5月10日(月)
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,0,]5月18日(火)
,0,]5月19日(水)
,0,]5月20日(木)
,0,]5月21日(金)
,0,]5月22日(土)
,0,]5月23日(日)
,0,]5月24日(月)
,0,]同棲編,0,]
早苗,0,]
同棲編,0,]
芳野,0,]
同棲編,0,]
芳野,0,]
同棲編,0,]
同棲編(接上),0,]
二学期(にがっき)が始(はじ)まって、渚(なぎさ)も学校(がっこう)に通(かよ)い始(はじ)めた。
相変(あいか)わらず友達(ともだち)はできないようだったけど、家(いえ)では俺(おれ)と話(はなし)をして笑(わら)い合(あ)えた。
渚(なぎさ)の制服(せいふく)が冬服(ふゆふく)になって、秋(あき)が来(き)たことを実感(じっかん)する。
その秋(あき)もあっという間(ま)に過(す)ぎた。
肌寒(はださむ)くなってきたと思(おも)ったら、もう冬(ふゆ)だった。
そして…
一年(いちねん)で、一番(いちばん)待(ま)ち遠(どお)しい日(ひ)がやってきた。
クリスマスと渚(なぎさ)の誕生日(たんじょうび)。
今年(ことし)はふたりきりで過(す)ごした。
デパートで、ペアの腕時計(うでどけい)を買(か)った。
渚(なぎさ)は嬉(うれ)しさのあまりか、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)って、大(おお)きく振(ふ)って歩(ある)いた。
まるで付(つ)き合(あ)って間(ま)もない高校生(こうこうせい)のカップルのように。
そして、寂(さび)れた通(とお)りにあるおもちゃ屋(や)の前(まえ)を通(かよ)ったとき。
それを見(み)つけた。
すすけたウィンドウの向(む)こうに、ぼってりと鎮座(ちんざ)していた。
だんご大家族(だいかぞく)のぬいぐるみ。
去年(きょねん)に買(か)ったものと色違(いろちが)いだった。
渚(なぎさ)「あの、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「家(いえ)にある、だんご、ずっとひとりで寂(さび)しそうでしたから…一緒(いっしょ)にしてあげたいです」
渚(なぎさ)はそう言(い)って、握(にぎ)っていた手(て)に力(ちから)を込(こ)めた。
そうして、部屋(へや)の隅(すみ)には、ふたつめのだんごが並(なら)ぶことに。
渚(なぎさ)は腕時計(うでどけい)を買(か)ったことをすでに忘(わす)れているんじゃないだろうか。
そのふたつのだんごを交互(こうご)に抱(だ)いて、ずっと嬉(うれ)しそうにしていた。
俺(おれ)が呆(あき)れるぐらい。
でも、それが俺(おれ)が知(し)っている渚(なぎさ)だった。
正月(しょうがつ)は、渚(なぎさ)の実家(じっか)で過(す)ごした。
オッサンはおせちの余(あま)りをつまみに、日本酒(にほんしゅ)を飲(の)んでいた。
その隣(となり)では、早苗(さなえ)さんが年賀状(ねんがじょう)の整理(せいり)をしていた。
渚(なぎさ)は俺(おれ)と肩(かた)を並(なら)べて、テレビを見(み)ていた。
秋生(あきお)「そういや、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「はい」
秋生(あきお)「おまえ、二十歳(はたち)になったんだよな」
渚(なぎさ)「はい。二十歳(はたち)です」
そう…渚(なぎさ)はもう二十歳(はたち)だった。成人(せいじん)しているのだ。
俺(おれ)はまだ十九(じゅうきゅう)。
よく考(かんが)えると、ものすごい違和感(いわかん)だ。
渚(なぎさ)が二十代(にじゅうだい)で、俺(おれ)はまだ十代(じゅうだい)。
オッサンと話(はな)す、渚(なぎさ)の横顔(よこがお)を見(み)る。
情(なさ)けない顔(かお)。
ああ、ほんとうにおまえは人生(じんせい)の先輩(せんぱい)か。
成人女性(せいじんじょせい)か。
そう問(と)いたくなるほど、歳不相応(としふそうおう)だ。
おかしい。笑(わら)える。
秋生(あきお)「よっし、なら、約束(やくそく)を果(は)たしてもらおうかっ」
渚(なぎさ)「はい?」
話(はなし)は続(つづ)いていた。
秋生(あきお)「おまえ、約束(やくそく)してただろ」
秋生(あきお)「二十歳(はたち)になったら、俺(おれ)と一緒(いっしょ)に酒(さけ)を呑(の)むって」
渚(なぎさ)「えっ、そんな約束(やくそく)してないですっ」
秋生(あきお)「したよ」
秋生(あきお)「夜(よ)な夜(よ)なひとりで呑(の)んでる俺(おれ)に、トイレに起(お)きてきたおまえが、哀(あわ)れんで言(い)ったんだ…」
秋生(あきお)「呑(の)めるようになったら、一緒(いっしょ)に呑(の)んであげるってよ…」
渚(なぎさ)「いつですか」
秋生(あきお)「そう、あれは…おまえが小学生(しょうがくせい)の時(とき)だったかな」
渚(なぎさ)「そんなの覚(おぼ)えてないですっ」
渚(なぎさ)「しかも、寝(ね)ぼけてたに違(ちが)いないです」
そもそも、オッサンのねつ造(ぞう)かもしれない。
秋生(あきお)「なんだ…あれは嘘(うそ)だったのか…」
秋生(あきお)「くそぅ…あの日(ひ)から、ずっと楽(たの)しみにしてきたのに…」
渚(なぎさ)「え…本当(ほんとう)ですか…」
秋生(あきお)「あん?」
渚(なぎさ)「ずっと、楽(たの)しみに待(ま)っていてくれたんですか…」
秋生(あきお)「ああ…指折(ゆびお)り数(かぞ)えて生(い)きてきたさ…」
俺(おれ)も知(し)っているが…情(じょう)に訴(うった)えかけられると、渚(なぎさ)は断(ことわ)れなくなる。
でも、酒(さけ)の入(はい)った渚(なぎさ)…
朋也(ともや)(興味(きょうみ)ありすぎ…)
だから、傍観(ぼうかん)を決(き)め込(こ)む。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)がまったく呑(の)めねぇからな…」
早苗(さなえ)「そうですね。お酒(さけ)は苦手(にがて)です。すぐ気分(きぶん)が悪(わる)くなってしまうんです」
秋生(あきお)「もう、何年(なんねん)、ひとりで呑(の)んできたかわからねぇよ…」
早苗(さなえ)「わたしも、お付(つ)き合(あ)いできればよかったんですけど」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「…わかりました。呑(の)んでみます」
意(い)を決(けっ)して言(い)った。
渚(なぎさ)「でも、わたしに呑(の)めるでしょうか…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)、てめぇは俺(おれ)の娘(むすめ)だっ」
早苗(さなえ)「そうですよっ」
あんたの娘(むすめ)でもある。
渚(なぎさ)「それではいただきます」
手(て)には、日本酒(にほんしゅ)が注(そそ)がれたお猪口(ちょこ)。
秋生(あきお)「おぅ、ぐいっといけ」
渚(なぎさ)「初(はじ)めてですから、ぐいっとなんていけないです」
渚(なぎさ)「まずは味見(あじみ)です」
しかし、初(はじ)めてのアルコールが日本酒(にほんしゅ)の冷(ひ)やというのもどうかと思(おも)うが。
お猪口(ちょこ)に鼻(はな)を寄(よ)せる。
渚(なぎさ)「………」
つん、と来(き)たようだ。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、無理(むり)しなくていいですよ」
渚(なぎさ)「いえ…せめて、一杯(いっぱい)は呑(の)みます。お父(とう)さんのために」
秋生(あきお)「渚(なぎさ)…今(いま)ほど、おまえを産(う)んでよかったと思(おも)った瞬間(しゅんかん)はないぞ」
こんなことで思(おも)うな。
しかも産(う)んだのは、早苗(さなえ)さんだ。
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だ。匂(にお)いほどアルコールはきつくねぇから、ぐいっと喉(のど)の奥(おく)に入(い)れちまえ」
渚(なぎさ)「はい…」
そんなことして、大丈夫(だいじょうぶ)だろうか。
倒(たお)れたりしないだろうか。
少(すこ)し心配(しんぱい)になってきたが…
でも、お猪口(ちょこ)一杯(いっぱい)ぐらいなら、無理(むり)しても気持(きも)ち悪(わる)くなる程度(ていど)で済(す)むか…。
渚(なぎさ)「いきます」
秋生(あきお)「おぅ」
ぐいっ。
渚(なぎさ)が思(おも)いきって、お猪口(ちょこ)を傾(かたむ)けた。
ごくん。
喉(のど)が鳴(な)る。
渚(なぎさ)「呑(の)みました…」
秋生(あきお)「ひゅう…」
秋生(あきお)「いい呑(の)みっぷりじゃねぇか、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「そうですか…だったら、よかったです」
秋生(あきお)「ああ、最高(さいこう)の気分(きぶん)だ」
秋生(あきお)「つーわけで、もう一回(いっかい)見(み)せてくれ」
オッサンの手(て)によって、お猪口(ちょこ)が再度(さいど)満(み)たされる。
渚(なぎさ)「あ…はい」
渚(なぎさ)「では…」
さらに傍観
もう一杯(いっぱい)ぐらいなら、大丈夫(だいじょうぶ)だろう。
俺(おれ)は見(み)ていた。
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、そのへんでやめておいたほうがいいですよ」
早苗(さなえ)さんが止(と)めに入(はい)っていた。
渚(なぎさ)「いえ…まだ平気(へいき)です」
早苗(さなえ)「アルコールは時間(じかん)をおいて回(まわ)ってきますから、今(いま)は平気(へいき)でも、もう飲(の)み過(す)ぎてるかもしれませんよ?」
渚(なぎさ)「え…」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが寂(さび)しいなら、わたしが代(か)わりに呑(の)みますから」
早苗(さなえ)「ですから、渚(なぎさ)はもう、やめておきましょうね」
早苗(さなえ)「では、それを置(お)いてください」
渚(なぎさ)「これですか?」
早苗(さなえ)「はい」
渚(なぎさ)は言(い)われるままに、お猪口(ちょこ)を机(つくえ)の上(うえ)に戻(もど)す。
代(か)わりにそれを早苗(さなえ)さんが指(ゆび)で挟(はさ)んで持(も)ち上(あ)げる。
秋生(あきお)「おい、やめとけって」
早苗(さなえ)「いつも、寂(さび)しい思(おも)いをさせてしまっていたので…」
オッサンの制止(せいし)も聞(き)かず…
ごくん。
…呑(の)んでしまった。
早苗(さなえ)「………」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)…」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
早苗(さなえ)「わたしも、一杯(いっぱい)ぐらいなら平気(へいき)です」
秋生(あきお)「そうか…」
みるみるうちに、渚(なぎさ)の顔(かお)は赤(あか)くなっていった。
渚(なぎさ)「すごく火照(ほて)ってます…」
頬(ほお)を両手(りょうて)で押(お)さえて言(い)った。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?」
渚(なぎさ)「はい。気分(きぶん)は悪(わる)くないです」
渚(なぎさ)「でも、なんだかぼーっとします」
朋也(ともや)「もう、これ以上(いじょう)呑(の)むなよ」
渚(なぎさ)「なんだか、朋也(ともや)くんが遠(とお)いです」
渚(なぎさ)「もっと、寄(よ)っていいですかっ」
朋也(ともや)「十分(じゅうぶん)、近(ちか)くにいると思(おも)うぞ」
渚(なぎさ)「そんなことないです、遠(とお)いですっ」
一度(いちど)腰(こし)を上(あ)げて座(すわ)り直(なお)す。ぴったりと腕(うで)が触(ふ)れた。
渚(なぎさ)「近(ちか)くなりました。えへへ」
朋也(ともや)「言(い)っとくが、おまえ、酔(よ)ってるからな…」
渚(なぎさ)「酔(よ)ってなんかないです」
朋也(ともや)「酔(よ)ってる奴(やつ)は皆(みんな)そういうんだよ…」
渚(なぎさ)「………」
すぐそばで、じっと俺(おれ)を見(み)つめ続(つづ)けた。
渚(なぎさ)「………」
早苗(さなえ)さんやオッサンの前(まえ)だというのに…。
秋生(あきお)「てめぇ…俺(おれ)に感謝(かんしゃ)しろよ…」
早苗(さなえ)「ラブラブですねっ」
朋也(ともや)「ラブラブっつーか…これは違(ちが)うでしょ…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうして、否定(ひてい)するんですか」
朋也(ともや)「ほら、渚(なぎさ)、早苗(さなえ)さん見(み)てるし…」
渚(なぎさ)「お母(かあ)さんがどうかしましたかっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、お母(かあ)さんが気(き)になりますかっ」
…嫉妬(しっと)!?
