えた。
朋也(ともや)「ああ、はいっ…安心(あんしん)しました」
慌(あわ)てて、答(こた)える。
朋也(ともや)「至(いた)らない点(てん)も多々(たた)あると思(おも)いますが…あいつをよろしくお願(ねが)いします」
最後(さいご)にそう頭(あたま)を下(さ)げた。
渚(なぎさ)「今日(きょう)は本当(ほんとう)に、いろいろなことがありました」
朋也(ともや)「迷惑(めいわく)かけて悪(わる)かったよ」
渚(なぎさ)「いえ、朋也(ともや)くんはわたしを守(まも)ろうとしてくれたので、うれしかったです」
渚(なぎさ)「お友達(ともだち)の方(かた)にも礼(れい)を言(い)いたかったです」
朋也(ともや)「いつだって言(い)えるから、安心(あんしん)しろ」
渚(なぎさ)「はい…?」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)から言(い)っておくよ…」
渚(なぎさ)「はい、お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「でも、制服(せいふく)、ほんと似合(にあ)ってて可愛(かわい)かった」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか」
朋也(ともや)「だって、男連中(おとこれんちゅう)、みんなおまえを見(み)てたぜ?」
渚(なぎさ)「そんなことはないです」
朋也(ともや)「実際(じっさい)ナンパされてたじゃん」
渚(なぎさ)「ナンパじゃないです。お腹空(なかす)いてそうに見(み)えたんだと思(おも)います」
朋也(ともや)「だとしても、可愛(かわい)い子(こ)じゃなかったら、誘(さそ)わないって」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)くなくても、お腹空(なかす)いてそうな子(こ)には手(て)を差(さ)し伸(の)べたくなるものです」
朋也(ともや)「でも、おまえは可愛(かわい)いじゃないか」
渚(なぎさ)「いいえ」
朋也(ともや)「えぇ?」
わざとらしくとぼけたふうに訊(き)いてやる。
これで、卑下(ひげ)するな、という教(おし)えを思(おも)い出(だ)したはずだ。
渚(なぎさ)「あ、いえ…」
朋也(ともや)「可愛(かわい)いよな?」
渚(なぎさ)「はい…可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)(いいっ)
渚(なぎさ)に自分(じぶん)のことを可愛(かわい)いと言(い)わせるのは快感(かいかん)だった。
渚(なぎさ)「でも、仁科(にしな)さんとかのほうが、もっと可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「そうです。わたしも可愛(かわい)いかもしれないですが、他(ほか)の人(ひと)のほうがもっともっと可愛(かわい)いですっ」
しまった…。
ついに、卑下(ひげ)することなく、控(ひか)えめに言(い)う抜(ぬ)け道(みち)を見(み)つけられてしまった…。
朋也(ともや)「待(ま)てっ」
朋也(ともや)「だんご大家族(だいかぞく)も可愛(かわい)いが、他(ほか)のキャラクターのほうがもっともっと可愛(かわい)いと言(い)われたら、おまえ、どうだっ」
渚(なぎさ)「平気(へいき)です」
朋也(ともや)(ぐは…)
朋也(ともや)(俺(おれ)の…密(ひそ)かな楽(たの)しみが…)
朋也(ともや)「今(いま)の禁止(きんし)」
渚(なぎさ)「禁止(きんし)じゃないです。理由(りゆう)がないです」
ああ…
さようなら…ナルシストな渚(なぎさ)…。

朋也(ともや)「俺(おれ)は古河渚(ふるかわなぎさ)という女(おんな)の子(こ)が好(す)きなんだ。その女(おんな)の子(こ)をけなさないでくれないか」
渚(なぎさ)「あ、はい…すみませんでしたっ」
渚(なぎさ)「とっても、可愛(かわい)いと思(おも)いますっ」
渚(なぎさ)「って…え?」
渚(なぎさ)「なんか、今(いま)、ものすごく恥(は)ずかしいことを言(い)った気(き)がします…」
渚(なぎさ)「そんな、わたしの水着姿(みずぎすがた)なんて、誰(だれ)も見(み)ないと思(おも)いますっ」
渚(なぎさ)「そんなにスタイル…よくないですので…」
朋也(ともや)「可愛(かわい)いけりゃなんでもOK」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)くも…」
渚(なぎさ)「ああ…そうですよね…わたし、可愛(かわい)いですから、きっとなんでもOKですっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、わくわくして寝(ね)られなかったはずです」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「それは、デートだからです」
渚(なぎさ)「こんな可愛(かわい)い彼女(かのじょ)と」

目(め)を瞑(つぶ)れば、渚(なぎさ)ナルシスト化(か)計画(けいかく)の軌跡(きせき)が走馬燈(そうまとう)のように次々(つぎつぎ)とよみがえる。
しかし、それも…もう…
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
朋也(ともや)「え…なに」
涙(なみだ)をごしごし拭(ふ)きながら、現実(げんじつ)に戻(もど)ってくる。
渚(なぎさ)「すごく、申(もう)し訳(わけ)ない気持(きも)ちです」
朋也(ともや)「え?
どうして…?」
渚(なぎさ)「その…朋也(ともや)くんがわたしに自信(じしん)を持(も)たせるために、言(い)ってきてくれたことです…」
朋也(ともや)「まぁ、確(たし)かに」
渚(なぎさ)「ですので…」
渚(なぎさ)「今(いま)の禁止(きんし)しても…いいです」
渚(なぎさ)「やり方(かた)、ちょっと卑怯(ひきょう)でしたので…」
朋也(ともや)「いや…」
そんなふうに言(い)われたら、俺(おれ)もこれ以上(いじょう)強要(きょうよう)なんてできなかった。
朋也(ともや)「冗談(じょうだん)。もういいよ」
渚(なぎさ)「え、どうしてでしょうか」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうが、楽(たの)しんだりして…よっぽど卑怯(ひきょう)だったよ」
渚(なぎさ)「楽(たの)しんでましたか」
朋也(ともや)「ちょっと楽(たの)しんでました」
朋也(ともや)「ごめんなさい」
渚(なぎさ)「いえ、でも、わたしのことを考(かんが)えていてくれたことも確(たし)かだと思(おも)います」
朋也(ともや)「ああ…まぁな」
朋也(ともや)「昔(むかし)のおまえは、本当(ほんとう)に、自分(じぶん)に自信(じしん)がない奴(やつ)だったからな」
朋也(ともや)「でも、もう十分(じゅうぶん)だよ。おまえ、バイト先(さき)でも、すげぇ店長(てんちょう)に買(か)われてた」
朋也(ともや)「あの頃(ころ)とぜんぜん違(ちが)う」
朋也(ともや)「振(ふ)る舞(ま)いとか、もう、すごくしっかりしてるんだよ、おまえ」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
渚(なぎさ)「だったら、うれしいです」
朋也(ともや)「ああ。だから、もう十分(じゅうぶん)」
渚(なぎさ)「でも…」
渚(なぎさ)「やっぱり、わたしは努力(どりょく)し続(つづ)けてたいです」
渚(なぎさ)「それで…朋也(ともや)くんの理想(りそう)の女(おんな)の子(こ)でいたいです」
朋也(ともや)「いれてるよ、十分(じゅうぶん)」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうが、渚(なぎさ)に見合(みあ)ってないかも…」
渚(なぎさ)「そんなことないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、すごく仕事(しごと)がんばって、すごく男(おとこ)らしくて、すごく素敵(すてき)です」
朋也(ともや)「おまえだって、女(おんな)の子(こ)らしくて、可愛(かわい)い」
渚(なぎさ)「………」
じっと見(み)つめ合(あ)う。
朋也(ともや)(………)
朋也(ともや)(なんか…)
朋也(ともや)(いい雰囲気(ふんいき)…)
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)から、そっと顔(かお)を近(ちか)づけてきていた。
朋也(ともや)(え…)
気(き)づくとすぐ前(まえ)に、目(め)を閉(と)じた渚(なぎさ)の顔(かお)。
下(した)では唇(くちびる)が合(あ)わさっていた。
さらに隙間(すきま)を埋(う)めるように、押(お)し込(こ)んでくる。
一番深(いちばんふか)い位置(いち)で、動(うご)きを止(と)めた。
………。
ようやく唇(くちびる)が離(はな)れる。
うつむく渚(なぎさ)の顔(かお)は、耳(みみ)まで真(ま)っ赤(か)だった。
渚(なぎさ)「あのっ…」
顔(かお)を上(あ)げて…でも目(め)を伏(ふ)せたままで口(くち)を開(ひら)いた。
渚(なぎさ)「…朋也(ともや)くんの顔(かお)見(み)てたら、キスしたくなったので、してしまいましたっ」
精一杯(せいいっぱい)、自信(じしん)のある自分(じぶん)を装(よそお)おうとしていた。
それが実(じつ)に滑稽(こっけい)で、笑(わら)いを誘(さそ)う。
渚(なぎさ)「その…」
渚(なぎさ)「嫌(いや)じゃなかったですか…」
俺(おれ)が黙(だま)っていることに不安(ふあん)を覚(おぼ)えたのか、仕舞(しまい)いにはそう訊(き)いてきた。
朋也(ともや)(笑(わら)いを堪(こた)えてただけなんだけどな…)
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「今(いま)、このまま死(し)にたいって思(おも)った」
誠意(せいい)を持(も)ってそう答(こた)えた。
渚(なぎさ)「そんなこと思(おも)ったらダメです」
朋也(ともや)「それぐらいうれしかったってこと」
渚(なぎさ)「そんなにうれしかったですか」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「あんなのだったら、いくらでもします」
朋也(ともや)「じゃ、もう一回(いっかい)」
渚(なぎさ)「え…」
少(すこ)し引(ひ)く。
朋也(ともや)「冗談(じょうだん)だよ」
渚(なぎさ)「い、いえ…します」
渚(なぎさ)「んっ…」
慌(あわ)てたように勢(いきお)いよく、唇(くちびる)を重(かさ)ねていた。
今度(こんど)は、最初(さいしょ)からいい角度(かくど)で、深(ふか)く合(あ)わさっていた。
渚(なぎさ)は仕事(しごと)で疲(つか)れていたのか、消灯(しょうとう)して間(ま)もなく寝息(ねいき)を立(た)て始(はじ)めた。
俺(おれ)はひとり眠(ねむ)れず、天井(てんじょう)をじっと見上(みあ)げていた。
朋也(ともや)「………」
さっきまでの楽(たの)しい感情(かんじょう)は、もう消(き)え去(さ)っていた。
朋也(ともや)(こんなにも満(み)たされているのに…俺(おれ)は何(なに)を不安(ふあん)に思(おも)っているのだろう…)
それは…わかっていた。
オッサンと見(み)た、あの光景(こうけい)だった。
角(かど)を折(お)れてその先(さき)に広(ひろ)がった景色(けしき)。
一瞬(いっしゅん)何(なに)か、抗(あらが)いようのない力(ちから)のようなものを感(かん)じて、俺(おれ)は足(あし)を止(と)めてしまっていた。
同時(どうじ)に、思(おも)い出(で)に変(か)わってしまった景色(けしき)が…
立入禁止(たちいりきんし)の看板(かんばん)があって…
その向(む)こうには草(くさ)が生(お)い茂(しげ)った空(あ)き地(ち)があって…
歩道(ほどう)には自転車(じてんしゃ)で通行(つうこう)するとパンクしそうな溝(みぞ)があって…
そこを前輪(ぜんりん)を浮(う)かせて、渡(わた)る幼(おさな)い日(ひ)の俺(おれ)がいた景色(けしき)が…
もう取(と)り戻(もど)せないものだと知(し)って。
自分(じぶん)の仕事(しごと)こそ、町(まち)の形(かたち)を変(か)えていくことなのに…。
芳野(よしの)さんは、いつか…『それが人(ひと)が生(い)きていくということだ』、と言(い)っていた。
変(か)わらなければ生(い)きていけないのだろうか。
そして、なにもかもが変(か)わってしまっても…
「それでも、この場所(ばしょ)が好(す)きでいられますか」
…いられるだろうか。
俺(おれ)は…。
芳野(よしの)「これ、見(み)たか?」
朋也(ともや)「は?」
朝一番(あさいちばん)で、芳野(よしの)さんは俺(おれ)に新聞(しんぶん)を見(み)せた。
芳野(よしの)「幹線道路(かんせんどうろ)だ。用地買収(ようちばいしゅう)で詰(つ)まって、かなり遅(おく)れたらしいが」
芳野(よしの)「ようやく基礎工事(きそこうじ)が来期(らいき)から始(はじ)まるって話(はなし)だ」
新聞(しんぶん)の地方欄(ちほうらん)だったが、山側(やまがわ)を大(おお)きく通(とお)り抜(ぬ)ける形(かたち)の道路(どうろ)が着工(ちゃっこう)するとの記事(きじ)が大(おお)きく書(か)かれていた。
朋也(ともや)「工期(こうき)はどれくらいなんすか?」
芳野(よしの)「再来年(さらいねん)の春(はる)開通(かいつう)予定(よてい)だ。まだまだ先(さき)の長(なが)い話(はなし)だ」
朋也(ともや)「…そうなんすか」
芳野(よしの)「元請(もとうけ)も絡(から)んでるから、うちにもいくつか仕事(しごと)が来(く)るだろ。忙(いそが)しくなるぞ」
そう言(い)って芳野(よしの)さんは新聞(しんぶん)を畳(たたみ)み、仕事(しごと)の準備(じゅんび)を始(はじ)めた。
俺(おれ)はもう一度(いちど)新聞(しんぶん)を広(ひろ)げた。
新聞(しんぶん)に載(の)っていた地図(ちず)には、見知(みし)った地名(ちめい)がいくつも書(か)かれていた。
そこに道路(どうろ)が通(とお)ると、風景(ふうけい)は様変(さまが)わりするのだろうか。
変(か)えていくことに俺(おれ)も参加(さんか)するのだろうか。
だが、その未来図(みらいず)は想像(そうぞう)つかなかった。
渚(なぎさ)「今日(きょう)、聞(き)いた話(はなし)なんですが」
朋也(ともや)「うん」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)に、また新(あたら)しい校舎(こうしゃ)が建(た)つそうです」
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)「仁科(にしな)さんから聞(き)きました。今月(こんげつ)から工事(こうじ)が始(はじ)まってるらしいです」
朋也(ともや)「じゃ、古(ふる)くなった校舎(こうしゃ)はどうなんだよ」
渚(なぎさ)「旧校舎(きゅうこうしゃ)は取(と)り壊(こわ)しになるそうです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「二年後(にねんご)以降(いこう)に入学(にゅうがく)した生徒(せいと)さんは、ぴかぴかの教室(きょうしつ)で勉強(べんきょう)できます」
渚(なぎさ)「とてもいいです」
朋也(ともや)「いいわけあるかっ!」
がちゃん!
俺(おれ)は茶碗(ちゃわん)を持(も)った手(て)で、机(つくえ)を叩(たた)いていた。
渚(なぎさ)「え…」
唖然(あぜん)とする渚(なぎさ)。
朋也(ともや)「あ…悪(わる)い…」
渚(なぎさ)「いえ…」
渚(なぎさ)「…どうして怒(おこ)ったか、教(おし)えてほしいです」
朋也(ともや)「いや、怒(おこ)ったんじゃない…」
朋也(ともや)「動揺(どうよう)したんだ…」
渚(なぎさ)「何(なに)にですか」
朋也(ともや)「旧校舎(きゅうこうしゃ)はさ…演劇部(えんげきぶ)の部室(ぶしつ)があってさ…」
朋也(ともや)「一緒(いっしょ)に頑張(がんば)って…おまえのことを好(す)きになった思(おも)い出(で)の場所(ばしょ)なんだ…」
違(ちが)う、そんなの象徴(しょうちょう)のひとつでしかないんだ。
でも、今(いま)の俺(おれ)にはそんなふうにしか説明(せつめい)できなかった。
渚(なぎさ)「はい、そうです。わたしも同(おな)じです。朋也(ともや)くんのことを好(す)きになった大切(たいせつ)な場所(ばしょ)です」
朋也(ともや)「だったらさ…羨(うらや)ましいみたいなこと言(い)うなよ」
渚(なぎさ)「はい…?」
朋也(ともや)「学校(がっこう)が新(あたら)しくなってさ、変(か)わっていくのにさ…」
渚(なぎさ)「あ…はい、わかりました、朋也(ともや)くんの気持(きも)ち」
渚(なぎさ)「わたし、浅(あさ)はかだったです。そうです…とっても悲(かな)しいことでした…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に、ごめんなさいでした」
朋也(ともや)「いや、そんな…真(ま)っ正直(しょうじき)に謝(あやま)られても…」
渚(なぎさ)「いえ…」
朋也(ともや)「………」
…気(き)まずくなってしまった。
朋也(ともや)「俺(おれ)さ…きっと疲(つか)れてるんだよ」
朋也(ともや)「神経質(しんけいしつ)になりすぎてる…」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「ああ、きっとそうだよ」
朋也(ともや)「なんか、叱(しか)ったみたいで悪(わる)かったよ」
渚(なぎさ)「いえ…ぜんぜん気(き)にしてないです」
渚(なぎさ)「わたしのほうが、本当(ほんとう)、考(かんが)えが足(た)りなくて…」
お互(たが)い、いつまでも謝(あやま)ってそうだった。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「ごめん、飯(めし)、冷(さ)めちまったな…」
渚(なぎさ)「いえ…」
朋也(ともや)「でも、冷(さ)めてもおいしいから、渚(なぎさ)の作(つく)る飯(めし)はさ」
朋也(ともや)「だから、俺(おれ)は気(き)にしないよ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
胸(むね)が痛(いた)い。
この痛(いた)みはなんだろうか…。
朋也(ともや)(………)
俺以外(おれいがい)のものが、変(か)わっていく。
そんな気(き)がした。
俺(おれ)の愛(あい)したものはすべて思(おも)い出(だ)となり、まったく見(み)たこともない新(あたら)しい世界(せかい)が出来上(できあ)がっていく。
何(なに)もかも、変(か)わらずにはいられず…何(なに)もかもが、変(か)わり続(つづ)けていく。
そしてそこには…渚(なぎさ)も含(ふく)まれているのだ。
渚(なぎさ)さえも、変化(へんか)の流(なが)れの中(なか)に取(と)り込(こ)まれ、俺(おれ)から遠(とお)ざかっていく。
胸(むね)の痛(いた)みはその悲(かな)しみを予感(よかん)してのものだった。
こんなすぐ近(ちか)くにいるのに、少(すこ)しずつ遠(とお)くなっていく。
だから俺(おれ)は渚(なぎさ)を強(つよ)く抱(だ)きしめた。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
そんな俺(おれ)に渚(なぎさ)は優(やさ)しく声(こえ)をかけてくれる。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、本当(ほんとう)に渚(なぎさ)が大好(だいす)きだから…」
渚(なぎさ)「はい、わたしも朋也(ともや)くんのこと大好(だいす)きです」
朋也(ともや)「………」
その先(さき)が言(い)えなかった。
ずっとそばに居(い)てくれ、と。
言葉(ことば)にすれば、その思(おも)いは波(なみ)にさらわれる。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
こっちを向(む)いた渚(なぎさ)…その口(くち)に唇(くちびる)を重(かさ)ねた。
渚(なぎさ)を繋(つな)ぎ止(と)めるために。
指(ゆび)で渚(なぎさ)の顎(あご)を引(ひ)いて、口(くち)を開(ひら)かせた。
奥深(おくぶか)くまで、繋(つな)がりを求(もと)めた。
渚(なぎさ)「ん…」
初(はじ)めてお互(たが)いの粘膜(ねんまく)を擦(す)り合(あ)わせる。
夢(ゆめ)のように虚(うつ)ろで、泣(な)けるほどにせつなかった。
2年前(ねんまえ)、俺(おれ)は坂(さか)の下(した)に立(た)ちつくしてた。
どこにもいけない自分(じぶん)に、苛立(いらだ)ちを覚(おぼ)えていた。
抜(ぬ)け出(だ)すことのできない町(まち)が嫌(きら)いだった。
何(なに)もかもが嫌(いや)で…すべてが、変(か)わることを望(のぞ)んでいた。
時間(じかん)は流(なが)れて、俺(おれ)は大切(たいせつ)なものを見(み)つけた。
そして、俺(おれ)はそれを失(うしな)うことを恐(おそ)れている。
俺(おれ)は、あんなにも変(か)わることを望(のぞ)んでいたのに…
いつからか、変(か)わらないことを望(のぞ)むようになっていた。
変(か)わらないでほしい…何(なに)もかも。
変(か)わってしまったら、俺(おれ)は笑(わら)えないから。
もう、この場所(ばしょ)が好(す)きでいられないから…。
声(こえ)「朋也(ともや)くん…朝(あさ)です」
声(こえ)「そろそろ起(お)きないと、遅(おく)れてしまいます」
耳元(みみもと)で声(こえ)…。
ゆっくりと目(め)を開(あ)ける。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、起(お)きましょう」
朋也(ともや)「ああ…」
居(い)てくれた…渚(なぎさ)。
その手(て)を掴(つか)む。
強(つよ)く握(にぎ)る。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
渚(なぎさ)「悪(わる)い夢(ゆめ)でも見(み)てしまいましたか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おはよ」
渚(なぎさ)「はい、おはようございます」
こんな温(あたた)かな日々(ひび)を。
どうか、いつまでも、俺(おれ)にください。
また、忙(いそが)しい日常(にちじょう)の中(なか)に、俺(おれ)たちは身(み)を置(お)く。
週末(しゅうまつ)になると、俺(おれ)たちは頑張(がんば)った自分(じぶん)たちへのご褒美(ほうび)のように遊(あそ)んで過(す)ごした。
日曜(にちよう)には、ふたりで渚(なぎさ)の実家(じっか)へと顔(かお)を出(だ)した。
人(ひと)と人(ひと)の中(なか)での暮(く)らし。
それがいつしか、また俺(おれ)の心(こころ)を落(お)ち着(つ)けていく。
気(き)づけば、また夏(なつ)がやってきていた。
その日(ひ)、オッサンは会(あ)うなりにやける顔(かお)を抑(おさ)えて、俺(おれ)にこう耳打(みみう)ちした。
秋生(あきお)「例(れい)のアレ、できてるぜ」
渚(なぎさ)「また内緒話(ないしょばなし)ですか」
秋生(あきお)「いんや、なんにも」
秋生(あきお)「ほら、早苗(さなえ)に会(あ)ってこいよ」
渚(なぎさ)「はい。では、朋也(ともや)くんいきましょう」
ぐい、とオッサンに腕(うで)を掴(つか)まれる。
朋也(ともや)「あ…俺(おれ)さ、後(あと)でいく」
渚(なぎさ)「え?
どうかしましたか」
朋也(ともや)「おまえ、ほら、早苗(さなえ)さんに相談(そうだん)したいことあるって言(い)ってたじゃん」
それは本当(ほんとう)のことだ。昨日(きのう)の晩(ばん)から、そう言(い)っていた。
渚(なぎさ)「そうですか。わかりました。後(あと)でもよかったんですけど、それでは先(さき)にしてきます」
そう言(い)って、家(いえ)の中(なか)に入(はい)っていった。
秋生(あきお)「てめぇの嫁(よめ)は単純(たんじゅん)だなぁ」
朋也(ともや)「あんたの教育(きょういく)のせいなんだけどさ」
秋生(あきお)「じゃあ、例(れい)のアレ、見(み)せてやるぜ」
懐(ふところ)から取(と)り出(だ)すは、四角(しかく)い封筒(ふうとう)。
秋生(あきお)「見(み)るか?
見(み)てぇか?
見(み)るよな?
見(み)ましょうか?
見(み)て、みましょうか?」
朋也(ともや)「いいから、早(はや)く見(み)せろよ…」
秋生(あきお)「ははは、そう急(せ)くなって」
秋生(あきお)「ほらよ…」
開封(かいふう)し、中(なか)から、数枚(すうまい)の写真(しゃしん)を取(と)り出(だ)す。
そこには、ウェトレス姿(すがた)の渚(なぎさ)が、まばゆいばかりに写(うつ)っていた。
それらは、あの後(あと)、再(ふたた)びファミレスを訪(おとず)れて、撮影(さつえい)したものだった。
秋生(あきお)「これなんて、すんげぇアングルだろ?」
朋也(ともや)「あんた、床(ゆか)に寝転(ねころ)んで撮(と)ってたもんな。周(まわ)りにいた客(きゃく)が引(ひ)いてたぞ」
秋生(あきお)「見(み)ろ、こいつは最高(さいこう)だぜ…」
秋生(あきお)「前(まえ)に屈(かが)んだ瞬間(しゅんかん)を逃(のが)さず、激写(げきしゃ)したものだ」
俺(おれ)は目(め)を見張(みは)る。
下向(したむ)きになると、渚(なぎさ)の胸(むね)ってこんなに大(おお)きく見(み)えるのか…。
しかも、すべすべの肌(はだ)が、谷間(たにま)から膨(ふく)らみまで、直(じか)に見(み)える…。
朋也(ともや)「あのさ…これ…」
秋生(あきお)「なんだよ、欲(ほ)しいのか…?」
朋也(ともや)「焼(や)き増(ま)しってのが協力(きょうりょく)する条件(じょうけん)だったろ?」
秋生(あきお)「けどてめぇ、一向(いっこう)に渚(なぎさ)呼(よ)ばねぇし、引(ひ)き留(と)めねぇしよ、ある意味(いみ)、これらは俺(おれ)ひとりの力(ちから)によるものだぞ」
朋也(ともや)「意味(いみ)もなく呼(よ)べねぇし、仕事(しごと)の邪魔(じゃま)はできないだろ」
秋生(あきお)「ああ。だからこれは、床(ゆか)を這(は)い、時(とき)には窓枠(まどわく)に登(のぼ)り、アクロバティックに撮影(さつえい)をこなした、俺様(おれさま)ひとりのものだ」
朋也(ともや)「あのさ…オッサン」
秋生(あきお)「なんだよ…」
朋也(ともや)「く……」
朋也(ともや)「…ください」
頼(たの)み込(こ)んでしまっている俺(おれ)がいた!
秋生(あきお)「ふん…まぁ、てめぇも大変(たいへん)みたいだしな…」
朋也(ともや)「大変(たいへん)って何(なに)が」
秋生(あきお)「どうせ、まだ手(て)ぇ出(だ)せてねぇんだろ?」
秋生(あきお)「わかってるよ、てめぇは、ったく、仕方(しかた)のねぇ奴(やつ)だなぁ…」
秋生(あきお)「ほら、やるよ」
写真(しゃしん)を握(にぎ)らせられる。
その時(とき)。
どたどた。
廊下(ろうか)を誰(だれ)かが慌(あわ)てて走(はし)っていった。
秋生(あきお)「んあ…?」
その後(あと)、早苗(さなえ)さんの、大丈夫(だいじょうぶ)?という心配(しんぱい)した声(こえ)。
俺(おれ)は嫌(いや)な予感(よかん)がして、廊下(ろうか)に急(いそ)ぐ。
洗面所(せんめんじょ)の中(なか)にふたりはいた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、どうした」
渚(なぎさ)は、洗面台(せんめんだい)に手(て)をついて、うつむいていた。
早苗(さなえ)「急(きゅう)に気分(きぶん)が悪(わる)くなったみたいです」
その背中(せなか)から手(て)を離(はな)して、早苗(さなえ)さんがそう答(こた)えた。
秋生(あきお)「お、子供(こども)でもできたか。そりゃめでたい」
後(うし)ろから呑気(のんき)なオッサンの声(こえ)。
朋也(ともや)「そんな気分(きぶん)が悪(わる)くなったぐらいで、安易(あんい)…」
俺(おれ)はそこで、言葉(ことば)を止(と)めてしまう。
…待(ま)て。思(おも)い返(かえ)せ。
そう、今日(きょう)、渚(なぎさ)は、早苗(さなえ)さんに相談事(そうだんごと)があると言(い)っていた。
それは俺(おれ)には言(い)えない、早苗(さなえ)さんにしか相談(そうだん)できない事(こと)で…
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「まぁ、てめぇにそれぐらいの甲斐性(かいしょ)があれば、とっくにできてるかっ」
早苗(さなえ)「できちゃったようですね」
秋生(あきお)「何(なに)が」
早苗(さなえ)「子供(こども)です」
秋生(あきお)「え?
俺(おれ)の?」
早苗(さなえ)「違(ちが)います。渚(なぎさ)と朋也(ともや)さんのです」
早苗(さなえ)「おめでとうございます」
祝福(しゅくふく)の言葉(ことば)と共(とも)に、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)る早苗(さなえ)さん…。
秋生(あきお)「待(ま)てぇっ、早苗(さなえ)っ!」
オッサンが、それを断(た)ち切(き)る。
秋生(あきお)「こいつと渚(なぎさ)は、エッチすらしてねえのに、子供(こども)なんてできるわけねぇだろっ!」
朋也(ともや)「あ、いや…」
なんつーんだ…かいたこともない汗(あせ)が吹(ふ)き出(だ)してくる…
秋生(あきお)「エッチもせずに、どうしてできるんだよっ!
コウノトリが運(はこ)んでくるとでも言(い)うのかよっ」
秋生(あきお)「なんかの勘違(かんちが)いだぜ!
ったく、人騒(ひとさわ)がせなっ」
渚(なぎさ)「あの、お父(とう)さん…」
そこで渚(なぎさ)が、顔(かお)を上(あ)げて、ゆっくり振(ふ)り返(かえ)る。
秋生(あきお)「なんだよ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「その…」
こいつは言(い)うのか…。
言(い)う…こいつなら、言(い)う…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと…しちゃってます…」
渚(なぎさ)の爆弾発言(ばくだんはつげん)Part3。
俺(おれ)はその場(ば)で石(いし)のように固(かた)まってしまう。
両親(りょうしん)の前(まえ)でそんなことを正直(しょうじき)に言(い)う娘(むすめ)は、こいつ以外(いがい)いない…。
きっと地球上(ちきゅうじょう)でも珍(めずら)しい生(い)き物(もの)なんだ…。渚(なぎさ)ってすげ~。
早苗(さなえ)「生理(せいり)も止(と)まってますので、間違(まちが)いないと思(おも)いますよ」
秋生(あきお)「くあ…」
秋生(あきお)「て、てめぇ…」
オッサンが顔色(かおいろ)を変(か)えていく。
秋生(あきお)「め…」
秋生(あきお)「めでてぇじゃねぇかよ…」
震(ふる)える声(こえ)で祝(いわ)ってくれた…。
その後(しり)、隣町(となりまち)の病院(びょういん)まで出向(しゅっこう)いて検査(けんさ)を受(う)けた。
結果(けっか)は、予想通(よそうどお)りのものだった。
渚(なぎさ)「二(に)ヶ月(げつ)です」
秋生(あきお)「そうかよ…」
秋生(あきお)「で…産(う)むんだよな…」
渚(なぎさ)「もちろんです」
その答(こた)えは聞(き)かずともわかっていた。
渚(なぎさ)が、堕胎(だたい)などするはずがない。
そんな、命(いのち)を消(け)し去(さ)るようなことをするはずがない。
秋生(あきお)「大変(たいへん)だぞ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が守(まも)る」
強(つよ)く、そう告(つ)げていた。
渚(なぎさ)「そうです。朋也(ともや)くんがいてくれるので、安心(あんしん)です」
渚(なぎさ)「今日(きょう)までも、ふたりでがんばってきました」
早苗(さなえ)「あの日(ひ)の、秋生(あきお)さんとそっくりですね」
秋生(あきお)「あん…?」
早苗(さなえ)「わたしたちが渚(なぎさ)をもうけた時(とき)も、秋生(あきお)さん、俺(おれ)が守(まも)るって、そう言(い)ってくれましたよ」
秋生(あきお)「そうか…そうだったな…」
でも渚(なぎさ)は早苗(さなえ)さんより、体(からだ)が弱(よわ)い。そういうことを心配(しんぱい)しているのだろう。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとの子供(こども)です。ぜったい産(う)みます」
秋生(あきお)「ちっ…」
秋生(あきお)「頑張(がんば)れよ、この甲斐性(かいしょ)なしっ」
最後(さいご)には、そう言(い)って、俺(おれ)の胸(むね)を突(つ)き飛(と)ばすように叩(たた)いた。
並(なら)んで、帰路(きろ)を辿(たど)る。
もう何度(なんど)もそうしてふたりで歩(ある)いてきた道(みち)だ。
でも、今(いま)は何(なに)かが違(ちが)う。
新鮮(しんせん)すぎる。何(なに)もかもが、新(あたら)しく生(う)まれ変(か)わったような、そんな感覚(かんかく)の中(なか)にいる。
渚(なぎさ)「…えへへ」
渚(なぎさ)が意味(いみ)もなく笑(わら)った。幸(しあわ)せそうに。
そう…俺(おれ)たちに子供(こども)ができるんだ。
その現実(げんじつ)がすべてを新(あたら)しく見(み)せていた。
そして、それは、親(おや)になるということだ。
俺(おれ)たちが親(おや)か…。
滑稽(こっけい)すぎて、未来(みらい)は想像(そうぞう)もつかない。
あれは、いつだったろうか。
渚(なぎさ)「だから朋也(ともや)くんも、子供(こども)できたら、とても優(やさ)しくしてしまいます」
渚(なぎさ)「とてもいいお父(とう)さんです」
朋也(ともや)「そうかねぇ…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)も、きっと優(やさ)しいお母(かあ)さんになります」
早苗(さなえ)「だから、ふたりの子供(こども)はとても幸(しあわ)せですね」
随分(ずいぶん)昔(むかし)のやり取(と)りに思(おも)えた。
あの学生時代(がくせいじだい)には、まるっきり冗談(じょうだん)にしか聞(き)こえなかったことが、今(いま)、現実(げんじつ)になろうとしているんだ。
それを考(かんが)えると、自然(しぜん)と笑(え)みがこぼれてくる。
ああ、渚(なぎさ)もそうして、さっき笑(わら)ったのか、と思(おも)う。
大変(たいへん)だろう。それはわかっている。
でも、やっぱり幸(しあわ)せなんだ、俺(おれ)たちは。
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seagull - 2009/8/3 13:32:00
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誕生編,0,]


芳野(よしの)「おめでとう」
朋也(ともや)「は?」
芳野(よしの)「子供(こども)だよ、子供(こども)」
事務所(じむしょ)で会(あ)うなり、芳野(よしの)さんはそう話(はな)しかけてきた。
どういうネットワークが形成(けいせい)されているのか…。
自分(じぶん)が言(い)うより先(さき)に芳野(よしの)さんが知(し)っているなんて。
朋也(ともや)「ありがとうございます」
芳野(よしの)「おまえにも子供(こども)か…」
芳野(よしの)「まだまだ仕事人(しごとにん)としては半人前(はんにんまえ)だが、夫(おっと)としてはこれで一人前(いちにんまえ)にならざるをえないな」
朋也(ともや)「そうっすね…」
朋也(ともや)「でも、まだぜんぜん自覚(じかく)とかなくて…」
芳野(よしの)「産(う)まれてくれば、嫌(いや)でも自覚(じかく)することになるさ」
芳野(よしの)「人(ひと)は誰(だれ)もがひとりきりでは生(い)きていけないということ…」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが誰(だれ)かを支(ささ)えて生(い)きていくこと…」
芳野(よしの)「その始(はじ)まりを岡崎(おかざき)、おまえはその目(め)で…」
朋也(ともや)「遅(おく)れるっすよ」
語(かた)り続(つづ)ける芳野(よしの)さんを残(のこ)し、事務所(じむしょ)を出(で)た。
芳野(よしの)「その始(はじ)まりを岡崎(おかざき)、おまえはその目(め)で見(み)つめていくんだ」
車(くるま)を走(はし)らせながらも、話(はなし)は延々(えんえん)と続(つづ)いた…。
朋也(ともや)「今日(きょう)、検診(けんしん)だったよな?」
渚(なぎさ)「そうです」
朋也(ともや)「…やっぱりついていってやろうか?」
渚(なぎさ)「平気(へいき)です」
渚(なぎさ)「妊娠(にんしん)は病気(びょうき)じゃないです」
朋也(ともや)「でも、最近(さいきん)朝起(あさお)きられないだろ。気持(きも)ち悪(わる)くってさ」
朋也(ともや)「ちゃんとご飯(はん)食(た)べてるか?」
渚(なぎさ)「つわりは今(いま)だけですから、ちょっとずつ食(た)べればそんなに気持(きも)ち悪(わる)くないです」
朋也(ともや)「まあ、仕事(しごと)だからなぁ、今日(きょう)は…」
渚(なぎさ)「そうです。朋也(ともや)くんは、お仕事(しごと)がんばってください」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「でも隣町(となりまち)まで出(で)ないと、検診(けんしん)できる病院(びょういん)がないなんてなぁ…」
朋也(ともや)「何(なに)かあったら、ちゃんと早苗(さなえ)さんに連絡(れんらく)するんだぞ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、いってくる」
渚(なぎさ)「いってらっしゃいです」
朋也(ともや)「ただいま」
朋也(ともや)「検診(けんしん)、どうだった」
帰(かえ)ってくると、夕飯(ゆうはん)の支度中(したくちゅう)の渚(なぎさ)に真(ま)っ先(さき)に訊(き)く。
渚(なぎさ)「あ、はい。ええと…」
渚(なぎさ)「問診(もんしん)を受(う)けたり、血圧(けつあつ)を計(はか)ったり、後(あと)はちゃんと妊娠(にんしん)してるかどうかの検査(けんさ)とかしました」
朋也(ともや)「それで…?」
渚(なぎさ)「それで、ですね…」
渚(なぎさ)「エコーって言(い)う機械(きかい)で、なんとお腹(はら)の中(なか)の赤(あか)ちゃん、見(み)てきました」
朋也(ともや)「えっ!
もう見(み)れるのかっ!?」
渚(なぎさ)「はい。でも、まだ卵(たまご)みたいな感(かん)じです」
渚(なぎさ)「これから一年(いちねん)近(ちか)くかけて、どんどん大(おお)きくなるんだそうです」
渚(なぎさ)「婦人病(ふじんびょう)とかのトラブルもなくて、これなら元気(げんき)な赤(あか)ちゃんが産(う)めますよって言(い)ってもらえました」
朋也(ともや)「そっか…」
元気(げんき)な赤(あか)ちゃんが産(う)めます…
医者(いしゃ)が言(い)うんだから、間違(まちが)いないんだろう。
俺(おれ)はほっと、胸(むね)をなで下(お)ろす。
渚(なぎさ)「でも、ちょっとびっくりしました…」
朋也(ともや)「何(なに)が?」
渚(なぎさ)「あ…いえ」
渚(なぎさ)「…なんでもないです」
朋也(ともや)「なんだよ、気(き)になるじゃないか。言(い)えよ」
渚(なぎさ)「いえ、男(おとこ)の人(ひと)には言(い)うことではなかったです…」
朋也(ともや)「なんで隠(かく)すんだよ、俺(おれ)たちの子供(こども)だろ?」
朋也(ともや)「それとも何(なに)か、おまえひとりで産(う)もうってのか?」
朋也(ともや)「違(ちが)うだろ、出産(しゅっさん)は共同作業(きょうどうさぎょう)だ。早苗(さなえ)さんもそう言(い)ってた」
朋也(ともや)「ほら、包(つつ)み隠(かく)さず、話(はな)せ」
渚(なぎさ)「…あ、はい…」
渚(なぎさ)「ではっ…」
渚(なぎさ)「…格好(かっこう)が恥(は)ずかしかったんです」
朋也(ともや)「は?」
渚(なぎさ)「内診台(ないしんだい)って見(み)たことありますか」
朋也(ともや)「ない」
渚(なぎさ)「スカートと下着(したぎ)、全部(ぜんぶ)脱(ぬ)いで、足(あし)を広(ひろ)げられるんです…」
渚(なぎさ)「とっても恥(は)ずかしかったです…」
朋也(ともや)「…どれぐらい」
渚(なぎさ)「そんなことも言(い)わないとダメですかっ」
朋也(ともや)「いや、いいけどさ…」
渚(なぎさ)「でも、言(い)わないとダメな気(き)がしてきましたっ」
朋也(ともや)「どっちだよ…」
渚(なぎさ)「そういうのは…内緒(ないしょ)にしておくのはよくないとっ…思(おも)いました…」
渚(なぎさ)「とりあえず…」
朋也(ともや)「とりあえず?」
渚(なぎさ)「そのっ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれましたっ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれました…
……朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれました……
…………朋也(ともや)くんより、開(ひら)かれました…………
背筋(せすじ)に寒気(かんき)を感(かん)じて、俺(おれ)はバッと後(うし)ろを振(ふ)り返(かえ)る。
…誰(だれ)もいない。
いるわけない…。
朋也(ともや)「それは、オッサンや早苗(さなえ)さんには言(い)わないように」
渚(なぎさ)「もちろん言(い)うわけないですっ」
いや、あんたすごく言(い)いそうだから。
秋生(あきお)「てめぇも同(おな)じ目(め)に遭(あ)え」
朋也(ともや)「う、うわっ」
がばっ。
秋生(あきお)「はーはっはっはっ!
おい、早苗(さなえ)もこの恥(は)ずかしい格好(かっこう)、見(み)てやれよっ!」
…早苗(さなえ)さん!?
朋也(ともや)「み、見(み)ないでくださいぃぃーっ!」
ちらっ。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん…」
朋也(ともや)「は、はい…」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんの1/2ですねっ」
朋也(ともや)「うわああぁーーっ!」
がばっ!
…夢(ゆめ)だった。
渚(なぎさ)「ん…」
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)まで起(お)き出(だ)してしまう。
渚(なぎさ)「悪(わる)い夢(ゆめ)、見(み)ましたか」
俺(おれ)のあの人(ひと)に対(たい)する劣等感(れっとうかん)は、ハーフスケールなのか…。
渚(なぎさ)「……?」
朋也(ともや)「起(お)こして悪(わる)い…」
届(とど)いたんだから、いいじゃん…なんて思(おも)いつつ、寝直(ねなお)す。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「…ごめんなさいです。ちょっと起(お)きれそうもありません」
朋也(ともや)「いいって、こっちでやるから」
日(ひ)を追(お)うごとに、渚(なぎさ)のつわりがひどくなっていく。
今朝(けさ)は起(お)きられなくなっていた。
朋也(ともや)「だいぶマシみたいだな」
渚(なぎさ)「はい、心配(しんぱい)かけてごめんなさいです」
朋也(ともや)「謝(あやま)るなっての。全部(ぜんぶ)共同作業(きょうどうさぎょう)」
渚(なぎさ)「あ、はい」
朋也(ともや)「それよりちゃんと食(た)べたか?」
渚(なぎさ)「…あまり食(た)べられませんでした」
渚(なぎさ)「昼(ひる)には楽(らく)になったので、ちょっとだけ食(た)べました」
朋也(ともや)「何(なに)か治(なお)す方法(ほうほう)とかないのかな」
渚(なぎさ)「ないそうです」
渚(なぎさ)「つわりは、何(なん)で起(お)きるかもよくわかってないそうでして…」
渚(なぎさ)は冷凍庫(れいとうこ)から、氷(こおり)を取(と)り出(だ)すと、それを口(くち)に含(ふく)んだ。
朋也(ともや)「氷(こおり)?」
渚(なぎさ)「水物(みずもの)を飲(の)んでも気持(きも)ちが悪(わる)くなるんです」
渚(なぎさ)「なので、こうやって氷(こおり)を口(くち)に含(ふく)んで、溶(と)かしながら飲(の)んでるんです」
朋也(ともや)「水(みず)も飲(の)めないのか…」
そんな体調(たいちょう)なんて、想像(そうぞう)もつかない…。
風邪(かぜ)で寝込(ねこ)んでいたって、水分(すいぶん)はごくごく飲(の)める。
女性(じょせい)って大変(たいへん)だ…。
頑張(がんば)れとしか言(い)いようがない…。
朋也(ともや)「すっぱいものは?」
朋也(ともや)「そういうの食(た)べたくなるって言(い)うじゃん」
渚(なぎさ)「柑橘系(かんきつけい)とか食(た)べると、ひどくなるんです」
渚(なぎさ)「個人差(こじんさ)が大(おお)きくて、人(にん)それぞれってお医者(いしゃ)さんは言(い)ってました」
俺(おれ)も自分(じぶん)で調(しら)べてみた。
どうやらちゃんと食(た)べるのが一番(いちばん)の薬(くすり)になるらしい。
常(つね)にお腹(なか)を空(す)かさないようにして、少(すこ)しずつ食(た)べるそうだ。
朝(あさ)が一番(いちばん)ひどくなるのも、寝(ね)ている時(とき)は何(なに)も食(た)べないからだ。
俺(おれ)は夜(よる)、おにぎりを作(つく)った。
喉(のど)が渇(かわ)かないように塩(しお)は控(ひか)えめにして。
ご飯(はん)の匂(にお)いをなくすように、ちょっとだけふりかけを入(い)れて。
一口(ひとくち)で食(た)べられるような小(ちい)さめのをいくつも。
深夜二時(しんやにじ)。
ぴぴぴぴぴぴ……。
朋也(ともや)「…時間(じかん)か」
電気(でんき)をつける。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「…はい…どうしたんですか?
こんな時間(じかん)に」
朋也(ともや)「気分(きぶん)とか悪(わる)くないか?」
渚(なぎさ)「今(いま)は平気(へいき)です」
朋也(ともや)「よかった。これ、一(ひと)つでも食(た)べれるか?」
おにぎりを載(の)せた皿(さら)を差(さ)し出(だ)す。
渚(なぎさ)「どうしたんですか、これ?」
朋也(ともや)「夜中(よなか)に少(すこ)しでも食(た)べるといいって読(よ)んだからさ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが作(つく)ったんですか?」
朋也(ともや)「ちょっと不格好(ぶかっこう)だけどな」
よく見(み)ると、形(かたち)が不揃(ふぞろ)いで見栄(みば)えは悪(わる)い。
海苔(のり)も適当(てきとう)に付(つ)けただけで、ふりかけにもむらがあった。
渚(なぎさ)「…ありがとうです」
渚(なぎさ)「いただきます」
朋也(ともや)「無理(むり)して食(た)べることはないんだぞ」
朋也(ともや)「気分(きぶん)が悪(わる)かったら、時間(じかん)をずらしてもいいんだから」
渚(なぎさ)は小(ちい)さめのを一(ひと)つ手(て)にとって、口(くち)へ入(い)れた。
ちょうどよい具合(ぐあい)に一口(ひとくち)で収(おさ)まったようだ。
渚(なぎさ)「おいしいです」
朋也(ともや)「食(た)べられるだけ食(た)べたらいいからな」
朋也(ともや)「無理(むり)せず遠慮(えんりょ)もせずな」
渚(なぎさ)は小(ちい)さいのを三(みっ)つ食(た)べることが出来(でき)た。
全(まった)くと言(い)ってよいほど食(た)べられなかったのだから上出来(じょうでき)なのだろう。
午前四時(ごぜんよじ)にもう一回(いっかい)起(お)きて、今度(こんど)は一緒(いっしょ)に食(た)べた。
味(あじ)の薄(うす)い素(そ)っ気(け)ないお握(にぎ)りだった。
それでも渚(なぎさ)は今度(こんど)は五(いつ)つ食(た)べた。
渚(なぎさ)「おいしかったです…えへへ」
渚(なぎさ)はそう言(い)って笑(わら)ってくれた。
久(ひさ)しぶりにその笑顔(えがお)を見(み)たような気(き)がした。
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「聞(き)いてるのか、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「………」
芳野(よしの)「寝(ね)てるのか…」
芳野(よしの)「まぁ、休憩時間(きゅうけいじかん)ぐらい寝(ね)かせといてやるか…」
芳野(よしの)「頑張(がんば)ってるみたいだしな」
………。
鼻歌(はなうた)が聞(き)こえてくる。
それはすごく…心地(ここち)よいメロディだった。
そうした、つわりとの戦(たたか)いもようやく終(お)わりの時(とき)を迎(むか)える。
朋也(ともや)「おはよう」
渚(なぎさ)「おはようございます」
朋也(ともや)「起(お)きて大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「平気(へいき)です」
渚(なぎさ)「今朝(けさ)はとっても調子(ちょうし)がいいです」
10~11週(しゅう)め、本(ほん)で読(よ)んだ通(とお)りだった。
朋也(ともや)「自宅出産(じたくしゅっさん)?」
渚(なぎさ)の口(くち)から、その言葉(ことば)がでてきたのは夕食(ゆうしょく)の席(せき)でだった。
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)「自宅出産(じたくしゅっさん)…」
考(かんが)える。
朋也(ともや)「え?
ここで産(う)むってこと?」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「つまり、病院(びょういん)では産(う)まないってこと?」
渚(なぎさ)「はい」
当然(とうぜん)だ。アホか俺(おれ)は…。
渚(なぎさ)「今日(きょう)、病院(びょういん)で母親教室(ははおやきょうしつ)の案内(あんない)を見(み)たんです」
渚(なぎさ)「そこに自宅出産(じたくしゅっさん)をされた母親(ははおや)さんの手記(しゅき)が載(の)ってたんです」
渚(なぎさ)「旦那(だんな)さんと、お父(とう)さんとお母(かあ)さんに囲(かこ)まれて、必死(ひっし)でがんばって」
渚(なぎさ)「先(さき)に生(う)まれていたおにいちゃんもお母(かあ)さんを励(はげ)まして」
渚(なぎさ)「みんな、ずっと手(て)を握(にぎ)りしめてくれてたって書(か)いてありました」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の部屋(へや)で、産(う)まれてきた赤(あか)ちゃんを新(あたら)しいお父(とう)さんが産湯(うぶゆ)につけて」
渚(なぎさ)「ずっとお腹(なか)にいた赤(あか)ちゃんをその場(ば)で抱(だ)きしめてあげられるそうです」
渚(なぎさ)「病院(びょういん)だとすぐに抱(だ)いてあげられないこともあるみたいなので、そうできればいいなと思(おも)いました」
朋也(ともや)「そりゃそうだけどなあ…」
何(なに)しろ渚(なぎさ)の身体(しんたい)のこともある。
安請(やすう)け合(あ)いはできない。
渚(なぎさ)「それにこの部屋(へや)は…」
渚(なぎさ)「わたしが、泣(な)かないと誓(ちか)いを立(た)てた場所(ばしょ)で…」
渚(なぎさ)「その誓(ちか)いどおり、今日(きょう)までもがんばってこれた場所(ばしょ)です」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとふたりで」
朋也(ともや)「ああ。そうだな」
朋也(ともや)「わかるよ。おまえの気持(きも)ち」
渚(なぎさ)「それと、やっぱりこの町(まち)で産(う)んであげたいです」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「でもまずはさ…医者(いしゃ)に相談(そうだん)してみよう」
渚(なぎさ)「はい、では早速(さっそく)そうしてみます」
埃(ほこり)で黒(くろ)く汚(よご)れていく手(て)。
その手(て)を見(み)つめた。
昼休(ひるやす)みに、芳野(よしの)さんから言(い)われたことを思(おも)い出(だ)しながら。
芳野(よしの)「自宅出産(じたくしゅっさん)か…」
芳野(よしの)「そいつはいいな」
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)、おまえは自覚(じかく)することになる」
芳野(よしの)「人(ひと)は誰(だれ)もがひとりきりでは生(い)きていけないということ…」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが誰(だれ)かを支(ささ)えて生(い)きていくこと…」
朋也(ともや)「それ前(まえ)に聞(き)きましたから」
芳野(よしの)「最後(さいご)が違(ちが)うんだよ…聞(き)け」
朋也(ともや)「はぁ」
芳野(よしの)「誰(だれ)かが誰(だれ)かを支(ささ)えて生(い)きていくこと…」
芳野(よしの)「その始(はじ)まりを岡崎(おかざき)、おまえは最初(さいしょ)にその手(て)で我(わ)が子(こ)に伝(つた)えてやるんだ」
埃(ほこり)で黒(くろ)く汚(よご)れていく手(て)。
この手(て)で。
渚(なぎさ)「お医者(いしゃ)さんに相談(そうだん)してきました」
朋也(ともや)「ああ、どうだった」
渚(なぎさ)「今(いま)の調子(ちょうし)が続(つづ)けば問題(もんだい)ないだろうって言(い)ってくれました」
渚(なぎさ)「それと、これ、助産院(じょさんいん)のパンフレットです。お医者(いしゃ)さんにいただきました」
朋也(ともや)「そうか」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは…どう思(おも)いますか」
朋也(ともや)「うーん、そうだな…」
朋也(ともや)「医者(いしゃ)が問題(もんだい)ないと言(い)うなら、俺(おれ)は渚(なぎさ)の意志(いし)を尊重(そんちょう)したい」
朋也(ともや)「手(て)を繋(つな)いでいてやりたい」
朋也(ともや)「そして、この手(て)で…最初(さいしょ)に産湯(うぶゆ)につけてやりたい」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「次(つぎ)の休(やす)みには、オッサンや早苗(さなえ)さんにも相談(そうだん)しなきゃな」
秋生(あきお)「自宅出産(じたくしゅっさん)だとおぉぉーーーっ!?」
叫(さけ)びながら、体(からだ)を右(みぎ)に傾(かたむ)ける。
秋生(あきお)「どうだ、今(いま)のドリフト」
朋也(ともや)「ゲームやめません?」
秋生(あきお)「ちっ、わぁったよっ、レコード更新中(こうしんちゅう)だってのに…」
ゲーム機(き)の電源(でんげん)を落(お)とす。
秋生(あきお)「で、なんだよ」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)が自宅出産(じたくしゅっさん)」
秋生(あきお)「自宅出産(じたくしゅっさん)だとおぉぉーーーっ!?」
朋也(ともや)「聞(き)いてなかったんかい」
秋生(あきお)「てめぇな、出産(しゅっさん)だけでも大変(たいへん)だってのに、それをさらに自宅(じたく)でしようってか」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「なんのためにだよ」
秋生(あきお)「金(かね)がねぇのか、それとも罰(ばつ)ゲームか、宗教上(しゅうきょうじょう)の問題(もんだい)か、オモシロ出産(しゅっさん)か」
朋也(ともや)「全部(ぜんぶ)ちがうよ…」
秋生(あきお)「じゃ、なんだってんだよ」
朋也(ともや)「なんていうんだろ…いろいろあるんだよ…」
あんなにも考(かんが)えて決(き)めたことなのに、いざとなると何(なに)も言葉(ことば)にできない…。
朋也(ともや)「俺(おれ)と渚(なぎさ)がそうしたいんだ」
朋也(ともや)「ふたりで考(かんが)えて決(き)めたことなんだ」
早苗(さなえ)「わたしは、賛成(さんせい)です」
秋生(あきお)「あん?」
台所(だいどころ)から早苗(さなえ)さんがお盆(ぼん)を持(も)って現(あらわ)れる。
後(うし)ろには渚(なぎさ)も。
その姿(すがた)を見(み)て、オッサンはタバコの火(ひ)を消(け)す。
早苗(さなえ)「わたしは、隣町(となりまち)の病院(びょういん)でお産(さん)しましたけど…」
早苗(さなえ)「なんていうか、すぐ渚(なぎさ)と引(ひ)き離(はな)されてしまって…」
早苗(さなえ)「病院(びょういん)に任(まか)せっきりというか、自分(じぶん)の力(ちから)で産(う)んだって気(き)がしなくて、少(すこ)し寂(さび)しかったのを覚(おぼ)えてます」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが渚(なぎさ)を抱(だ)いたのも、病院(びょういん)の人(ひと)に抱(だ)かれた後(あと)だったんですよ?」
秋生(あきお)「マジかよっ!
俺(おれ)が初(はじ)めてだと思(おも)ってたぜっ!」
早苗(さなえ)「違(ちが)います」
秋生(あきお)「くそぉーっ…」
秋生(あきお)「でも、舐(な)めたのは俺(おれ)が最初(さいしょ)だぜ」
渚(なぎさ)「そんなことされてたんですかっ」
秋生(あきお)「まぁ、それぐらい可愛(かわい)かったってこった」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)くてもそんなことしたらダメですっ」
秋生(あきお)「はっはっはっ!
もぅおせぇよっ!」
秋生(あきお)「よし、ゲームに戻(もど)るか」
朋也(ともや)「いや、話(はなし)終(お)わってないから」
秋生(あきお)「ん…ああ…じゃあ、こんなのはどうだ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)と俺(おれ)も渚(なぎさ)の隣(となり)に並(なら)んでイキんでるんだ。さて、どっから産(う)まれてくるでしょう?」
朋也(ともや)「いや、オモシロ出産(しゅっさん)のネタなんて考(かんが)えてないからさ…」
渚(なぎさ)「自宅出産(じたくしゅっさん)です」
秋生(あきお)「えぇ?
それオモシロイかぁ?」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、わたしたち、真剣(しんけん)ですっ」
よく言(い)った、嫁(よめ)よ。
秋生(あきお)「あぁ…」
オッサンは机(つくえ)に並(なら)べられたコップを手(て)に取(と)る。
そして酒(さけ)のように一気(いっき)に煽(あお)った後(あと)…
秋生(あきお)「わぁったよ…」
深(ふか)い息(いき)と共(とも)に吐(は)き出(だ)す。
秋生(あきお)「抱(だ)いてやれ、最初(さいしょ)に」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「だがな…」
秋生(あきお)「舐(な)めるのは俺(おれ)が最初(さいしょ)だあぁーーーっ!」
渚(なぎさ)「ダメですっ、舐(な)めるのも朋也(ともや)くんが最初(さいしょ)ですっ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…いや、舐(な)めないけどさ」
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)「そうです…舐(な)めませんっ」
アホアホ親子(おやこ)だ…。
早苗(さなえ)「こちら、八木(やぎ)さん」
八木(やぎ)「八木(やぎ)です。はじめまして」
渚(なぎさ)「岡崎渚(おかざきなぎさ)です。はじめまして。よろしくお願(ねが)いします」
その人(ひと)が今回(こんかい)お世話(せわ)になる助産婦(じょさんぷ)さんだった。
早苗(さなえ)さんの学生時代(がくせいじだい)の同級生(どうきゅうせい)で、今(いま)は隣町(となりまち)でひとりで助産院(じょさんいん)を開業(かいぎょう)しているという。
産婆(さんば)という言葉(ことば)もあるぐらいだったので、お年寄(としよ)りを想像(そうぞう)していたのだけど、早苗(さなえ)さんの同級生(どうきゅうせい)ということで当然(とうぜん)と若(わか)い。
朋也(ともや)(それでも早苗(さなえ)さんのほうが若(わか)く見(み)えるなぁ…)
朋也(ともや)(早苗(さなえ)さんの若(わか)さは神秘的(しんぴてき)だ…)
八木(やぎ)「でしたら、初期検診(しょきけんしん)はもうお済(す)みなんですね?」
ぼ~っとしている間(あいだ)に、話(はなし)が始(はじ)まっていた。
渚(なぎさ)「はい、先々週(せんせんしゅう)に済(す)ませました」
八木(やぎ)「でしたら、これからいくつかご説明(せつめい)させていただきます」
八木(やぎ)「助産婦(じょさんぷ)は、あくまでも補助(ほじょ)の役目(やくめ)なんです」
八木(やぎ)「ですから、医療行為(いりょうこうい)は出来(でき)ません」
八木(やぎ)「定期的(ていきてき)に検診(けんしん)は受(う)けていただくことになります」
八木(やぎ)「機械(きかい)を使(つか)っての検診(けんしん)は、うちの助産院(じょさんいん)まで来(き)ていただくことになりますがそれは大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
渚(なぎさ)「はい」
八木(やぎ)「それで、ここでの出産(しゅっさん)をご希望(きぼう)とのことですが…」
朋也(ともや)「部屋(へや)がこんなに狭(せま)くても大丈夫(だいじょうぶ)ですかねぇ?」
八木(やぎ)「お布団(ふとん)が敷(し)けるだけのスペースがあれば、どこでも大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」
八木(やぎ)「広(ひろ)さは関係(かんけい)ないんです」
八木(やぎ)「それよりは、お母(かあ)さんがリラックスできる環境(かんきょう)が大事(だいじ)なんですね」
八木(やぎ)「妊娠中(にんしんちゅう)には、いろいろな不安(ふあん)や身体的(しんたいてき)影響(えいきょう)が出(で)ます」
八木(やぎ)「それらを和(やわ)らげて、楽(たの)しくお産(さん)をしていただくために私(わたし)たちがいるんです」
八木(やぎ)「まだ三(さん)ヶ月(げつ)ですから、じっくり考(かんが)えていただいて結構(けっこう)ですよ」
助産婦(じょさんぷ)さんが運転席(うんてんせき)から礼(れい)をする。
俺(おれ)たちも頭(あたま)を下(さ)げる。
車(くるま)は細(ほそ)い路地(ろじ)の先(さき)へと消(き)えていった。
ああして隣町(となりまち)から車(くるま)で通(かよ)ってくれるらしい。
渚(なぎさ)も大変(たいへん)だが、助産婦(じょさんぷ)さんも大変(たいへん)だ。
渚(なぎさ)の出産(しゅっさん)のために、みんなでひとつになって頑張(がんば)っているように思(おも)える。
朋也(ともや)(なんだか似(に)ているな…)
ふと思(おも)い出(だ)す。
いつの間(ま)にかたくさんでいた、学生時代(がくせいじだい)の部室(ぶしつ)。
あの日(ひ)のようだった。
その日(ひ)は、助産院(じょさんいん)での検診(けんしん)の日(ひ)。
俺(おれ)は仕事(しごと)を昼(ひる)から休(やす)み、同伴(どうはん)していた。
助産婦(じょさんぷ)「渚(なぎさ)さん、見(み)えますかー?」
診療台(しんりょうだい)で寝(ね)ている渚(なぎさ)のお腹(なか)には、聴診器(ちょうしんき)の親玉(おやだま)みたいなものが当(あ)てられていた。
渚(なぎさ)「はい」
八木(やぎ)「わかりますか?
この動(うご)いてるのが心臓(しんぞう)ですよ」
八木(やぎ)「もう頭(あたま)も大(おお)きくなって、目(め)や鼻(はな)もちゃんと出来(でき)てるんですよ」
八木(やぎ)「お父(とう)さんもちゃんと見(み)てあげてくださいね」
俺(おれ)は食(く)い入(い)るようにして白黒(しろくろ)の画面(がめん)を見(み)つめていた。
粒子(りゅうし)の粗(あら)い画面(がめん)には、確(たし)かに息(いき)づいている小(ちい)さな命(いのち)が映(うつ)し出(だ)されていた。
八木(やぎ)「胎盤(たいばん)も順調(じゅんちょう)に完成(かんせい)しましたから、もう流産(りゅうざん)の心配(しんぱい)もほとんど無(な)いですよ」
八木(やぎ)「赤(あか)ちゃんはこれからすくすくと大(おお)きくなるんです」
八木(やぎ)「一(いっ)ヶ月(げつ)で今(いま)の数倍(すうばい)まで大(おお)きくなるんです」
八木(やぎ)「来月(らいげつ)くらいには胎動(たいどう)も始(はじ)まりますよ」
二人(ふたり)で夕暮(ゆうぐ)れ道(みち)を歩(ある)く。
渚(なぎさ)の身体(しんたい)に障(さわ)らないように、いつもよりゆっくりと。
朋也(ともや)「ちゃんと頑張(がんば)ってるんだな、赤(あか)ちゃん」
朋也(ともや)「見(み)た目(め)、全然(ぜんぜん)変(か)わらないから気(き)づかなかったけど」
渚(なぎさ)「そうです」
渚(なぎさ)「小(ちい)さくても、ちゃんとがんばってるんです」
朋也(ともや)「今(いま)まで、ちゃんとした実感(じっかん)がなかったんだと思(おも)う」
渚(なぎさ)「そうなんですか?」
朋也(ともや)「ほら、渚(なぎさ)はお腹(はら)の中(なか)にいるし、体調(たいちょう)で実感(じっかん)できるだろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)はそういうのがないからさ…」
頭(あたま)だけで知(し)って、身体(しんたい)がついてこないような感(かん)じ。
覚(おぼ)え立(た)ての仕事(しごと)で、うまくできないようなもどかしさが近(ちか)いだろうか。
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です」
渚(なぎさ)はそっと、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)ってくれた。
俺(おれ)も握(にぎ)り返(かえ)した。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんががんばってるのは、わたしが一番(いちばん)知(し)ってます」
渚(なぎさ)「だから赤(あか)ちゃんもよく知(し)ってるはずです」
渚(なぎさ)「わたしと一心同体(いっしんどうたい)なんですから」
朋也(ともや)「そうだな…」
渚(なぎさ)「はいっ」

渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、朋也(ともや)くん、見(み)てください」
朋也(ともや)「何(なん)だ、えらくうれしそうに」
渚(なぎさ)「ほら、これです」
渚(なぎさ)はメモ帳(ちょう)大(だい)の冊子(さっし)を差(さ)し出(だ)した。
朋也(ともや)「…母子健康手帳(ぼしけんこうてちょう)?」
表紙(ひょうし)にはカラフルなイラストが描(か)かれて、割(わり)と丁寧(ていねい)に作(つく)られていた。
渚(なぎさ)「この前(まえ)、検診(けんしん)の時(とき)に母子手帳(ぼしてちょう)を作(つく)ってきてくださいって言(い)われたんです」
渚(なぎさ)「それで役場(やくば)に交付(こうふ)をお願(ねが)いしてたんです」
渚(なぎさ)「今日(きょう)、それが届(とど)いたんです」
朋也(ともや)「へぇ」
渚(なぎさ)は何度(なんど)もめくって確(たし)かめたのだろう。
何(なに)も書(か)かれていないページなのに、もう開(ひら)き癖(くせ)が付(つ)き始(はじ)めていた。
渚(なぎさ)「これから毎日(まいにち)書(か)いていきます」
渚(なぎさ)「赤(あか)ちゃんの記録(きろく)です」
渚(なぎさ)「大(おお)きくなったら、いろんなことがあったよって教(おし)えてあげたいです」
朋也(ともや)「そうだな」
胎動(たいどう)が始(はじ)まったのは、その一(いっ)ヶ月後(げつご)だ。
渚(なぎさ)「あっ」
朋也(ともや)「ん、どうした」
渚(なぎさ)「今(いま)、動(うご)きましたっ」
渚(なぎさ)「赤(あか)ちゃん、動(うご)きました、胎動(たいどう)ですっ」
渚(なぎさ)「母親教室(ははおやきょうしつ)で教(おそ)わったんですけど、その通(とお)りでした」
渚(なぎさ)「勢(いきお)いよく動(うご)いて、お母(かあ)さんのお腹(なか)を蹴(け)ったり一回転(いっかいてん)したりしてるんです」
朋也(ともや)「一回転(いっかいてん)もするのかよ…」
渚(なぎさ)「元気(げんき)に育(そだ)ってる証拠(しょうこ)です」
渚(なぎさ)「赤(あか)ちゃんはお母(かあ)さんにそうやって知(し)らせてるんです」
渚(なぎさ)「ここにいますよ、って」
渚(なぎさ)は目立(めだ)ち始(はじ)めたお腹(なか)を大事(だいじ)そうにさすった。
朋也(ともや)「俺(おれ)も触(さわ)っていいか?」
渚(なぎさ)「はい、どうぞ」
温(あたた)かい渚(なぎさ)のお腹(なか)。
その中(なか)には、もうすでに一回転(いっかいてん)するほどに成長(せいちょう)している命(いのち)。
命(いのち)が形作(かたちづく)られていく過程(かてい)…それを今(いま)ふたりは体感(たいかん)していた。
渚(なぎさ)「名前(なまえ)を考(かんが)えませんか」
夜(よる)、渚(なぎさ)がそう提案(ていあん)してきた。
朋也(ともや)「そうか…そうだったな」
今(いま)の今(いま)まで、そんなことすら忘(わす)れていた。
渚(なぎさ)「まだ早(はや)いでしょうか」
朋也(ともや)「いや、いいよ。早(はや)くて困(こま)ることなんてないし」
朋也(ともや)「ただ男(おとこ)の子(こ)のときと、女(おんな)の子(こ)のときと、両方(りょうほう)考(かんが)えておかないとな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの名前(なまえ)から、一文字(ひともんじ)取(と)りましょうか」
朋也(ともや)「いや、そんなこと考(かんが)えないでいいよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)にはさ、岡崎(おかざき)っていう名字(みょうじ)が与(あた)えられる」
朋也(ともや)「おまえにもそうしたようにさ、それで守(まも)れる気(き)がするんだ」
朋也(ともや)「女(おんな)の子(こ)だったら結婚(けっこん)したら、また変(か)わるけどさ、そこから守(まも)るのはその夫(おっと)の役目(やくめ)だからな」
渚(なぎさ)「そうですか…」
渚(なぎさ)「なら、わたしの名前(なまえ)でも守(まも)ってあげたいです」
朋也(ともや)「そうだな。そうしよう」
渚(なぎさ)「でも、わたし、一文字(ひともんじ)ですから、姉妹(しまい)みたいになってしまいます」
朋也(ともや)「うーん、そうかもな」
どれだけ考(かんが)えても、渚(なぎさ)という字(じ)を使(つか)って、子供(こども)らしい名前(なまえ)を思(おも)いつくことができなかった。
渚(なぎさ)「渚(なぎさ)は、浜辺(はまべ)のことです」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「潮(しお)の満(み)ち引(ひ)きする場所(ばしょ)です」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「だから、汐(うしお)、というのはどうでしょうか」
渚(なぎさ)「これだと、男(おとこ)の子(こ)でも、女(おんな)の子(こ)にでも合(あ)います」
朋也(ともや)「うしお?」
渚(なぎさ)「はい、汐(うしお)です」
渚(なぎさ)「きっと、人生(じんせい)はいろんなことがあります」
渚(なぎさ)「汐(うしお)は渚(なぎさ)から、時(とき)には引(ひ)いて、離(はな)れることもありますが…」
渚(なぎさ)「でも、時(とき)が経(た)てばまた満(み)ちて、そばに帰(かえ)ってきます」
渚(なぎさ)「ずっと、それを繰(く)り返(かえ)して…わたしは汐(うしお)を見守(みまも)っていけます」
渚(なぎさ)「どうでしょうか」
俺(おれ)のように、ただそばに居(い)るという理由(りゆう)だけではなかった。
人生(じんせい)という長(なが)い道(みち)のり、その苦楽(くらく)を人並(ひとな)み以上(いじょう)に知(し)った渚(なぎさ)だから、与(あた)えられる名(な)だった。
そして、その由来(ゆらい)は、まさしく家族(かぞく)のあるべき姿(すがた)だ。
朋也(ともや)「でも、よく考(かんが)えたら、渚(なぎさ)より潮(しお)のほうが大(おお)きい存在(そんざい)だよな」
渚(なぎさ)「そうですね。海(うみ)ですから」
朋也(ともや)「そんな何(なに)もかもを包(つつ)み込(こ)み、育(はぐく)むような…大(おお)きな優(やさ)しさを持(も)った奴(やつ)になれるかな」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「なってほしいです」
疲(つか)れたのだろうか。そう言(い)って、渚(なぎさ)は瞼(まぶた)を閉(と)じた。
朋也(ともや)「眠(ねむ)るか」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、電気(でんき)消(け)すな」
渚(なぎさ)「はい、お願(ねが)いします…」
岡崎汐(おかざきうしお)。
それがこれから生(う)まれてくる子(こ)の名(な)になった。
翌日(よくじつ)から、渚(なぎさ)はお腹(はら)の子(こ)に名前(なまえ)で呼(よ)びかけるようになった。
渚(なぎさ)「しおちゃん」
渚(なぎさ)は『う』を取(と)って、そう呼(よ)んだ。
渚(なぎさ)「呼(よ)んでみると、すごく可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「しおちゃん…」
渚(なぎさ)「えへへ」
渚(なぎさ)「というわけで、名前(なまえ)は汐(うしお)に決(き)めました。しおちゃんです」
秋生(あきお)「ほぅ、そうか…」
秋生(あきお)「しおちゃん、パパだぞ~」
渚(なぎさ)「嘘(うそ)ついたらダメですっ」
渚(なぎさ)「この子(こ)、信(しん)じてしまいますっ」
秋生(あきお)「冗談(じょうだん)も通(つう)じねぇのか、てめぇの子(こ)はよ」
秋生(あきお)「おまえはジィさんだろっ!ってツッコンでみせろよ」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)使(つか)ってでもいいからよ」
渚(なぎさ)のお腹(なか)はコックピットではない。
秋生(あきお)「しかし、おじいちゃんなんて呼(よ)ばれるのか俺(おれ)は…んなのヤだねぇ」
相変(あいか)わらず我(わ)がままな人(ひと)だった。
秋生(あきお)「というわけで、俺様(おれさま)はアッキーだ。アッキーと呼(よ)ばせよう」
秋生(あきお)「最初(さいしょ)に覚(おぼ)えさせろよ、このクソ親父(おやじ)」
朋也(ともや)「なんでだよ…」
早苗(さなえ)「わたしがそのぐらいになったときも、たくさん話(はな)しかけていましたよ」
秋生(あきお)「ああ、だから、てめぇ、あの時(とき)独(ひと)り言(ごと)がやたら多(おお)かったのか…」
気(き)づけよ。
早苗(さなえ)「このぐらいになると耳(みみ)もちゃんとできていて、外(そと)の音(おと)が聞(き)き取(と)れるんです」
早苗(さなえ)「音楽(おんがく)を聴(き)かせてあげるのもいいですよ」
朋也(ともや)「胎教(たいきょう)というやつですね」
朋也(ともや)「でもこいつの好(す)きな音楽(おんがく)といえば、あれしかないからなあ」
渚(なぎさ)「では、毎日(まいにち)歌(うた)って聞(き)かせます」
渚(なぎさ)「だんご、だんごって」
早苗(さなえ)「それはとってもいいことですね」
朋也(ともや)「まぁ、流行(はや)っている音楽(おんがく)なんかよりはよっぽどいいんだろうな」
渚(なぎさ)「はい。というわけで、みんなで歌(うた)いましょう」
朋也(ともや)「マジで?」
秋生(あきお)「よし、俺(おれ)がリードボーカルしてやるぜ」
秋生(あきお)「小僧(こぞう)、てめぇはドラムな。ツクチーツクチー言(い)ってろ」
秋生(あきお)「ひゅーっ!
カッケー!」
朋也(ともや)「父親(ちちおや)に一番地味(いちばんじみ)な役割(やくわり)を振(ふ)らんでください」
秋生(あきお)「わがままな奴(やつ)だなぁ、じゃあ、あれだ」
秋生(あきお)「次(つぎ)の小節(しょうせつ)の歌詞(かし)を教(おし)える役(やく)」
朋也(ともや)「それ参加(さんか)してないからさ」
渚(なぎさ)「だんごっ、だんごっ」
いつの間(ま)にかひとりで歌(うた)い始(はじ)めていた渚(なぎさ)。
早苗(さなえ)「だんごっ、だんごっ」
早苗(さなえ)さんもそれに続(つづ)く。
俺(おれ)たちもいつしか、それに混(ま)じっていた。
そうして、みんなでひとつの幸(しあわ)せを形作(かたちづく)っていた夏(なつ)が終(お)わる。
残暑(ざんしょ)の厳(きび)しい日(ひ)だった。
ドアを開(あ)けた瞬間(しゅんかん)、それは視界(しかい)に飛(と)び込(こ)んできた。
すぐ目(め)の前(まえ)の床(ゆか)。
くの字(じ)に折(お)れた足(あし)がこちらに向(む)いていた。
靴(くつ)も脱(ぬ)がず駆(か)け寄(よ)り、その体(からだ)を抱(だ)き上(あ)げる。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ!」
………。
苦(くる)しげに小(ちい)さく呼吸(こきゅう)を繰(く)り返(かえ)すだけで、反応(はんのう)はなかった。
額(ひたい)に触(ふ)れてみる。驚(おどろ)くほどに熱(あつ)かった。
頭(あたま)が真(ま)っ白(しろ)になる。
どうしていいかわからなかった。
渚(なぎさ)が熱(ねつ)をだして、倒(たお)れている。
俺(おれ)は何(なに)をすべきなのだろうか。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ…」
しばらくその体(からだ)を抱(かか)えたまま、名前(なまえ)を呼(よ)び続(つづ)けることしかできなかった。
朋也(ともや)(とりあえず布団(ふとん)にっ…)
乱暴(らんぼう)に敷(し)いた布団(ふとん)の上(うえ)にその体(からだ)を降(お)ろした時(とき)、ようやく早苗(さなえ)さんの存在(そんざい)を思(おも)い出(だ)した。
電話(でんわ)を引(ひ)っ張(ぱ)ってきて、汗(あせ)の浮(う)かぶ渚(なぎさ)の顔(かお)を見(み)ながらダイヤルを押(お)す。
声(こえ)『あい、古河(ふるかわ)だけど』
オッサンだった。
朋也(ともや)「俺(おれ)だっ、頼(たの)む、早苗(さなえ)さんに代(か)わってくれっ」
秋生(あきお)『ああ、少(すこ)し待(ま)て』
すぐ、早苗(さなえ)さんに取(と)り次(つ)いでくれる。
早苗(さなえ)『はい、早苗(さなえ)です』
朋也(ともや)「朋也(ともや)です。渚(なぎさ)が熱(ねつ)だして、倒(たお)れたんです」
朋也(ともや)「すごい高(たか)い熱(ねつ)なんですっ」
朋也(ともや)「俺(おれ)、どうしたらいいかわからなくて…」
早苗(さなえ)『落(お)ち着(つ)いてください、朋也(ともや)さん』
早苗(さなえ)『大丈夫(だいじょうぶ)です。すぐ行(い)きますから』
朋也(ともや)「は、はい…」
早苗(さなえ)『とりあえず布団(ふとん)に寝(ね)かせて、濡(ぬ)れたタオルを絞(しぼ)って、渚(なぎさ)の額(ひたい)に載(の)せてあげてください』
朋也(ともや)「わかりましたっ…」
早苗(さなえ)『じゃ、待(ま)っててくださいね。八木(やぎ)さんにもわたしから連絡(れんらく)して駆(か)けつけてもらいますので』
朋也(ともや)「はい、お願(ねが)いします」
受話器(じゅわき)を置(お)く。
とりあえずやることができた。
濡(ぬ)らしたタオルを絞(しぼ)って、渚(なぎさ)の額(ひたい)に載(の)せるのだ。
朋也(ともや)「待(ま)ってろ、渚(なぎさ)」
俺(おれ)は立(た)ち上(あ)がった。
朋也(ともや)「ひどいんですか…」
ひとしきりやることを終(お)えた早苗(さなえ)さんに俺(おれ)は訊(き)いた。
早苗(さなえ)「今(いま)は、もう落(お)ち着(つ)いてます。すぐ微熱(びねつ)ぐらいまでは下(さ)がると思(おも)いますよ」
朋也(ともや)「赤(あか)ちゃんのほうは…」
八木(やぎ)「問題(もんだい)ありませんよ。赤(あか)ちゃんも元気(げんき)ですし」
八木(やぎ)「もし心配(しんぱい)なら一度(いちど)診察(しんさつ)を受(う)けてみてください」
朋也(ともや)「そうですか…」
赤(あか)ちゃんが無事(ぶじ)と知(し)り胸(むね)を撫(な)で下(お)ろすと同時(どうじ)に、激(はげ)しい後悔(こうかい)に襲(おそ)われる。
朋也(ともや)「全部(ぜんぶ)、俺(おれ)が悪(わる)いっす…」
朋也(ともや)「もっと早(はや)く休(やす)ませてあげるべきでした…」
早苗(さなえ)「そんなに朋也(ともや)さんが気(き)に病(や)むことはないですよ」
朋也(ともや)「でも、こいつ、すげぇ頑張(がんば)ってたから…」
早苗(さなえ)「それは、この子(こ)が頑張(がんば)りたかったからです。誰(だれ)のせいでもありません」
朋也(ともや)「いや、だったら余計(よけい)に止(と)めないといけなかったんですよ…」
朋也(ともや)「こいつのことなんて、俺(おれ)しかわからないのに…」
早苗(さなえ)「あんまり自分(じぶん)を責(せ)めないでください。今(いま)は、朋也(ともや)さんがしっかりしてないと」
朋也(ともや)「はい…」
八木(やぎ)「それでは、私(わたし)はこれで失礼(しつれい)します」
朋也(ともや)「ありがとうございました」
目(め)を覚(さ)ました渚(なぎさ)は、しばらく自分(じぶん)の置(お)かれた状況(じょうきょう)がわからない様子(ようす)で、首(くび)だけを動(うご)かして辺(あた)りを見回(みまわ)した。
そして、台所(だいどころ)に立(た)つ早苗(さなえ)さんの姿(すがた)を見(み)て、ようやく気(き)づいたようだった。
渚(なぎさ)「ごめんなさい…です…」
俺(おれ)と早苗(さなえ)さんにそう言(い)った。
渚(なぎさ)「迷惑(めいわく)かけてしまいました…」
朋也(ともや)「そんなこといいんだよ」
渚(なぎさ)「晩(ばん)ご飯(はん)作(つく)ります…」
朋也(ともや)「作(つく)れるわけないだろっ」
渚(なぎさ)「すみません…本当(ほんとう)に…」
朋也(ともや)「謝(あやま)るなって言(い)ってるだろ、馬鹿(ばか)」
きつく言(い)ってやらないと、えんえん泣(な)き言(ごと)を言(い)ってそうだった。
朋也(ともや)「今(いま)、早苗(さなえ)さんがお粥(かゆ)作(つく)ってくれてるからな」
朋也(ともや)「だから、大人(おとな)しく待(ま)ってろ」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「すみません、本当(ほんとう)に…」
迷惑(めいわく)ばかりかけている早苗(さなえ)さんに俺(おれ)はそう言(い)って頭(あたま)を下(さ)げた。
早苗(さなえ)「もう謝(あやま)るなって、さっき渚(なぎさ)に叱(しか)ってましたよ、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はは…一緒(いっしょ)のことしてますね、俺(おれ)…」
本当(ほんとう)に、早苗(さなえ)さんだけには、頭(あたま)が上(あ)がらない。
早苗(さなえ)「それでは、今日(きょう)のところは失礼(しつれい)しますね」
朋也(ともや)「遅(おそ)くまですみません」
早苗(さなえ)「いいえ」
朋也(ともや)「オッサンのほうにも…よろしくお願(ねが)いします」
早苗(さなえ)「はい、話(はな)しておきますね」
二年前(にねんまえ)の夏(なつ)を思(おも)い出(だ)す。
あの日(ひ)も、ずっと、渚(なぎさ)のそばについて手(て)を握(にぎ)っていた。
今(いま)、そうしてあげられるのは夜(よる)だけだった。
日中(にっちゅう)はこれまでと同(おな)じように仕事(しごと)に出(で)ていた。
その間(あいだ)は、早苗(さなえ)さんに任(まか)せっきりだった。
俺(おれ)が帰(かえ)ってくると、夕飯(ゆうはん)の用意(ようい)をして、早苗(さなえ)さんは家(いえ)に帰(かえ)っていく。
そんな毎日(まいにち)。
渚(なぎさ)の熱(ねつ)は…いつまでも下(さ)がらなかった。
洗濯物(せんたくもの)を畳(たたみ)んでいると、電話(でんわ)が鳴(な)った。
出(で)ると、オッサンからだった。
秋生(あきお)『明日(あした)、仕事休(しごとやす)め』
朋也(ともや)「なんだよ、ぶしつけに。いきなり休(やす)めるわけないだろ」
秋生(あきお)『いきなり休(やす)め』
朋也(ともや)「そんなことができる仕事(しごと)じゃないんだよ、わかってくれ」
秋生(あきお)『ちっ…なら、次(つぎ)はいつ休(やす)みが取(と)れるんだ』
朋也(ともや)「わかんねぇよ。休(やす)みが取(と)れても、急(きゅう)に仕事(しごと)が入(はい)るかもしれない」
秋生(あきお)『なんとかしろ、てめぇ、会社(かいしゃ)に乗(の)り込(こ)むぞ、この野郎(やろう)』
朋也(ともや)「なんなんだよ、一体(いったい)。休(やす)みが取(と)れたら、どうするつもりだ」
秋生(あきお)『てめぇを連(つ)れていきたい場所(ばしょ)があんだよ』
朋也(ともや)「どんな場所(ばしょ)だよ。いかがわしい場所(ばしょ)だったら、怒(おこ)るぞ、俺(おれ)は」
秋生(あきお)『安心(あんしん)しろ。そんなに楽(たの)しい話(はなし)にはならないはずだ』
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…わかったよ。努力(どりょく)はしてみる」
秋生(あきお)『ああ、休(やす)みが取(と)れたら連絡(れんらく)してこい』
朋也(ともや)「ああ」
受話器(じゅわき)を置(お)く。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんですか」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「また無茶(むちゃ)なこと言(い)ってきましたか」
朋也(ともや)「いや…」
オッサンにしては、真剣(しんけん)な様子(ようす)だった。
幸運(こううん)なことに、二日後(ふつかご)には休(やす)みが取(と)れた。
朋也(ともや)「すみません、早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「いえ。楽(たの)しんできてください」
朋也(ともや)「違(ちが)いますよ。遊(あそ)びにいくんじゃないんです」
朋也(ともや)「なんかオッサンにしては、マジな用(よう)みたいっす」
早苗(さなえ)「そうですか。せっかくの休(やす)みなのに、ごめんなさい」
朋也(ともや)「いえ、俺(おれ)こそ、休(やす)みの日(ひ)ぐらいは早苗(さなえ)さんに休(やす)んでほしかったんですけど…」
早苗(さなえ)「休(やす)むもなにも、なにひとつ大変(たいへん)なんてわたしは思(おも)ってませんよ」
朋也(ともや)「だったら、いいですけど…」
朋也(ともや)「じゃ、いってくるっす」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、いってくるな」
渚(なぎさ)「はい、いってらっしゃいです」
顔(かお)だけをこちらに向(む)けて、見送(みおく)ってくれた。
秋生(あきお)「よぅ」
朋也(ともや)「店(みせ)のほうはいいのか?」
秋生(あきお)「ああ、無人販売(むじんはんばい)にしておいた」
朋也(ともや)「え?」
秋生(あきお)「店番(みせばん)はいねぇけど、ちゃんと金(きん)置(お)いてけって、書(か)き置(お)きしてある」
秋生(あきお)「それで大丈夫(だいじょうぶ)なんだよ」
心配(しんぱい)するなと言(い)うように、睨(にら)みつけられた。
朋也(ともや)「で、どんな楽(たの)しくない場所(ばしょ)に行(い)くって?」
秋生(あきお)「ついてくればわかる」
いつだって一方的(いっぽうてき)な人(ひと)だった。
町(まち)の外(はず)れへ出(で)て、山(やま)を迂回(うかい)して辿(たど)り着(つ)いた場所(ばしょ)。
自然(しぜん)に囲(かこ)まれ、秘密(ひみつ)の場所(ばしょ)のようにあった。
秋生(あきお)「ここはな、俺(おれ)の遊(あそ)び場(ば)だったんだ」
秋生(あきお)「ずっと、ここでガキ共(ども)と野球(やきゅう)したり、こうしてぼぅ~っとしたりしてた」
この人(ひと)は、よく仕事(しごと)をほっぽりだしていなくなると思(おも)っていたら、ここでそんなことをしていたのだ。
呆(あき)れた人(ひと)だ。
秋生(あきお)「どんどん自然(しぜん)が削(けず)られていってよ、今(いま)じゃこうしてでけぇ建物(たてもの)をおったてようとしてる」
秋生(あきお)「もう野球(やきゅう)なんてできやしねぇし、眺(なが)めもよくねぇよ…」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「この町(まち)はさ、変(か)わり続(つづ)けていく」
秋生(あきお)「それは、どうも、止(と)めようがねぇみたいだ」
朋也(ともや)「ああ、そうみたいだな…」
俺(おれ)だけじゃなかったんだ。オッサンも同(おな)じことを思(おも)っていたのだ。
そして、それはふたりだけじゃなく、もっとたくさんの人間(にんげん)が思(おも)っていることなのかもしれない。
秋生(あきお)「別(べつ)に俺(おれ)は自然(しぜん)を守(まも)ろうなんてことは思(おも)いもしねぇ」
秋生(あきお)「町(まち)は人(ひと)のために変(か)わり続(つづ)けていくべきだとも思(おも)う」
秋生(あきお)「だけどな…この場所(ばしょ)だけは変(か)わってほしくなかったんだよ」
特別(とくべつ)な…場所(ばしょ)なんだろうか。
秋生(あきお)「これは、二年前(にねんまえ)の話(はなし)の続(つづ)きだ」
チッとライターの火(ひ)をつける音(おと)が聞(き)こえた。
秋生(あきお)「渚(なぎさ)が命(いのち)を落(お)としかけた時(とき)の話(はなし)だよ」
そう言(い)って、話(はなし)を始(はじ)めた。
家(いえ)に帰(かえ)り着(つ)いた俺(おれ)は、用意(ようい)してあった晩(ばん)ご飯(はん)を食(た)べ、早苗(さなえ)さんを見送(みおく)ってから、渚(なぎさ)とふたりきりになった。
渚(なぎさ)「今日(きょう)はどうでしたか」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)になんにもないよ」
渚(なぎさ)「そうですか」
渚(なぎさ)はオッサンとのことを追及(ついきゅう)してこなかった。
多分(たぶん)、俺(おれ)の声(こえ)が、それを拒(こば)んでしまっていたのだろう。
朋也(ともや)「………」
他(ほか)に話題(わだい)もなくて、ふたりは黙(だま)りこむ。
扇風機(せんぷうき)だけが低(ひく)い唸(うな)りをあげている。
静(しず)かな夜(よる)だった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
渚(なぎさ)が小(ちい)さな声(こえ)をあげていた。
一瞬(いっしゅん)後(あと)に、それに気(き)づく。
朋也(ともや)「ん、なんだ。どうした」
渚(なぎさ)「えっと…」
渚(なぎさ)「手(て)…」
そう言(い)って、布団(ふとん)の中(なか)から白(しろ)い手(て)を出(だ)した。
朋也(ともや)「あ、ああ」
そばまで寄(よ)っていって、それを握(にぎ)ってやった。
渚(なぎさ)「すみません…」
朋也(ともや)「いや…」
もう一方(いっぽう)の手(て)も添(そ)えて、両手(りょうて)で渚(なぎさ)の手(て)を包(つつ)んでやる。
朋也(ともや)「暑(あつ)くないか」
渚(なぎさ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。ずっとそうしていてほしいです」
朋也(ともや)「ああ…ずっとこうしてるよ」
秋生(あきお)「あれは本当(ほんとう)に悲(かな)しい出来事(できごと)だったんだ」
細長(ほそなが)い煙(けむり)を吐(つ)いた後(あと)、オッサンはそう切(き)り出(だ)した。
秋生(あきお)「十年以上(じゅうねんいじょう)も昔(むかし)の話(はなし)だ」
秋生(あきお)「俺(おれ)は当時(とうじ)、劇団(げきだん)の団員(だんいん)で、バイトと稽古(けいこ)漬(づ)けの日々(ひび)だった」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)は教師(きょうし)をしていた。近(ちか)くの、私立(しりつ)の中学校(ちゅうがっこう)で教鞭(きょうべん)をとっていた」
秋生(あきお)「お互(たが)いそれが目指(めざ)していた職業(しょくぎょう)だったからな…俺(おれ)たちは夢中(むちゅう)だったんだ」
秋生(あきお)「だから、渚(なぎさ)はいつもひとりだった」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、日中(にっちゅう)は出(で)ていたから、渚(なぎさ)は夜(よる)以外(いがい)は、いつもひとりで居(い)た」
秋生(あきお)「それで…いつだって、俺(おれ)たちの帰(かえ)りを家(いえ)の門(もん)の前(まえ)に立(た)って、待(ま)ってたんだ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)が先(さき)に帰(かえ)ってくることがほとんどだった。仕事柄(しごとがら)、そんなに遅(おそ)くなることはなかったからな」
秋生(あきお)「そうしたら、渚(なぎさ)が、門(もん)の前(まえ)で待(ま)ってる」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)は、その小(ちい)さな渚(なぎさ)の手(て)を引(ひ)いて、家(いえ)の中(なか)に連(つ)れて入(はい)る」
秋生(あきお)「ごめんなさい、って言(い)ってな…」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)のやつはううん、て首(くび)を振(ふ)るんだが、いつだって、涙(なみだ)を目(め)の端(はし)に溜(た)めてたらしい」
秋生(あきお)「そんな毎日(まいにち)だったんだ」
秋生(あきお)「けど、ある日(ひ)、渚(なぎさ)が風邪(かぜ)を引(ひ)いて熱(ねつ)を出(だ)しやがった」
秋生(あきお)「寒(さむ)い日(ひ)だった。雪(ゆき)が降(お)り積(つ)もっていた」
秋生(あきお)「誰(だれ)も外(そと)に出(で)たがらないような日(ひ)だった」
秋生(あきお)「そのとき…俺(おれ)は年末(ねんまつ)に大(おお)きな公演(こうえん)を控(ひか)えていた。早苗(さなえ)は、教(おし)え子(ご)どもが受験(じゅけん)を目前(もくぜん)としていた」
秋生(あきお)「お互(たが)い、譲(ゆず)れない時期(じき)だったんだ」
秋生(あきお)「だから、俺(おれ)たちは、渚(なぎさ)を寝(ね)かせたままで家(いえ)を出(で)たんだ」
秋生(あきお)「しかし…」
秋生(あきお)「やっぱり渚(なぎさ)は、その日(ひ)も待(ま)ってたんだ。門(もん)の前(まえ)で」
秋生(あきお)「後(あと)から考(かんが)えると、それは予想(よそう)できることだった」
秋生(あきお)「でもその時(とき)の俺(おれ)たちは、まさかと思(おも)ったんだ」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは気(き)づくべきだったんだよ…」
秋生(あきお)「それは、あいつの精一杯(せいいっぱい)の訴(うった)えだったんだ」
秋生(あきお)「いつだって大人(おとな)しくて、言葉少(ことばずく)ない渚(なぎさ)の…」
秋生(あきお)「ずっとそばに居(い)てほしい、っていう訴(うった)えだったんだ」
秋生(あきお)「だから、その日(ひ)も、同(おな)じことをしていただけなんだ、あいつは…」
秋生(あきお)「自分(じぶん)が熱(ねつ)を出(だ)してることなんて、どうでもよかったんだ…」
秋生(あきお)「俺(おれ)が家(いえ)に帰(かえ)り着(つ)いたとき、渚(なぎさ)は家(いえ)の前(まえ)で倒(たお)れていた」
秋生(あきお)「雪(ゆき)の中(なか)に埋(う)もれるようにして」
秋生(あきお)「残酷(ざんこく)な話(はなし)だ…」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、自分(じぶん)たちの過(あやま)ちを知(し)るために、一番(いちばん)、大切(たいせつ)なものを傷(きず)つけてしまったんだからな…」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「すぐに家(いえ)の中(なか)に運(はこ)び込(こ)んで、医者(いしゃ)を呼(よ)んだ」
秋生(あきお)「駆(か)けつけた医者(いしゃ)は、あらゆる処置(しょち)を施(ほどこ)した」
秋生(あきお)「それでも…熱(ねつ)は下(さ)がらなくて…」
秋生(あきお)「明(あ)け方(がた)には、もう…」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「あんな悲(かな)しいことなんて、知(し)らなかった…」
秋生(あきお)「俺(おれ)も早苗(さなえ)も絶望(ぜつぼう)した…」
秋生(あきお)「真(ま)っ暗(くら)な谷(たに)の底(そこ)に突(つ)き落(お)とされたんだ…」
秋生(あきお)「もう這(は)い上(あ)がれないと思(おも)った…」
秋生(あきお)「俺(おれ)は渚(なぎさ)の体(からだ)を抱(かか)えて…」
秋生(あきお)「外(そと)に出(で)た」
秋生(あきお)「俺(おれ)にはもう祈(いの)るしかできなかったんだ」
秋生(あきお)「こんな最後(さいご)は嫌(いや)だ…」
秋生(あきお)「この子(こ)を助(たす)けてくれって…」
秋生(あきお)「闇雲(やみくも)に駆(か)けて…」
秋生(あきお)「俺(おれ)は…ここに辿(たど)り着(つ)いていた」
秋生(あきお)「そして、ここの緑(みどり)が…渚(なぎさ)を包(つつ)み込(こ)んだ気(き)がした」
秋生(あきお)「全部(ぜんぶ)夢(ゆめ)なのかと思(おも)った」
秋生(あきお)「でも、残(のこ)されたものは形(かたち)としてあった」
秋生(あきお)「朝(あさ)の光(ひかり)の中(なか)で…渚(なぎさ)が目(め)を開(ひら)いて、俺(おれ)のことを見(み)ていたんだ」
秋生(あきお)「涙(なみだ)があふれ出(で)たよ」
秋生(あきお)「すべてのものに感謝(かんしゃ)した」
秋生(あきお)「そして、誓(ちか)った。ずっとこいつのそばに居(い)ようって」
秋生(あきお)「それ以来(いらい)…」
秋生(あきお)「ずっと、この場所(ばしょ)を見(み)てきた」
秋生(あきお)「この場所(ばしょ)が、あいつの分身(ぶんしん)のように思(おも)えてならなかったんだ…」
秋生(あきお)「なぁ、小僧(こぞう)」
秋生(あきお)「おまえが今(いま)の話(はなし)をどこまで信(しん)じるかは自由(じゆう)だけどよ…」
秋生(あきお)「でもな、これからはおまえにも、苦(くる)しいことや、悲(かな)しいことが待(ま)ってるかもしれない」
秋生(あきお)「いいか、小僧(こぞう)…」
オッサンが俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
秋生(あきお)「いや、朋也(ともや)」
その目(め)に力(ちから)がこもった。
秋生(あきお)「俺(おれ)たちは、家族(かぞく)だ」
秋生(あきお)「助(たす)け合(あ)っていくぞ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
俺(おれ)はただ、頷(うなず)くしかできなかった。
俺(おれ)は渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)ったまま、オッサンの話(はなし)を反(はん)すうしていた。
俺(おれ)は何一(なにひと)つ理解(りかい)していなかった。
オッサンが何(なに)を言(い)いたかったのか。
ただ、ひとつだけ、漠然(ばくぜん)と伝(つた)わったものがある。
それは、俺(おれ)がずっと胸(むね)の痛(いた)みとして感(かん)じていたものと同(おな)じだった。
この町(まち)は変(か)わっていく。
そして、俺(おれ)たちはその大(おお)きな波(なみ)に揉(も)まれ…離(はな)れ、遠(とお)ざかっていく。
圧倒的(あっとうてき)な力(ちから)が、渚(なぎさ)を奪(うば)い、連(つ)れ去(さ)っていく。
いつか…
いつか、この繋(つな)いだ手(て)も離(はな)れていくのだろうか。
そんな日(ひ)を思(おも)いたくない。
そんな辛(つら)すぎる日(ひ)を思(おも)いたくない。
渚(なぎさ)…
ずっといてくれるよな、この俺(おれ)のそばに…。
新(あたら)しく生(う)まれてくる…俺(おれ)たちの子供(こども)と共(とも)に…。
あれからしばらく日(ひ)が経(た)ち…
俺(おれ)は、渚(なぎさ)が眠(ねむ)っている隙(すき)に、また、ここに来(き)ていた。
──そして、ここの緑(みどり)が、渚(なぎさ)を包(つつ)み込(こ)んだ気(き)がした…
だったら、なんだ。
この場所(ばしょ)が渚(なぎさ)の命(いのち)を救(すく)ったというのだろうか。
──これからはおまえにも、苦(くる)しいことや、悲(かな)しいことが待(ま)ってるかもしれない…
それとも、これは…象徴(しょうちょう)なのだろうか。
変(か)わらないものはどこにもないという。
町(まち)に残(のこ)る自然(しぜん)も、大事(だいじ)な人(ひと)も…。
なら、渚(なぎさ)も…
この場所(ばしょ)と共(とも)に…
なくなってしまうと…
そう言(い)いたかったのだろうか。
その日(ひ)は俺(おれ)の仕事(しごと)も休(やす)みで、朝(あさ)から渚(なぎさ)のそばにいた。
俺(おれ)の作(つく)った粥(かゆ)をふたりで食(た)べ、後片(あとかた)づけを終(お)えたところで…
トントン。
ドアをノックする音(おと)。
朋也(ともや)「ん?
はい」
出(で)ると、そこには早苗(さなえ)さんが立(た)っていた。
朋也(ともや)「あれ、どうしたんですか」
早苗(さなえ)「暇(ひま)だから、きちゃいました」
朋也(ともや)「今日(きょう)は俺(おれ)がいますから、早苗(さなえ)さんは家(いえ)にいてくださいよ」
早苗(さなえ)「お邪魔(じゃま)でしたか?」
朋也(ともや)「まさか…そんなことはないっすけど」
早苗(さなえ)「じゃ、お邪魔(じゃま)させてもらいますね」
靴(くつ)を脱(ぬ)いで、揃(そろ)えてから俺(おれ)に向(む)き直(なお)った。
早苗(さなえ)「もう、ご飯(はん)は食(た)べましたか?」
朋也(ともや)「はい、さっきちょうど」
早苗(さなえ)「わたし、食(た)べてないんです。作(つく)って、食(た)べてもいいですか」
朋也(ともや)「え、ええ、もちろん」
こんなところで食(た)べなくても、家(いえ)でオッサンと食(た)べたほうがいいだろうに、と思(おも)った。
なんだか、オッサンが可哀想(かわいそう)だった。
台所(だいどころ)に立(た)った早苗(さなえ)さんが、流(なが)しの戸(と)を開(あ)けて、動(うご)きを止(と)めていた。
早苗(さなえ)「あ…」
早苗(さなえ)「お米(こめ)、もうないです」
朋也(ともや)「え、そうでしたっけ」
早苗(さなえ)「買(か)ってこないとまずいですね」
朋也(ともや)「俺(おれ)、ひとっ走(はし)り行(い)ってきますよ。早苗(さなえ)さんは待(ま)っててください」
早苗(さなえ)「いえ、わたしが行(い)ってきます」
朋也(ともや)「いや、渚(なぎさ)と話(はなし)でもしててくださいよ」
早苗(さなえ)「わたし、外(そと)で食事(しょくじ)もとってきますから、その帰(かえ)りに買(か)ってきます」
朋也(ともや)「でも、米(こめ)を任(まか)せるわけには…」
渚(なぎさ)「おふたりで、行(い)ってきてはどうですか」
渚(なぎさ)が、こっちに顔(かお)を向(む)けてそう言(い)っていた。
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんがひとりでご飯(はん)食(た)べるのも、寂(さび)しいです」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)に朋也(ともや)くん、ついていってあげてください。それで、帰(かえ)りにお米(こめ)を買(か)ってきてください」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「いや…でも…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、ごめんなさい。少(すこ)しだけ、朋也(ともや)さん、借(か)りますね」
渋(しぶ)っている俺(おれ)を手(て)で制(せい)して、早苗(さなえ)さんはそう答(こた)えた。
俺(おれ)は意外(いがい)に思(おも)った。早苗(さなえ)さんが自然(しぜん)に取(と)る行動(こうどう)じゃなかった。
渚(なぎさ)「はい、ぜんぜん大丈夫(だいじょうぶ)です」
渚(なぎさ)はそのことにはまるで気(き)づかないように、俺(おれ)たちを見送(みおく)った。
早苗(さなえ)「すみません、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はい?」
早苗(さなえ)「ご飯(はん)なんかに付(つ)き合(あ)わせてしまって…」
朋也(ともや)「いえ、いいんですよ。渚(なぎさ)もああ言(い)ってくれてましたし」
朋也(ともや)「一時間(いちじかん)ぐらいで戻(もど)ってきましょう」
早苗(さなえ)「そうですね」
朋也(ともや)「ここ、渚(なぎさ)が働(はたら)いてた場所(ばしょ)なんですよ」
早苗(さなえ)「はい、聞(き)いています」
朋也(ともや)「店長(てんちょう)も、顔見知(かおみし)りですし…ここでいいですよね」
早苗(さなえ)「はい、構(かま)わないですよ」
早苗(さなえ)「へぇ~」
早苗(さなえ)さんは店内(てんない)を見回(みまわ)して、感嘆(かんたん)する。
早苗(さなえ)「ナウい店(みせ)ですね」
朋也(ともや)「それ死語(しご)っす」
早苗(さなえ)「はは、でも、こんなところで食(た)べるのは初(はじ)めてなので緊張(きんちょう)しちゃいますね」
朋也(ともや)「外食(がいしょく)なんてしないでしょ?」
早苗(さなえ)「そうですね、しないです」
朋也(ともや)「オッサンは?
ひとりで留守番(るすばん)すか」
早苗(さなえ)「はい、店番(みせばん)、押(お)しつけてきちゃいました」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんとデートするために」
朋也(ともや)「今(いま)、かなり、どきっとしました」
早苗(さなえ)「こんなおばさんでも、どきっとしてくれますか」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん若(わか)いっすよ、まじで」
早苗(さなえ)「うれしいです」
早苗(さなえ)さんはフルーツジュースを、俺(おれ)はアイスコーヒーを頼(たの)んだ。
朋也(ともや)「昼(ひる)、食(た)べないんですか」
早苗(さなえ)「はい、食(た)べてきてます」
朋也(ともや)「…?」
ウェイトレスが、ジュースとアイスコーヒーを置(お)いていく。
早苗(さなえ)さんが、グラスを手(て)に取(と)り、ストローからオレンジ色(いろ)をしたジュースを吸(す)い込(こ)んだ。
そうして喉(のど)を潤(うるお)してから、言(い)った。
早苗(さなえ)「出産(しゅっさん)…難(むずか)しいそうです」
朋也(ともや)「…え?」
一瞬(いっしゅん)なんのことだかわからなかった。
だが、その言葉(ことば)の重(おも)みに気(き)づくと、もう俺(おれ)は顔(かお)を伏(ふ)せることしかできなかった。
早苗(さなえ)「このままだと、母胎(ぼたい)も危険(きけん)だと…」
早苗(さなえ)「いつも診(み)てくださってる、先生(せんせい)のご意見(いけん)です」
早苗(さなえ)「決断(けつだん)するなら早(はや)いほうがいい、と…」
今(いま)までの早苗(さなえ)さんは、精一杯(せいいっぱい)の空元気(からげんき)だったのだ。
この話(はなし)をするためだけに状況(じょうきょう)を作(つく)ってくれた。
この…辛(つら)い話(はなし)をするために。
朋也(ともや)「早(はや)いほうがいいってのは…その…」
早苗(さなえ)「はい。堕胎(だたい)するなら、ということです」
早苗(さなえ)さんは、言(い)いづらい言葉(ことば)をすべて代(か)わりに言(い)ってくれた。
早苗(さなえ)「もちろん、渚(なぎさ)の熱(あつ)が下(さ)がればいいんです」
早苗(さなえ)「でも、朋也(ともや)さんもご存(ぞん)じのように…渚(なぎさ)の熱(ねつ)は長引(ながび)くんです」
早苗(さなえ)「だから、先生(せんせい)はそういうご意見(いけん)を…」
朋也(ともや)「そうですか…」
早苗(さなえ)「どうか、朋也(ともや)さん」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)とそのことを話(はな)し合(あ)ってみてください」
早苗(さなえ)「少(すこ)し時間(じかん)はかかっても構(かま)いません」
早苗(さなえ)「とても大切(たいせつ)な話(はなし)ですから」
朋也(ともや)「はい…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「いつも…俺(おれ)たちのために、ありがとうございます」
早苗(さなえ)「いえ」
早苗(さなえ)「家族(かぞく)ですからっ」
にっこりと微笑(ほほえ)んでくれる。
それはとても、救(すく)いだった。
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんとのお食事(しょくじ)、楽(たの)しかったですか」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さん、若(わか)く見(み)えますから、デートみたいです」
朋也(ともや)「かもな…」
渚(なぎさ)「お米(こめ)は、ちゃんと買(か)ってきましたか」
朋也(ともや)「いや…」
渚(なぎさ)「買(か)ってこなかったんですか?」
朋也(ともや)「ああ…忘(わす)れてたよ…」
渚(なぎさ)「そうですか…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「元気(げんき)…ないみたいです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あのな、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
言(い)わなければならなかった。
朋也(ともや)「子供(こども)さ…」
朋也(ともや)「産(う)むの…難(むずか)しいってさ…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「わたし、産(う)みたいです」
それは…当然(とうぜん)の返事(へんじ)だった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、よく考(かんが)えようぜ…」
でも俺(おれ)は…説得(せっとく)しなければならない…。
渚(なぎさ)を守(まも)るために…。
朋也(ともや)「今(いま)の体(からだ)で産(う)めば、子供(こども)だって不幸(ふこう)になるかもしれない…」
朋也(ともや)「それに…おまえも…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、そんなの嫌(いや)だからな…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「…わたし、がんばりたいです」
渚(なぎさ)「ダメでしょうか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「時間(じかん)はまだあるからさ…よく話(はな)し合(あ)おう…」
朋也(ともや)「今(いま)はまだ決(き)めなくていいから…」
次(つぎ)の日(ひ)も、俺(おれ)たちは話(はな)し合(あ)った。
けど…渚(なぎさ)の決心(けっしん)は変(か)わらなかった。
渚(なぎさ)「わたしの弱(よわ)さのために…」
渚(なぎさ)「ひとの命(いのち)が消(き)えてしまうなんて、わたしには堪(た)えられないです…」
渚(なぎさ)はもう形(かたち)になっている…ふたりで見(み)た命(いのち)…
汐(うしお)を、両手(りょうて)で守(まも)るように押(お)さえた。
渚(なぎさ)「それが自分(じぶん)の子(こ)なら、なおさらです」
渚(なぎさ)「わたしの強(つよ)さで産(う)んであげたいです」
渚(なぎさ)「母親(ははおや)の強(つよ)さで…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと出会(であ)って、わたしは強(つよ)く生(い)きようとがんばってきました」
渚(なぎさ)「こんな…一番大事(いちばんだいじ)なところで、挫(くじ)けたくないです」
渚(なぎさ)「しおちゃんを産(う)んであげたいです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
渚(なぎさ)「体(からだ)が弱(よわ)いわたしですけど…」
渚(なぎさ)「どうか…」
渚(なぎさ)「強(つよ)く生(い)きさせてください」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「おまえはさ…」
朋也(ともや)「十分(じゅうぶん)強(つよ)いよ…」
朋也(ともや)「すごく強(つよ)くなったよ…」
朋也(ともや)「もう、いいじゃないか…」
朋也(ともや)「もう…」
途中(とちゅう)から…涙声(なみだごえ)になってしまう。
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうがよっぽど弱(よわ)いよ…」
朋也(ともや)「恐(こわ)いんだよ、俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「失(うしな)ってしまうのが…」
朋也(ともや)「おまえを失(うしな)ってしまうのが、恐(こわ)いんだよ…」
渚(なぎさ)「…わたしは、大丈夫(だいじょうぶ)です」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが居(い)てくれれば」
渚(なぎさ)「手(て)を握(にぎ)っててくれれば…がんばれます」
渚(なぎさ)「この子(こ)の、母親(ははおや)として…」
渚(なぎさ)「だから…朋也(ともや)くんも、この子(こ)のお父(とう)さんとして、わたしの手(て)を握(にぎ)っててください」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いします」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん…疲(つか)れてますね」
朋也(ともや)「体(からだ)は元気(げんき)ですよ…」
朋也(ともや)「ただ…」
朋也(ともや)「もう…どうしたらいいか、全然(ぜんぜん)わからなくって…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が言(い)ってることは、すごく残酷(ざんこく)なことかもしれない…」
朋也(ともや)「それは、あいつを挫(くじ)けさせ、立(た)ち直(なお)れなくするぐらいに…」
朋也(ともや)「そりゃあ、俺(おれ)だって産(う)んでほしい…自分(じぶん)の子供(こども)です…」
朋也(ともや)「ここまで一緒(いっしょ)に見守(みまも)ってきた命(いのち)です…」
朋也(ともや)「名前(なまえ)までつけた…」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「不安(ふあん)で仕方(しかた)がないんですよ…」
朋也(ともや)「不安(ふあん)で…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)に…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)に生(い)き続(つづ)けてほしい…」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、少(すこ)し休(やす)んでください」
朋也(ともや)「眠(ねむ)れやしないっすよ…」
早苗(さなえ)「それでもいいです。体(からだ)を横(よこ)にするだけでも」
早苗(さなえ)「あの子(こ)も疲(つか)れてると思(おも)います。ですから、今晩(こんばん)はふたり、距離(きょり)を置(お)いてください」
早苗(さなえ)「わたしが朋也(ともや)さんの家(いえ)に泊(と)まります」
早苗(さなえ)「ですから、朋也(ともや)さんは、わたしの家(いえ)で休(やす)んでください」
朋也(ともや)「そんな迷惑(めいわく)かけられないっすよ…」
早苗(さなえ)「これは、一番近(いちばんちか)くで見(み)ている者(もの)としての意見(いけん)ですよ」
早苗(さなえ)「今(いま)は、お互(たが)いが相手(あいて)を疲(つか)れさせています」
早苗(さなえ)「ふたりは、少(すこ)しだけでもいいので距離(きょり)を置(お)くべきです」
早苗(さなえ)「でないと、息(いき)が詰(つ)まってしまいますよ」
朋也(ともや)「………」
早苗(さなえ)さんの言(い)う通(とお)りだと思(おも)った。
早苗(さなえ)「お願(ねが)いします、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「はい…」
朋也(ともや)「一晩(ひとばん)世話(せわ)になるよ…」
秋生(あきお)「ちっ…嫁(よめ)を寝取(ねと)られたようなシケたツラしてんじゃねぇよ」
朋也(ともや)「それ以上(いじょう)にシケたツラになってると思(おも)うけどな…」
秋生(あきお)「しゃあねぇ奴(やつ)だな…酒(さけ)でも呑(の)むか。酔(よ)ったら、嫌(いや)でも寝(ね)られるだろ」
朋也(ともや)「今(いま)呑(の)んだら、泣(な)くか笑(わら)うか暴(あば)れるか、しそうだ…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だ」
秋生(あきお)「泣(な)いても笑(わら)っても暴(あば)れても、俺(おれ)が抑(おさ)えつけてやるからよ」
秋生(あきお)「よしっ、上(あ)がれ」
オッサンと同(おな)じペースで呑(の)み続(つづ)ける。
こんなにアルコールを入(い)れたのは初(はじ)めて、というほどの量(りょう)。
床(ゆか)には空(そら)の缶(かん)や瓶(びん)が増(ふ)えていく。
朋也(ともや)「なぁ、オッサン…」
秋生(あきお)「なんだ」
朋也(ともや)「オッサンだったら、どうするんだよ、俺(おれ)の立場(たちば)に立(た)ったら…」
秋生(あきお)「ちっ…知(し)るか。俺(おれ)はその立場(たちば)に立(た)ってねぇ」
朋也(ともや)「例(たと)えじゃないか」
朋也(ともや)「じゃ、早苗(さなえ)さんがもし、そうだったとしたら…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんが、体(からだ)が弱(よわ)いのに、子供(こども)を産(う)みたいと言(い)ってきたらだ」
秋生(あきお)「本人(ほんにん)が産(う)みてぇって言(い)うんなら…そうさせるかもな」
朋也(ともや)「どうしてだよっ?
それで早苗(さなえ)さん、死(し)んじゃうかもしれないんだぜ!?」
秋生(あきお)「勝手(かって)に早苗(さなえ)を殺(ころ)すなぁーーっ!!」
朋也(ともや)「例(たと)えだって言(い)ってるだろっ」
秋生(あきお)「ちっ…」
秋生(あきお)「なぁ、朋也(ともや)。俺(おれ)はこう思(おも)うんだ」
秋生(あきお)「結局(けっきょく)、人(ひと)が生(い)きる意味(いみ)は、家族(かぞく)や愛(あい)す人(ひと)の中(なか)にあるんじゃないかってな…」
秋生(あきお)「だから俺(おれ)たちは…」
秋生(あきお)「あの日(ひ)、自分(じぶん)たちの夢(ゆめ)を諦(あきら)めて、それを渚(なぎさ)に託(たく)すことができた…」
秋生(あきお)「ひとりで生(い)きてたって、いいことなんてありゃしねぇよ…」
秋生(あきお)「遠(とお)い星(ほし)で、ひとりで暮(く)らしてみろ」
秋生(あきお)「何(なに)を糧(かて)に生(い)きていける?」
秋生(あきお)「なんにもねぇだろ」
秋生(あきお)「だから、人(ひと)は繋(つな)がってる」
秋生(あきお)「誰(だれ)かと繋(つな)がっていて、初(はじ)めて、生(い)きている、と実感(じっかん)できる」
秋生(あきお)「喜(よろこ)びも生(う)まれる」
秋生(あきお)「だから、それを否定(ひてい)するなんてことはしたくねぇんだよ…俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「今(いま)のは俺(おれ)の考(かんが)えだ。気(き)にするな」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「もっと、早(はや)く気(き)づいていればよかったんだろうか…」
朋也(ともや)「あんなにも大(おお)きくならないうちに…」
秋生(あきお)「いや…」
秋生(あきお)「おまえなら、わかるだろ」
秋生(あきお)「それは関係(かんけい)ない」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)が悪(わる)いんだ…」
秋生(あきお)「それも違(ちが)うな」
秋生(あきお)「これは…」
秋生(あきお)「いつか訪(おとず)れることだったんだよ」
秋生(あきお)「あいつが人並(ひとな)みを求(もと)める以上(いじょう)」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「あいつが、求(もと)めたんだ」
秋生(あきお)「自分(じぶん)を責(せ)めるな」
秋生(あきお)「………」
オッサンはくわえたタバコに火(ひ)をつける。
秋生(あきお)「ふぅ…」
煙(けむり)を吐(つ)くだけで、もう何(なに)も言葉(ことば)にしない。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は最後(さいご)まで黙(だま)ったままで…その煙(けむり)の消(き)えていく先(さき)を見(み)つめていた。
秋生(あきお)「そろそろ、寝(ね)るか…」
時間(じかん)は、午前(ごぜん)3時(じ)を回(まわ)っていた。
消灯(しょうとう)してからもやっぱり俺(おれ)は眠(ねむ)れなくて…
ずっと考(かんが)え事(ごと)をしていた。
オッサンや早苗(さなえ)さんのこと。
ふたりには、それぞれ夢(ゆめ)があった。
オッサンは演劇(えんげき)、早苗(さなえ)さんは教師(きょうし)。
そんな夢(ゆめ)を、ふたりは自(みずか)ら閉(と)ざした。
自分(じぶん)たちの夢(ゆめ)を娘(むすめ)に託(たく)して。
そうして自分(じぶん)たちの娘(むすめ)の幸(しあわ)せを見守(みまも)っていくことにした。
そう…
──結局(けっきょく)、人(ひと)が生(い)きる意味(いみ)は、家族(かぞく)や愛(あい)す人(ひと)の中(なか)にあるんじゃないかってな。
そこに行(い)き着(つ)いたのだ。
俺(おれ)も、同(おな)じだった。
俺(おれ)の生(い)きる理由(りゆう)は、渚(なぎさ)と暮(く)らし、共(とも)に幸(しあわ)せになること。
それを為(な)すために、自分(じぶん)は生(い)きていくんだ。
そして、それは…
自分(じぶん)の中(なか)に命(いのち)を宿(やど)した渚(なぎさ)も同(おな)じだった。
いつだって、人(ひと)の夢(ゆめ)や幸(しあわ)せは、そこにあった。
俺(おれ)は、それを諦(あきら)めさせようとしてる…
俺(おれ)は、それを奪(うば)い去(さ)れるのだろうか…
渚(なぎさ)を失(うしな)ってしまえば、俺(おれ)は絶望(ぜつぼう)する。
それと同(おな)じことを、しようとしてる…
そんなことできない…
俺(おれ)にはできない…
でも、不安(ふあん)なんだ、俺(おれ)は…
あの場所(ばしょ)…
あの自然(しぜん)のように、変(か)わらないものはどこにもなく…
同(おな)じように、消(き)え去(さ)ってしまうんじゃないかって…
遠(とお)くに行(い)ってしまうんじゃないかって…
この不安(ふあん)な思(おも)い…そのままに流(なが)されていくんじゃないかって…
………
…違(ちが)う。
そんなことは関係(かんけい)ない…
そんなものは信(しん)じない…
だって、俺(おれ)と渚(なぎさ)は、今日(きょう)まで乗(の)り越(こ)えてきたんだから…
どんな困難(こんなん)だって、乗(の)り越(こ)えてきたんだ…
人(ひと)と人(ひと)の繋(つな)がりで。
だから…
今回(こんかい)だって、乗(の)り越(こ)えていけるはずだ…
だって、あいつが頑張(がんば)ると言(い)ってるんだから…
あんなにも強(つよ)いあいつが言(い)ってるんだから…
だから、俺(おれ)たちは…
今日(きょう)までと同(おな)じように…
前(まえ)を向(む)いて、歩(ある)いていくべきなんだ…
力(ちから)を合(あ)わせて…
夢(ゆめ)を叶(かな)え続(つづ)けるために。
目(め)が覚(さ)めた。
何時(なんじ)かわからない。
体(からだ)を起(お)こす。
人(ひと)の声(こえ)がしたので、そっちに向(む)かって歩(ある)いてみる。
秋生(あきお)「ありやしたーっ」
今(いま)、オッサンが客(きゃく)を見送(みおく)ったところだった。
秋生(あきお)「もっと買(か)ってけよな…シケた客(きゃく)だぜ…」
秋生(あきお)「ふぅ…」
秋生(あきお)「おわっ」
振(ふ)り向(む)いたオッサンが俺(おれ)を見(み)て驚(おどろ)く。
秋生(あきお)「なんだよ、居(い)たんなら、声(こえ)ぐらいかけろよ」
朋也(ともや)「よぅ」
秋生(あきお)「おはようございますだ」
朋也(ともや)「おはよ」
秋生(あきお)「ああ、おはよ」
秋生(あきお)「よく、寝(ね)てたじゃねぇか」
朋也(ともや)「酒(さけ)のせいかな」
秋生(あきお)「二日酔(ふつかよ)いは」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)」
秋生(あきお)「そっか。もういくか?」
朋也(ともや)「ああ…」
そして…
この人(ひと)たちの夢(ゆめ)も…
朋也(ともや)「オッサン…」
秋生(あきお)「あん?」
朋也(ともや)「俺(おれ)を…止(と)めなくていいのか」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「ああ…止(と)めねぇよ」
朋也(ともや)「どうして」
秋生(あきお)「一番(いちばん)苦(くる)しんだ奴(やつ)らが答(こた)えを出(だ)せ」
秋生(あきお)「それが一番(いちばん)だ」
秋生(あきお)「後(あと)は、俺(おれ)たち家族(かぞく)が一丸(いちがん)となってサポートするさ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「わかったよ…」
声(こえ)「おはようございまーす」
新(あたら)しい客(きゃく)が顔(かお)を覗(のぞ)かせていた。
秋生(あきお)「ほら、仕事(しごと)の邪魔(じゃま)だ。とっとと出(で)ていけ」
朋也(ともや)「ああ、世話(せわ)になった」
客(きゃく)と入(い)れ代(か)わり、俺(おれ)は店(みせ)を後(あと)にした。
部屋(へや)のドアを開(ひら)いたところで、早苗(さなえ)さんが立(た)って、俺(おれ)をもう一度(いちど)外(そと)に招(まね)いた。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「もう一度(いちど)、先生(せんせい)に相談(そうだん)しました」
早苗(さなえ)「今(いま)の小康状態(しょうこうじょうたい)を保(たも)てるのであれば、出産(しゅっさん)も可能(かのう)かもしれないと、そう言(い)ってもらえました」
早苗(さなえ)「ですが、やはり危険(きけん)なことには変(か)わりはないそうです」
早苗(さなえ)「八木(やぎ)さんは…判断(はんだん)はお任(まか)せしますとのことです」
早苗(さなえ)「出産(しゅっさん)するなら、全力(ぜんりょく)を尽(つ)くしてくれるとのことです」
朋也(ともや)「わかりました…ありがとうございます」
部屋(へや)の中(なか)に戻(もど)る。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…起(お)きてるか」
小(ちい)さな声(こえ)で呼(よ)びかける。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、ですか?」
渚(なぎさ)の顔(かお)がこっちを向(む)いた。
朋也(ともや)「ああ」
その隣(となり)に座(すわ)り込(こ)む。
そして、自然(しぜん)と差(さ)し出(だ)された手(て)を握(にぎ)る。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)」
朋也(ともや)「ひとつ訊(き)きたいんだ」
朋也(ともや)「おまえが、強(つよ)く生(い)きること…」
朋也(ともや)「強(つよ)い母(はは)として、新(あたら)しい命(いのち)を生(う)んで、育(そだ)くんでいく、ということ…」
朋也(ともや)「それは、おまえにとっての何(なん)なんだ…?」
朋也(ともや)「それを教(おし)えてくれ…」
渚(なぎさ)「わたしのやるべきことです」
朋也(ともや)「それは…一番(いちばん)か?」
渚(なぎさ)「はい…わたしの一番(いちばん)です」
渚(なぎさ)「今(いま)までずっと弱(よわ)かったわたしが…」
渚(なぎさ)「母(はは)として最初(さいしょ)にやるべきことなんです…」
渚(なぎさ)「ここで負(ま)けたらわたしは…」
渚(なぎさ)「人(ひと)の親(おや)になんてなる資格(しかく)もない…弱(よわ)い子(こ)です…」
渚(なぎさ)「それでは…わたしのお腹(なか)に宿(やど)ってしまったこの子(こ)が…あまりに可哀想(かわいそう)です」
渚(なぎさ)「だから、絶対(ぜったい)に産(う)まないといけないんです…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとの間(あいだ)にできた…この子(こ)を…」
渚(なぎさ)「強(つよ)い母(はは)として」
言(い)って、もう一方(いっぽう)の手(て)をお腹(なか)に置(お)いた。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「俺(おれ)はおまえと一緒(いっしょ)に生(い)きていくことが、俺(おれ)の生(い)きる理由(りゆう)なんだ」
朋也(ともや)「そのために生(い)きていきたいんだ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「そして、おまえは強(つよ)く生(い)きたい…」
朋也(ともや)「強(つよ)い母(はは)として、新(あたら)しい生命(せいめい)を産(う)みたい…」
朋也(ともや)「それがおまえの生(い)きる理由(りゆう)だ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「なら、ふたつの夢(ゆめ)を叶(かな)えよう」
渚(なぎさ)「いいんですか…」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「その代(か)わり…」
強(つよ)く、渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)り直(なお)す。
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に負(ま)けては駄目(だめ)だ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に、叶(かな)えなくちゃならないんだ」
朋也(ともや)「他(ほか)の結果(けっか)はない」
朋也(ともや)「挫折(ざせつ)も、失敗(しっぱい)も、何(なに)もないんだ」
朋也(ともや)「ふたりの夢(ゆめ)を叶(かな)える…それだけだ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)にだ」
朋也(ともや)「いいか、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)の汗(あせ)まみれの顔(かお)。
…笑顔(えがお)を作(つく)っていた。
それは未来(みらい)の母(はは)の顔(かお)だと思(おも)った。
渚(なぎさ)「…はい」
その顔(かお)が、力強(ちからづよ)く頷(うなず)いた。
渚(なぎさ)は頑張(がんば)り続(つづ)ける。
俺(おれ)やオッサンや早苗(さなえ)さんは、それを支(ささ)え続(つづ)ける。
渚(なぎさ)の生(い)きる理由(りゆう)は、我(わ)が子(こ)を強(つよ)く産(う)むことで…
俺(おれ)はその渚(なぎさ)と共(とも)に生(い)きることで…
オッサンや早苗(さなえ)さんは、そんな渚(なぎさ)と俺(おれ)の幸(しあわ)せを願(ねが)ってくれた。
みんなの夢(ゆめ)が繋(つな)がっていた。
家族(かぞく)がひとつとなって、歩(ある)いていた。
誰(だれ)もひとりではなくて、誰(だれ)かが近(ちか)くにいた。
そんな温(ぬく)もりを涙(なみだ)が出(で)るほどに感(かん)じられる…
…そんな日々(ひび)だった。
秋(あき)の訪(おとず)れを肌(はだ)に感(かん)じ始(はじ)める頃(ころ)。
部屋(へや)の一角(いっかく)を、これから生(う)まれてくる子供(こども)のための必要品(ひつようしな)が占拠(せんきょ)し始(はじ)めていた。
頼(たの)まずとも、それらはオッサンと早苗(さなえ)さんが毎日(まいにち)のように増(ふ)やしていくのだ。
すでにおしめが何(なん)ヶ月(げつ)分(ぶん)も積(つ)まれているのには閉口(へいこう)する。
渚(なぎさ)「おかしいです、えへへ…」
いつも渚(なぎさ)はそれを見(み)て、笑(わら)うのだった。
朋也(ともや)「あのふたりは何(なに)か買(か)ってこないと気(ぎ)が済(す)まないらしいんだ」
朋也(ともや)「それでトイレットペーパーが切(き)れていても誰(だれ)も気(き)づかないんだから、マヌケだよな」
朋也(ともや)「今度(こんど)なくなってたら、おしめを履(は)くぞ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「それ、いいです」
渚(なぎさ)「きっと、可愛(かわい)いです」
朋也(ともや)「そうかよ…」
渚(なぎさ)が膨(ふく)らんだお腹(なか)を撫(な)でる。
俺(おれ)たちの会話(かいわ)の仲間(なかま)に、その子(こ)も入(い)れてあげるように。
そっと、呼(よ)びかけるように、微笑(ほほえ)んでいた。
医師(いし)「堕胎(だたい)するのであれば今(いま)が最後(さいご)の機会(きかい)です」
診察(しんさつ)を終(お)えた医師(いし)はその場(ば)で言(い)った。
彼(かれ)は頑(かたく)ななまでの渚(なぎさ)の意志(いし)を知(し)って、そうしたのだ。
医師(いし)「もし、母胎(ぼたい)の安全(あんぜん)を考(かんが)えるのであれば、そうするべきでしょう」
医師(いし)「これからはさらに多(おお)くの負荷(ふか)がかかります」
医師(いし)「それを乗(の)りきったとしても、分娩(ぶんべん)に要(よう)する体力(たいりょく)が残(のこ)っているかどうかもわかりません」
………。
渚(なぎさ)「そのときは…」
みんなが黙(だま)る中(なか)、渚(なぎさ)が口(くち)を開(ひら)いていた。
渚(なぎさ)「その時(とき)は、お腹(はら)の赤(あか)ちゃんはどうなりますか…」
医師(いし)「分娩(ぶんべん)に関(かん)しては、原則(げんそく)として母胎(ぼたい)を優先(ゆうせん)することになります」
医師(いし)「ですが、岡崎(おかざき)さんの場合(ばあい)は体力(たいりょく)と今(いま)抱(かか)えている疾患(しっかん)の問題(もんだい)もあります」
医師(いし)「何度(なんど)も申(もう)し上(あ)げている通(とお)り、岡崎(おかざき)さんがお子(こ)さんを出産(しゅっさん)されるのは、私(わたし)個人(こじん)としては反対(はんたい)しています」
医師(いし)「なぜなら…」
医師(いし)は皺深(しわふか)い顔(がお)をさらにしかめて、言(い)った。
医師(いし)「母胎(ぼたい)の無事(ぶじ)は私(わたし)には保証(ほしょう)できません…」
医師(いし)「もちろん、それまでに死産(しざん)してしまう可能性(かのうせい)もあります」
医師(いし)「熱(あつ)が下(さ)がらなければ、合併症(がっぺいしょう)を引(ひ)き起(お)こす可能性(かのうせい)もあります」
医師(いし)「あらゆる種類(しゅるい)の危険(きけん)が想定(そうてい)されるのです」
医師(いし)「それでも、産(う)むと、仰(おっしゃ)いますか?」
秋生(あきお)「ちっ…なんとかしてみせろ、てめぇ」
医師(いし)「もちろん、私(わたし)にできることはすべてやってきたつもりですし、これからも続(つづ)けて参(まい)ります」
秋生(あきお)「あ、ああ…わかってるよ」
医師(いし)「どうか、今一度(いまいちど)、ご家族(かぞく)で話(はな)し合(あ)ってみてください」
医師(いし)「それでは今日(きょう)のところは失礼(しつれい)します」
早苗(さなえ)「ありがとうございました」
早苗(さなえ)さんが立(た)ち上(あ)がって、見送(みおく)る。
その早苗(さなえ)さんが戻(もど)ってきてからも、沈黙(ちんもく)は続(つづ)いた。
秋生(あきお)「…あ、そうだ」
秋生(あきお)「飯(めし)はどうした、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「さっき食(た)べたばかりですよ」
秋生(あきお)「そ、そうだったか…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)は、じっと、積(つ)み上(あ)げられたおしめを見(み)ていた。
そうして何(なに)を思(おも)っているのだろう…。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)もオッサンも早苗(さなえ)さんも、みんなわかっていた。
渚(なぎさ)はそれでも、産(う)もうとすることを。
だからただ、みな、心(こころ)を落(お)ち着(つ)けようとしているだけだ。
…自分(じぶん)は、温(あたた)かく、そして強(つよ)く、渚(なぎさ)の歩(ある)いていく姿(すがた)を見守(みまも)っていけるだろうか。
そのことを考(かんが)えながら。
やがて、それぞれが決意(けつい)を新(あら)たにしたのだろう。
秋生(あきお)「ただでさえ狭(せま)い部屋(へや)なのに、なんなんだ、このおしめの量(りょう)は」
朋也(ともや)「買(か)ってくるの、いつもあんたなんだけど」
渚(なぎさ)「今度(こんど)、朋也(ともや)くんが履(は)くって言(い)ってました」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)ですか、朋也(ともや)さんっ」
重苦(おもくる)しかった空気(くうき)は立(た)ち消(き)え、いつもの調子(ちょうし)に戻(もど)り始(はじ)める。
今(いま)、俺(おれ)たちにできることとはまさしく、温(あたた)かく、そして強(つよ)く、見守(みまも)っていくことだけだったからだ。
だから、俺(おれ)たちはそうした。
朋也(ともや)「もしかしたら、早苗(さなえ)さんは、俺(おれ)を恨(うら)んでるんじゃないかって…そう思(おも)います」
早苗(さなえ)「え?
どうしてでしょう?」
朋也(ともや)「俺(おれ)が渚(なぎさ)を変(か)えてしまったからです」
早苗(さなえ)「変(か)えた…と言(い)いますと?」
朋也(ともや)「初(はじ)めて会(あ)ったときの渚(なぎさ)は、本当(ほんとう)に弱(よわ)かったんです」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にいつだって泣(な)いてるような奴(やつ)で…」
朋也(ともや)「俺(おれ)がいなかったら、ずっと校門(こうもん)の坂(さか)の下(した)で、立(た)ってて…」
朋也(ともや)「一歩(いっぽ)を踏(ふ)み出(だ)すことすらできなかった奴(やつ)なんです」
朋也(ともや)「それが、俺(おれ)と出会(であ)ってから…強(つよ)くなっていったんです」
朋也(ともや)「だから、俺(おれ)と出会(であ)ってなければ、こんなことにもなっていなかったんだと思(おも)います」
早苗(さなえ)「そんなことはありません、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「ええ…早苗(さなえ)さんは、優(やさ)しい人(ひと)だから、そう言(い)ってくれるのはわかってました」
早苗(さなえ)「本心(ほんしん)ですよ?」
朋也(ともや)「ええ…ありがとうございます」
俺(おれ)はこうして…許(ゆる)されたかったのだろうか。
ただ、それだけなのだろうか…。
朋也(ともや)「俺(おれ)には母親(ははおや)がいないっすから…」
早苗(さなえ)「そうでしたね」
朋也(ともや)「だから、本当(ほんとう)に早苗(さなえ)さんのこと、母親(ははおや)みたいに思(おも)ってしまいます」
早苗(さなえ)「それは光栄(こうえい)です」
早苗(さなえ)「こんな泣(な)き虫(むし)な母親(ははおや)でもよろしければ、ずっとそう思(おも)っていてください」
朋也(ともや)「ええ」
この冬(ふゆ)も雪(ゆき)は積(つ)もらなかった。
昔(むかし)は雪合戦(ゆきがっせん)ができるほどに降(お)り積(つ)もったというのに…
今(いま)ではそれが信(しん)じられなかった。
みぞれのような雪(ゆき)が地面(じめん)に落(お)ちては、すぐに水(みず)となって色(いろ)をなくしてしまう。
そんな様(さま)をじっと見(み)ていた。
ある日(ひ)の作業現場(さぎょうげんば)でのこと。
朋也(ともや)(ここは…あの場所(ばしょ)の近(ちか)く…)
俺(おれ)はその存在(そんざい)を思(おも)い出(だ)していた。
そう…あの場所(ばしょ)は、大切(たいせつ)な場所(ばしょ)だったはずだ。
朋也(ともや)「俺(おれ)、ちょっと抜(ぬ)けていいですかっ」
芳野(よしの)「どうした」
朋也(ともや)「すみません、すぐ戻(もど)ってきますんでっ」
了解(りょうかい)も得(え)ず、俺(おれ)は駆(か)けだしていた。
朋也(ともや)「あ…」
なんてことだろう…
俺(おれ)は絶句(ぜっく)したまま、声(こえ)が出(で)なかった。
知(し)らなかった…こんなことになっているなんて。
俺(おれ)はその場(ば)に座(すわ)り込(こ)んだ。
声(こえ)「町(まち)は変(か)わり続(つづ)けていく。それを止(と)めることはできやしねぇんだよ」
オッサンがすぐ隣(となり)に立(た)っていた。
秋生(あきお)「何(なに)もかも変(か)わらずにはいられねぇんだ…」
秋生(あきお)「それが、人(ひと)が生(い)きる、ということだからな…」
オッサンはずっと、この場所(ばしょ)をひとり見守(みまも)ってきたのだろう。
俺(おれ)と、この場所(ばしょ)に訪(おとず)れた日(ひ)からも…。
それ以上(いじょう)は言葉(ことば)を交(か)わさず、俺(おれ)たちはじっと冷(つめ)たくそびえ立(た)つ建造物(けんぞうぶつ)を見(み)つめていた。
朋也(ともや)「オッサン…」
秋生(あきお)「なんだ…」
朋也(ともや)「罪(つみ)を犯(おか)してまで、この工事(こうじ)を止(と)めれば…渚(なぎさ)は元気(げんき)でいられるのかな」
秋生(あきお)「馬鹿(ばか)か、てめぇは…」
秋生(あきお)「個人(こじん)の力(ちから)で、止(と)められるもんじゃねぇよ…」
秋生(あきお)「それに…この場所(ばしょ)は大病院(たいびょういん)になるって話(はなし)だ…」
秋生(あきお)「ずっと、この町(まち)になかったものだ」
秋生(あきお)「それでこの先(さき)…どれだけの命(いのち)が助(たす)かるのか…それを考(かんが)えてみろ」
秋生(あきお)「町(まち)が変(か)わっていくのは…人(ひと)が生(い)きるためだ…」
秋生(あきお)「仕方(しかた)がねぇんだよ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)…この町(まち)が嫌(きら)いになりそうだよ…」
秋生(あきお)「それはおまえの勝手(かって)だが…」
秋生(あきお)「自暴自棄(じぼうじき)にだけはなるなよ」
秋生(あきお)「もしどうしても、罪(つみ)を犯(おか)したくなったら、まず俺(おれ)に言(い)え」
朋也(ともや)「止(と)めるのかよ…」
秋生(あきお)「止(と)めはしねぇよ」
秋生(あきお)「俺(おれ)が代(か)わりにやってやるだけだ」
その言葉(ことば)で正気(しょうき)に戻(もど)れた気(き)がした。
俺(おれ)は、やっぱりこの人(ひと)も大好(だいす)きだった。
仕事(しごと)を終(お)え家(いえ)に帰(かえ)ってくると、早苗(さなえ)さんと代(か)わって、渚(なぎさ)のそばに座(すわ)る。
そして渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)る。
渚(なぎさ)はもう一方(いっぽう)の手(て)を、膨(ふく)らんだお腹(なか)に置(お)いた。
それは、もう家族(かぞく)だと思(おも)った。
俺(おれ)たちは、三人(さんにん)で、そして家族(かぞく)なのだと。そんな気(き)がした。
朋也(ともや)「寒(さむ)くないか」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのほうが、手(て)、冷(つめ)たいです」
朋也(ともや)「そうか…」
渚(なぎさ)「外(そと)はまだまだ寒(さむ)いですから…」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「そうだ…もうすぐクリスマスだ」
そのことを思(おも)い出(だ)す。
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「同時(どうじ)におまえの誕生日(たんじょうび)だ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「今年(ことし)は何(なに)が欲(ほ)しい?
なんでも言(い)えよ。探(さが)して買(か)ってきてやるから」
渚(なぎさ)「また、あれがいいです」
言(い)って、部屋(へや)の隅(すみ)に並(なら)ぶだんごのぬいぐるみを見(み)た。
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、あんなもの、あれ以上(いじょう)あっても仕方(しかた)がないだろ」
渚(なぎさ)「いえ、たくさんにしてあげたいです。一人(ひとり)よりも、二人(ふたり)。二人(ふたり)よりも三人(さんにん)です」
朋也(ともや)「だんごは大家族(だいかぞく)ってか」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)「じゃあ、一年(いちねん)にひとつ、積(つ)み上(あ)げていくか?」
渚(なぎさ)「そうしてもらえるとうれしいです。見(み)てて、楽(たの)しいです」
朋也(ともや)「でもあれ、プレミアもんなんだぜ。もう何年(なんねん)も前(まえ)に生産(せいさん)を打(う)ち切(き)ってる」
朋也(ともや)「年(とし)を追(お)うごとに、入手困難(にゅうしゅこんなん)になっていくんだぞ」
朋也(ともや)「去年(きょねん)見(み)つけたのだって、偶然(ぐうぜん)だったしな」
渚(なぎさ)「難(むずか)しいでしょうか…」
朋也(ともや)「いや…でも、それぐらいしないとな。おまえの誕生日(たんじょうび)なんだし」
一番大事(いちばんだいじ)な人(ひと)の誕生日(たんじょうび)なんだし。
渚(なぎさ)「すみません…でも、すごくうれしいです」
朋也(ともや)「ああ、任(まか)せておけ」
二週間後(にしゅうかんご)のクリスマスの日(ひ)。
オッサンと早苗(さなえ)さんも呼(よ)んで、2年前(ねんまえ)のように賑(にぎ)やかに渚(なぎさ)を祝(いわ)った。
けど、2年前(ねんまえ)と違(ちが)って、渚(なぎさ)は泣(な)かなかった。
渚(なぎさ)「すごく可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)は俺(おれ)からのプレゼント、だんご大家族(だいかぞく)のぬいぐるみをずっと抱(だ)いていた。
朋也(ともや)「色(いろ)以外(いがい)は何(なに)も変(か)わらないんだけどな」
渚(なぎさ)「この可愛(かわい)さは、飽(あ)きない、ということです」
朋也(ともや)「でも、古(ふる)い奴(やつ)ら、嫉妬(しっと)してるんじゃないか。放(ほう)っておかれて」
渚(なぎさ)「大(おお)きいので、一度(いちど)にたくさんは抱(だ)けないです」
渚(なぎさ)「なので朋也(ともや)くんに抱(だ)いていてほしいです」
朋也(ともや)「え?
俺(おれ)?」
早苗(さなえ)「はい、どうぞっ」
わざわざ早苗(さなえ)さんが二(ふた)つとも、持(も)ってきてくれる。
朋也(ともや)「マジ…?」
渚(なぎさ)「抱(だ)いてあげないと可哀想(かわいそう)です」
朋也(ともや)「わかったよ…でも、二個(にこ)同時(どうじ)にか?」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、体(からだ)が大(おお)きいから大丈夫(だいじょうぶ)です」
朋也(ともや)「一個(いっこ)ずつじゃ駄目(だめ)か?」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「あ、ああ…わかったよ。抱(だ)くよ」
ふたつのだんごを縦(たて)に並(なら)べて抱(だ)く。
上(うえ)のが転(ころ)げ落(お)ちそうになる。顎(あご)で、押(お)さえつけるしかなかった。
鼻(はな)まで埋(う)もれる。
渚(なぎさ)の…匂(にお)いがした。
いつも渚(なぎさ)が抱(だ)いていたからだろうか…。
朋也(ともや)「これで、いい…?」
くぐもった声(こえ)。聞(き)こえただろうか。
渚(なぎさ)は笑(わら)っていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、とても可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「えへへ」
最後(さいご)まで笑顔(えがお)でいた。
年(とし)が明(あ)け、正月(しょうがつ)。
安産(あんざん)の祈願(きがん)を兼(か)ねて、オッサンと早苗(さなえ)さんは、新年(しんねん)参(まい)りに出(で)かけた。
帰(かえ)ってくると、正月(しょうがつ)だというのに、二人(ふたり)とも俺(おれ)たちと一緒(いっしょ)にこの狭(せま)い部屋(へや)で過(す)ごした。
早苗(さなえ)さんが、雑煮(ぞうに)を作(つく)ってくれて、皆(みんな)で食(た)べた。
渚(なぎさ)も、餅(もち)抜(ぬ)きで食(た)べた。
三(さん)が日(にち)最後(さいご)の日(ひ)には、思(おも)いもよらない客(きゃく)が訪(おとず)れた。
春原(すのはら)「よぅ、久(ひさ)しぶり」
朋也(ともや)「誰(だれ)だ、おまえ」
春原(すのはら)「おまえな、去年(きょねん)も同(おな)じやり取(と)りしたぞ」
朋也(ともや)「まさか、春原(すのはら)か」
春原(すのはら)「まさかも何(なに)もない。春原(すのはら)だ」
その後(うし)ろには、仁科(にしな)や杉坂(すぎさか)の姿(すがた)もあった。
渚(なぎさ)「みなさん…今日(きょう)はどうしましたか」
渚(なぎさ)はそう訊(き)きながらも、喜(よろこ)びを隠(かく)せない様子(ようす)だった。
春原(すのはら)「また揃(そろ)って、休(やす)みが取(と)れたからさ、びっくりさせてやろうと思(おも)って」
朋也(ともや)「いや、おまえの頭(あたま)だけでびっくりなんだが…」
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんを見(み)る。早苗(さなえ)さんひとり、驚(おどろ)いた様子(ようす)もなく笑顔(えがお)だった。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、知(し)ってましたね」
早苗(さなえ)「はいっ」
早苗(さなえ)「どうしても、びっくりさせたいということでしたので」
朋也(ともや)「ったく、してやられたよ」
仁科(にしな)「遅(おそ)くなってしまいましたが、おふたり、ご結婚(けっこん)、おめでとうございます」
春原(すのはら)が提(さ)げていた大(おお)きな包(つつ)みを床(ゆか)に置(お)いた。
杉坂(すぎさか)「同時(どうじ)におめでた、ということでしたので、結婚祝(けっこんいわ)いは、こういったものがいいのではないかと思(おも)いまして」
杉坂(すぎさか)が封(ふう)を解(と)く。
中(なか)から出(で)てきたのは、ベビー用品(ようひん)の数々(かずかず)。
同(おな)じようなものが、すぐ横(よこ)の壁(かべ)に積(つ)まれている。
俺(おれ)はオッサンに顎(あご)で命(めい)じて、それを隠(かく)させる。
秋生(あきお)「お、おうっ…」
秋生(あきお)「って、なんで、俺様(おれさま)がてめぇに顎(あご)で使(つか)われなきゃならねぇんだーっ!」
杉坂(すぎさか)「あ…たくさんありましたか」
朋也(ともや)「ほら、バレたじゃないか」
渚(なぎさ)「いえ、いるものですから、たくさんあっても困(こま)らないです」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)の口(くち)から出(で)たのは、素直(すなお)な感謝(かんしゃ)の言葉(ことば)だった。
早苗(さなえ)「みなさん、余(あま)りもので恐縮(きょうしゅく)ですが、おせち食(た)べていってくださいね」
早苗(さなえ)さんが台所(だいどころ)に立(た)つ。
秋生(あきお)「よしっ、てめぇら二十歳(はたち)になってんだろ。酒(さけ)呑(の)むぞ、おらぁ」
オッサンは一升瓶(いっしょうびん)を持(も)ち出(だ)してきた。
俺(おれ)たちは、酒(さけ)を飲(の)んで、おせちをつついて、楽(たの)しい時間(じかん)を過(す)ごした。
仁科(にしな)「古河(ふるかわ)さんのお父(とう)さんって、若(わか)くて格好(かっこう)いいですね」
秋生(あきお)「かっ、そうだろそうだろ。惚(ほ)れろっ、この女(おんな)どもがっ」
杉坂(すぎさか)「お母(かあ)さんも、若(わか)くて、とても可愛(かわい)い方(かた)ですね」
秋生(あきお)「かっ、そうだろそうだろ。俺(おれ)の女(おんな)だからなっ。見習(みなら)え、この女(おんな)どもがっ」
仁科(にしな)と杉坂(すぎさか)にちやほやされ、オッサンは絶好調(ぜっこうちょう)だった。
渚(なぎさ)のそばには俺(おれ)と春原(すのはら)がいた。
春原(すのはら)「なぁ、岡崎(おかざき)」
春原(すのはら)「つーと、ふたりの名字(みょうじ)なのか。ややこしいな」
渚(なぎさ)「いえ、構(かま)わないです。いつものように呼(よ)んでください」
春原(すのはら)「なら、岡崎(おかざき)のままで」
春原(すのはら)「な、岡崎(おかざき)」
朋也(ともや)「ああ」
春原(すのはら)「父親(ちちおや)になるってのは、どんな気分(きぶん)なんだ?」
朋也(ともや)「なんだ、妙(みょう)なことを訊(き)く奴(やつ)だな」
春原(すのはら)「僕(ぼく)はさ、そんなものになるなんて、まだまだ先(さき)の話(はなし)だと思(おも)ってたんだよ」
春原(すのはら)「でもさ、おまえがそうなるって聞(き)いて、いきなり身近(みぢか)なものに思(おも)えてきたんだ」
春原(すのはら)「おまえらの前(まえ)でこんなこと言(い)うのもなんだけどさ、自分(じぶん)が父親(ちちおや)になっちまうなんて、そりゃ天災(てんさい)のようなものだと思(おも)ってる」
春原(すのはら)「そのぐらい好(この)んでなるようなものじゃないってことだ」
春原(すのはら)「だからさ、どんな気持(きも)ちでそんなものになろうとしてるのか、知(し)りたいんだよ」
渚(なぎさ)の視線(しせん)がじっと俺(おれ)に注(そそ)がれているのを感(かん)じる。
それは、渚(なぎさ)も興味(きょうみ)のあるところだったのだろう。
朋也(ともや)「わかんねぇよ…」
俺(おれ)は答(こた)えた。
朋也(ともや)「実感(じっかん)だって、まだないしよ…」
朋也(ともや)「ただ、好(す)きな人(ひと)ができて…」
朋也(ともや)「そいつのために生(い)きてたら、こうなった」
朋也(ともや)「それだけだよ」
春原(すのはら)「ははっ」
その答(こた)えに春原(すのはら)が笑(わら)った。
春原(すのはら)「結局(けっきょく)、岡崎(おかざき)、おまえも何(なに)も変(か)わっちゃいないな」
朋也(ともや)「そうか?」
春原(すのはら)「ああ。僕(ぼく)はてっきり、渚(なぎさ)ちゃんとおまえが遠(とお)いところに行(い)っちゃったのかと思(おも)ったよ」
春原(すのはら)「でも、案外(あんがい)近(ちか)くにいた。それがわかったよ」
春原(すのはら)「そうだよな。無我夢中(むがむちゅう)になってたら、父親(ちちおや)になってた」
春原(すのはら)「うん、それなら納得(なっとく)いくよ」
どうしてか、春原(すのはら)はほっとした様子(ようす)だった。
春原(すのはら)「たまに集(あつ)まれば、こうしてあの時(とき)のようにさ、馬鹿(ばか)なことやれる仲(なか)でいたいよな」
朋也(ともや)「そうだな…まったくだ」
皆(みんな)が帰(かえ)り、静(しず)かな夜(よる)が訪(おとず)れる。
渚(なぎさ)「しおちゃん…」
渚(なぎさ)「えへへ」
渚(なぎさ)「だんごっ、だんごっ…」
また、歌(うた)い始(はじ)める。
けど、自分(じぶん)で歌(うた)うのは大変(たいへん)なはずだった。
朋也(ともや)「おまえさ、疲(つか)れるだろ。自分(じぶん)で歌(うた)うのはやめておけよ」
ただ、俺(おれ)は熱(あつ)が上(あ)がるのが心配(しんぱい)だった。
それでも渚(なぎさ)は歌(うた)うことをやめなかった。
渚(なぎさ)「もし、この子(こ)のためにできることがあるなら、すべてしておきたいです…」
息(いき)が上(あ)がったままで、そう答(こた)えた。
朋也(ともや)「じゃあさ…俺(おれ)が歌(うた)ってやるから…おまえは黙(だま)って聞(き)いてろよ」
朋也(ともや)「だんごっ、だんごっ…」
俺(おれ)は歌(うた)い始(はじ)める。
それでも、渚(なぎさ)は一緒(いっしょ)に歌(うた)う。
朋也(ともや)「おまえな…怒(おこ)るぞ」
渚(なぎさ)「だって…ひとりより、ふたりのほうが楽(たの)しく歌(うた)えます…」
渚(なぎさ)「わたしたちが楽(たの)しかったほうが、この子(こ)も楽(たの)しいと思(おも)います」
渚(なぎさ)「ね、しおちゃん」
そう言(い)われると、何(なに)も言(い)い返(かえ)せない。
朋也(ともや)「じゃ、小(ちい)さくな」
渚(なぎさ)「はい」
ふたりで歌(うた)い続(つづ)けた。
…こうして、楽(たの)しい時間(じかん)は過(す)ぎ去(さ)った。
1月(がつ)の終(お)わりから熱(あつ)が上(あ)がり始(はじ)めた。
そして渚(なぎさ)は、起(お)きあがることすらできなくなってしまった。
それに反(はん)し、お腹(はら)の中(なか)では、新(あたら)しい命(いのち)が躍動(やくどう)を見(み)せていた。
力強(ちからづよ)く、この世界(せかい)に生(う)まれることを待(ま)ちわびているかのように。
それはまるで…
ゆっくりと…
自(みずか)らの命(いのち)を我(わ)が子(こ)に受(う)け渡(わた)していくような…
そんな…光景(こうけい)だった。
ずっと抱(だ)いていた不安(ふあん)が形(かたち)になろうとしている…。
大(おお)きな時間(じかん)の流(なが)れの中(なか)で、抗(あらが)いようのない悲(かな)しみが押(お)し寄(よ)せてきて…
その中(なか)で、俺(おれ)と渚(なぎさ)は離(はな)ればなれになってしまう…。
二度(にど)と会(あ)えない場所(ばしょ)へ、渚(なぎさ)は行(い)ってしまう。
手(て)を伸(の)ばしても…
繋(つな)ごうとしても、何(なに)も触(ふ)れない…。
触(ふ)れられない。
そんなのは嫌(いや)だ…
絶対(ぜったい)に嫌(いや)だ…
渚(なぎさ)も生(い)きて…
子供(こども)も無事(ぶじ)に生(う)まれて…
そして、その家族(かぞく)を俺(おれ)は守(まも)り続(つづ)けて…
みんなで、幸(しあわ)せになる…
それが俺(おれ)の夢(ゆめ)で…
生(い)きる理由(りゆう)なんだから…。
電話(でんわ)があった。
早苗(さなえ)『早苗(さなえ)です』
元気(げんき)のない声(こえ)。
朋也(ともや)「どうしましたか」
早苗(さなえ)『秋生(あきお)さん、そっちに行(い)ってないですか』
朋也(ともや)「ええ…来(き)てませんけど」
早苗(さなえ)『出(で)かけたまま、昨日(きのう)から帰(かえ)ってなくて…』
朋也(ともや)「どこへ出(で)かけるって…言(い)ってましたか」
早苗(さなえ)『いつものように、午後(ごご)に最後(さいご)のパンを焼(や)いて、それからふらっと出(で)ていって、そのまま…』
朋也(ともや)「わかりました。早苗(さなえ)さんは家(いえ)にいてください。いつ戻(もど)ってくるかわからないですから」
早苗(さなえ)『朋也(ともや)さん、探(さが)しにいくんですか?』
朋也(ともや)「ええ」
早苗(さなえ)『でも、渚(なぎさ)がひとりになります…』
朋也(ともや)「いえ、今(いま)は寝(ね)てますから…少(すこ)しだけ」
朋也(ともや)「それに、あてがあるんです。だから、そこに行(い)って、確(たし)かめるだけなんで…」
早苗(さなえ)『なら、わたしがそこに行(い)きます。教(おし)えてください』
朋也(ともや)「いや…それは、教(おし)えられないんです。すみません…」
オッサンの意志(いし)を裏切(うらぎ)るわけにはいかなかった。
早苗(さなえ)さんには、真(ま)っ直(す)ぐ現実(げんじつ)に生(い)きていてほしいのだと思(おも)う。
朋也(ともや)「すぐですから。大丈夫(だいじょうぶ)です」
早苗(さなえ)『わかりました…お願(ねが)いします、朋也(ともや)さん』
朋也(ともや)「…はいっ」
前(まえ)に来(き)たときにはなかった、大(おお)きな作業機械(さぎょうきかい)が乱立(らんりつ)していた。
そして、ひどく…騒(さわ)がしい。
工事(こうじ)の関係者(かんけいしゃ)たちが、集(あつ)まって、何事(なにごと)かを大声(おおごえ)で話(はな)し合(あ)っていた。
胸騒(むなさわ)ぎがした。
目(め)の前(まえ)にはロープ。
これ以上(いじょう)は、関係者(かんけいしゃ)立入禁止(たちいりきんし)で近寄(ちかよ)れない。
俺(おれ)は耳(みみ)を澄(す)ませてみた。
声(こえ)(立(た)ち退(の)きもなかった、こんなところにだよっ…)
声(こえ)(じゃあ、どういう因縁(いんねん)なんだよ…?)
声(こえ)(おかしいんじゃないか…?)
声(こえ)(だって、ひとりだって言(い)うじゃないか…)
俺(おれ)はそこまで聞(き)いて、確信(かくしん)を得(え)た。
オッサンが、何(なに)かをしでかしたのだ。
俺(おれ)はその姿(すがた)を探(さが)して、闇雲(やみくも)に走(はし)った。
秋生(あきお)「よぅ、朋也(ともや)じゃねぇか」
朋也(ともや)「オッサン…」
朋也(ともや)「あんた…何(なに)やってたんだよっ」
秋生(あきお)「なんでもない。大丈夫(だいじょうぶ)だ。これから帰(かえ)るところだ」
朋也(ともや)「あんた…俺(おれ)が相談(そうだん)するまで、やらないんじゃなかったのかよ…」
秋生(あきお)「そんな約束(やくそく)はしてねぇな」
秋生(あきお)「おまえがやるんだったら、代(か)わりに俺(おれ)がやる、と言(い)っただけだ」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「木(き)をさ…伐採(ばっさい)にかかりやがったんだ…」
秋生(あきお)「話(はなし)では、残(のこ)しておくはずだったやつまでもだ…」
秋生(あきお)「俺(おれ)だって、別(べつ)に考(かんが)えてやったわけじゃねぇ」
秋生(あきお)「ただ、体(からだ)が動(うご)いちまったんだな…」
秋生(あきお)「けど、それは現場判断(げんばはんだん)でよ…」
秋生(あきお)「お偉(えら)いさんが出(で)てきて、結局(けっきょく)は残(のこ)してくれることになった…」
秋生(あきお)「病院(びょういん)の隅(すみ)のほうに…ちょっとだけどな…」
秋生(あきお)「それだけの話(はなし)だよ…」
朋也(ともや)「殴(なぐ)っていいか」
秋生(あきお)「あん?」
ばきっ。
返事(へんじ)を待(ま)つ前(まえ)に殴(なぐ)っていた。
秋生(あきお)「いてぇなぁ!」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに心配(しんぱい)かけたってことをっ…」
朋也(ともや)「その痛(いた)みで覚(おぼ)えておけよ…」
秋生(あきお)「なんだとぉ…?」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)、帰(かえ)るから」
オッサンをその場(ば)に残(のこ)して、俺(おれ)は立(た)ち去(さ)った。
高(たか)い熱(ねつ)が渚(なぎさ)を苦(くる)しめ続(つづ)ける。
もう渚(なぎさ)はぼろぼろに見(み)えた。
これから先(さき)も戦(たたか)うことなどできるのだろうか。
ただ、衰弱(すいじゃく)しきった顔(かお)で眠(ねむ)っている渚(なぎさ)の顔(かお)を見(み)ていると、居(い)たたまれなくなる。
押(お)し寄(よ)せてくる波(なみ)は、そこまで来(き)ていて…
今(いま)、さらっていこうとしてるのではないかと…。
俺(おれ)は握(にぎ)った手(て)に力(ちから)を込(こ)める。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
声(こえ)がした。
渚(なぎさ)が薄目(うすめ)を開(ひら)いていた。
朋也(ともや)「ん、どうした、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「わたし、みんなに迷惑(めいわく)かけてます…」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、んなことあるかよ…」
朋也(ともや)「誰(だれ)よりも頑張(がんば)ってるのは、おまえだ…みんな、わかってるから…」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「だからさ…寝(ね)ような。今(いま)は、苦(くる)しくないんだろ…?」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「でも、もう少(すこ)し朋也(ともや)くんと話(はなし)をしてたいです」
朋也(ともや)「ああ…わかった。ちょっとだけだぞ…」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)が天井(てんじょう)を見上(みあ)げる。
その向(む)こうにある…これからの未来(みらい)を見(み)つめるように。
渚(なぎさ)「わたしの今(いま)の目標(もくひょう)は、この子(こ)を産(う)むことです…」
朋也(ともや)「ああ…」
渚(なぎさ)「そして…」
渚(なぎさ)「この子(こ)と、朋也(ともや)くんと三人(さんにん)で生(い)きることです」
朋也(ともや)「………」
涙(なみだ)が目(め)に溜(た)まる。
目(め)を閉(と)じれば、一気(いっき)に流(なが)れ出(だ)そうだった。
どうして、そんな未来(みらい)さえ、夢(ゆめ)のように思(おも)えるのだろう…。
そんな、普通(ふつう)の未来(みらい)が…
そんな、ありふれた未来(みらい)が…
もっと、普通(ふつう)だったら…
もっとありふれていたらよかったのに…。
渚(なぎさ)の行(い)く道(みち)は、いつだって困難(こんなん)に満(み)ちていた…。
普通(ふつう)の幸(しあわ)せが…人(ひと)よりずっと遠(とお)く…
…遙(はる)か彼方(かなた)にあった。
生(い)きること…たったそれだけが。
いつのまにか渚(なぎさ)は目(め)を閉(と)じていた。
こんなにやせ細(ほそ)っているのに、穏(おだ)やかな寝顔(ねがお)…。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…ずっとだからな…」
ずっと、手(て)を握(にぎ)っていた。
激(はげ)しい陣痛(じんつう)が始(はじ)まった。
早苗(さなえ)さんが、苦悶(くもん)の表情(ひょうじょう)を浮(う)かべる渚(なぎさ)に、何事(なにごと)か訊(き)いていた。
その答(こた)えを確認(かくにん)して、早苗(さなえ)さんは俺(おれ)に顔(かお)を向(む)ける。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「わかりました」
それは、助産婦(じょさんぷ)の八木(やぎ)さんを呼(よ)んでほしいという合図(あいず)だった。
俺(おれ)はすぐさま電話連絡(でんわれんらく)し、雨(あめ)の降(ふ)る中(なか)、迎(むか)えに出(で)た。
八木(やぎ)さんを連(つ)れて戻(もど)ってきても、渚(なぎさ)は苦(くる)しんだままだった。
ここからは、そのふたりに任(まか)せるしかなかった。
八木(やぎ)「古河(ふるかわ)さんは、ベビーバスに湯(ゆ)を張(は)ってもらえますか」
オッサンが八木(やぎ)さんにそう命(めい)じられた。
八木(やぎ)「岡崎(おかざき)さんは、こちらにきて、奥(おく)さんを励(はげ)ましてあげてください」
それは望(のぞ)むところだった。
部屋(へや)の奥(おく)に回(まわ)り込(こ)んで、渚(なぎさ)の隣(となり)に膝(ひざ)をつく。
朋也(ともや)「あの…」
忙(いそが)しげに鞄(かばん)の中(なか)から医療器具(いりょうきぐ)を取(と)りだしている八木(やぎ)さんに声(こえ)をかける。
朋也(ともや)「手(て)を握(にぎ)っていても、いいんですよね」
八木(やぎ)「ええ、もちろん。そうしてあげてください」
良(よ)かった。
渚(なぎさ)が一番(いちばん)苦(くる)しんでいる時(とき)に、そうしてあげられることは救(すく)いだった。
俺(おれ)は必死(ひっし)に痛(いた)みを堪(た)えるように閉(と)じられた渚(なぎさ)の手(て)のひらを引(ひ)き寄(よ)せ、力(ちから)ずくで開(ひら)かせる。
そして、その汗(あせ)の滲(にじ)む手(て)のひらに自分(じぶん)の手(て)のひらを押(お)し当(あ)てた。
すると、今度(こんど)は俺(おれ)の手(て)を激(はげ)しく求(もと)めるように強(つよ)く閉(と)じられた。
ふたりの指(よび)が、隙間(すきま)なく絡(から)み合(あ)う。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、俺(おれ)はここにいるからなっ…」
一瞬(いっしゅん)渚(なぎさ)の目(め)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
渚(なぎさ)「………」
声(こえ)にはでなかったけど、強(つよ)く頷(うなず)いた。
朋也(ともや)「頑張(がんば)れ…」
朋也(ともや)「負(ま)けるなよ…こんなところで…」
朋也(ともや)「無事(ぶじ)に生(う)んで…」
朋也(ともや)「始(はじ)めような、新(あたら)しい三人(さんにん)での生活(せいかつ)を…」
八木(やぎ)「それでは始(はじ)めます」
朋也(ともや)「はい」
朋也(ともや)「お願(ねが)いします」
渚(なぎさ)の分娩(ぶんべん)が、始(はじ)まった。
何度(なんど)も渚(なぎさ)は意識(いしき)を失(うしな)った。
そして、また痛(いた)みに目(め)を覚(さ)ます。
その繰(く)り返(かえ)しだった。
それは、目(め)を覆(おお)いたくなるほど、残酷(ざんこく)な仕打(しう)ちで…
まるで、死(し)に至(いた)らしめるための容赦(ようしゃ)のない拷問(ごうもん)のようだった。
頑張(がんば)るも何(なに)もない。
ただ、無抵抗(むていこう)に受(う)け続(つづ)けるだけ。
こんなことを続(つづ)けていたら、渚(なぎさ)が死(し)んでしまう…。
死(し)んでしまうじゃないかっ…。
早(はや)く…
早(はや)く終(お)わってくれっ…!
心(こころ)の中(なか)で叫(さけ)び続(つづ)ける。
長(なが)くて…
終(お)わりの見(み)えない時間(じかん)。
永遠(えいえん)に続(つづ)くと思(おも)われた…
五感(ごかん)が失(うしな)われて、俺(おれ)は暗闇(くらやみ)にいた。
ああ、どうなってしまったんだろう…。
俺(おれ)の心(こころ)が堪(た)えられなくなってしまったのだろうか…。
それとも、もう絶望(ぜつぼう)してしまったのだろうか…。
すべては終(お)わってしまったのだろうか…。
不意(ふい)に視覚(しかく)が戻(もど)った。
目(め)の前(まえ)にあるものは床(ゆか)だった。
………。
…聞(き)こえてくる。
…泣(な)き声(ごえ)が。
…赤(あか)ん坊(ぼう)の、泣(な)き声(ごえ)が。
そうとわかると、俺(おれ)は勢(いきお)いよく顔(かお)をあげた。
そして、現実(げんじつ)を見据(みす)えた。
泣(な)き声(ごえ)のする方向(ほうこう)…赤(あか)ん坊(ぼう)がタオルの上(うえ)に真(ま)っ赤(あか)な体(からだ)を晒(さら)しだしていた。
俺(おれ)は一度(いちど)渚(なぎさ)の手(て)を離(はな)すと、その子(こ)をタオルでくるんで、そっと抱(だ)き上(あ)げる。
そして、また渚(なぎさ)の手(て)を握(にぎ)りに戻(もど)る。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)は目(め)を閉(と)じていた。
憔悴(しょうすい)しきった顔(かお)…
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
呼(よ)びかける。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ぁ…」
目(め)に涙(なみだ)が溜(た)まりだす…
それが零(こぼ)れようとした瞬間(しゅんかん)。
手(て)が強(つよ)く握(にぎ)り直(なお)された。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)!」
渚(なぎさ)「…朋也(ともや)くん」
その目(め)が薄(うす)く開(ひら)かれた。
まだ視界(しかい)がぼやけるのか、俺(おれ)の顔(かお)をそれは見(み)ていなかった。
朋也(ともや)「ここだ、渚(なぎさ)…」
顔(かお)を近(ちか)づける。
ようやく、目(め)が合(あ)った。
渚(なぎさ)「わたし…がんばれました…」
朋也(ともや)「ああ。そうだ…やったんだよ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「聞(き)こえるだろ、俺(おれ)たちの子供(こども)の泣(な)き声(ごえ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
朋也(ともや)「ほら、最初(さいしょ)に抱(だ)いてる俺(おれ)…」
渚(なぎさ)「はい、かわいいです…」
朋也(ともや)「ああ…俺(おれ)たちの子(こ)だぞ。汐(うしお)だ」
渚(なぎさ)「しおちゃん…」
朋也(ともや)「あれがついてないから、女(おんな)の子(こ)じゃないかな…」
朋也(ともや)「そうですよね、早苗(さなえ)さん…」
朋也(ともや)「ほら、やっぱりそうだ…女(おんな)の子(こ)だ…」
朋也(ともや)「元気(げんき)な女(おんな)の子(こ)だぞ…」
渚(なぎさ)「よかったです…」
朋也(ともや)「ああ、よくやった…本当(ほんとう)に…」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「でも…」
渚(なぎさ)「疲(つか)れてしまいました…」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「だから…」
渚(なぎさ)「少(すこ)しだけ休(やす)ませてください…」
渚(なぎさ)「………」
俺(おれ)は不安(ふあん)になる。
いやに…渚(なぎさ)の顔(かお)が青白(あおじろ)かったから。
朋也(ともや)「………」
周(まわ)りが騒(さわ)がしく、どたどたしている。
なにをやっているのだろうか…。
オッサンの怒声(どせい)や…早苗(さなえ)さんの慌(あわ)てた声(こえ)まで聞(き)こえてくる。
みんな静(しず)かにしてほしい。
俺(おれ)は穏(おだ)やかに渚(なぎさ)と話(はなし)をしたいんだから。
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「待(ま)ってくれよ、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「もう少(すこ)し話(はなし)をしてよう…」
朋也(ともや)「聞(き)いてくれてるだけで、いいから…」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「ほら、俺(おれ)たちの子(こ)だ…」
朋也(ともや)「おまえと俺(おれ)の子(こ)だ…」
朋也(ともや)「猿(さる)みたいな顔(かお)だよな…」
朋也(ともや)「すんげー小(ちい)さい…」
朋也(ともや)「呼(よ)んでみるからな、俺(おれ)…」
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
朋也(ともや)「パパだぞ、汐(うしお)…」
朋也(ともや)「こっちがママだぞ…」
朋也(ともや)「はは…無視(むし)された」
朋也(ともや)「って、わかるわけないよな…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)はもう喋(しゃべ)ることはなかった。
けど、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)っていた。
離(はな)れてしまわないよう…強(つよ)く、強(つよ)く。
朋也(ともや)「子供(こども)の成長(せいちょう)なんてさ、きっと、あっというまだぞ…」
朋也(ともや)「すぐ大(おお)きくなってさ…幼稚園(ようちえん)に入園(にゅうえん)して…」
朋也(ともや)「俺(おれ)とおまえが付(つ)き添(そ)って入園式(にゅうえんしき)なんてさ…すごく滑稽(こっけい)な姿(すがた)だよな、きっと…」
朋也(ともや)「まだまだ子供(こども)のような俺(おれ)たちが、子供連(こどもづ)れてんだ…」
朋也(ともや)「面白(おもしろ)いよな、きっと…」
渚(なぎさ)も微笑(ほほえ)む。
朋也(ともや)「小学校(しょうがっこう)に入(はい)ってさ、授業(じゅぎょう)参観(さんかん)とか、運動会(うんどうかい)とかさ…家族(かぞく)でやるんだぜ…」
朋也(ともや)「これもすごく見物(けんぶつ)だ…」
朋也(ともや)「なんて、滑稽(こっけい)な姿(すがた)なんだろう…俺(おれ)たちは…」
朋也(ともや)「そんなの、一番(いちばん)に馬鹿(ばか)にするような奴(やつ)だったのにさ…」
こく、と頷(うなず)く。
朋也(ともや)「でもさ、おまえ…」
朋也(ともや)「お腹(はら)の中(なか)にいるこいつに、だんご大家族(だいかぞく)ばっか聴(き)かせてたからさ…」
朋也(ともや)「おまえと同(おな)じ趣味(しゅみ)にならないか、心配(しんぱい)だよ、俺(おれ)は…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)の可愛(かわい)いところだけ似(に)てくれたらいいな…」
朋也(ともや)「少(すこ)しぐらい泣(な)き虫(むし)でもいいからさ…」
朋也(ともや)「頑張(がんば)るときは、頑張(がんば)る」
朋也(ともや)「そういう子(こ)がいいな…」
朋也(ともや)「不器用(ぶきよう)でもいいからさ…」
朋也(ともや)「思(おも)いやりがあって…」
朋也(ともや)「他人(たにん)のためにも一生懸命(いっしょうけんめい)になれる…」
朋也(ともや)「そんなおまえの…ようにさ…」
朋也(ともや)「なってくれたら…」
朋也(ともや)「いいな…」
…視界(しかい)がぼやけていた。
いつの間(ま)にか、目(め)に涙(なみだ)が溜(た)まっていた。
そして、それが流(なが)れるのを止(と)めることができなかった。
なんなんだろう、この不安(ふあん)は。胸(むね)の痛(いた)みは。
俺(おれ)は、渚(なぎさ)と穏(おだ)やかに話(はなし)をしたいだけなのに…。
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)…」
でももう…話(はな)すことがなかった。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)の手(て)から力(ちから)が抜(ぬ)けていた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)っ…渚(なぎさ)っ…!」
それを必死(ひっし)で、掴(つか)み直(なお)す。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「行(い)くんじゃないぞ、どこにも…」
泣(な)き声(ごえ)で言(い)った。
朋也(ともや)「ずっと、俺(おれ)のそばにいてくれるって…そう言(い)ってくれたよな…」
朋也(ともや)「それが…俺(おれ)の見(み)つけた夢(ゆめ)なんだから…」
朋也(ともや)「生(い)きてたって、いいことなんて何(なに)もない…」
朋也(ともや)「くそ面白(おもしろ)くもない人生(じんせい)だって…」
朋也(ともや)「そう思(おも)ってた奴(やつ)が、やっと見(み)つけた夢(ゆめ)なんだから…」
朋也(ともや)「生(い)きる希望(きぼう)なんだから…」
朋也(ともや)「な、渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ぁ…」
名(な)を呼(よ)び続(つづ)けた。
…いつまでも、いつまでも。
眩(まぶ)しい光(ひかり)の中(なか)にいた。
今(いま)まで暗(くら)いところにいたから、目(め)が慣(な)れていないだけだ。
すぐ、まぶしさは薄(うす)らぎ、背景(はいけい)が陰影(いんえい)を作(つく)り始(はじ)める。
そこは、あの場所(ばしょ)だった。
校門(こうもん)の坂(さか)の下(した)。
そこに、またあいつはいた。
じっと、高(たか)くにある校門(こうもん)を見上(みあ)げていた。
俺(おれ)は声(こえ)をかけるのをためらった。
どうしてか、わからなかったけど…。
何(なに)を考(かんが)えているのだろう。あいつは、時折(ときおり)うつむいて、ため息(いき)をついていた。
ずいぶん、時間(じかん)が経(た)った。
あいつは…校門(こうもん)に背(せ)を向(む)けるように振(ふ)り返(かえ)った。
俺(おれ)のほうを見(み)た。
そして、歩(ある)き出(だ)す。
見知(みし)らぬ俺(おれ)の脇(わき)を抜(ぬ)けて。
…声(こえ)をかけなければ。
でも…
そうしないほうが良(よ)かったんじゃないのか…。
俺(おれ)なんかと出会(であ)わなかったほうが…
このまま、別々(べつべつ)の道(みち)を歩(ある)いたほうが、良(よ)かったんじゃないのか。
だけど…
俺(おれ)は…
…俺(おれ)はっ…
「…渚(なぎさ)っ!」
その名(な)を叫(さけ)んでいた。
「俺(おれ)は、ここにいるぞっ!」
「………」
渚(なぎさ)がもう一度(いちど)、振(ふ)り返(かえ)る。
俺(おれ)の顔(かお)を見(み)た。
「…よかったです」
「声(こえ)かけてもらえて」
「そうかよ…」
「もしかしたら、朋也(ともや)くん…わたしと出会(であ)わなければよかったとか…」
「そんなこと思(おも)ってるんじゃないかって…」
「すごく不安(ふあん)でした…」
「………」
「でも、わたしは、朋也(ともや)くんと出会(であ)えてよかったです」
「とても、幸(しあわ)せでした」
「そうかよ…」
「だから、どうか…」
「もう、迷(まよ)わないでください」
「これから先(さき)、どんなことが待(ま)っていようとも…」
「わたしと出会(であ)えたこと、後悔(こうかい)しないでください」
「ずっと…いつまでも、強(つよ)く生(い)きてください」
「………」
「ダメ、でしょうか…」
「………」
「いや…」
「わかった…」
「後悔(こうかい)しない…」
「おまえと出会(であ)えたこと、胸(むね)を張(は)って…生(い)き続(つづ)ける」
「強(つよ)く、生(い)き続(つづ)ける」
「そうですか…」
「ありがとうございます」
にっこりと微笑(ほほえ)んだ。
「じゃ、いこうか」
「はい」
遠(とお)い日々(ひび)を後(あと)に…
「朋也(ともや)くんも、だんご大家族(だいかぞく)、好(す)きになってほしいです」
「そうだな、考(かんが)えておくよ」
「はいっ」

