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4月22日(火)
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…朝(あさ)。
夕(ゆう)べも寝(ね)るのが遅(おそ)かったから、寝起(ねお)きは最悪(さいあく)だ。
意志(いし)に反(はん)して目(め)が開(ひら)かない。
しばらく上体(じょうたい)だけ起(お)こしてぼーっとしている。
朋也(ともや)(俺(おれ)がいないと、あいつ…どうしていいかわからないだろうからな…)
朦朧(もうろう)とした意識(いしき)のまま、布団(ふとん)から抜(ぬ)け出(だ)した。
古河(ふるかわ)「おはようございます」
朋也(ともや)「ああ、おはよ…」
古河(ふるかわ)「眠(ねむ)そうです」
朋也(ともや)「ああ、むちゃくちゃ眠(ねむ)い」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、授業中(じゅぎょうちゅう)、寝(ね)てしまいそうです」
朋也(ともや)「ああ、寝(ね)るね、間違(まちが)いなく…」
古河(ふるかわ)「わたしも、眠(ねむ)いです」
朋也(ともや)「おまえも?」
古河(ふるかわ)「はい、夕(ゆう)べ、いろいろ考(かんが)えていて、あまり眠(ねむ)れなかったんです」
朋也(ともや)「何(なに)を考(かんが)えてたんだよ」
古河(ふるかわ)「演劇部(えんげきぶ)の活動(かつどう)を生徒会(せいとかい)に認(みと)めてもらう方法(ほうほう)です」
朋也(ともや)「へぇ…」
古河(ふるかわ)「署名(しょめい)を集(あつ)めるとか、どうですか」
古河(ふるかわ)「たくさん集(あつ)まれば、生徒会(せいとかい)の方(かた)も、きっと考(かんが)えてくれると思(おも)います」
朋也(ともや)「そんな簡単(かんたん)な相手(あいて)じゃないぞ」
古河(ふるかわ)「同(おな)じ生徒(せいと)です。きっと、わかってくれると思(おも)います」
朋也(ともや)「そうかね…」
朋也(ともや)「こんな学校(がっこう)じゃあ、集(あつ)まらないんじゃないかな…」
朋也(ともや)「そもそも、演劇部(えんげきぶ)に入(はい)りたい奴(やつ)がいなくなったから、演劇部(えんげきぶ)は廃部(はいぶ)になったんだしな」
古河(ふるかわ)「そう言(い)われると…そうです」
古河(ふるかわ)「少(すこ)し考(かんが)えが甘(あま)かったです」
朋也(ともや)「いや、いいんだけどさ…」
また、ふたり並(なら)んで坂(さか)を登(のぼ)る。
多(おお)くの生徒(せいと)の中(なか)に紛(まぎ)れて。
けど、俺(おれ)たちふたりは違(ちが)う。
そんな特別(とくべつ)な思(おも)いを抱(だ)いて。
昼休(ひるやす)み。
古河(ふるかわ)「やっぱり剥(は)がされてしまいました」
朋也(ともや)「無視(むし)しろ。貼(は)り直(なお)せばいい」
古河(ふるかわ)「もう、貼(は)らないでおきたいです」
朋也(ともや)「どうして」
古河(ふるかわ)「なんだか、可哀想(かわいそう)です」
朋也(ともや)「誰(だれ)が」
古河(ふるかわ)「だんご大家族(だいかぞく)です」
朋也(ともや)「………」
その言葉(ことば)を聞(き)いて、目(め)が点(てん)になる。
朋也(ともや)「…はい?」
古河(ふるかわ)「剥(は)がされては貼(は)っての繰(く)り返(かえ)しでは、まるでだんご達(たち)が道具(どうぐ)みたいです」
朋也(ともや)(いや、道具(どうぐ)なんだけど…)
そんな道理(どうり)も通用(つうよう)しないのだろう、こいつには。
古河(ふるかわ)「だから、もうやめにしましょう」
朋也(ともや)「なら、どうするんだよ。説明会(せつめいかい)は来週(らいしゅう)だろ?」
朋也(ともや)「貼(は)ってあったものがなくなっていたら、来(きた)ようとしていた奴(やつ)らが不審(ふしん)に思(おも)うぞ」
朋也(ともや)「延期(えんき)したのか、あるいは、中止(ちゅうし)になったのか、ってさ」
古河(ふるかわ)「そうですね…」
朋也(ともや)「どうするんだよ、部長(ぶちょう)」
古河(ふるかわ)「えっと、その…」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)「やっぱり、ビラを貼(は)り続(つづ)けるしかないんでしょうか」
古河(ふるかわ)「それがイタチごっこでも」
朋也(ともや)「だと思(おも)うけどな、俺(おれ)は」
朋也(ともや)「それで人(ひと)の目(め)に触(ふ)れる機会(きかい)が増(ふ)やせるなら、それでいいと思(おも)う」
古河(ふるかわ)「…わかりました」
朋也(ともや)「じゃあ、ビラのマスター、貸(か)してくれ。コピーしてくるから」
古河(ふるかわ)「え?」
朋也(ともや)「どうした」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、持(も)ってないんですか」
朋也(ともや)「昨日(きのう)、最後(さいご)に渡(わた)しただろ。マスターだから、持(も)っておけって」
古河(ふるかわ)「あ…あれって、マスターだったんですか?」
朋也(ともや)「そうだよ。どこにやった」
古河(ふるかわ)「貼(は)ってしまいました」
朋也(ともや)「はい?」
古河(ふるかわ)「えっと、まだ貼(は)ってなかった掲示板(けいじばん)があったものですから」
朋也(ともや)「ぐあ…アホな子(こ)か、おまえはっ」
朋也(ともや)「あれだけ、大事(だいじ)に持(も)っておけって、言(い)っただろ…」
古河(ふるかわ)「それは…今(いま)思(おも)い出(だ)しました」
古河(ふるかわ)「あの時(とき)は夢中(むちゅう)で貼(は)ってしまいました。たくさんの人(ひと)に見(み)てもらえるようにって」
朋也(ともや)「つーことは、なんだ…」
朋也(ともや)「また書(か)き直(なお)しってことか」
古河(ふるかわ)「はい…そうなってしまいます」
朋也(ともや)「おまえ、書(か)けよ」
古河(ふるかわ)「わかりました。がんばります。がんばって、たくさん描(えが)きます」
朋也(ともや)「何(なに)を」
古河(ふるかわ)「だんごです」
朋也(ともや)「いや、それは…」
古河(ふるかわ)「はい?」
朋也(ともや)「せめて、一匹(いっぴき)に…」
古河(ふるかわ)「大家族(だいかぞく)ですから、たくさん居(い)るんです」
古河(ふるかわ)「助(たす)け合(あ)いなんです」
朋也(ともや)「いいじゃないか、たまには一匹狼(いっぴきおおかみ)なだんごがいても」
朋也(ともや)「バイクにまたがって、放浪(ほうろう)の旅(たび)をしてるんだ。そうだ、そうしよう」
古河(ふるかわ)「だんごはそんなことしません」
朋也(ともや)「どこの家族(かぞく)だって、はみ出(だ)しモノはいるだろ」
古河(ふるかわ)「だんご大家族(だいかぞく)にはいないんです」
古河(ふるかわ)「それは時(とき)には喧嘩(けんか)もします」
古河(ふるかわ)「けど、結局(けっきょく)は仲良(なかよ)しなんです」
朋也(ともや)「まあ、仲良(なかよ)しかどうかは置(お)いておいてだな」
古河(ふるかわ)「置(お)いておいて、じゃなく、仲良(なかよ)しなんです」
古河(ふるかわ)「だからっ…」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「だから、好(す)きなんです…」
古河(ふるかわ)「だんご大家族(だいかぞく)は、みんなが仲良(なかよ)しだから…」
単純(たんじゅん)に可愛(かわい)くて好(す)き、と言(い)っているわけではないらしい。
朋也(ともや)「…そっか」
古河(ふるかわ)「はい、そうなんです」
朋也(ともや)「じゃあ、描(か)くか…」
俺(おれ)も何(なに)を躍起(やっき)になっていたのだろうか。よくわからなかった。
朋也(ともや)「よっと」
壁(かべ)の交通(こうつう)安全(あんぜん)のポスターを取(と)り外(はず)す。
それを裏返(うらがえ)して、古河(ふるかわ)に突(つ)きつける。
朋也(ともや)「これを使(つか)え。たくさん描(か)けるぞ」
朋也(ともや)「でかいからな、一万匹(いちまんぴき)ぐらい描(か)ける」
古河(ふるかわ)「そんなにいません」
とんとん。
朋也(ともや)「いいから、描(か)けって」
古河(ふるかわ)「それ、大(おお)きすぎです」
朋也(ともや)「じゃあ、だんごも大(おお)きく描(か)け」
とんとん!
古河(ふるかわ)「恥(は)ずかしいです」
朋也(ともや)「描(か)けってばよっ」
どんっ!