早苗(さなえ)「それはわたしも興味(きょうみ)ありますねっ」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、わたしを気(き)にしてくれているんですかっ」
早苗(さなえ)さんも酔(よ)ってるーッ!?
秋生(あきお)「おおっ、すげぇ修羅場(しゅらば)だなっ」
オッサンはひとり、優雅(ゆうが)に見物(けんぶつ)。
…片方(かたほう)は、あんたの嫁(よめ)なんですが。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、答(こた)えてください」
朋也(ともや)「えぇ…?」
気にしてる
朋也(ともや)「気(き)にしてるよ」
渚(なぎさ)「え…」
朋也(ともや)「だって、おまえの母親(ははおや)だからな」
朋也(ともや)「ずっと、健康(けんこう)でいてほしい…」
朋也(ともや)「そう思(おも)うのは当然(とうぜん)だろ?」
渚(なぎさ)「あ…はい…そうでした…」
うまくはぐらかせたようだった。
秋生(あきお)「こいつ、はぐらかしてるぞ」
朋也(ともや)(ぐは…)
渚(なぎさ)「え?」
秋生(あきお)「女(おんな)として早苗(さなえ)が気(き)になるか、どうか、答(こた)えろよ」
早苗(さなえ)「なんか、年甲斐(としがい)もなく、どきどきしてしまいますねっ」
さ、早苗(さなえ)さん…。
いかん、動揺(どうよう)するな。
心配(しんぱい)そうに見(み)つめてる渚(なぎさ)のためにも、ここは男(おとこ)らしく…。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)の胸(むね)はでかいぞ」
がちゃんっ!
男(おとこ)らしく決(き)めるつもりが、オッサンの一言(いちげん)により、机(つくえ)に突(つ)っ伏(ぷ)す結果(けっか)に…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしてそんなに動揺(どうよう)してるんですか」
秋生(あきお)「ふん…早苗(さなえ)に気(き)がある証拠(しょうこ)よ…」
渚(なぎさ)「え…本当(ほんとう)ですか、朋也(ともや)くんっ」
朋也(ともや)「ないないない」
早苗(さなえ)「ないんですかっ」
朋也(ともや)「いや、好意(こうい)はありますよっ」
渚(なぎさ)「あるんですかっ」
朋也(ともや)「ぐあーーっ!
俺(おれ)が一体(いったい)何(なに)をしたぁーっ!」
秋生(あきお)「ふん…いい勉強(べんきょう)になったろ」
秋生(あきお)「こうして、男(おとこ)は成長(せいちょう)していくんだよ」
秋生(あきお)「てめぇは、何(なに)もかもうまくいきすぎだったからな」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)も、もうよしてやれ。そんな奴(やつ)に好(す)かれていなくても、別(べつ)にいいだろが」
早苗(さなえ)「よくないですっ」
秋生(あきお)「早苗(さなえ)ぇーーーーーーーーーーーーっ!!」
大騒(おおさわ)ぎだった。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か…?」
渚(なぎさ)「はい、ぜんぜん…大丈夫(だいじょうぶ)です…」
朋也(ともや)「でも、気分悪(きぶんわる)いんだろ?」
渚(なぎさ)「ちょっとです」
渚(なぎさ)「横(よこ)になれば、すぐ収(おさ)まります」
朋也(ともや)「寝(ね)る時(とき)は、風呂(ふろ)に入(はい)ってからな」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は、帰(かえ)らないですか」
朋也(ともや)「面倒(めんどう)だろ」
渚(なぎさ)「あの…」
渚(なぎさ)「わたしは、ふたりきりになりたかったです…」
朋也(ともや)「今(いま)、なってるじゃん」
渚(なぎさ)「あ、はい…」
渚(なぎさ)は敷(し)いた布団(ふとん)の上(うえ)に座(すわ)ったままでいた。
朋也(ともや)「どうした?」
渚(なぎさ)「あの…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんは、お母(かあ)さんのこと好(す)きです」
朋也(ともや)「ああ、好(す)きだよ」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)「おまえは、愛(いと)してる」
朋也(ともや)「この違(ちが)い、わかるか?」
渚(なぎさ)「あっ…」
渚(なぎさ)「…ありがとうございます」
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、礼(れい)なんて言(い)うな」
渚(なぎさ)「あの…」
朋也(ともや)「なに」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「…胸(むね)、小(ちい)さいですけど、いいですかっ」
渚(なぎさ)は…
そんなことを気(き)にしていたのだ。
おかしい。おかしすぎる。
俺(おれ)は心配(しんぱい)する渚(なぎさ)を前(まえ)に、大笑(おおわら)いしてしまう。
渚(なぎさ)「え?
え?」
朋也(ともや)「平(たい)らだって、いいよ、俺(おれ)は。おまえだったらな」
渚(なぎさ)「平(たい)らじゃないです。ちゃんと出(で)てますから、安心(あんしん)してください」
渚(なぎさ)「って、わたし、ヘンなこと言(い)っちゃってます」
渚(なぎさ)「何(なに)が安心(あんしん)なのか、よくわからないです…」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「…えへへ」
安心(あんしん)したのか、ようやく笑顔(えがお)を見(み)せてくれた。
朋也(ともや)「ほら、横(よこ)になってろよ。今(いま)、水(みず)、持(も)ってきてやるから」
渚(なぎさ)「あ、はい。お願(ねが)いします」
渚(なぎさ)を休(やす)ませ、廊下(ろうか)に出(で)る。
居間(いま)からは、早苗(さなえ)さんとオッサンの話(はな)し声(ごえ)。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、渚(なぎさ)は幸(しあわ)せそうですね」
秋生(あきお)「ん?
ああ…そうだな…」
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)に…あの子(こ)は朋也(ともや)さんが好(す)きなんですね」
秋生(あきお)「みてぇだな…」
秋生(あきお)「ちっ…なんだって、あんな甲斐性(かいしょ)ナシを…」
早苗(さなえ)「いえ、朋也(ともや)さんは、最近(さいきん)の男(おとこ)の子(こ)としては、しっかりしていますよ」
秋生(あきお)「そうかよ…」
早苗(さなえ)「それに、渚(なぎさ)は朋也(ともや)さんと一緒(いっしょ)に居(い)るだけで幸(しあわ)せなんですよ」
早苗(さなえ)「ですから、それだけで…一緒(いっしょ)に居(い)られるだけで十分(じゅうぶん)なんですよ」
なんて…穏(おだ)やかな時間(じかん)なんだろう。
俺(おれ)は愛(あい)する人(ひと)と、一緒(いっしょ)に暮(く)らしている。
それを温(あたた)かく見守(みまも)ってくれる人(ひと)たちもいる。
本当(ほんとう)に…頑張(がんば)らなくちゃな…。
休(やす)みが明(あ)けようとする頃(ころ)、渚(なぎさ)が体調(たいちょう)を崩(くず)した。
休(やす)みのうちに俺(おれ)が無理(むり)をさせすぎてしまったんじゃないだろうか。
でも渚(なぎさ)は、いつものです、と言(い)った。
いつものなら、また長引(ながび)くということだった。
オッサンとの約束通(やくそくどお)り、俺(おれ)は早苗(さなえ)さんを呼(よ)んだ。
俺(おれ)が仕事(しごと)に出(で)ている間(あいだ)は、早苗(さなえ)さんが看(み)ていてくれると言(い)った。
朋也(ともや)「申(もう)し訳(わけ)ないっす…」
早苗(さなえ)「いえ、朝(あさ)のパンは焼(や)いて出(い)てくるので、店(みせ)のほうは大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんが店番(みせばん)はしてていてくれます」
…それが心配(しんぱい)なんだけど。
でも、そもそもそのオッサンとの約束(やくそく)だ。
しっかり、早苗(さなえ)さんの分(ぶん)まで働(はたら)いてくれるのだろう。
渚(なぎさ)のためにも、ここは甘(あま)えておくことにした。
朋也(ともや)「やっぱり…実家(じっか)に戻(もど)らないのか?」
ある日(ひ)の晩(ばん)、そう訊(き)いてみた。
渚(なぎさ)「はい。病気(びょうき)しても、ここがわたしの家(いえ)です。ここで寝(ね)ていたいです」
渚(なぎさ)「迷惑(めいわく)ばっかりかけてしまってますけど…」
朋也(ともや)「それはいいんだけどさ…」
渚(なぎさ)「体調(たいちょう)のいい日(ひ)は手伝(てつだ)えます」
朋也(ともや)「無理(むり)すんなって」
今(いま)は、できるだけ俺(おれ)が、家事(かじ)をやっていた。
早苗(さなえ)さんにも迷惑(めいわく)をかけないように。
仕事(しごと)も順調(じゅんちょう)だったから、さほど負担(ふたん)にはならなかった。
これまでと同(おな)じように、渚(なぎさ)の微熱(びねつ)は長(なが)く続(つづ)いた。
2月(がつ)になっても、登校(とうこう)できなかった。
ある日帰(ひがえ)ってくると、早苗(さなえ)さんが、夕飯(ゆうはん)の支度(したく)をしながら待(ま)っていてくれた。
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
朋也(ともや)「うわ、申(もう)し訳(わけ)ないっす」
朋也(ともや)「俺(おれ)、代(か)わりますよ」
早苗(さなえ)「いいえ」
早苗(さなえ)「すぐできますけど、先(さき)に夕飯(ゆうはん)でいいですか?」
朋也(ともや)「あ、はい。先(さき)にいただきます」
早苗(さなえ)「先(さき)にお風呂入(ふろはい)ってもらっても構(かま)わないんですよ?」
朋也(ともや)「いえ…腹(はら)ペコペコだから」
早苗(さなえ)「では、急(いそ)いで作(つく)りますね。その間(あいだ)、渚(なぎさ)の相手(あいて)をしてあげててください」
朋也(ともや)「はい」
部屋(へや)に入(はい)ると、いつものように渚(なぎさ)は体(からだ)を横(よこ)にしていた。