(おれ)たちは登(のぼ)っていく。
(なが)い、長(なが)い坂道(さかみち)を。
[/wrap]
seagull - 2009/8/4 16:06:00




ただ、惰性(だせい)のように生()きていた。
()きて、仕事(しごと)にでかけて、食()べて、寝()て…
(からだ)が覚(おぼ)えていることを、繰()り返(かえ)すだけ。
そんな日々(ひび)に生()きていた。

「休(やす)んだら、どうだ」
何度(なんど)も聞(き)いた文句(もんく)が、耳(みみ)に張(は)りついていた。
でも、俺(おれ)はそうしなかった。
休(やす)みも返上(へんじょう)で働(はたら)き続(つづ)けた。
けど、仕事(しごと)は毎日(まいにち)のようにあるわけでもなく、どうしても、暇(ひま)はできてしまった。
ある時(とき)、その暇(ひま)を埋(う)めるために、お金(かね)を使(つか)ってみた。
そうすると、思(おも)っていた以上(いじょう)に、その間(あいだ)は無心(むしん)でいられた。
その日(ひ)から俺(おれ)は、仕事(しごと)でお金(かね)を貯(た)めて、できた暇(ひま)を潰(つぶ)すために、お金(かね)を使(つか)い続(つづ)けた。
アルコールも飲(の)むようになった。タバコも吸(す)うようになった。
でも、ふと現実(げんじつ)を見(み)つめれば、足元(あしもと)から崩(くず)れ落(お)ちていきそうになる。
自分(じぶん)は人(ひと)より、弱(よわ)くできているのだろうか。
それとも、人(ひと)以上(いじょう)に悲(かな)しい出来事(できごと)があったのだろうか。
よくわからなかった。
ただ言(い)えるのは、自分(じぶん)には辛(つら)すぎる、それだけだ。
だから、無我夢中(むがむちゅう)で、体(からだ)を動(うご)かし続(つづ)け、暇(ひま)を潰(つぶ)し続(つづ)けた。
考(かんが)える隙(すき)をなくすように。

[wrap=

,0,]