古河(ふるかわ)「はい…?」
古河(ふるかわ)が振(ふ)り返(かえ)る。その先(さき)に、壁(かべ)を蹴(け)りつける春原(すのはら)がいた。
春原(すのはら)「さっきから呼(よ)んでたんだけど…お邪魔(じゃま)みたいだね」
手(て)に持(も)った紙切(かみき)れをひらひらとさせながら、冷(さ)めた目(め)でこっちを見(み)ていた。
古河(ふるかわ)「あ、だんごたちですっ」
頼(たの)む、ビラと言(い)え。
古河(ふるかわ)「ありがとうございます」
それを受(う)け取(と)る古河(ふるかわ)。
朋也(ともや)「おまえ、何(なに)しにきたんだよ…」
それを押(お)しのけて、俺(おれ)は春原(すのはら)の正面(しょうめん)に立(た)つ。
春原(すのはら)「無論(むろん)、イケてるパンの食(く)い放題権(ほうだいけん)、獲得(かくとく)のためさ」
春原(すのはら)「学食(がくしょく)のパンには僕(ぼく)も飽(あ)きたからねぇ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)、春原(すのはら)って言(い)うんだ。よろしく」
俺(おれ)をよけて、後(うし)ろにいた古河(ふるかわ)に挨拶(あいさつ)していた。
古河(ふるかわ)「あ、はいっ、よろしくお願(ねが)いしますっ」
古河(ふるかわ)「えっと…その、よろしくってことは…」
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さん、演劇部(えんげきぶ)に入(はい)ってくれるということでしょうかっ」
春原(すのはら)「いや、全然(ぜんぜん)興味(きょうみ)ない」
古河(ふるかわ)「楽(たの)しいです、みんなで劇(げき)をするのって」
春原(すのはら)「そんなことよりさ、訊(き)きたいことがあるんだけど」
春原(すのはら)「君(きみ)の家(いえ)って、自営業(じえいぎょう)だろ。何(なに)やってんだっけ」
古河(ふるかわ)「はい?
わたしの家(いえ)ですか?」
古河(ふるかわ)「パン屋(や)です」
春原(すのはら)「よしっ」
俺(おれ)の話(はなし)に偽(いつわ)りがないことを確認(かくにん)して、手応(てごた)えを得(う)たようだ。
朋也(ともや)(いや、その先(さき)に偽(いつわ)りがあるんだがな…)
古河(ふるかわ)「それが…どうかしましたか?」
春原(すのはら)「いや、なんでもないよ。それより、それ、助(たす)かっただろ?」
古河(ふるかわ)「はい、とても助(たす)かりました」
春原(すのはら)「生徒会(せいとかい)の人間(にんげん)が剥(は)がして回(まわ)ってたからさ、一枚(いちまい)だけ先(さき)に取(と)っておいた」
古河(ふるかわ)「そうなんですか。ありがとうございます」
古河(ふるかわ)「あの…岡崎(おかざき)さん」
ビラを胸(むね)に抱(だ)いて、俺(おれ)に向(む)き直(なお)る。
古河(ふるかわ)「やっぱりこれはもう、貼(は)りたくないです。ずっと大切(たいせつ)に仕舞(しまい)っておきたいです」
朋也(ともや)「おまえな…ビラなんかを思(おも)い出(で)の品(しな)にするなよな…」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんとふたりで、一生懸命(いっしょうけんめい)作(つく)ったものですから…」
朋也(ともや)「………」
あまりに情(じょう)を移(うつ)してしまっている。奪(うば)い取(と)ったら、泣(な)き出(だ)しそうだった。
朋也(ともや)「じゃあ、どうするんだよ」
古河(ふるかわ)「それは…」
古河(ふるかわ)「ええと…どうしましょう…」
春原(すのはら)「ん?
なんの話(はなし)かな?
困(こま)ってるんなら、相談(そうだん)に乗(の)るよ」
朋也(ともや)「てめぇは帰(かえ)れ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、それはお友達(ともだち)に失礼(しつれい)だと思(おも)います」
春原(すのはら)「そうだ、失礼(しつれい)だぞ」
朋也(ともや)(くそ…)
春原(すのはら)「ほら、こんな失礼(しつれい)な奴(やつ)、もう相手(あいて)にしないでさ、僕(ぼく)に話(はな)してみな」
古河(ふるかわ)「いえ、岡崎(おかざき)さんは口(くち)は悪(わる)いですけど、とても優(やさ)しいです…」
古河(ふるかわ)「今(いま)までも、たくさん力(ちから)になってもらいました」
古河(ふるかわ)「ですから、そんな勝手(かって)なこともできないですし、したくないです」
真面目(まじめ)に返(かえ)されていた。
春原(すのはら)「へぇ…うまくやってんなぁ」
春原(すのはら)「こりゃ、食(た)べ放題(ほうだい)になるわけだ」
古河(ふるかわ)「食(た)べ放題(ほうだい)…?」
春原(すのはら)「ううん、こっちの話(はなし)」
春原(すのはら)「とにかくさ、僕(ぼく)も力(ちから)になる。だから、話(はなし)を聞(き)かせてよ」
古河(ふるかわ)「いえ…力(ちから)になっていただくなんて、それは申(もう)しわけないです…」
古河(ふるかわ)「でも、話(はなし)はしたいと思(おも)います。この子(こ)たちも、助(たす)けてもらったことですし」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、いいですよね」
朋也(ともや)「ああ…」
春原(すのはら)に目(め)を付(つ)けられたが最後(さいご)。そのスッポンのようなしつこさから、逃(のが)れる術(じゅつ)はないのだ。
朋也(ともや)(もう、好(す)きにしてくれ…)
春原(すのはら)「なるほどね…」
春原(すのはら)「そんなの簡単(かんたん)じゃん」
古河(ふるかわ)「え、何(なに)かいい方法(ほうほう)がありますか」
春原(すのはら)「うん、生徒会長(せいとかいちょう)だかなんだか知(し)らないけどさ…」
春原(すのはら)「そいつをシメる」
古河(ふるかわ)「しめる、と言(い)いますと?」
春原(すのはら)「うーん、ぎゃふん、と言(い)わせるってことかな」
古河(ふるかわ)「え…どうやってですか」
春原(すのはら)「校舎裏(こうしゃうら)に呼(よ)び出(だ)してさ、こう複数(ふくすう)で囲(かこ)んで…」
春原(すのはら)が足(あし)を前後(ぜんご)に動(うご)かす。
古河(ふるかわ)「そんなことしたら、ダメですっ」
慌(あわ)てて、そのジェスチャーをやめさせる。
…見(み)ろ、この価値観(かちかん)の違(ちが)いを。
春原(すのはら)「えぇ?
ダメなの?」
古河(ふるかわ)「生徒会(せいとかい)の方々(かたがた)は、何(なに)も悪(わる)いことしてないです…」
古河(ふるかわ)「していたとしてもです、暴力(ぼうりょく)はダメです…」
春原(すのはら)「じゃ、話(はな)し合(あ)い?
僕(ぼく)の苦手(にがて)な分野(ぶんや)だねぇ…」
古河(ふるかわ)「いえ、話(はなし)を聞(き)いてもらえただけでもよかったです」
古河(ふるかわ)「ありがとうございました」
改(あらた)めて頭(あたま)を下(さ)げる。
春原(すのはら)「うーん…ま、後(あと)はふたりに任(まか)せるけどさ」
春原(すのはら)「僕(ぼく)も一緒(いっしょ)にいるよ。何(なに)かあった時(とき)は力(ちから)になるからさ」
朋也(ともや)「暴力振(ぼうりょくふ)るうことしか能(のう)がないくせに、帰(かえ)れ」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、それはお友達(ともだち)に失礼(しつれい)です」
春原(すのはら)「そうだ、失礼(しつれい)だぞ」
朋也(ともや)(くそぅ…)
想像(そうぞう)していた、最悪(さいあく)の結果(けっか)だ。
厄介(やっかい)な奴(やつ)が仲間(なかま)に加(くわ)わってしまった。
朋也(ともや)(ああ、RPGのように、選択(せんたく)の余地(よち)があれば…)
春原陽平(すのはらようへい)』が仲間(なかま)に加(くわ)わりたいと申(もう)し出(で)てきた!
どうしますか?
斬る春原(すのはら)「って、なんで、仲間(なかま)に入(い)れるって選択肢(せんたくし)がないんすかっ!」
ばさり!
春原(すのはら)「ぎゃあああーーーーーーっ!」
…といった具合(ぐあい)に、とても愉快(ゆかい)なイベントになるんだが。
春原(すのはら)「なに、にやけてんの、おまえ」
朋也(ともや)「いや…なんでもない」
春原(すのはら)「ほら、これからどうするんだよ。昼休(ひるやす)み終(お)わっちまうぜ?」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さん、どうしましょう」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
朋也(ともや)「とりあえず、学校(がっこう)のことに詳(くわ)しい奴(やつ)に訊(き)いてみるか…俺(おれ)たち、知(し)らなさすぎだし」
春原(すのはら)「ははっ、おまえ、何年(なんねん)ここの生徒(せいと)やってんだよっ」
朋也(ともや)「おまえも同(おな)じだからな」
とりあえず廊下(ろうか)に出(で)てみる。
古河(ふるかわ)「誰に相談してみますか」
担任に相談朋也(ともや)「学校(がっこう)のことを訊(き)くんだったら、そりゃ教師(きょうし)に訊(き)くのが一番(いちばん)手(て)っ取(と)り早(ばや)いよな」
朋也(ともや)「というわけで、担任(たんにん)に訊(き)こう」
古河(ふるかわ)「岡崎(おかざき)さんのクラスの担任(たんにん)ですか?」
朋也(ともや)「いや、おまえのクラスのでもいいぞ」
古河(ふるかわ)「わたしも、どちらでもいいです」
朋也(ともや)「B組(ぐみ)って、担任(たんにん)、誰(だれ)だっけ?」
古河(ふるかわ)「美術(びじゅつ)の担任(たんにん)をされている、篠原(しのはら)先生(せんせい)です」
春原(すのはら)「あの人(ひと)、なんか鉄仮面(てつかめん)みたいな顔(かお)してて、コワイよね…」
古河(ふるかわ)「はい、あまり表情(ひょうじょう)を変(か)える先生(せんせい)ではないです」
春原(すのはら)「ウチの担任(たんにん)のほうがいいんじゃない?