これもいつものように、その額(ひたい)に手(て)を置(お)いて、熱(ねつ)を計(はか)る。
朋也(ともや)「まぁまぁだな」
朋也(ともや)「気分(きぶん)はどうだ?」
渚(なぎさ)「いいです」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんのご飯(はん)、食(た)べられるか?」
渚(なぎさ)「いつもぐらいなら、食(た)べられると思(おも)います」
朋也(ともや)「なら、調子(ちょうし)はいつも通(どお)りだな」
いつも通(どお)り、というのは、いいことなのか、悪(わる)いことなのか…
よくわからなかった。
気休(きやす)めぐらいには、なっているのだろうか…。
渚(なぎさ)は布団(ふとん)の中(なか)から、もぞもぞと手(て)を出(だ)してくると、俺(おれ)の手(て)を掴(つか)んだ。
渚(なぎさ)「でも、結局(けっきょく)また…朋也(ともや)くんや、お母(かあ)さんに迷惑(めいわく)かけてしまいました」
渚(なぎさ)「手伝(てつだ)うこともできなくて…悔(くや)しいです…」
朋也(ともや)「でも、ずっと頑張(がんば)ってきたじゃないか」
朋也(ともや)「今(いま)は、頑張(がんば)ったから、ほんの少(すこ)し休憩(きゅうけい)してるって思(おも)えよ」
朋也(ともや)「誰(だれ)も迷惑(めいわく)なんて思(おも)ってないしさ」
渚(なぎさ)「はい…」
早苗(さなえ)「今日(きょう)は、渚(なぎさ)の担任(たんにん)の先生(せんせい)とお話(はな)してきました」
お茶(ちゃ)だけ飲(の)みながら、早苗(さなえ)さんは話(はな)し始(はじ)めた。
早苗(さなえ)「もし、三学期(さんがっき)、このまま休(やす)んでしまっても、卒業(そつぎょう)させてもらえるそうです」
朋也(ともや)「え…マジっすか」
早苗(さなえ)「はい。それまでの出席(しゅっせき)も良好(りょうこう)ですし、問題(もんだい)ないということです」
朋也(ともや)「よかったな、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「あ、はい…よかったです」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)は俺(おれ)と早苗(さなえ)さんに礼(れい)を言(い)った。
朋也(ともや)「俺(おれ)たちじゃないよ。おまえが一年(いちねん)頑張(がんば)ったからだって」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)、よく頑張(がんば)りましたね」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「でも、まだ終(お)わってないです」
渚(なぎさ)「できれば、残(のこ)りの授業(じゅぎょう)…出席(しゅっせき)したいです」
渚(なぎさ)「このまま終(お)わってしまうのは、寂(さび)しいです…」
朋也(ともや)「そうだな。その気持(きも)ちはわかるよ」
数(かぞ)えれば、渚(なぎさ)の学生生活(がくせいせいかつ)は残(のこ)り一(いっ)ヶ月(げつ)だった。
一(いっ)ヶ月後(つきご)には、卒業式(そつぎょうしき)が控(ひか)えていた。
早苗(さなえ)「それでは、秋生(あきお)さんがお腹(なか)を空(す)かして寂(さび)しがっていると思(おも)いますので、帰(かえ)りますね」
朋也(ともや)「はい、ありがとうございました」
早苗(さなえ)「後片(あとかた)づけは朋也(ともや)さん、お願(ねが)いできますか」
朋也(ともや)「はい、もちろん」
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんをアパートの入(い)り口(ぐち)まで見送(みおく)る。
早苗(さなえ)「これで春(はる)には、籍(せき)を入(い)れられますね」
朋也(ともや)「はい…やっとそうできます」
朋也(ともや)「きっと、仕事(しごと)の励(はげ)みになって…もっともっと頑張(がんば)れますよ、俺(おれ)」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、本当(ほんとう)にあの子(こ)を必要(ひつよう)としていてくれるんですね」
朋也(ともや)「それは、もちろん」
朋也(ともや)「あいつなしじゃ、俺(おれ)の人生(じんせい)なんて、もう考(かんが)えられないです…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)は体(からだ)が弱(よわ)い子(こ)ですが、いつまでも一緒(いっしょ)に居(い)てあげてくださいね。よろしくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「いえ、こちらこそお願(ねが)いしたいくらいです。嫌(きら)われないようにしないと…」
朋也(ともや)「あれ?
このやり取(と)り、昔(むかし)にもしたような…」
早苗(さなえ)「そうですねっ」
言(い)って、早苗(さなえ)さんは笑(わら)った。
早苗(さなえ)「本当(ほんとう)にあの子(こ)は、朋也(ともや)さんと出会(であ)えてよかったです」
朋也(ともや)「俺(おれ)こそですよ。あんな可愛(かわい)いくて思(おも)いやりのある奴(やつ)が、他(ほか)の奴(やつ)じゃなくて、俺(おれ)なんか選(えら)んでくれたなんて…」
朋也(ともや)「もっといっぱい居(い)たはずですよ。あいつを幸(しあわ)せにできる奴(やつ)なんて」
早苗(さなえ)「いません」
笑(わら)えるぐらいに、きっぱりと言(い)いきられた。
やっぱり、この人(ひと)も大好(だいす)きだった。
早苗(さなえ)「それでは、失礼(しつれい)します」
朋也(ともや)「ありがとうございました」
一週間(いっしゅうかん)、二週間(にしゅうかん)が過(す)ぎても、渚(なぎさ)の熱(ねつ)は下(さ)がらなかった。
そして、卒業式(そつぎょうしき)の日(ひ)も。
渚(なぎさ)は、この部屋(べや)から外(そと)の風景(ふうけい)を眺(なが)めたまま、卒業(そつぎょう)した。
…制服(せいふく)も着(ちゃく)ず、見送(みおく)られもせず。
桜(さくら)が咲(さ)き始(はじ)める頃(ころ)…
ようやく、渚(なぎさ)の熱(ねつ)は下(さ)がり、落(お)ち着(つ)きをみせた。
起(お)き上(あ)がって、家(いえ)の中(なか)のこともするようになった。
渚(なぎさ)「制服(せいふく)です」
渚(なぎさ)はビニールの袋(ふくろ)に入(はい)った制服(せいふく)を手(て)に持(も)って、俺(おれ)の前(まえ)に立(た)っていた。
渚(なぎさ)「クリーニングから戻(もど)ってきました」
渚(なぎさ)「もう着(き)ることはないですけど、大切(たいせつ)に保管(ほかん)しておきたいと思(おも)います」
朋也(ともや)「ああ…」
それを床(ゆか)に広(ひろ)げて、丁寧(ていねい)に折(お)り畳(たたみ)み始(はじ)める。
もう、着(き)ることはできないのだろうか。
少(すこ)しだけでもいい。
あの頃(ころ)に戻(もど)ることはできないのだろうか。
やり残(のこ)してきたことを、やり遂(と)げることはできないのだろうか。
ふと、なんの脈略(みゃくりゃく)もなしに…俺(おれ)は春原(すのはら)の顔(かお)を思(おも)い出(だ)していた。
学生時代(がくせいじだい)、寮生活(りょうせいかつ)をしていた春原(すのはら)は、卒業後(そつぎょうご)、実家(じっか)に戻(もど)った。
田舎(いなか)はどこだか忘(わす)れたが、東北(とうほく)のほうだったと思(おも)う。
とにかく遠(とお)い場所(ばしょ)だ。
日々(ひび)に追(お)い立(た)てられ、お互(たが)い連絡(れんらく)を取(と)ることすらままならなかった。
学生時代(がくせいじだい)のあいつしか俺(おれ)は知(し)らなかったけど…
学生服(がくせいふく)を着(き)て、馬鹿(ばか)をやっているあいつしか知(し)らなかったけど…
でも、あいつなら、どんな無茶(むちゃ)だって一緒(いっしょ)にやってくれるはずだった。
夜(よる)を待(ま)ち、渚(なぎさ)が風呂(ふろ)に入(はい)るのを見計(みはか)らって、押(お)し入(い)れを開(ひら)く。
奥深(おくぶか)くから学生時代(がくせいじだい)の名簿(めいぼ)を引(ひ)っぱり出(だ)してきて、春原(すのはら)の実家(じっか)の電話番号(でんわばんごう)を探(さが)した。
見(み)つけると、電話(でんわ)を引(ひ)っ張(ぱ)ってきて、すぐさまダイヤルをプッシュした。
声(こえ)『はい、春原(すのはら)です』
母親(ははおや)の声(こえ)。
朋也(ともや)「あの、岡崎(おかざき)と申(もう)しますが、陽平(ようへい)さんはご在宅(ざいたく)でしょうか」
声(こえ)『どちら様(さま)ですか?』
何(なに)かの勧誘(かんゆう)と思(おも)われているのだろうか。
朋也(ともや)「学生(がくせい)の頃(ころ)の同級生(どうきゅうせい)です。岡崎(おかざき)と言(い)ってもらえれば、わかると思(おも)います」
声(こえ)『ええと…陽平(ようへい)は寮生活(りょうせいかつ)をしてまして、家(いえ)にはおりません』
朋也(ともや)「寮(りょう)?」
一瞬(いっしゅん)、一年前(いちねんまえ)の懐(なつ)かしい春原(すのはら)の部屋(へや)が思(おも)い出(だ)された。
声(こえ)『会社(かいしゃ)の寮(りょう)です』
当然(とうぜん)だった。あの場所(ばしょ)はもう、俺(おれ)の過(す)ごした春原(すのはら)の部屋(へや)ではなく…見知(みし)らぬ男子学生(だんしがくせい)の部屋(へや)となっているはずだった。
朋也(ともや)「…でしたら、そちらの連絡先(れんらくさき)を教(おし)えていただけますか」
声(こえ)『はい…よろしいでしょうか?』
朋也(ともや)「お願(ねが)いします」
………。
受話器(じゅわき)を置(お)いて、今(いま)メモした電話番号(でんわばんごう)をプッシュする。
声(こえ)『はい、さつき寮(りょう)です』
中年女性(ちゅうねんじょせい)の声(こえ)。
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)と申(もう)しますが、春原陽平(すのはらようへい)さんをお願(ねが)いしたいんですが」
声(こえ)『はい、少々(しょうしょう)お待(ま)ちください』
………。
声(こえ)『はい、代(か)わりました』
少(すこ)し作(つく)った声(こえ)。
朋也(ともや)「春原(すのはら)か、俺(おれ)だ。岡崎(おかざき)だ」
春原(すのはら)『えっ…岡崎(おかざき)?