早苗(さなえ)「ほら、パパですよ」
早苗(さなえ)さんの声(こえ)が近(ちか)くでした。
早苗(さなえ)「パパ。わかりますか?
ほら」
太股(ふともも)に、小(ちい)さな何(なに)かが触(ふ)れる。
俺(おれ)は辛(つら)かった。
早苗(さなえ)さんは、あまりに失(うしな)った人(ひと)に似(に)すぎていて。
そして、俺(おれ)の足(あし)に触(ふ)れている小(ちい)さな手(て)の主(あるじ)も。
顔(かお)を伏(ふ)せる。
ああ、俺(おれ)はこんなにも脆(もろ)い。
許(ゆる)してください、と小(ちい)さく呟(つぶや)いた。
早苗(さなえ)「すみません…」
早苗(さなえ)さんが謝(あやま)る。
朋也(ともや)「いえ…悪(わる)いのは俺(おれ)のほうっすから…」
早苗(さなえ)「それでは今日(きょう)は帰(かえ)りますね」
この辛(つら)さを忘(わす)れるには、早苗(さなえ)さんやオッサンから逃(に)げるべきだと思(おも)った。
でも、俺(おれ)にはそれができなかった。
あんな素敵(すてき)な人(ひと)たちを裏切(うらぎ)るわけにはいかない。
だから、ずっと辛(つら)さを抱(かか)えたままでいた。
それに辛(つら)いのは、俺(おれ)だけじゃない。早苗(さなえ)さんやオッサンも同(おな)じなはずだった。
それでも、早苗(さなえ)さんは、週(しゅう)に一度(いちど)は俺(おれ)の子(こ)を連(つ)れて、会(あ)いに来(き)てくれた。
1年(ねん)が過(す)ぎ…2年(ねん)が過(す)ぎ…
もうあの日(ひ)からどれだけ月日(がっぴ)が経(た)ったとか…
そういうことも考(かんが)えられないぐらいに、がむしゃらに生(い)きた。
でも、ただひとつだけ、俺(おれ)に時間(じかん)の流(なが)れを突(つ)きつける存在(そんざい)があった。
汐(うしお)だった。
汐(うしお)だけは変(か)わり続(つづ)けていく。
会(あ)うたびに、大(おお)きくなり、顔(かお)つきをはっきりとさせていく。
あの悲(かな)しかった出来事(できごと)は、本当(ほんとう)にあったことで…
そして、もうそれは…遠(とお)い日(ひ)の話(はなし)なのだ。
なんて残酷(ざんこく)なんだろう。
そう思(おも)った。
だから、汐(うしお)が幼稚園(ようちえん)に入園(にゅうえん)する日(ひ)も、俺(おれ)は仕事(しごと)で体(からだ)を動(うご)かし続(つづ)けていた。
そして、今年(ことし)もまた、暑(あつ)い夏(なつ)がきた。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、こんにちは」
ある日曜(にちよう)の午後(ごご)、早苗(さなえ)さんが部屋(へや)を訪(おとず)れた。
いつものように、汐(うしお)を連(つ)れてきていると思(おも)ったら、ひとりだった。
早苗(さなえ)「すみません、今日(きょう)は汐(うしお)は連(つ)れてきていません。秋生(あきお)さんに預(あず)けてきました」
俺(おれ)の視線(しせん)が早苗(さなえ)さんの足元(あしもと)をさまよっていたことに気(き)づいたのだろう。
朋也(ともや)「ええ…構(かま)わないっすよ」
早苗(さなえ)「今日(きょう)はとても暑(あつ)かったです」
朋也(ともや)「そうですか」
早苗(さなえ)「休(やす)みなのに、ずっと部屋(へや)にいるんですか?」
朋也(ともや)「ええ。普段(ふだん)が肉体労働(にくたいろうどう)っすからね。休(やす)みの日(ひ)は、ずっと部屋(へや)で寝(ね)ていたいんです」
早苗(さなえ)「ダメですよ、朋也(ともや)さん。少(すこ)しは外(そと)に出(で)て、リフレッシュしないと」
朋也(ともや)「こんな暑(あつ)い中(なか)、ひとりで出(で)かけたって、むなしいだけっすよ」
早苗(さなえ)「じゃあ、わたしと出(で)かけてください」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんとですか?」
早苗(さなえ)「はい。デートしましょうっ」
悪(わろ)びれず、にっこりと微笑(ほほえ)む。
朋也(ともや)「そういう時(とき)の早苗(さなえ)さんって、絶対(ぜったい)に何(なに)か企(たくら)んでるからなぁ…」
早苗(さなえ)「そんなことないですよ。たまには、若(わか)い子(こ)とデートもしたくなるんです」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)じゃなくて、他(ほか)に若(わか)い子(こ)を見(み)つけてくださいよ。早苗(さなえ)さんだったら、すぐ見(み)つかりますよ」
早苗(さなえ)「いいえ。朋也(ともや)さんじゃないとダメなんです」
朋也(ともや)「どうしてですか」
早苗(さなえ)「格好(かっこう)良(よ)くて、優(やさ)しくて、わたしの好(この)みのタイプだからです」
朋也(ともや)「そうですか…」
早苗(さなえ)「はい、そうなんです」
早苗(さなえ)「デートしてくれますかっ」
朋也(ともや)「まぁ、そこまで言(い)わせておいて、断(ことわ)るわけにはいかないっすよ」
早苗(さなえ)「ありがとうございます」
永遠(えいえん)に、この人(ひと)には敵(かな)わない…そんな気(き)がする。
ふたりで町(まち)を歩(ある)いた。
駅前(えきまえ)にはしばらく来(き)ていなかったが、その間(あいだ)に随分(ずいぶん)と様変(さまが)わりしていた。
商店街(しょうてんがい)の向(む)こうに、昔(むかし)にはなかったビルが乱立(らんりつ)している。
朋也(ともや)「変(か)わりましたね…」
早苗(さなえ)「そうですね。朋也(ともや)さんは、あまり来(こ)ないんですか?」
朋也(ともや)「ええ。仕事(しごと)で来(こ)なければ、まったく」
早苗(さなえ)「では、ゆっくり見(み)て回(まわ)りましょう」
新(あたら)しくできたデパートを、早苗(さなえ)さんと見(み)て回(まわ)った。
ブティックとか、時計(とけい)売(う)り場(ば)とか。
本当(ほんとう)にデートをしているみたいで、久々(ひさびさ)に楽(たの)しい気分(きぶん)になれた。
歩(ある)き疲(つか)れると、早苗(さなえ)さんは、俺(おれ)をファミレスへと誘(さそ)った。
早苗(さなえ)「ストロベリーパフェください」
朋也(ともや)「はは…早苗(さなえ)さん、女学生(じょがくせい)みたいですよ」
早苗(さなえ)「後(あと)、日本茶(にほんちゃ)をください」
朋也(ともや)「今(いま)ので一気(いっき)におばさんくさくなりました」
早苗(さなえ)「失礼(しつれい)ですね、朋也(ともや)さんは」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも、頼(たの)んでください」
朋也(ともや)「えっと、それじゃ俺(おれ)は…ケーキセット」
朋也(ともや)「飲(の)み物(もの)はアイスコーヒー」
ウェイトレスがオーダーを繰(く)り返(かえ)した後(あと)、立(た)ち去(さ)る。
早苗(さなえ)「とても、暑(あつ)かったですね」
朋也(ともや)「ええ、汗(あせ)で気持(きも)ちわるいっす」
でもすぐに、効(き)きすぎるぐらいに効(き)いた冷房(れいぼう)が乾(かわ)かしてくれるだろう。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、この夏(なつ)、まとまった休(やす)み取(と)れるんですか?」
朋也(ともや)「取(と)ろうと思(おも)えば取(と)れますよ。盆休(ぼんやす)み」
朋也(ともや)「でも、休(やす)んだってやることないですから、仕事(しごと)してたいっすよ」
早苗(さなえ)「じゃあ、どこかへ出(で)かけませんか?」
朋也(ともや)「ふたりでですか?
それはかなりドキドキするッス」
早苗(さなえ)「違(ちが)います。わたしと秋生(あきお)さんと朋也(ともや)さんと…そして汐(うしお)とです」
朋也(ともや)「汐(うしお)…ですか」
朋也(ともや)「やっぱり考(かんが)えてたんですね、そういうこと」
早苗(さなえ)「考(かんが)えてたとか、そういうのではありません。思(おも)いつきです」
朋也(ともや)「でも、汐(うしお)を連(つ)れていくなんて…危(あぶ)なくないっすか」
早苗(さなえ)「ちゃんと目(め)を離(はな)さずにおけば、大丈夫(だいじょうぶ)です」
早苗(さなえ)「それに、幼稚園(ようちえん)も夏休(なつやす)みですから…思(おも)い出(で)作(つく)ってあげたいじゃないですか」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、そうは思(おも)いませんか?」
朋也(ともや)「そうっすね…思(おも)うっすよ…」
早苗(さなえ)「どうしましたか?
あまり気乗(きの)りしないですか」
朋也(ともや)「ええ…だって…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は子育(こそだ)てとか、そういうこと放棄(ほうき)して…ぜんぶ早苗(さなえ)さんやオッサンに押(お)しつけちゃって…」
朋也(ともや)「そんな夏休(なつやす)みの思(おも)い出(で)に入(はい)る資格(しかく)なんてないっすよ…」
早苗(さなえ)「資格(しかく)じゃないです。義務(ぎむ)ですよ、親(おや)としての」
そう言(い)われてしまうと、俺(おれ)はただ、情(なさ)けなく顔(かお)を伏(ふ)せることしかできなかった。
朋也(ともや)「…それに、あいつだって、俺(おれ)なんていないほうがいいんですよ」
朋也(ともや)「…俺(おれ)なんかに懐(なつ)いてないっすから」
どうにか、そう呟(つぶや)いてみせた。
早苗(さなえ)「いえ、汐(うしお)は、ずっと寂(さび)しがっているんですよ」
早苗(さなえ)「ずっと、お父(とう)さんがそばにいなくて」
朋也(ともや)「…そんなことないです」
朋也(ともや)「ずっと、いなかったんだから…」
早苗(さなえ)「じゃあ、この夏休(なつやす)みに取(と)り戻(もど)せばいいじゃないですかっ」
朋也(ともや)「今更(いまさら)、そんなことできないっすよ…」
早苗(さなえ)「できます。朋也(ともや)さんは優(やさ)しい人(ひと)ですから」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは、俺(おれ)を買(か)いかぶりすぎです」
朋也(ともや)「俺(おれ)は格好(かっこう)良(よ)くもないし、優(やさ)しくもないし、卑屈(ひくつ)で、弱虫(よわむし)で早苗(さなえ)さんの嫌(きら)いなタイプのはずです」
早苗(さなえ)「そんなことないです。わたしは、朋也(ともや)さんのこと大好(だいす)きですよ」
言(い)って、俺(おれ)の手(て)の上(うえ)に、自分(じぶん)の手(て)を重(かさ)ねた。
朋也(ともや)「………」
じっと、それを見(み)つめた。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…もう少(すこ)し、考(かんが)えさせてください」
早苗(さなえ)「はいっ」
その後(あと)、早苗(さなえ)さんから電話(でんわ)が毎日(まいにち)のようにかかってきた。
内容(ないよう)はすべて、旅行(りょこう)の件(けん)だった。
早苗(さなえ)『考(かんが)えてくれましたか?』
朋也(ともや)「いや…まだっすけど…」
早苗(さなえ)『じゃあ、10分後(ぷんご)にかけ直(なお)しますね』
朋也(ともや)「いや、明日(あした)にしてほしいんですけど…」
早苗(さなえ)『わかりました。明日(あした)の朝(あさ)、かけますね』
朋也(ともや)「いや、仕事(しごと)なんで、夜(よる)にしてほしいんですけど」
早苗(さなえ)『わかりました。じゃ、夜(よる)にかけますね』
朋也(ともや)「はぁ…」
そんな具合(ぐあい)に、俺(おれ)の返答(へんとう)をせっつき続(つづ)けた。
朋也(ともや)(すげぇ熱意(ねつい)…)
朋也(ともや)(どうやって、断(ことわ)れっての…)
結局(けっきょく)、押(お)しきられるようにして、俺(おれ)は苦(くる)しげに…
朋也(ともや)「わかりました…よろしくお願(ねが)いします」
と告(つ)げてしまったのだった。
汐(うしお)を連(つ)れていこうが、懐(なつ)いているのは早苗(さなえ)さんとオッサンなので、そうそう関(かか)わることもないだろう。
単純(たんじゅん)に旅行(りょこう)だけを楽(たの)しめばいいんだと自分(じぶん)を納得(なっとく)させた。
俺(おれ)は三日(みっか)の休(やす)みを取(と)り、日曜(にちよう)を足(た)して四連休(よんれんきゅう)を作(つく)った。
早苗(さなえ)さんやオッサンも、その日(ひ)に合(あ)わせて休(やす)みを取(と)ることになった。
旅行(りょこう)の行(い)き先(さき)や、段取(だんど)りは早苗(さなえ)さんに任(まか)せっきりだ。
とりあえず、東北(とうほく)のほうだということだけは聞(き)いたが、それ以上(いじょう)詳(くわ)しくは聞(き)かなかった。
支度(したく)は、2日分(ふつかぶん)の着替(きが)えをバッグに詰(つ)めただけで終(お)わった。
早苗(さなえ)さんとの旅行(りょこう)だ。私物(しぶつ)以外(いがい)に何(なに)もいるわけがなかった。
俺(おれ)が気(き)を利(き)かせなくても、必要(ひつよう)なものはすべて揃(そろ)えられているはずだ。
…目覚(めざ)まし時計(とけい)の音(おと)で目覚(めざ)める。
いつもと何(なに)も変(か)わらない朝(あさ)だった。
頭(あたま)の重(おも)さや、布団(ふとん)への未練(みれん)、何(なに)も変(か)わらない。
ただ、今日(きょう)は行(い)き先(さき)が違(ちが)うだけだった。
仕事場(しごとば)じゃなく、古河(ふるかわ)の家(いえ)。
そして、しばらくこの部屋(へや)には帰(かえ)ってこない。
顔(かお)を洗(あら)い、歯(は)を磨(みが)き、着替(きが)えを終(お)える。
後(あと)は出(で)かけるだけだった。
朋也(ともや)(今(いま)から出(で)るっていう、電話(でんわ)しておいたほうがいいかな…)
電話(でんわ)を見(み)つめる。
朋也(ともや)(向(む)こうは、支度(したく)でてんやわんやかもしれないしな…)
そのまま家(いえ)を出(で)ることにした。
ここに来(く)るのも久(ひさ)しぶりな気(き)がした。
オッサンの顔(かお)もしばらく見(み)ていない。
何(なに)を言(い)われるだろうか。
怒(おこ)られたりしないだろうか…。
考(かんが)えてみてから、笑(わら)った。
いつだって、罵声(ばせい)を浴(あ)びせさられてたじゃないか、あの人(ひと)には。
朋也(ともや)「ちぃーすっ」
昔(むかし)のように、客(きゃく)の顔(かお)をして店(みせ)に入(はい)る。
………。
…無人(むじん)だった。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さーーーん!」
………。
朋也(ともや)「オッサーーーン!」
………。
…返事(へんじ)はない。
待(ま)ち合(あ)わせ場所(ばしょ)を間違(まちが)えたのだろうか?
もしや、俺(おれ)のアパートに向(む)かっていて、すれ違(ちが)いになったのだろうか?
だとしても、鍵(かぎ)が開(ひら)いてるというのはおかしい。
いくら窃盗事件(せっとうじけん)が少(すく)ない町(まち)だといっても、旅行(りょこう)の前(まえ)には鍵(かぎ)ぐらいかける。
…嫌(いや)な予感(よかん)がしてきた。
俺(おれ)は勝手(かって)に家(いえ)の中(なか)にあがる。
居間(いま)までくると、テーブルの上(うえ)に目立(めだ)つように紙(かみ)が載(の)せられていた。
書(か)き置(お)きだった。
それを手(て)にとり、目(め)を通(とお)す。
…朋也(ともや)さんへ
…急用(きゅうよう)ができてしまい、秋生(あきお)さんとしばらく出(で)かけることになってしまいました。
…ですので、旅行(りょこう)のほう、汐(うしお)とふたりでよろしくお願(ねが)いします。
…古河早苗(ふるかわさなえ)
…P.S.交通手段(こうつうしゅだん)やルートは、裏面(りめん)に書(か)いておきました。
………。
朋也(ともや)「う…」
朋也(ともや)「嘘(うそ)だろ…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに完璧(かんぺき)ハメられてんじゃん、俺(おれ)…」
人(ひと)の気配(けはい)がして、振(ふ)り返(かえ)る。
すると、ドアの向(む)こう、隠(かく)れるようにして、こっちを見(み)ている小(ちい)さな子供(こども)がいた。
すでにリュックを抱(かか)え、支度(したく)も済(す)ませてあった。
汐(うしお)「………」
黙(だま)って見(み)つめ合(あ)う。
汐(うしお)は、俺(おれ)に寄(よ)ってくることもなかった。
朋也(ともや)「な、早苗(さなえ)さんとオッサン、しばらく居(い)ないんだってよ…」
朋也(ともや)「おまえ、どうする」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…さなえさん」
小(ちい)さく口(くち)が動(うご)いた。
朋也(ともや)「いや、だからさ…早苗(さなえ)さんはいないんだ」
汐(うしお)「…あっきー」
朋也(ともや)「オッサンもいないんだ」
汐(うしお)「………」
泣(な)き出(だ)しそうだった。
そりゃそうだろう…。
楽(たの)しみにしていた旅行(りょこう)なのに、唐突(とうとつ)にふたりが居(い)なくなってしまったのだから。
こいつが泣(な)いても俺(おれ)は悪(わる)くない。
あのふたりがこんな冗談(じょうだん)をやるから悪(わる)い。
朋也(ともや)「な、おまえは、どうしたい」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「言(い)ってみろよ。じゃないと、わかんないだろ」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…りょこう、いきたい」
朋也(ともや)「残念(ざんねん)ながら、そりゃ無理(むり)だ」
朋也(ともや)「わかるだろ?
オッサンと早苗(さなえ)さん、いないんだから」
汐(うしお)「…なつやすみだから、いきたい」
朋也(ともや)「だろうけどさ、オッサンと早苗(さなえ)さんがいないと嫌(いや)だろ?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「だろ。だから、行(い)けない」
汐(うしお)「…いきたい」
朋也(ともや)「無理(むり)だって言(い)ってるだろ、馬鹿(ばか)っ」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…いきたい」
朋也(ともや)「何度(なんど)も言(い)わせるな」
とりあえず、荷物(にもつ)を肩(かた)から下(お)ろし、床(ゆか)に座(すわ)り込(こ)んだ。
そしてタバコを取(と)りだして、口(くち)にくわえ、火(ひ)をつける。
朋也(ともや)「ふぅー」
机(つくえ)の上(うえ)に載(の)っていた灰皿(はいざら)を引(ひ)き寄(よ)せる。
その先(さき)、ドアの入(い)り口(ぐち)では、まだ汐(うしお)がこっちを見(み)て立(た)っていた。
朋也(ともや)「はぁ…」
暗澹(あんたん)たる気分(きぶん)になる。
…最悪(さいあく)の夏期休暇(かききゅうか)だった。
こんなことなら、仕事(しごと)をしておけばよかった。
でも、もしそうしていたら、汐(うしお)がこの家(いえ)でひとりきりになってしまっていたのか…。
朋也(ともや)「はぁ…」
もう一度(いちど)ため息(いき)をつく。
オッサンと早苗(さなえ)さんはどこに行(い)ってしまったのだろうか。
書(か)き置(お)きにもう一度(いちど)目(め)を通(とお)してみる。
しばらく出(で)かける、とある。
どれぐらいだろうか。四日間(よっかかん)、いないつもりだろうか。
いや、様子(ようす)見(み)に夜(よる)には戻(もど)ってくるだろう。
それまでの辛抱(しんぼう)だと思(おも)った。
裏返(うらがえ)すと、そこには四日間(よっかかん)のスケジュールがびっしりと書(か)き込(こ)んである。
下(した)にはセロハンテープで電車(でんしゃ)のキップが二枚(にまい)とめてある。
特急券(とっきゅうけん)だった。
顔(かお)を上(あ)げる。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)はまだドアの向(む)こうに隠(かく)れて、こっちを見(み)ている。
朋也(ともや)「おまえ、ひとりで行(い)ってくるか?
キップ、ついてるぞ」
そう訊(き)いても、何(なに)も答(こた)えない。
朋也(ともや)「なぁ、なんか言(い)ってみろよ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「おまえ、隠(かく)れてるつもりか。丸見(まるみ)えだぞ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「ちっ…」
朋也(ともや)「なんなんだよ、この光景(こうけい)はよ…」
朋也(ともや)「くそ…」
押(お)しても駄目(だめ)なら、引(ひ)いてみな…か。
朋也(ともや)「おーい、汐(うしお)」
優(やさ)しく呼(よ)びかけてみる。
朋也(ともや)「こっちこいよ、んなとこ立(た)ってないで」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「ほら、こっちこい」
汐(うしお)「………」
とてとてと歩(ある)いてきて、少(すこ)し距離(きょり)を置(お)いた正面(しょうめん)に立(た)った。
朋也(ともや)「座(すわ)れよ」
汐(うしお)「………」
座(すわ)らなかった。
朋也(ともや)「まぁ、いいよ…」
朋也(ともや)「えっとだな…」
朋也(ともや)「たぶん、オッサンも早苗(さなえ)さんも夜(よる)になったら帰(かえ)ってくるよ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「今日(きょう)は無駄(むだ)になっちまうけど、明日(あした)からは旅行(りょこう)に行(い)けるよ」
朋也(ともや)「だから、今日(きょう)は大人(おとな)しく待(ま)ってるんだ。いいな」
汐(うしお)「…りょこう」
朋也(ともや)「明日(あした)からな」
汐(うしお)「…ほんとに…?」
朋也(ともや)「ああ。大丈夫(だいじょうぶ)。あのふたりも、そこまで冗談(じょうだん)きつくないよ」
朋也(ともや)「だから、今日(きょう)はひとりで遊(あそ)んでな」
汐(うしお)「うん」
安心(あんしん)したように、頷(うなず)いた。
朋也(ともや)「よし、いけ」
とてとてと歩(ある)いていった。
朋也(ともや)「ふぅ…」
煙(けむり)を吐(つ)いて、しばらく時間(じかん)をやり過(す)ごした。
それでもさすがに退屈(たいくつ)になってきて、家(いえ)の中(なか)を歩(ある)き回(まわ)ってみる。
もしかしたら、あのふたりはどこかに隠(かく)れていて、俺(おれ)の様子(ようす)をじっと見張(みは)っているのかもしれない。
そんなことを考(かんが)えながら。
ひとつのドアに目(め)がいく。
胸(むね)が痛(いた)む。
何(なに)も思(おも)い出(だ)したくなかった。
俺(おれ)は顔(かお)を伏(ふ)せて、その前(まえ)を通(とお)り過(す)ぎた。
暇(ひま)だから、パンでも焼(や)いて、勝手(かって)に開店(かいてん)してやるか…。
しかし、パンの焼(や)き方(かた)までは教(おそ)わってないから、無理(むり)だった。
どすん、と何(なに)かが落(お)ちる音(おと)が後(うし)ろでした。
振(ふ)り返(かえ)ると、土間(どま)に汐(うしお)が倒(たお)れていた。
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、なにやってんだ、おまえっ」
駆(か)けつけて、起(お)こし上(あ)げる。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?
そこから落(お)ちたんだろ?」
汐(うしお)「…ぐす」
汐(うしお)は黙(だま)ったままで、泣(な)くのを我慢(がまん)しているようだった。
その姿(すがた)を見(み)て、俺(おれ)は動揺(どうよう)する。
朋也(ともや)(なんて似(に)てるんだろう、あいつに…)
下(した)を向(む)いて涙(なみだ)を堪(た)えてる姿(すがた)がそっくりだった。
朋也(ともや)「怪我(けが)はないのか?」
一通(ひととお)り見(み)てみたところ、出血(しゅっけつ)もないし、大丈夫(だいじょうぶ)なようだ。
朋也(ともや)「もう、いけ。こんな危(あぶ)ないところで遊(あそ)ぶんじゃないぞ」
汐(うしお)「………」
そう言(い)っても、その場(ば)から動(うご)かなかった。
床(ゆか)に目(め)を落(お)とす。
そこにおもちゃが落(お)ちていた。
プラスチックでできたカメのおもちゃだ。
よく見(み)ると、いくつか部品(ぶひん)が破片(はへん)となって、散(ち)らばっていた。
拾(ひろ)い上(あ)げてみる。
滑車(かっしゃ)がついていて、それで首(くび)が前後(ぜんご)に動(うご)く仕組(しく)みだったようだ。
でも今(いま)は、それがなかった。
朋也(ともや)「なるほど…おまえ、これで遊(あそ)んでて、落(お)ちたんだな」
朋也(ともや)「それで、自分(じぶん)の体重(たいじゅう)で壊(こわ)しちまったのか」
朋也(ともや)「うーん…接着剤(せっちゃくざい)があれば直(なお)るかな…」
家(いえ)の中(なか)から勝手(かって)に接着剤(せっちゃくざい)を探(さが)しだす。
直(なお)してる間(あいだ)、汐(うしお)はずっと俺(おれ)の隣(となり)にいた。
朋也(ともや)「ほら、できた」
朋也(ともや)「でも、まだ滑車(かっしゃ)は填(は)めるなよ。滑車(かっしゃ)ごと接着剤(せっちゃくざい)でくっついてしまうからな」
朋也(ともや)「これは、ここに置(お)いておいて、別(べつ)のことして遊(あそ)べ」
テーブルの上(うえ)に載(の)せておいた。
汐(うしお)はわかっているのか、いないのか、ぱたぱたと走(はし)っていった。
朋也(ともや)「しかし、男(おとこ)の子(こ)みたいな奴(やつ)だな…」
オッサンの影響(えいきょう)だろうか。
朋也(ともや)「ふぅ…」
俺(おれ)はやることもなく、横(よこ)になる。
夜(よる)までこのまま眠(ねむ)ってしまおう…。
………。
……。
…。
人(ひと)の気配(けはい)がして、薄目(うすめ)を開(あ)ける。
目(め)の前(まえ)に、小(ちい)さな影(かげ)。
朋也(ともや)「ん…なんだよ…」
渋々(しぶしぶ)、体(からだ)を起(お)こす。
汐(うしお)「…うごかない…」
その手(て)には、カメ。
朋也(ともや)「あ、おまえ、それっ」
取(と)り上(あ)げてみると、思(おも)いっきり滑車(かっしゃ)が填(は)められていた。
朋也(ともや)「接着剤(せっちゃくざい)が乾(かわ)くまで、填(は)めるな、って言(い)ったのによ…」
朋也(ともや)「ぐあー、くっついて、動(うご)かなくなってるじゃないか…」
朋也(ともや)「な、アホな子(こ)だろ、おまえ」
朋也(ともや)「この接着剤(せっちゃくざい)、強力(きょうりょく)なんだぞ…」
取(と)り外(はず)そうと努力(どりょく)してみたが、部品(ぶひん)が小(ちい)さくて力(ちから)が入(はい)らない。
朋也(ともや)「駄目(だめ)だな…」
朋也(ともや)「もう、これで我慢(がまん)しとけ。な」
小(ちい)さな手(て)にカメを戻(もど)す。
汐(うしお)「………」
また悲(かな)しそうに肩(かた)を震(ふる)わせる。
でも泣(な)かなかった。
それで納得(なっとく)したのか、よくわからなかったが、ぱたぱたと走(はし)っていった。
朋也(ともや)「ありがとう、のひとつもなしかよ…」
もう一度(いちど)体(からだ)を倒(たお)す。
………。
……。
…。
くいくい…
今度(こんど)は揺(ゆ)すられて目(め)が覚(さ)める。
汐(うしお)が俺(おれ)の服(ふく)の裾(すそ)を引(ひ)っ張(ぱ)っていた。
朋也(ともや)「どうした…こんどはなんだよ…」
汐(うしお)「…さなえさん」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんがどうした。戻(もど)ってきたか」
ううん、と首(くび)を振(ふ)る。
朋也(ともや)「なんだ、期待(きたい)を持(も)たせるな」
汐(うしお)「…さなえさん」
もう一度(いちど)繰(く)り返(かえ)した。
つまり、こいつが俺(おれ)に訊(き)いているのだ。
朋也(ともや)「居(い)ないんなら、まだ帰(かえ)ってきてないんだよ。それぐらいわかれよ」
汐(うしお)「…まだまだ?」
朋也(ともや)「俺(おれ)が知(し)りたいぐらいだ」
朋也(ともや)「早(はや)くても夕方(ゆうがた)だろうよ。祈(いの)って待(ま)ってろ」
汐(うしお)「…おなかすいた」
そう言(い)われて、気(き)づいた。昼飯(ひるめし)をお互(たが)い食(く)っていないことに。
朋也(ともや)「ちっ…」
朋也(ともや)「パンぐらい余(あま)ってるんじゃないのか」
俺(おれ)は渋々(しぶしぶ)起(お)き上(あ)がり、台所(だいどころ)を漁(あさ)った。
すぐに食(た)べられるようなものはなかった。
なら、作(つく)るか、買(か)いにいくか、のどっちかだ。
朋也(ともや)(わざわざ作(つく)ることもないか…)
朋也(ともや)「よし、買(か)いにいってやるから、食(く)いたいもの言(い)えよ」
汐(うしお)「………」
じっと俺(おれ)を見上(みあ)げて答(こた)えようとしない。
朋也(ともや)「どうした。食(く)いたいもの言(い)えよ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「なんだ、なんでもいいんだな」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「よし、わかった。俺(おれ)が勝手(かって)に選(えら)んでくるからな」
朋也(ともや)「ったく、ガキが好(す)きなものなんて、知(し)らないからな、俺(おれ)はっ」
朋也(ともや)「豚足(とんそく)買(か)ってきても、食(く)えよ」
土間(どま)に下(くだ)りて、靴(くつ)を履(は)く。
振(ふ)り返(かえ)ると、汐(うしお)がこっちを見(み)ていた。
朋也(ともや)「大人(おとな)しく待(ま)ってろよ。すぐ戻(もど)ってくるから」
暑(あつ)い。
じりじりと肌(はだ)が焦(こ)げるようだった。
朋也(ともや)(海(うみ)とか川(かわ)とか…なんでもいいから水(みず)の中(なか)に飛(と)び込(こ)みたい気分(きぶん)だな…)
歩(ある)き出(だ)す。
しばらく行(い)った先(さき)の角(かど)に小(ちい)さなスーパーがあったはずだ。
それも、昔(むかし)の話(はなし)なので、今(いま)もやっているかはわからない。
あるいは、逆(ぎゃく)に大型(おおがた)スーパーになってるかもしれない。
朋也(ともや)(でも、この辺(あた)りだけは、変(か)わらないでほしいよな…)
主婦(しゅふ)「あら、お久(ひさ)しぶり」
自転車(じてんしゃ)に乗(の)った主婦(しゅふ)が足(あし)をついて、こっちを見(み)ていた。
見(み)ると、古河(ふるかわ)パンで働(はたら)いていた頃(ころ)の常連客(じょうれんきゃく)だった。
朋也(ともや)「ちっす」
主婦(しゅふ)「今日(きょう)は、散歩(さんぽ)ですか」
朋也(ともや)「ええ…まあ」
主婦(しゅふ)「帽子(ぼうし)あったほうがいいですよ」
朋也(ともや)「すぐ、そこですから」
主婦(しゅふ)「でも、すごくしんどそう」
朋也(ともや)「え?
これぐらい平気(へいき)っすけど」
主婦(しゅふ)「あなたじゃなくて、後(うし)ろの子(こ)」
朋也(ともや)「はい?」
振(ふ)り返(かえ)る。足元(あしもと)に、汐(うしお)がいた。
暑(あつ)さのせいだろう、ふらふらと左右(さゆう)に揺(ゆ)れていた。
今(いま)にも倒(たお)れそうだ。
朋也(ともや)「ぐあ…」
朋也(ともや)「なに、ついてきてんだよ、おまえはっ」
俺(おれ)のリアクションに、主婦(しゅふ)は空気(くうき)を読(よ)んだのだろう…
主婦(しゅふ)「それでは、また」
そう言(い)って、自転車(じてんしゃ)を走(はし)らせていった。
朋也(ともや)「なぁ、おまえ」
俺(おれ)は汐(うしお)を見下(みお)ろした格好(かっこう)で訊(き)く。
朋也(ともや)「大人(おとな)しく待(ま)ってろ、って言(い)っただろ?」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「こんな暑(あつ)い中(なか)、帽子(ぼうし)もなしによ…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「な、どうした。言(い)ってみろ」
汐(うしお)「…えっと」
汐(うしお)「…えらびたい」
朋也(ともや)「何(なに)をだ…」
汐(うしお)「…たべるもの」
朋也(ともや)「なら、最初(さいしょ)から言(い)えよっ」
汐(うしお)「………」
また、ふらふらと左右(さゆう)に揺(ゆ)れ始(はじ)めた。
朋也(ともや)「くそっ…戻(もど)るぞ」
家(いえ)に引(ひ)き返(かえ)した。
朋也(ともや)「お仕置(しお)きに、昼飯(ひるめし)は否応(いやおう)なしに焼(や)きめしだ」
慣(な)れた手(て)つきで焼(や)きめしを作(つく)る。
朋也(ともや)「ほら、食(く)え」
どん、と焼(や)きめしを盛(さか)った皿(さら)を汐(うしお)の前(まえ)に置(お)いてやる。
小(ちい)さな汐(うしお)には不(ふ)釣(つ)り合(あ)いで、滑稽(こっけい)だった。
汐(うしお)「………」
スプーンですくって、ぱくっと口(くち)に入(い)れた。
汐(うしお)「んー…」
汐(うしお)「…にがい」
朋也(ともや)「にがい?」
俺(おれ)も食(た)べてみるが、いつも通(どお)りの焼(や)きめしの味(あじ)だった。
汐(うしお)「このてんてん…くろいのきらい」
朋也(ともや)「黒(くろ)い点々(てんてん)?」
朋也(ともや)「ああ、コショウか」
朋也(ともや)「悪(わる)いがそれがなかったら、焼(や)きめしじゃないんだ。我慢(がまん)して食(く)え」
汐(うしお)「…いらない」
朋也(ともや)「こらこら、好(す)き嫌(きら)いすんなって、早苗(さなえ)さんに言(い)われてるだろ?」
汐(うしお)「…さなえさんのごはんがたべたい」
朋也(ともや)「そうかよ…」
朋也(ともや)「なら、食(く)うな」
汐(うしお)「………」
時間(じかん)が経(た)っても、冷(さ)めた焼(や)きめしの前(まえ)に汐(うしお)は座(すわ)っていた。
朋也(ともや)「なんだよ、ったく…コショウを抜(ぬ)けばいいのか」
仕方(しかた)なく、そう訊(き)く。
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「でも、コショウ抜(ぬ)いたらまずいぞ」
朋也(ともや)「焼(や)きめしじゃないほうがいいんじゃないのか?」
汐(うしお)「…ごはん」
朋也(ともや)「ごはん?
ごはんだけ食(く)うのか」
朋也(ともや)「そりゃ、俺(おれ)はラクだけどさ…」
茶碗(ちゃわん)を探(さが)して、それにご飯(はん)だけを盛(さか)った。
その後(あと)に気(き)づいたのだが、食器棚(しょっきだな)をよく見(み)ると、汐用(うしおよう)の小(ちい)さな食器(しょっき)が別(べつ)の場所(ばしょ)に並(なら)べてあった。
今(いま)盛(さか)ったのは、オッサン用(よう)のだろうか。でかかった。
今更(いまさら)取(と)り替(か)えるわけにもいかず、それを汐(うしお)の目(め)の前(まえ)に置(お)く。
朋也(ともや)「ほら、ご飯(はん)」
入(い)れ替(か)わりに焼(や)きめしの皿(さら)を下(さ)げた。
そうすると、汐(うしお)の前(まえ)には、白米(はくまい)が盛(さか)られた茶碗(ちゃわん)ひとつとなる。
朋也(ともや)「なんか、俺(おれ)がイジめてるようだぞ…」
朋也(ともや)「仕方(しかた)ない。これで、焼(や)きめしセット、ご飯(はん)付(つ)きだ」
焼(や)きめしを戻(もど)してみる。
汐(うしお)「…えい」
押(お)し戻(もど)される。
朋也(ともや)「なぁに、すんだよ」
汐(うしお)「…これだけ」
朋也(ともや)「だから、俺(おれ)がイジめてるように見(み)えるからだなぁ…」
汐(うしお)はたっ、と立(た)ち上(あ)がり、台所(だいどころ)に入(はい)っていった。
そして、戻(もど)ってきた汐(うしお)の手(て)には、小(ちい)さな袋(ふくろ)が握(にぎ)りしめられていた。
朋也(ともや)「なんだよ、それ」
嬉々(きき)として、その袋(ふくろ)を破(やぶ)って、中身(なかみ)をご飯(はん)の上(うえ)にふりかけた。
朋也(ともや)「ふりかけか…」
それを美味(おい)しそうに食(た)べ始(はじ)めた。
朋也(ともや)「ガキは焼(や)きめしより、ふりかけご飯(はん)のほうがおいしいのか」
朋也(ともや)「そりゃラクでいいな」
朋也(ともや)「でも、夕飯(ゆうはん)はさすがにそれだけじゃあなぁ…」
朋也(ともや)「夕飯(ゆうはん)までに早苗(さなえ)さん、帰(かえ)ってくるといいけどな…」
カチャカチャと高(たか)い音(おと)を立(た)てながら、一生懸命(いっしょうけんめい)に汐(うしお)はふりかけご飯(はん)を食(た)べ続(つづ)けた。
夜(よ)の9時(じ)を過(す)ぎても、ふたりは帰(かえ)ってこなかった。
どこまで冗談(じょうだん)は続(つづ)くのだろうか。
昼(ひる)を食(た)べたのが遅(おそ)かったとはいえ、さすがに、ふたりとも空腹(くうふく)になってきた。
俺(おれ)は我慢(がまん)してもよかったが、汐(うしお)はそうはいくまい。
結局(けっきょく)、ふたりでスーパーに行(い)き、お互(たが)い好(す)きな出来合(できあい)いの弁当(べんとう)を買(か)って、それを夕飯(ゆうはん)にした。
…11時(じ)。
これだけ遅(おそ)いと、もう今夜(こんや)は帰(かえ)ってくる気(き)がないのだろう。
もし、俺(おれ)が汐(うしお)をここに残(のこ)して家(いえ)に戻(もど)っていたら、大変(たいへん)なことになっていた。
冗談(じょうだん)では済(す)まない。
すぐ隣(となり)で遊(あそ)んでいた汐(うしお)は、いつの間(ま)にか眠(ねむ)りこけていた。
このまま朝(あさ)まで眠(ねむ)ってくれるだろうか。
だと、俺(おれ)もゆっくり寝(ね)られそうだが…。
とりあえず、洗面所(せんめんじょ)にあったバスタオルを持(も)ってきて、かけてやる。
電気(でんき)を消(け)し、俺(おれ)も横(よこ)になった。
なんておかしな一日(いちにち)だったのだろう…。
目覚(めざ)めた時(とき)には、オッサンと早苗(さなえ)さんが帰(かえ)ってきていることを願(ねが)って、俺(おれ)も眠(ねむ)りについた。
翌朝(よくあさ)。
俺(おれ)は店(みせ)のシャッターを開(あ)けて、朝日(あさひ)を仰(おっしゃ)いだ。
まだこの時間(じかん)は涼(すず)しい。
うーん、とひとつ伸(の)びをし遠(とお)くを見渡(みわた)す。
今(いま)まさに、オッサンと早苗(さなえ)さんがこちらに向(む)かって歩(ある)いてくるところではないか。
そう期待(きたい)して、待(ま)ち続(つづ)けた。
人(ひと)の気配(けはい)がして、隣(となり)を見下(みお)ろすと、いつの間(ま)に起(お)き出(だ)してきたのか、汐(うしお)がいた。
こいつも早(はや)く帰(かえ)ってきてほしいと、願(ねが)っているのだろう。
ふたりで、早苗(さなえ)さんたちを待(ま)ち続(つづ)けた。
親(おや)を待(ま)つ幼(おさな)い兄妹(あにいもうと)のようで、なんとも情(なさ)けないふたりだった。
汐(うしお)「…おしっこ」
朋也(ともや)「ああ、行(い)ってこい」
汐(うしお)「…うん」
ぱたぱたと駆(か)けていった。
そして、やり終(お)えて戻(もど)ってきた。
汐(うしお)「…ひとりでできた」
朋也(ともや)「あたりまえだ」
汐(うしお)「………」
朝(あさ)ご飯(はん)を食(た)べてからも、ふたり、そうして立(た)ち尽(つ)くしていた。
目(め)の前(まえ)を親子連(おやこづ)れの家族(かぞく)が通(とお)り過(す)ぎていく。
大(おお)きな鞄(かばん)を持(も)っていた。
田舎(いなか)に帰(かえ)るのだろうか。それとも、旅行(りょこう)だろうか。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)の顔(かお)を見(み)る。
楽(たの)しそうに笑(わら)う子供(こども)の横顔(よこがお)を目(め)で追(お)っていた。
可哀想(かわいそう)なぐらい、寂(さび)しそうな顔(かお)で。
汐(うしお)「…ね」
朋也(ともや)「あん?」
汐(うしお)「…おおきいほう」
朋也(ともや)「ああ、行(い)ってこい」
汐(うしお)「…うん」
ぱたぱたと駆(か)けていった。
そして、やり終(お)えて戻(もど)ってきた。
汐(うしお)「…ひとりでできた」
朋也(ともや)「いちいち自慢(じまん)するな」
朋也(ともや)「んなもん、俺(おれ)だってできるぞ」
汐(うしお)「………」
俺(おれ)はポケットに手(て)を入(い)れる。
そこには早苗(さなえ)さんの書(か)き置(お)きが乱暴(らんぼう)に突(つ)っ込(こ)まれていた。
それを取(と)りだし、裏面(りめん)に目(め)を通(とお)す。
朋也(ともや)「なぁ…」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「いくか…」
朋也(ともや)「ふたりで…旅行(りょこう)」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「いいのか、俺(おれ)なんかで」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「オッサンも早苗(さなえ)さんもいないんだぞ」
汐(うしお)「…だって…」
汐(うしお)「…こないもん」
朋也(ともや)「そうだな。来(こ)ないもんな」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「じゃ、行(い)くか、ふたりで」
汐(うしお)「…うんっ」
少(すこ)しだけ笑(わら)った。
オッサンや早苗(さなえ)さんがいなかったから、十分(じゅうぶん)に満足(まんぞく)というわけでもなかったのだろう。
それでも、行(い)かないよりはマシなのだ。
朋也(ともや)「用意(ようい)するぞ」
すでに用意(ようい)してあったリュックを下(さ)げて、汐(うしお)は戻(もど)ってきた。
早苗(さなえ)さんのことだから、リュックの中身(なかみ)は万全(ばんぜん)なのだろう。
俺(おれ)も、バッグを肩(かた)に掛(か)ける。
朋也(ともや)「戸締(とじ)まりは大丈夫(だいじょうぶ)かな…」
朋也(ともや)「おまえ、裏(うら)の窓(まど)、開(ひら)いてなかったか、見(み)てきてくれよ」
汐(うしお)「…うん」
ふたりで家(いえ)の戸締(とじ)まりを確(たし)かめる。
汐(うしお)「…しまってた」
朋也(ともや)「ようし、OKだな」
朋也(ともや)「じゃ、しゅっぱーつ」
汐(うしお)「…おー」
手(て)をあげて、汐(うしお)がかけ声(こえ)をあげた。
それを合図(あいず)に、歩(ある)き始(はじ)めた。
俺(おれ)は書(か)き置(お)きの裏(うら)に目(め)を落(お)としながら、歩(ある)く。
朋也(ともや)(この行(い)き先(さき)って、何(なに)があるところだよ…)
朋也(ともや)(明太子(めんたいこ)か?)
朋也(ともや)(そりゃ、違(ちが)ったかな…)
朋也(ともや)「おい、汐(うしお)」
呼(よ)びかけると、ぱたぱたと駆(か)けて、横(よこ)に並(なら)ぶ。
朋也(ともや)「おまえは何(なに)をしたい」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「うまいものを食(く)いたいのか、泳(およ)ぎたいのか、きれいな風景(ふうけい)を見(み)たいのか、たくさんの外人(がいじん)に会(あ)いたいのか」
汐(うしお)「…ぜんぶ」
朋也(ともや)「マジかよ…贅沢(ぜいたく)な奴(やつ)だな、おまえ」
朋也(ともや)「それにたくさんの外人(がいじん)に会(あ)うのは無理(むり)だぞ。外国(がいこく)に行(い)くわけじゃないんだからな」
朋也(ともや)「どれかひとつにしとけ」
汐(うしお)「…うーん…」
汐(うしお)「…ぜんぶ」
朋也(ともや)「だから、全部(ぜんぶ)は無理(むり)だっての…」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「よし、明太子(めんたいこ)にしとけ」
汐(うしお)「…めんたいこ?」
朋也(ともや)「ああ。この旅(たび)の目的(もくてき)は、明太子(めんたいこ)を食(く)う。それだけだ。いいな」
朋也(ともや)「ご飯(はん)に載(の)せて食(く)うと最高(さいこう)にうまいんだぞ」
朋也(ともや)「あんなもの食(く)ったら、ふりかけなんか二度(にど)と食(く)えなくなるぞ、おまえ」
ふりかけよりおいしい、というイメージだけは伝(つた)わったらしい。
汐(うしお)「…たのしみ」
そう言(い)って、汐(うしお)は口元(くちもと)を綻(ほころ)ばせた。
早苗(さなえ)さんの用意(ようい)してくれた特急券(とっきゅうけん)は当日限(とうじつかぎ)りなので、使(つか)えなくなっていた。
だから、急行(きゅうこう)を乗(の)り継(つ)いでいくことにした。
特急券(とっきゅうけん)を買(か)うほどの持(も)ち合(あ)わせがなかったからだ。
列車(れっしゃ)の中(なか)は、俺(おれ)たちと同(おな)じような家族連(かぞくづ)れで賑(にぎ)わっていた。
でも、どの家族(かぞく)にも、父(ちち)と母(はは)がいた。
もし、渚(なぎさ)が生(い)きていたら…
俺(おれ)の隣(となり)には、渚(なぎさ)が座(すわ)っていたのだろう…。
そうしたら…俺(おれ)は、こいつのちゃんとした親(おや)だっただろうか。
夏休(なつやす)みの思(おも)い出(で)の中(なか)に、最初(さいしょ)からいられただろうか。
………。
この旅(たび)は、あまりに俺(おれ)に辛(つら)い旅(たび)だった…。
………。
……。
…。
どれぐらい電車(でんしゃ)に揺(ゆ)られていただろうか。
太股(ふともも)を叩(たた)かれる感覚(かんかく)に目(め)を覚(さ)ます。
汐(うしお)「…あそんで」
汐(うしお)が俺(おれ)を見上(みあ)げていた。
朋也(ともや)「え?
ああ…」
朋也(ともや)(寝(ね)てたのか…)
寝汗(ねあせ)をかいていた。襟元(えりもと)を掴(つか)んで、前後(ぜんご)に動(うご)かす。
汐(うしお)「…あそんで」
汐(うしお)がそう繰(く)り返(かえ)した。
外(そと)の景色(けしき)も見飽(みあ)きたのだろうか。
朋也(ともや)「遊(あそ)ぶって、なにして」
汐(うしお)「…うーん」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんとは、普段(ふだん)、何(なに)して遊(あそ)んでるんだ」
汐(うしお)「さなえさんはいっしょに本(ほん)よむ」
朋也(ともや)「本(ほん)か。でも、本(ほん)、ないな」
朋也(ともや)「オッサンとは?」
汐(うしお)「やきゅう」
朋也(ともや)「野球(やきゅう)!?」
汐(うしお)「みてみて」
汐(うしお)が席(せき)を飛(と)び降(お)りて、通路(つうろ)に立(た)つ。
そして、両手(りょうて)を合(あ)わせてバットを持(も)つ格好(かっこう)を作(つく)る。
独特(どくとく)な構(かま)えだった。
汐(うしお)「こまだ」
朋也(ともや)「物(もの)まねかよっ!」
汐(うしお)「おもしろい?」
朋也(ともや)「面白(おもしろ)くねぇよ…」
汐(うしお)「…ざんねん」
戻(もど)ってきて、椅子(いす)によじ登(のぼ)る。
朋也(ともや)「あの人(ひと)は女(おんな)の子(こ)になんて隠(かく)し芸(げい)を教(おし)えてるんだよ…」
朋也(ともや)「しかも、誰(だれ)を笑(わら)わせるためのギャグだよ…」
朋也(ともや)「対象(たいしょう)がわかんねぇよ…」
汐(うしお)「…なにかして」
朋也(ともや)「俺(おれ)か?」
朋也(ともや)「物(もの)まねなんてできねぇよ」
汐(うしお)「おもしろいこと」
朋也(ともや)「面白(おもしろ)いことか…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、パチンコとか、ひとりで遊(あそ)ぶことしかしないからな…」
朋也(ともや)「他人(たにん)が面白(おもしろ)いことなんて、よくわからねぇよ」
朋也(ともや)「ましてや、子供相手(こどもあいて)じゃな」
汐(うしお)「…なにもないの?」
朋也(ともや)「ああ、何(なに)もない」
汐(うしお)「………」
しばらくじっと俺(おれ)を見(み)つめていたが、黙(だま)っていると、諦(あきら)めて窓(まど)の外(そと)に顔(かお)を向(む)けた。
そうすると、他(ほか)の子供(こども)たちのはしゃぐ声(こえ)が一層(いっそう)大(おお)きくなった気(き)がした。
もう一度(いちど)眠(ねむ)ろうと目(め)を閉(と)じても、気(き)になって仕方(しかた)がない。
すぐ後(うし)ろで甲高(かんだか)い絶叫(ぜっきょう)のような奇声(きせい)があがった。
朋也(ともや)「うるせぇっ!」
堪(た)えきれず、俺(おれ)は立(た)ち上(あ)がっていた。
朋也(ともや)「ちったぁ周(まわ)りのことを考(かんが)えろっ!」
母親(ははおや)「は、はい…すみません…」
子供(こども)を庇(かば)う母親(ははおや)の姿(すがた)。
朋也(ともや)「くそ…」
座(すわ)り直(なお)す。
隣(となり)が空席(くうせき)だった。
朋也(ともや)「汐(うしお)っ?」
立(た)って、辺(あた)りを見回(みまわ)す。
朋也(ともや)「汐(うしお)ーっ」
さっきの母親(ははおや)が訝(いぶか)しげに俺(おれ)を見(み)ていた。
朋也(ともや)「くそ、あいつ…どこいったんだ…」
女性(じょせい)「女(おんな)の子(こ)なら、今(いま)、後(うし)ろに走(はし)っていきましたよ」
別(べつ)の女性(じょせい)がそう教(おし)えてくれた。
朋也(ともや)「そうすか…ありがとうございます」
そこには車掌(しゃしょう)がいた。
車掌(しゃしょう)「あ、お父(とう)さんですか」
立(た)ち止(ど)まっていると、向(む)こうからそう訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「はぁ」
車掌(しゃしょう)「今(いま)、お子(こ)さんがトイレに」
朋也(ともや)「そうですか」
車掌(しゃしょう)「ドアを開(あ)けられずにいましたので」
朋也(ともや)「それはご迷惑(めいわく)おかけしました」
車掌(しゃしょう)「後(あと)、乗車券(じょうしゃけん)のほう、拝見(はいけん)させていただきます」
朋也(ともや)「ああ、はい」
車掌(しゃしょう)が立(た)ち去(さ)って、さらに十分(じゅうぶん)ぐらいは経(た)っただろうか。
ようやく汐(うしお)が出(で)てきた。
朋也(ともや)「おまえ、トイレ行(い)くなら、ひとこと言(い)っていけよ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「わかってんのか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「おまえ、目(め)、赤(あか)くない?」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「そうか?」
朋也(ともや)「なら、いいけど。戻(もど)るぞ」
汐(うしお)「…うん」
ふたり並(なら)んで、座(すわ)り直(なお)す。
俺(おれ)の一喝(いっかつ)が利(き)いたのか、車内(しゃない)は静(しず)かになっていた。
けど、眠気(ねむけ)は今(いま)の騒(さわ)ぎで吹(ふ)き飛(と)んでしまっていた。
隣(となり)を見(み)る。
汐(うしお)はじっと、窓(まど)の外(そと)を見(み)ていた。
その小(ちい)さな背中(せなか)を見(み)ていると…俺(おれ)まで悲(かな)しい気分(きぶん)になってくる。
朋也(ともや)「俺(おれ)さ…」
朋也(ともや)「おまえ、泣(な)かしたよな、今(いま)…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「汐(うしお)、おまえに訊(き)いてるんだぞ」
汐(うしお)「…え?」
こっちを向(む)いた。
朋也(ともや)「今(いま)、俺(おれ)、大声(おおごえ)出(だ)して怒(おこ)ったから、おまえ泣(な)いたんだよな」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「どうして、嘘(うそ)つく?
おまえ、目(め)腫(は)らしてるじゃないか」
汐(うしお)「…ないちゃダメって…」
朋也(ともや)「誰(だれ)が?」
汐(うしお)「さなえさん」
朋也(ともや)「マジか?
意外(いがい)に厳(きび)しいな、あの人(ひと)…」
汐(うしお)「…でも…」
汐(うしお)「…ないていいところがあるって…」
朋也(ともや)「泣(な)いていいところ?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「どこだよ、そりゃ」
汐(うしお)「…おトイレ」
だから、こいつはひとりで入(はい)ったこともない電車(でんしゃ)のトイレなんかに駆(か)け込(こ)んだんだ。
朋也(ともや)「そりゃ、トイレだったら誰(だれ)にも気(き)づかれずに泣(な)けるけどさ…」
朋也(ともや)「おまえ、いつもトイレで泣(な)いてんの?」
汐(うしお)「うん…」
朋也(ともや)「でも、外(そと)だったらどうすんだよ…」
汐(うしお)「…がまん」
朋也(ともや)「マジで言(い)ってんのか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「でも、それって…なんか、寂(さび)しくねぇ?」
早苗(さなえ)さんの教育方針(きょういくほうしん)がよくわからなかった。
朋也(ともや)「俺(おれ)は泣(な)きたい時(とき)は、泣(な)いていいと思(おも)うけどな」
朋也(ともや)「泣(な)きたくても我慢(がまん)しなくちゃいけないことなんて、この先(さき)、大(おお)きくなってから、たくさんあるからな」
朋也(ともや)「だから、今(いま)のうちに泣(な)いておいたほうがいいぞ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にわかってんのか?」
汐(うしお)「…うん」
俺(おれ)のことが恐(こわ)くなってしまったのだろうか。さっきから返事(へんじ)しかしなくなっていた。
朋也(ともや)(はぁ…)
財布(さいふ)を取(と)りだして、中身(なかみ)を見(み)てみた。
少(すこ)しの余裕(よゆう)ならありそうだった。
朋也(ともや)「汐(うしお)、次(つぎ)、降(お)りるぞ」
汐(うしお)「ついたの?」
朋也(ともや)「寄(よ)り道(みち)だ」
見知(みし)らぬ駅(えき)で下車(げしゃ)し、隣接(りんせつ)していたデパートに入(はい)る。
そこで俺(おれ)は、汐(うしお)におもちゃひとつを買(か)い与(あた)えた。
朋也(ともや)「それで、もう退屈(たいくつ)しないだろ」
汐(うしお)「…うん」
嬉(うれ)しそうに頬(ほお)を緩(ゆる)ましていた。
朋也(ともや)「けど、本当(ほんとう)にそんなのでよかったのか?」
汐(うしお)の持(も)つおもちゃは、手(て)のひらサイズの寸胴(ずんどう)なロボット。
時代錯誤(じだいさくご)なデザインが珍妙(ちんみょう)で面白(おもしろ)かったから、思(おも)わず俺(おれ)が薦(すす)めてしまったのだ。
汐(うしお)は悩(なや)むことなく、それに決(き)めてしまった。
だが冷静(れいせい)になってみると、女(おんな)の子(こ)はもとより、男(おとこ)の子(こ)だって欲(ほ)しくならないような代物(しろもの)だ。
朋也(ともや)(マニア向(む)けの復刻(ふっこく)モデルだったのかな…)
汐(うしお)「…ちょっとかわいい」
朋也(ともや)「ちょっとって、おまえな…すごく可愛(かわい)いものを買(か)えばよかったんだよ」
汐(うしお)「…ううん、これがいちばん」
朋也(ともや)「マジかよ…」
朋也(ともや)「おまえ、趣味(しゅみ)おかしいからな。自覚(じかく)しておけよ」
汐(うしお)「……?」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)、寝(ね)るから。おまえ、それで遊(あそ)んでろ」
汐(うしお)「うん」
ようやく落(お)ち着(つ)ける。
そう思(おも)って、目(め)を閉(と)じた。
………。
……。
ミュィーーーン…
……。
ギィィィ!
ガァァァ!
ギィィィ!
ガァァァ!
キシャーーーーッ!
朋也(ともや)「キシャーーッ、て俺(おれ)が言(い)いたくなるわっ!」
汐(うしお)「…え?」
朋也(ともや)「なんつー、騒音(そうおん)を立(た)てるおもちゃなんだよ、それはっ」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…ぐ」
泣(な)く寸前(すんぜん)の顔(かお)。
汐(うしお)「…がまん」
朋也(ともや)「我慢(がまん)せずに泣(な)けって」
ぷるぷると首(くび)を振(ふ)った。
朋也(ともや)「トイレ行(い)ってこいよ」
汐(うしお)「…ううん、がまん」
朋也(ともや)「あ、そ」
朋也(ともや)「あと、さっきの音(おと)、禁止(きんし)な」
朋也(ともや)「俺(おれ)だけじゃなく、周(まわ)りにも迷惑(めいわく)かかるだろ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「聞(き)き分(わ)けだけはいいな、おまえ」
俺(おれ)はもう一度(いちど)、寝(ね)に入(はい)る。
………。
……。
…。
そこからは、夢(ゆめ)うつつだった。
ずっと、汐(うしお)の姿(すがた)が見(み)えていた。
視界(しかい)の中(なか)で汐(うしお)は、じっと流(なが)れる風景(ふうけい)を見(み)ていた。
手(て)に持(も)ったロボットを窓(まど)に張(は)りつけて。
楽(たの)しい夏休(なつやす)みになっているだろうか…。
友達(ともだち)に自慢(じまん)できるぐらいの…。
こんな恐(こわ)いだけの父親(ちちおや)とふたりで、楽(たの)しいはずないか…。
初(はじ)めてのふたりきりの旅行(りょこう)なのに…。
寂(さび)しそうな汐(うしお)、ひとりだけの風景(ふうけい)しかなかった。
………。
……。
…。
初日(しょにち)の目的地(もくてきち)に着(つ)いたのは、もう日(ひ)も暮(く)れ始(はじ)めた頃(ころ)だった。
早苗(さなえ)さんの書(か)き置(お)きを見(み)て、駅名(えきめい)を確認(かくにん)。
朋也(ともや)「よし、合(あ)ってるな」
朋也(ともや)「汐(うしお)、いくぞ」
改札(かいさつ)を抜(ぬ)けて、見知(みし)らぬ土地(とち)に降(お)り立(た)つ。
早苗(さなえ)さんの書(か)き置(お)きに目(め)を落(お)とす。
…バスで動物園(どうぶつえん)へ移動(いどう)。その後(しり)、本日(ほんじつ)の宿(やど)へ。
朋也(ともや)「動物園(どうぶつえん)か…」
朋也(ともや)「ここで、バスを待(ま)つぞ、汐(うしお)」
バス停(てい)の前(まえ)にふたり並(なら)んで立(た)つ。
………。
しばらく待(ま)つが、なかなかバスはやってこない。
時間表(じかんひょう)を確認(かくにん)する。
朋也(ともや)(ぐあ…一時間(いちじかん)に一本(いっぽん)かよ…)
朋也(ともや)(タクシー使(つか)ったら、帰(かえ)りの電車賃(でんしゃちん)がなくなるし…)
朋也(ともや)(つーか、時間(じかん)はあるのか…?)
早苗(さなえ)さんのメモには、宿(やど)へは6時(じ)に入(はい)ることになっている。
予約(よやく)は入(い)れてくれてあったから、連絡(れんらく)すれば、チェックインを遅(おく)らせることもできるだろう。
…って、待(ま)て。
朋也(ともや)(一日(いちにち)遅(おく)れで行動(こうどう)してるんじゃなかったか、俺(おれ)たち…)
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
汐(うしお)「…うん?」
朋也(ともや)「動物園(どうぶつえん)は、また今度(こんど)な」
汐(うしお)「…え?」
朋也(ともや)「時間(じかん)がないんだ。宿(やど)も取(と)らないといけないし」
汐(うしお)「………」
泣(な)きそうな顔(がお)になる。
朋也(ともや)「いろいろ事情(じじょう)があるんだよ。少(すこ)しは察(さっ)しろ」
朋也(ともや)「それに動物園(どうぶつえん)なんて、どこでもあるだろ。わざわざこんな田舎(いなか)まで来(こ)なくたって」
汐(うしお)「…ここ、さわれるって」
朋也(ともや)「動物(どうぶつ)にか?」
汐(うしお)「…うん。さわりたかった」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「それか予定(よてい)変(か)えて、明日(あした)、動物園(どうぶつえん)いくか?」
朋也(ともや)「この、最終目的地(さいしゅうもくてきち)のなんとか岬(みさき)には行(い)けなくなるけど」
汐(うしお)「…そっちもいきたい」
朋也(ともや)「おまえ、どっちかにしろよ」
朋也(ともや)「こっちは、ええと…お花畑(はなばたけ)か」
朋也(ともや)「動物園(どうぶつえん)のほうがいいんじゃないのか?」
汐(うしお)「おはな…」
朋也(ともや)「花(はな)のほうがいいのか。そこは、女(おんな)の子(こ)らしいんだな」
朋也(ともや)「よし、じゃ、今日(きょう)はもう宿(やど)に移動(いどう)しよう」
朋也(ともや)「同(おな)じとこで、部屋(へや)空(す)いてるかな…」
朋也(ともや)「いくぞ」
汐(うしお)「…うん」
駅(えき)に戻(もど)り、宿泊(しゅくはく)予定(よてい)だった宿(やど)に電話(でんわ)をしてみる。
………。
朋也(ともや)「汐(うしお)、急(いそ)ぐぞっ」
汐(うしお)「…え」
朋也(ともや)「満室(まんしつ)だったんだよっ、自分(じぶん)たちの足(あし)で、探(さが)さないといけなくなった」
汐(うしお)「………」
意味(いみ)がわからないのだろう。不安(ふあん)そうな顔(かお)でついてくる。
朋也(ともや)「荷物(にもつ)持(も)ってやるから、もう少(すこ)し急(いそ)げ」
どれだけ急(せ)かしても、ふらふらとおぼつかない足取(あしど)りで歩(ある)くだけだった。
こいつにとっては、それで走(はし)っているつもりなのだろう。
普通(ふつう)に歩(ある)いているほうが速(はや)かった。
朋也(ともや)(どこも全部(ぜんぶ)、満室(まんしつ)になったらどうすんだよ…)
責任(せきにん)をなすりつけることもできない。
子供(こども)を連(つ)れての行動(こうどう)とは、こんなにも不自由(ふじゆう)なものだったのか…。
9時(じ)を回(まわ)る頃(ころ)、ようやく小(ちい)さな民宿(みんしゅく)の一室(いっしつ)に落(お)ち着(つ)くことができた。
でも持(も)ち合(あ)わせがなかったので、早起(はやお)きをして銀行(ぎんこう)を探(さが)さねばならなかった。
朋也(ともや)(大変(たいへん)すぎる…)
その日(ひ)は、風呂(ふろ)からあがると、何(なに)もする気(き)が起(お)きず、そのまま寝入(ねい)ってしまった。
最後(さいご)に見(み)たのは、テレビに見入(みい)る汐(うしお)の横顔(よこがお)だった。
翌朝(よくあさ)。
宿(やど)を後(あと)にした俺(おれ)たちは来(き)た道(みち)を戻(もど)り、駅(えき)へと向(む)かう。
そこからはまた、退屈(たいくつ)な電車(でんしゃ)での移動(いどう)が続(つづ)く。
寝(ね)る以外(いがい)することもなかったが、夕(ゆう)べは眠(ねむ)りすぎたためか、なかなか眠気(ねむけ)が訪(おとず)れない。
それに相変(あいか)わらず車内(しゃない)は、子連(こづ)れの乗客(じょうきゃく)が多(おお)く、騒(さわ)がしかった。
また怒鳴(どな)るわけにもいかず…
俺(おれ)は眠(ねむ)ることを諦(あきら)め、隣(となり)を見(み)た。
汐(うしお)と目(め)が合(あ)った。
途端(とたん)、さっ、と逸(そ)らされた。
朋也(ともや)「なんだよ」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「顔(かお)になんか、ついてるか」
汐(うしお)「…ついてない」
朋也(ともや)「じゃ、隠(かく)れるようにして、人(ひと)の顔(かお)を見(み)るな」
朋也(ともや)「相手(あいて)が男(おとこ)の子(こ)だったら、勘違(かんちが)いされるぞ」
朋也(ともや)「って、まだ、そんな歳(とし)じゃないか」
汐(うしお)「…うん」
本当(ほんとう)にわかってるのか、頷(うなず)いて、窓(まど)の外(そと)に目(め)を向(む)けた。
朋也(ともや)(ビール、買(か)ってくりゃよかったな…)
急行(きゅうこう)では、車内販売(しゃないはんばい)もなかった。
朋也(ともや)(禁煙(きんえん)だし、最悪(さいあく)だな…)
朋也(ともや)「………」
ばっ、と不意打(ふいう)ちのように顔(かお)を横(よこ)に向(む)ける。
すると、案(あん)の定(じょう)、こっちを見(み)ていた汐(うしお)が驚(おどろ)いて、あたふたしていた。
朋也(ともや)「なんだよ、退屈(たいくつ)なのか」
汐(うしお)「…ううんっ」
汐(うしお)「…これあるから」
手(て)に持(も)っていたロボットの腕(うで)をくるくると回転(かいてん)させた。
朋也(ともや)「音(おと)鳴(な)らしてもいいぞ。周(まわ)りもうるさいからな」
汐(うしお)「…いい」
朋也(ともや)「いいのか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「おまえ、子供(こども)のくせに控(ひか)えめだよな」
朋也(ともや)「それとも、なんだ、まだ俺(おれ)のこと恐(こわ)がってるのか?」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「もう、怒鳴(どな)ったりしないって」
朋也(ともや)「だから、言(い)いたいこと言(い)ってみろ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「ほら」
汐(うしお)「じゃぁ…」
汐(うしお)がようやく口(くち)を開(ひら)いた。
汐(うしお)「ママのこと、おしえて」
………。
一瞬(いっしゅん)、辺(あた)りが静寂(せいじゃく)に包(つつ)まれた気(き)がした。
俺(おれ)は顔(かお)を伏(ふ)せる。
………。
すでに騒(さわ)がしいガキ共(ども)の声(こえ)は戻(もど)ってきている。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに訊(き)けよ」
床(ゆか)を見(み)つめたまま、答(こた)えた。
汐(うしお)「きいても、おしえてくれないから…」
…それは、父親(ちちおや)の義務(ぎむ)だとでも言(い)うのだろうか。
そんなの酷(ひど)すぎる。
俺(おれ)だって、誰(だれ)かに任(まか)せたい…。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんにさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も教(おし)えてくれなかったって言(い)ってくれよ」
朋也(ともや)「それでな…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんの口(くち)から教(おし)えてやってほしいって…」
朋也(ともや)「そう言(い)ってたって…」
朋也(ともや)「伝(つた)えてくれよ」
汐(うしお)「…そうしたら、おしえてくれるの?」
朋也(ともや)「俺(おれ)じゃない。早苗(さなえ)さんがな」
汐(うしお)「………」
しばらく、俺(おれ)の顔(かお)を見(み)つめていた。
朋也(ともや)「なんだよ、言(い)ってみろよ」
汐(うしお)「…ううん」
汐(うしお)「…わかった」
それからは会話(かいわ)もなく、汐(うしお)とふたり、揺(ゆ)られ続(つづ)けた。
昼(ひる)を過(す)ぎると、途中下車(とちゅうげしゃ)し
て、立(た)ち食(く)いそばを食(た)べた。
用(よう)を足(た)し、また車中(しゃちゅう)に舞(ま)い戻(もど)る。
電車(でんしゃ)は何度(なんど)も停車(ていしゃ)し、最終目的地(さいしゅうもくてきち)へと向(む)かっていた。
………。
……。
…。
結局(けっきょく)、俺(おれ)は寝入(ねい)ってしまっていた。
目覚(めざ)めると、まず汐(うしお)の姿(すがた)を確認(かくにん)する。
窓(まど)に張(は)りついて、外(そと)を眺(なが)めていた。
それから車内(しゃない)を見回(みまわ)した。
いつの間(ま)にか、自分(じぶん)たち以外(いがい)の乗客(じょうきゃく)はいなくなってしまっていた。
寝汗(ねあせ)が冷房(れいぼう)によって、冷(さ)まされていく。
寒(さむ)いほどだった。
車内(しゃない)アナウンスが告(つ)げていた。
…次(つぎ)が終点(しゅうてん)だと。
見知(みし)らぬ土地(とち)に降(お)り立(た)つ。
もわっとした熱気(ねっき)がふたりを包(つつ)み込(こ)む。
朋也(ともや)「あちぃ…」
見渡(みわた)す限(かぎ)りの自然(しぜん)。
舗装(ほそう)もされていない道(みち)がどこまでも続(つづ)いていた。
朋也(ともや)「ええと…」
早苗(さなえ)さんのメモを見(み)てみる。
朋也(ともや)「花畑(はなばたけ)まで徒歩(とほ)15分(ふん)だってよ」
朋也(ともや)「この暑(あつ)さでそんなに歩(ある)いたら、倒(たお)れるぞ…」
朋也(ともや)「ちゃんと帽子(ぼうし)かぶってるな?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「もっと深(ふか)く」
押(お)しつけてやる。
汐(うしお)「う、うん…」
朋也(ともや)「とっとと、いくぞ」
歩(ある)き出(だ)す。
遠目(とおめ)からでも、目的地(もくてきち)はわかった。
広(ひろ)がる緑(みどり)の中(なか)、一面(いちめん)に、色(いろ)とりどりの模様(もよう)を編(あ)み込(こ)んだような場所(ばしょ)が見渡(みわた)せた。
朋也(ともや)「お花畑(はなばたけ)って…すげぇ広(ひろ)さだな…」
汐(うしお)「うーん…」
差(さ)す陽(よう)に目(め)を細(ほそ)めて、必死(ひっし)で汐(うしお)が遠(とお)くを見(み)ようとしていた。
朋也(ともや)「そんなに焦(あせ)るなって。今(いま)からそこに向(む)かってるんだからさ」
汐(うしお)「ここからも、みてみたい」
確(たし)かに、すぐそばと、ここからでは、見(み)た目(め)も違(ちが)うだろう。
朋也(ともや)「見(み)たいか?」
汐(うしお)「うん、みたい」
朋也(ともや)「じゃ、見(み)せてやるよ」
俺(おれ)は汐(うしお)の背後(はいご)に回(まわ)り込(こ)み、しゃがみ込(こ)んだ。
朋也(ともや)「いくぞ」
汐(うしお)「…え?」
朋也(ともや)「股(また)開(ひら)けって」
朋也(ともや)「肩車(かたぐるま)ってやつだよ」
汐(うしお)「…こう?」
朋也(ともや)「そうそう」
汐(うしお)の体(からだ)を持(も)ち上(あ)げる。
むちゃくちゃ軽(かる)い。
朋也(ともや)「どうだ」
汐(うしお)「うー…すごい」
朋也(ともや)「しばらく、このまま歩(ある)いてやるよ」
汐(うしお)「うん」
花畑(はなばたけ)は、いつの日(ひ)かかいだことのあるような懐(なつ)かしい匂(にお)いに包(つつ)まれていた。
汐(うしお)「わーい」
リュックを背負(せお)ったままの汐(うしお)が、その中(なか)を駆(か)け回(まわ)る。
朋也(ともや)「おまえ、やっぱ、男(おとこ)の子(こ)だろ」
汐(うしお)「こんなの、みたことない」
足(あし)を止(と)めては花(はな)に見入(みい)る。
朋也(ともや)「そりゃ、よかったな。十分(じゅうぶん)堪能(かんのう)してくれ」
近(ちか)くに木陰(こかげ)を見(み)つけると、俺(おれ)はその下(した)に入(はい)る。
朋也(ともや)「暑(あつ)くなったら、こっちきて、休(やす)めよ」
それだけを言(い)って、腰(こし)を下(お)ろした。
あんなに楽(たの)しそうにしている汐(うしお)を見(み)たことがなかった。
退屈(たいくつ)しかしないようなひどい旅(たび)だったけど、ここにきて、ようやくいい思(おも)い出(で)を作(つく)ってやることができた。
俺(おれ)も胸(むね)を撫(な)で下(お)ろす。
朋也(ともや)「ふぅ…」
花(はな)の匂(にお)いを帯(お)びた風(かぜ)が通(とお)り抜(ぬ)けていく。
心地(ここち)よかった。
もう一度(いちど)、早苗(さなえ)さんのメモに目(め)を落(お)とす。
ゴールはすぐそこだった。
見(み)たことも聞(き)いたこともない岬(みさき)。
日(ひ)が暮(く)れるまでにそこに向(む)かえばいい。
ここでゆっくりしていこう。
俺(おれ)も、花(はな)の中(なか)で跳(は)ね回(まわ)る汐(うしお)を、しばらく見(み)ていたかった。
一時間(いちじかん)ぐらいして、ようやく汐(うしお)が戻(もど)ってくる。
汐(うしお)「あつい…」
朋也(ともや)「おまえ、足元(あしもと)、ふらふらな」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「そうなる前(まえ)に戻(もど)ってこいって言(い)ったんだよ」
朋也(ともや)「ほら、座(すわ)って待(ま)ってろ」
朋也(ともや)「ジュース買(か)ってきてやるから」
汐(うしお)が腰(こし)を下(お)ろすのと入(い)れ代(か)わりに立(た)ち上(あ)がる。
花畑(はなばたけ)の入(い)り口(ぐち)にぽつんと設置(せっち)してあった販売機(はんばいき)で、お茶(ちゃ)とジュースを買(か)って、汐(うしお)の元(もと)に戻(もど)る。
その汐(うしお)は立(た)ち上(あ)がって、花畑(はなばたけ)に戻(もど)っていこうとしていた。
朋也(ともや)「おい、いい加減(かげん)にしろっ」
眩(まぶ)しく細(ほそ)めた目(め)をこちらに向(む)けた。
汐(うしお)「だって…」
汐(うしお)「なくしたから…」
朋也(ともや)「なくした?
何(なに)を」
汐(うしお)「…ろぼっと」
朋也(ともや)「落(お)としたのか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「わかった、ほら、これ飲(の)んで休(やす)んでおけ」
寄(よ)っていって、その手(て)にジュースを握(にぎ)らせる。
朋也(ともや)「代(か)わりに俺(おれ)が探(さが)してくるから」
汐(うしお)「…ほんと?」
朋也(ともや)「ああ、本当(ほんとう)だ。見(み)つかるかどうかはしらないけどな」
花畑(はなばたけ)を振(ふ)り返(かえ)る。
ぞっとするほどの広(ひろ)さだった。
しかも、この暑(あつ)さ…。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)が潤(うる)ませた瞳(ひとみ)をじっと俺(おれ)に向(む)けていた。
朋也(ともや)(行(い)けばいいんだろ…)
俺(おれ)は汐(うしお)を木陰(こかげ)に残(のこ)して、花畑(はなばたけ)へ踏(ふ)み込(こ)んだ。
通(とお)れる道(みち)をすべて歩(ある)いて回(まわ)った。
けど、見(み)つからなかった。
体(からだ)の小(ちい)さい汐(うしお)のことだ。狭(せま)い隙間(すきま)でも入(はい)っていって、花(はな)を観察(かんさつ)できただろう。
そんな場所(ばしょ)で落(お)としたなら、大人(おとな)の俺(おれ)に見(み)つけられるはずがなかった。
諦(あきら)めて木陰(こかげ)まで戻(もど)ってくる。
朋也(ともや)「悪(わる)いな…見(み)つからなかった」
汐(うしお)は何(なに)も言(い)わずにいた。
朋也(ともや)「ジュース飲(の)み終(お)わったか?
お茶(ちゃ)も欲(ほ)しかったら、飲(の)めよ」
ううん、と首(くび)を振(ふ)った。
朋也(ともや)「あのロボット、同(おな)じの、家(いえ)の近(ちか)くでも売(う)ってるよ、きっと」
朋也(ともや)「探(さが)して、早苗(さなえ)さんかオッサンに買(か)ってもらえ」
朋也(ともや)「な」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…さがしてくる」
朋也(ともや)「残念(ざんねん)だけど、もう時間(じかん)がないんだ」
朋也(ともや)「日(ひ)が暮(く)れ始(はじ)める前(まえ)に動(うご)きたいんだよ」
汐(うしお)「…ちょっとだけ」
言(い)って、俺(おれ)の返事(へんじ)も聞(き)かずに、花畑(はなばたけ)に向(む)かって駆(か)けていった。
朋也(ともや)「汐(うしお)…見(み)つかったか」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「もう、諦(あきら)めよう。これだけ探(さが)してないんだったらさ」
汐(うしお)「…ぜったいにみつける」
朋也(ともや)「おまえって、子供(こども)のくせに頑固(がんこ)な奴(やつ)だな…」
結局(けっきょく)日(ひ)は暮(く)れてしまった。
朋也(ともや)「おまえ、いい加減(かげん)にしろよ…」
朋也(ともや)「どうでもいいじゃないか、あんなものさ…」
汐(うしお)「…ううん」
………。
朋也(ともや)「置(お)いていくぞーっ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「おい、マジで置(お)いていくぞ」
汐(うしお)「………」
立(た)ち上(あ)がって、こっちを見(み)た。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は黙(だま)っていた。
しかし、結局(けっきょく)、もう一度(いちど)しゃがみ込(こ)んで、探(さが)し始(はじ)めた。
朋也(ともや)「ったく…」
俺(おれ)は胸(むね)のポケットからタバコを取(と)りだして、口(くち)にくわえ、火(ひ)をつける。
朋也(ともや)「ふぅーっ…」
そろそろ宿(やど)を探(さが)し始(はじ)めなければならなかった。
それさえしてしまえば、後(あと)は一晩(ひとばん)休(やす)んで、帰(かえ)るだけだった。
俺(おれ)の四連休(よんれんきゅう)はそれで終(お)わり。明後日(あさって)からは、仕事(しごと)だった。
また早苗(さなえ)さんに汐(うしお)を預(あず)けて、何(なに)も考(かんが)えずにひとり体(からだ)を動(うご)かす日々(ひび)が始(はじ)まる。
朋也(ともや)「………」
………。
結局(けっきょく)…
この旅(たび)はなんだったのだろう…。
こんな遠(とお)い場所(ばしょ)まで来(き)て…
花(はな)を見(み)て、喜(よろこ)んだのも束(つか)の間(ま)…
買(か)ってあげたおもちゃを、なくして…
必死(ひっし)になって、探(さが)しても、見(み)つからなくて…
それで、寂(さび)しい思(おも)いのまま帰(かえ)るだけ。
なんにも得(え)たものがない。
時間(じかん)の無駄(むだ)だった。
失(うしな)ったものばかりだった。
………。
風向(ふうこう)きが変(か)わった。
潮(しお)の匂(にお)いがした。
それは岬(みさき)から吹(ふ)いてきたものだろうか。
時間(じかん)はもう少(すこ)しだけある。
朋也(ともや)「汐(うしお)」
俺(おれ)は呼(よ)びかけた。
心配(しんぱい)そうな顔(かお)で汐(うしお)はこっちを見(み)た。
朋也(ともや)「後(あと)、30分(ぷん)だけ待(ま)ってやる」
朋也(ともや)「それまでに見(み)つけろ」
汐(うしお)「…うん」
俺(おれ)は汐(うしお)をその場(ば)に残(のこ)して、歩(ある)き出(だ)した。
旅(たび)のゴールに向(む)けて。
潮(しお)の匂(にお)いを辿(たど)って、斜面(しゃめん)を登(のぼ)っていく。
朋也(ともや)(ゴールって、一体(いったい)何(なに)があるんだろう…)
朋也(ともや)(記念(きねん)スタンプとかかな…)
視界(しかい)が開(あ)けた。
真(ま)っ直(す)ぐ先(さき)には、海(うみ)が見(み)えた。
そして、その海(うみ)を背(せ)に、ひとりの女性(じょせい)が立(た)っていた。
女性(じょせい)「お待(ま)ちしてましたよ」
女性(じょせい)「岡崎朋也(おかざきともや)さん、ですね」
朋也(ともや)「はぁ、そうですが…」
女性(じょせい)「古河(ふるかわ)さんという女性(じょせい)の方(かた)から、連絡(れんらく)をいただきまして」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、ですか?」
女性(じょせい)「そうです」
朋也(ともや)「でも、その…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、早苗(さなえ)さんにここまで来(く)るように指示(しじ)されただけで…」
朋也(ともや)「失礼(しつれい)ですが、あなたが誰(だれ)なのかも知(し)らないんです」
女性(じょせい)「わたしですか」
朋也(ともや)「ええ…」
女性(じょせい)「わたしは、岡崎史乃(おかざきしの)といいます」
朋也(ともや)「…え?」
史乃(しの)「あなたの父親(ちちおや)の母(はは)です」
風(かぜ)が吹(ふ)いて、額(ひたい)に張(は)りついた髪(かみ)をなびかせた。
…早苗(さなえ)さん。
一体(いったい)あなたは、どんな経験(けいけん)を俺(おれ)にさせたいんですか。
史乃(しの)「大(おお)きくなりましたね」
朋也(ともや)「会(あ)ったこと…あったんですか」
史乃(しの)「ええ。でも、あなたが覚(おぼ)えてないのは無理(むり)もないですよ」
史乃(しの)「まだまだ小(ちい)さかったですから」
朋也(ともや)「そうですか…」
史乃(しの)「あの馬鹿(ばか)は、まだ罪滅(つみほろ)ぼしの途中(とちゅう)ですか」
朋也(ともや)「いや…たぶん、もう実家(じっか)に戻(もど)ってると思(おも)います…」
史乃(しの)「大変(たいへん)な思(おも)いをしたでしょう」
朋也(ともや)「いえ…お互(たが)い、距離(きょり)を置(お)いてましたから…」
史乃(しの)「わかりますよ。直幸(なおゆき)のことですから」
直幸(なおゆき)…父(ちち)の名(な)だった。
俺(おれ)は海(うみ)に目(め)を向(む)けた。
史乃(しの)「昔(むかし)はあんな馬鹿(ばか)な子(こ)ではなかったんですよ」
祖母(そぼ)は話(はなし)を続(つづ)けた。
史乃(しの)「若(わか)い結婚(けっこん)でした。ふたりとも学生(がくせい)だったから、誰(だれ)もが反対(はんたい)しましたよ…」
史乃(しの)「でも、直幸(なおゆき)は高校(こうこう)を中退(ちゅうたい)してまで、働(はたら)いて…敦子(あつこ)さんのために頑張(がんば)った」
史乃(しの)「小(ちい)さなアパートで、二人暮(ふたりぐ)らしを始(はじ)めて…」
史乃(しの)「収入(しゅうにゅう)も少(すく)ない中(なか)、やりくりして…」
史乃(しの)「何(なに)を好(この)んで、苦労(くろう)してるのだろうってね…」
史乃(しの)「周(まわ)りは不思議(ふしぎ)そうに見(み)てましたよ」
史乃(しの)「でもね、直幸(なおゆき)はそれで幸(しあわ)せだったんでしょう」
史乃(しの)「ずっと一緒(いっしょ)に暮(く)らしてきたわたしなんかでも見(み)たことのないような笑顔(えがお)でいましたから…」
史乃(しの)「自分(じぶん)の力(ちから)だけで、愛(あい)する人(ひと)を守(まも)って、生(い)きていく…」
史乃(しの)「それだけであの子(こ)は幸(しあわ)せだったんですよ」
史乃(しの)「やがて、敦子(あつこ)さんはお腹(なか)に直幸(なおゆき)との子(こ)を宿(やど)しました」
史乃(しの)「ささやかな祝福(しゅくふく)の中(なか)で、朋也(ともや)さん、あなたは生(う)まれてきたんですよ」
史乃(しの)「ふたりきりだった生活(せいかつ)は、家族(かぞく)の生活(せいかつ)になりました」
史乃(しの)「直幸(なおゆき)は今(いま)まで以上(いじょう)に頑張(がんば)って、働(はたら)きました」
史乃(しの)「ずっと、笑(わら)いながら」
史乃(しの)「でも…」
史乃(しの)「その幸(しあわ)せは長(なが)く続(つづ)きませんでした」
史乃(しの)「敦子(あつこ)さんが事故(じこ)に遭(あ)って…」
史乃(しの)「…そのまま他界(たかい)してしまいました」
史乃(しの)「直幸(なおゆき)にとって、それは…立(た)ち直(なお)れないほど悲(かな)しい出来事(できごと)でした」
史乃(しの)「あの子(こ)は、家族(かぞく)の幸(しあわ)せを守(まも)って、生(い)きてきたからです」
史乃(しの)「でも、まだ絶望(ぜつぼう)するわけにはいかなかったのです」
史乃(しの)「朋也(ともや)さん」
史乃(しの)「…まだ幼(おさな)いあなたが残(のこ)されていたからです」
史乃(しの)「こいつだけは、自分(じぶん)の手(て)で育(そだ)て上(あ)げるから、と…」
史乃(しの)「あなたは、その日(ひ)、この場所(ばしょ)から…直幸(なおゆき)と手(て)を繋(つな)いで、歩(ある)いていったのですよ」
史乃(しの)「覚(おぼ)えていますか」
朋也(ともや)「………」
史乃(しの)「そこから始(はじ)まった日々(ひび)が…あの子(こ)の人生(じんせい)の中(なか)で、一番(いちばん)頑張(がんば)った時間(じかん)なのですよ」
朋也(ともや)「………」
史乃(しの)「仕事(しごと)と子育(こそだ)てを両立(りょうりつ)することは、難(むずか)しかったんです」
史乃(しの)「何度(なんど)も仕事(しごと)をクビになって、転(てん)々として…」
史乃(しの)「それでも、あなただけは手放(てばな)さずにいました…」
史乃(しの)「なけなしのお金(かね)で、おもちゃを買(か)い与(あた)え、お菓子(かし)を食(た)べさせて…」
史乃(しの)「自分(じぶん)の運(うん)や、成功(せいこう)する機会(きかい)…すべてを犠牲(ぎせい)にして…」
史乃(しの)「あなたを育(そだ)て上(あ)げたのですよ」
史乃(しの)「時(とき)には厳(きび)しかったでしょう。時(とき)には、乱暴(らんぼう)だったでしょう」
史乃(しの)「でも、すべては…あなたを無事(ぶじ)に育(そだ)て上(あ)げるためだったのですよ」
史乃(しの)「そして、あなたが手(て)のかからない男(おとこ)の子(こ)として育(そだ)ったとき…」
史乃(しの)「あの子(こ)は、すべてを失(うしな)っていました」
史乃(しの)「仕事(しごと)も…」
史乃(しの)「信頼(しんらい)も…」
史乃(しの)「運(うん)も…」
史乃(しの)「友(とも)も…」
史乃(しの)「そこからはもう…」
史乃(しの)「堕落(だらく)していくしかなかったのです」
史乃(しの)「朋也(ともや)さん」
史乃(しの)「直幸(なおゆき)は…駄目(だめ)な父(ちち)だったと思(おも)いますか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…いえ…」
泣(な)きそうだった。泣(な)き出(だ)したかった。
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうが…」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうがよっぽど…駄目(だめ)な人間(にんげん)です…」
史乃(しの)「………」
そんな思(おも)いであの人(ひと)が俺(おれ)を育(そだ)ててきたなんて知(し)らなかった。
そして…
朋也(ともや)「俺(おれ)は…あの日(ひ)の親父(おやじ)と…同(おな)じ場所(ばしょ)に立(た)ってるんです」
史乃(しの)「………」
朋也(ともや)「まったく同(おな)じなんです…」
朋也(ともや)「なのに…今(いま)の俺(おれ)は…弱(よわ)くて、情(なさ)けない人間(にんげん)です…」
史乃(しの)「いえ…あの子(こ)も、弱(よわ)くて、情(なさ)けない人間(にんげん)でしたよ」
史乃(しの)「我(わ)がままばかりで、乱暴(らんぼう)で…」
史乃(しの)「人間(にんげん)としては、駄目(だめ)な人間(にんげん)です…」
史乃(しの)「でも…」
史乃(しの)「ただ、ひとつだけ…わたしは今(いま)も誇(ほこ)りに思(おも)いたいのです」
史乃(しの)「人間(にんげん)としては、駄目(だめ)だったけど…」
史乃(しの)「父親(ちちおや)としては、立派(りっぱ)だったと」
朋也(ともや)「………」
史乃(しの)「朋也(ともや)さんも…そう思(おも)ってくれますか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…はい」
史乃(しの)「ありがとうございます」
朋也(ともや)「いえ…そんな…」
史乃(しの)「朋也(ともや)さん」
祖母(そぼ)が真(ま)っ直(す)ぐに俺(おれ)を見(み)た。
史乃(しの)「あの子(こ)は、頑張(がんば)りすぎました」
史乃(しの)「そろそろ休(やす)んでも、いい頃(ころ)でしょう…」
史乃(しの)「どうか、伝(つた)えてください」
史乃(しの)「もう帰(かえ)ってこい、と…」
史乃(しの)「わたしはこの場所(ばしょ)で、あの子(こ)を待(ま)ち続(つづ)けます」
史乃(しの)「あの子(こ)と、ここで暮(く)らせることを願(ねが)って」
優(やさ)しい目(め)だった。
母(はは)の目(め)だった。
ずっと、子(こ)を見守(みまも)ってきた人(ひと)の。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…わかりました」
朋也(ともや)「伝(つた)えます」
朋也(ともや)「汐(うしお)ーっ」
呼(よ)ぶと、すぐ正面(しょうめん)で汐(うしお)が顔(かお)をあげた。
朋也(ともや)「見(み)つかったか」
汐(うしお)「…ううん」
立(た)ち上(あ)がって、うなだれる。
汐(うしお)「…みつからなかった…」
朋也(ともや)「そっか…仕方(しかた)ないな」
朋也(ともや)「また、新(あたら)しいの買(か)ってやるからさ…」
汐(うしお)「………」
そう言(い)っても、汐(うしお)は顔(かお)を伏(ふ)せたままでいた。
汐(うしお)「…あれはひとつだけだから」
朋也(ともや)「ん?
ひとつだけって、何(なに)がだよ。たくさん、売(う)ってただろ?」
汐(うしお)「…えらんでくれて…かってくれたものだから」
汐(うしお)「…はじめてパパに」
………。
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんの言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)していた。
──汐(うしお)は、ずっと寂(さび)しがっているんですよ。
──ずっと、お父(とう)さんがそばにいなくて。
朋也(ともや)「…汐(うしお)」
朋也(ともや)「じゃ、おまえには…大切(たいせつ)なものだったんだな…」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…うん」
ああ…取(と)り戻(もど)せるんだ。
そう思(おも)った。
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
朋也(ともや)「寂(さび)しかったか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「俺(おれ)なんかと旅行(りょこう)できて…楽(たの)しかったか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「ずっと…ごめんな」
朋也(ともや)「長(なが)い間(あいだ)…ひとりにして…」
朋也(ともや)「な、汐(うしお)」
朋也(ともや)「これからは、ずっとそばに居(い)ていいかな…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「…ずっとさ…駄目(だめ)な父親(ちちおや)だったけどさ…」
朋也(ともや)「これからは、汐(うしお)のために頑張(がんば)るから…」
朋也(ともや)「だから、そばに居(い)ていいかな…」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)か?」
汐(うしお)「…うん。いてほしい」
朋也(ともや)「そうか…」
汐(うしお)「…でも、きょうは…」
汐(うしお)「…たいせつなものなくしたから…」
汐(うしお)「…かなしい」
汐(うしお)「…パパ」
朋也(ともや)「うん?」
汐(うしお)「…もう、がまんしなくていい?」
朋也(ともや)「何(なに)を…?」
汐(うしお)「…なくの」
朋也(ともや)「泣(な)くこと?」
汐(うしお)「…うん」
汐(うしお)「…さなえさんが、ないていいのは…」
汐(うしお)「…おトイレか…パパのむねだって…」
朋也(ともや)「………」
五年間(ごねんかん)…
ずっと、こいつはトイレの中(なか)で、ひとり泣(な)いてきたのだ。
早苗(さなえ)さんは、決(けっ)して、自分(じぶん)の胸(むね)で泣(な)かせたりしなかったのだ。
なんて…
なんて…ひどい父親(ちちおや)だったのだろう、俺(おれ)は…。
朋也(ともや)「ああ…もういい…」
朋也(ともや)「もういいんだよ、汐(うしお)…」
朋也(ともや)「もう、我慢(がまん)なんかしなくていい」
朋也(ともや)「泣(な)きたかったら、パパの胸(むね)で泣(な)けばいい」
朋也(ともや)「ほら」
俺(おれ)はしゃがみ込(こ)んで、腕(うで)を開(ひら)いた。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)は少(すこ)し、迷(まよ)った後(あと)…
ぱたぱたと走(はし)ってきて、俺(おれ)の胸(むね)に飛(と)び込(こ)んだ。
そして、泣(な)いた。
わんわん、と。
大(おお)きな声(こえ)で。
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
その頭(あたま)を撫(な)でて、そっと抱(だ)きしめた。
俺(おれ)にしか守(まも)れないものが、ここにあった。
朋也(ともや)「お祖母(ばあ)さん…」
朋也(ともや)「暇(ひま)ができたら、また来(き)ます」
史乃(しの)「はい、待(ま)っていますよ」
朋也(ともや)「それでは」
朋也(ともや)「さようなら」
旅(たび)の終着点(しゅうちゃくてん)に待(ま)っていたものは、年老(としお)いたひとりの母(はは)だった。
そして、俺(おれ)はここで、かけがえのないものを得(え)た。
一生(いっしょう)、その思(おも)いを抱(だ)いて、生(い)きる。
こいつと、一緒(いっしょ)に。
朋也(ともや)「なぁ…汐(うしお)」
汐(うしお)「…ん?」
朋也(ともや)「ママの話(はなし)、聞(き)きたいか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「そっか。よし…じゃ、話(はな)してやる」
朋也(ともや)「こっちこい」
窓(まど)から離(はな)れて、俺(おれ)の腰(こし)にくっついて座(すわ)り直(なお)した。
朋也(ともや)「ママはな、いつだって、泣(な)いてるような奴(やつ)だった」
朋也(ともや)「出会(であ)ったときもさ、自信(じしん)がなくて、弱(よわ)くて…学校(がっこう)の坂(さか)の下(した)でずっと立(た)ち尽(つ)くしてたんだ」
朋也(ともや)「その坂(さか)の下(した)で、なんて言(い)ってたと思(おも)う?」
朋也(ともや)「目(め)つぶって、あんパンっ、だって」
朋也(ともや)「あいつの癖(くせ)だったんだ」
朋也(ともや)「一歩(いっぽ)を踏(ふ)み出(だ)すために、食(た)べたいものを声(こえ)に出(だ)して、それで勇気(ゆうき)を奮(ふる)い立(た)たせる…」
朋也(ともや)「かわいい癖(くせ)だろ…。だって、すごく謙虚(けんきょ)だからさ…」
朋也(ともや)「学校(がっこう)のパンって、競争率(きょうそうりつ)高(たか)くてさ…人気(にんき)のあるパンを手(て)に入(い)れるのは難(むずか)しくてさ…」
朋也(ともや)「だから、いつも売(う)れ残(のこ)るあんパンなんかで、あいつ…」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)と付(つ)き合(あ)い始(はじ)めてからは、そんな癖(くせ)もなくなっていったんだ」
朋也(ともや)「あいつは俺(おれ)を支(ささ)えにしてくれたんだ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も支(ささ)えられた」
朋也(ともや)「ふたりで、支(ささ)え合(あ)って、学校生活(がっこうせいかつ)を送(おく)り始(はじ)めたんだ」
「ふたりで、潰(つぶ)れた演劇部(えんげきぶ)をもう一度(いちど)立(た)て直(なお)そうとした」
「演劇(えんげき)ってわかるか。お芝居(しばい)だな」
「あいつ、演劇(えんげき)やったことも見(み)たこともねぇのに、演劇(えんげき)をしたいって言(い)うんだぜ?」
「おかしいだろ…」
「そのために、どうしてか、バスケの試合(しあい)もした」
「バスケってのは、ボールを使(つか)って点(てん)を取(と)り合(あ)うゲームだな」
「相手(あいて)は毎日(まいにち)バスケをしてるような連中(れんちゅう)だった」
「でも、俺(おれ)たちは勝(か)った」
「ママはこう言(い)ってた」
「短(みじか)い時間(じかん)で、毎日(まいにち)バスケを練習(れんしゅう)してる奴(やつ)らよりも、俺(おれ)たちは絆(きずな)が深(ふか)まったんだって」
「すごく喜(よろこ)んでた…」
「ママはみんなでひとつになって頑張(がんば)ることが大好(だいす)きだったんだ…」
「学校(がっこう)にお祭(まつ)りの日(ひ)がやってきた…」
「演劇部(えんげきぶ)として、ママはひとりで舞台(ぶたい)に立(た)った」
「すごい数(かず)の人前(ひとまえ)でさ、お芝居(しばい)をするんだ」
「あんなに不器用(ぶきよう)で、あがり症(しょう)だった奴(やつ)がだよ」
「その前(まえ)に問題(もんだい)が起(お)きて、あいつ、結局(けっきょく)、舞台(ぶたい)で大泣(おおな)きしたけどさ…」
「でも最後(さいご)まで、ちゃんと芝居(しばい)をした」
「やりきった」
「最後(さいご)にさ…大好(だいす)きなだんご大家族(だいかぞく)の歌(うた)を歌(うた)ってさ…」
「だんご、だんごっ…ていう歌(うた)」
「あいつが大好(だいす)きな歌(うた)なんだ」
「それで、みんな転(ころ)けさせたけどな…」
「あいつは、そうして俺(おれ)やみんなの夢(ゆめ)を同時(どうじ)に叶(かな)えたんだ」
「みんなの…いい思(おも)い出(だ)だ」
「でも、それからは、また、体(からだ)の調子(ちょうし)が悪(わる)くなって…」
「学校(がっこう)を長(なが)く休(やす)むようになった」
「俺(おれ)ひとりが卒業(そつぎょう)して…」
「あいつは、また学校(がっこう)でひとりぼっちになったんだ…」
「でも、あいつは学校(がっこう)を辞(や)めずに、ひとりで頑張(がんば)ることを選(えら)んだ」
「やがて、ふたりで暮(く)らすようになって…」
「一年(いちねん)頑張(がんば)ったら、強(つよ)くなってるから、ってお互(たが)いを励(はげ)ましあって…」
「人(ひと)よりも、時間(じかん)がかかったけど…」
「人(ひと)よりも、たくさんの苦労(くろう)をしたけど…」
「最後(さいご)には、学校(がっこう)も卒業(そつぎょう)した」
「それからは慎(つつ)ましやかに家庭(かてい)を守(まも)るようにふたりで生(い)きた…」
「そんな中(なか)で、ママはおまえを身(み)ごもった…」
「そして…」
朋也(ともや)「母親(ははおや)の強(つよ)さで…おまえを、産(う)んだ」
朋也(ともや)「出会(であ)った時(とき)は、あんなに弱(よわ)かったあいつが…」
朋也(ともや)「最後(さいご)には、強(つよ)く生(い)きたんだ…」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に、強(つよ)く…」
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
朋也(ともや)「おまえは、そんな強(つよ)かったママの…子供(こども)なんだぞ」
ああ…今(いま)、俺(おれ)は、痛(いた)いほどに思(おも)い出(だ)している。
俺(おれ)は、あいつが好(す)きだった。
本当(ほんとう)に、好(す)きだった。
誰(だれ)でもない、渚(なぎさ)が好(す)きだった。
あの控(ひか)えめな渚(なぎさ)が好(す)きだった。
たまに意地(いじ)になる渚(なぎさ)が好(す)きだった。
笑顔(えがお)がかわいい渚(なぎさ)が好(す)きだった。
そして…
いつだって俺(おれ)のためにそばに居(い)てくれた渚(なぎさ)が好(す)きだった。
今(いま)はもう、ない校舎(こうしゃ)、あの部室(ぶしつ)で…
渚(なぎさ)は、自分(じぶん)の名前(なまえ)の隣(となり)に、俺(おれ)の名前(なまえ)を書(か)き足(た)す。
渚(なぎさ)「わたしひとりにしたら、ダメです」
渚(なぎさ)「なんでも、一緒(いっしょ)がいいです」
渚(なぎさ)「ずっと、一緒(いっしょ)です…えへへ」
逸(はや)る俺(おれ)の気持(きも)ちを落(お)ち着(つ)けようと、笑(わら)ってくれた。
渚(なぎさ)「落(お)ち着(つ)いてください、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「わたしはどこにも行(い)かないです」
渚(なぎさ)「ずっと、朋也(ともや)くんのそばにいます」
闇(やみ)の底(そこ)に突(つ)き落(お)とされた俺(おれ)を…救(すく)い出(だ)してくれた。
渚(なぎさ)「なら、すがってください」
渚(なぎさ)「わたしは朋也(ともや)くんのために今(いま)、ここにいるんです」
渚(なぎさ)「他(ほか)の誰(だれ)のためでもないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのため、だけにです」
渚(なぎさ)「ずっとそばに居(い)ます」
渚(なぎさ)「どんなときも、いつまでも、そばに居(い)ます」
なのに…
どうして…
今(いま)、おまえは隣(となり)にいないんだよ…
どうして、俺(おれ)をひとりにしていったんだよ…
なんでも一緒(いっしょ)がよかったのに…
ずっと、一緒(いっしょ)でいたかったのに…
いつまでもそばにいてくれるって言(い)ってたのに…
どうして、おまえが先(さき)にいなくなってしまったんだよ…
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ぁ…」
ぼろぼろと目(め)から涙(なみだ)が零(こぼ)れていた。
どうにも、止(と)めることができない。
拭(ぬぐ)いても、拭(ぬぐ)いても、流(なが)れ落(お)ちてくる。
朋也(ともや)「はは…ははは…」
笑(わら)いながらも、俺(おれ)は泣(な)き続(つづ)けた。
ずっと、泣(な)いてなかったのに…。
夢中(むちゅう)で生(い)きてきたはずなのに…。
ああ…もう、俺(おれ)は受(う)け入(い)れてしまったんだ…。
あの日(ひ)から、5年(ねん)が過(す)ぎて…
そして、今(いま)、俺(おれ)の隣(となり)には渚(なぎさ)がいない。
その現実(げんじつ)を。
汐(うしお)「パパ…」
朋也(ともや)「ああ…なんだ」
汐(うしお)「…おしっこ」
朋也(ともや)「ああ…場所(ばしょ)はわかるか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「ひとりでできるか?」
汐(うしお)「…うん」
よいしょ、と椅子(いす)から飛(と)び降(お)りて、駆(か)けていった。
俺(おれ)はその間(あいだ)に涙(なみだ)を拭(ぬぐ)いた。
しばらくして、汐(うしお)が戻(もど)ってくる。
汐(うしお)「ひとりでできた」
朋也(ともや)「そうか。えらいな、汐(うしお)は」
汐(うしお)「…うんっ」
汐(うしお)は、誇(ほこ)らしげに小(ちい)さな胸(むね)を張(は)った。
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)さんは笑顔(えがお)で、そう俺(おれ)を出迎(でむか)えた。
早苗(さなえ)「楽(たの)しかったですか?」
そういうことをのうのうと訊(き)けるところが、この人(ひと)の美点(びてん)なのだろうか…。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「今度(こんど)、デートしてくださいね」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「だって、約束(やくそく)が違(ちが)ったじゃないですかっ…いきなり急用(きゅうよう)で行(い)けないだなんて」
朋也(ともや)「俺(おれ)、早苗(さなえ)さんと旅行(りょこう)できるの楽(たの)しみにしてたんですから」
早苗(さなえ)「はいはい、埋(う)め合(あ)わせはいくらでもしますよ」
朋也(ともや)「お願(ねが)いしますよ、ったく…」
朋也(ともや)「あ、それと」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「今日(きょう)から汐(うしお)は俺(おれ)と一緒(いっしょ)にアパートで暮(く)らしますから」
早苗(さなえ)「はいっ」
俺(おれ)は、勇気(ゆうき)を持(も)って、そこに立(た)っていた。
…渚(なぎさ)の部屋(へや)。
整頓(せいとん)はされているが、あの頃(ころ)のままだった。
あの日(ひ)以来(いらい)、引(ひ)き取(と)ってもらっていた、だんごのぬいぐるみを抱(かか)え上(あ)げる。
そして、その中(なか)に顔(かお)を埋(う)めた。
この匂(にお)いは渚(なぎさ)の匂(にお)いだろうか…。
遠(とお)いあの日(ひ)の、渚(なぎさ)の匂(にお)いだろうか…。
目(め)を閉(と)じれば、帰(かえ)れる気(き)がした。
いつも隣(となり)に渚(なぎさ)が居(い)てくれた頃(ころ)に。
でも、そんな夢(ゆめ)、もう見(み)たくなかった。
汐(うしお)が置(お)いてきぼりになる。
現実(げんじつ)をしっかり見据(みす)えていかなければ…。
だから、目(め)を見開(みひら)いたままで…進(すす)み出(だ)した時間(じかん)を、痛(いた)みのように感(かん)じていた。
声(こえ)「朋也(ともや)さん」
声(こえ)がして、ようやく俺(おれ)は痛(いた)みから解放(かいほう)された。
早苗(さなえ)「どうしましたか」
早苗(さなえ)さんだった。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「それ持(も)っていきますか」
朋也(ともや)「あ、はい…」
朋也(ともや)「いいですか」
早苗(さなえ)「もちろんです。家族(かぞく)ですから、三(みっ)つとも持(も)っていってください」
朋也(ともや)「はい、そうさせてもらいます」
思(おも)い出(で)が、思(おも)い出(で)であるように。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「すみませんでした、長(なが)い間(あいだ)…」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「俺(おれ)がふがいないばっかりに…」
朋也(ともや)「汐(うしお)を…ずっと押(お)しつけたままにして…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が父親(ちちおや)として、自覚(じかく)を持(も)てるようになったのも…結局(けっきょく)、早苗(さなえ)さんのおかげで…」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に…早苗(さなえ)さんには一生(いっしょう)、頭(あたま)が上(あ)がらないっす」
早苗(さなえ)「いえ…わたしは何(なに)も」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にあいつ…いい子(こ)に育(そだ)ってました…」
朋也(ともや)「全部(ぜんぶ)、早苗(さなえ)さんとオッサンのおかげです…」
朋也(ともや)「でも、これからは、ちゃんと俺(おれ)の手(て)で育(そだ)てます」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)のように、思(おも)いやりがあって、そして、強(つよ)い子(こ)に」
早苗(さなえ)「頑張(がんば)ってくださいね」
今日(きょう)までの日々(ひび)、どれだけ大変(たいへん)だっただろう。
ずっと押(お)しつけていた俺(おれ)に笑顔(えがお)でエールを送(おく)ってくれるなんて。
俺(おれ)はこれからの人生(じんせい)、どうしていけば、恩返(おんがえ)しができるだろう。
朋也(ともや)「何(なに)か…何(なん)でもいいですから、俺(おれ)にできることがあればやりますから…」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「一生(いっしょう)かけて、恩返(おんがえ)ししたいです」
早苗(さなえ)「なら、幸(しあわ)せになってください」
ああ…
早苗(さなえ)さんは、いつだってそう。
いつだって、家族(かぞく)の幸(しあわ)せを思(おも)い、そして家族(かぞく)の幸(しあわ)せと共(とも)に幸(しあわ)せになれる人(ひと)だった。
この家族(かぞく)はみんなそうだ。
オッサンだって同(おな)じことを言(い)ってくれるだろう。
もし、渚(なぎさ)が生(い)きていたとしたら…やはり同(おな)じことを。
俺(おれ)も仲間(なかま)に入(い)れるだろうか。
人(ひと)を幸(しあわ)せにして、共(とも)に幸(しあわ)せになる家族(かぞく)の仲間(なかま)に。
今日(きょう)からはなれるだろうか。
幸(しあわ)せにしたい小(ちい)さな家族(かぞく)と共(とも)に。
朋也(ともや)「俺(おれ)、幸(しあわ)せになりますから…汐(うしお)と一緒(いっしょ)に…」
早苗(さなえ)「はいっ」
朋也(ともや)「はは…」
朋也(ともや)「何回(なんかい)も言(い)ってますけど、また言(い)いますね」
朋也(ともや)「俺(おれ)、早苗(さなえ)さんのこと大好(だいす)きっすよ」
ばんっ!
秋生(あきお)「てめぇ、人(ひと)の嫁(よめ)を口説(くど)いてんじゃねぇよーーーっ!」
耳元(みみもと)で大声(おおごえ)。オッサンがふすまを壊(こわ)すような勢(いきお)いで開(ひら)いていた。
朋也(ともや)「あ、いや…今(いま)のはその女性(じょせい)として好(す)きじゃなくて、人(ひと)として…」
早苗(さなえ)「え…女性(じょせい)としてのわたしは好(す)きじゃないんですか?」
朋也(ともや)「いや、好(す)きっす」
秋生(あきお)「てめえぇぇーーーーーーっ!」
朋也(ともや)「い、いや…その、なんていうのかな、ふたりきりでどうこうしたいっていう好(す)きじゃなくて…」
早苗(さなえ)「さっき、デートに誘(さそ)われました」
朋也(ともや)「あ、そうでしたね」
秋生(あきお)「ぐああぁーーーーっ!
ジェラシィィィーーーーーーっ!」
頭(あたま)を抱(かか)えて、床(ゆか)を転(ころ)げ回(まわ)る。
早苗(さなえ)「冗談(じょうだん)ですよ、秋生(あきお)さん。本当(ほんとう)ですけど」
朋也(ともや)「ぜんぜんフォローになってないっすよ」
早苗(さなえ)「ほらほら、秋生(あきお)さん。わたしは一生(いっしょう)、秋生(あきお)さんについていきますから」
秋生(あきお)「本当(ほんとう)か…?」
早苗(さなえ)「はいっ」
早苗(さなえ)「だから、朋也(ともや)さんとも仲良(なかよ)くさせてくださいね」
秋生(あきお)「ちっ…そういうんなら、仕方(しかた)ねぇな…心(こころ)は痛(いた)むが、目(め)を瞑(つぶ)ろう」
ようやく立(た)ち上(あ)がる。
秋生(あきお)「久(ひさ)しぶりだな、小僧(こぞう)」
朋也(ともや)「あ、ああ…そうだな」
立(た)ち直(なお)りの早(はや)い人(ひと)だった。
秋生(あきお)「なんだ、死(し)んだ魚(さかな)みたいな目(め)ぇしてた奴(やつ)が、復活(ふっかつ)してるじゃねぇか」
朋也(ともや)「そうかな…」
秋生(あきお)「よし、野球(やきゅう)しようぜ」
朋也(ともや)「たった今(いま)、長旅(ながたび)から帰(かえ)ってきたところなんだけど」
秋生(あきお)「てめぇ、早苗(さなえ)をデートに誘(さそ)っておいて、俺(おれ)の誘(さそ)いは断(ことわ)るってか」
朋也(ともや)「いや、や、やるよ…やればいいんだろ…」
秋生(あきお)「おぅっ」
秋生(あきお)「よーし、汐(うしお)よっ!
てめぇの親父(おやじ)の無様(ぶざま)な姿(すがた)をその目(め)に焼(や)きつけるがいい!」
朋也(ともや)「こらっ、嫌(いや)なものを焼(や)きつけさせるなっ!」
秋生(あきお)「そりゃ、おまえ次第(しだい)だろっ。打(う)てばいいんだからな!」
朋也(ともや)「そりゃそうだけどっ…」
早苗(さなえ)「汐(うしお)はどちらが勝(か)つと思(おも)う?」
汐(うしお)「…あっきー」
朋也(ともや)「マジっすかっ!」
秋生(あきお)「ふんっ、あいつは俺(おれ)の剛腕(ごうわん)を見(み)て育(そだ)ったんだぜ」
朋也(ともや)「よし、じゃあ、俺(おれ)は最初(さいしょ)の父親(ちちおや)の姿(すがた)として、その剛腕(ごうわん)から繰(く)り出(だ)される球(きゅう)を打(う)ってやるっ」
秋生(あきお)「ふっ、笑止(しょうし)」
朋也(ともや)「こいっ」
オッサンがモーションに入(はい)る。
1…
2の…
朋也(ともや)「3っ!」
カィーーーーーーーンッ!
快音(かいおん)を残(のこ)して、白球(はっきゅう)は空(そら)に消(き)えた。
秋生(あきお)「なっ…んなアホな…」
朋也(ともや)「アホはあんただよ…」
…パリーーン。
アホはふたりだった。
その日(ひ)は、古河(ふるかわ)の家(いえ)に泊(と)まった。
食卓(しょくたく)には、パーティーのように豪勢(ごうせい)な夕食(ゆうしょく)が並(なら)んで、みんなで食(た)べて…
俺(おれ)とオッサンは酒(さけ)を飲(の)んで…大声(おおごえ)で騒(さわ)いで…
楽(たの)しい夜(よる)だった。
………。
……。
…。
夜(よる)…
話(はな)し声(ごえ)が聞(き)こえて、目(め)が覚(さ)めた。
酔(よ)いつぶれて…そのまま寝(ね)てしまったのだろう…
電気(でんき)は消(き)えていた。
声(こえ)は…オッサンと早苗(さなえ)さんのものだった。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)よ…」
秋生(あきお)「おまえも…人(ひと)のことは言(い)えねぇだろ…」
秋生(あきお)「おまえだって…」
秋生(あきお)「あの日(ひ)から泣(な)いてねぇ…」
早苗(さなえ)「よく、知(し)ってますね」
秋生(あきお)「あたりまえだろ…俺様(おれさま)を誰(だれ)だと思(おも)ってんだ…」
早苗(さなえ)「わたしは…」
早苗(さなえ)「やることがありましたから…」
早苗(さなえ)「だから、よかったです…」
早苗(さなえ)「自分(じぶん)を見失(みうしな)わないですみました…」
秋生(あきお)「でも…それも終(お)わっちまったな…」
早苗(さなえ)「はい…」
秋生(あきお)「5年(ねん)かよ…」
秋生(あきお)「長(なが)い…お勤(つと)めだったな…」
早苗(さなえ)「はい…」
秋生(あきお)「ご苦労(くろう)さん」
早苗(さなえ)「いえ…」
早苗(さなえ)「わたしたちは…家族(かぞく)ですから」
秋生(あきお)「ああ…そうだな…」
早苗(さなえ)「はい…」
秋生(あきお)「だから、もう、泣(な)け」
早苗(さなえ)「何(なに)がです…?」
秋生(あきお)「おまえは、よくやった」
秋生(あきお)「今度(こんど)はおまえが泣(な)く番(ばん)だ」
秋生(あきお)「どうしようもなくなっても…」
秋生(あきお)「俺(おれ)が助(たす)ける」
秋生(あきお)「おまえが泣(な)きやむまで、そばにいてやる」
秋生(あきお)「だから、泣(な)け」
早苗(さなえ)「………」
その日(ひ)、初(はじ)めて、俺(おれ)は早苗(さなえ)さんの弱(よわ)さを知(し)った。
子供(こども)のように泣(な)く、早苗(さなえ)さん…
そして、それを何(なに)も言(い)わず見守(みまも)るオッサン…
そのふたりに俺(おれ)は、一生(いっしょう)の家族(かぞく)でいることを誓(ちか)った。
翌朝(よくあさ)。
開店(かいてん)の準備(じゅんび)を始(はじ)めるオッサンの怒鳴(どな)り声(ごえ)で目(め)を覚(さ)ます。
汐(うしお)は毛布(もうふ)にくるまって、眠(ねむ)ったままでいた。
朝(あさ)の光(ひかり)を受(う)けるその姿(すがた)が、本当(ほんとう)に天使(てんし)のように見(み)えた。
朋也(ともや)(親(おや)バカだ…)
自分(じぶん)を鼻(はな)で笑(わら)ってから、今後(こんご)のことを考(かんが)え始(はじ)める。
汐(うしお)との生活(せいかつ)。
きっと、予想以上(よそういじょう)に大変(たいへん)だろう。
でも、一番大変(いちばんたいへん)な時期(じき)は、早苗(さなえ)さんが面倒(めんどう)を見(み)てくれた。
これから迎(むか)えるどんな苦労(くろう)だって、早苗(さなえ)さんの苦労(くろう)の比(くら)じゃないんだ。
それを考(かんが)えると、どんな困難(こんなん)にだって、立(た)ち向(む)かっていける気(き)がした。
それに苦労(くろう)もあるだろうけど、楽(たの)しいこともそれ以上(いじょう)にたくさんあるはずだった。
家族(かぞく)で暮(く)らすということは、そういうことだ。
俺(おれ)はあの日(ひ)、渚(なぎさ)とふたりで暮(く)らし始(はじ)めて…そのことを誰(だれ)よりも経験(けいけん)した人間(にんげん)のはずだった。
けど、汐(うしお)との生活(せいかつ)を始(はじ)める前(まえ)に、果(は)たさなければいけない約束(やくそく)があった。
仕事(しごと)のほうは、頼(たの)み込(こ)んで、もう一日(いちにち)だけ休(やす)みをもらおう。
そして、今日(きょう)はその約束(やくそく)を果(は)たしにいこう。
汐(うしお)を寝(ね)かせたまま、部屋(へや)を後(あと)にする。
早苗(さなえ)「あ、起(お)こしてしまいましたか」
朋也(ともや)「いや、いいっすよ。なんか、俺(おれ)にできることありますか?」
早苗(さなえ)「いえ、騒(さわ)がしいですけど、休(やす)んでいてください」
朋也(ともや)「いや、これからもうひとつわがままを言(い)ってしまうので、手伝(てつだ)わせてください」
早苗(さなえ)「いえ、手伝(てつだ)ってもらわなくても、わがまま聞(き)きますよ」
早苗(さなえ)「なんでしょうかっ」
朋也(ともや)「ええと、それじゃ、お言葉(ことば)に甘(あま)えて…」
朋也(ともや)「夕方(ゆうがた)まで…」
いや、もう少(すこ)し時間(じかん)が欲(ほ)しい。
朋也(ともや)「…明日(あした)の朝(あさ)まで、汐(うしお)を預(あず)かってほしいんです」
早苗(さなえ)「はい、構(かま)いませんよ」
朋也(ともや)「すみません。最後(さいご)にしなくちゃいけないことがあるんで」
早苗(さなえ)「仕事(しごと)じゃなくてですか?」
朋也(ともや)「はい」
早苗(さなえ)「お父(とう)さんのことですね?」
さすが早苗(さなえ)さん。察(さっ)しがいい。
朋也(ともや)「ええ、そうです」
朋也(ともや)「ふたりきりで、話(はな)したかったので」
早苗(さなえ)「はい。ゆっくりしてきてください」
その後(しり)、事務所(じむしょ)に連絡(れんらく)をして、無理矢理(むりやり)さらに一日(いちにち)休(やす)みをもらった。
その代(か)わり、客(きゃく)の入(はい)りが多(おお)い朝(あさ)の間(あいだ)、古河(ふるかわ)パンの手伝(てつだ)いをさせてもらった。
正午(しょうご)近(ちか)くなって客足(きゃくあし)が途絶(とだ)え始(はじ)めると、先(さき)に上(あ)がらせてもらう。
そして汐(うしお)に、翌朝(よくあさ)には迎(むか)えにくることを告(つ)げて、古河家(ふるかわけ)を後(あと)にした。
向(む)かう先(さき)は実家(じっか)だった。
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seagull - 2009/8/10 11:20:00
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直幸,0,]