頼(たよ)りないけど、人(ひと)は悪(わる)くないよ」
古河(ふるかわ)「どなたでしょうか」
朋也(ともや)「数学(すうがく)もってる…ええと…なんだっけ」
春原(すのはら)「なんか、動物(どうぶつ)の名前(なまえ)が入(はい)ってた気(き)がすんだけど」
可哀想(かわいそう)な担任(たんにん)だった…。
朋也(ともや)「猫(ねこ)だっけか、犬(いぬ)だっけか」
春原(すのはら)「熊(くま)とか象(ぞう)かもしれんぞ」
朋也(ともや)「象(ぞう)がつく名字(みょうじ)なんてないだろ」
春原(すのはら)「んなことねぇよ、象本(ぞうもと)とか、象田(ぞうだ)とか、象印(ぞうじるし)とかあんだろ」
朋也(ともや)「最後(さいご)の、名字(みょうじ)か?」
春原(すのはら)「名字(みょうじ)だよっ」
春原(すのはら)「ああ、象印(ぞうじるし)だな。今(いま)、思(おも)い出(だ)したよ。聞(き)き覚(おぼ)えあるもん。間違(まちが)いないね」
その聞(き)き覚(おぼ)えは、本当(ほんとう)に人(ひと)の名前(なまえ)としてか。クイズ番組(ばんぐみ)の提供(ていきょう)じゃないのか。
古河(ふるかわ)「わたし、知(し)らない先生(せんせい)です」
春原(すのはら)「ま、そんな悪(わる)い奴(やつ)じゃないからさ、話(はなし)、してみようぜ」
朋也(ともや)「おまえ、最近(さいきん)、絞(しぼ)られたばかりじゃないのか」
春原(すのはら)「最近(さいきん)絞(しぼ)られたばかりだから、当分(とうぶん)は何(なに)もないってことじゃん」
朋也(ともや)「すげぇポジティブシンキング男(おとこ)だな」
職員室(しょくいんしつ)の前(まえ)までやってくる。
春原(すのはら)「うーん、いないねぇ」
中(なか)を覗(のぞ)きこんでいた春原(すのはら)が背中(せなか)を向(む)けたままで言(い)った。
俺(おれ)は廊下(ろうか)を見(み)やる。タイミングよく、その先(さき)のドアが開(ひら)いて、担任(たんにん)が姿(すがた)を見(み)せた。
朋也(ともや)「あ、こっちに居(い)たぞ。今(いま)、校長室(こうちょうしつ)から出(で)てきた」
こっちに向(む)かって歩(ある)いてくる。
担任(たんにん)「なんだ、おまえたち、職員室(しょくいんしつ)に用(よう)か?」
俺(おれ)たちを見(み)つけると、そう訊(き)いてきた。
春原(すのはら)「ああ、僕(ぼく)たち、用(よう)があったんだ。象印(ぞうじるし)先生(せんせい)に」
ずるぅっ!と年甲斐(としがい)もなく転(こ)けていた。
担任(たんにん)「誰(だれ)がだっ、乾(いぬい)だっ」
哀(あわ)れな担任(たんにん)だった。
担任(たんにん)「で、なんなんだ。どうせロクな…」
担任(たんにん)「っと…珍(めずら)しいな。女(おんな)の子連(こづ)れか」
担任(たんにん)「君(きみ)、こいつらに騙(だま)されてないか。大丈夫(だいじょうぶ)か?」
春原(すのはら)「人聞(ひとぎ)き悪(わる)いこと言(い)うなよ、恩(おん)を着(き)せてるだけだよっ」
十分(じゅうぶん)人聞(ひとぎ)き悪(わる)い。
古河(ふるかわ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。おふたりには、手伝(てつだ)ってもらってるんです」
担任(たんにん)「ん?
どういうことだい」
俺(おれ)たちは、そのまま、事(こと)の流(なが)れを話(はな)した。
担任(たんにん)「そうか、そりゃ、難儀(なんぎ)だな…」
担任(たんにん)「部(ぶ)として認(みと)めてもらうには、まずは顧問(こもん)をつけること、これが第一条件(だいいちじょうけん)だ」
古河(ふるかわ)「顧問(こもん)…先生(せんせい)ですね」
朋也(ともや)「簡単(かんたん)じゃないか。演劇部(えんげきぶ)の元顧問(もとこもん)を探(さが)せばいいだけだろ」
朋也(ともや)「去年(きょねん)まで演劇部(えんげきぶ)はあったんだから、この学校(がっこう)に居(い)るはずだぜ」
古河(ふるかわ)「そう…ですね。探(さが)してみます」
担任(たんにん)「それだけじゃ駄目(だめ)なんだな」
春原(すのはら)「なんだよ、もったいぶるなよ、象印(ぞうじるし)」
担任(たんにん)「乾(いぬい)だっ!」
担任(たんにん)「しかも、おまえ、今(いま)、教師(きょうし)の名前(なまえ)を呼(よ)び捨(す)てにしたな?」
春原(すのはら)「はは、気(き)のせいっすよ」
担任(たんにん)「どうだかな…」
古河(ふるかわ)「それだけじゃ、ダメと言(い)いますと?」
担任(たんにん)「ああ、もうひとつ条件(じょうけん)がある」
担任(たんにん)「入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)が3名(めい)以上(いじょう)居(い)ること」
担任(たんにん)「ま、その点(てん)に関(かん)しては大丈夫(だいじょうぶ)みたいだな」
担任(たんにん)は俺(おれ)たちの顔(かお)を見回(みまわ)した。
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)が固(かた)まる。
担任(たんにん)「まだ、時間(じかん)あるから、今(いま)から、演劇部(えんげきぶ)の元顧問(もとこもん)、探(さが)してみるかい?」
担任(たんにん)「訊(き)けば、すぐ見(み)つかると思(おも)うよ」
古河(ふるかわ)「ちょっと待(ま)って…くださいっ」
担任(たんにん)「どうした?」
古河(ふるかわ)「えっと、その…」
古河(ふるかわ)「入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)の数(かず)が…」
担任(たんにん)「え?