マジかよっ?』
一瞬(いっしゅん)で、あの頃(ころ)の声(こえ)に戻(もど)る。時間(じかん)なんて関係(かんけい)ない。
朋也(ともや)「ああ。元気(げんき)か」
春原(すのはら)『元気(げんき)だけどさ…なんか理不尽(りふじん)なことが多(おお)いんだよ。聞(き)いてくれよ、おまえならわかってくれるはずだ』
朋也(ともや)「ああ、今度(こんど)ゆっくり聞(き)いてやるからな、今(いま)は俺(おれ)の話(はなし)を聞(き)け」
春原(すのはら)『ちっ、卒業(そつぎょう)しても主導権(しゅどうけん)はそっちかよ』
朋也(ともや)「いいじゃないか、よしみって奴(やつ)でよ」
春原(すのはら)『で、なんだ』
朋也(ともや)「卒業式(そつぎょうしき)をやりたいんだ」
春原(すのはら)『は…?』
朋也(ともや)「知(し)ってるだろ、渚(なぎさ)がこの春(はる)で卒業(そつぎょう)したんだ」
春原(すのはら)『ああ、渚(なぎさ)ちゃんか。おまえら、まだ付(つ)き合(あ)ってんのか。すげぇじゃん』
朋也(ともや)「んなこたぁどうでもいいんだよ、馬鹿(ばか)。話(はなし)を聞(き)け」
調子(ちょうし)が戻(もど)ってくる。するすると罵声(ばせい)が飛(と)び出(だ)す。
朋也(ともや)「この一年間(いちねんかん)、あいつは友達(ともだち)もいない学校(がっこう)でひとり頑張(がんば)ったんだ」
朋也(ともや)「でも、やっぱり卒業式(そつぎょうしき)には出(で)られなかった」
朋也(ともや)「それは寂(さび)しすぎるだろ」
朋也(ともや)「だから、あの日(ひ)の俺(おれ)たちで、卒業式(そつぎょうしき)をしたいんだ」
朋也(ともや)「たった一(いっ)ヶ月(げつ)だったけど、俺(おれ)たちは誰(だれ)よりもあいつと親(した)しく時間(じかん)を過(す)ごした奴(やつ)らだからさ」
春原(すのはら)『………』
朋也(ともや)「頼(たの)む、春原(すのはら)」
春原(すのはら)『………』
春原(すのはら)『今(いま)、研修中(けんしゅうちゅう)だからさ…』
春原(すのはら)『そんなことしてたら、クビになっちまうよ…』
朋也(ともや)「悪(わる)いなっ」
春原(すのはら)『クビになれってかッ!』
朋也(ともや)「一日(いちにち)ぐらい居(い)なくなったって、クビになんねぇよ」
春原(すのはら)『なるんだよっ』
朋也(ともや)「融通(ゆうずう)が利(き)かねぇ奴(やつ)だなぁ」
春原(すのはら)『融通(ゆうずう)が利(き)かないのは僕(ぼく)じゃなくて、会社(かいしゃ)だっ』
朋也(ともや)「なんとかなんないか?」
春原(すのはら)『そりゃあ、休(やす)みが合(あ)えばいいけどさ…』
春原(すのはら)『それでも日帰(ひがえ)りで往復(おうふく)だろ…?
辛(つら)いなぁ』
朋也(ともや)「頑張(がんば)れ、俺(おれ)のために」
春原(すのはら)『渚(なぎさ)ちゃんのためにだろっ』
朋也(ともや)「どっちも一緒(いっしょ)だ」
春原(すのはら)『じゃあさ、一日(いちにち)だけ休(やす)みを取(と)ってみる。けど、いつになるかわかんないからな』
朋也(ともや)「ああ、こっちが合(あ)わせるよ」
春原(すのはら)『じゃ、次(つぎ)はこっちから連絡(れんらく)する』
朋也(ともや)「いや、そっちからはやめてくれ」
春原(すのはら)『どうして』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)が電話(でんわ)に出(で)る可能性(かのうせい)があるから」
春原(すのはら)『………』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)が出(で)ちまったらさ、何(なに)か企(たくら)んでるのがばれるだろ?」
春原(すのはら)『………』
朋也(ともや)「もしもし?」
春原(すのはら)『おまえさ…』
春原(すのはら)『もしかして…渚(なぎさ)ちゃんと同棲(どうせい)してんのか…』
朋也(ともや)「ああ、言(い)ってなかったか」
春原(すのはら)『おまえと話(はな)すの、一年(いちねん)ぶりなんですけど』
朋也(ともや)「いや、悪(わる)い、それどころじゃなくてさぁ」
春原(すのはら)『てめぇ、ひとりだけ幸(しあわ)せそうですねぇ!』
朋也(ともや)「悪(わる)いなっ」
春原(すのはら)『クビをかけてまで、そっちに行(い)く気(き)がだんだん失(う)せてきたんですけど』
朋也(ともや)「失(う)せても来(こ)い」
春原(すのはら)『僕(ぼく)、最高(さいこう)にいい奴(やつ)ですねぇ!』
朋也(ともや)「だから、おまえに頼(たの)んでんじゃん」
春原(すのはら)『………』
春原(すのはら)『ちっ…わかったよ』
春原(すのはら)『この時間(じかん)なら、捕(つか)まるから、またかけてこい』
朋也(ともや)「ああ、そうする」
春原(すのはら)『じゃあな』
朋也(ともや)「おう」
受話器(じゅわき)を置(お)く。
あの頃(ころ)の馬鹿(ばか)をやっていた感覚(かんかく)が戻(もど)っていた。
卒業式(そつぎょうしき)だって、なんだって、やれる気(き)がした。
そう。
俺(おれ)たちは、寄(よ)せ集(あつ)めのチームでバスケ部(ぶ)にも勝(か)ったし、廃部(はいぶ)だった演劇部(えんげきぶ)も創立者祭(そうりつしゃさい)を目指(めざ)して再建(さいけん)することができた。
あの頃(ころ)の俺(おれ)たちに戻(もど)れば、なんだってできるんだ。
そして…
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、次(つぎ)の日曜(にちよう)、デートしよう」
しばらく経(た)った日(ひ)の夜(よる)、俺(おれ)はそう誘(さそ)った。
渚(なぎさ)「はい。しましょう」
渚(なぎさ)「どこにいきますか」
朋也(ともや)「内緒(ないしょ)だ」
渚(なぎさ)「どうしてですか。教(おし)えてほしいです」
朋也(ともや)「秘密(ひみつ)」
渚(なぎさ)「気(き)になります」
朋也(ともや)「別(べつ)に騙(だま)そうとか、そういうんじゃないからさ」
ただ、純粋(じゅんすい)に驚(おどろ)いて、喜(よろこ)んでほしかった。
その顔(かお)を隣(となり)で見(み)たかった。
朋也(ともや)「きっと、いい思(おも)い出(で)になるからさ。だから、楽(たの)しみに待(ま)っててくれよ」
渚(なぎさ)「そこまで言(い)うんでしたら、わかりました。何(なに)も訊(き)かずに待(ま)ってます」
そして明日(あした)は約束(やくそく)の日(ひ)。
朋也(ともや)「あのさ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「明日(あした)のデートはさ…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「制服(せいふく)でしたいんだ」
渚(なぎさ)「え…?」
朋也(ともや)「ダメか?」
渚(なぎさ)「制服(せいふく)って、学生服(がくせいふく)でしょうか?」
朋也(ともや)「ああ、いつも渚(なぎさ)が着(き)てたやつだよ」
渚(なぎさ)「それは恥(は)ずかしいです…」
朋也(ともや)「少(すこ)し前(まえ)までは着(き)てたじゃん」
渚(なぎさ)「そうですけど…」
渚(なぎさ)「でも、もう卒業(そつぎょう)しました」
渚(なぎさ)「ですから、嘘(うそ)をついてることになります」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。今(いま)はまだ春休(はるやす)みなんだから」
朋也(ともや)「4月(がつ)になって、入学式(にゅうがくしき)や始業式(しぎょうしき)があって、今年(こんねんど)の学業(がくぎょう)がスタートするんだ」
朋也(ともや)「だから、今(いま)は誰(だれ)も学生(がくせい)じゃない」
朋也(ともや)「誰(だれ)も迷惑(めいわく)しないんだ」
朋也(ともや)「ふたりだけ、一日(いちにち)だけ、学生(がくせい)に戻(もど)ろう」
朋也(ともや)「な」
渚(なぎさ)「でも、近所(きんじょ)の人(ひと)とかに見(み)られたら、すごく恥(は)ずかしいです」
渚(なぎさ)「わたし、いろんな方(かた)に卒業(そつぎょう)おめでとうって言(い)ってもらいました」
渚(なぎさ)「そのわたしが制服(せいふく)着(き)て歩(ある)いてたら、とてもヘンな子(こ)だと思(おも)われます」
朋也(ともや)「朝早(あさはや)いから大丈夫(だいじょうぶ)だよ」
渚(なぎさ)「帰(かえ)りは遅(おそ)いです」
朋也(ともや)「なら、着替(きが)えを持(も)っていってもいいよ。向(む)こうで着替(きが)えて帰(かえ)ってくればいい」
渚(なぎさ)「見(み)つからないでしょうか…」
朋也(ともや)「ああ、たぶんな」
渚(なぎさ)「どきどきします」
朋也(ともや)「そういうのも面白(おもしろ)いじゃないか」
渚(なぎさ)「かもしれないですけど…」
朋也(ともや)「で、どうなんだ。一緒(いっしょ)に制服(せいふく)着(き)てくれるのか?」
渚(なぎさ)「うーん…」
しばらく考(かんが)えた後(あと)…
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんが、そうしてほしいのなら、そうします」
結局(けっきょく)、そう答(こた)えてくれた。
朋也(ともや)「そっか。じゃ、決(き)まり」
朋也(ともや)「朝(あさ)になって、やっぱやめる、とか言(い)うなよ?」
渚(なぎさ)「はい、言(い)いません」
渚(なぎさ)「けど、やっぱりどきどきします…」
その日(ひ)は朝(あさ)から雲(くも)一(ひと)つない晴天(せいてん)だった。
そして皆(みんな)の休(やす)みがひとつに集(あつ)まった一日(いちにち)。
奇跡(きせき)の一日(いちにち)だった。
渚(なぎさ)「おはようございます」
背中(せなか)から声(こえ)。
朋也(ともや)「おはよう」
朋也(ともや)「もう少(すこ)し寝(ね)てれば良(よ)かったのに」
渚(なぎさ)「いえ、なんだか興奮(こうふん)して、寝(ね)つけませんでした」
渚(なぎさ)「やっぱり、制服(せいふく)を着(き)て外(そと)を歩(ある)くというのはどきどきします」
朋也(ともや)「おまえなんかいいよ。卒業(そつぎょう)したの、一(いっ)ヶ月前(げつまえ)だろ」
朋也(ともや)「俺(おれ)は一年前(いちねんまえ)だぜ?
アホみたいだ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、まだまだ若(わか)いです。まだまだ似合(にあ)います」
朋也(ともや)「まぁな。おまえは、結構(けっこう)な歳(とし)だもんな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…わたしのこと嫌(きら)いですか」
朋也(ともや)「大好(だいす)きだぞ」
渚(なぎさ)「あ、ありがとうございます…」
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)「あっ、今(いま)、ごまかされそうでしたっ」
朋也(ともや)「何(なに)がだよ」
渚(なぎさ)「ひとつ年上(としうえ)なだけなのに、結構(けっこう)な歳(とし)とか言(い)わないでほしいです」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)まだ十代(じゅうだい)だぞ。おまえは?」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「二十代(にじゅうだい)ですけど…」
朋也(ともや)「そういうことだ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、わたしに制服(せいふく)着(き)てほしくないみたいですっ」
朋也(ともや)「うそ、うそ。おまえ、若(わか)いってば」
渚(なぎさ)「いいです。どうせおばさんです」
渚(なぎさ)「今日(きょう)はヘンな趣味(しゅみ)の女(おんな)の子(こ)として、朋也(ともや)くんにべったりくっついています」
渚(なぎさ)「もう、腕(うで)とかも組(く)んでしまいます」
とても素敵(すてき)な仕返(しかえ)しだった。
軽(かる)く朝食(ちょうしょく)を取(と)った後(あと)、俺(おれ)たちはそれぞれ支度(したく)にかかる。
制服(せいふく)に着替(きが)えて現(あらわ)れた渚(なぎさ)の姿(すがた)は、とても見慣(みな)れたものだった。
けど、俺(おれ)はそうでないらしく、渚(なぎさ)は俺(おれ)の姿(すがた)を見(み)るなり笑(わら)い出(だ)した。
朋也(ともや)「なに!?