ここだけは、何(なに)も変(か)わっていないように見(み)えた。
周(まわ)りに立(た)ち並(なら)ぶ家(いえ)も5年前(ねんまえ)のままだった。
戸(と)を開(あ)けた。鍵(かぎ)はかかっていなかった。
7年前(ねんまえ)の朝(あさ)…
さようならと告(つ)げて、この家(いえ)を後(あと)にした俺(おれ)が…
逃(に)げ出(だ)した俺(おれ)が…
ようやく帰宅(きたく)を果(は)たした。
7年(ねん)という月日(がっぴ)。
長(なが)い、長(なが)い家出(いえで)だった。
朋也(ともや)「ただいま」
小(ちい)さく言(い)って、家(いえ)に上(あ)がった。
親父(おやじ)はテレビを見(み)ていた。
親父(おやじ)「………」
俺(おれ)の気配(けはい)に気(き)づいて、親父(おやじ)は振(ふ)り返(かえ)った。
親父(おやじ)「ああ…」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くん…」
久々(ひさびさ)に見(み)る父(ちち)の顔(かお)は、記憶(きおく)のものより十歳(じゅうさい)ぐらい老(ふ)けてみえた。
俺(おれ)はテーブルにあったリモコンを掴(つか)み取(と)ると、テレビの電源(でんげん)を消(け)した。
朋也(ともや)「ただいま」
親父(おやじ)「うむ…おかえり…」
朋也(ともや)「ずっと、家(いえ)にいたのか?」
親父(おやじ)「うん…」
朋也(ともや)「世間(せけん)は盆休(ぼんやす)みだってのにな」
親父(おやじ)「そうだね…」
親父(おやじ)の正面(しょうめん)に腰(こし)を下(お)ろす。
節約(せつやく)のためか、冷房(れいぼう)は動(うご)いていなかった。
でも、台所(だいどころ)の窓(まど)を開(あ)け放(はな)して風通(ふうつう)しがよくしてあったから、蒸(む)し暑(あつ)くはなかった。
朋也(ともや)「この休(やす)みに旅行(りょこう)をしてきたんだ」
親父(おやじ)「ほぅ…」
朋也(ともや)「ずっと北(きた)の地(じ)だ」
朋也(ともや)「そこであんたの母親(ははおや)と会(あ)ってきたんだ」
親父(おやじ)「へぇ…」
朋也(ともや)「いろんな話(はなし)を聞(き)いてきたよ」
親父(おやじ)「ふむ…」
この人(ひと)は、ちゃんと俺(おれ)の言(い)うことを理解(りかい)しているのだろうか…。
ただ、俺(おれ)が喋(しゃべ)った後(あと)に相(あい)づちを打(う)つ、と決(き)めているだけに思(おも)えた。
それでも俺(おれ)は話(はな)し続(つづ)けた。
それは約束(やくそく)だったからだ。
朋也(ともや)「…大変(たいへん)だったんだな、って思(おも)ったよ」
親父(おやじ)「ふむ…」
朋也(ともや)「なぁ、親父(おやじ)…」
親父(おやじ)「うん…」
朋也(ともや)「疲(つか)れたろ」
親父(おやじ)「…うん?」
朋也(ともや)「もう、疲(つか)れただろ」
朋也(ともや)「そろそろ、休(やす)んでもいいんじゃないかな…」
朋也(ともや)「そう思(おも)うよ、俺(おれ)は…」
親父(おやじ)「………」
朋也(ともや)「田舎(いなか)に帰(かえ)ったら、どうかな…」
朋也(ともや)「あんたの母(かあ)さんがさ、そこで待(ま)ってる」
親父(おやじ)「………」
朋也(ともや)「あの場所(ばしょ)だよ…」
朋也(ともや)「あんたが幼(おさな)い俺(おれ)の手(て)を取(と)って…」
朋也(ともや)「こいつは自分(じぶん)ひとりの手(て)で育(そだ)てる、って誓(ちか)った場所(ばしょ)だよ…」
親父(おやじ)「ああ…」
親父(おやじ)の目(め)が遠(とお)くを見(み)た。
そこには、あの日(ひ)の光景(こうけい)が映(うつ)ってるのだろうか。
朋也(ともや)「あんた、もう十分(じゅうぶん)頑張(がんば)った…」
朋也(ともや)「だからさ、もう休(やす)めよ…」
朋也(ともや)「田舎(いなか)に帰(かえ)ってさ…」
朋也(ともや)「それで…母親(ははおや)と暮(く)らしてやれよ…」
朋也(ともや)「…な」
親父(おやじ)「………」
親父(おやじ)「もう…いいのだろうか…」
朋也(ともや)「何(なに)が…?」
親父(おやじ)「もう…おれはやり終(お)えたのだろうか…」
あの日(ひ)の誓(ちか)い。
…俺(おれ)を自分(じぶん)ひとりの手(て)で育(そだ)てること。
そんなことを思(おも)い出(だ)してるのだ、この人(ひと)は…。
本当(ほんとう)にそのためだけの、人生(じんせい)だったのだろうか…。
この人(ひと)の人生(じんせい)は、俺(おれ)のためだけにあった人生(じんせい)なのだろうか…。
俺(おれ)なんかの、出来(でき)の悪(わる)い息子(むすこ)のためだけに頑張(がんば)った…
…そんな人生(じんせい)だったのだろうか。
朋也(ともや)「あんた…何(なに)もかも犠牲(ぎせい)にして、俺(おれ)をこうして育(そだ)ててくれたんじゃないか…」
朋也(ともや)「もう十分(じゅうぶん)だよ…」
朋也(ともや)「もう…」
親父(おやじ)「…そうか」
親父(おやじ)「…いつのまにか…やり終(お)えていたのか…」
親父(おやじ)「…それは…
よかった」
その晩(ばん)はふたりで過(す)ごした。
一緒(いっしょ)に風呂(ふろ)にも入(はい)った。
ずっと大(おお)きく感(かん)じていた父親(ちちおや)の背(せ)は…
しらぬ間(ま)に、小(ちい)さくなっていた。
それをごしごしと洗(あら)った。
無心(むしん)で洗(あら)った。
翌朝(よくあさ)。
着替(きが)えだけを詰(つ)め込(こ)んだバッグを持(も)って、親父(おやじ)が家(や)から出(で)てきた。
俺(おれ)は、汐(うしお)とふたりでそれを待(ま)っていた。
親父(おやじ)「ん…その子(こ)は」
朋也(ともや)「あんたの孫(まご)だ」
親父(おやじ)「ほぅ…そうか…」
親父(おやじ)「あの時(とき)の子(こ)か…」
一度(いちど)だけ、ふたりは会(あ)ったことがある。
あれは…とても辛(つら)い日(ひ)だった。
汐(うしお)が生(う)まれて…間(ま)もない頃(ころ)。
親父(おやじ)「大(おお)きくなったな…」
親父(おやじ)はしゃがみ込(こ)んで、汐(うしお)の頭(あたま)に手(て)を載(の)せた。
そして、にっこりと笑(わら)う。
そんな温(あたた)かな笑(え)みを、長(なが)いこと見(み)ていなかった。
ずっと昔(むかし)、小(ちい)さい頃(ころ)の記憶(きおく)の中(なか)に、その笑(え)みはあった。
幼(おさな)い日(ひ)の俺(おれ)は、そうして微笑(ほほえ)みかけられていた。
「朋也(ともや)…」
「ほら、お菓子(かし)だ」
「父(とう)さん、また出(で)かけるけど…食(た)べ過(す)ぎないようにな」
「いつも、寂(さび)しくさせて、ごめんな」
「帰(かえ)ってきたら、夕飯(ゆうはん)、ちゃんと作(つく)るから」
「ふたりで食(た)べような」
「な…朋也(ともや)」
確(たし)かにあったんだ、そんな日(ひ)が。
そのことを今(いま)、遠(とお)い眼差(まなざ)しで、思(おも)い出(だ)していた。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)は、目(め)を逸(そ)らすこともなく、じっと、祖父(そふ)の顔(かお)を見(み)つめていた。
親父(おやじ)は最後(さいご)にその汐(うしお)の頭(あたま)を撫(な)でて…
そして、立(た)ち上(あ)がった。
親父(おやじ)「じゃあ、いくよ」
朋也(ともや)「親父(おやじ)…」
朋也(ともや)「健康(けんこう)には気(き)をつけろよ…」
親父(おやじ)「ああ」
朋也(ともや)「酒(さけ)、飲(の)み過(す)ぎるなよ…」
親父(おやじ)「ああ」
朋也(ともや)「タバコも、吸(す)いすぎるなよ…」
親父(おやじ)「ああ」
朋也(ともや)「長生(ながい)きしてくれよ…」
親父(おやじ)「ああ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に…恩返(おんがえ)しにいくから…」
親父(おやじ)「ああ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に、いくから…」
親父(おやじ)「ああ」
親父(おやじ)の穏(おだ)やかな顔(かお)…。
すべてをやり終(お)えた顔(かお)…。
それを見(み)ていると、ぽろぽろと涙(なみだ)が零(こぼ)れだした。
この人(ひと)の人生(じんせい)は、幸(しあわ)せだったのだろうか…。
一番(いちばん)幸(しあわ)せな時(とき)に…愛(あい)する人(ひと)を亡(な)くして…
それでも…残(のこ)された俺(おれ)のために頑張(がんば)り続(つづ)けて…
俺(おれ)みたいな…親不孝(おやふこう)な息子(むすこ)のために…
どんな孝行(こうこう)もできなかった息子(むすこ)のために頑張(がんば)り続(つづ)けて…
それで…幸(しあわ)せだったのだろうか…。
朋也(ともや)「はっ…あ…」
子供(こども)のようにしゃくり上(あ)げて泣(な)いてしまう。
親父(おやじ)「どうした、朋也(ともや)…」
親父(おやじ)「どうして、泣(な)いてる…」
今(いま)は、強(つよ)い息子(むすこ)として見送(みおく)ってあげなくてはならないのに。
これ以上(いじょう)、心配(しんぱい)をかけないように…。
もう安心(あんしん)して、休(やす)んでもらえるように…。
何(なに)もかもを俺(おれ)のために犠牲(ぎせい)にした日々(ひび)が終(お)えられるように…。
終(お)えられるように…。
………。
…ズボンの裾(すそ)が引(ひ)っ張(ぱ)られていた。
汐(うしお)が掴(つか)んでいた。
そう…これからは俺(おれ)が親父(おやじ)の立場(たちば)なんだ。
もう…子供(こども)じゃないんだ。
涙(なみだ)を拭(ぬぐ)いて、顔(かお)をあげた。
そして、言(い)った。
朋也(ともや)「今日(きょう)まで、ありがとう…父(とう)さん」
親父(おやじ)「ああ…」
親父(おやじ)「じゃあ、いくよ」
朋也(ともや)「ああ。父(とう)さん、元気(げんき)で」
親父(おやじ)「朋也(ともや)も、元気(げんき)で…」
父(とう)さんが背(せ)を向(む)けた。
俺(おれ)を男手(おとこで)ひとつで育(そだ)て上(あ)げた父(ちち)の背(せ)を…
ずっと俺(おれ)は見送(みおく)っていた。
汐(うしお)と手(て)を繋(つな)いで。[/wrap]