足(た)らないの?」
もう一度(いちど)俺(おれ)たちの顔(かお)を見回(みまわ)す。
担任(たんにん)「そっか…こいつらが、演劇(えんげき)をやるわけないか…」
浅(あさ)はかだったとばかりに、ため息(いき)をつかれた。
担任(たんにん)「それだと難(むずか)しいな」
担任(たんにん)「そもそも演劇部(えんげきぶ)は、部員(ぶいん)が集(あつ)まらなくなって、廃部(はいぶ)になったんだからね」
古河(ふるかわ)「やっぱりそうですか…」
担任(たんにん)「おっと、そろそろ戻(もど)らないと」
担任(たんにん)「悪(わる)いね。また、相談事(そうだんごと)があったら、言(い)っておいで」
そう、古河(ふるかわ)だけに告(つ)げて、職員室(しょくいんしつ)に戻(もど)っていった。
廊下(ろうか)に立(た)ちつくす俺(おれ)たち。
古河(ふるかわ)「後(あと)、ふたり、集(あつ)めなくてはいけないみたいです」
朋也(ともや)「………」
そもそも、その募集(ぼしゅう)を生徒会(せいとかい)に禁止(きんし)されているのだから、矛盾(むじゅん)した話(はなし)だった。
でも、人数(にんずう)さえ揃(そろ)えて、顧問(こもん)を見(み)つければ…
もしかしたら、その顧問(こもん)が生徒会(せいとかい)に談判(だんぱん)してくれるかもしれない。
すでに体裁(ていさい)は整(ととの)っているのだから。
そうなれば、生徒会(せいとかい)とて、無下(むげ)にはね除(のぞ)けられないのではないだろうか。
朋也(ともや)「あのさ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちが、部員(ぶいん)の振(ふ)り、しておいてやろうか」
だから、その案(あん)を口(くち)にしていた。
どう考(かんが)えても、そうすべきだ。
朋也(ともや)「だって、そうしないと、本当(ほんとう)の部員(ぶいん)すら、集(あつ)められないだろ?」
古河(ふるかわ)「では…」
古河(ふるかわ)「お願(ねが)いできますか」
古河(ふるかわ)が春原(すのはら)の顔(かお)を伺(うかが)う。
春原(すのはら)「本当(ほんとう)に、そのまま部員(ぶいん)にされないのならいいけどさ」
古河(ふるかわ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。約束(やくそく)します」
朋也(ともや)「じゃ、決(き)まったところで、とっとと、顧問(こもん)を探(さが)そうぜ」
古河(ふるかわ)「はい」
引(ひ)き戸(と)に手(て)を添(そ)えたところで、古河(ふるかわ)が動(うご)きを止(と)める。
古河(ふるかわ)「でも…」
古河(ふるかわ)「先生(せんせい)に嘘(うそ)つくってことですよね」
古河(ふるかわ)「よくないことです」
朋也(ともや)「いいじゃないか。顧問(こもん)を探(さが)す時点(じてん)では、俺(おれ)たちは本当(ほんとう)に演劇部(えんげきぶ)に入(はい)りたかった」
朋也(ともや)「でも、顧問(こもん)が決(き)まってから、嫌(いや)になってやめたくなった」
朋也(ともや)「代(か)わりに、新(あたら)しい入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)が現(あらわ)れた」
朋也(ともや)「な。そう考(かんが)えろ」
古河(ふるかわ)「あの、新(あたら)しい入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)って誰(だれ)ですか?」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)。それはおまえが募集(ぼしゅう)して、見(み)つけるんだろ」
古河(ふるかわ)「やっぱり、そうですよね」
古河(ふるかわ)「でも…」
古河(ふるかわ)「もし、新(あたら)しい入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)が見(み)つかっても、お二人(ふたり)には、演劇部(えんげきぶ)で居(い)てほしいです」
古河(ふるかわ)「心(こころ)からそう思(おも)います」
古河(ふるかわ)「きっと楽(たの)しいですから」
春原(すのはら)「馬鹿(ばか)か、この子(こ)は…」
呟(つぶや)く春原(すのはら)を手(て)で制(せい)して、古河(ふるかわ)の肩口(かたぐち)に顔(かお)を寄(よ)せる。
朋也(ともや)「おまえさ…筋書(すじが)きと、本心(ほんしん)とをごっちゃにしてないか?」
古河(ふるかわ)「はい?」
朋也(ともや)「いや、まあいい。今(いま)は、顧問(こもん)を探(さが)すことに専念(せんねん)しろ」
古河(ふるかわ)「はい、わかりました」
がらり、と職員室(しょくいんしつ)のドアを開(あ)け放(はな)った。
見知(みし)った教師(きょうし)を捕(つか)まえ、以前(いぜん)に演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)をしていた教師(きょうし)の名(な)を尋(たず)ねた。
教師(きょうし)「ああ、古文(こぶん)の幸村先生(こうむらせんせい)よ。知(し)ってるでしょ?」
朋也(ともや)「ああ」
よく知(し)っていた。けど、演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)をしていたことは知(し)らなかった。
それほど、活動(かつどう)が慎(つつ)ましい部(ぶ)だったのだろう。
朋也(ともや)「…どこに居(い)るんだ?」
職員室(しょくいんしつ)を見渡(みわた)す。その姿(すがた)は見(み)あたらなかった。
教師(きょうし)「今(いま)は生活指導室(せいかつしどうしつ)かしら」
古河(ふるかわ)「わかりました。行(い)ってみます」
教師(きょうし)「にしても、衝撃(しょうげき)的(てき)な組(く)み合(あ)わせね」
古河(ふるかわ)「何(なに)がでしょうか」
教師(きょうし)「あなたのような大人(おとな)しそうな子(こ)と、問題児(もんだいじ)ふたりが連(つ)れ添(そ)ってるなんて」
教師(きょうし)「大丈夫(だいじょうぶ)?」
古河(ふるかわ)「大丈夫(だいじょうぶ)です。お友達(ともだち)ですから」
古河(ふるかわ)はよく通(とお)る声(こえ)で答(こた)えた。
その言葉(ことば)に反応(はんのう)してか、何人(なんにん)かの教師(きょうし)が俺(おれ)たちのほうを見(み)た。
そのうちの何人(なんにん)かが怪訝(かいが)に表情(ひょうじょう)を曇(くも)らせたが、俺(おれ)と目(め)が合(あ)うと、いそいそと自分(じぶん)の作業(さぎょう)に戻(もど)った。
古河(ふるかわ)「後(あと)、わたしも問題児(もんだいじ)ですから」
教師(きょうし)「え…?」
古河(ふるかわ)「ありがとうございます」
古河(ふるかわ)が礼(れい)をして、話(はなし)を終(お)わらせていた。
春原(すのはら)「僕(ぼく)が職員室(しょくいんしつ)なんて入(はい)るのは、決(き)まってお咎(とが)めを受(う)けるときだからね」
春原(すのはら)「連中(れんちゅう)のツラ、見(み)ただろ?
今度(こんど)は何事(なにごと)だ?って、顔(かお)してたぜ」
春原(すのはら)「たまには、普通(ふつう)の用(よう)で来(く)るってーの」
春原(すのはら)「くそっ」
ドアを激(はげ)しく蹴(け)りつけていた。
朋也(ともや)「やめとけ。いくぞ」
春原(すのはら)「どこへ」
朋也(ともや)「生活指導室(せいかつしどうしつ)だろ。な、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「そうです。生活指導室(せいかつしどうしつ)です」
春原(すのはら)「そんなところ入(はい)っていきたくないんだけど…」
踵(きびす)を返(かえ)す先(さき)…
ちょうど幸村(こうむら)が生活指導室(せいかつしどうしつ)から出(で)てきたところだった。
春原(すのはら)「ラッキー、ナイスタイミングだ、ヨボジィ」
朋也(ともや)「よぅ、ジィさん、元気(げんき)か」
幸村(こうむら)「ん…なにかの」
皺深(しわふか)い顔(かお)をこちらに向(む)けた。
幸村(こうむら)は俺(おれ)の一年(いちねん)の時(とき)の担任(たんにん)だった。俺(おれ)がここまで無事(ぶじ)に進級(しんきゅう)してこれたのも、この人(ひと)のおかげだった。
朋也(ともや)「ほら」
俺(おれ)は古河(ふるかわ)を幸村(こうむら)の前(まえ)に押(お)し出(だ)した。
古河(ふるかわ)「あの、わたし、3年(ねん)B組(ぐみ)の古河渚(ふるかわなぎさ)といいます」
幸村(こうむら)「ああ、うむ」
古河(ふるかわ)「あの…もう一度(いちど)、演劇部(えんげきぶ)の…その、顧問(こもん)を引(ひ)き受(う)けてもらえませんか」
幸村(こうむら)「ほぅ…」
朋也(ともや)「ジィさん、演劇部(えんげきぶ)の復活(ふっかつ)だ。大役(たいやく)だろ、頼(たの)む」
幸村(こうむら)「ほぅ、ほぅ…」
実(じつ)に苛立(いらだ)たしい反応(はんのう)だった。
春原(すのはら)「頷(うなず)いておけばいいんだよ、ジジィ」
じれったくなってか、春原(すのはら)がその頭(あたま)に手(て)を載(の)せて、強引(ごういん)に頷(うなず)かせようとする。
古河(ふるかわ)「春原(すのはら)さん、ダメですっ」
春原(すのはら)「あん?」
古河(ふるかわ)「ちゃんと、誠意(せいい)を持(も)って、お願(ねが)いしないとダメです」
春原(すのはら)「あるよ、誠意(せいい)は。やり方(かた)が乱暴(らんぼう)なだけなんだ」
古河(ふるかわ)「気(き)づいてるなら、ちゃんとしてください」
春原(すのはら)「おまえ、誰(だれ)のためにさっ…」
古河(ふるかわ)「お願(ねが)いします…」
春原(すのはら)「ちっ」
手(て)を放(はな)す。
古河(ふるかわ)「あの、先生(せんせい)。どうでしょうか。演劇部(えんげきぶ)の顧問(こもん)、引(ひ)き受(う)けてもらえるでしょうか」
幸村(こうむら)「うん…」
古河(ふるかわ)「ありがとうございますっ」
幸村(こうむら)「いや…」
古河(ふるかわ)「え…」
春原(すのはら)「どっちだよっ!」
朋也(ともや)「ジィさん、なんだ、言(い)ってみろ。問題(もんだい)があるのか」
幸村(こうむら)「ふむ…」
幸村(こうむら)「二年生(にねんせい)のね、仁科(にしな)さんって子(こ)とね…話(はなし)をしてくれないですかな」
春原(すのはら)「誰(だれ)だよ、そいつ?」
古河(ふるかわ)「わかりました、行(い)ってみましょう」
早(はや)く春原(すのはら)と幸村(こうむら)を引(ひ)き離(はな)したいのだろう、話(はなし)もろくに聞(き)かず古河(ふるかわ)が急(せ)かした。
朋也(ともや)「何組(なんくみ)だ。それだけ教(おし)えろ」
幸村(こうむら)「確(たし)か…Bだったような」
朋也(ともや)「オッケー。サンキュな」
幸村(こうむら)「あるいはCだったような…」
春原(すのはら)「どっちだよっ!」
幸村(こうむら)「たぶんCだ。ふむ、間違(まちが)いない」
古河(ふるかわ)「ありがとうございます。また、お伺(うかが)いします」
春原(すのはら)「次(つぎ)までに早口(はやくち)の練習(れんしゅう)しとけよっ」
それぞれに別(わか)れの言葉(ことば)を言(い)って、老教師(ろうきょうし)の元(もと)から離(はな)れた。
階段(かいだん)を上(あ)がったところで、昼休(ひるやす)みの終(お)わりを告(つ)げる予鈴(よれい)が鳴(な)った。
朋也(ともや)「あ…もうそんな時間(じかん)だったか」
春原(すのはら)「気(き)づかなかったね…」
夢中(むちゅう)になっていたのだろう。
朋也(ともや)「後(あと)は放課後(ほうかご)だな…」
午後(ごご)の授業(じゅぎょう)。
昼食後(ちゅうしょくご)ということもあって、眠(ねむ)さもたけなわ。
教師(きょうし)の声(こえ)を半分(はんぶん)子守歌(こもりうた)代(か)わりにボーっとしていた。
そろそろ目蓋(まぶた)の上(うえ)と下(さ)がくっつきそうだ。
こつん…。
朋也(ともや)「ん?」
頭(あたま)に何(なに)かが当(あ)たった。
床(ゆか)を見(み)ると消(け)しゴムのカケラが落(お)ちていた。
春原(すのはら)(岡崎(おかざき)、岡崎(おかざき))
朋也(ともや)(んだよ。俺(おれ)はそろそろ寝(ね)るぞ)
春原(すのはら)(その前(まえ)に外見(がいけん)てみろよ)
朋也(ともや)(外(そと)?)