そんなに、おかしいか!?」
朋也(ともや)「くそぅ、いつのまに俺(おれ)はそんなに老(ふ)けていたんだ…」
渚(なぎさ)「そんなことないです」
朋也(ともや)「むちゃくちゃ笑(わら)ってるじゃないかっ」
渚(なぎさ)「二年前(にねんまえ)の朋也(ともや)くんだからです」
渚(なぎさ)「そのままだからです」
目(め)の端(はし)には涙(なみだ)まで浮(う)かべていた。
渚(なぎさ)「出会(であ)った頃(ころ)の、あのままの朋也(ともや)くんだからです」
朋也(ともや)「なんだ、そっか…」
朋也(ともや)「じゃあ、自然(しぜん)なんだな」
渚(なぎさ)「自然(しぜん)すぎます」
朋也(ともや)「しかしなぁ…今更(いまさら)ながら、この格好(かっこう)で並(なら)んで歩(ある)くのは抵抗(ていこう)あるな…」
渚(なぎさ)「とてもヘンなふたりです」
朋也(ともや)「見(み)つからないようにいこうな」
渚(なぎさ)「はい、絶対(ぜったい)にそうしたいです」
朋也(ともや)「じゃ、出(で)かけるぞ」
渚(なぎさ)「はいっ」
家(いえ)を出(で)てからは、渚(なぎさ)じゃないが、どきどきしっぱなしだった。
辺(あた)りをずっと気(き)にしながら歩(ある)いた。
朋也(ともや)「補導(ほどう)なんかされたら、笑(わら)い事(ごと)じゃ済(す)まないよな…」
渚(なぎさ)「春休(はるやす)みですから、補導(ほどう)はされないと思(おも)います」
朋也(ともや)「そうだよな…健全(けんぜん)な春休(はるやす)みの少年(しょうねん)少女(しょうじょ)だよな」
渚(なぎさ)「だといいです」
渚(なぎさ)「この方向(ほうこう)って…」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)です」
朋也(ともや)「だな」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)に向(む)かってるんですか?」
朋也(ともや)「ああ」
俺(おれ)は頷(うなず)いた。
朋也(ともや)「意外(いがい)なデートスポットなんだ」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか。信(しん)じられないです」
渚(なぎさ)「先生(せんせい)に見(み)つかったら、怒(おこ)られてしまいそうです」
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)だって」
渚(なぎさ)「すごいです。満開(まんかい)です」
朋也(ともや)「ああ、すげぇ綺麗(きれい)だな」
桜(さくら)の立(た)ち並(なら)ぶ坂(さか)を並(なら)んで登(のぼ)っていく。
渚(なぎさ)「これをわたしに見(み)せるためだったんですか。ありがとうございます」
朋也(ともや)「違(ちが)う。こんなの序(じょ)の口(くち)だ」
朋也(ともや)「ほら」
見上(みあ)げると、眩(まぶ)しい陽(ひ)の光(ひかり)が俺(おれ)たちの目(め)を眩(くら)ませた。
手(て)をかざし、陽(ひ)をさえぎる。
すると、見(み)えた。
俺(おれ)たちを待(ま)つ、人(ひと)たちが。
春原(すのはら)「よぅ、久(ひさ)しぶり」
朋也(ともや)「誰(だれ)だ、おまえ」
春原(すのはら)「おまえね、久(ひさ)しぶりの再会(さいかい)でそれはないだろ」
朋也(ともや)「まさか、春原(すのはら)か」
春原(すのはら)「当然(とうぜん)だ」
朋也(ともや)「うわーーーはっはっはっはっ!」
大笑(おおわら)いしてやる。
朋也(ともや)「なんつー髪(かみ)の色(いろ)してんだよっ」
春原(すのはら)「これが普通(ふつう)の色(いろ)だろっ」
朋也(ともや)「おまえには似合(にあ)わねぇよ。よしよし、後(あと)でキンキンに染(そ)めてやるからな」
春原(すのはら)「会社(かいしゃ)、クビになるよっ!」
そして、その後(うし)ろにも知(し)った顔(かお)が並(なら)んでいた。
仁科(にしな)や、杉坂(すぎさか)、皆(みんな)が制服(せいふく)を着(き)て、待(ま)ち構(かま)えていた。
渚(なぎさ)「みなさん…」
渚(なぎさ)が一歩(いっぽ)前(まえ)に出(で)た。
渚(なぎさ)「今日(きょう)は、どうしましたか」
渚(なぎさ)はまだ気(き)づいていない。
朋也(ともや)「卒業式(そつぎょうしき)だよ、古河渚(ふるかわなぎさ)とその親友一同(しんゆういちどう)のな」
渚(なぎさ)「え…?」
声(こえ)「じゃ、始(はじ)めるかな」
一番奥(いちばんおく)にいた人物(じんぶつ)…
幸村(こうむら)が静(しず)かに言(い)った。
幸村(こうむら)「これより、古河渚(ふるかわなぎさ)とその親友一同(しんゆういちどう)、その卒業式(そつぎょうしき)を行(おこな)います」
吹(ふ)く風(かぜ)の中(なか)、よく通(とお)る声(こえ)で開式(かいしき)が告(つ)げられた。
俺(おれ)たちは、校舎(こうしゃ)に向(む)かって、横一列(よこいちれつ)に並(なら)んで立(た)っていた。
幸村(こうむら)「校歌(こうか)斉唱(せいしょう)」
皆(みんな)で校歌(こうか)を歌(うた)った。
誰(だれ)もが、自分(じぶん)の卒業式(そつぎょうしき)で歌(うた)ったよりも高(たか)く高(たか)く歌(うた)った。
どこまでも、どこまでも響(ひび)き渡(わた)った。
そして、渚(なぎさ)ひとりの、卒業証書(そつぎょうしょうしょ)授与(じゅよ)。
幸村(こうむら)「…古河渚(ふるかわなぎさ)」
名(な)が呼(よ)ばれる。
渚(なぎさ)「はい」
返事(へんじ)をして、幸村(こうむら)の元(もと)に歩(ある)いていく。
差(さ)し出(だ)される卒業証書(そつぎょうしょうしょ)。
それを受(う)け取(と)った後(あと)、俺(おれ)たちを振(ふ)り返(かえ)った渚(なぎさ)の顔(かお)は、とても晴(は)れ晴(は)れしいものだった。
皆(みんな)が拍手(はくしゅ)する。
それがやむと、渚(なぎさ)はそっと胸(むね)に手(て)を当(あ)てた。
そして、ゆっくりと口(くち)を開(ひら)く。
語(かた)り始(はじ)める。
それは、送辞(そうじ)のない答辞(とうじ)だった。
渚(なぎさ)「この学校(がっこう)での生活(せいかつ)…」
渚(なぎさ)「辛(つら)いこと、たくさんありました」
渚(なぎさ)「わたしはただでさえ、引(ひ)っ込(こ)み思案(しあん)で、友達(ともだち)を作(つく)るのが下手(したて)で…」
渚(なぎさ)「それでも2年(ねん)が終(お)わる頃(ころ)には…やっと輪(わ)に入(い)れてくれる友達(ともだち)ができて…」
渚(なぎさ)「3年(ねん)になったらもっと仲良(なかよ)くなれるかなって、そう思(おも)ってました」
渚(なぎさ)「でも次(つぎ)の一年(いちねん)は、ほとんど学校(がっこう)を欠席(けっせき)してしまいました…」
渚(なぎさ)「次(つぎ)に登校(とうこう)できたのは、始業式(しぎょうしき)から二週間(にしゅうかん)が過(す)ぎた日(ひ)でした」
渚(なぎさ)「もう、新(あたら)しいクラスでは、わたしはひとりきりだと思(おも)いました」
渚(なぎさ)「時間(じかん)の流(なが)れで、変(か)わらないものはなくて…」
渚(なぎさ)「それを知(し)ったら、もう動(うご)けませんでした」
渚(なぎさ)「だから、この坂(さか)の下(した)で、立(た)ちつくしてました」
渚(なぎさ)「そして…」
渚(なぎさ)「その背中(せなか)を押(お)してくれたのが、朋也(ともや)くんでした」
渚(なぎさ)「その日(ひ)から、毎日(まいにち)…坂(さか)の下(した)で悩(なや)んで立(た)ちつくしていたわたしの背(せ)を押(お)してくれました」
渚(なぎさ)「変(か)わっていくなら、新(あたら)しい何(なに)かを見(み)つけるまでだって」
渚(なぎさ)「そう叱咤(しった)してくれました」
渚(なぎさ)「それからの一(いっ)ヶ月(げつ)、わたしは春原(すのはら)さん、仁科(にしな)さん、杉坂(すぎさか)さん、幸村先生(こうむらせんせい)…」
渚(なぎさ)「そして、もっと影(かげ)でいろんな人(ひと)に支(ささ)えられて、演劇部(えんげきぶ)を作(つく)りました」
渚(なぎさ)「絶対(ぜったい)にひとりではできなかったことです」
渚(なぎさ)「バスケットボール部(ぶ)のみなさんとも試合(しあい)をしました」
渚(なぎさ)「勝(か)てたのは、みんながひとつになれたからだと思(おも)います」
渚(なぎさ)「短(みじか)い時間(じかん)でも、力(ちから)を合(あ)わせれば、そんなすごいことができること…知(し)りました」
渚(なぎさ)「そうして創立者祭(そうりつしゃさい)の発表会(はっぴょうかい)に向(む)けてがんばりました」
渚(なぎさ)「舞台(ぶたい)の上(うえ)では泣(な)いてしまいましたけど…」
渚(なぎさ)「劇(げき)を最後(さいご)までやり遂(と)げることができました」
渚(なぎさ)「初(はじ)めて、ひとつの目標(もくひょう)に向(む)けてがんばって、そして達成(たっせい)できたんです」
渚(なぎさ)「こんなわたしでも…」
渚(なぎさ)「たくさんの人(ひと)に支(ささ)えられて」
渚(なぎさ)「でも、それからはまた、体(からだ)の調子(ちょうし)を崩(くず)して…」
渚(なぎさ)「ずっと家(いえ)で寝(ね)てました」
渚(なぎさ)「二学期(にがっき)、三学期(さんがっき)と…家族(かぞく)に支(ささ)えられ、そして、朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)に…」
渚(なぎさ)「春(はる)を迎(むか)えました」
渚(なぎさ)「みんなが卒業(そつぎょう)して、幸村先生(こうむらせんせい)も退職(たいしょく)されて…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)にまた、ひとりきりになってしまいました」
渚(なぎさ)「それでも、もう一年(いちねん)、わたしはがんばってみようという気(き)になりました」
渚(なぎさ)「わたしは強(つよ)くなりたかったんです」
渚(なぎさ)「わたしは、体(からだ)は弱(よわ)いですけど…それでも強(つよ)く生(い)きたかったんです」
渚(なぎさ)「そして、そんな勇気(ゆうき)をくださったのが、ここに居(い)るみなさんです」
渚(なぎさ)「ひとりきりの一年間(いちねんかん)は辛(つら)かったです」
渚(なぎさ)「わたしは、二歳(にねん)年下(としした)のクラスメイトたちとはまったく住(す)む世界(せかい)が違(ちが)う人間(にんげん)でした」
渚(なぎさ)「班分(はんわ)けの時(とき)はいつもひとり残(のこ)ってました」