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その後(あと)の生活(せいかつ)も、これまで通(とお)りアパートで続(つづ)けることにする。
あの家(いえ)は、もともと借家(かりいえ)だったし、滞納(たいのう)している家賃(やちん)だけでもかなりの額(がく)にのぼる。
必要(ひつよう)最低限(さいていげん)の家具(かぐ)以外(いがい)は売(う)り払(はら)って、滞納(たいのう)した家賃(やちん)に宛(あて)った。
それでもいくらか借金(しゃっきん)が残(のこ)った。
それは、俺(おれ)が地道(じみち)に働(はたら)いて、返(かえ)していこうと思(おも)う。
親父(おやじ)とふたりで暮(く)らしてきた家(いえ)は、もうふたりの家(いえ)ではなくなる。
いがみ合(あ)いばかりだった日々(ひび)。
いい思(おも)い出(で)なんて、ひとつとしてない。
大嫌(だいきら)いだった家(いえ)と、大嫌(だいきら)いだった父親(ちちおや)。
けど…今(いま)はもう、この胸(むね)に仕舞(しま)える。
かけがえのない思(おも)い出(で)として。
最後(さいご)に敬礼(けいれい)をして、俺(おれ)は家(いえ)の前(まえ)を去(さ)った。
そして、汐(うしお)とのふたりきりの暮(く)らしが始(はじ)まった。
朝(あさ)は、早起(はやお)きをして朝食(ちょうしょく)を作(つく)る。
汐(うしお)「…なにこれ」
朋也(ともや)「初(はじ)めて見(み)たか?
フレンチトーストって言(い)うんだぞ」
汐(うしお)「…ふれんとーすと」
朋也(ともや)「食(く)ってみろ。苦(にが)くないから」
フォークでフレンチトーストの端(はし)を持(も)ち上(あ)げて、ぱくっと食(く)らいつく。
…もぐもぐ。
夢中(むちゅう)で食(た)べている。おいしいのだろう。
特製(とくせい)のフレンチトーストは、とびきり甘(あま)くて、ミルクがたっぷりだった。
汐(うしお)は口(くち)の周(まわ)りをべたべたにして、食(た)べ続(つづ)けた。
そして、汐(うしお)を着替(きが)えさせて、ふたりで家(いえ)を出(で)る。
幼稚園(ようちえん)の前(まえ)で、先生(せんせい)に汐(うしお)を預(あず)けて、午前(ごぜん)の父親(ちちおや)の役目(やくめ)は終(お)わる。
朋也(ともや)「じゃあな」
手(て)を振(ふ)って見送(みおく)った後(あと)、戻(もど)ろうとすると…
なにやら、ひそひそと俺(おれ)を噂(うわさ)する声(こえ)が聞(き)こえてきた。
声(こえ)(あの人(ひと)が岡崎(おかざき)さんだって…)
声(こえ)(初(はじ)めて見(み)た…今(いま)までなにをしてらしたのかしら?)
声(こえ)(いろいろあったらしいわよ…)
俺(おれ)は敢(あ)えて、その母親(ははおや)の集(あつ)まりに寄(よ)っていった。
朋也(ともや)「あの…初(はじ)めまして。岡崎汐(おかざきうしお)の父親(ちちおや)です」
母親(ははおや)たちは、少(すこ)し引(ひ)いた。
朋也(ともや)「これまで通(どお)り汐(うしお)を…皆(みんな)さんのお子(こ)さんたちと、仲良(なかよ)くさせてくださいね」
朋也(ともや)「よろしくお願(ねが)いします」
頭(あたま)を下(さ)げた。
声(こえ)「え、ええ、こちらこそよろしくお願(ねが)いしますね…」
いくつか声(こえ)が返(かえ)ってきた。
朋也(ともや)「それでは、仕事(しごと)がありますんで」
言(い)って、背中(せなか)を向(む)けた。
その後(うし)ろでは、またひそひそ話(はなし)が始(はじ)まっていた。
何(なに)を言(い)われようが、俺(おれ)は気(き)にしない。
今(いま)まで、父親(ちちおや)の役目(やくめ)を放棄(ほうき)していたのは、本当(ほんとう)のことだったから。
なら、後(うし)ろなど見(み)ず…前(まえ)を見(み)ていよう。
これからは、いい父親(ちちおや)で居続(いつづ)けられるよう、頑張(がんば)るだけだった。
芳野(よしの)「頑張(がんば)るのはいいが、落(お)ち着(つ)け」
朋也(ともや)「はい?」
芳野(よしの)「何(なに)があったか知(し)らんが、やる気(き)になってるのはわかる」
芳野(よしの)「そういうときは得(え)てして怪我(けが)やミスをするんだ」
俺(おれ)は恥(は)ずかしくなり、顔(かお)に熱(ねつ)を感(かん)じた。
まさか態度(たいど)にまで出(で)ていたとは、自分(じぶん)でも気(き)がつかなかった。
芳野(よしの)「岡崎(おかざき)がどんな人間(にんげん)かは、よく知(し)ってる」
芳野(よしの)「だから、つまらない怪我(けが)なんかしてほしくない」
朋也(ともや)「…ありがとうございます」
午後(ごご)3時(じ)を回(まわ)ると、俺(おれ)は無理(むり)を言(い)って仕事(しごと)を抜(ぬ)け出(だ)して、幼稚園(ようちえん)に向(む)かう。
薄汚(うすぎよご)れた作業着(さぎょうぎ)のままで自分(じぶん)の子供(こども)を待(ま)つ親(おや)は、俺(おれ)ひとりだった。
子供(こども)を引(ひ)き取(と)った親(おや)が奇異(きい)の目(め)で見(み)ていく。
それでも俺(おれ)は笑顔(えがお)と礼(れい)を忘(わす)れない。
やがて、汐(うしお)が出(で)てきた。
きょろきょろと俺(おれ)を探(さが)していた。
朋也(ともや)「汐(うしお)、ここだぞーっ!」
大声(おおごえ)を張(は)り上(あ)げてやる。
俺(おれ)を見(み)つけ、一目散(いちもくさん)に駆(か)けてくる。
朋也(ともや)「よしよし」
汐(うしお)「…みつけやすかった」
朋也(ともや)「まぁな…目立(めだ)つだろうからな」
早苗(さなえ)さんだと、他(ほか)の母親(ははおや)に紛(まぎ)れてしまうのだろう。
朋也(ともや)「よし、帰(かえ)るか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「汐(うしお)は、夕飯(ゆうはん)、何(なに)が食(た)べたい」
汐(うしお)「…はんばーぐ」
朋也(ともや)「そうか。ハンバーグか…」
朋也(ともや)「作(つく)ってみるか…」
家(いえ)に送(おく)ると、しばらくの留守番(るすばん)を任(まか)せて、再(ふたた)び仕事場(しごとば)に向(む)かう。
6時(じ)を過(す)ぎて、ようやく仕事(しごと)が終(お)わり、帰路(きろ)につく。
夕飯(ゆうはん)を作(つく)る材料(ざいりょう)を買(か)うことも忘(わす)れない。
帰(かえ)ってくると、すぐさま夕飯(ゆうはん)を作(つく)り始(はじ)める。
汐(うしお)は、テレビでアニメを見(み)ている。
夢中(むちゅう)になってる隙(すき)に、作(つく)り上(あ)げた。
汐(うしお)「…はんばーぐ」
朋也(ともや)「ああ。頑張(がんば)って作(つく)ってみたぞ」
汐(うしお)「…だいすき」
もう、ハンバーグしか見(み)ていなかった。
朋也(ともや)「よし、いただきます」
汐(うしお)「…いただきます」
一生懸命(いっしょうけんめい)に食(た)べる姿(すがた)は、見(み)ていて、微笑(ほほえ)ましかった。
一緒(いっしょ)に風呂(ふろ)に入(はい)って、10時(じ)になると、消灯(しょうとう)。
汐(うしお)はだんごのぬいぐるみを抱(だ)いて、布団(ふとん)に潜(もぐ)り込(こ)む。
汐(うしお)「ママのうた、うたって」
そしてそうせがむ。
汐(うしお)にとっては、かつての流行歌(りゅうこうか)が母親(ははおや)の歌(うた)だった。
初(はじ)めて歌(うた)って聞(き)かせた時(とき)も、汐(うしお)は懐(なつ)かしさを感(かん)じて、目(め)の端(はし)に涙(なみだ)を滲(にじ)ませた。
覚(おぼ)えているのだろうか。
自分(じぶん)のために、母親(ははおや)が歌(うた)っていた歌(うた)を。
なら、よかった。
それは、母親(ははおや)と過(す)ごした記憶(きおく)になるから。
家族三人(かぞくさんにん)で過(す)ごしていた日々(ひび)の記憶(きおく)になるから。
いつの間(ま)にか、汐(うしお)は寝息(ねいき)を立(た)てて、眠(ねむ)っていた。
歌(うた)をやめて、肩(かた)まで布団(ふとん)を掛(か)け直(なお)してやる。
朋也(ともや)「おやすみ」
そして自分(じぶん)の布団(ふとん)に潜(くぐ)り直(なお)すと、天井(てんじょう)に顔(かお)を向(む)けた。
朋也(ともや)「…渚(なぎさ)」
その名(な)を呟(つぶや)く。
朋也(ともや)「時間(じかん)かかっちまったけどさ…」
朋也(ともや)「やっと、家族(かぞく)になれたよ、俺(おれ)…」
朋也(ともや)「人(ひと)を幸(しあわ)せにして、自分(じぶん)も幸(しあわ)せになる家族(かぞく)の仲間(なかま)に…」
朋也(ともや)「おはようございます」
朋也(ともや)「それでは、よろしくお願(ねが)いします」
先生(せんせい)に汐(うしお)を預(あず)ける。
声(こえ)「あ、岡崎(おかざき)さん」
戻(もど)ろうとしたところで、その先生(せんせい)に呼(よ)び止(と)められる。
振(ふ)り返(かえ)ると汐(うしお)はすでに園内(えんない)に入(はい)って、別(べつ)の先生(せんせい)と話(はなし)をしていた。
朋也(ともや)「はい?」
先生(せんせい)「改(あらた)めてご挨拶(あいさつ)したいと思(おも)いまして…少(すこ)し時間(じかん)、よろしいでしょうか?」
朋也(ともや)「ああ、これは失礼(しつれい)しました。ロクな挨拶(あいさつ)もしてなくて…」
朋也(ともや)「いつも汐(うしお)がお世話(せわ)になっています。岡崎(おかざき)です」
先生(せんせい)「汐(うしお)ちゃんのクラスを受(う)け持(も)っています市井(いちい)です」
先生(せんせい)「今後(こんご)とも、よろしくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「こちらこそ」
朋也(ともや)「汐(うしお)はいい子(こ)でやっていますか」
先生(せんせい)「はい、とてもいい子(こ)で、みんなと仲良(なかよ)くやっていますよ」
当然(とうぜん)だった。あの早苗(さなえ)さんに、育(そだ)てられたのだから。
先生(せんせい)「特(とく)に夏休(なつやす)みが明(あ)けてからは、とても明(あか)るくなりました」
先生(せんせい)「いい夏休(なつやす)みを過(す)ごされたようですね」
朋也(ともや)「ええ…それはもう、私(わたし)にとっても大事(だいじ)な夏休(なつやす)みでした」
先生(せんせい)「それはよかったです」
先生(せんせい)「大変(たいへん)でしょうけど、頑張(がんば)ってください」
先生(せんせい)「何(なに)かあれば、なんなりと言(い)ってください。お手伝(てつだ)いしますので」
どこまで事情(じじょう)を知(し)っているかはわからなかったが、少(すく)なくとも、母親(ははおや)がいないということは知(し)っているようだった。
朋也(ともや)「ありがとうございます」
先生(せんせい)「お引(ひ)き留(と)めしてすみませんでした。これからお仕事(しごと)ですか?」
朋也(ともや)「はい」
先生(せんせい)「頑張(がんば)ってくださいね」
朋也(ともや)「ええ、それでは」
振(ふ)り返(かえ)ると、昨日(きのう)俺(おれ)の噂話(うわさばなし)をしていた主婦(しゅふ)たちがいた。
朋也(ともや)「おはようございます」
挨拶(あいさつ)をして、その脇(わき)を抜(ぬ)ける。
おはようございます、といくつか声(こえ)が返(かえ)ってきた。
努力(どりょく)すれば、すべての物事(ものごと)はゆっくりでも、いい方向(ほうこう)に進(すす)んでいく。
限界(げんかい)だと悟(さと)ってしまえば、どこまでも落(お)ちていく。
…そんなものなんだと思(おも)った。
そして、また今年(ことし)も夏(なつ)が終(お)わる。
朋也(ともや)「ちぃす」
休(やす)みの日(ひ)は、昔(むかし)のように古河家(ふるかわけ)を訪(おとず)れることにしていた。
秋生(あきお)「おぅ、汐(うしお)じゃねぇかっ、よく来(き)たな!」
朋也(ともや)「俺(おれ)は無視(むし)っすか」
汐(うしお)「あっきーっ」
汐(うしお)も走(はし)って、オッサンの足(あし)に抱(だ)きついた。
朋也(ともや)「おまえも、親(おや)を傷(きず)つける子(こ)だよな…」
秋生(あきお)「よぅし、早苗(さなえ)のネオレインボーパンでも食(く)うか?」
秋生(あきお)「おまえに、ネオレインボー」
汐(うしお)「いらない」
秋生(あきお)「そうか、ガキのくせに、護身(ごしん)に長(なが)けてんなっ」
この家(いえ)で何年(なんねん)も暮(く)らしていたら、それぐらいの護身(ごしん)は身(み)に付(つ)く。
朋也(ともや)「で、その早苗(さなえ)さんは?」
秋生(あきお)「あん?
公園(こうえん)にいなかったか?」
朋也(ともや)「いや、見(み)てねぇけど」
秋生(あきお)「公園(こうえん)にいるはずだ。そう言(い)ってた」
公園(こうえん)にひとりということは…
朋也(ともや)「また、泣(な)かしたのか…」
秋生(あきお)「勘違(かんちが)いするな。友達(ともだち)と一緒(いっしょ)だ」
朋也(ともや)「友達(ともだち)?」
秋生(あきお)「興味(きょうみ)があるなら、自分(じぶん)の目(め)で見(み)てこい」
友達(ともだち)と話(はな)しているのなら、邪魔(じゃま)はしたくなかったが…。
でも、興味(きょうみ)があるのも確(たし)かだ。
見に行く
朋也(ともや)「汐(うしお)、いくぞ」
秋生(あきお)「はっ、汐(うしお)は甲斐性(かいしょ)のねぇ親父(おやじ)より、包容力(ほうようりょく)のある俺(おれ)のほうがいいってよ」
汐(うしお)「それでも、こっち」
俺(おれ)の足元(あしもと)までやってくる。
朋也(ともや)「それでもっ、てどういう意味(いみ)だぁっ」
朋也(ともや)「その歳(とし)で、甲斐性(かいしょ)なんて言葉(ことば)を理解(りかい)してんじゃねぇよっ」
秋生(あきお)「初(はじ)めて喋(しゃべ)った言葉(ことば)が、『この、かいしょうナシがっ』だったからな」
朋也(ともや)「嘘(うそ)つけ」
甲斐性(かいしょ)なしだったのは認(みと)めるが…。
俺(おれ)は汐(うしお)を連(つ)れて、公園(こうえん)までやってくる。
穏(おだ)やかな陽気(ようき)の午後(ごご)だったから、子供連(こどもづ)れの家族(かぞく)が多(おお)かった。
その中(なか)、早苗(さなえ)さんと、もうひとり同(おな)じぐらいの背丈(せたけ)の女性(じょせい)を見(み)つけ、俺(おれ)は寄(よ)っていった。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「あ、朋也(ともや)さん、こんにちはっ」[/wrap]

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公子·風子,0,]


女性(じょせい)「こんにちは」
隣(となり)の女性(じょせい)も笑顔(えがお)で挨拶(あいさつ)してくれる。
朋也(ともや)「伊吹先生(いぶきせんせい)…」
伊吹(いぶき)「はい」
伊吹(いぶき)「って、もう先生(せんせい)じゃないんですけどね」
あの日(ひ)と同(おな)じセリフ。
ふっと、あの穏(おだ)やかな日々(ひび)に帰(かえ)れた気(き)がした。
早苗(さなえ)「ご存(ぞん)じでしたか。こちら、岡崎朋也(おかざきともや)さん」
それは遠(とお)い昔(むかし)の話(はなし)。
ふっと、あの穏(おだ)やかな日々(ひび)に帰(かえ)れた気(き)がした。
早苗(さなえ)「ご存(ぞん)じでしたね。改(あらた)めて、こちら、岡崎朋也(おかざきともや)さん」
早苗(さなえ)「義理(ぎり)の息子(むすこ)です」
そう紹介(しょうかい)されるのは初(はじ)めてだった。
早苗(さなえ)さんと同(おな)じ家族(かぞく)だということが実感(じっかん)できて、なんとなく嬉(うれ)しい。
朋也(ともや)「こいつは、俺(おれ)の子(こ)で、汐(うしお)」
朋也(ともや)「汐(うしお)、挨拶(あいさつ)しろ」
汐(うしお)「こんにちは」
伊吹(いぶき)「はい、こんにちは」
伊吹(いぶき)「とても、可愛(かわい)らしいですね」
朋也(ともや)「でしょ。歳(とし)の割(わ)りに妙(みょう)にすれちゃってますけどね」
朋也(ともや)「あの、汐(うしお)とは初(はじ)めてですか?」
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんに訊(き)いた。もしかしたら、汐(うしお)が古河(ふるかわ)の家(いえ)で暮(く)らしていた時(とき)に会(あ)っているかもしれない。
早苗(さなえ)「初(はじ)めてですよ」
早苗(さなえ)「公子(こうこ)さん、しばらくこの町(まち)を離(はな)れていたんです」
伊吹(いぶき)「最近(さいきん)戻(もど)ってきたばかりなんですよ」
朋也(ともや)「そうだったんですか…」
朋也(ともや)「じゃあ…」
俺(おれ)は伊吹先生(いぶきせんせい)に向(む)き直(なお)る。
朋也(ともや)「こいつを抱(だ)いてやってくれませんか」
朋也(ともや)「…渚(なぎさ)の子(こ)です」
朋也(ともや)「俺(おれ)とあいつの子(こ)です」
伊吹(いぶき)「はい」
笑顔(えがお)で返事(へんじ)をすると、膝(ひざ)を折(お)って、しゃがんだ。
伊吹(いぶき)「汐(うしお)ちゃん、抱(だ)かせてくれますか」
汐(うしお)はこくんと頷(うなず)いて、その腕(うで)の中(なか)に収(おさ)まった。
伊吹先生(いぶきせんせい)はそれを持(も)ち上(あ)げる。
朋也(ともや)「もう、大(おお)きいっすけどね…重(おも)たくないっすか」
伊吹(いぶき)「いえ、ぜんぜん平気(へいき)ですよ」
伊吹(いぶき)「………」
じっと、汐(うしお)の顔(かお)を見(み)つめていた。
その伊吹先生(いぶきせんせい)の顔(かお)が、一瞬(いっしゅん)泣(な)きだしそうに震(ふる)えた。
でも、それは気(き)のせいだったのか。すぐに笑(わら)ってみせた。
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃんのように、可愛(かわい)らしい女(おんな)の子(こ)になりますね。間違(まちが)いないです」
朋也(ともや)「ええ…そして強(つよ)い子(こ)にです」
伊吹(いぶき)「はい、強(つよ)い子(こ)にもなりますね。それも間違(まちが)いないです」
一際(ひときわ)大(おお)きな笑(わら)い声(ごえ)が聞(き)こえてきた。
男性(だんせい)のものだったから、珍(めずら)しいと思(おも)って、振(ふ)り返(かえ)る。
芳野(よしの)「あーーはっはっはっ!」
俺(おれ)はその場(ば)で思(おも)わず滑(すべ)りそうになる。
朋也(ともや)「よ、芳野(よしの)さんっ…」
芳野(よしの)さんは、小(ちい)さな女(おんな)の子(こ)と遊(あそ)んでいた。
普段(ふだん)の姿(すがた)からは想像(そうぞう)できないほどの、はしゃぎぶりだ…。
伊吹(いぶき)「そういえば祐(ゆう)くんとは、仕事(しごと)で一緒(いっしょ)でしたね」
朋也(ともや)「ええ。働(はたら)き始(はじ)めた時(とき)から、ずっと一緒(いっしょ)です」
伊吹(いぶき)「とってしまうようで、申(もう)し訳(わけ)ないですね」
朋也(ともや)「え?
なにがです?」
伊吹(いぶき)「結婚(けっこん)します、あの人(ひと)と」
早苗(さなえ)「おめでうございますっ」
間髪(かんぱつ)入(い)れず、早苗(さなえ)さんが祝福(しゅくふく)していた。
朋也(ともや)「おめでとうございます」
俺(おれ)もそれに続(つづ)いた。
伊吹(いぶき)「ありがとうございます」
芳野(よしの)「どうだ、うわっははははーっ!」
女(おんな)の子(こ)「なかなかやりますっ」
芳野(よしの)さんと女(おんな)の子(こ)は、遊(あそ)ぶことに夢中(むちゅう)になっていた。
伊吹(いぶき)「呼(よ)びますね」
伊吹(いぶき)「祐(ゆう)くーーんっ」
伊吹(いぶき)「ふぅちゃーーんっ」
伊吹先生(いぶきせんせい)の呼(よ)びかけに、ふたりが気(き)づく。
元気(げんき)いっぱい、駆(か)け足(あし)でやってくる。
芳野(よしの)「おぅ、どうした、また、知(し)り合(あ)いかっ?」
朋也(ともや)「俺(おれ)っすけど」
芳野(よしの)「お…岡崎(おかざき)」
芳野(よしの)「よぅ」
あからさまに、取(と)り繕(つくろ)う。
朋也(ともや)「気(き)にせず、はしゃいでいてくださいよ」
芳野(よしの)「………」
芳野(よしの)「おまえにだけは見(み)られたくなかったぞ…」
伊吹(いぶき)「あの、岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「は、はい」
伊吹(いぶき)「祐(ゆう)くんから、ずっと、岡崎(おかざき)さんの話(はなし)は聞(き)いていました」
伊吹(いぶき)「私(わたし)、ずっと応援(おうえん)していたんですよ」
伊吹(いぶき)「本当(ほんとう)に、一緒(いっしょ)に見守(みまも)る思(おも)いで…」
伊吹(いぶき)「岡崎(おかざき)さん…」
伊吹(いぶき)「よく頑張(がんば)りましたねっ」
朋也(ともや)「あ…はい…」
朋也(ともや)「ありがとうございます」
伊吹(いぶき)「本当(ほんとう)に、頑張(がんば)りましたね」
もう一度(いちど)繰(く)り返(かえ)した。
とても、優(やさ)しかった。
俺(おれ)は気恥(きは)ずかしくなって、伊吹先生(いぶきせんせい)の隣(となり)に佇(たたず)んでいた女(おんな)の子(こ)に視線(しせん)を移(うつ)す。
朋也(ともや)「この子(こ)は?」
その頭(あたま)に手(て)を置(お)いて、訊(き)く。
ばっ。
思(おも)いきり、手(て)ではね除(のぞ)けられる。
もう一度(いちど)、ひょいと手(て)を載(の)せる。
ばっ。
またはね除(のぞ)けられる。
ひょい、ばっ、ひょい、ばっ、ひょい、ばっ…
女(おんな)の子(こ)「わーっ」
どんっ。
体当(たいあ)たりを俺(おれ)にかまし、そのまま女(おんな)の子(こ)は公園(こうえん)の隅(すみ)まで走(はし)っていった。
朋也(ともや)「なんだよっ…」
女(おんな)の子(こ)「ふーっ…!」
遠(とお)くから威嚇(いかく)されている…。
なぜか不思議(ふしぎ)と、懐(なつ)かしい感覚(かんかく)…。
伊吹(いぶき)「ふぅちゃん、大丈夫(だいじょうぶ)」
伊吹(いぶき)「この人(ひと)、おねぇちゃんの、お知(し)り合(あ)いだからね」
女(おんな)の子(こ)「………」
少(すこ)し間(あいだ)を置(お)いてから、恐(おそ)る恐(おそ)る近(ちか)づいてくる。
伊吹(いぶき)「ほら、挨拶(あいさつ)しよ」
伊吹(いぶき)「こちら、私(わたくし)の妹(いもうと)で、風子(ふうこ)です」
伊吹(いぶき)「こちら、私(わたくし)の教(おし)え子(ご)だった女(おんな)の子(こ)の旦那(だんな)さんで、岡崎(おかざき)さん」
風子(ふうこ)「はじめまして」
朋也(ともや)「ああ、初(はじ)めまして」
朋也(ともや)「それとこいつが、汐(うしお)」
伊吹先生(いぶきせんせい)に抱(だ)かれたままの汐(うしお)を紹介(しょうかい)した。
風子(ふうこ)「え…」
風子(ふうこ)「んーっ、可愛(かわい)いですっ」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)にも抱(だ)かせてほしいですっ」
伊吹(いぶき)「大丈夫(だいじょうぶ)?」
風子(ふうこ)「大丈夫(だいじょうぶ)です」
伊吹(いぶき)「岡崎(おかざき)さん、いいですか?」
朋也(ともや)「ええ」
伊吹先生(いぶきせんせい)は一度(いちど)汐(うしお)を降(お)ろし、代(か)わって風子(ふうこ)という子(こ)がそれを抱(だ)き上(あ)げた。
背丈(せたけ)があまり変(か)わらないので、抱(だ)き合(あ)ってるようにしか見(み)えなかった。
伊吹(いぶき)「ふふっ」
芳野(よしの)「はっはっはっ!」
早苗(さなえ)「あははっ」
その姿(すがた)を見(み)て、みんなが笑(わら)う。
風子(ふうこ)「みんな、とても失礼(しつれい)ですっ」
風子(ふうこ)「怒(おこ)ったので、この子(こ)をこのまま連(つ)れて帰(かえ)りますっ」
伊吹(いぶき)「ふぅちゃん、わけわからないこと言(い)わないの」
風子(ふうこ)「どさくさに紛(まぎ)れてもダメですかっ」
伊吹(いぶき)「ダメ」
伊吹(いぶき)「ほら、腕(うで)も疲(つか)れるでしょう?
もう降(お)ろしてあげようね」
風子(ふうこ)「んーっ、仕方(しかた)がないです…」
降(お)ろされて、汐(うしお)が行(い)き場(ば)なく立(た)ちつくす。
俺(おれ)が呼(よ)ぶと、走(はし)ってきて、足(あし)にしがみついた。
伊吹(いぶき)「ずっと、この子(こ)が入院(にゅういん)してたんですよ」
朋也(ともや)「え、そうなんすか」
伊吹(いぶき)「ええ…長(なが)いこと寝(ね)ていたので、今(いま)はリハビリの最中(さいちゅう)なんです」
伊吹(いぶき)「先月(せんげつ)から、ようやく外(そと)に出歩(である)けるようになったんですよ」
伊吹(いぶき)「今(いま)は、体(からだ)を積極的(せっきょくてき)に動(うご)かしたほうがいいってことなので、休(やす)みの日(ひ)はこうして三人(さんにん)で外(そと)に出(で)ています」
風子(ふうこ)「それで公園(こうえん)なんて、まるで風子(ふうこ)、子供(こども)みたいです」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)、どちらかというと、ビリヤードとか、大人(おとな)の遊(あそ)びを嗜(たしな)みたいです」
伊吹(いぶき)「ふぅちゃん、ブランコ乗(の)ろうか」
風子(ふうこ)「んーっ、乗(の)ってあげますっ」
…むちゃくちゃ嬉(うれ)しそうだった。
早苗(さなえ)「風子(ふうこ)ちゃんは…とても長(なが)い時間(じかん)眠(ねむ)っていたんですよ」
三人(さんにん)の楽(たの)しげに遊(あそ)ぶ風景(ふうけい)を見(み)ながら、早苗(さなえ)さんは言(い)った。
俺(おれ)は思(おも)い出(だ)す。かつて渚(なぎさ)から聞(き)かされたその話(はなし)を。
早苗(さなえ)「とても長(なが)い時間(じかん)…何年間(なんねんかん)もです」
あの日(ひ)からも…ずっと眠(ねむ)り続(つづ)けていたのか。
早苗(さなえ)「公子(こうこ)さん、自分(じぶん)だけ幸(しあわ)せにはなれないって、待(ま)ち続(つづ)けたんです」
早苗(さなえ)「芳野(よしの)さんも、一緒(いっしょ)に、待(ま)ち続(つづ)けたんです」
早苗(さなえ)「ずっとふたりは待(ま)ち続(つづ)けていたんですよ」
早苗(さなえ)「何年(なんねん)も…」
早苗(さなえ)「きっと、いろんなことがありました」
早苗(さなえ)「くじけそうな時(とき)もあったと思(おも)います」
早苗(さなえ)「でも…ここに辿(たど)り着(つ)けました」
朋也(ともや)「強(つよ)いっすね…」
早苗(さなえ)「はい。とても強(つよ)いです」
自分(じぶん)が恥(は)ずかしかった。
早苗(さなえ)「だから…」
早苗(さなえ)「おめでとうって言(い)ってあげましょう。ここから大(おお)きな声(こえ)で」
朋也(ともや)「え、ここでですか」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「他(ほか)にもたくさん人(ひと)が居(い)ますけど…」
言(い)ってから、気(き)づく。
そんな体裁(ていさい)なんて、ずっと昔(むかし)に捨(す)てていたはずだ。
この家族(かぞく)と暮(く)らし始(はじ)めた日(ひ)から。
朋也(ともや)「いいですね、言(い)いましょう」
朋也(ともや)「退院(たいいん)、そしてご結婚(けっこん)、おめでとう、でいいですか?」
早苗(さなえ)「はいっ」
早苗(さなえ)「では、大(おお)きな声(こえ)で」
早苗(さなえ)「一(いち)、二(に)の三(さん)っ」
朋也(ともや)「退院(たいいん)そして、ご結婚(けっこん)、おめでとーっ!」
早苗(さなえ)「退院(たいいん)そして、ご結婚(けっこん)、おめでとーっ!」
声(こえ)が高(たか)らかに響(ひび)いた。
公園(こうえん)の中(なか)にいた、見知(みし)らぬ人(ひと)たちも、振(ふ)り返(かえ)って…
パチパチ…
大(おお)きな拍手(はくしゅ)をしてくれた。
伊吹(いぶき)「ありがとうございますっ」
芳野(よしの)「ありがとうっ」
風子(ふうこ)「わけわかりませんが、ありがとうございますっ」
なんて、優(やさ)しい町(まち)なんだろう。[/wrap]

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それからも休日(きゅうじつ)は、古河家(ふるかわけ)に挨拶(あいさつ)した後(あと)、公園(こうえん)で遊(あそ)んで過(す)ごした。
休日(きゅうじつ)は、古河家(ふるかわけ)に挨拶(あいさつ)した後(あと)、公園(こうえん)で遊(あそ)んで過(す)ごした。
そこはもう、汐(うしお)のお気(き)に入(はい)りの場所(ばしょ)だった。
無理(むり)もない。ずっと暮(く)らしていた家(いえ)の目(め)の前(まえ)にあるのだ。
今日(きょう)までも、早苗(さなえ)さんやオッサンと一緒(いっしょ)に遊(あそ)んで過(す)ごしてきた思(おも)い出(で)の場所(ばしょ)なのだろう。
見渡(みわた)すと、自分(じぶん)たちと同(おな)じように、子連(こづ)れが多(おお)い。
でも、親(おや)のほとんどは、母親(ははおや)だった。
幼稚園(ようちえん)の送(おく)り迎(むか)えの時(とき)のように、俺(おれ)は挨拶(あいさつ)を繰(く)り返(かえ)した。
さすがに、主婦(しゅふ)とは話(はなし)が合(あ)わず、井戸端会議(いどばたかいぎ)にまでは参加(さんか)できなかったが。
一通(ひととお)り挨拶(あいさつ)だけ済(す)ませると、俺(おれ)は汐(うしお)をブランコに乗(の)せ、その背中(せなか)を押(お)した。
汐(うしお)の目(め)が、親(おや)のそばを離(はな)れ、友達同士(ともだちどうし)で遊(あそ)ぶ子供(こども)の輪(わ)のほうに向(む)いていた。
朋也(ともや)「…ん?
仲間(なかま)に入(い)れてもらうか?」
汐(うしお)「…ううん、いい」
汐(うしお)「今(いま)はパパといたい」
朋也(ともや)「………」
汐(うしお)「あのこたちとは、たくさん遊(あそ)んだから」
朋也(ともや)「そっか…」
汐(うしお)も…失(うしな)われた時間(じかん)を取(と)り戻(もど)そうとしているんだ。
汐(うしお)「だんごっ、だんごっ…」
汐(うしお)がブランコに揺(ゆ)られながら歌(うた)い始(はじ)める。
俺(おれ)も一緒(いっしょ)になって歌(うた)った。
ここが、ふたりの思(おも)い出(で)の場所(ばしょ)になるように。[/wrap]

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公子,0,]