春原(すのはら)(校門(こうもん)とこ。また来(き)てるんだ)
朋也(ともや)(来(き)てる?)
春原(すのはら)(この前(まえ)の可愛(かわい)い奴(やつ))
朋也(ともや)(??)
なんのことだ?
眠(ねむ)さで眉間(みけん)にシワをよせつつも、俺(おれ)は首(くび)を傾(かし)げながら窓(まど)の外(そと)を見(み)る。
校門(こうもん)のところの…。
当然(とうぜん)こんな時間(じかん)に、人(にん)なんているはずがない。
朋也(ともや)「ん…?」
今(いま)一瞬(いっしゅん)何(なに)か見(み)えたぞ…?
ちっちゃくてチョコチョコと動(うご)く小動物(しょうどうぶつ)のような…。
校門(こうもん)の壁(かべ)に身体(しんたい)をすり寄(よ)せ、小(ちい)さな尻尾(しっぽ)を機嫌(きげん)良(よ)くピコピコと振(ふ)っている…。
朋也(ともや)「ボタン…?」
杏(きょう)のペットだ。
確(たし)かイノシシの仔(こ)でウリボウだったよな。
また杏(きょう)に会(あ)いに来(き)たのか?
教師(きょうし)「岡崎(おかざき)っ!
授業中(じゅぎょうちゅう)に何処(どこ)を見(み)ている!」
教師(きょうし)「窓(まど)の外(そと)に黒板(こくばん)はないぞっ!」
いきなり疳(かん)にさわる声(こえ)が飛(と)んできた。
眠(ねむ)さのせいもあって、眉間(みけん)にシワを寄(よ)せたまま教師(きょうし)の方(かた)を向(む)いてしまう。
教師(きょうし)「なんだぁその目(め)は?」
教師(きょうし)「授業(じゅぎょう)を聞(き)く気(き)がないなら邪魔(じゃま)だ。教室(きょうしつ)から出(で)て行(い)けっ!」
朋也(ともや)「………」
ガタ…。
春原(すのはら)「お、おい、岡崎(おかざき)?!」
教師(きょうし)「な…なんだ?
教師(きょうし)に暴力(ぼうりょく)をふるうつもりか?
そんなことをしたら退学(たいがく)だぞ?!」
朋也(ともや)「………」
ツカツカツカツカ。
教師(きょうし)「ひっ…」
ガラ…。
教師(きょうし)「…?」
パタン…。
何(なに)も言(い)わずに、シン…とした廊下(ろうか)に出(で)る。
しばらくすると、教室(きょうしつ)からは取(と)り繕(つくろ)うような教師(きょうし)の声(こえ)が聞(き)こえてきた。
俺(おれ)は息(いき)をつきながら、授業中(じゅぎょうちゅう)の廊下(ろうか)を歩(ある)きだした。
誰(だれ)もいない校門脇(こうもんわき)の庭園(ていえん)。
校舎(こうしゃ)を挟(はさ)んでグランドからは、体育(たいいく)の授業(じゅぎょう)だろう声(こえ)が微(かす)かに聞(き)こえてくる。
それ以外(いがい)は静(しず)かなものだ。
そんな中(なか)、校門(こうもん)の壁(かべ)に身体(しんたい)やら鼻先(はなさき)やらを擦(す)り付(つ)けて、尻尾(しっぽ)を振(ふ)っているウリボウが一匹(いっぴき)。
朋也(ともや)「ボタン」
ボタン「ぷひ」
呼(よ)ぶとピクンと尻尾(しっぽ)を立(た)てて反応(はんのう)する。
そして短(みじか)い足(あし)をビデオの早送(はやおく)りのように素早(すばや)く動(うご)かしてこっちに走(はし)ってきた。
どうやら俺(おれ)を憶(おも)えているようだ。
トテテテテ~
朋也(ともや)「ん?」
トテテテテ~
朋也(ともや)「おい?」
トテテテテ~
とすん!
朋也(ともや)「いてっ」
ボタンはダッシュそのままに俺(おれ)に突(つ)っ込(こ)んできた。
身体(しんたい)が小(ちい)さいので威力(いりょく)こそないが…止(と)まれよ。
ボタン「ぷひ~…」
朋也(ともや)「おい、大丈夫(だいじょうぶ)か?」
ボタン「ぷひぷひ~…」
朋也(ともや)「猪突猛進(ちょとつもうしん)とは言(い)うけど…本当(ほんとう)なんだな」
ボタン「ぷひーぷひー」
朋也(ともや)「いや、別(べつ)に褒(ほ)めたわけじゃないぞ」
ボタン「ぷひ~」
朋也(ともや)「よっと」
俺(おれ)は芝生(しばふ)に腰(こし)をおろし、あぐらをかく。
ボタン「ぷひ…」
朋也(ともや)「ん?」
ボタンがなにか物欲(ものほ)しそうな顔(かお)でこっちを見(み)ている。
俺(おれ)の前(まえ)をウロウロしながら鼻(はな)をフンフンと鳴(な)らし、尻尾(しっぽ)を振(ふ)る。
チラリと俺(おれ)を見(み)る。
またウロウロする。
何度(なんど)かそれをくり返(かえ)すと、意(い)を決(けっ)したようにこちらに近(ちか)づいて来(き)た。
朋也(ともや)「お…?」
ボタン「ぷひぷひ」
股間(こかん)に鼻(はな)を寄(よ)せてフンフンと鼻(はな)を鳴(な)らした。
わしっ!!
背中(せなか)を鷲掴(わしづか)みにして、俺(おれ)の目(め)の高(たか)さまで持(も)ち上(あ)げた。
バタバタと必死(ひっし)に短(みじか)い足(あし)を動(うご)かすボタン。
朋也(ともや)「てめぇなにをしやがるっ」
ボタン「ぷひー!
ぷひー!」
朋也(ともや)「畜生(ちくしょう)のクセに人間相手(にんげんあいて)に色気(いろけ)づいてんのか?
あァ?」
朋也(ともや)「つーかおまえオスか?
メスか?
オスなら鍋(なべ)にすんぞ」
ボタン「ぷひー!」
不意(ふい)に何(なに)かが迫(せま)ってくる気配(けはい)を感(かん)じた。
ほぼ本能的(ほんのうてき)に、上半身(じょうはんしん)を右(みぎ)に傾(かたむ)ける。
刹那(せつな)、左耳(ひだりみみ)にブオンッ!と凄(すさ)まじい風切(かぜき)り音(おと)がした。
続(つづ)いて地面(じめん)にドグジャッ!
と音(おと)を立(た)ててめり込(こ)む…えーっと…漢和辞典(かんわじてん)…?
朋也(ともや)「………」
まさかと思(おも)いつつも後(うし)ろを振(ふ)り返(かえ)る。
心当(こころあ)たりのある三階(さんがい)、俺(おれ)のクラスの隣(となり)──3-Eの教室(きょうしつ)。
遠目(とおめ)にもわかるほどの殺気(さっき)を放(はな)つ杏(きょう)の姿(すがた)があった。
朋也(ともや)「って…マジか?」
地面(じめん)にめり込(こ)んでいる漢和辞典(かんわじてん)を見(み)ながらボタンから手(て)を放(はな)す。
この距離(きょり)を投(な)げてきたのか…?
こんなもん当(あ)たってたら死(し)ぬぞ?
つーか、避(さ)けなかったら当(あ)たってたぞ?
ボタン「ぷひぷひ」
そんな俺(おれ)の心境(しんきょう)をよそに、解放(かいほう)されたボタンはまたフンフンと鼻(はな)を鳴(な)らして俺(おれ)に近(ちか)づいてくる。
そして今度(こんど)はちょこんと俺(おれ)の膝(ひざ)の上(うえ)に乗(の)り、鎮座(ちんざ)する。
朋也(ともや)「…?」
ボタン「ぷひ~」
しかもご機嫌(きげん)だ。
どうやら自分(じぶん)の居心地(いごこち)のいい場所(ばしょ)を探(さが)していたらしい。
にしてもニオイを嗅(か)ぐか?