渚(なぎさ)「球技大会(きゅうぎたいかい)では、運動音痴(うんどうおんち)だから、クラスメイトに迷惑(めいわく)かけてばっかりでした」
渚(なぎさ)「創立者祭(そうりつしゃさい)もひとりで、回(まわ)って見(み)ました」
渚(なぎさ)「この一年間(いちねんかん)は、ほとんどひとりきりでした…」
渚(なぎさ)「それでも…」
渚(なぎさ)「それでもやっぱり、わたしは…」
渚(なぎさ)「それでもやっぱりわたしは…」
渚(なぎさ)「二度(にど)とない、この学校生活(がっこうせいかつ)を、かけがえなく思(おも)います」
渚(なぎさ)「一度(いちど)は嫌(きら)いになってしまった学校(がっこう)です…」
渚(なぎさ)「卒業(そつぎょう)するのに五年(ごねん)もかかりました…」
渚(なぎさ)「ひとりで残(のこ)る学校(がっこう)は寂(さび)しかったです」
渚(なぎさ)「でも今(いま)は、大好(だいす)きです」
渚(なぎさ)「最後(さいご)には…」
渚(なぎさ)「がんばれたわたしが、過(す)ごした場所(ばしょ)だからです」
渚(なぎさ)「………」
幸村(こうむら)「ふむ…」
幸村(こうむら)「卒業(そつぎょう)…おめでとう」
幸村(こうむら)の静(しず)かな祝辞(しゅくじ)。
渚(なぎさ)の長(なが)い、長(なが)い学校生活(がっこうせいかつ)が…今(いま)、終(お)わった。
同時(どうじ)に、堰(せき)を切(き)ったかのように、渚(なぎさ)の目(め)から涙(なみだ)がこぼれ始(はじ)めた。
渚(なぎさ)「ありがとう…ございます」
伏(ふ)せた顔(かお)の下(した)で、それだけを言(い)った後(あと)、泣(な)き始(はじ)めた。
一年(いちねん)ぶりに見(み)る涙(なみだ)。
それは辛(つら)いからじゃなくて、嬉(うれ)しいからだ。
思(おも)う存分(ぞんぶん)泣(な)けばいいと思(おも)った。
振(ふ)り返(かえ)ると、門(かど)のすぐ近(ちか)くにオッサンと早苗(さなえ)さんの姿(すがた)があった。
その隣(となり)には、美佐枝(みさえ)さんと伊吹先生(いぶきせんせい)の姿(すがた)も。
渚(なぎさ)の視界(しかい)にはずっと入(はい)っていたのだろう。
幸村(こうむら)「以上(いじょう)…閉式(へいしき)します」
四人(よにん)が校門(こうもん)の脇(わき)に立(た)ち、拍手(はくしゅ)をして迎(むか)えてくれる。
秋生(あきお)「おめでとよ」
早苗(さなえ)「卒業(そつぎょう)おめでとうございます」
伊吹(いぶき)「渚(なぎさ)ちゃん、おめでとう」
美佐枝(みさえ)「おふたりさん、おめでとー」
その中(なか)、制服姿(せいふくすがた)の俺(おれ)たちは校門(こうもん)をくぐる。
俺(おれ)が一年前(いちねんまえ)に、卒業(そつぎょう)した場所(ばしょ)。
渚(なぎさ)もそれを振(ふ)り返(かえ)る。もう二度(にど)と、くぐらない門(かど)。
渚(なぎさ)「ありがとうございました」
そう最後(さいご)に渚(なぎさ)は言(い)った。
これからはどんな道(みち)を俺(おれ)たちは歩(ある)いていくのだろうか。
ただ、ひとつ確(たし)かなこと。
それは、俺(おれ)たちはずっと同(おな)じ道(みち)をいく、ということ。
渚(なぎさ)が俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)った。
渚(なぎさ)「手(て)をつないで、帰(かえ)りましょう」
それは、いつか、俺(おれ)たちが叶(かな)えようとしていた夢(ゆめ)のひとつだ。
制服姿(せいふくすがた)で、手(て)を繋(つな)いで歩(ある)く。
それを揶揄(やゆ)する連中(れんちゅう)も、あの時(とき)描(か)いた光景(こうけい)の通(とお)りだ。
朋也(ともや)「ああ」
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同棲編(接上),0,]
朋也(ともや)「俺(おれ)、こいつと一緒(いっしょ)になる…」
どんな気持(きも)ちで今(いま)、俺(おれ)はいるのだろうか。
自分(じぶん)でもよくわからなかった。
感情(かんじょう)に揺(ゆ)らぎはない。
まるで紙(かみ)に書(か)かれた文字(もじ)を読(よ)んでいるような気分(きぶん)だった。
親父(おやじ)「ほぅ…」
親父(おやじ)は感嘆(かんたん)のため息(いき)を漏(も)らした。
親父(おやじ)「そうか…それはめでたい」
親父(おやじ)「…おめでとう」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
渚(なぎさ)がひとりで頭(あたま)を下(さ)げた。
親父(おやじ)「ええと、渚(なぎさ)さんと言(い)ったっけか」
渚(なぎさ)「はい、渚(なぎさ)です」
親父(おやじ)「朋也(ともや)くんをよろしく」
渚(なぎさ)「こちらこそ、です」
渚(なぎさ)「至(いた)らない点(てん)多々(たた)ありますが…それでも精一杯(せいいっぱい)がんばります」
親父(おやじ)「お幸(しあわ)せに」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「その…」
渚(なぎさ)「お義父(とう)さんも…がんばってください」
親父(おやじ)「こっちはのんきなもんだよ」
渚(なぎさ)「何(なに)か欲(ほ)しいものがあれば、言(い)ってください」
親父(おやじ)「大丈夫(だいじょうぶ)。ありがとう」
親父(おやじ)「………」
話(はなし)は終(お)わったようだった。
朋也(ともや)「時間(じかん)だ。いこう」
渚(なぎさ)「はい…」
渚(なぎさ)「それでは、お義父(とう)さん、また来(き)ます」
親父(おやじ)「ああ…」
痰(たん)が喉(のど)に絡(から)んだような、枯(か)れた声(こえ)。
それが哀(あわ)れみを誘(さそ)った。
しばらく渚(なぎさ)と親父(おやじ)は見(み)つめ合(あ)っていた。
渚(なぎさ)「それでは…」
未練(みれん)を振(ふ)りきるように背(せ)を向(む)けた。
渚(なぎさ)「これからはもっとたくさん、会(あ)いにきましょう」
渚(なぎさ)が俺(おれ)に言(い)った。
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん?」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
そう、今日(きょう)からは、あいつは渚(なぎさ)の義理(ぎり)の父(ちち)なのだ。
深(ふか)い繋(つな)がりが出来(でき)てしまった。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
俺(おれ)の伏(ふ)せた顔(かお)を覗(のぞ)き込(こ)む渚(なぎさ)。
朋也(ともや)「いや、なんでもないよ」
朋也(ともや)「さ、いこうか」
渚(なぎさ)の手(て)を取(と)って、握(にぎ)る。
その指(よび)に金属(きんぞく)の冷(つめ)たい感触(かんしょく)。
結婚指輪(けっこんゆびわ)が光(ひか)っていた。
帰(かえ)りに、俺(おれ)と渚(なぎさ)は役所(やくしょ)に寄(よ)り、婚姻届(こんいんとどけ)けを提出(ていしゅつ)した。
…岡崎渚(おかざきなぎさ)。
それが、今日(きょう)からの渚(なぎさ)の本名(ほんみょう)だった。
渚(なぎさ)「しばらくは気(き)をつけてないと、古河(ふるかわ)って書(か)いてしまいそうです」
朋也(ともや)「だろうな」
渚(なぎさ)「岡崎渚(おかざきなぎさ)…岡崎渚(おかざきなぎさ)…岡崎渚(おかざきなぎさ)…」
だからだろうか。ずっと、口(くち)の中(なか)で小(ちい)さく繰(く)り返(かえ)していた。
渚(なぎさ)「岡崎(おかざき)って名字(みょうじ)、男(おとこ)らしいです」
朋也(ともや)「それは、俺(おれ)の名字(みょうじ)だからだろ?」
渚(なぎさ)「そうですか?
古河(ふるかわ)は女性(じょせい)っぽいです」
朋也(ともや)「それはおまえの名字(みょうじ)だからだ」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
渚(なぎさ)「でも、やっぱり岡崎渚(おかざきなぎさ)って名前(なまえ)だと強(つよ)くなれた気(き)がします」
渚(なぎさ)「なんだか…守(まも)られてる気(き)がします」
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は目(め)から鱗(うろこ)が落(お)ちた気分(きぶん)だった。
そういう決(き)まりだから、としか考(かんが)えていなかった。
でも、渚(なぎさ)の言葉(ことば)で実感(じっかん)できた。
朋也(ともや)「おまえさ、よくそんな恥(は)ずかしいこと言(い)えるよな」
渚(なぎさ)「昔(むかし)に言(い)ってました、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)を転(ころ)げさせるぐらい恥(は)ずかしいこと言(い)えって」
朋也(ともや)「だっけか?」
渚(なぎさ)「そうです。言(い)ってました」
渚(なぎさ)「だから言(い)います」
渚(なぎさ)「わたしは今(いま)、世界(せかい)で一番(いちばん)、幸(しあわ)せな女(おんな)の子(こ)です」
朋也(ともや)「ぐあっ…」
朋也(ともや)「マジ、恥(は)ずかしい…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「ふたりで、幸(しあわ)せになりましょう」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
朋也(ともや)「任(まか)せとけ」
渚(なぎさ)「はいっ」
渚(なぎさ)「提出(ていしゅつ)してきました」
古河家(ふるかわけ)への報告(ほうこく)。
朋也(ともや)「これからはお義父(とう)さんと呼(よ)ばしてもらうからな」
そう言(い)うと、オッサンは両腕(りょううで)で自分(じぶん)の体(からだ)を抱(だ)いた。
秋生(あきお)「いま、ぞくぞくって来(き)たぞっ、やめてくれ、縁起(えんぎ)でもねぇ!」
とんでもない言(い)われようだった。
朋也(ともや)「だって、実際(じっさい)、義理(ぎり)の父(ちち)なんだぜ?」
秋生(あきお)「おまえがそう言(い)うんだったら、息子(むすこ)と呼(よ)ぶぞ、息子(むすこ)よっ」
こっちも、ぞくぞくっと来(き)た。
朋也(ともや)「さぶーっ、やめてくれ、お義父(とう)さん!」
秋生(あきお)「ぐあぁあああーーっ!
やめてくれ、息子(むすこ)よぉ!」
朋也(ともや)「ぐあああああぁーーっ!