10月(がつ)の最初(さいしょ)の日曜日(にちようび)。
伊吹先生(いぶきせんせい)と、芳野(よしの)さんの結婚式(けっこんしき)がとりおこなわれた。
場所(ばしょ)は…学校(がっこう)。
なんの飾(かざ)りもない教室(きょうしつ)のひとつで、身近(みぢか)な人(ひと)たちだけを集(あつ)めてささやかに行(おこな)われた。
その中(なか)に自分(じぶん)も、汐(うしお)もいた。
伊吹先生(いぶきせんせい)がかつて、教鞭(きょうべん)をふるった場所(ばしょ)で、ふたりは永遠(えいえん)の誓(ちか)いを交(か)わす。
伊吹先生(いぶきせんせい)は、綺麗(きれい)だった。
芳野(よしの)さんも、嫉妬(しっと)するほどに格好(かっこう)良(よ)かった。
本当(ほんとう)に、お似合(にあ)いだった。
伊吹(いぶき)「本日(ほんじつ)は、ありがとうございました、みなさん」
俺(おれ)たちに向(む)けて、礼(れい)をする。
そしてブーケを手(て)に歩(ある)いていく。芳野(よしの)さんと共(とも)に。
俺(おれ)たちは拍手(はくしゅ)と歓声(かんせい)で見送(みおく)った。
幸(しあわ)せな風景(ふうけい)がまたひとつ、増(ふ)えた。
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小小的心愿 - 2009/8/10 15:49:00
贪婪那儿的资源不知道有没有和LZ说的坑有冲突??
:Tuzki12:
seagull - 2009/8/11 10:41:00
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明日(あした)は体育(たいいく)の日(ひ)。仕事(しごと)も幼稚園(ようちえん)も休(やす)みだった。
朋也(ともや)「明日(あした)は汐(うしお)はどうしたい?」
汐(うしお)「遊(あそ)びたい」
朋也(ともや)「ああ、遊(あそ)ぶのは当然(とうぜん)だ。問題(もんだい)は何(なに)をして遊(あそ)ぶか、だな」
朋也(ともや)「また公園(こうえん)でいいのか?」
朋也(ともや)「でも、せっかくの祝日(しゅくじつ)なんだし、特別(とくべつ)なことしたいよな」
そこへ電話(でんわ)が鳴(な)った。
朋也(ともや)「おっと、電話(でんわ)だ。汐(うしお)、待(ま)ってろよ」
汐(うしお)「うん」
朋也(ともや)「はい、岡崎(おかざき)です」
早苗(さなえ)『もしもし、朋也(ともや)さんですか』
声(こえ)は早苗(さなえ)さんだった。
早苗(さなえ)『早苗(さなえ)です。こんばんは』
朋也(ともや)「こんばんは」
早苗(さなえ)『突然(とつぜん)で申(もう)し訳(わけ)ないですが、明日(あした)は、何(なに)か用(よう)がありますか?』
朋也(ともや)「あ、いえ。今(いま)、何(なに)して過(す)ごそうかと汐(うしお)と相談(そうだん)してたところです」
また、早苗(さなえ)さんが何(なに)か計画(けいかく)を練(ね)ってくれているのだろうか。
だったら、渡(わた)りに船(ふね)だった。
早苗(さなえ)『だったら、ひとつお願(ねが)いがあるんです』
朋也(ともや)「はい、なんでしょう」
早苗(さなえ)さんのことだ。きっと、素敵(すてき)な提案(ていあん)に違(ちが)いない。
早苗(さなえ)『伊吹(いぶき)さんに、妹(いもうと)さんがいらっしゃったことは、覚(おぼ)えていますか?』
朋也(ともや)「…妹(いもうと)?」
早苗(さなえ)『風子(ふうこ)ちゃんです』
朋也(ともや)「ああ、なんか、ちっこいのが居(い)たような…」
早苗(さなえ)『はい。その風子(ふうこ)ちゃんが、朋也(ともや)さんの家(いえ)に遊(あそ)びにいきたいらしいんです』
朋也(ともや)「…は?」
早苗(さなえ)『これは、お姉(ねえ)さんの公子(こうこ)さんからのお願(ねが)いなんですが…』
早苗(さなえ)『明日(あした)、一緒(いっしょ)に遊(あそ)んであげてくれませんか?』
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…あの」
早苗(さなえ)『はい』
朋也(ともや)「どうして、俺(おれ)なんでしょ」
早苗(さなえ)『それは…風子(ふうこ)ちゃんが汐(うしお)ちゃんを気(き)に入(はい)ったからだと思(おも)いますよ』
…俺(おれ)は眼中(がんちゅう)にナシというわけね。
早苗(さなえ)『ひとりで出歩(である)く機会(きかい)としても、ちょうどいいらしいんです』
早苗(さなえ)『風子(ふうこ)ちゃん、ほら、長(なが)いこと入院(にゅういん)していて、ずっと公子(こうこ)さんが付(つ)きっきりでしたから』
早苗(さなえ)『自主的(じしゅてき)にそうしたいって言(い)うんなら、そうさせてあげたいそうなんです』
早苗(さなえ)『それに、風子(ふうこ)ちゃん、すごく人見知(ひとみし)りをするらしいんです』
早苗(さなえ)『なのに、会(あ)って間(ま)もない人(ひと)の家(いえ)に遊(あそ)びにいきたいなんて、とても珍(めずら)しいことらしいですよ』
早苗(さなえ)『朋也(ともや)さんも、すごく気(き)に入(い)られてるんですね』
…いまいち信(しん)じられないが。
早苗(さなえ)『朋也(ともや)さん、協力(きょうりょく)してあげてくれますか?』
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は一瞬(いっしゅん)言葉(ことば)に詰(つ)まるが…早苗(さなえ)さんの頼(たの)みとあらば、断(ことわ)るわけにはいかなかった。
朋也(ともや)「ええ…いいですよ」
早苗(さなえ)『そうですか、それはよかったです』
早苗(さなえ)『やっぱり朋也(ともや)さんは、優(やさ)しいですね』
早苗(さなえ)『それでは、住所(じゅうしょ)のほうは風子(ふうこ)ちゃんにお伝(つた)えしておきますので、午後(ごご)からお邪魔(じゃま)することになると思(おも)います』
朋也(ともや)「はぁ、了解(りょうかい)しました」
早苗(さなえ)『後(あと)、公子(こうこ)さんにも、朋也(ともや)さんの家(いえ)の電話番号(でんわばんごう)、教(おし)えてあげてもいいですか?』
早苗(さなえ)『もし、了承(りょうしょう)いただけたら、お礼(れい)を言(い)いたいと言(い)ってましたので』
朋也(ともや)「ええ、構(かま)わないです」
早苗(さなえ)『それでは教(おし)えておきますね』
朋也(ともや)「はい、お願(ねが)いします」
早苗(さなえ)『それでは、いい休日(きゅうじつ)を』
受話器(じゅわき)を置(お)く。
いい休日(きゅうじつ)になんて、なるんだろうか。
そもそも、あの風子(ふうこ)という女(おんな)の子(こ)には、あまりいい印象(いんしょう)はなかった。
汐(うしお)をさらっていこうとしていたぐらいだしな…。
朋也(ともや)「あのな、汐(うしお)」
汐(うしお)「うん?」
朋也(ともや)「明日(あした)は、お客(きゃく)さんが来(く)る」
汐(うしお)「え?」
朋也(ともや)「おまえも、前(まえ)に会(あ)ってる。公園(こうえん)で抱(だ)きつかれた女(おんな)の子(こ)。覚(おぼ)えてないか?」
汐(うしお)「おぼえてる」
朋也(ともや)「あの子(こ)が、おまえに会(あ)いに来(く)るんだってよ」
汐(うしお)「うん」
朋也(ともや)「…うれしいか?」
汐(うしお)「うん」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にか?」
汐(うしお)「うん」
朋也(ともや)「まぁ、おまえがそう言(い)うんなら、俺(おれ)は別(べつ)にいいけど…」
朋也(ともや)「ただ、よっぽどおまえのこと気(き)に入(い)ってるみたいだから、さらわれるなよ」
汐(うしお)「うん」
その後(しり)、伊吹先生(いぶきせんせい)とも電話(でんわ)で話(はな)すことに。
何度(なんど)も礼(れい)を言(い)われて、こっちが恐縮(きょうしゅく)するぐらいだった。
そして、翌日(よくじつ)。
予定(よてい)より早(はや)く、昼食(ちゅうしょく)を作(つく)っている最中(さいちゅう)に風子(ふうこ)は訪(おとず)れた。
風子(ふうこ)「こんにちは」
朋也(ともや)「はい、こんにちは」
風子(ふうこ)「遊(あそ)びにきました」
風子(ふうこ)「よろしくお願(ねが)いします」
意外(いがい)にも、礼儀正(れいぎただ)しく挨拶(あいさつ)をした。
風子(ふうこ)「お邪魔(じゃま)していいですか」
朋也(ともや)「ああ、昼飯(ひるめし)作(つく)ってるところだけどな。入(はい)って、座(すわ)ってろよ」
風子(ふうこ)「はい、ではお邪魔(じゃま)します」
風子(ふうこ)「とても狭(せま)いですっ」
朋也(ともや)「………」
今(いま)までのは伊吹(いぶき)さんに、教(おし)えられたことを口(くち)にしていただけなのか…。
そう思(おも)わせるほど、部屋(へや)に入(はい)るなり、言動(げんどう)が一変(いっぺん)していた。
風子(ふうこ)「あ、汐(うしお)ちゃん、発見(はっけん)ですっ」
走(はし)っていって、滑(すべ)り込(こ)むようにして、汐(うしお)を抱(だ)きかかえていた。
朋也(ともや)「おまえ、危(あぶ)ないだろっ」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃん、風子(ふうこ)の妹(いもうと)にならないですか」
朋也(ともや)「ならねぇよっ」
風子(ふうこ)「あなたには訊(き)いていません。汐(うしお)ちゃんに訊(き)いているんです」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃん、風子(ふうこ)の妹(いもうと)になりましょう」
汐(うしお)と向(む)かい合(あ)い、改(あらた)めてそう訊(き)いた。
汐(うしお)「うーん…」
汐(うしお)「パパと、ずっといる」
朋也(ともや)「どうだ、聞(き)いたか」
風子(ふうこ)「そうですか…」
風子(ふうこ)「では、今日一日(きょういちにち)で懐柔(かいじゅう)します」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…おまえ、遊(あそ)びにきたんじゃねぇの?」
風子(ふうこ)「そんなの建前(たてまえ)です」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)は、汐(うしお)ちゃんを連(つ)れ戻(もど)しにきただけです」
朋也(ともや)「いつからいつまで、おまえのものだったんだよ…」
風子(ふうこ)「というわけで、汐(うしお)ちゃん、お昼(ひる)ご飯(はん)持(も)ってきました。一緒(いっしょ)に食(た)べましょう」
朋也(ともや)「俺(おれ)、今(いま)、作(つく)ってんだけど」
風子(ふうこ)「ひとりで食(た)べてください」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃんは、風子(ふうこ)と食(た)べます」
朋也(ともや)「………」
追(お)い出(だ)してやろうか。
しかし…伊吹(いぶき)さんにあれだけ礼(れい)を言(い)われたし…。
ここはぐっと、堪(た)える。
風子(ふうこ)「はい、パンです」
朋也(ともや)「なんだ、古河(ふるかわ)パンのか?」
風子(ふうこ)「はい。古河(ふるかわ)パンのパンです」
風子(ふうこ)「ですが、これはオーダーメイドです」
風子(ふうこ)「世界(せかい)にひとつだけのパンです」
言(い)って袋(ふくろ)から出(だ)したのは、星形(ほしがた)をしたパンだった。
朋也(ともや)「ふぅん、おまえの趣味(しゅみ)にしては結構(けっこう)可愛(かわい)いな」
風子(ふうこ)「食(た)べてくれますか、食(た)べてくれますかっ」
汐(うしお)「うん」
汐(うしお)がこくんと頷(うなず)く。
風子(ふうこ)「どうぞ」
星形(ほしがた)パンを受(う)け取(と)って、それを食(た)べ始(はじ)める汐(うしお)。
はぐはぐ…
風子(ふうこ)「おいしいですか?」
汐(うしお)「うん、おいしい」
早苗(さなえ)さんじゃなく、オッサンが作(つく)ったパンなのだろうか。
風子(ふうこ)「ああ、可愛(かわい)い汐(うしお)ちゃんが、可愛(かわい)いパンを食(た)べてます。可愛(かわい)さ二乗(にじょう)ですっ」
風子(ふうこ)「さらにそれを風子(ふうこ)が食(た)べてしまいたいですっ」
…やめてくれ。
汐(うしお)「おいしかった」
パンを食(た)べ終(お)える。
風子(ふうこ)「では、帰(かえ)りましょう」
汐(うしお)の手(て)を引(ひ)いて立(た)ち上(あ)がる。
朋也(ともや)「こらこら、親(おや)の前(まえ)で誘拐(ゆうかい)するなっ」
風子(ふうこ)「誘拐(ゆうかい)じゃないです。本人(ほんにん)の希望(きぼう)です」
朋也(ともや)「嘘(うそ)つけ」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃん、風子(ふうこ)の妹(いもうと)になりたいですよね」
汐(うしお)「うーん…」
汐(うしお)「パパといっしょにいたい」
風子(ふうこ)「なかなか懐柔(かいじゅう)されてくれないです」
朋也(ともや)「会(あ)って間(ま)もないおまえなんかに懐柔(かいじゅう)されるかよ…」
俺(おれ)は中断(ちゅうだん)していた料理(りょうり)に戻(もど)ることにした。
もう一度(いちど)コンロに火(ひ)をつけて、フライパンを温(あたた)める。
昼飯(ひるめし)は定番(じょうばん)となりつつある、俺(おれ)特製(とくせい)のチャーハンだった。
コショウもふんだんに入(い)れてやる。
朋也(ともや)「風子(ふうこ)」
朋也(ともや)「おまえもチャーハン、食(く)うか」
背中(せなか)を向(む)けたまま訊(き)く。
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)を懐柔(かいじゅう)する気(き)ですかっ」
朋也(ともや)「するかよ…」
風子(ふうこ)「おねぇちゃんから聞(き)いています」
朋也(ともや)「何(なに)を」
風子(ふうこ)「岡崎(おかざき)さんは、奥(おく)さんをなくされてるそうです」
朋也(ともや)「ああ、そうだよ」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)にその面影(おもかげ)を重(かさ)ねてしまうのも無理(むり)はないです」
朋也(ともや)「………」
三(みっ)つ分(ぶん)の皿(さら)に、チャーハンを盛(さか)る。
ひとつは大盛(おおも)り。残(のこ)りのふたつは少(すく)な目(め)に。
朋也(ともや)「言(い)っておくけどな…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)はおまえとまったく似(に)ていない」
皿(さら)をちゃぶ台(だい)に並(なら)べて、自分(じぶん)も座(すわ)る。
朋也(ともや)「違(ちが)う星(ほし)の生(い)き物(もの)のように違(ちが)う」
風子(ふうこ)「宇宙人(うちゅうじん)みたいな奥(おく)さんだったんですか」
朋也(ともや)「おまえがだよっ」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)、宇宙人(うちゅうじん)じゃないです」
朋也(ともや)「俺(おれ)にはおまえの思考(しこう)は理解(りかい)できない」
風子(ふうこ)「岡崎(おかざき)さんが宇宙人(うちゅうじん)なんです」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)は地球人(ちきゅうじん)の、極(きわ)めて平均的(へいきんてき)な思考(しこう)の持(も)ち主(ぬし)です」
朋也(ともや)「おまえが地球人(ちきゅうじん)の平均的(へいきんてき)な思考(しこう)だったら、世界(せかい)は三日(みっか)で破滅(はめつ)するよ」
風子(ふうこ)「岡崎(おかざき)さんの言(い)い分(ぶん)は、まったく理解(りかい)できないです」
朋也(ともや)「じゃあ、目(め)の前(まえ)に絶対(ぜったい)に押(お)してはいけないと言(い)われているボタンがあったら、おまえ、どうする」
風子(ふうこ)「隠(かく)れてこっそり押(お)してみます」
朋也(ともや)「ちなみにそれ、核爆弾(かくばくだん)の発射(はっしゃ)ボタンな」
朋也(ともや)「まったく、おまえが地球人(ちきゅうじん)の平均的(へいきんてき)な思考(しこう)の持(も)ち主(ぬし)じゃなくてよかったよ」
朋也(ともや)「文字通(もじどお)り、世界(せかい)は三日(みっか)で破滅(はめつ)していたな」
風子(ふうこ)「卑怯(ひきょう)です。今(いま)の誘導尋問(ゆうどうじんもん)ですっ」
朋也(ともや)「どこがだよ」
風子(ふうこ)「なら、風子(ふうこ)から質問(しつもん)です」
朋也(ともや)「なんだよ」
風子(ふうこ)「穿(は)いてはいけないと言(い)われているタイツが落(お)ちていたら、岡崎(おかざき)さんはどうしますか」
朋也(ともや)「どうもしねぇけど」
風子(ふうこ)「嘘(うそ)ですっ、岡崎(おかざき)さんは、我慢(がまん)しきれずタイツを穿(は)いてしまうはずですっ」
風子(ふうこ)「そして、世界(せかい)のあらゆる場所(ばしょ)で、核(かく)が同時(どうじ)爆発(ばくはつ)…」
朋也(ともや)「ものすごいタイツだな」
風子(ふうこ)「もう、岡崎(おかざき)さんが地球人(ちきゅうじん)の平均的(へいきんてき)な思考(しこう)でなくてよかったです」
風子(ふうこ)「世界(せかい)が一日(いちにち)で破滅(はめつ)しているところでした」
朋也(ともや)「おまえ、相当(そうとう)面白(おもしろ)い奴(やつ)な」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃん」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)、あなたのお父(とう)さんに惚(ほ)れられてしまいました」
朋也(ともや)「いいから、食(く)え」
俺(おれ)はチャーハンの盛(さか)られた皿(さら)を風子(ふうこ)に差(さ)し出(だ)す。
風子(ふうこ)「眠(ねむ)り薬(ぐすり)とか入(はい)ってないですか」
朋也(ともや)「別(べつ)におまえがガーガー寝(ね)てようが、指(ゆび)一本(いっぽん)触(ふ)れる気(き)は起(お)こらないから、安心(あんしん)しろ」
風子(ふうこ)「それは大切(たいせつ)に思(おも)ってくれている、ということなのでしょうか」
朋也(ともや)「違(ちが)ぇよ」
朋也(ともや)「ほら、汐(うしお)も食(く)うだろ。食(く)えない分(ぶん)は残(のこ)していいから、食(く)え」
汐(うしお)にも小(ちい)さく盛(さか)られた皿(さら)を渡(わた)す。
汐(うしお)「うん」
汐(うしお)「いただきます」
手(て)を合(あ)わせてから、食(た)べ始(はじ)める。
汐(うしお)「おいしい」
風子(ふうこ)「おいしいですか。よかったです」
朋也(ともや)「おまえが作(つく)ったみたいに言(い)うな」
風子(ふうこ)「でも、汐(うしお)ちゃん、心(こころ)の中(なか)で、さっきのパンのほうがおいしかったって思(おも)ってるはずです」
朋也(ともや)「ちなみにさっきのパンも、おまえが作(つく)ったんじゃないからな」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)プロデュースです」
朋也(ともや)「形(かたち)だけだろが」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)、お料理(りょうり)は練習中(れんしゅうちゅう)です」
風子(ふうこ)「まったくできないみたいに言(い)わないでください」
朋也(ともや)「わかったよ。おまえは料理(りょうり)がうまい。だから、冷(さ)めないうちに食(く)え。食(く)ってくれ。不味(まず)くなるだろ」
風子(ふうこ)「………」
風子(ふうこ)「わかりました。そこまで言(い)うんなら、いただくことにします」
ようやくスプーンを手(て)に、食(た)べ始(はじ)める。
風子(ふうこ)「負(ま)けました!」
風子(ふうこ)「なんですか、これはっ!
やばいぐらいにおいしいですっ」
風子(ふうこ)の挙動(きょどう)はいちいちおかしい。
俺(おれ)は引(ひ)くほどだったが、汐(うしお)にとっては、それが愉快(ゆかい)なのか、終始(しゅうし)笑顔(えがお)でいた。
ふたりきりで過(す)ごすのもよかったが、たまには別(べつ)の誰(だれ)かを交(まじ)えて過(す)ごすのも、新鮮(しんせん)でいいかもしれないと思(おも)った。
風子(ふうこ)「では、汐(うしお)ちゃん、遊(あそ)びましょう」
俺(おれ)が後片(あとかた)づけをしている背後(はいご)で、ふたりは遊(あそ)び始(はじ)める。
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)、カードゲームを持(も)ってきました」
風子(ふうこ)「これ、スターターキットです」
汐(うしお)「?」
風子(ふうこ)「うわ、風子(ふうこ)、とてもレアなカードが入(はい)っていました!」
風子(ふうこ)「見(み)てください、汐(うしお)ちゃん。ものすごい攻撃力(こうげきりょく)ですっ」
風子(ふうこ)「こんなので攻撃(こうげき)されたら、ひとたまりもないですっ」
朋也(ともや)「おまえ、それ、五歳児(ごさいじ)がやって楽(たの)しいのか」
風子(ふうこ)「はい?」
朋也(ともや)「五歳児(ごさいじ)に理解(りかい)できるのかと訊(き)いてるんだよ」
風子(ふうこ)「あ、このゲーム、対象年齢(たいしょうねんれい)が10歳(さい)以上(いじょう)になっていますっ」
風子(ふうこ)「すみません、汐(うしお)ちゃんにはまだ早(はや)かったようです…」
10歳(さい)になっても、女(おんな)の子(こ)は興味(きょうみ)を示(しめ)さないと思(おも)うが…。
風子(ふうこ)「というわけで、トランプにしましょう」
最初(さいしょ)からそっちを出(だ)せ…。
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃんは、トランプだと、何(なに)ができますか」
風子(ふうこ)「ブラックジャックとか出来(でき)ますか」
朋也(ともや)「おまえな…できるわけないだろ」
風子(ふうこ)「難(むずか)しすぎますか」
風子(ふうこ)「すみません、風子(ふうこ)、とても大人(おとな)なので、大人(おとな)っぽいゲームばかり提案(ていあん)してしまいます」
朋也(ともや)「7並(なら)べでいいだろ?」
風子(ふうこ)「あれは、おもしろすぎますっ!
魔性(ましょう)のゲームですっ」
朋也(ともや)「おまえ、むちゃくちゃ子供(こども)な…」
汐(うしお)「うん、7ならべがいい」
風子(ふうこ)「そうですか、では、やりましょう」
朋也(ともや)「片(かた)づけが終(お)わったら、俺(おれ)も入(はい)るから、待(ま)ってろ」
汐(うしお)「うん」
風子(ふうこ)「まったく、仕方(しかた)がないです」
風子(ふうこ)「キビキビ働(はたら)いてください」
朋也(ともや)「ちなみに、洗(あら)ってるの、おまえの食(く)った皿(さら)な」
風子(ふうこ)「今(いま)、岡崎(おかざき)さんのせいで、カード置(お)けなくなりました」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃんのお父(とう)さんはとても女(おんな)の子(こ)に失礼(しつれい)です」
風子(ふうこ)「替(か)えたほうがいいです」
汐(うしお)「ううん、パパ、やさしい」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)にはとても、そうは思(おも)えないです」
風子(ふうこ)「あ、またやられましたっ」
汐(うしお)「ははっ」
ぱたぱた…。
並(なら)べられていくカードと、笑(わら)い声(ごえ)。
………。
俺(おれ)は思(おも)ってしまう。
もし、渚(なぎさ)がいてくれたら…
こうやって、三人(さんにん)でトランプをしていたんだろうって…。
それが普通(ふつう)の休日(きゅうじつ)の風景(ふうけい)だったんだろうって…。
風子(ふうこ)「あの、岡崎(おかざき)さん」
朋也(ともや)「あん?」
ぼぅっとしていたんだろうか。
風子(ふうこ)「やっぱり…」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)、奥(おく)さんと面影(おもかげ)が重(かさ)なってしまいますか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「わかったよ…」
朋也(ともや)「百歩(ひゃくぶ)譲(ゆず)って、性別(せいべつ)だけは重(かさ)なる、ということにしておいてやろう」
風子(ふうこ)「性格(せいかく)は違(ちが)いますか。風子(ふうこ)と違(ちが)って、子供(こども)っぽい方(かた)だったんでしょうか」
朋也(ともや)「おまえより子供(こども)っぽい奴(やつ)を俺(おれ)は知(し)らないよ…」
朋也(ともや)「でも、ま…子供(こども)っぽい奴(やつ)だったよ」
そう言(い)うと、風子(ふうこ)がささっと髪(かみ)を整(ととの)える。
風子(ふうこ)「………」
朋也(ともや)「なんで、おまえが照(て)れるんだよ」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃんは、お母(かあ)さんのこと、知(し)らないですか」
朋也(ともや)「ああ、知(し)らねぇよ」
汐(うしお)「でも、パパからたくさん聞(き)いたから、いっぱいしってる」
風子(ふうこ)「そうですか」
風子(ふうこ)「汐(うしお)ちゃんのお母(かあ)さんは、どんな人(ひと)でしたか?」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「とっても泣(な)き虫(むし)」
汐(うしお)「でも…」
汐(うしお)「すごくがんばって、汐(うしお)をうんでくれた人(ひと)」
朋也(ともや)「………」
汐(うしお)「それで…」
汐(うしお)「すごく、パパが好(す)きだった人(ひと)」
朋也(ともや)「………」
……。
トランプの数字(すうじ)がよく見(み)えない。
どうしてだろう。
ゲームが続(つづ)けられない。
朋也(ともや)「………」
風子(ふうこ)「あの、風子(ふうこ)…」
風子(ふうこ)「しばらくは暇(ひま)なので、いつでも呼(よ)んでください」
朋也(ともや)「…え?」
風子(ふうこ)「いつでも呼(よ)んでくれたら、来(き)ますって言(い)ったんです」
朋也(ともや)「おまえ、何(なに)か、気(き)使(つか)ってんのか?」
風子(ふうこ)「気(き)なんて使(つか)ってないです。風子(ふうこ)が来(き)たいから、呼(よ)んでください、と言(い)っただけです」
風子(ふうこ)「そうです。風子(ふうこ)は汐(うしお)ちゃんと遊(あそ)びたいだけです」
朋也(ともや)「あ、そ…」
もしかしたら…
かつての俺(おれ)の荒(あ)れようを聞(き)いていたのだろうか。
渚(なぎさ)を失(うしな)ってからの、俺(おれ)のひどい暮(く)らしを。
こいつの姉(ねえ)さんは早苗(さなえ)さんと仲(なか)がいいって言(い)ってたから…。
考(かんが)えすぎだろうか。
朋也(ともや)「風子(ふうこ)」
風子(ふうこ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちは、もう大丈夫(だいじょうぶ)だよ」
風子(ふうこ)「何(なん)のことを言(い)ってるのか、さっぱり意味不明(いみふめい)です」
朋也(ともや)「いや…」
風子(ふうこ)「やっぱり、岡崎(おかざき)さんのほうが、宇宙人(うちゅうじん)っぽいです」
朋也(ともや)「あ、そ」
風子(ふうこ)「それでは、風子(ふうこ)、帰(かえ)ってしまいます」
風子(ふうこ)「普通(ふつう)に、帰(かえ)ります、と言(い)え」
風子(ふうこ)「はい、風子(ふうこ)、帰(かえ)ります」
朋也(ともや)「じゃあな。また来(こ)い」
風子(ふうこ)「はい。では、行(い)きましょうか、汐(うしお)ちゃん」
朋也(ともや)「こらこら、自然(しぜん)を装(よそお)って引(ひ)っ張(ぱ)っていくな」
風子(ふうこ)「どうしても、連(つ)れて帰(かえ)りたいんですっ!」
朋也(ともや)「親(おや)に向(む)かって、無意味(むいみ)な訴(うった)えをするな」
風子(ふうこ)「まぁ、いいです」
風子(ふうこ)「機会(きかい)はこれからいくらだってあります」
風子(ふうこ)「寝首(ねくび)かかれないように気(き)をつけてください」
朋也(ともや)「そんな奴(やつ)を快(こころよ)く呼(よ)べるかよ…」
風子(ふうこ)「すみません。今(いま)のは聞(き)かなかったことにしてください」
風子(ふうこ)「風子(ふうこ)、とても大人(おとな)しくしてます」
風子(ふうこ)「もう、冬眠中(とうみんちゅう)のクマのようにしてます」
朋也(ともや)「いつか起(お)きるんだな…」
風子(ふうこ)「というわけで、汐(うしお)ちゃん、さようならです」
汐(うしお)「うん、さようなら」
風子(ふうこ)「外(そと)で会(あ)っても、声(こえ)かけます」
汐(うしお)「うん」
風子(ふうこ)「もう、汐(うしお)ちゃんの匂(にお)いまで記憶(きおく)したので、近(ちか)くにいたらわかります」
本当(ほんとう)に熊(くま)のような奴(やつ)だった。
風子(ふうこ)「その時(とき)はふたりきりで遊(あそ)びましょう」
汐(うしお)「うん」
汐(うしお)の頭(あたま)を撫(な)でた後(あと)…
風子(ふうこ)「それでは」
ようやく去(さ)っていった。
朋也(ともや)「ふぅ…疲(つか)れたな」
汐(うしお)「おもしろい人(ひと)だった」
朋也(ともや)「まぁ、楽(たの)しい奴(やつ)だとは思(おも)うけど…」
朋也(ともや)「あの思(おも)ったことをそのまま口(くち)に出(だ)すような性格(せいかく)はどうにかならないのかね…」
朋也(ともや)「どうも、迎(むか)えにきました」
先生(せんせい)「いつもご苦労様(くろうさま)です」
先生(せんせい)が、汐(うしお)の名(な)を呼(よ)ぶ。
汐(うしお)が駆(か)けてきて、俺(おれ)の足(あし)にしがみつく。
先生(せんせい)「今日(きょう)はプリントを一枚(いちまい)、お渡(わた)ししておきましたので、読(よ)んでくださいね」
朋也(ともや)「はい、わかりました」
朋也(ともや)「それでは失礼(しつれい)します」
汐(うしお)を連(つ)れて、園(えん)を後(あと)にした。
朋也(ともや)「プリントだってさ。見(み)せてくれ」
歩(ある)きながら、汐(うしお)は鞄(かばん)の中(なか)を漁(あさ)り始(はじ)める。
汐(うしお)「はい」
見(み)つけると、俺(おれ)に手渡(てわた)した。
目(め)を通(とお)すと、それは秋(あき)の運動会(うんどうかい)の案内(あんない)だった。
ご家族(かぞく)そろって、ご参加(さんか)くださいと書(か)かれていた。
朋也(ともや)「これ、親(おや)も参加(さんか)させられるんだよな」
朋也(ともや)「ほら、親(おや)だけで説明会(せつめいかい)まであるし」
汐(うしお)「…みたい」
朋也(ともや)「何(なに)を?」
汐(うしお)「パパのすごいところ」
朋也(ともや)「ああ、いいぜ。見(み)せてやるよ」
朋也(ともや)「こう見(み)えても、足(あし)、速(はや)いんだぞ」
朋也(ともや)「ま、高校(こうこう)の時(とき)の話(はなし)だけどさ。毎日(まいにち)体(からだ)動(うご)かしてるし、そんなに体力(たいりょく)は落(お)ちてないと思(おも)う」
朋也(ともや)「それに親(おや)としては若(わか)いほうだろうし。他(ほか)の中年(ちゅうねん)丸出(まるだ)しな親(おや)には負(ま)けないぞ」
汐(うしお)「たのしみ」
朋也(ともや)「ああ、楽(たの)しみにしておけ」
朋也(ともや)「後(あと)は…早苗(さなえ)さんとかにも来(き)てほしいな」
朋也(ともや)「おまえの頑張(がんば)る姿(すがた)も見(み)てほしいもんな」
汐(うしお)「うん」
朋也(ともや)「そうだ。この機会(きかい)にカメラを新調(しんちょう)しよう」
朋也(ともや)「おまえの写真(しゃしん)、いっぱい撮(と)るぞ」
汐(うしお)「うん」
朋也(ともや)「運動会(うんどうかい)かぁ。いい絵(え)がたくさん撮(と)れるだろうなぁ」
想像(そうぞう)してみる。
汐(うしお)の頑張(がんば)る姿(すがた)は可愛(かわい)くて、仕方(しかた)がない。
朋也(ともや)「その写真(しゃしん)、テレビ局(きょく)とかに送(おく)ったら、即採用(そくさいよう)だな」
朋也(ともや)「そして、タレント事務所(じむしょ)から引(ひ)っ張(ぱ)りだこ…」
朋也(ともや)「しかし親(おや)としては複雑(ふくざつ)な心境(しんきょう)だなぁ」
朋也(ともや)「汐(うしお)、今(いま)のうちにサイン書(か)く練習(れんしゅう)をしとけよ」
朋也(ともや)「まず一枚(いちまい)めは俺(おれ)のぶんな」
汐(うしお)「…?」
翌日(よくじつ)がちょうど日曜(にちよう)で休(やす)みだったので、古河(ふるかわ)の家(いえ)に遊(あそ)びにいくついでに、運動会(うんどうかい)の話(はなし)をすることにした。
朋也(ともや)「ちぃーっす」
汐(うしお)を連(つ)れて、古河(ふるかわ)パンの敷居(しきい)を跨(また)ぐ。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、こんにちは」
早苗(さなえ)「汐(うしお)も、こんにちは」
汐(うしお)「こんにちは」
午後(ごご)だったので、すでにオッサンの姿(すがた)はない。
早苗(さなえ)「お昼(ひる)はもう食(た)べましたか?」
朋也(ともや)「ええ。俺(おれ)の特製(とくせい)チャーハンを」
汐(うしお)「…おいしかった」
朋也(ともや)「こいつ、コショウ、食(く)えるようになったんすよ」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)ですかっ、それはえらいですね」
朋也(ともや)「次(つぎ)は、唐辛子(とうがらし)に挑戦(ちょうせん)な」
汐(うしお)「…ちょうせん」
早苗(さなえ)「やる気(き)まんまんですねっ」
早苗(さなえ)「でも、まだ早(はや)いと思(おも)いますよ」
朋也(ともや)「はは、やっぱ、そうですか」
朋也(ともや)「でも、こいつのおかげで、どんどん料理(りょうり)がうまくなっていきますよ」
朋也(ともや)「まずいもんは、まずいって正直(しょうじき)に言(い)うから」
汐(うしお)「さなえさんがつくるほうがおいしい」
朋也(ともや)「ね」
早苗(さなえ)「これからですよっ」
早苗(さなえ)さんの用意(ようい)してくれた、フルーツジュースを三人(さんにん)で飲(の)む。
朋也(ともや)「で、今日(きょう)はこんなものを持(も)ってきたんですけど…」
持(も)っていたプリントを広(ひろ)げて、早苗(さなえ)さんに手渡(てわた)す。
早苗(さなえ)「運動会(うんどうかい)ですね」
朋也(ともや)「応援(おうえん)、きてくれませんか」
早苗(さなえ)「はい、もちろん行(い)かせてもらいます」
朋也(ともや)「ありゃ、なんか、知(し)ってたみたいですね」
早苗(さなえ)「はい、知(し)ってました。実(じつ)は、この件(けん)で、わたしたちもお話(はなし)がありましたので」
朋也(ともや)「え?」
早苗(さなえ)「町内会(ちょうないかい)のほうで、園長(えんちょう)さんとご一緒(いっしょ)させていただいた時(とき)に、この話(はなし)を聞(き)きまして」
朋也(ともや)「はぁ」
早苗(さなえ)「是非(ぜひ)とも、ご参加(さんか)くださいと誘(さそ)われました」
朋也(ともや)「参加(さんか)ってことは…応援(おうえん)、じゃなく?」
早苗(さなえ)「はい、父母(ふぼ)のチームとして、です」
朋也(ともや)「素敵(すてき)じゃないですか。俺(おれ)も、そうだし、一緒(いっしょ)にやりましょうよ」
早苗(さなえ)「お邪魔(じゃま)じゃありませんか?」
朋也(ともや)「ぜんぜん。早苗(さなえ)さんと、一緒(いっしょ)に参加(さんか)できたら、最高(さいこう)っすよ」
早苗(さなえ)「ありがとうございます」
早苗(さなえ)「では、秋生(あきお)さんと一緒(いっしょ)に行(い)きますね」
朋也(ともや)「……え」
朋也(ともや)(しまったぁ…)
朋也(ともや)(オッサンも居(い)たのか…)
盲点(もうてん)だった…。
早苗(さなえ)「あ、帰(かえ)ってきたみたいですね」
秋生(あきお)「おぅ、ロードワークから戻(もど)ったぜ」
背後(はいご)にオッサン。
秋生(あきお)「しゅっ、しゅっ」
シャドウボクシングをしていた。
秋生(あきお)「へっ、腕(うで)が鳴(な)るぜ」
朋也(ともや)「あんたは何(なに)に出(で)るんだよっ!」
秋生(あきお)「秋(あき)の大運動会(だいうんどうかい)だろうが」
秋生(あきお)「1ラウンドでKOだぜ」
朋也(ともや)「んな種目(しゅもく)ないっ!」
秋生(あきお)「うっせぇ、減量中(げんりょうちゅう)なんだよ」
朋也(ともや)「そんな必要(ひつよう)だってないだろっ」
秋生(あきお)「あんだよ。腹(はら)出(で)たままで、まともに走(はし)れるかよ」
秋生(あきお)「てめぇこそ、なんだ。調整(ちょうせい)もなしに、挑(いど)む気(き)か。呑気(のんき)なもんだなぁ」
…ここまで張(は)りきる父親(ちちおや)はいない。
秋生(あきお)「はっ、汐(うしお)の前(まえ)にボロボロに叩(たた)きのめされた姿(すがた)をさらしやがれっ」
…だから、そんな種目(しゅもく)はない。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんは足(あし)が速(はや)いので、リレーのアンカーに是非(ぜひ)って言(い)ってましたよ」
早苗(さなえ)「それも、腰(こし)を痛(いた)めている園長(えんちょう)さんの代(か)わりに、教員(きょういん)チームのですって」
朋也(ともや)「この人(ひと)、教員(きょういん)じゃないっす!」
秋生(あきお)「うるせぇ、人徳(じんとく)のなせる技(わざ)だ…文句(もんく)言(い)うな」
秋生(あきお)「ふん、先生(せんせい)どものケツ拭(ぬぐ)いか…悪(わる)くねぇ舞台(ぶたい)だな」
そんなことが言(い)えるこの人(ひと)のどこに人徳(じんとく)があるのか。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)、父母(ふぼ)チームのアンカーは、こいつにしろって、園長(えんちょう)に言(い)っとけ」
秋生(あきお)「因縁(いんねん)の対決(たいけつ)だぜ…」
早苗(さなえ)「それは燃(も)える展開(てんかい)ですねっ」
朋也(ともや)「燃(も)えないでください!」
秋生(あきお)「てめぇにゃ、汐(うしお)の前(まえ)ででかいの打(う)たれたっきりだからな…」
秋生(あきお)「へっ、大勢(おおぜい)の前(まえ)で、生(い)き恥(はじ)さらさせて、出歩(である)けなくしてやるぜ」
早苗(さなえ)「そうならないように、頑張(がんば)ってくださいねっ」
早苗(さなえ)さんもマジだ…。
マジで、対決(たいけつ)させる気(き)だ…。
早苗(さなえ)「汐(うしお)はどっちが勝(か)つと思(おも)う?」
早苗(さなえ)さんが、ひとりでジュースを飲(の)んでいた汐(うしお)に訊(き)いた。
汐(うしお)「ん」
ストローから口(くち)を離(はな)す。
汐(うしお)「…あっきー」
朋也(ともや)「まだ、そっちなのかよっ!!」
秋生(あきお)「こいつは、俺(おれ)のスチールを見(み)て、育(そだ)ってんだぜ?」
子供相手(こどもあいて)に本気(ほんき)でスチールしてるんじゃない。
汐(うしお)「でも、パパにかってほしい」
秋生(あきお)「なるほど…理想(りそう)と現実(げんじつ)は違(ちが)うってことか」
秋生(あきお)「ガキのくせに、よくわかってんじゃねぇか」
その歳(とし)でおまえは、現実(げんじつ)なんて見(み)つめてるんじゃない…。
夢(ゆめ)を追(お)っていてくれ…。
つーか、この展開(てんかい)なんだよ…。
朋也(ともや)「ほっほっ…」
朋也(ともや)「…ほっほっ…」
芳野(よしの)「休憩時間(きゅうけいじかん)だってのに、なに走(はし)ってるんだ」
朋也(ともや)「いや、ちょっと…」
体(からだ)を鍛(きた)え始(はじ)めた自分(じぶん)が悲(かな)しい…。
運動会(うんどうかい)まで後(あと)一週間(いっしゅうかん)と迫(せま)った日(ひ)。
いつだって、そう。
いつだって、楽(たの)しいことを目前(もくぜん)にして、それはやってきた。
汐(うしお)「…おしっこ」
朋也(ともや)「ああ、行(い)ってこい」
じっと、目(め)の前(まえ)に立(た)ち尽(つ)くしていた。
朋也(ともや)「どうした」
汐(うしお)「…ひとりでできなかった」
朋也(ともや)「え…?」
朋也(ともや)「こぼしたのか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「どっか、汚(けが)したか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「わかった。待(ま)ってろ」
立(た)ち上(あ)がり、トイレへと向(む)かった。
確(たし)かに、別(べつ)の場所(ばしょ)を汚(けが)してしまっていた。
きれいに後始末(あとしまつ)をして、戻(もど)ってくる。
朋也(ともや)「どうしたんだ、おまえ」
朋也(ともや)「今(いま)まで、ちゃんとできてたのにな」
汐(うしお)「………」
なんだか、ぼーっとしているように見(み)えた。
俺(おれ)はしゃがみ込(こ)んで、その額(ひたい)に手(て)で触(ふ)れる。
…熱(あつ)かった。
朋也(ともや)「おまえ、熱(ねつ)あるぞ…」
それも、かなりの高熱(こうねつ)だ。
無理(むり)して立(た)っているのだろう。
俺(おれ)はその体(からだ)を抱(だ)き上(あ)げ、布団(ふとん)の上(うえ)に寝(ね)かせた。
朋也(ともや)「今日(きょう)は寝(ね)てろ」
汐(うしお)「…ようちえんは?」
朋也(ともや)「行(い)けるわけないだろう、そんな熱(ねつ)で」
朋也(ともや)「今日(きょう)は大人(おとな)しく寝(ね)てるんだ」
汐(うしお)「…うん」
苦(くる)しいのだろう。目(め)を閉(と)じた。
俺(おれ)は仕事(しごと)を休(やす)んで、汐(うしお)の看病(かんびょう)をすることにした。
翌朝(よくあさ)になっても、汐(うしお)の熱(ねつ)は下(さ)がらなかった。
今日(きょう)は医者(いしゃ)を呼(よ)ぶべきだろう。
しかし、二日(ふつか)も仕事(しごと)を休(やす)むわけにはいかない。
どうしよう…。
早苗(さなえ)さんに助(たす)けを求(もと)めるか…。
緊急事態(きんきゅうじたい)だから、仕方(しかた)がなかった。
俺(おれ)は電話(でんわ)を引(ひ)き寄(よ)せ、番号(ばんごう)を押(お)した。
早苗(さなえ)『はい、古河(ふるかわ)です』
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っすけど…」
早苗(さなえ)『朋也(ともや)さん?
こんな早(はや)くにどうしましたか?』
朋也(ともや)「汐(うしお)が昨日(きのう)から熱(ねつ)を出(だ)してて…下(さ)がらないんです」
早苗(さなえ)『それは大変(たいへん)ですね。わかりました。すぐ行(い)きますね』
朋也(ともや)「申(もう)し訳(わけ)ないです」
早苗(さなえ)『いえいえ。では』
迅速(じんそく)に対応(たいおう)してくれた。
仕事(しごと)は遅(おく)れていくことにして、しばらく、看病(かんびょう)に付(つ)き合(あ)う。
ただ、こうしていると胸騒(むなさわ)ぎがした。
早苗(さなえ)さんと俺(おれ)で、熱(ねつ)を出(だ)した汐(うしお)の看病(かんびょう)をする…
その光景(こうけい)は、あの日々(ひび)とそっくりだった。
楽(たの)しいことを目前(もくぜん)にして、倒(たお)れるのだって…。
早苗(さなえ)さんはそれに気(き)づいているのか、いないのか…。
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。仕事(しごと)のほう、遅(おく)れないように行(い)ってください」
俺(おれ)を見(み)て、そう言(い)った。
朋也(ともや)「ええ…そうさせていただきます」
汐(うしお)の手(て)を離(はな)し、立(た)ち上(あ)がる。
朋也(ともや)「もし、熱(あつ)が下(さ)がらなかったら、医者(いしゃ)に診(み)せてください」
早苗(さなえ)「はい、わかりました」
朋也(ともや)「それでは、お願(ねが)いします」
早苗(さなえ)「はい。いってらっしゃい」
仕事(しごと)から戻(もど)ってくると、医者(いしゃ)とオッサンが居(い)た。
俺(おれ)は慌(あわ)てた。
朋也(ともや)「汐(うしお)はっ…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だ。落(お)ち着(つ)け、馬鹿(ばか)っ」
医者(いしゃ)は今(いま)、診察(しんさつ)を終(お)えたところだった。
医者(いしゃ)「同(おな)じですね。渚(なぎさ)さんと」
そう、俺(おれ)たちに告(つ)げた。
それは、風邪(かぜ)ではなく、原因不明(げんいんふめい)の発熱(はつねつ)で…
そして、これからずっと付(つ)きまとう病(やまい)だということだった。
朋也(ともや)「昨日(きのう)まで元気(げんき)だったのに…」
朋也(ともや)「ずっと、元気(げんき)だったのに…」
俺(おれ)は床(ゆか)に膝(ひざ)をつく。
医者(いしゃ)「それでは失礼(しつれい)します」
医師(いし)が部屋(へや)を後(あと)にする。
早苗(さなえ)「ありがとうございました」
見送(みおく)る早苗(さなえ)さんの足(あし)が、視界(しかい)の端(はし)をよぎった。
…何(なに)もかもが、あの時(とき)と状況(じょうきょう)が同(おな)じだった。
これは…運命(うんめい)なのだろうか。
こうして、抗(あらが)いようのない時間(じかん)の流(なが)れの中(なか)で俺(おれ)たちは、翻弄(ほんろう)され続(つづ)けるのだろうか…。
俺(おれ)たちの努力(どりょく)など、意味(いみ)がないのだろうか。
結局(けっきょく)は、なにひとつ…報(むく)われないのだろうか。
秋生(あきお)「おい、朋也(ともや)」
オッサンの声(こえ)がした。
すぐ後(うし)ろにいるのだろう。俺(おれ)は顔(かお)を上(あ)げないままでいた。
秋生(あきお)「そいつの父親(ちちおや)は誰(だれ)だ」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…俺(おれ)です」
秋生(あきお)「なら、おまえはしっかりしていろ」
朋也(ともや)「………」
顔(かお)を上(あ)げた。
そして、現実(げんじつ)を見据(みす)えた。
俺(おれ)は…これまで出会(であ)ってきた父親(ちちおや)たちのように生(い)きられるだろうか。
オッサンは強(つよ)い人(ひと)だった。
渚(なぎさ)を失(うしな)ったのは俺(おれ)だけじゃない。
俺(おれ)の親父(おやじ)も、立派(りっぱ)な父親(ちちおや)だった。
すべてを犠牲(ぎせい)にして、俺(おれ)を育(そだ)て上(あ)げてくれた。
そんな強(つよ)い親(おや)になれるだろうか…。
………。
汐(うしお)の目(め)が俺(おれ)を見(み)ていた。
早苗(さなえ)さんでもなく、オッサンでもなく、俺(おれ)を。
そうだ。
ならなくてはいけないのだ。
そうなるために、あの日(ひ)から生(い)き始(はじ)めたのだから。
予想通(よそうどお)り、汐(うしお)の熱(ねつ)は、一週間(いっしゅうかん)経(た)っても下(さ)がらなかった。
遠(とお)くでどどん、と花火(はなび)の音(おと)がした。
運動会(うんどうかい)決行(けっこう)の合図(あいず)だった。
汐(うしお)「…うんどうかい」
朋也(ともや)「そうだな…」
汐(うしお)「…パパ、はしらないの?」
朋也(ともや)「ああ、走(はし)らない。今日(きょう)は日曜(にちよう)だしな。ずっと、おまえのそばにいるよ」
汐(うしお)「…あっきーは?」
朋也(ともや)「オッサンは走(はし)るかもな」
汐(うしお)「…かってきて」
朋也(ともや)「いや、おまえのそばにいるって」
汐(うしお)「…ちょっとくやしい」
朋也(ともや)「そうか。おまえは、俺(おれ)の味方(みかた)なんだな」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「なら、俺(おれ)もおまえの味方(みかた)だ」
朋也(ともや)「どんなことが起(お)きたって、守(まも)ってやるからな」
汐(うしお)「…うん」
本当(ほんとう)は行(い)ってほしくなかったのだろう。嬉(うれ)しそうに目(め)を閉(と)じた。
朋也(ともや)「眠(ねむ)るか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)。どこにも行(い)かないからな」
汐(うしお)「…うん…」
すぐ、眠(ねむ)りに落(お)ちていった。
本当(ほんとう)に、安心(あんしん)しきった穏(おだ)やかな表情(ひょうじょう)で。
朋也(ともや)「…すみません」
俺(おれ)は深々(ふかぶか)と頭(あたま)を下(さ)げた。
もちろんこれくらいで迷惑(めいわく)が償(つぐな)えるとは思(おも)えなかったが、せずにはいられなかった。
親方(おやかた)「僕(ぼく)としては、岡崎君(おかざきくん)には辞(や)めてほしくないんだけど」
親方(おやかた)「いろいろ事情(じじょう)も有(あ)るみたいだし」
俺(おれ)は仕事(しごと)を辞(や)めることにした。
先(さき)のことはわからない。不安(ふあん)だらけだった。
早苗(さなえ)さんも、必死(ひっし)で止(と)めた。
けど、そうしなければ、駄目(だめ)だと思(おも)った。
汐(うしお)を守(まも)っていくためには。
それを何(なに)かと両立(りょうりつ)していくなんて、そんな簡単(かんたん)なことじゃない。
親父(おやじ)だって、そうだったはずだ。
いろんなものを犠牲(ぎせい)にしていった。
だから俺(おれ)も、固(かた)い決意(けつい)の元(もと)にそうした。
親方(おやかた)「また、近(ちか)くに寄(よ)ったら遊(あそ)びに来(き)てよ」
親方(おやかた)「みんなも待(ま)ってるからさ」
親方(おやかた)は残念(ざんねん)そうに言(い)ってくれた。
それがありがたくて、また痛(いた)かった。
夕方(ゆうがた)、俺(おれ)は私物(しぶつ)を片(かた)づけた。
握(にぎ)り跡(あと)のついた斜(しゃ)ニッパ。
センチ刻(きざ)みをつけたナイフ。何度(なんど)となく研(と)ぎに出(だ)して、二周(にまわ)り小(ちい)さくなっていた。
ジョニーさんにもらったタオル。何回(なんかい)も洗(あら)って、薄(うす)くなっていた。
そして、芳野(よしの)さんにもらった工具袋(こうぐぶくろ)と、傷(きず)だらけのドライバーセット。
使(つか)い慣(な)れた工具(こうぐ)を鞄(かばん)に仕舞(しまい)うと、ハンガーだけが残(のこ)った。
がらんとしたロッカーが目(め)の前(まえ)にある。
朋也(ともや)「…結構(けっこう)広(ひろ)かったんだな」
いつからか、物(もの)が多(おお)くなりロッカーが狭(せま)く感(かん)じていた。
今(いま)までそんなことすら忘(わす)れていたが、俺(おれ)は長(なが)い時(とき)をここで過(す)ごしていたと実感(じっかん)できた。
芳野(よしの)「ん、岡崎(おかざき)か。今日(きょう)までだったな」
現場(げんば)から帰(かえ)ってきたのか、後(うし)ろに芳野(よしの)さんがいた。
芳野(よしの)「今(いま)までご苦労(くろう)だったな」
朋也(ともや)「…いえ、こちらこそ」
芳野(よしの)さんは黙(だま)って、ぽんと肩(かた)を叩(たた)いてくれた。
朋也(ともや)「…今(いま)までありがとうございました」
俺(おれ)は踵(きびす)を返(かえ)して、出(で)ていこうとした。
芳野(よしの)「待(ま)て」
朋也(ともや)「…何(なん)ですか?」
芳野(よしの)「これ、持(も)っていけ。無(な)くすな」
渡(わた)されたのは『よしの』と下手(したて)くそに彫(ほ)られたドライバーだった。
朋也(ともや)「いいんですか?」
芳野(よしの)「いいわけあるか。明日(あした)の仕事(しごと)で困(こま)るだろうが」
芳野(よしの)「それで、だ。おまえのドライバー貸(か)せ」
芳野(よしの)「借(か)りるだけだからな」
芳野(よしの)「戻(もど)ってきたら返(かえ)してやる」
そう言(い)って、芳野(よしの)さんは笑(わら)ってくれた。
長(なが)い間(あいだ)組(く)んできたのに、あまり見(み)ることのなかったあの笑顔(えがお)で。
芳野(よしの)「だから、娘(むすめ)さんが良(よ)くなったら、いつでも戻(もど)ってこい」
芳野(よしの)「それまで借(か)りててやるから」
俺(おれ)は黙(だま)って、鞄(かばん)からドライバーを出(だ)した。
何(なに)かを言(い)えば、言葉(ことば)以外(いがい)のものがこぼれそうだったから。
芳野(よしの)「それじゃ、借(か)りとくぞ」
芳野(よしの)「大事(だいじ)に使(つか)わせてもらうからな」
俺(おれ)は精一杯(せいいっぱい)、頭(あたま)を下(さ)げた。
この数年間(すうねんかん)の感謝(かんしゃ)、すべてを込(こ)めて。
朋也(ともや)「な、汐(うしお)…」
朋也(ともや)「パジャマ、新(あたら)しいのに替(か)えような」
汐(うしお)「…うん」
布団(ふとん)から抜(ぬ)け出(だ)して、起(お)きようとする。
朋也(ともや)「いや、立(た)たなくていいぞ。座(すわ)ったままで」
朋也(ともや)「俺(おれ)が着替(きが)えさせてやるから」
汐(うしお)「…ひとりでできる」
言(い)うことをきかず、立(た)ち上(あ)がろうとする。
でも、熱(ねつ)でふらふらするのだろう。足(あし)がもつれて、倒(たお)れそうになった。
腕(うで)を伸(の)ばして、小(ちい)さな体(からだ)を抱(だ)きかかえる。
それが悔(くや)しいのだろう。涙(なみだ)を浮(う)かべた。
朋也(ともや)「いいんだよ、汐(うしお)…」
朋也(ともや)「今(いま)はひとりでできなくても…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が着替(きが)えさせてやるから…ほら、腕(うで)上(あ)げて…」
朋也(ともや)「ほら…」
穏(おだ)やかだった日常(にちじょう)は…
終(お)わってしまったのだ。
朋也(ともや)「汐(うしお)…欲(ほ)しいものあるか」
朋也(ともや)「あったら言(い)えよ。なんでも買(か)ってきてやるから」
朋也(ともや)「…おもちゃとかさ、お菓子(かし)とか」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…りょこうしたい」
朋也(ともや)「旅行(りょこう)?」
汐(うしお)「…うん」
汐(うしお)「…また、パパとりょこうしたい」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は俯(うつむ)いて、しばらく声(こえ)を出(だ)せずにいた。
汐(うしお)「…なつやすみ…パパとりょこうした」
汐(うしお)「…たのしかったから」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)…」
朋也(ともや)「あんなの楽(たの)しくないだろ…」
朋也(ともや)「ずっと、いがみ合(あ)ってばかりでさ…」
今(いま)の俺(おれ)なら、もっと、汐(うしお)を楽(たの)しませてやれるのに…。
なのに…
なのに、汐(うしお)は…
汐(うしお)「…また、りょこうしたい」
汐(うしお)「…でんしゃにのって…」
汐(うしお)「…パパとふたりで…」
朋也(ともや)「元気(げんき)に…なったらそうしような…」
汐(うしお)「…いま、したい」
汐(うしお)「…いまから…」
朋也(ともや)「な…汐(うしお)…」
朋也(ともや)「無理(むり)言(い)って…パパを困(こま)らせないでくれ…」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)は我(わ)がままな子(こ)じゃない。
なのに、たったひとつの願(ねが)いもきけないなんて…。
朋也(ともや)「そんなのってないよな…」
朋也(ともや)「そんなのって…」
俺(おれ)は…
俺(おれ)たち家族(かぞく)は…
この町(まち)にただ、弄(もちあそ)ばれてるだけじゃないのか…。
悪戯(いたずら)に幸(しあわ)せを与(あた)えられ…
それを簡単(かんたん)に奪(うば)い去(さ)られていく…
それで…あざ笑(わら)っているのだろうか。
俺(おれ)たちが悲(かな)しむ姿(すがた)を見(み)て…
許(ゆる)せない…。
絶対(ぜったい)、こいつだけは救(すく)う…。
こいつだけは…。
俺(おれ)は久々(ひさびさ)に外(そと)に出(で)ていた。
食料(しょくりょう)の買(か)い出(だ)しだった。
汐(うしお)には早苗(さなえ)さんがついてくれている。
早苗(さなえ)さんには恩(おん)を返(かえ)すつもりが、借(か)りばかりが増(ふ)えてしまっている。
申(もう)し訳(わけ)なかった。
秋生(あきお)「よぅ」
オッサンが目(め)の前(まえ)に立(た)っていた。
秋生(あきお)「うまく出会(であ)えてよかった」
秋生(あきお)「さっき電話(でんわ)かけたら、出(で)たって言(い)うからよ」
秋生(あきお)「ほら、とっとけ」
白(しろ)い封筒(ふうとう)をズボンの後(うし)ろポケットから取(と)り出(だ)すと、俺(おれ)に差(さ)し出(だ)した。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「受(う)け取(と)れねぇよ…」
秋生(あきお)「そう強情(ごうじょう)になるな」
朋也(ともや)「いや、そういう意味(いみ)じゃなくて…」
朋也(ともや)「まだ貯金(ちょきん)あるし…」
秋生(あきお)「本当(ほんとう)か?
嘘(うそ)言(い)ってんじゃねぇだろうなぁ。だったら、しばくぞ、こら」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)だって…」
もう残(のこ)り僅(わず)かだったけど…。
秋生(あきお)「男(おとこ)が廃(すた)ろうが、守(まも)らなければならないものがある。違(ちが)うか?」
朋也(ともや)「わかってるよ」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にやばくなったら、言(い)うから」
秋生(あきお)「ちっ…甲斐性(かいしょ)ナシめ」
封筒(ふうとう)をポケットに仕舞(しまい)い直(なお)した。
秋生(あきお)「これから、買(か)い出(だ)しか?」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「荷物持(にもつも)ちぐらいなら、してやらないこともねぇが」
朋也(ともや)「しなくていいよ」
秋生(あきお)「そうかよ…じゃあ、もう用(よう)はなくなった」
朋也(ともや)「ああ、わざわざ…ありがと」
秋生(あきお)「ふん…」
秋生(あきお)「もし、時間(じかん)があるなら、今(いま)から行(い)くか?」
朋也(ともや)「………」
オッサンは目(め)を細(ほそ)めた。
秋生(あきお)「ふたりの秘密(ひみつ)の場所(ばしょ)によ」
また、その場所(ばしょ)には長(なが)いこと訪(おとず)れていなかった。
それはまるで、自分(じぶん)の中(なか)の記憶(きおく)を閉(と)ざすように。
そして、その場所(ばしょ)は…
知(し)らない間(ま)に、色(いろ)んな人(ひと)が行(い)き交(か)う場所(ばしょ)になっていた。
俺(おれ)たちは、ベンチに並(なら)んで腰(こし)かけた。
オッサンは早速(さっそく)新(あたら)しいタバコを取(と)りだして、火(ひ)をつけていた。
秋生(あきお)「吸(す)うか?」
箱(はこ)の中身(なかみ)を差(さ)し出(だ)してくる。
朋也(ともや)「いや、もう、俺(おれ)やめたんで」
秋生(あきお)「そりゃ、賢明(けんめい)だ」
秋生(あきお)「ふぅ…」
細(ほそ)く長(なが)い煙(けむり)を吐(つ)いた。
朋也(ともや)「なぁ…」
秋生(あきお)「ああ」
朋也(ともや)「人(ひと)は、ここにあった自然(しぜん)を犠牲(ぎせい)にして、この病院(びょういん)を建(た)てた…」
朋也(ともや)「次(つぎ)は一体(いったい)何(なに)を、犠牲(ぎせい)にしようとしてるんだろうな…」
秋生(あきお)「そんなものいくらだってあるさ」
秋生(あきお)「おまえだって、毎日(まいにち)、町(まち)の形(かたち)を変(か)えていってんだろ」
朋也(ともや)「ああ…」
曖昧(あいまい)に頷(うなず)くしかできなかった。
秋生(あきお)「山(やま)は切(き)り崩(くず)され続(つづ)けていく」
秋生(あきお)「駐車場(ちゅうしゃじょう)にするんだと」
秋生(あきお)「人(ひと)には便利(べんり)になっていくんだからな…」
秋生(あきお)「そりゃ、喜(よろこ)ばしいこった」
秋生(あきお)「まったくな」
朋也(ともや)「………」
今(いま)も感(かん)じている、この不安(ふあん)…。
大(おお)きな波(なみ)に飲(の)み込(こ)まれ…
愛(あい)する者(もの)と、離(はな)ればなれになってしまうという、不安(ふあん)。
それは、いつだって、町(まち)が変(か)わっていく不安(ふあん)と共(とも)にあった。
──こんな最後(さいご)は嫌(いや)だ…
──この子(こ)を助(たす)けてくれって…
──闇雲(やみくも)に駆(か)けて…
──俺(おれ)は…ここに辿(たど)り着(つ)いていた…
──そして、ここの緑(みどり)が…渚(なぎさ)を包(つつ)み込(こ)んだ気(き)がした…
もしかしたら…
オッサンが、瀕死(ひんし)の渚(なぎさ)をここに連(つ)れてきた時(とき)…
その時(とき)から、渚(なぎさ)はこの町(まち)と繋(つな)がっていたんじゃないのだろうか。
…そして、その子(こ)である、汐(うしお)も。
朋也(ともや)「…町(まち)」
秋生(あきお)「あん?」
朋也(ともや)「町(まち)にとっては…それは苦痛(くつう)なんだろうか…」
秋生(あきお)「町(まち)は、人(ひと)が造(つく)っていくもんだからな」
秋生(あきお)「苦痛(くつう)とか、関係(かんけい)ねぇんじゃねぇかな」
秋生(あきお)「ああ、変(か)わっていくんだ…って、そんな感(かん)じじゃねぇのか」
秋生(あきお)「俺(おれ)だったら、そう思(おも)うがね」
なら、人(ひと)の死(し)でさえも…
俺(おれ)たちは、受(う)け入(い)れなければならないのだろうか。
ああ、何(なに)もかも変(か)わっていくんだなって…。
でも、俺(おれ)たちは人(ひと)だ。
感情(かんじょう)を持(も)った生(い)き物(もの)だ。
悲(かな)しくないよう、大切(たいせつ)なものを失(うしな)わないよう…
必死(ひっし)に抗(あらが)っていく生(い)き物(もの)だ。
秋生(あきお)「そろそろ、戻(もど)るか」
オッサンが立(た)ち上(あ)がっていた。
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
病院(びょういん)の玄関(げんかん)では、看護婦(かんごふ)たちが整列(せいれつ)していた。
何事(なにごと)かとじっと見(み)ている。
すると玄関(げんかん)から、親(おや)に連(つ)れ添(そ)われて、ひとりの少女(しょうじょ)が出(で)てきた。
看護婦(かんごふ)たちは、その少女(しょうじょ)に花束(はなたば)を手渡(てわた)していた。
秋生(あきお)「ふん…」
オッサンはその風景(ふうけい)から、目(め)を逸(そ)らす。
そして、タバコを備(そな)えつけの灰皿(はいざら)でもみ消(け)すと…
秋生(あきお)「…この町(まち)と、住人(じゅうにん)に幸(さち)あれ」
そう言(い)い残(のこ)して、歩(ある)き始(はじ)めた。
冬(ふゆ)が来(き)た。
凍(い)てつくような冷(つめ)たい空気(くうき)。
カーテンを開(ひら)いて、窓(まど)の外(そと)を見(み)る。
俺(おれ)は、はっと息(いき)を呑(の)んだ。
一瞬(いっしゅん)…すべてが白(しろ)い雪(ゆき)に埋(う)め尽(つ)くされているように見(み)えたのだ。
建物(たてもの)さえもなく…
どこまでも、どこまでも延(の)びる雪原(せつげん)が見(み)えたのだ。
でも、それは気(き)のせいだった。
何年(なんねん)も、この町(まち)には雪(ゆき)が積(つ)もっていない。
降(ふ)っても、すぐ解(と)けて水(みず)になり、地面(じめん)を濡(ぬ)らすだけだった。
部屋(へや)に目(め)を戻(もど)すと、汐(うしお)が寝(ね)ているだけ。
他(ほか)には何(なに)もない。
汐(うしお)と、俺(おれ)の生活(せいかつ)があるだけだった。
長(なが)い長(なが)い闘病生活(とうびょうせいかつ)が。
俺(おれ)は、ずっとそばにいた。
貯金(ちょきん)はもう尽(つ)きていた。
これからどうするか、当(あ)ても何(なに)もなかった。
俺(おれ)と汐(うしお)はどうなっていくのだろうか。
汐(うしお)の額(ひたい)に手(て)を載(の)せる。
朋也(ともや)(………)
この三日(みっか)、高熱(こうねつ)が続(つづ)いていた。
さらに、朝(あさ)から熱(ねつ)は上(あ)がっていた。
苦(くる)しいに違(ちが)いなかった。
朋也(ともや)(汐(うしお)…)
その手(て)を取(と)る。
………。
汐(うしお)が薄(うす)く目(め)を開(ひら)いてこっちを見(み)た。
朋也(ともや)「な…汐(うしお)」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「もう一度(いちど)、旅行(りょこう)にいこうか…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「今度(こんど)はさ…仲良(なかよ)くふたりでさ…」
朋也(ともや)「遠(とお)い場所(ばしょ)までいこう…」
朋也(ともや)「な…」
汐(うしお)「…うん」
頷(うなず)いてくれた。
よかった。
俺(おれ)はその小(ちい)さな体(からだ)を起(お)こして、着替(きが)えさせた。
朋也(ともや)「汐(うしお)…負(お)ぶってやるから、ほら」
俺(おれ)はしゃがんで、背(せ)を汐(うしお)に向(む)けた。
汐(うしお)「…ひとりであるく」
朋也(ともや)「いや、いいんだよ…汐(うしお)」
朋也(ともや)「パパが負(お)ぶってやるから、な」
汐(うしお)「…ううん」
汐(うしお)「…じぶんであるく」
汐(うしお)「…パパといっしょにあるく」
朋也(ともや)「そうか…」
汐(うしお)は…自分(じぶん)の足(あし)でどこまでいけるだろうか。
胸(むね)が痛(いた)んだ。
けど…俺(おれ)は、それ以上(いじょう)、きつく言(い)うことはできなかった。
朋也(ともや)「出(で)かけよう、汐(うしお)」
汐(うしお)「…おーっ」
夏(なつ)の日(ひ)のように、かけ声(ごえ)をあげて、歩(ある)き出(だ)す汐(うしお)。
見(み)ていて、心許(こころばか)ない。
手(て)を繋(つな)いで、それを支(ささ)えた。
ん?と見上(みあ)げる汐(うしお)。
すぐ、安心(あんしん)した顔(がお)になった。
歩(あゆ)みはゆっくりだったけど…
俺(おれ)たちは歩(ある)き続(つづ)けた。
駅(えき)につけば、後(あと)は、眠(ねむ)っていても、どこまででも連(つ)れていってくれる。
そこまでは、自分(じぶん)たちの足(あし)で。
汐(うしお)「…あ」
汐(うしお)が立(た)ち止(ど)まった。
朋也(ともや)「どうした」
空(そら)を見(み)ていた。
その額(ひたい)に、白(しろ)い雪(ゆき)。
俺(おれ)も空(そら)を見上(みあ)げる。
ちらちらと、雪(ゆき)が降(ふ)っていた。
久(ひさ)しぶりに見(み)る雪(ゆき)だった。
けど…どうしてか…
それが、悲(かな)しく見(み)える。
朋也(ともや)「行(い)こう、汐(うしお)…」
朋也(ともや)「本降(ほんぶ)りにならないうちに」
汐(うしお)「…うん」
また、歩(ある)き出(だ)した。
はぁ…はぁ…
真(ま)っ白(しろ)い息(いき)を吐(は)き続(つづ)ける汐(うしお)。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「少(すこ)し休(やす)もうな…」
汐(うしお)「…ううん」
汐(うしお)「…いく」
歩(ある)き続(つづ)けて…
俺(おれ)たちは、歩(ある)き続(つづ)けて…
でも、駅(えき)は遠(とお)くて…
汐(うしお)の手(て)を握(にぎ)る力(ちから)が、ふっと弱(よわ)まる。
俺(おれ)は慌(あわ)てて、その体(からだ)を抱(だ)き留(と)めた…。
汐(うしお)はそのまま俺(おれ)の腕(うで)に体(からだ)を預(あず)けた。
朋也(ともや)「汐(うしお)っ…!」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)は目(め)を閉(と)じて…苦(くる)しそうに白(しろ)い息(いき)を吐(は)き続(つづ)けていた。
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
朋也(ともや)「………」
もう俺(おれ)は歩(ある)くことができなかった。
ただ、汐(うしお)の熱(あつ)く火照(ほて)った体(からだ)を抱(だ)いて、小(ちい)さくうずくまっているだけだった。
もう、俺(おれ)たちはどこにも行(い)けない。
もう、失(うしな)われるかもしれない命(いのち)を…
降(ふ)る雪(ゆき)から守(まも)るように抱(だ)いて…
ただ、道(みち)の真(ま)ん中(なか)で、うずくまっているだけ…。
俺(おれ)は…一体(いったい)どうしようというのだろう…
こんな場所(ばしょ)で俺(おれ)は…何(なに)をしているのだろう…
あの花畑(はなばたけ)は遠(とお)く、届(とど)かない…。
そこで、はしゃいで遊(あそ)ぶ汐(うしお)の姿(すがた)まで、届(とど)かない…。
今度(こんど)こそは、一緒(いっしょ)に遊(あそ)ぼうとしていたのに…
あの夏(なつ)の日(ひ)よりも…
俺(おれ)たちは、仲良(なかよ)く遊(あそ)べるはずだったのに…
だって、俺(おれ)たちはもう…親子(おやこ)だったから。
ふたりで、生(い)きていたから。
なのに…
それなのに…
汐(うしお)「…パパ」
いつの間(ま)にか、汐(うしお)が目(め)を覚(さ)ましていた。
苦(くる)しげに、俺(おれ)の顔(かお)を見上(みあ)げていた。
朋也(ともや)「どうした…」
汐(うしお)「…いま、どこ」
朋也(ともや)「………」
汐(うしお)「…もう、れっしゃのなか…?」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「あ…ああ」
朋也(ともや)「もう列車(れっしゃ)の中(なか)だ…」
汐(うしお)「…そ」
朋也(ともや)「………」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…パパ」
朋也(ともや)「なんだ…」
汐(うしお)「…だいすき…」
朋也(ともや)「………」
涙(なみだ)が溢(あふ)れて…止(と)めることができなかった。
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「パパもだ…」
………。
しんしんと雪(ゆき)は降(ふ)り続(つづ)けた。
永遠(えいえん)の時(とき)を、刻(きざ)み続(つづ)けた。
指先(ゆびさき)から感覚(かんかく)が消(き)え…
視界(しかい)が閉(と)ざされていく…
町(まち)が消(き)えていく…。
それは幻想的(げんそうてき)な光景(こうけい)で…
自分(じぶん)がどこにいるのかも、わからなくなって…
………
[/wrap]
seagull - 2009/8/11 10:43:00
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幻想世界XII,0,]


一面(いちめん)、白(しろ)い世界(せかい)…
………
雪(ゆき)…
そう、雪(ゆき)だ。
今(いま)なお、それは降(ふ)り続(つづ)け、僕(ぼく)の体(からだ)を白(しろ)く覆(おお)っていく。
ああ…
僕(ぼく)はこんなところで何(なに)をしているのだろう…。
いつからこんなところに、ひとりぼっちで居(い)るのだろう…。
………。
雪(ゆき)に埋(う)もれた…僕(ぼく)の手(て)。
それが、何(なに)かを掴(つか)んでいた。
引(ひ)き上(あ)げる。
真(ま)っ白(しろ)な手(て)。
女(おんな)の子(こ)の手(て)だった。
ああ、そうだった…。
僕(ぼく)はひとりきりじゃなかった。
彼女(かのじょ)の顔(かお)を覆(おお)う雪(ゆき)を払(はら)う。
穏(おだ)やかに眠(ねむ)る横顔(よこがお)が、現(あらわ)れた。
この子(こ)とふたりで…ずっと居(い)たのだ。
この世界(せかい)で。
この、誰(だれ)もいない、もの悲(かな)しい世界(せかい)で。
そして、ふたりきりで…
ここまで歩(ある)いてきたのだ。
この世界(せかい)から、抜(ぬ)け出(だ)すため。
あの日(ひ)から。
ずっと、歩(ある)いて…
彼女(かのじょ)は不自由(ふじゆう)な体(からだ)にむち打(う)って…
歩(ある)いて、歩(ある)いて…
もう、戻(もど)れない場所(ばしょ)まできて…
雪(ゆき)に足(あし)が埋(う)まっても…
僕(ぼく)の体(からだ)が埋(う)まっても…
ふたりで助(たす)け合(あ)って…
先(さき)を目指(めざ)して…
歩(ある)いてきた。
そして、僕(ぼく)らは…
ここで力(ちから)つきた。
彼女(かのじょ)は、もう一歩(いっぽ)も動(うご)けなかった。
彼女(かのじょ)の体(からだ)を支(ささ)えてきた僕(ぼく)の体(からだ)も、もうボロボロだった。
体(からだ)の半分(はんぶん)を雪(ゆき)に埋(う)めていた。
僕(ぼく)の小(ちい)さな体(からだ)では、彼女(かのじょ)を担(かつ)ぐこともできなかった。
彼女(かのじょ)の頬(ほお)に手(て)を当(あ)てる。
温(あたた)かいと思(おも)えたのは、そう記憶(きおく)しているからなのか。
僕(ぼく)の手(て)と同(おな)じ…冷(ひ)えきっているはずだった。
こんなことになるなら、連(つ)れてこなければよかった…。
僕(ぼく)はただ、彼女(かのじょ)を苦(くる)しめただけだ…。
もう、どこにも行(い)けないのだろうか、僕(ぼく)らは…。
ここで、ずっと眠(ねむ)り続(つづ)けるのだろうか、僕(ぼく)らは。
終(お)わり続(つづ)ける世界(せかい)で。
…ね…
吹雪(ふぶき)の中(なか)で声(こえ)がした。
彼女(かのじょ)の声(こえ)だった。
でも、彼女(かのじょ)は目(め)を閉(と)じたままだった。
…きみは…そこにいる…?
もちろん。
僕(ぼく)はいつまでも、きみのそばにいる。
…ありがとう…。
え…?
…きみの声(こえ)、やっと聞(き)けたね。
どうして?
…わたしはもうすぐ人(ひと)じゃなくなるから。
…だから、きみの心(こころ)の声(こえ)も聞(き)こえる。
どういう意味(いみ)?
…いろいろなことがわかったの。
…知(し)らなかったこと、たくさん。
そうなんだ…。
でも、これでお話(はなし)ができる。
たくさんできるね。
…うん。
…でもね、もう時間(じかん)がないの。
…話(はなし)を聞(き)いてほしいの。
…聞(き)いてくれる?
もちろん…。
…わたしも…昔(むかし)は遠(とお)い世界(せかい)にいた…。
…きみが居(い)た世界(せかい)と同(おな)じ世界(せかい)に。
本当(ほんとう)?
…うん…
じゃあ、やっぱりこの世界(せかい)に居(い)るべきじゃなかったんだ…。
帰(かえ)ろう。
…ごめんね、わたしは…
…ここに残(のこ)らなければいけないの…
どうして?
…わたしはね…
…この世界(せかい)だった。
………。
…わたしは、このまま動(うご)けなくなって…
…人(ひと)の形(かたち)を失(うしな)う…
…そして、この世界(せかい)の意志(いし)になる…
………。
…だから、ここに残(のこ)らないといけないの…
そんなこと…誰(だれ)が決(き)めたのさ…。
…わたし…
…これは、わたしが決(き)めたこと…
…わたしは初(はじ)めから、ここから生(う)まれた命(いのち)だったから…
…だから、死(し)ぬことより、この世界(せかい)の意志(いし)になることを選(えら)んだ…
わからないよ…なに言(い)ってるのか。
だって、約束(やくそく)したよ…僕(ぼく)とふたりで、この世界(せかい)を出(で)るって。
…うん…まだ、あの時(とき)は何(なに)もしらなかったから…
…ごめんね…
…今(いま)はもう、いろんなことがわかるの…
…もう、この世界(せかい)とつながりはじめてるから…
…だから、体(からだ)はもう動(うご)かないけど…こうして、きみとも話(はなし)ができる…
苦(くる)しくないの?
…うん、もう大丈夫(だいじょうぶ)…
…だから、話(はなし)を聞(き)いて…
うん…聞(き)くよ…。
…わたしがここからいなくなれば、この世界(せかい)はなくなってしまうの…
…そうすれば、たくさんの光(ひかり)たちがきっと不幸(ふこう)になる…
光(ひかり)?
…きみもね、元(もと)はあの光(ひかり)のひとつだったんだ…
僕(ぼく)が?
…うん。それは向(む)こうの世界(せかい)の住人(じゅうにん)たちの思(おも)い…
向(む)こうの世界(せかい)って?
…一番(いちばん)遠(とお)くて、一番(いちばん)近(ちか)い世界(せかい)。
…ずっと、そばにあった。わたしたちは、ずっとそこにいたんだよ。
…同(おな)じ場所(ばしょ)にいたの。
…ただ、見(み)え方(かた)が違(ちが)うだけ。
…ここは、人(ひと)の世界(せかい)じゃないから…
君(きみ)は人(ひと)だよ…。
…ううん…わたしは、人(ひと)でないものに移(うつ)り変(か)わりはじめた…
…それは、ここに来(き)た時(とき)から。
なんだっていうんだよ…
…この世界(せかい)。
世界(せかい)?
じゃ、この世界(せかい)は一体(いったい)なに?
…それは、わたしにはわからない…
…でも、きみならわかるんじゃないかな…
…きみは、ふたつの世界(せかい)に存在(そんざい)してるから…
…光(ひかり)たちとわたしとは、住(す)む世界(せかい)が違(ちが)うから、お互(たが)いの存在(そんざい)には気(き)づけないはずだった…
…でも、きみだけは、わたしに気(き)づいてくれた…
…ずっと、どこにも行(い)かずに、わたしのことを見(み)ていてくれた…
…だから、わたしはきみの体(からだ)を作(つく)って…そこに宿(やど)した…
…世界(せかい)という距離(きょり)を越(こ)えて、わたしたちは出会(であ)うことができた…
…最後(さいご)の…人(ひと)としての心(こころ)を持(も)っている時間(じかん)を…わたしは寂(さび)しい思(おも)いをせずに過(す)ごすことができた…
………。
…きみのおかげだよ…
…わたしはそれだけでじゅうぶん…
…じゅうぶん幸(しあわ)せだった…
………
…だから今度(こんど)は、違(ちが)う誰(だれ)かを助(たす)けてあげる番(ばん)…
………。
…いい?
…きみは今(いま)から、この世界(せかい)での意識(いしき)を閉(と)じるの…
…そうしてこの世界(せかい)から去(さ)るの…
…そして…向(む)こうの世界(せかい)で、いろんな物事(ものごと)が始(はじ)まる前(まえ)の…大切(たいせつ)な日(ひ)に目覚(めざ)めるの…
…ここは、その日(ひ)がある場所(ばしょ)なの…
…そこが、長(なが)い旅(たび)の果(は)てに、辿(たど)り着(つ)いた場所(ばしょ)なんだよ…
…でも、ここでの記憶(きおく)は何(なに)ひとつ持(も)っていけない…
…だから、またすべては同(おな)じ結果(けっか)になってしまうかもしれない…
…けど、もし…助(たす)けたい人(ひと)がいるなら…
…向(む)こうの世界(せかい)で光(ひかり)を探(さが)して…
光(ひかり)…?
…そう、光(ひかり)。
…向(む)こうの世界(せかい)に生(い)きるたくさんの人(ひと)の思(おも)いが、この世界(せかい)では光(ひかり)として見(み)えるように…
…向(む)こうの世界(せかい)では、わたしの思(おも)いが光(ひかり)として見(み)えるはずだよ…
…わたしの思(おも)いは、世界(せかい)の心(こころ)…
…たくさんの光(ひかり)たちの幸(しあわ)せを願(ねが)う、心(こころ)…
…もし、大切(たいせつ)な人(ひと)が不幸(ふこう)になるなら…
…それで、助(たす)けてあげてほしいの…
嫌(いや)だ…
僕(ぼく)は君(きみ)を助(たす)けたいんだよ…。
…大丈夫(だいじょうぶ)。わたしは…
君(きみ)を置(お)いていくなんて、できるはずない…
この世界(せかい)は…寂(さび)しすぎるから…
こんなに寒(さむ)くて…凍(こご)えそうで…
僕(ぼく)がいなくなったら、君(きみ)はまたひとりで…
この終(お)わり続(つづ)ける世界(せかい)で…
ずっとひとりで…
…それは、わたしが望(のぞ)んだことだから…
…わたしは、見守(みまも)っていく…
…ここから、ずっと…
…永遠(えいえん)に…
嫌(いや)だ…
………。
そんなの嫌(いや)だ…
………。
風(かぜ)の中(なか)、音(おと)が聞(き)こえてきた。
それは、僕(ぼく)に遠(とお)い世界(せかい)のことを思(おも)い出(だ)させた。
遠(とお)い春(はる)の日(ひ)の思(おも)い出(で)。
穏(おだ)やかで、優(やさ)しい陽(ひ)だまりの中(なか)で、歌(うた)った唄(うた)があった。
短(みじか)い時間(じかん)の中(なか)で…
小(ちい)さな家族(かぞく)で歌(うた)った唄(ばい)があった。
彼女(かのじょ)の口(くち)が小(ちい)さく動(うご)いていた。
その唄(うた)を歌(うた)っていた。
…だんごっ…だんごっ…
小(ちい)さい命(いのち)に、ずっと聞(き)かせていた歌(うた)。
僕(ぼく)も歌(うた)った。
ふたりで歌(うた)った。
歌(うた)い続(つづ)けた。
彼女(かのじょ)が笑(わら)う。
僕(ぼく)も笑(わら)う。
ずっと…
ずっと、こうしていられればいいのに。
一際(ひときわ)強(つよ)い風(かぜ)が、僕(ぼく)らを薙(な)いだ。
僕(ぼく)の体(からだ)が…ばらばらに砕(くだ)けた。
その中(なか)で、僕(ぼく)は彼女(かのじょ)の手(て)を求(もと)めた。
ずっと、つないでいたかった。
彼女(かのじょ)が僕(ぼく)を見(み)て叫(さけ)ぶ。
…さようなら…
…パパっ…
[/wrap]
seagull - 2009/8/15 13:49:00
仕方がない
朋也(ともや)「仕方(しかた)がない…」
渚(なぎさ)「お願(ねが)いできますかっ」
朋也(ともや)「ああ…おまえの気持(きも)ちもわかるしな」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
大柄(おおがら)な男(おとこ)が、公園(こうえん)の鉄棒(てつぼう)にもたれて、タバコをふかしていた。
朋也(ともや)「あれ、オッサンじゃん」
渚(なぎさ)「はい、お父(とう)さんです」
朋也(ともや)「また、さぼってやがる」
俺(おれ)たちは公園(こうえん)に寄(よ)り道(みち)をすることになる。
朋也(ともや)「オッサンっ」
秋生(あきお)「おう」
秋生(あきお)「なんだ、てめぇらか」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、ただいまです」
秋生(あきお)「ああ、おかえり」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、これ、見(み)てください」
渚(なぎさ)「わたしが作(つく)ってきました。煮染(にしめ)めです。お父(とう)さん、食(た)べてくれますか」
秋生(あきお)「ああ、一気(いっき)食(く)いしてやるさ」
渚(なぎさ)「そんな食(た)べ方(かた)したらダメです。味(あじ)わって食(た)べてほしいです」
秋生(あきお)「ああ、任(まか)せておけ」
渚(なぎさ)「それとですね、とてもいいお話(はなし)があります」
秋生(あきお)「ほぅ、なんだ。おまえが家(いえ)に戻(もど)ってくるのか。そりゃ朗報(ろうほう)だ」
渚(なぎさ)「戻(もど)らないですっ、朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に居(い)たいですっ」
秋生(あきお)「ちっ、わかってるよ、わざわざ口(くち)に出(だ)して一緒(いっしょ)に居(い)たいなんて言(い)うな。こいつがにやにやしてるだろっ」
渚(なぎさ)が俺(おれ)の顔(かお)を見(み)る。
渚(なぎさ)「別(べつ)に、にやにやしてないです」
秋生(あきお)「今(いま)、サッと真顔(まがお)に戻(もど)りやがった。こいつ、むっつりスケベだ」
渚(なぎさ)「むっつりってなんですか。わからないです」
秋生(あきお)「むちゃくちゃスケベなのに、普段(ふだん)は押(お)し隠(かく)してる奴(やつ)のことだよ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、そんなんじゃないです」
渚(なぎさ)「我慢(がまん)させてしまったりして…わたしのほうが申(もう)し訳(わけ)なく思(おも)っています」
…そんなこと、親(おや)の前(まえ)で言(い)うな。
いつものように本題(ほんだい)に入(い)るには、時間(じかん)がかかりそうだった。
古河(ふるかわ)パンの店先(みせさき)に視線(しせん)を移(うつ)すと、ちょうど早苗(さなえ)さんが出(で)てきて、俺(おれ)たちを見(み)つけたところだった。
俺(おれ)に笑(わら)いかけてから、近(ちか)づいてくる。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「こんにちは、朋也(ともや)さん」
渚(なぎさ)「あ、お母(かあ)さんです。ただいまです」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんっ」
渚(なぎさ)に笑顔(えがお)で挨拶(あいさつ)してから、オッサンを可愛(かわい)く睨(にら)みつけた。
秋生(あきお)「よぅ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、ダメですよ」
早苗(さなえ)「いつだって秋生(あきお)さんは、すぐ居(い)なくなってしまうんですから」
やっぱりさぼっていたのだ。
秋生(あきお)「あ、ああ…」
秋生(あきお)「客(きゃく)も来(こ)なくて退屈(たいくつ)だったんだ、わりぃな」
朋也(ともや)(言(い)い訳(わけ)になってねぇよ…)
早苗(さなえ)「退屈(たいくつ)だったんですか…なら、仕方(しかた)がないですね」
朋也(ともや)(なってる!?)
秋生(あきお)「ああ、今度(こんど)からは退屈(たいくつ)しねぇように遊(あそ)ぶもの持(も)って、店番(みせばん)してるよ」
早苗(さなえ)「お願(ねが)いしますね」
ああ、俺(おれ)はこんな子供(こども)みたいな人(ひと)の代(か)わりに、休(やす)み返上(へんじょう)でパンを焼(や)かなければいけないのか…。
渚(なぎさ)「というわけで、朋也(ともや)くんがお父(とう)さんの代(か)わりに土曜(どよう)と日曜(にちよう)は、パンを焼(や)いてくれます」
秋生(あきお)「お、ラッキー。じゃ、俺(おれ)は昼(ひる)までゆっくり寝(ね)てるな」
渚(なぎさ)「違(ちが)いますっ、演劇(えんげき)、見(み)に行(い)ってきてくださいっ」
秋生(あきお)「演劇(えんげき)ぃ?」
渚(なぎさ)「そうです。お友達(ともだち)が、旗揚(はたあ)げ公演(こうえん)するから来(き)てくださいっ、て招待状(しょうたいじょう)届(とど)いてました」
秋生(あきお)「ちっ…んなこと、誰(だれ)から聞(き)いたんだよっ」
早苗(さなえ)「わたしですっ」
早苗(さなえ)さんは実(じつ)に正直者(しょうじきもの)だった。
朋也(ともや)「行(い)ってきてくれよ。パンはぜんぶ俺(おれ)が焼(や)くからさ」
秋生(あきお)「てめぇなっ…簡単(かんたん)に素人(しろうと)に任(まか)せられるような仕事(しごと)じゃねぇんだよっ!!」
朋也(ともや)「あんたさっき、お、ラッキー、とか言(い)ってたじゃないか」
秋生(あきお)「…うっせぇ、さっきのは冗談(じょうだん)だっ」
やっぱりだ…。
渚(なぎさ)の前(まえ)では、演劇(えんげき)のことにできるだけ触(ふ)れないようにしている。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、お願(ねが)いです、行(い)ってきてくださいっ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、意地(いじ)を張(は)らないで行(い)ってきてください」
朋也(ともや)「そうだよ、行(い)ってこいよ」
秋生(あきお)「てめぇは、黙(だま)れ」
…なんで、俺(おれ)だけ。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、自然(しぜん)に振(ふ)る舞(ま)ってほしいです」
渚(なぎさ)「このことだけは、気(き)を使(つか)ってます」
渚(なぎさ)「…わたしに対(たい)して」
秋生(あきお)「………」
早苗(さなえ)「あの、わたし、お茶入(ちゃい)れてきますね」
早苗(さなえ)さんが席(せき)を立(た)つ。
朋也(ともや)「あ、俺(おれ)、トイレ借(か)りるっすね」
俺(おれ)もタイミングを合(あ)わせて、その場(ば)を立(た)ち去(さ)ることにする。

[wrap=

秋生,0,]