チラリと背後(はいご)を見(み)る。
遠(とお)く離(はな)れた場所(ばしょ)で杏(きょう)が、うんうんと頷(うなず)いている。
ボタン「ぷひ~ぷひ~」
朋也(ともや)「………」
とりあえず背中(せなか)を撫(な)でてやる。
尻尾(しっぽ)がぴこぴこと、嬉(うれ)しそうに動(うご)いた。
可愛(かわい)かったので、しばらくそれを続(つづ)けた。
キーンコーンカーンコーン…。
朋也(ともや)「五時間目(ごじかんめ)が終(お)わったか…」
校舎(こうしゃ)から授業中(じゅぎょうちゅう)にはない賑(にぎ)やかさが溢(あふ)れてくる。
俺(おれ)の膝(ひざ)の上(うえ)で寝(ね)かかっていたボタンも、その気(き)に当(あ)てられてか、耳(みみ)と尻尾(しっぽ)をピクピクと動(うご)かし目(め)を醒(さ)ます。
ボタン「ぷひ~…?」
朋也(ともや)「よぅ、起(お)きたか」
ボタン「ぷひぷひ~」
朋也(ともや)「たぶん、もうちょっとしたらおまえの主人(しゅじん)が…」
たったったったっ…。
朋也(ともや)「来(き)たみたいだな」
背後(はいご)から聞(き)こえる、こちらに向(む)かってくる足音(あしおと)。
ボタン「ぷ、ぷひっ…!」
朋也(ともや)「ん?
どうした?」
ボタン「ぷひ~、ぷひ~…」
突然(とつぜん)、何(なに)かに怯(おび)えるよう身体(しんたい)を震(ふる)わすボタン。
俺(おれ)の膝(ひざ)の上(うえ)で犬(いぬ)のように耳(みみ)を伏(ふ)せている。
声(こえ)「あ、あの…」
朋也(ともや)「ん…?」
振(ふ)り返(かえ)ると、そこにいたのは妹(いもうと)の方(かた)だった。
朋也(ともや)「よぅ、どうした?」
椋(りょう)「あ…その…さっきの時間(じかん)…急(きゅう)に教室(きょうしつ)を出(で)ていったから…」
朋也(ともや)「ああ、そのことか」
朋也(ともや)「別(べつ)に教室(きょうしつ)にいても授業(じゅぎょう)を聞(き)いてるわけじゃないし、退屈(たいくつ)だったからちょうど良(よ)かった」
椋(りょう)「で、でも…」
朋也(ともや)「それよかこいつ、おまえんとこのだろ?」
椋(りょう)「え?
あ…ボタン…?
どうしてここに?」
朋也(ともや)「たぶん、杏(きょう)に会(あ)いに来(き)たんだと思(おも)うんだけど…」
ボタン「ぷ、ぷひぃ~…」
朋也(ともや)「なんかさっきから震(ふる)えてんだよ。…どうしたんだろうな?」
椋(りょう)「あ…そ、その…きっとそれは…私(わたし)が来(き)たからだと…」
朋也(ともや)「…?」
ボタン「ぷひぃ~…」
椋(りょう)「………」
朋也(ともや)「ひょっとして嫌(きら)われてるのか?」
椋(りょう)「えっと…ぁ…その…」
椋(りょう)「………」
椋(りょう)「…ぉ…おそらく…」
消(き)え入(い)りそうな声(こえ)で言(い)う。
それとほぼ同時(どうじ)くらいか、ボタンがピクンと身体(しんたい)を震(ふる)わせた。
朋也(ともや)「ん?
どうした?」
ボタン「ぷひぷひー」
藤林(ふじばやし)が来(き)た時(とき)とは打(う)って変(か)わって、嬉(うれ)しそうな声(こえ)。
ボタンは俺(おれ)の膝(ひざ)から飛(と)び降(お)りると、藤林(ふじばやし)を大(おお)きく迂回(うかい)して走(はし)った。
そしてその先(さき)。
杏(きょう)「あんた、また来(く)ちゃったのねぇ」
椋(りょう)「お姉(ねえ)ちゃん」
杏(きょう)「よいしょっと」
走(はし)り寄(よ)ってきたボタンを胸(むね)に抱(だ)くと、杏(きょう)は笑(え)みを作(つく)りながらこっちに来(き)た。
杏(きょう)「あれ?
椋(りょう)。なんであんたまでここに?」
椋(りょう)「あ…私(わたし)は…その…」
チラリと俺(おれ)の方(かた)を見(み)る。
朋也(ともや)「実(じつ)は俺(おれ)に愛(あい)の告白(こくはく)をしにきたんだ」
椋(りょう)「え…ええぇーっ?!」
朋也(ともや)「放課後(ほうかご)まで待(ま)てないってんだから、見(み)かけに寄(よ)らず大胆(だいたん)だよな」
椋(りょう)「あ…わわ…そ、そんなことは…その…」
顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしながらしどろもどろしている。
杏(きょう)「椋(りょう)…あんたって結構(けっこう)やるわねぇ」
椋(りょう)「え…あ…う…そ、そんな…ちがう…」
泣(な)きそうだ…。
朋也(ともや)「ちなみに冗談(じょうだん)だぞ」
杏(きょう)「わかってるわよ」
椋(りょう)「あ…う…ぅ…」
杏(きょう)「大方(おおかた)、授業中(じゅぎょうちゅう)に教室(きょうしつ)を放(ほう)り出(だ)されたあんたを心配(しんぱい)して見(み)に来(き)たんでしょ」
ふぅ、と呆(あき)れたようにため息(いき)をつきながら言(い)う。
隣(となり)では藤林(ふじばやし)が、顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしたまま、コクコクと大袈裟(おおげさ)に首(くび)を縦(たて)に振(ふ)っていた。
杏(きょう)「ま、ボタンの面倒見(めんどうみ)てくれてたことには礼(れい)を言(い)っとくわ」
朋也(ともや)「だったら形(かたち)になるもんで示(しめ)せ」
杏(きょう)「六時間目(ろくじかんめ)も面倒見(めんどうみ)ててくれたらジュースおごったげる」
朋也(ともや)「なめんなよ」
杏(きょう)「どうせ授業(じゅぎょう)聞(き)いてないんでしょ?」
朋也(ともや)「寝(ね)てても出席(しゅっせき)扱(あつか)いにはなるんだ。貴重(きちょう)なポイントを無駄(むだ)にさせるな」
杏(きょう)「明日(あした)のお昼(ひる)ご飯(はん)もつけるからさ」
朋也(ともや)「まかせとけ」
ドン、と胸(むね)を叩(たた)いて快諾(かいだく)する。
それを見(み)てボタンも嬉(うれ)しそうに、ぷひぷひと鼻(はな)をならす。
椋(りょう)「あ…あの…」
朋也(ともや)「ん?
なんだ?」
椋(りょう)「あ…その…そういうのは…いけないと思(おも)います…」
朋也(ともや)「別(べつ)に授業(じゅぎょう)なんて聞(き)いてないんだからかまわないだろ」
椋(りょう)「そ、それでも…そういうのはいけないと…思(おも)います…」
朋也(ともや)「だってよ、どうよお姉(ねえ)ちゃん?」
杏(きょう)「当然(とうぜん)でしょ。授業(じゅぎょう)をさぼんのは、ダメに決(き)まってんじゃない」
朋也(ともや)「喧嘩売(けんかう)ってんのか…」
椋(りょう)「あの…岡崎(おかざき)くん…」
朋也(ともや)「うん?」
椋(りょう)「じゅ…授業(じゅぎょう)は…ちゃんと出(で)た方(ほう)がいいと思(おも)います」
朋也(ともや)「…ああ、そうだな」
朋也(ともや)「でも、そのウリボウはどうするんだ」
朋也(ともや)「放課後(ほうかご)までほったらかしにしとくのか?」
椋(りょう)「あ…その…それは…」
ボタン「ぷひ~…」
キーンコーンカーンコーン…。
朋也(ともや)「授業(じゅぎょう)が始(はじ)まるな」
椋(りょう)「あ…わわ…どうしよう…」
鳴(な)り響(ひび)くチャイムの音(おと)に、わたわたと取(と)り乱(みだ)す藤林(ふじばやし)。
ボタンはその様子(ようす)を、尻尾(しっぽ)を振(ふ)りながら見(み)ている。
杏(きょう)「しょうがないわね」
そんな中(なか)、杏(きょう)が息(いき)をつきながら一歩(いっぽ)前(まえ)に出(で)た。
杏(きょう)「あたしが教室(きょうしつ)に連(つ)れてくわ」
朋也(ともや)「連(つ)れてくわって…さすがにそれはマズイだろ?」
杏(きょう)「大丈夫(だいじょうぶ)よ。ね、ボタン」
ボタン「ぷひ?」
杏(きょう)「『ぬいぐるみ』よ」
ボタン「ぷひー
ぷひー」
朋也(ともや)「…なんだそれは…?」
杏(きょう)「ボタンの七(なな)つ芸(げい)の一(ひと)つよ」
ボタン「ぷひっ」
杏(きょう)「ボタン、はい」
ボタン「ぷ…」
杏(きょう)の合図(あいず)と共(とも)に、ボタンはピン!と身体(しんたい)を硬直(こうちょく)させた。
そしてそのまま微動(びどう)だにしない…。
瞬(またた)きはおろか、呼吸(こきゅう)の様子(ようす)さえ窺(うかが)えない。
朋也(ともや)「…まさか…そのまま人形(にんぎょう)のフリをして教室(きょうしつ)に…?」
杏(きょう)「すごいでしょ」
朋也(ともや)「アホだろ」
杏(きょう)「あ?」
朋也(ともや)「そのままで50分(ぷん)も保(も)つわけねぇだろ」
杏(きょう)「保(も)つわよ。前(まえ)にこのまま水(みず)ん中(なか)に沈(しず)めちゃって10分(ぷん)くらい忘(わす)れてたことあるんだから」
それは動物虐待(どうぶつぎゃくたい)だ…。
椋(りょう)「あ、あの…早(はや)く教室(きょうしつ)に戻(もど)らないと…その…先生(せんせい)が…」
杏(きょう)「あー、いっけない。もうチャイム鳴(な)ったんだった」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にそのぬいぐるみ化(か)で大丈夫(だいじょうぶ)なのか?」
杏(きょう)「平気(へいき)平気(へいき)。そんなに疑(うたが)うなら、はい」
そう言(い)ってポンとボタンを俺(おれ)の胸(むね)に押(お)しつける。
朋也(ともや)「…?」
杏(きょう)「あんたに渡(わた)しとく」
朋也(ともや)「渡(わた)しとくって…?」
杏(きょう)「ちゃんとそのままでいれるか確認(かくにん)したいでしょ?」
杏(きょう)「だからあんたに渡(わた)しとく。その仔(こ)、膝(ひざ)の上(うえ)において授業(じゅぎょう)受(う)けてみて」
朋也(ともや)「マジか?」
杏(きょう)「あたしとボタンを信用(しんよう)しなさいって」
朋也(ともや)「………」
自分(じぶん)から信用(しんよう)しろと言(い)う人間(にんげん)ほど信用(しんよう)できないものはない…。
杏(きょう)「んじゃ、よろしく~」
朋也(ともや)「杏(きょう)」
杏(きょう)「んえ?」
校舎(こうしゃ)に向(む)かおうとしていた杏(きょう)を呼(よ)び止(と)める。
そして振(ふ)り返(かえ)ったところにボタンを投(な)げつけた。
杏(きょう)「うわわわっ!」
女(おんな)とは思(おも)えない声(こえ)をあげながら、キリモミ状(じょう)に飛(と)ぶボタンをなんとかキャッチする。
朋也(ともや)「ナイスキャッチ」
俺(おれ)は親指(おやゆび)を立(た)てて笑顔(えがお)で言(い)う。
杏(きょう)「あ──…あんたねぇ!