やめろ、お義父(とう)さん!」
秋生(あきお)「ぐはあああああぁーーっ!」
朋也(ともや)「のおおぉぉぉぉーーっ!」
気(き)づくと、ふたりで床(ゆか)を転(ころ)げ回(まわ)っていた。
朋也(ともや)(アホなふたりだ…)
早苗(さなえ)「わたしも入(はい)っていいですか?」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは、さぶくならないっしょ?」
早苗(さなえ)「呼(よ)んでみてください」
朋也(ともや)「お義母(かあ)さん」
早苗(さなえ)「はいっ」
いつも通(どお)りだった。
その日(ひ)の晩(ばん)は、古河家(ふるかわけ)でささやかなお祝(いわ)いをしてもらった。
テーブルには出前(でまえ)で取(と)った寿司(すし)の特上(とくじょう)。それをつまみにオッサンはひとりでビールの缶(かん)を空(あ)けていく。
秋生(あきお)「で、式(しき)はいつ挙(あ)げるんだよ」
朋也(ともや)「金(かね)が貯(た)まってから」
秋生(あきお)「かぁっ、なんでこんな貧乏(びんぼう)な奴(やつ)と結婚(けっこん)しちまったんだよっ」
渚(なぎさ)「好(す)きだからです」
秋生(あきお)「正直(しょうじき)に答(こた)えるなっ、父(とう)さん悲(かな)しくなるだろっ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんも人(ひと)のこと言(い)えませんよ」
秋生(あきお)「あん?
なにがだよ…」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんも、ぜんぜんお金(かね)なかったですよ」
秋生(あきお)「う…」
早苗(さなえ)「借金(しゃっきん)して、この家(いえ)を買(か)って、お金(かね)を返(かえ)すのに毎日(まいにち)必死(ひっし)でした」
早苗(さなえ)「結婚式(けっこんしき)も2年(ねん)も後(あと)のことでした」
秋生(あきお)「そうだったっけか…」
早苗(さなえ)「でも、わたしは幸(しあわ)せでしたよ」
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さんといつも一緒(いっしょ)にいられましたから」
秋生(あきお)「さ、早苗(さなえ)…」
秋生(あきお)「てめぇら、邪魔(じゃま)だ」
朋也(ともや)「俺(おれ)たちのお祝(いわ)いじゃなかったのかよ…」
早苗(さなえ)「つまり、わたしが言(い)いたかったのは、好(す)きな人(ひと)と一緒(いっしょ)にいるのが一番(いちばん)、ということです」
渚(なぎさ)「はい。なら、朋也(ともや)くんです」
秋生(あきお)「くそぅ…なんだか、ムカツクんだよな…」
秋生(あきお)「どうして、こんな奴(やつ)をウチの娘(むすめ)は好(す)きになったんだ?」
本当(ほんとう)に祝(いわ)ってくれてるのだろうか…。
早苗(さなえ)「秋生(あきお)さん、今日(きょう)はおめでたい日(ひ)ですよっ」
秋生(あきお)「んあ?
ああ、そうか…そうだったな…」
秋生(あきお)「じゃ、かんぱーーーいっ!」
秋生(あきお)「よし、王様(おうさま)ゲームでもするかっ」
しません。
アパートに帰(かえ)りついたのは深夜(しんや)だった。
朋也(ともや)「ただいま」
渚(なぎさ)「ただいまです」
朋也(ともや)「………」
何一(なにひと)つ変(か)わらない部屋(へや)だったけど、今日(きょう)からは違(ちが)う気(き)がした。
渚(なぎさ)も同(おな)じことを思(おも)っているのだろうか、なかなか上(あ)がろうとしない。
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「今日(きょう)からまた、新(あたら)しいスタートです」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「ふつつか者(もの)ですが、よろしくお願(ねが)いします」
朋也(ともや)「こちらこそ」
土間(どま)で頭(あたま)を下(さ)げ合(あ)うふたりがおかしい。
朋也(ともや)「さ、上(あ)がろう」
渚(なぎさ)「はい」
ふたりだけの場所(ばしょ)。
俺(おれ)たちの家(いえ)に。
風呂上(ふろあ)がりの渚(なぎさ)が、布団(ふとん)を敷(し)いて就寝準備(しゅうしんじゅんび)をしている。
その後(うし)ろ姿(すがた)を見(み)ながら俺(おれ)はぼぅーっと考(かんが)え事(ごと)をしていた。
これからやるべきことや、いろいろなこと。
朋也(ともや)(そういや…)
朋也(ともや)(今日(きょう)って新婚初夜(しんこんしょや)じゃん…)
いきなりそんなことに思(おも)い当(あ)たる。
そして、目(め)の前(まえ)には渚(なぎさ)の揺(ゆ)れる尻(しり)。
朋也(ともや)(これからやるべきこと…)
急(きゅう)に下半身(かはんしん)が疼(うず)きだす。
朋也(ともや)「ぐあーっ!」
俺(おれ)は床(ゆか)を転(ころ)げ回(まわ)った。
朋也(ともや)(こんなめでたく喜(よろこ)ばしい日(ひ)に、なんつーエッチなことを考(かんが)えてんだ、俺(おれ)はぁっ!)
朋也(ともや)(いや、でも、それが普通(ふつう)なのかもっ…)
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん?」
渚(なぎさ)が膝(ひざ)を擦(こす)らせて寄(よ)ってくる。
朋也(ともや)「い、いや…明日(あした)から仕事(しごと)だなぁって思(おも)って」
渚(なぎさ)「悲鳴(ひめい)あげるほど嫌(いや)なんですか?」
朋也(ともや)「いや、それほどでもない…オーバーだったな…」
渚(なぎさ)「がんばってください。朋也(ともや)くん、一家(いっか)の大黒柱(だいこくばしら)です」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
朋也(ともや)(でも、俺(おれ)たち付(つ)き合(あ)ってからどれだけ経(た)ってるんだよ…)
朋也(ともや)(つーか、俺(おれ)たち、夫婦(ふうふ)じゃんかよっ)
朋也(ともや)(時間(じかん)なんて問題(もんだい)ないぞ…)
朋也(ともや)(ままごとじゃねぇんだから…)
朋也(ともや)(これからは、そうしたいときにしてもいいんじゃないのか…)
朋也(ともや)(ああ、でも、こいつ…そういうこと奥手(おくて)だし…失望(しつぼう)されたらどうしよう…)
朋也(ともや)(いや、前(まえ)にそういうことは嫌(きら)いじゃないって言(い)ってたじゃん…)
朋也(ともや)(でも、そういうことって、ちゃんとこいつ、理解(りかい)してんのか…?)
朋也(ともや)(してなくて、そん時(とき)になって引(ひ)かれたらどうしよう…)
朋也(ともや)(俺(おれ)はあそこを晒(さら)したまま、がーーん、とうなだれるのだろうか…)
朋也(ともや)(そんなの嫌(いや)すぎる…)
渚(なぎさ)「わたしも早(はや)くお仕事(しごと)探(さが)して、がんばりますから」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)の一言(いちげん)で、俺(おれ)の思考(しこう)が寸断(すんだん)されていた。
渚(なぎさ)「お仕事(しごと)です。わたしひとり、遊(あそ)んでるわけにもいかないです」
朋也(ともや)「いや、いいんだよ。家(いえ)に居(い)てくれれば」
渚(なぎさ)「それは…朋也(ともや)くん、ひとりでがんばってることになります」
渚(なぎさ)「わたしもがんばりたいです」
渚(なぎさ)「もちろん、家(いえ)のこともおろそかにしないです」
渚(なぎさ)「ちゃんと、夕方(ゆうがた)には帰(かえ)ってきて、ご飯(はん)作(つく)って待(ま)ってます」
渚(なぎさ)「お洗濯(せんたく)もして、掃除(そうじ)もします」
朋也(ともや)「いや、もちろん俺(おれ)も手伝(てつだ)うけどさ…」
朋也(ともや)「えっと…」
朋也(ともや)(こいつは融通(ゆうずう)が利(き)かないからな…)
朋也(ともや)(なんて言(い)っていいものか…)
朋也(ともや)「でもさ…しばらくは休(やす)んでおけよ。調子(ちょうし)だって、戻(もど)ってはないだろ?」
渚(なぎさ)「いえ、今(いま)は元気(げんき)です」
朋也(ともや)「今(いま)はそうでもさ…いつ、また調子(ちょうし)崩(くず)すか…」
言(い)ってから、俺(おれ)はしまったと思(おも)った。
渚(なぎさ)「あの、わたしは…」
渚(なぎさ)「自分(じぶん)の体(からだ)が弱(よわ)いからって、いつでも弱(よわ)い自分(じぶん)でいたくないです」
渚(なぎさ)「いつ調子(ちょうし)が悪(わる)くなるか、その時(とき)のことを考(かんが)えて怯(おび)えていたくはないです」
朋也(ともや)「ああ、悪(わる)い…そうだったな…」
俺(おれ)の言(い)ったことは、渚(なぎさ)を弱(よわ)い者(もの)扱(あつか)いしたも同然(どうぜん)だった。だからそう詫(わ)びた。
渚(なぎさ)「いえ、すみません。わたしのほうこそ、きつく言(い)ってしまって…」
朋也(ともや)「いや…」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「わたし、お仕事(しごと)、探(さが)していいですか」
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「でもな、決(き)める時(とき)は俺(おれ)に相談(そうだん)しろよ」
渚(なぎさ)「はい、そうさせてもらいます」
朋也(ともや)「ふぅ…」
俺(おれ)は渚(なぎさ)が敷(し)いた布団(ふとん)の上(うえ)に転(ころ)がった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「あん?」
渚(なぎさ)「わがままでごめんなさい、です」
朋也(ともや)「いや、ぜんぜん」
朋也(ともや)「おまえは、どんな女(おんな)の子(こ)よりも謙虚(けんきょ)だと思(おも)うよ」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「ああ。だって、なにひとつ贅沢(ぜいたく)言(い)わないしな」
渚(なぎさ)「別(べつ)に…何(なに)も欲(ほ)しくないです」
朋也(ともや)「それを謙虚(けんきょ)だって言(い)うんだよ」
渚(なぎさ)「そうなんでしょうか…」
朋也(ともや)「じゃあさ、こうしよう」
朋也(ともや)「おまえが仕事(しごと)を始(はじ)めてさ、もう少(すこ)し余裕(よゆう)が出来(でき)たらさ…」
朋也(ともや)「服(ふく)とか買(か)って、おしゃれしてくれよ」
渚(なぎさ)「今(いま)はまだ欲(ほ)しくないです」
渚(なぎさ)「それよりももっと、いるものがあると思(おも)います」
朋也(ともや)「そりゃわかってる。けどな、そういうことも大切(たいせつ)だと思(おも)うぞ」
朋也(ともや)「俺(おれ)だって、おまえがもっとさ、おしゃれして可愛(かわい)くなってくれれば、それだけで嬉(うれ)しい」
渚(なぎさ)「え…」
渚(なぎさ)「わたしって、そんなにおしゃれじゃない服(ふく)、着(き)てますか…」
朋也(ともや)「いや、そういう意味(いみ)じゃなくてさ…」
朋也(ともや)「なんつーのかな、新鮮味(しんせんみ)?」
渚(なぎさ)「そうですね…新鮮味(しんせんみ)はないかもしれないです」
朋也(ともや)「な、いいだろ。そういう楽(たの)しみを少(すこ)しは作(つく)ってみてもさ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんがそうしてほしいって言(い)うのなら…わたしも少(すこ)しはそうしたい気持(きも)ちあります」
朋也(ともや)「おっ、そうか。じゃあ、決定(けってい)だ。いいな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「そうやってさ…おまえ、女(おんな)の子(こ)なんだから、もっとわがまま言(い)えよ」
朋也(ともや)「そんなのわがままですらないからさ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)「じゃあ…」
渚(なぎさ)「もうひとつ我(わ)がまま言(い)っていいですか」
朋也(ともや)「ああ、どんとこい」
渚(なぎさ)「今日(きょう)は…」
渚(なぎさ)「ひとつのお布団(ふとん)で寝(ね)ていいですか」
ぼぅーっと、天井(てんじょう)を見上(みあ)げていた。
ひとつの布団(ふとん)の端(はし)と端(はし)に俺(おれ)と渚(なぎさ)は寝(ね)ていた。
わずかに腕(うで)が触(ふ)れている。
渚(なぎさ)「夫婦(ふうふ)みたいです」
朋也(ともや)「いや、夫婦(ふうふ)なんだってば」
渚(なぎさ)「あ、そうでした…えへへ」
嬉(うれ)しそうだった。
渚(なぎさ)はただ、そんな関係(かんけい)を意識(いしき)したかっただけなのだろう。
それ以上(いじょう)に深(ふか)い意味(いみ)はないようだった。
だから俺(おれ)も、緊張(きんちょう)もせず、その手(て)をぎゅっと握(にぎ)った。
渚(なぎさ)も握(にぎ)り返(かえ)してくれた。
渚(なぎさ)「あの日(ひ)から、一年(いちねん)がんばりました」
朋也(ともや)「そうだな…」
渚(なぎさ)「一年前(いちねんまえ)、朋也(ともや)くん、言(い)いました」
渚(なぎさ)「一年(いちねん)がんばったら、何(なに)にも負(ま)けないぐらい強(つよ)くなれるって」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「わたし、強(つよ)くなれた気(き)がします」
朋也(ともや)「ああ、なったと思(おも)う」
渚(なぎさ)「でもまだまだです」
渚(なぎさ)「まだまだこれからです」
朋也(ともや)「ああ…そうだな」
朋也(ともや)「この先(さき)、いろんなことがあるんだろうな。大変(たいへん)なこと、辛(つら)いこと、悲(かな)しいこと」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと一緒(いっしょ)なら、立(た)ち向(む)かっていけます」
朋也(ともや)「ああ、ふたりで行(い)こうな」
渚(なぎさ)「はい」
本当(ほんとう)に、渚(なぎさ)は強(つよ)くなった。
二年前(にねんまえ)の、出会(であ)った頃(ころ)…
思(おも)い出(だ)されるのは渚(なぎさ)の不安(ふあん)に沈(しず)む顔(かお)だけだった。
渚(なぎさ)「なに、笑(わら)ってるんですか」
渚(なぎさ)がこっちを見(み)ていた。
朋也(ともや)「いや…」
それは俺(おれ)も同(おな)じだろうか。
あの日(ひ)の俺(おれ)は滑稽(こっけい)だっただろうか。
自分(じぶん)ではよくわからなかった。
渚(なぎさ)「それでは、おやすみなさいです」
渚(なぎさ)が上(うえ)を向(む)いて、目(め)を閉(と)じた。
朋也(ともや)「ああ、おやすみ」
俺(おれ)も目(め)を閉(と)じた。
渚(なぎさ)「話(はなし)があります」
次(つぎ)の日(ひ)、夕飯時(ゆうはんじ)に渚(なぎさ)は話(はなし)を切(き)りだした。
朋也(ともや)「お、なんだ、言(い)ってみろ」
渚(なぎさ)「今日(きょう)、昼間(ひるま)に仁科(にしな)さんに電話(でんわ)しました」
朋也(ともや)「仁科(にしな)に?