戻(もど)ってくると、早苗(さなえ)さんがお茶(ちゃ)をレジ台(だい)に並(なら)べているところだった。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも、どうぞ」
朋也(ともや)「あ、はい。いただきます」
オッサンは、渋(しぶ)い顔(かお)でタバコをふかしていた。
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、早(はや)く言(い)ってください」
秋生(あきお)「ふぅーっ…」
一際(ひときわ)長(なが)く煙(けむり)を吐(は)き出(だ)した後(あと)…
秋生(あきお)「行(い)って参(まい)ります」
そう告(つ)げた。
早苗(さなえ)「そうですかっ、お店(みせ)のほうはわたしたちに任(まか)せておいてください」
秋生(あきお)「ああ…」
渚(なぎさ)「よかったですっ」
どんな説得(せっとく)をしたのかはしらないが、愛娘(まなむすめ)に諭(さと)されてはオッサンもむげに拒(こば)み続(つづ)けるわけにもいかなかったか。
一週間(いっしゅうかん)が経(た)ち、オッサンが発(た)つ土曜(どよう)の朝(あさ)を迎(むか)える。
秋生(あきお)「売(う)り物(もの)じゃなくするんじゃねぇぞ」
朋也(ともや)「ああ」
秋生(あきお)「後(あと)、怪我(けが)もすんな」
朋也(ともや)「ああ」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ、秋生(あきお)さんっ。わたしがついていますからっ」
秋生(あきお)「………」
秋生(あきお)「……」
秋生(あきお)「ああ…」
秋生(あきお)「…任(まか)せた」
早苗(さなえ)「はいっ」
任(まか)せるのにかなり時間(じかん)がかかった。
秋生(あきお)「じゃあ、いってくる」
早苗(さなえ)「はい、いってらっしゃい」
渚(なぎさ)「お父(とう)さん、いってらっしゃいです」
秋生(あきお)「………」
しばらく俺(おれ)たちの顔(かお)を見(み)ていたが、意(い)を決(けっ)したように目(め)を瞑(つぶ)ると、その場(ば)を立(た)ち去(さ)った。
渚(なぎさ)「それでは、時間(じかん)がないですので、早速(さっそく)とりかかりましょう」
早苗(さなえ)「そうですねっ」
それからは、休(やす)みなく三人(さんにん)でパンを焼(や)き続(つづ)けた。
開店時間(かいてんじかん)になると、渚(なぎさ)がひとりで店番(みせばん)に立(た)つ。
さらに早苗(さなえ)さんとふたりで、厨房(ちゅうぼう)で仕事(しごと)を続(つづ)ける。
早苗(さなえ)「ラストです」
朋也(ともや)「了解(りょうかい)」
最後(さいご)の陣(じん)を載(の)せた鉄板(てっぱん)をオーブンに押(お)し込(こ)む。
早苗(さなえ)「それでは、わたしも店(みせ)のほうに出(で)ますので、朋也(ともや)さんはしばらく休(やす)んでいてください」
朋也(ともや)「後(あと)で渚(なぎさ)と入(い)れ代(か)わりますね」
早苗(さなえ)「はい、お願(ねが)いしますね」
焼(や)き上(あ)がったパンを載(の)せたトレイを手(て)に、早苗(さなえ)さんが出(で)ていった。
朋也(ともや)(マジ疲(つか)れた…)
普段(ふだん)から肉体労働(にくたいろうどう)をしているのに、無様(ぶざま)なものだった。
初(はじ)めての作業(さぎょう)で、いつも以上(いじょう)に神経(しんけい)を使(つか)ったからだろうか。
朋也(ともや)(遠慮(えんりょ)なく休(やす)ませてもらおう…)
俺(おれ)も厨房(ちゅうぼう)を後(あと)に、居間(いま)へと居場所(いばしょ)を移(うつ)した。
エプロンを外(はず)し、横(よこ)になる。
………。
……。
…。
朋也(ともや)くん…
………。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
呼(よ)ぶ声(こえ)に目覚(めざ)める。
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「どうした…」
渚(なぎさ)「わたし、そろそろ出(で)ますので、朋也(ともや)くん、後(あと)、お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「ああ、もう、そんな時間(じかん)か…」
朋也(ともや)「おまえ、朝飯(あさめし)食(く)ったのか?」
渚(なぎさ)「時間(じかん)なかったです…」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「はい、お昼(ひる)まで我慢(がまん)します」
朋也(ともや)「昼(ひる)はちゃんと、ゆっくり食(く)えよな」
渚(なぎさ)「はい、そうさせてもらいます」
渚(なぎさ)「それでは、いってきます」
忙(いそが)しく、出(で)ていった。
朋也(ともや)(俺(おれ)も、戻(もど)らないと…)
早苗(さなえ)「また来(き)てくださいね」
早苗(さなえ)さんが入(い)り口(ぐち)まで出(で)て、客(きゃく)を見送(みおく)っていた。
店内(てんない)に客(きゃく)の姿(すがた)はない。
ちょうど、客足(きゃくあし)が途切(とぎ)れたところのようだった。
早苗(さなえ)「あ、朋也(ともや)さん」
朋也(ともや)「今(いま)、渚(なぎさ)と代(か)わりました」
早苗(さなえ)「はい。お願(ねが)いしますね」
朋也(ともや)「でも、この時間(じかん)からだと、店番(みせばん)ひとりでいいかもしれないですね」
早苗(さなえ)「そうですね」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、休(やす)んでいてもらっても結構(けっこう)ですよ」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)じゃなくて、休(やす)むのは早苗(さなえ)さん」
朋也(ともや)「ずっと、朝早(あさはや)くから動(うご)きっぱなしだったでしょ」
早苗(さなえ)「わたしはぜんぜん平気(へいき)ですよ。お客(きゃく)さんとお話(はなし)できますし、楽(たの)しいです」
朋也(ともや)「そうですか…」
言(い)ってもきかないようだった。
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)も仲間(なかま)に入(い)れてください」
早苗(さなえ)「入(はい)りたいですか?」
朋也(ともや)「入(はい)りたいですね」
早苗(さなえ)「じゃ、入(い)れちゃいますね」
朋也(ともや)「ありがとうございます」
そう言(い)ってから、ふたりで笑(わら)い合(あ)う。
朋也(ともや)「でも、ほんと、オッサンが羨(うらや)ましいっすよ」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんと一緒(いっしょ)に働(はたら)けて」
早苗(さなえ)「そうですか?」
朋也(ともや)「こうして毎日(まいにち)笑(わら)い合(あ)えるんですからね」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんの職場(しょくば)は、笑(わら)い合(あ)えないんですか?」
朋也(ともや)「そりゃたまに休憩中(きゅうけいちゅう)には笑(わら)うようなことはあるけど…」
朋也(ともや)「でも、仕事中(しごとちゅう)に歯(は)なんて見(み)せて笑(わら)ってたら、頭(あたま)どつかれますよ」
早苗(さなえ)「それは大変(たいへん)ですね」
朋也(ともや)「まぁ、普通(ふつう)男(おとこ)の仕事(しごと)って言(い)ったら、そんなもんでしょ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんは、毎日(まいにち)大笑(おおわら)いしてますよ」
朋也(ともや)「でしょうね…」
朋也(ともや)「そうやって、笑(わら)ってられるのも、全部(ぜんぶ)早苗(さなえ)さんのおかげだっていうのに」
早苗(さなえ)「いうのに、なんですか?」
朋也(ともや)「仕事(しごと)、さぼってばっか」
早苗(さなえ)「そうですね。いつもどこかに行(い)っちゃいますね」
朋也(ともや)「なんで、そんなことできるかね、あの人(ひと)は…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに、全部(ぜんぶ)押(お)しつけてさ」
早苗(さなえ)「それほどわたしは気(き)にしてませんよ」
朋也(ともや)「だとしてもです」
朋也(ともや)「俺(おれ)だったら、ちゃんとそばに居(い)ますよ」
早苗(さなえ)「はい、ではそばに居(い)てくださいねっ」
朋也(ともや)「ええ、任(まか)せてくださいっ」
って…あれ?
なんか…
朋也(ともや)(告白(こくはく)してるみたいじゃんか、俺(おれ)っ!)
朋也(ともや)(しかも…)
──はい、ではそばに居(い)てくださいねっ。
朋也(ともや)(OKなんすか、早苗(さなえ)さんっ…)
早苗(さなえ)「……?」
朋也(ともや)(ああ、何(なに)考(かんが)えてんだ、俺(おれ)は…)
早苗(さなえ)「どうしましたか?」
でも、こうやって至近距離(しきんきょり)で見(み)つめられていると…。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「はいっ、なんでしょう」
朋也(ともや)「………」
ぐぅ~…。
早苗(さなえ)「そうですね、お腹空(なかす)きましたねっ」
早苗(さなえ)「それでは、お昼(ひる)ご飯(はん)の用意(ようい)をしてきますので、お店(みせ)のほう、お任(まか)せしてよろしいですか」
朋也(ともや)「え、ええ…」
早苗(さなえ)さんを見送(みおく)った後(あと)、俺(おれ)は深(ふか)く息(いき)をつく。
朋也(ともや)(ああ、俺(おれ)は早苗(さなえ)さんが好(す)きだよ)
朋也(ともや)(でも、それは家族(かぞく)としてだ)
朋也(ともや)(渚(なぎさ)に対(たい)する愛情(あいじょう)とは別(べつ)もんだ)
朋也(ともや)(ああ、そうだ…)
朋也(ともや)(そうに決(き)まってる…)
朋也(ともや)(当然(とうぜん)さ…)
朋也(ともや)(ははは…)
………。
……。
…。
早苗(さなえ)「どうぞ、召(め)し上(あ)がってくださいね」
朋也(ともや)「うわ…」
早苗(さなえ)「はい?
どうかしましたか?」
朋也(ともや)(いや、意外(いがい)っつーか…)
食卓(しょくたく)には、スパゲッティのナポリタンとレタスに添(そ)えられたポテトサラダ、そしてカットされたフランスパンが綺麗(きれい)に並(なら)べられていた。
朋也(ともや)「これ、早苗(さなえ)さんが、今作(こんさく)ったんですよね…」
早苗(さなえ)「はい、作(つく)りましたよ」
朋也(ともや)(パン以外(いがい)のものは普通(ふつう)に…いや、人並(ひとな)み以上(いじょう)に作(つく)れる人(ひと)なんだよなぁ…)
不思議(ふしぎ)に思(おも)うも、決(けっ)して口(くち)には出(だ)せない。
朋也(ともや)「丁寧(ていねい)っすね。すごくおいしそうです」
それだけを言(い)っておいた。
早苗(さなえ)「ありがとうございます」
事(こと)の流(なが)れとはいえ、早苗(さなえ)さんの手料理(てりょうり)をふたりで食(た)べて、午後(ごご)からもずっとふたりきり…。
しかも、客足(きゃくあし)は少(すく)ないから、ふたりで延々(えんえん)とお喋(しゃべ)り。
朋也(ともや)(この仕事(しごと)、受(う)けてよかったかも…)
子供(こども)「あれ?」
入(い)り口(ぐち)から、小学生(しょうがくせい)ぐらいの子供(こども)が、店内(てんない)を覗(のぞ)いていた。
早苗(さなえ)「どうしましたか?」
早苗(さなえ)さんが笑顔(えがお)で訊(き)く。
子供(こども)「秋生(あきお)さんいないの?」
早苗(さなえ)「はい、秋生(あきお)さんは出(で)かけていて、明日(あした)の夜(よる)まで帰(かえ)ってこないんですよ」
子供(こども)「えーっ、こんな大事(だいじ)な時(とき)にーっ」
早苗(さなえ)「野球(やきゅう)ですか?」
子供(こども)「うん、僕(ぼく)、リトルリーグの補欠(ほけつ)なんだけどさ…」
子供(こども)「秋生(あきお)さんが、レギュラーになるまで一緒(いっしょ)に練習(れんしゅう)してくれるって」
早苗(さなえ)「そうですか…」
早苗(さなえ)さんがこちらを向(む)く。
朋也(ともや)「え…まさか…」
早苗(さなえ)「お店(みせ)のほうはわたしひとりで大丈夫(だいじょうぶ)なので、練習(れんしゅう)に付(つ)き合(あ)ってあげてくれませんか?」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)、野球(やきゅう)、ぜんぜんできないんですけど」
早苗(さなえ)「大丈夫(だいじょうぶ)です」
朋也(ともや)「何(なに)が大丈夫(だいじょうぶ)なんですか?」
早苗(さなえ)さんは、そっと口(くち)を俺(おれ)の耳元(みみもと)に寄(よ)せてくる。
早苗(さなえ)「ひとりだと不安(ふあん)なんですよ」
早苗(さなえ)「それだけですから」
朋也(ともや)「マジっすか…」
早苗(さなえ)「はいっ」
すぐ子供(こども)のほうに笑顔(えがお)で向(む)き直(なお)る。
早苗(さなえ)「今日(きょう)と明日(あす)は、このお兄(にい)さんが代(か)わりに見(み)てくれます」
子供(こども)「えーっ」
俺(おれ)のほうが、不満(ふまん)を言(い)いたい。
早苗(さなえ)「このお兄(にい)さんは、朋也(ともや)さんといって、秋生(あきお)さんととても似(に)ていて、頼(たよ)りになりますよっ」
子供(こども)「うーん…」
子供(こども)「ま、いいか」
朋也(ともや)(ま、いいか、じゃねぇよ)
早苗(さなえ)「それでは、朋也(ともや)さん、よろしくお願(ねが)いしますね」
朋也(ともや)「………」
ここまで完璧(かんぺき)な笑顔(えがお)でよろしくされると、今更(いまさら)むげに断(ことわ)ることもできなかった。
子供(こども)「早(はや)くいこうよ、兄(あん)ちゃん」
ああ、俺(おれ)はこんな生意気(なまいき)なガキの面倒(めんどう)を見(み)なくてはならないのか…。
早苗(さなえ)さんとふたりきりで過(す)ごす時間(じかん)が…。
子供(こども)「ほらっ」
朋也(ともや)「ああ…わかったよっ」
後(うし)ろ髪(がみ)を引(ひ)かれる思(おも)いで、店(みせ)を後(あと)にする。
朋也(ともや)「腕立(うでだ)て、腹筋(ふっきん)、ヒンズースクワット20回(かい)、3セット」
子供(こども)「えーっ」
朋也(ともや)「筋(すじ)トレは、何(なに)やるにも基本(きほん)なんだよ。文句(もんく)言(い)わずに、やれ」
子供(こども)「本当(ほんとう)に秋生(あきお)さんみたい…」
子供(こども)「よいしょ…」
腰(こし)を下(お)ろし、腹筋(ふっきん)を始(はじ)める。
子供(こども)「いーち、にー、さーん、しー…」
その姿(すがた)を見守(みまも)りながら、考(かんが)える。
早苗(さなえ)さんや渚(なぎさ)にも言(い)われ続(つづ)けてきたことだが…
朋也(ともや)(俺(おれ)って、そんなに言動(げんどう)がオッサンに似(に)てるのか?)
こんな見知(みし)らぬ子供(こども)にまで言(い)われてしまうと、本当(ほんとう)にそうなのかと思(おも)えてくる。
朋也(ともや)(あんな人(ひと)に…?)
朋也(ともや)(あんな、ダメな大人(おとな)のトップランカーみたいな人(ひと)に?)
朋也(ともや)「ショックだ…」
うなだれる。
すると、そこへ…
声(こえ)「あっ、いたぞっ」
声(こえ)「おーい、みんな、集(あつ)まれ!」
複数(ふくすう)の子供(こども)の声(こえ)。
顔(かお)を上(あ)げると、公園(こうえん)の外(そと)から野球(やきゅう)のユニフォームを着(き)た子供(こども)たちが俺(おれ)のほうを見(み)ていた。
子供(こども)「ノックをお願(ねが)いしまーすっ!」
子供(こども)「お願(ねが)いしまーすっ!」
口々(くちぐち)に叫(さけ)びながら駆(か)けてくる。
子供(こども)「って、古河(ふるかわ)のオッサンじゃないーっ!」
ずざっーーーーっ!
目前(もくぜん)で急(きゅう)ブレーキ。
子供(こども)「エプロンなんてつけて、突(つ)っ立(た)ってるなよぉっ!」
一方的(いっぽうてき)にキレられる。
朋也(ともや)「うっせぇ、俺(おれ)の勝手(かって)だろっ!」
逆(ぎゃく)ギレで返(かえ)す。
子供(こども)「ひっ、口(くち)の悪(わる)さは古河(ふるかわ)のオッサン並(なみ)だっ」
朋也(ともや)「あんな人(ひと)と一緒(いっしょ)にするなっ」
子供(こども)「偽物(にせもの)かもっ」
朋也(ともや)「偽物(にせもの)も本物(ほんもの)もあるかっ、単(たん)なる別人(べつじん)だっ」
朋也(ともや)「とっとと散(ち)れっ」
地面(じめん)を蹴(け)って、土(つち)を飛(と)ばしてやる。
子供(こども)「うわぁーっ!」
蜘蛛(くも)の子(こ)を散(ち)らすように、走(はし)って逃(に)げていった。
朋也(ともや)「ふぅ…」
………。
朋也(ともや)(つーか…)
朋也(ともや)(一日(いちにち)いなくなっただけで、これなのかよ…)
朋也(ともや)(一体(いったい)どれだけのガキどもの相手(あいて)をしてんだよ、あの人(ひと)は…)
朋也(ともや)「ただいま戻(もど)りました」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)「もう、渚(なぎさ)も戻(もど)ってきていますよ」
朋也(ともや)「なんか別(べつ)の匂(にお)いがすると思(おも)ったら、夕飯(ゆうはん)作(つく)ってるんすね」
早苗(さなえ)「ええ。渚(なぎさ)ひとりに任(まか)せておくのも悪(わる)いですので、手伝(てつだ)いにいきますね」
朋也(ともや)「俺(おれ)はどうすればいいっすか」
早苗(さなえ)「もう店(みせ)は閉(し)めますので、もしよろしければ、パンのお裾分(すそわ)けに回(まわ)ってもらえますか?」
朋也(ともや)「ああ、オッサンがいつもやってるやつっすね」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「いいっすよ。適当(てきとう)に袋(ふくろ)に詰(つ)めて、近所(きんじょ)、回(まわ)ってきます」
早苗(さなえ)「よろしくお願(ねが)いしますね」
袋詰(ふくろづ)めにしたパンを持(も)って、店(みせ)を出(で)る。
朋也(ともや)(まずは、この家(いえ)からだな…)
呼(よ)び鈴(りん)を押(お)した後(あと)、玄関(げんかん)のドアを少(すこ)し開(あ)けて、中(なか)に向(む)けて叫(さけ)ぶ。
朋也(ともや)「ちぃーっす、古河(ふるかわ)パンですけどぉー」
声(こえ)「はーい」
元気(げんき)のいい主婦(しゅふ)の声(こえ)が返(かえ)ってくる。
主婦(しゅふ)「はいはいはい…」
近(ちか)づいてくる。
主婦(しゅふ)「はい、どうぞー」
ドアを大(おお)きく開(あ)けて、中(なか)に入(はい)る。
主婦(しゅふ)「あら、お久(ひさ)しぶり。岡崎(おかざき)くんじゃない」
そこには古河(ふるかわ)パンでバイトしていた頃(ころ)に知(し)り合(あ)った常連客(じょうれんきゃく)の顔(かお)があった。
朋也(ともや)「どうも。この家(いえ)だったんすか。知(し)らなかったっす」
主婦(しゅふ)「こっちこそ、びっくりしましたよ」
主婦(しゅふ)「戻(もど)ってきてたんですか?
これからずっと?」
朋也(ともや)「いや、今日(きょう)と明日(あした)だけ」
朋也(ともや)「今(いま)、オッサンが家(いえ)にいないんで」
主婦(しゅふ)「あら、大変(たいへん)。どうしたの?」
朋也(ともや)「昔(むかし)の知(し)り合(あ)いが、新(あたら)しく劇団(げきだん)を旗揚(はたあ)げするってんで、九州(きゅうしゅう)のほうまで見(み)にいきました」
主婦(しゅふ)「へぇ…昔(むかし)は仕事(しごと)を休(やす)んで、そんなこと、絶対(ぜったい)できない人(ひと)だったのに」
主婦(しゅふ)「きっと、岡崎(おかざき)くんが居(い)てくれたからね」
朋也(ともや)「んなことないっすよ」
朋也(ともや)「それに苦労(くろう)したんすよ。行(い)ってくれるように説得(せっとく)するの」
主婦(しゅふ)「でしょうね」
朋也(ともや)「おかげでこっちは休日返上(きゅうじつへんじょう)で働(はたら)くことになっちまいましたけど」
主婦(しゅふ)「若(わか)いから、大丈夫(だいじょうぶ)」
朋也(ともや)「だといいですけどね」
朋也(ともや)「これ、いつものっす」
手(て)に持(も)っていたビニール袋(ふくろ)を手渡(てわた)す。
主婦(しゅふ)「いつも、ありがとね」
主婦(しゅふ)「秋生(あきお)さんには、よくしてもらってばかりで」
主婦(しゅふ)「先日(せんじつ)直(なお)してもらったお風呂(ふろ)も、壊(こわ)れる前(まえ)より調子(ちょうし)よくなって、すごく助(たす)かったのよ」
朋也(ともや)「お風呂(ふろ)?」
主婦(しゅふ)「ええ。ついこの間(あいだ)、お風呂(ふろ)が壊(こわ)れてね、銭湯(せんとう)にいこうと用意(ようい)してたら、秋生(あきお)さんがパンを配(くば)りにきて…」
主婦(しゅふ)「それでわけを話(はな)したら、見(み)せてみろって、上(あ)がり込(こ)んできちゃったの」
主婦(しゅふ)「明日(あした)には業者(ぎょうしゃ)に頼(たの)むからいいですよって言(い)ったんだけど、二時間(にじかん)ぐらいかけて服(ふく)を真(ま)っ黒(くろ)にして、直(なお)してくれたの」
朋也(ともや)「へぇ…」
主婦(しゅふ)「あの人(ひと)らしいでしょ?」
朋也(ともや)「ええ、まぁ…」
主婦(しゅふ)「ちょっと待(ま)っててね。その時(とき)のお礼(れい)もしたいから」
俺(おれ)を残(のこ)し、一度(いちど)廊下(ろうか)の奥(おく)に姿(すがた)を消(け)す。
そして、大(おお)きなダンボール箱(はこ)を抱(かか)えて戻(もど)ってきた。
主婦(しゅふ)「これ、ビールなんだけど、持(も)っていってもらえる?」
朋也(ともや)「ああ、はい。オッサン、喜(よろこ)びますよ」
朋也(ともや)「ただいま」
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
渚(なぎさ)「おかえりなさいです」
渚(なぎさ)「ちょうど、できたところです」
部屋(へや)はカレーの匂(にお)いに満(み)ちていた。
渚(なぎさ)「今晩(こんばん)は、シーフードたっぷりのカレーです」
カレーは大好物(だいこうぶつ)だった。
俺(おれ)たちは久々(ひさびさ)にそのまま古河(ふるかわ)の家(いえ)に泊(と)まることになった。
早苗(さなえ)「今日(きょう)は、ふたりで客間(きゃくま)を使(つか)ってくださいね」
渚(なぎさ)の部屋(へや)は別(べつ)にあったが、早苗(さなえ)さんのその一言(いちげん)により、俺(おれ)と渚(なぎさ)は客間(きゃくま)に布団(ふとん)を敷(し)くことになった。
朋也(ともや)(ふたりで客間(きゃくま)を使(つか)ってくださいって言(い)い方(かた)…なんつーか…)
俺(おれ)は寝間着姿(ねまきすがた)の渚(なぎさ)を見(み)る。
朋也(ともや)(いやらしいよな…)
渚(なぎさ)「敷(し)けましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あ、ああ、敷(し)けた」
渚(なぎさ)「ちょっと端(はし)、折(お)れちゃってます」
その部分(ぶぶん)を渚(なぎさ)が直(なお)してくれる。
朋也(ともや)「悪(わる)いな」
渚(なぎさ)「いいです。こういうのはわたしの役目(やくめ)です」
朋也(ともや)「えっと…何(なに)が?」
渚(なぎさ)「その…朋也(ともや)くんのお世話(せわ)をすることです」
朋也(ともや)「俺(おれ)、だらしないから、大変(たいへん)だな…」
渚(なぎさ)「そんなことないです。どちらかというと、うれしいです」
朋也(ともや)「そっか…」
渚(なぎさ)「はいっ」
………。
どうしてか、ずっと、オッサンのことばかり考(かんが)えてしまっていた。
眠(ねむ)れず、寝返(ねがえ)りを打(う)つ。
すぐ正面(しょうめん)に渚(なぎさ)の顔(かお)があった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、眠(ねむ)れないですか」
朋也(ともや)「いや…そのうち眠(ねむ)れると思(おも)うけど…」
渚(なぎさ)「何(なに)考(かんが)えてますか」
朋也(ともや)「………」
オッサンのこと
朋也(ともや)「オッサンのこと」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんのことですか」
朋也(ともや)「ああ…」
朋也(ともや)「オッサンはさ…好(す)き勝手(かって)に遊(あそ)び回(まわ)ってる気(き)がしてたけど…」
朋也(ともや)「でも、それは自分(じぶん)だけのためじゃないって、ちょっとわかったよ」
渚(なぎさ)「誰(だれ)のためでしたか?」
朋也(ともや)「いや、誰(だれ)のためでもないんだろうけど…」
朋也(ともや)「本人(ほんにん)は結局(けっきょく)、したいようにしてるだけなんだろうけど…」
朋也(ともや)「それでも、いろんな人(ひと)に必要(ひつよう)とされてた」
俺(おれ)は、あんなふうに振(ふ)る舞(ま)えただろうか。
近所(きんじょ)のガキがレギュラーを目指(めざ)す、それを手伝(てつだ)えただろうか?
野球(やきゅう)のノックをしてやれただろうか?
それは子供(こども)が好(す)きなら、できたかもしれない。
なら、人(ひと)の家(いえ)の風呂釜(ふろかま)を頼(たの)まれもしないのに直(なお)す気(き)になれるだろうか…。
そんな面倒(めんどう)を、退屈(たいくつ)しのぎにできるだろうか。
俺(おれ)ならできない。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんは、みんなの笑顔(えがお)が見(み)たいんです」
渚(なぎさ)「きっとそれだけです」
それはいつしか俺(おれ)があの人(ひと)の隣(となり)に立(た)って、感(かん)じたことだった。
みんなを笑(わら)わせている姿(すがた)を見(み)て。
ああ…なんか癪(しゃく)だ。
でも…
早苗(さなえ)さんは不安(ふあん)なんじゃないだろうか。
いつだって、そんなふうに…
誰(だれ)かを笑(わら)わせるために、すぐいなくなってしまうような人(ひと)が、旦那(だんな)で。
早苗(さなえ)『秋生(あきお)さんっ』
早苗(さなえ)『秋生(あきお)さん、ダメですよ』
早苗(さなえ)『いつだって秋生(あきお)さんは、すぐ居(い)なくなってしまうんですから』
あの早苗(さなえ)さんの…ちょっと困(こま)ったような表情(ひょうじょう)が、思(おも)い出(だ)された。
少(すこ)し…可哀想(かわいそう)な気(き)がした。
………。
渚(なぎさ)「…もう寝(ね)ますか」
俺(おれ)が黙(だま)り込(こ)んでしまったためだろう、そう訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「そうだな…明日(あした)も早(はや)いし」
渚(なぎさ)「はい。わかりました」
渚(なぎさ)「おやすみなさいです」
朋也(ともや)「ああ、おやすみ…」
………。
……。
…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、朝(あさ)です」
渚(なぎさ)「そろそろ起(お)きて、パンを焼(や)きましょう」
朋也(ともや)「……ん」
目(め)を開(あ)けると、すぐ鼻(はな)の先(さき)に渚(なぎさ)の顔(かお)。
渚(なぎさ)「起(お)きました。おはようございます」
抱きしめる
離(はな)れていこうとしたその頭(あたま)をすかさず抱(だ)きしめる。
渚(なぎさ)「わっ…なんですか」
ぐっと抱(だ)き寄(よ)せる。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
ぐりぐりと鼻(はな)を渚(なぎさ)の首筋(くびすじ)に押(お)しつけた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、寝(ね)ぼけてます」
朋也(ともや)「寝(ね)ぼけてない。好(す)きな人(ひと)を抱(だ)きしめたくなるのは当然(とうぜん)だ」
ぐりぐり。
朋也(ともや)「それとも嫌(きら)か?」
渚(なぎさ)「そんなこと訊(き)かないでほしいです」
渚(なぎさ)「嫌(いや)なわけないです」
とんとん。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「え?
なんの音(おと)?」
がらっ。
早苗(さなえ)「おふたりさん、おはようございまーす」
ばばっ!
とっさに渚(なぎさ)の腕(うで)を離(はな)す俺(おれ)。飛(と)び上(あ)がるようにして、枕元(まくらもと)に座(すわ)り直(なお)す渚(なぎさ)。
早苗(さなえ)「………」
渚(なぎさ)「おはようございます、お母(かあ)さん…えへへ」
朋也(ともや)「おはようっす…」
早苗(さなえ)「お邪魔(じゃま)だったみたいですねっ」
朋也(ともや)「いえ、ぜんぜんっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、寝(ね)ぼけてたんですっ」
早苗(さなえ)「もう少(すこ)しゆっくりしてもらっていていいですから、支度(したく)ができたら、お店(みせ)のほうお願(ねが)いしますね」
朋也(ともや)「いや、今(いま)からすぐ行(い)くっす」
渚(なぎさ)「はい、そうですっ」
笑顔(えがお)だけで応(こた)えて、早苗(さなえ)さんはドアを閉(し)めた。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「…お母(かあ)さんに見(み)られてしまいました」
朋也(ともや)「思(おも)いっきり見(み)られました」
渚(なぎさ)「とても恥(は)ずかしかったです」
朋也(ともや)「ああ…忘(わす)れてた、ここ、おまえの実家(じっか)だったって…」
渚(なぎさ)「やっぱり朋也(ともや)くん、寝(ね)ぼけてましたっ」
朋也(ともや)「寝(ね)ぼけてたっつーか…忘(わす)れてだけじゃないか」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)だと思(おも)います」
朋也(ともや)「同(おな)じじゃねっつーの。さ、早(はや)く着替(きが)えて行(い)くぜ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「じゃ、やるかっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、がんばってください」
オーブンの前(まえ)で、汗(あせ)をかきながらパンを焼(や)き続(つづ)けた。
………。
早苗(さなえ)「本日(ほんじつ)の分(ぶん)はこれで終(お)わりです」
早苗(さなえ)「お疲(つか)れさまでした」
朋也(ともや)「ふぅ…」
早苗(さなえ)「今日(きょう)は渚(なぎさ)も居(い)てくれますし、朋也(ともや)さんはゆっくり休(やす)んでいてください」
朋也(ともや)「いや、このまま渚(なぎさ)を手伝(てつだ)いますよ」
早苗(さなえ)「いえ、わたしがいれば、人手(ひとで)は足(た)りますので」
朋也(ともや)「多(おお)くてもいいじゃないですか。みんなでやったほうが楽(たの)しいでしょう?」
早苗(さなえ)「え?」
早苗(さなえ)「あ、はいっ、そうですねっ」
それからは店(みせ)のほうに出(で)て、パンを売(う)る手伝(てつだ)いをする。
レジひとつに対(たい)し店員(てんいん)が三人(さんにん)では、どう考(かんが)えても非効率(ひこうりつ)だったけど、誰(だれ)もそのことについては触(ふ)れず、笑顔(えがお)で接客(せっきゃく)を続(つづ)けた。
早苗(さなえ)「そろそろお昼(ひる)ご飯(はん)の支度(したく)をしてこようと思(おも)いますので、しばらくお任(まか)せしますね」
渚(なぎさ)「あ、手伝(てつだ)います」
早苗(さなえ)「いえ、もう客足(きゃくあし)もそうないですし、ふたりでお話(はなし)でもして、待(ま)っていてください」
そう言(い)って、早苗(さなえ)さんは家(いえ)の中(なか)に上(あ)がっていった。
朋也(ともや)「そうしてようぜ」
俺(おれ)も、渚(なぎさ)の肩(かた)を掴(つか)んで引(ひ)き留(と)める。
渚(なぎさ)「あ、はい」
渚(なぎさ)「では、どんなお話(はなし)をしていましょう」
朋也(ともや)「いや、そんな改(あらた)まって訊(き)かれてもな…」
渚(なぎさ)「なんでもいいです」
朋也(ともや)「じゃ…」
朋也(ともや)「おまえの初恋(はつこい)の話(はなし)」
渚(なぎさ)「え…そんな話(はなし)聞(き)きたいですか」
朋也(ともや)「ああ、聞(き)きたいね」
渚(なぎさ)「わたしの初恋(はつこい)は…朋也(ともや)くんです」
朋也(ともや)「遅(おそ)ぇ…」
渚(なぎさ)「遅(おそ)いですか。でも、本当(ほんとう)です」
渚(なぎさ)「そういうこと奥手(おくて)だったんです」
渚(なぎさ)「ですので、朋也(ともや)くんから、告白(こくはく)してもらえてよかったです」
渚(なぎさ)「でないと、ずっと、何(なに)も言(い)えなかったです、わたし」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「初恋(はつこい)、実(みの)ってよかったな」
渚(なぎさ)「はいっ、よかったです」
朋也(ともや)「なかなか初恋(はつこい)って実(みの)らないんだぞ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)のおかげじゃないし…」
朋也(ともや)「それに、俺(おれ)も、おまえと出会(であ)うまでに、おまえと別(べつ)の男(おとこ)が付(つ)き合(あ)ってなくてよかったよ」
朋也(ともや)「おまえ、断(ことわ)ると悪(わる)いからって、誰(だれ)とでも付(つ)き合(あ)いそうじゃんか」
渚(なぎさ)「そんなことないですっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんだけですっ」
渚(なぎさ)「他(ほか)の人(ひと)に告白(こくはく)されても付(つ)き合(あ)ったりしてなかったです」
渚(なぎさ)「他(ほか)の人(ひと)には告白(こくはく)されなかったですけど…」
朋也(ともや)「そっか…」
渚(なぎさ)「はい」
ちゃんと毎日(まいにち)学校(がっこう)に来(く)れるような体(からだ)だったら、そんなことはなかったと思(おも)う。
俺(おれ)は思(おも)い浮(う)かべてみた。渚(なぎさ)を好(す)きになるような男(おとこ)を。
それはきっと、目立(めだ)つような奴(やつ)じゃなく、やはり渚(なぎさ)と同(おな)じように奥手(おくて)で、ちょっと気弱(きよわ)な奴(やつ)なんじゃないかと思(おも)う。
初(はじ)めて見(み)た時(とき)から好(す)きになって、でも、なかなか話(はな)しかけることもできずに…
卒業式(そつぎょうしき)の日(ひ)、明日(あした)からもう会(あ)えなくなる、という日(ひ)にようやく勇気(ゆうき)を振(ふ)り絞(しぼ)って、告白(こくはく)するような…。
それは、端(はし)から見(み)るとなんてお似合(にあ)いなふたりだろう。
朋也(ともや)(ああ、それって…)
朋也(ともや)(俺(おれ)とまったく逆(ぎゃく)だ…)
そう考(かんが)えると、すごく滑稽(こっけい)だ。俺(おれ)たちふたりの組(く)み合(あ)わせは。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんの初恋(はつこい)はどんな人(ひと)でしたか」
朋也(ともや)「え?
俺(おれ)?」
渚(なぎさ)「はい。ぜひ聞(き)きたいです」
朋也(ともや)「いや、ありきたりだよ。小学一年(しょうがくいちねん)の時(とき)の担任(たんにん)の先生(せんせい)かな」
朋也(ともや)「同級生(どうきゅうせい)ってよりも、いつも年上(としうえ)の女(おんな)の人(ひと)に憧(あこが)れてたよ」
渚(なぎさ)「あ、そうですか…」
渚(なぎさ)「…希望(きぼう)に添(そ)えてなによりです」
朋也(ともや)「え?」
渚(なぎさ)「あ、いえ、なんでもないですっ」
早苗(さなえ)さんお手製(てせい)の昼飯(ひるめし)を食(た)べ(今日(きょう)はエビドリアだった)、また三人(さんにん)で店番(みせばん)に立(た)つ。
午後(ごご)の店内(てんない)は朝(あさ)の混雑(こんざつ)が嘘(うそ)のように、閑散(かんさん)としていた。
早苗(さなえ)「今日(きょう)も来(き)ますでしょうか」
朋也(ともや)「さぁ、どうでしょう」
渚(なぎさ)「え、何(なに)がですか?」
朋也(ともや)「ガキ」
渚(なぎさ)「子供(こども)ですか?」
朋也(ともや)「ああ。昨日(きのう)、俺(おれ)が野球(やきゅう)の練習(れんしゅう)見(み)てやったんだ」
渚(なぎさ)「お父(とう)さんみたいです」
朋也(ともや)「いや、ぜんぜん違(ちが)ったよ、きっと」
渚(なぎさ)「そうでしょうか。そっくりだったと思(おも)います」
朋也(ともや)「似(に)てても違(ちが)うんだよ、中身(なかみ)が」
俺(おれ)たちは、雑談(ざつだん)を続(つづ)けた。
人(ひと)の気配(けはい)がして、俺(おれ)は誰(だれ)よりも早(はや)く振(ふ)り返(かえ)る。
入(い)り口(ぐち)から、昨日(きのう)の子供(こども)が顔(かお)だけを覗(のぞ)かせていた。
来(き)てくれた。
正直(しょうじき)、嬉(うれ)しかった。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、頑張(がんば)ってきてくださいね」
早苗(さなえ)さんが、そう俺(おれ)を後押(あとお)しした。
渚(なぎさ)「こんにちはっ」
子供(こども)「………」
渚(なぎさ)の挨拶(あいさつ)にも子供(こども)は黙(だま)ったままでいた。
俺(おれ)とも目(め)を合(あ)わせようとしない。
朋也(ともや)(俺(おれ)に、遠慮(えんりょ)させる何(なに)かがあったんだろうな…)
やはり、人付(ひとづ)き合(あ)いは苦手(にがて)だ。それが子供(こども)とくれば、なおさらだ。
やっぱり似(に)ていても中身(なかみ)が違(ちが)うんだ。それを実感(じっかん)した。
子供(こども)は、ただオッサンが戻(もど)ってきているか、確(たし)かめにきただけなのかもしれない。
いないと言(い)えば、すぐにも立(た)ち去(さ)るかもしれない。
もう、俺(おれ)にはどうしようもないんだろうか。
こんな時(とき)、オッサンなら、どうするんだろう…。
………。
ああ、そうか、と、俺(おれ)は思(おも)った。
どう行動(こうどう)するかなんて、あの人(ひと)はいちいち考(かんが)えちゃいないんだよな。
答(こた)えは簡単(かんたん)だった。
朋也(ともや)「よし、今日(きょう)は勝負(しょうぶ)だ」
俺(おれ)は子供(こども)に向(む)けて言(い)った。
子供(こども)「…え?」
朋也(ともや)「ホームラン競争(きょうそう)がいいかな」
朋也(ともや)「負(ま)けたほうが、ジュースおごりな」
子供(こども)「えーっ!
絶対(ぜったい)負(ま)けるって!」
朋也(ともや)「安心(あんしん)しろ。バットを握(にぎ)るのは久々(ひさびさ)だ」
子供(こども)「同(おな)じだって!」
朋也(ともや)「じゃ、渚(なぎさ)、行(い)ってくるな」
渚(なぎさ)「はいっ」
朋也(ともや)「言(い)っておくがな…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、あのオッサンの剛速球(ごうそっきゅう)をもホームランにした男(おとこ)だぞ」
子供(こども)「秋生(あきお)さんが本気(ほんき)で投(な)げたボール?」
朋也(ともや)「当然(とうぜん)」
子供(こども)「それって、大(だい)リーガー並(な)みってことじゃんっ」
朋也(ともや)「ああ、そうだ。だから、本気(ほんき)でこいよ」
子供(こども)「本気(ほんき)でも無理(むり)だって」
カキィーーーンッ!
子供(こども)「うわーーっ、ようしゃナシだぁーーっ!」
朋也(ともや)「うわっはっはっはっ!」
カキィーーーンッ!
子供(こども)「よっし!
ホームラン!」
朋也(ともや)「ぐあ…小学生(しょうがくせい)に打(う)たれた…」
…投(な)げるのは相変(あいか)わらず苦手(にがて)だった。
子供(こども)「ねぇ、お兄(あん)ちゃん」
子供(こども)「いっぱい、見(み)てるんだけど」
朋也(ともや)「あん?」
振(ふ)り返(かえ)ると、その先(さき)にたくさんの子供(こども)たちが集(あつ)まっていて、俺(おれ)たちのほうを見(み)ていた。
朋也(ともや)(ああ…すげぇ…)
朋也(ともや)(これだけのことで変(か)わるのか…)
自分(じぶん)も一緒(いっしょ)に楽(たの)しもうとするだけで。
朋也(ともや)「仕方(しかた)がないな…混(ま)ぜてやるか」
朋也(ともや)「いいよな?」
子供(こども)「今日(きょう)だけね」
見(み)たことのない世界(せかい)が見(み)えた気(き)がした。
朋也(ともや)「ただいまっす」
家(いえ)に戻(もど)ってくると、店番(みせばん)は早苗(さなえ)さんひとりで、渚(なぎさ)の姿(すがた)はなかった。
早苗(さなえ)「おかえりさない。野球教室(やきゅうきょうしつ)は大好評(だいこうひょう)でしたね」
朋也(ともや)「見(み)てましたか」
早苗(さなえ)「ちょっとだけ覗(のぞ)かせていただきました」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)に、秋生(あきお)さんのようでしたよ」
朋也(ともや)「はは…」
朋也(ともや)「それ、褒(ほ)め言葉(ことば)なのか、どうなのかよくわかんないっすね」
早苗(さなえ)「もちろん褒(ほ)めたつもりですよ」
早苗(さなえ)「わたしは秋生(あきお)さんのそういうところ、大好(だいす)きですから」
朋也(ともや)「そうっすか…」
未(いま)だに素直(すなお)には、喜(よろこ)べない。
でも今(いま)はもう、悪(わる)い気(き)はしなかった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)の奴(やつ)は?」
早苗(さなえ)「居間(いま)でテレビを見(み)ていると思(おも)いますよ」
朋也(ともや)「くわ…いくら暇(ひま)だからって、何(なに)やってんだよ」
早苗(さなえ)「いえ、暇(ひま)だからというわけではなくて、なにやら大(おお)きな事件(じけん)が起(お)きたみたいなので、見(み)ているんですよ」
朋也(ともや)「事件(じけん)?
ニュース番組(ばんぐみ)?」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)に訊(き)いてみてください」
朋也(ともや)「そうっすね…じゃ、ちょっと行(い)ってきます」
居間(いま)に入(はい)ると、渚(なぎさ)はテレビのすぐ正面(しょうめん)の床(ゆか)に座(すわ)ってブラウン管(かん)の光(ひかり)を顔(かお)に受(う)けていた。
朋也(ともや)「どうした、電気(でんき)もつけないで」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「おまえ、夢中(むちゅう)になりすぎだぞ」
明(あ)かりをつけて、渚(なぎさ)のそばまで寄(よ)っていった。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)」
その頬(ほお)を指(ゆび)で押(お)してみる。
渚(なぎさ)「わ…はいっ?」
ようやく俺(おれ)に気(き)づいて、こっちを向(む)いた。
朋也(ともや)「どうしたんだ、そんな夢中(むちゅう)になって」
ふたりでブラウン管(かん)に目(め)を移(うつ)す。
暴走(ぼうそう)する車(くるま)を上空(じょうくう)から追(お)っかけているような映像(えいぞう)が映(うつ)し出(だ)されていた。
よく海外(かいがい)の事件(じけん)を集(あつ)めた特番(とくばん)なんかで見(み)る光景(こうけい)だ。
渚(なぎさ)「バスがハイジャックされたそうです」
朋也(ともや)「へぇ、そりゃ難儀(なんぎ)だな」
渚(なぎさ)「高速(こうそく)バスです」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「九州(きゅうしゅう)です」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「なにか、胸騒(むなさわ)ぎがしませんか」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)はしないけど」
渚(なぎさ)「よく考(かんが)えてみてください」
朋也(ともや)「おまえ、まさか…」
渚(なぎさ)「はい、お父(とう)さんが乗(の)ってるかもしれないです」
朋也(ともや)「んな偶然(ぐうぜん)ないって」
渚(なぎさ)「そんなこと言(い)いきれないです」
朋也(ともや)「そりゃ…言(い)いきれはしないけど…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは、まだ知(し)らないのか?」
渚(なぎさ)「はい…詳(くわ)しい話(はなし)はまだしてないです」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんを心配(しんぱい)させないように、代(か)わりにおまえがずっとひとりで見(み)てたんだな」
渚(なぎさ)「はい…」
俺(おれ)は渚(なぎさ)の頭(あたま)に手(て)を置(お)く。そして、髪(かみ)をゆっくりと撫(な)でてやった。
テレビのスピーカーからは、小(ちい)さな音量(おんりょう)で、緊急事態(きんきゅうじたい)を報(しら)せるアナウンサーの声(こえ)。
バスは、サービスエリアへと入(はい)り、停車(ていしゃ)した。
画面(がめん)の端(はし)から、白衣(はくい)を着(き)た看護婦(かんごふ)が数名(すうめい)、駆(か)けつける。
バスの前(まえ)のドアが開(ひら)いた。
…目(め)を見張(みは)る。
中(なか)から、年寄(としよ)りが降(お)りてきた。
その場(ば)で、乗客(じょうきゃく)のうちの何名(なんめい)かが、降車(こうしゃ)した。
すべて年寄(としよ)り、子供(こども)、女性(じょせい)だった。
バスのドアが閉(し)まる。
そして、また走(はし)り出(だ)す。
ふぅ…と耳元(みみもと)で渚(なぎさ)の息(いき)をつく音(おと)。
いつの間(ま)にか、俺(おれ)は渚(なぎさ)の肩(かた)を抱(だ)きしめていた。
そんな偶然(ぐうぜん)、ありえないと頭(あたま)では思(おも)っていた。
でも、どうしてだろう。
渚(なぎさ)の心配(しんぱい)が俺(おれ)にも移(うつ)ってしまったのだろうか。
どうしてか…『そこ』にいる気(き)がしてならなかった。
電話(でんわ)が突然(とつぜん)鳴(な)り出(だ)して、俺(おれ)と渚(なぎさ)ははっと顔(かお)を見合(みあ)わせる。
渚(なぎさ)「わたし、出(で)ます」
渚(なぎさ)が立(た)ち上(あ)がり、居間(いま)の電話(でんわ)を取(と)った。
渚(なぎさ)「はい、古河(ふるかわ)です」
渚(なぎさ)「あ、はい…代(か)わります」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)が電話口(でんわぐち)を手(て)で押(お)さえたまま、俯(うつむ)いた。
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんにです…」
朋也(ともや)「ああ、じゃ、呼(よ)んでくるよ」
朋也(ともや)「テレビ消(け)しておいたほうがいいよな」
渚(なぎさ)「はい…お願(ねが)いします」
俺(おれ)は立(た)ち上(あ)がって、テレビを消(け)した後(あと)、早苗(さなえ)さんを呼(よ)びに部屋(へや)を出(で)た。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、電話(でんわ)ですよ」
早苗(さなえ)「あ、はい。ありがとうございます。すぐ行(い)きますね」
早苗(さなえ)「はい…はい」
早苗(さなえ)さんが電話(でんわ)で話(はなし)をしている間(あいだ)、渚(なぎさ)は俺(おれ)の服(ふく)の裾(すそ)を握(にぎ)って離(はな)さなかった。
朋也(ともや)「相手(あいて)って、誰(だれ)だったんだ?」
渚(なぎさ)「…お父(とう)さんのお知(し)り合(あ)いです」
渚(なぎさ)「見(み)に行(い)っていた劇団(げきだん)の方(かた)です」
朋也(ともや)「ああ…」
そういうことか…。
早苗(さなえ)「…ありがとうございました」
受話器(じゅわき)が置(お)かれた。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)」
早苗(さなえ)さんが渚(なぎさ)の名(な)を呼(よ)んだ。
早苗(さなえ)「テレビ付(つ)けてくれますか」
渚(なぎさ)「えっと…何(なに)か見(み)ますか」
早苗(さなえ)「ニュースです」
渚(なぎさ)「………」
早苗(さなえ)「お願(ねが)いできますか」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)がリモコンを手(て)にとって、スイッチを入(い)れた。
映像(えいぞう)よりも早(はや)く、追跡(ついせき)を続(つづ)けるアナウンサーの切迫(せっぱく)した実況(じっきょう)。
渚(なぎさ)「どのチャンネルですか」
早苗(さなえ)「そこでいいですよ」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)さんはじっと、浮(う)かび上(あ)がってきた映像(えいぞう)を見(み)ていた。
俺(おれ)たちも、息(いき)を呑(の)んで、同(おな)じように見(み)ていた。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)は、知(し)ってたんですね」
渚(なぎさ)「え…何(なに)がでしょうか」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが乗(の)ってるかもしれないって」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「乗(の)ってるんすか、オッサン…」
渚(なぎさ)の代(か)わりに俺(おれ)が訊(き)いた。
早苗(さなえ)「今(いま)の電話(でんわ)は、秋生(あきお)さんを見送(みおく)ってくれた方(かた)からだったんですけど…」
早苗(さなえ)「そのバスかもしれないと、言(い)っていました」
朋也(ともや)「そうですか…」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「あの、渚(なぎさ)は…」
朋也(ともや)「思(おも)い過(す)ごしで、早苗(さなえ)さんに無駄(むだ)な心配(しんぱい)かけないように、ひとりで見(み)てたんです」
早苗(さなえ)「そうだったんですか」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、ありがとうございますね」
渚(なぎさ)「いえ…」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも」
朋也(ともや)「俺(おれ)、なんもしてないっす」
三人(さんにん)で、ヘリから送(おく)られてくる映像(えいぞう)を見(み)続(つづ)けた。
すでに降車(こうしゃ)している人(ひと)の証言(しょうげん)から、新(あたら)しい情報(じょうほう)が次々(つぎつぎ)と入(はい)ってくる。
犯人(はんにん)は、ひとりの少年(しょうねん)だということだった。
刃物(はもの)で脅(おど)して、バスを走(はし)らせているという。
そして、ひとりの男性(だんせい)が、その刃物(はもの)で刺(さ)され、怪我(けが)を負(お)っている。
執拗(しつよう)な説得(せっとく)に当(あ)たったからだということだ。
…秋生(あきお)さんだ。
その場(ば)にいた誰(だれ)もが思(おも)ったことだろう。
あの人(ひと)がじっとしているわけがない。
その正義感(せいぎかん)が仇(あだ)となった。
犯人(はんにん)は看護班(かんごはん)の乗車(じょうしゃ)も拒否(きょひ)しているらしい。
どれだけの怪我(けが)だろう。
脅(おど)し程度(ていど)に切(き)りつけられたなら、いい。
けど、本気(ほんき)で刺(さ)されていて、血(ち)が止(と)めどなく流(なが)れ続(つづ)けていたら…。
時間(じかん)と共(とも)に…。
ああ、悪(わる)い想像(そうぞう)ばかりしてしまう。
それは、早苗(さなえ)さんも同(おな)じだろう。
祈(いの)るように手(て)を握(にぎ)り合(あ)わせて、ブラウン管(かん)を見(み)つめていた。
またサービスエリアに止(と)まり、乗客(じょうきゃく)を降車(こうしゃ)させた。
小(ちい)さくてよくわからない。
結構(けっこう)な人数(にんずう)だ。
今度(こんど)は若(わか)い男(おとこ)も、混(ま)じっていた。
見慣(みな)れた、あのオッサンは…。
タバコをくわえて、いつも何(なに)かに文句(もんく)言(い)いたげに構(かま)えている人(ひと)の姿(すがた)は…。
…見(み)つけられない。
ドアが閉(し)まる。
またバスは動(うご)き出(だ)した。
そこからは、また同(おな)じ光景(こうけい)が続(つづ)いていく。
今(いま)ので降(お)りていたなら、すぐにも無事(ぶじ)を知(し)らせる電話(でんわ)があるはずだ。
けど…それもなかった。
また、降車(こうしゃ)した人(ひと)たちからの新(あたら)しい情報(じょうほう)。
すでにバス内(うち)は、犯人(はんにん)と運転手(うんてんしゅ)と怪我(けが)を負(お)っている男性(だんせい)の三人(さんにん)だけ。
怪我(けが)を負(お)っている男性(だんせい)は、説得(せっとく)の時(とき)に、腹部(ふくぶ)を刺(さ)されたとのこと。
それも避(さ)けようともせず、刺(さ)された後(うしろ)も額(ひたい)に汗(あせ)をかきながら笑顔(えがお)で説得(せっとく)し続(つづ)けたという。
朋也(ともや)(ああ…オッサンがやりそうなことだ…)
男性(だんせい)の説得(せっとく)により、すべての乗客(じょうきゃく)を降車(こうしゃ)させることができた。
その代(か)わりに、運転手(うんてんしゅ)と共(とも)に残(のこ)ることになった。
大怪我(おおけが)を負(お)ったままで。
事細(ことこま)かに伝(つた)えられていく状況(じょうきょう)を、俺(おれ)たちはを目(め)を閉(と)じて聞(き)いていた。
そして、次(つぎ)のサービスエリア。
バスは、停車(ていしゃ)したままだった。
開(ひら)かれたドアから姿(すがた)を現(あらわ)したのは…
見慣(みな)れた背格好(せかっこう)の男(おとこ)。
タバコをくわえて、いつも何(なに)かに文句(もんく)言(い)いたげに構(かま)えている人(ひと)の姿(すがた)だった。
ただ、いつもより前屈(まえかが)みで、辛(つら)そうに、バスの車体(しゃたい)にもたれかかった。
上半身(じょうはんしん)は、黒(くろ)い服(ふく)だったからわからなかったが、ジーンズのほうは黒色(こくしょく)のペンキをぶちまけたかのように血(ち)で染(そ)まっていた。
警察(けいさつ)と距離(きょり)を置(お)いて向(む)かい合(あ)う。中(なか)にはまだ運転手(うんてんしゅ)という人質(ひとじち)がいた。
何(なに)か手(て)でやり取(と)りをしている。やはり遠(とお)くてわからない。
こういう時(とき)、顔(がお)は映(うつ)してはならないようになっているのだろうか。
警察(けいさつ)が運(はこ)んできた拡声機(かくせいき)(だと思(おも)う)を、バスに向(む)けて投(な)げた。
怪我(けが)をした男(おとこ)は、それをゆっくりと拾(ひろ)い上(あ)げた。
スイッチが入(はい)ったのを確認(かくにん)して、そして、何事(なにごと)かを叫(さけ)び始(はじ)めた。
聞(き)き取(と)れない。
男(おとこ)は満足(まんぞく)したように、再(ふたた)びバスに乗車(じょうしゃ)した。
入(い)れ代(か)わりに降(お)りてきたのは、制服姿(せいふくすがた)の…運転手(うんてんしゅ)だった。
その運転手(うんてんしゅ)が地面(じめん)に降(お)り立(た)つと同時(どうじ)、すぐドアが閉(し)まり、バスは急発進(きゅうはっしん)した。
タイヤをスリップさせながら、大(おお)きくUターンすると、サービスエリアを後(あと)にした。
パトカーや救急車(きゅうきゅうしゃ)がすぐさま後(あと)に続(つづ)いた。
残(のこ)るは…犯人(はんにん)の少年(しょうねん)と、怪我(けが)を負(お)った男性(だんせい)のみ。
運転(うんてん)しているのは、あの人(ひと)か?
一体(いったい)何(なに)をしようというんだろう、あの人(ひと)は。
俺(おれ)たちは、固唾(かたず)を呑(の)んで、行(い)く末(すえ)を見守(みまも)っていた。
朋也(ともや)「………」
しばらくしてVTRが再生(さいせい)された。
音声(おんせい)がよく聞(き)こえるように補正(ほせい)されていた。
──これから俺(おれ)たちは旅行(りょこう)にでかけるっ!
そう聞(き)こえた。
──今(いま)、俺(おれ)たちは意気投合(いきとうごう)したんだっ!
──友達(ともだち)になったんだっ!
──そいつには、会(あ)いたい人(ひと)がいるっ!
──自分(じぶん)を小(ちい)さいとき育(そだ)ててくれた婆(ばあ)さんだっ!
──もう5年(ねん)も前(まえ)ぐらいから、寝(ね)たきりになってしまってるらしいっ!
──今(いま)はどうなってるかはわからねぇが…
──それでも、会(あ)いにいくんだっ!
──俺(おれ)は、それを確(たし)かめた時(とき)、そいつがどうなってもいいようにそばに居(い)てやる!
──いいな、わかったなっ!
今(いま)、犯人(はんにん)の少年(しょうねん)は笑(わら)っているだろうか。
心強(こころづよ)い友(とも)を見(み)つけて。
笑(わら)っているだろうな…。
あの人(ひと)は、どんな人(ひと)とでも、仲良(なかよ)くなれる。
そして、笑(わら)わせられる。
朋也(ともや)(やっぱ、すげぇよ…)
朋也(ともや)(一生(いっしょう)かけても、追(お)いつけないよ、あの人(ひと)には…)
バスはものすごい勢(いきお)いで、蛇行(だこう)しながら、高速(こうそく)を走(はし)っていく。
あれだけの出血(しゅっけつ)だ、意識(いしき)も朦朧(もうろう)としているだろう。
死(し)と隣(とな)り合(あ)わせの旅行(りょこう)。
でも、最高(さいこう)に楽(たの)しんでいるんだろう。
分離帯(ぶんりだい)に突(つ)っ込(こ)みそうになるたび、横転(おうてん)しそうなほど振(ふ)られるたび、大笑(おおわら)いしながら。
映像(えいぞう)がぼやけていく。
いつの間(ま)にか、涙(なみだ)が目(め)に溜(た)まっていた。
朋也(ともや)(なんだ、これ?)
朋也(ともや)「はは…」
拭(ぬぐ)って、渚(なぎさ)と早苗(さなえ)さんを見(み)る。
ふたりとも、同(おな)じだった。
笑顔(えがお)で、そして、目(め)に涙(なみだ)を溜(た)めていた。
なんなんだろう…俺(おれ)たちが共有(きょうゆう)しているこの感情(かんじょう)は。
よくわからなかった。
画面(がめん)には、暴走(ぼうそう)をし続(つづ)けるバス。
それが、ゆっくりと速度(そくど)を緩(ゆる)めていく。
そして、カーブを曲(ま)がりきれず、中央分離帯(ちゅうおうぶんりたい)に激突(げきとつ)し…
乗(の)り上(あ)げたところで、ようやく、その動(うご)きを止(と)めた。
パトカーと救急車(きゅうきゅうしゃ)が周(まわ)りを取(と)り巻(ま)く。
次々(つぎつぎ)と、警官隊(けいかんたい)が窓(まど)を割(わ)り、中(なか)に乗(の)り込(こ)み…
アナウンサーは、事件(じけん)の結末(けつまつ)を伝(つた)えていた。
隣町(となりまち)の大病院(だいびょういん)。
蛍光灯(けいこうとう)が照(て)らし出(だ)す廊下(ろうか)は、重苦(おもくる)しい空気(くうき)で満(み)ちていた。
医師(いし)は、早苗(さなえ)さんに、手(て)は尽(つ)くしたことを伝(つた)えた。
後(あと)は、本人(ほんにん)の生命力(せいめいりょく)に頼(たよ)るしかない状況(じょうきょう)なのだと。
オッサンは…たくさんの人(ひと)たちの命(いのち)を救(すく)った。
そして、多分(たぶん)…少年(しょうねん)の心(こころ)も救(すく)った。
でも…
俺(おれ)は祈(いの)るようにして待(ま)ち続(つづ)ける早苗(さなえ)さんの横顔(よこがお)を見(み)た。
いつだって、いなくなるような人(ひと)で…
いつだって、無茶(むちゃ)をするような人(ひと)で…
それで、待(ま)ち続(つづ)けるだけの早苗(さなえ)さんが…不憫(ふびん)に思(おも)えてならなかった。
それはずっと思(おも)ってきたことだ。
オッサンは、立派(りっぱ)な人間(にんげん)だ。
けど、立派(りっぱ)な夫(おっと)なのだろうか。
オッサンにとって、早苗(さなえ)さんは、なんなんだろう…。
たくさんの人(ひと)たちと一緒(いっしょ)なのだろうか。
そう思(おも)えてならない。
早苗(さなえ)さんにだけは、なにかひとつでも誓(ちか)えることがないのだろうか。
早苗(さなえ)「………」
その顔(かお)から視線(しせん)をはずす。
どうか、神様(かみさま)…
この人(ひと)を悲(かな)しませないようにしてください。
俺(おれ)は祈(いの)った。
秋生(あきお)エピローグ
オッサンは、一日中(いちにちじゅう)、眠(ねむ)り続(つづ)けた。
そして、二日後(ふつかご)の朝(あさ)。
着替(きが)えを取(と)りに帰(かえ)っていた俺(おれ)は、廊下(ろうか)で、慌(あわ)てて駆(か)けてくる渚(なぎさ)と鉢合(はちあ)わせになる。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「あっ、朋也(ともや)くんっ」
呼吸(こきゅう)を整(ととの)えてから言(い)った。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんが、いなくなってしまいましたっ」
朋也(ともや)「待(ま)て…それは、どういうことだ?
意識(いしき)が戻(もど)ったってことか?」
渚(なぎさ)「はい。たぶん…起(お)きて、そのままふらっと…」
朋也(ともや)「くわ…」
俺(おれ)は顔(かお)を手(て)で覆(おお)う。
朋也(ともや)「ったく、あの人(ひと)は…」
渚(なぎさ)「まだ傷口(きずぐち)だって、ふさがってないはずです…」
渚(なぎさ)「遠(とお)くにいかなければいいんですが…」
渚(なぎさ)「今(いま)、お母(かあ)さんが探(さが)してる最中(さいちゅう)です。朋也(ともや)くんも手伝(てつだ)ってください」
朋也(ともや)「ああ。じゃ、俺(おれ)は、表(おもて)を探(さが)すな」
二手(ふたて)に分(わ)かれて、オッサンを探(さが)し始(はじ)める。
早苗(さなえ)さんも、別(べつ)の場所(ばしょ)を探(さが)しているのだろう。
きっと、前代未聞(ぜんだいみもん)だ。
意識(いしき)を取(と)り戻(もど)した直後(ちょくご)に、行方(ゆくえ)をくらませてしまう重傷(じゅうしょう)の患者(かんじゃ)なんて。
そもそも傷口(きずぐち)が痛(いた)んで、身動(みうご)きできないはずだった。
朋也(ともや)(むちゃくちゃだ…)
無事(ぶじ)だったんなら、その笑顔(えがお)を見(み)せてやってくれればいいのに。
それをどれだけ俺(おれ)たちは待(ま)ち望(のぞ)んでいたか。
あの人(ひと)は、なんにも知(し)らないんだ。
…いた。
ベンチに座(すわ)って、地面(じめん)に目(め)を落(お)としていた。
朋也(ともや)「オッサン、こんなとこで何(なに)やってんだよ」
秋生(あきお)「ちっ…見(み)つかっちまったか」
苦々(にがにが)しい表情(ひょうじょう)で俺(おれ)を見上(みあ)げる。
朋也(ともや)「隠(かく)れん坊(ぼう)でもしてたのかよ。みんな心配(しんぱい)して探(さが)してたんだぜ?」
朋也(ともや)「重傷(じゅうしょう)だってのに、無茶(むちゃ)しやがって…」
秋生(あきお)「ふぅ…そうだな」
朋也(ともや)「ほら、戻(もど)ろう」
秋生(あきお)「まぁ、待(ま)て、もうちょい休(やす)ませろ」
朋也(ともや)「何(なに)を呑気(のんき)に…」
オッサンはタバコの箱(はこ)を取(と)りだして、中(なか)の一本(いっぽん)を口(くち)にくわえた。
秋生(あきお)「今(いま)、警察(けいさつ)と会(あ)ってよ…聞(き)き出(だ)したんだ」
朋也(ともや)「え?」
秋生(あきお)「やっぱ、あいつの婆(ばあ)さんはもう亡(な)くなってたってよ」
一瞬(いっしゅん)、なんの話(はなし)か理解(りかい)できなかった。
警察(けいさつ)…。
確(たし)かに、昨日(きのう)も、早苗(さなえ)さんの元(もと)を訪(おとず)れていた。
そのひとりを今(いま)さっき、ここで捕(つか)まえて、話(はなし)を聞(き)き出(だ)したというのだ。
なら、あの少年(しょうねん)の話(はなし)に違(ちが)いない。
婆(ばあ)さんというのは、少年(しょうねん)が会(あ)いにいこうとしていた人(ひと)のはずだった。
その人(ひと)がすでに亡(な)くなっていた…。
朋也(ともや)「そっか…」
秋生(あきお)「でも、まぁ、本人(ほんにん)は取(と)り乱(みだ)さずにいたそうだ」
秋生(あきお)「すでに、覚悟(かくご)はしてたんだろうな…」
朋也(ともや)「いや、あんたのおかげだろ」
秋生(あきお)「そうか?」
秋生(あきお)「だって、あいつが、ブレーキ踏(ふ)みやがったんだぜ」
朋也(ともや)「…え?」
秋生(あきお)「俺(おれ)が意識(いしき)なくす寸前(すんぜん)、もういいって、言(い)ってさ」
…いや、だから、それがあんたのおかげなんだって。
けど、もうそれは言(い)わないことにした。
秋生(あきお)「で、警察(けいさつ)の奴(やつ)も、面会(めんかい)に来(き)てやってくれって言(い)ってくれたからさ…」
秋生(あきお)「今(いま)から行(い)こうとしたんだが…」
朋也(ともや)「……はぁ?」
秋生(あきお)「イツツ…やっぱ無理(むり)だ。傷口(きずぐち)がまた開(ひら)いてきたかも…」
手(て)で押(お)さえた、パジャマの腹(はら)の辺(あた)りには血(ち)が滲(にじ)んでいた。
朋也(ともや)「オッサン…」
秋生(あきお)「まぁ、いい。このタバコ吸(す)ったら、大人(おとな)しく今日(きょう)は戻(もど)ってやるよ」
くわえていたタバコにライターで火(ひ)をつけた。
本当(ほんとう)に…本当(ほんとう)に、呆(あき)れた人(ひと)だった。
この人(ひと)をどこかに繋(つな)ぎ止(と)めておくことなんて、誰(だれ)にもできやしない。
秋生(あきお)「おっと…また、見(み)つかっちまった」
オッサンが俺(おれ)の背後(はいご)を見(み)ていた。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんっ」
振(ふ)り返(かえ)ると、その先(さき)に、早苗(さなえ)さんが立(た)っていた。
秋生(あきお)「よぅ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)さんはオッサンの体(からだ)を見(み)て、涙(なみだ)を浮(う)かべていた。
心底(しんそこ)、心配(しんぱい)していたのだろう。
早苗(さなえ)「もう…秋生(あきお)さん、ダメですよ」
早苗(さなえ)「いつだって秋生(あきお)さんは、すぐ居(い)なくなってしまうんですから」
秋生(あきお)「………」
備(そな)え付(つ)けの灰皿(はいざら)でタバコをもみ消(け)す。
それから、ゆっくりと立(た)ち上(あ)がった。
痛(いた)みに屈(く)せず、真(ま)っ直(す)ぐに。
早苗(さなえ)さんを見(み)た。
秋生(あきお)「俺(おれ)は…」
秋生(あきお)「居(い)なくなったりはしない」
秋生(あきお)「いつまでもおまえのそばにいる」
秋生(あきお)「だから…」
秋生(あきお)「安心(あんしん)しろ、早苗(さなえ)」
早苗(さなえ)「………」
早苗(さなえ)「はい…」
早苗(さなえ)「お願(ねが)いしますねっ」
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查看完整版本: clannad渚线剧本注音完成(rc版发布)