泣(な)くまで殴(なぐ)られたいの?!」
杏(きょう)「謝(あやま)ってから+5発(はつ)は蹴(け)るわよ?!
ん?!」
朋也(ともや)「おまえのペットだろう。ちゃんとおまえが面倒(めんどう)みてろ」
杏(きょう)「ちゃんと50分(ぽん)保(も)つって言(い)ってるでしょ」
朋也(ともや)「だったらおまえが持(も)ってても問題(もんだい)ないだろ」
朋也(ともや)「そもそも、男(おとこ)の俺(おれ)がぬいぐるみ持(も)って教室(きょうしつ)に戻(もど)りゃ変(へん)だろうが」
杏(きょう)「かわいげがあっていいじゃない」
朋也(ともや)「…本当(ほんとう)にそう思(おも)うか?」
杏(きょう)「立前(たてまえ)に決(き)まってるでしょ。本音(ほんね)は、うわっ…キモ…って感(かん)じね」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に俺(おれ)は持(も)っていかないからなっ!」
杏(きょう)「別(べつ)にもう頼(たの)む気(き)なんてないわよ」
杏(きょう)はムスっとした顔(かお)で踵(きびす)を返(かえ)すと、校舎(こうしゃ)の方(かた)に歩(ある)いていった。
そして授業中(じゅぎょうちゅう)──…。
声(こえ)『うわぁーー!
ぬいぐるみが動(うご)いたぁー!』
声(こえ)『なんだこれ!?
速(はや)いっ!』
杏(きょう)『わ、わ、わわっ!
ボタン待(ま)てっ!
ストップよ!』
春原(すのはら)「なんか隣(となり)の教室(きょうしつ)賑(にぎ)やかだね?」
朋也(ともや)「…そうだな…」
壁(かべ)の向(む)こうから聞(き)こえてくる騒々しい声(こえ)。
事態(じたい)の内容(ないよう)に気(き)づいているんだろう、藤林(ふじばやし)が落(お)ち着(つ)きなく黒板(こくばん)と壁(かべ)とを交互(こうご)に見(み)ている。
預(あず)からなくてよかった…。
心(こころ)の底(そこ)からそう思(おも)った。
そしてHRが終(お)わり、放課後(ほうかご)に。
2-C。そのプレートの下(した)に俺(おれ)たちは集(あつ)まっていた。
帰(かえ)り支度(したく)をする連中(れんちゅう)が、俺(おれ)たちのことを訝(いぶか)しげな目(め)でちらちらと見(み)ていた。
上級生(じょうきゅうせい)が三人(さんにん)、教室(きょうしつ)の入(い)り口(ぐち)でたむろしていれば、帰(かえ)りにくいことだろう。
朋也(ともや)「古河(ふるかわ)、訊(き)いてきてくれ。俺(おれ)と春原(すのはら)はここで待(ま)ってるから」
古河(ふるかわ)「はい」
素直(すなお)に頷(うなず)いて、古河(ふるかわ)はとことこと教室(きょうしつ)に入(はい)っていった。
ひとりの女生徒(じょせいと)を捕(つか)まえて、質問(しつもん)を投(な)げかける。
女生徒(じょせいと)が窓際(まどぎわ)を指(さ)さした。
そこにはもうひとりの女生徒(じょせいと)がいた。
古河(ふるかわ)は礼(れい)を言(い)ってから、窓際(まどぎわ)に向(む)かって歩(ある)いていった。
そして、そこに居(い)た女生徒(じょせいと)と話(はなし)を始(はじ)めた。
春原(すのはら)「おい、てめぇっ」
春原(すのはら)「今(いま)わざと、目線(めせん)逸(そ)らせたよなぁ?」
春原(すのはら)は通(とお)り抜(ぬ)けていく男子生徒(だんしせいと)に因縁(いんねん)をつけて、暇(ひま)を潰(つぶ)していた。
俺(おれ)はじっと、古河(ふるかわ)の様子(ようす)を見(み)ていた。
笑(え)みを作(つく)りながら、手(て)を大(おお)きく動(うご)かして、必死(ひっし)に訴(うった)えていた。
しばらくすると、今度(こんど)は聞(き)き手(て)になった。
物静(ものしず)かな印象(いんしょう)の女生徒(じょせいと)の話(はなし)を何度(なんど)も頷(うなず)きながら聞(き)いていた。
やがて教室(きょうしつ)にはふたりだけとなった。
春原(すのはら)「もう入(はい)ってもいいんじゃないの?」
春原(すのはら)がそう俺(おれ)に言(い)った。
朋也(ともや)「ああ。だな」
俺(おれ)たちも、中(なか)に入(はい)った。
春原(すのはら)「どうも、演劇部(えんげきぶ)っす」
威圧(いあつ)するように、春原(すのはら)が挨拶(あいさつ)した。
朋也(ともや)「悪(わる)いな、押(お)し掛(か)けて」
女生徒(じょせいと)「いえ」
女生徒(じょせいと)は顔(かお)を伏(ふ)せた。
朋也(ともや)「どうなんだ、古河(ふるかわ)」
古河(ふるかわ)「えっと…その…困(こま)ってます」
朋也(ともや)「どうした、話(はな)してみろ」
古河(ふるかわ)「仁科(にしな)さん、合唱部(がっしょうぶ)を作(つく)りたいそうなんです」
古河(ふるかわ)「それで、やっぱりわたしたちと同(おな)じで、顧問(こもん)がいなくて…」
古河(ふるかわ)「そこで、先日(せんじつ)、幸村先生(こうむらせんせい)に、お願(ねが)いしたんだそうです」
古河(ふるかわ)「ただその時(とき)は、まだ入部希望者(にゅうぶきぼうしゃ)がいなくて、仁科(にしな)さんひとりだったんですけど…」
古河(ふるかわ)「それでも、その日(ひ)から時間(じかん)をかけて、三人(さんにん)集(あつ)めたんだそうです」
古河(ふるかわ)「仁科(にしな)さん、すごくがんばりました」
古河(ふるかわ)「………」
朋也(ともや)「そっか…そりゃ、困(こま)ったな」
古河(ふるかわ)「はい。わたしたちも幸村先生(こうむらせんせい)に顧問(こもん)をお願(ねが)いしたいです」
古河(ふるかわ)「でも、仁科(にしな)さんもお願(ねが)いしたいんです」
古河(ふるかわ)「どうしましょう」
古河(ふるかわ)「………」
古河(ふるかわ)は俺(おれ)の顔(かお)をじっと見(み)ていた。
朋也(ともや)「別(べつ)の先生(せんせい)を当(あ)たってみるか…」
妥協案(だきょうあん)を出(だ)してみた。
仁科(にしな)「当(あ)たってみましたけど…」
合唱部(がっしょうぶ)の子(こ)が顔(かお)を伏(ふ)せたまま、口(くち)を開(ひら)いた。
仁科(にしな)「顧問(こもん)をしていないのは、幸村先生(こうむらせんせい)と、後(あと)は教頭先生(きょうとうせんせい)とか校長先生(こうちょうせんせい)ぐらいでした」
仁科(にしな)「………」
春原(すのはら)「取(と)り合(あ)いだなぁ」
春原(すのはら)「でも、僕(ぼく)たち先輩(せんぱい)だしなぁ」
朋也(ともや)「やめとけって」
古河(ふるかわ)「引(ひ)き留(とど)めてしまって、ごめんなさいです」
古河(ふるかわ)「わたしたち、話(はな)し合(あ)ってから…また来(き)ます」
古河(ふるかわ)「それでは、また」
ぺこりと二年生(にねんせい)に向(む)かって頭(あたま)を下(さ)げてから、古河(ふるかわ)は俺(おれ)たちを教室(きょうしつ)の外(そと)まで押(お)し出(だ)した。
春原(すのはら)「さっきも言(い)ったけど、こっちは上級生(じょうきゅうせい)だからね」
春原(すのはら)「放(ほう)っておけば、向(む)こうが引(ひ)いてくれるよ」
古河(ふるかわ)「それはダメです」
古河(ふるかわ)「わたしたちは、一緒(いっしょ)のはずです」
古河(ふるかわ)「同(おな)じ、スタート地点(ちてん)に居(い)たはずです」
古河(ふるかわ)「ですから、少(すこ)し年上(としうえ)だからって、そんなことで決(き)めてしまってはダメです」
古河(ふるかわ)「しかも、こっちはわたしひとりです。入部希望(にゅうぶきぼう)は…」
古河(ふるかわ)「あの子(こ)にも嘘(うそ)をついてしまいました」
朋也(ともや)「………」
古河(ふるかわ)「あの子(こ)はがんばって、必死(ひっし)で三人(さんにん)集(あつ)めたんです」
古河(ふるかわ)「スタートは同(おな)じでも、もう差(さ)はついてしまってるのかもしれません」
朋也(ともや)「いや、おまえだって頑張(がんば)ってる。必死(ひっし)だ。それは俺(おれ)がよく知(し)ってる」
古河(ふるかわ)「………」
朋也(ともや)「諦(あきら)めるな。まだ頑張(がんば)れ。きっと手(て)があるはずだからな」
春原(すのはら)「んなもん、あるのかねぇ」
朋也(ともや)「おまえな…」
春原(すのはら)「ありゃ、今(いま)のは失言(しつげん)だったか」
春原(すのはら)「悪(わる)い悪(わる)い。んな恐(こわ)い顔(かお)すんなって」
春原(すのはら)「じゃあ、僕(ぼく)はこのへんで退散(たいさん)するよ」
春原(すのはら)「お父(とう)さんお母(かあ)さんにもよろしくね」
古河(ふるかわ)「え…あ、はい」
古河(ふるかわ)「今日(きょう)はありがとうございました」
古河(ふるかわ)に見送(みおく)られ、春原(すのはら)は姿(すがた)を消(け)す。
朋也(ともや)「ちっ…あいつは…ったく」
古河(ふるかわ)「でも、本当(ほんとう)に、今日(きょう)は楽(たの)しかったです」
朋也(ともや)「え?」
古河(ふるかわ)「みんなでひとつのことに向(む)けて、がんばるのって、とても楽(たの)しいです」
結果(けっか)なんて、何一(なにひと)つ伴(ともな)わなかったのに…
それでも、最後(さいご)に笑(わら)っていられる神経(しんけい)が俺(おれ)には理解(りかい)できなかった。
古河(ふるかわ)「…えへへ」
でも、古河(ふるかわ)がそうしてくれるだけで…
奔走(ほんそう)した、今日(きょう)一日(いちにち)が報(むく)われた気(き)がした。
古河(ふるかわ)と並(なら)んで、坂(さか)を下(お)りる。
春原(すのはら)「お、いいところに来(き)たな」
春原(すのはら)にまた会(あ)う。
朋也(ともや)「なんだよ」
春原(すのはら)「手伝(てつだ)えよ」
朋也(ともや)「また、ギターでも聴(き)いてもらいにいくのか?」
春原(すのはら)「いいや、今日(きょう)は違(ちが)うんだな」
朋也(ともや)「なんだよ。金(かね)ならないぞ」
朋也(ともや)「なにすんだよ」
春原(すのはら)「今(いま)から、僕(ぼく)の部屋(へや)をすげぇサイバーにするんだ」
朋也(ともや)「どうやって」
春原(すのはら)「2年(ねん)の奴(やつ)から、テレビとビデオデッキ借(か)りてくるんだ」
朋也(ともや)「超(ちょう)サイバーだな」
春原(すのはら)「しかも、そいつ、かなりのマニアらしくてさ…ビデオもたくさん持(も)ってんだよねっ」
春原(すのはら)「やべぇ、学校(がっこう)来(こ)なくなるかも…」
朋也(ともや)「明日(あした)からエロ原陽平(はらようへい)、と呼(よ)んでやるな」
春原(すのはら)「んなこと言(い)って、兄(にい)さんも、好(す)きなんだろう?」
朋也(ともや)「そりゃ嫌(きら)いじゃないが…男(おとこ)ふたり肩(かた)を並(なら)べて見(み)るってのはどうかと思(おも)うぞ」
春原(すのはら)「はは、そんときになりゃ、気(き)を利(き)かせてどっちかが外(そと)に出(で)ればいいさっ」
朋也(ともや)「嫌(いや)な気(き)の回(まわ)し方(かた)だな…」
春原(すのはら)「よし、いこうぜ」
手伝わない春原(すのはら)がひとりで歩(ある)いていく。
………。
……。
…。
春原(すのはら)「って、来(こ)ないのかよっ!」
戻(もど)ってきた。
朋也(ともや)「めんどい」
春原(すのはら)「おまえも、見(み)たいんだろ?」
朋也(ともや)「取(と)り立(た)てては」
春原(すのはら)「んなこと言(い)わずに、手伝(てつだ)ってくれよぉ」
朋也(ともや)「テレビとビデオデッキなんて、持(も)って歩(ある)きたくねぇよ」
朋也(ともや)「俺(おれ)以外(いがい)に頼(たの)めよ」
春原(すのはら)「ちっ…そうかよ…」
春原(すのはら)「わかったよ…」
春原(すのはら)「岡崎(おかざき)になんて、見(み)せてやるもんかぁーっ!」
子供(こども)のように、走(はし)り去(さ)っていった。
朋也(ともや)「ふぅ…」
朋也(ともや)「帰(かえ)るか」
黙(だま)って待(ま)っていた古河(ふるかわ)を振(ふ)り返(かえ)る。
古河(ふるかわ)「はい」
夜(よる)はいつものように春原(すのはら)の部屋(へや)。
朋也(ともや)「ビデオ見(み)ようぜ」
朋也(ともや)「って、ないじゃん。なんで?」
春原(すのはら)「あんたが手伝(てつだ)わなかったからですよっ!」
春原(すのはら)「あんな重(おも)いもの、ひとりで持(も)ってこれるかよっ」
春原(すのはら)「はーぁ…」
退屈(たいくつ)そうに、仰向(あおむ)けに転(ころ)がる。
朋也(ともや)「おまえ、そんな暇(ひま)なんだったらギターの練習(れんしゅう)でもすれば」
ギターはケースに入(はい)ったまま、すでに春原(すのはら)の脱(ぬ)ぎ捨(す)てた衣服(いふく)の下(した)に埋(う)もれていた。
春原(すのはら)「ああ…ギターね…」
春原(すのはら)「借(か)りた奴(やつ)に聞(き)いたんだけどさ、先(さき)が長(なが)すぎるよ、あれ…」
春原(すのはら)「なんつーの?
楽(たの)しくなるまでが長(なが)いっつーかさー」
朋也(ともや)「おまえ、うまくなって、芳野祐介(よしのゆうすけ)に聴(き)いてもらうんじゃなかったのか」
春原(すのはら)「ああ、そんなことも言(い)っていたねぇ…」
朋也(ともや)「おまえ、むちゃくちゃやる気(き)だったじゃないかよ…」
春原(すのはら)「そういや、芳野(よしの)さんの名刺(めいし)もらったこと、妹(いもうと)に言(い)ったら、すげぇあいつ驚(おどろ)いててさ…」
春原(すのはら)「じゃ、名刺(めいし)やるよって言(い)ったら、超(ちょう)喜(よろこ)んでさ…」
つまり…もう十分(じゅうぶん)なわけね…。
予想(よそう)通(とお)りというか…。
朋也(ともや)「友達(ともだち)として、情(なさ)けない…」
春原(すのはら)「あん?
なにが?」
春原(すのはら)「つーかさー、やっぱ音楽(おんがく)っていったら、ヒップホップじゃん?」
春原(すのはら)「ボンバヘッ聴(き)こうぜ」
朋也(ともや)「やめてくれ…」
それに比(くら)べれば、よっぽど、芳野祐介(よしのゆうすけ)の歌(うた)のほうが俺(おれ)には合(あ)っていた。
まだ、一曲(いっきょく)しか知(し)らなかったけど。
来月(らいげつ)は無駄遣(むだづか)いを控(ひか)えて、CDを買(か)おう…そう決(き)めた。
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