また、どうして」
渚(なぎさ)「先日(せんじつ)の卒業式(そつぎょうしき)の時(とき)に、電話番号(でんわばんごう)を教(おし)えてくれたんです」
渚(なぎさ)「隣(となり)に朋也(ともや)くんも居(い)ました」
朋也(ともや)「だっけか。よく覚(おぼ)えてねぇけど」
渚(なぎさ)「用(よう)なんてなくてもいいから、かけて欲(ほ)しいって言(い)ってくれました」
渚(なぎさ)「だから、電話(でんわ)してみました」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「結構(けっこう)長話(ながばなし)になってしまいました。すみません」
朋也(ともや)「いや、いいよ」
渚(なぎさ)「仁科(にしな)さん、音楽(おんがく)の学校(がっこう)に入(はい)るために勉強中(べんきょうちゅう)だそうです」
朋也(ともや)「へぇ、浪人(ろうにん)してたのか…」
渚(なぎさ)「それで、お金(かね)も貯(た)めないといけないらしくて、アルバイトを始(はじ)めるんだそうです」
渚(なぎさ)「来月(らいげつ)からオープンする、新(あたら)しくできたファミリーレストランでです」
朋也(ともや)「ふぅん」
渚(なぎさ)「一緒(いっしょ)にどうですか、って誘(さそ)われました」
渚(なぎさ)「わたしもお仕事(しごと)探(さが)してましたから、ちょうどいい機会(きかい)だと思(おも)いました」
渚(なぎさ)「わたし、やってみたいです」
朋也(ともや)「まぁ、待(ま)て、落(お)ち着(つ)け」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「つまり、ウェイトレスってことだよな」
渚(なぎさ)「はい、そうです」
朋也(ともや)(ウェイトレスってことは、立(た)ち仕事(しごと)か…)
朋也(ともや)(辛(つら)そうだな…)
朋也(ともや)「おまえ、バイト初(はじ)めてだよな」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「言(い)っとくけど、想像以上(そうぞういじょう)に辛(つら)いぞ」
渚(なぎさ)「はい、覚悟(かくご)してます」
朋也(ともや)「先輩(せんぱい)にいじめられるかもしれないぞ」
渚(なぎさ)「バイトはみんな新規募集(しんきぼしゅう)ですから、先輩(せんぱい)はいないです」
朋也(ともや)「なら、上司(じょうし)だ。上司(じょうし)にセクハラされるかもしれないぞ」
渚(なぎさ)「そんな、お客(きゃく)さんがたくさん居(い)るところでしないです」
渚(なぎさ)「それに仁科(にしな)さんも居(い)ますし」
渚(なぎさ)「もちろん頼(たよ)るなんてことはしないですけど、いざという時(とき)には協力(きょうりょく)しあえます」
確(たし)かに。知(し)り合(あ)いがひとりもいないような職場(しょくば)に送(おく)り出(だ)すよりかは、ずっと安心(あんしん)できる。
渚(なぎさ)「心配(しんぱい)してくれるのはありがたいです。でも、このぐらいのことは普通(ふつう)だと思(おも)いますから」
朋也(ともや)「そうか…そうだよな」
これ以上(いじょう)心配(しんぱい)するのも、渚(なぎさ)に体(からだ)の弱(よわ)い子(こ)という烙印(らくいん)を押(お)すようでためらわれた。
朋也(ともや)「わかった。俺(おれ)は許可(きょか)するよ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
朋也(ともや)「でもな、いちお、オッサンや早苗(さなえ)さんにも相談(そうだん)してからな」
朋也(ともや)「やっぱりそういうことは筋(すじ)だと思(おも)うから」
渚(なぎさ)「はい、構(かま)いません」
風呂(ふろ)から上(あ)がってから、タオルを頭(あたま)に巻(ま)いた格好(かっこう)で、電話(でんわ)のダイヤルをプッシュする。
渚(なぎさ)も隣(となり)にいて、成(な)りゆきを見守(みまも)っている。
プルルル…ガチャ。
声(こえ)『あいよ、古河(ふるかわ)だけども』
オッサンが出(で)た。
朋也(ともや)「俺(おれ)、岡崎(おかざき)だけど」
秋生(あきお)『おぅ、息子(むすこ)よ、どうした』
朋也(ともや)「ぐぁっ!」
ガチャン!
思(おも)わず切(き)ってしまっていた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
朋也(ともや)「あ、いや…なんか電話(でんわ)の調子悪(ちょうしわる)いみたい」
渚(なぎさ)「そうですか」
かけ直(なお)す。
プルルル…ガチャ。
秋生(あきお)『あい、古河(ふるかわ)だ』
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)っす、お義父(とう)さん」
秋生(あきお)『ぐおおぉーっ!』
ガチャン!
…切(き)られてしまった。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
朋也(ともや)「あ、いや…もう一度(いちど)かけるな」
プルルル…ガチャ。
秋生(あきお)『あい、おまえのお義父(とう)さんだ』
ガチャンッ!
ふたり、同時(どうじ)に切(き)った。
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)が不思議(ふしぎ)そうにこっちを見(み)ている。
またかけ直(なお)す。
プルルル…ガチャ。
秋生(あきお)『古河(ふるかわ)だよ…』
朋也(ともや)「あんた、自分(じぶん)で言(い)っておいて、切(き)るんじゃない」
秋生(あきお)『ああ、今(いま)のは自爆(じばく)だったな。冗談(じょうだん)がすぎた』
いや、冗談(じょうだん)ではなく本当(ほんとう)なのだけど…。
それを言(い)うとまた切(き)られそうだったので黙(だま)っておく。
秋生(あきお)『で、なんだ。子供(こども)でも産(う)まれたか』
朋也(ともや)「飛躍(ひやく)しすぎだ」
秋生(あきお)『ちっ、なら、なんだ』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)がバイトを始(はじ)めるんだけど、いいかな」
秋生(あきお)『バイトぉぅ!?』
朋也(ともや)「ああ、バイトだ。しかもウェイトレスだ」
秋生(あきお)『ウェイトレスぅぅ!?』
朋也(ともや)「しかも今日(きょう)の晩(ばん)ご飯(はん)はほっけだった」
秋生(あきお)『ほっけぇぇ!?』
朋也(ともや)「代打(だいだ)福王(ふくおう)」
秋生(あきお)『福王(ふくおう)ぅぅぅっ!?』
なんでも驚(おどろ)くらしい。
朋也(ともや)「というわけで、早苗(さなえ)さんにも伝(つた)えておいてくれ。じゃあ」
秋生(あきお)『こら、待(ま)てっ。今(いま)、ドラマの濡(ぬ)れ場(ば)に夢中(むちゅう)で、なんにも聞(き)いてなかった!』
反射的(はんしゃてき)に言葉(ことば)を返(かえ)していただけらしい。
秋生(あきお)『早苗(さなえ)に代(か)わるから、そっちに詳(くわ)しく話(はな)してくれっ』
秋生(あきお)『おい、早苗(さなえ)っ、福王(ふくおう)はどうかと思(おも)うぞっ、それだけは言(い)っておけ』
しばらく待(ま)つ。
早苗(さなえ)『もしもし、早苗(さなえ)です』
朋也(ともや)「こんばんは、岡崎(おかざき)っす」
早苗(さなえ)『岡崎(おかざき)は渚(なぎさ)の姓(せい)でもあるんですよ、朋也(ともや)さん』
朋也(ともや)「ああ、そうっすね。朋也(ともや)っす」
早苗(さなえ)『はい。なんでしょう、朋也(ともや)さん』
朋也(ともや)「渚(なぎさ)がバイトを始(はじ)めるんです。俺(おれ)はやりたいようにやらせようって思(おも)ってます」
朋也(ともや)「いいですよね」
早苗(さなえ)『どんなお仕事(しごと)ですか?』
朋也(ともや)「新(あたら)しくできたファミレスです。そこのウェイトレスです」
朋也(ともや)「それに知(し)り合(あ)いも一緒(いっしょ)に働(はたら)くらしいですよ」
早苗(さなえ)『そうなんですか。それは安心(あんしん)ですね』
朋也(ともや)「ですよね。だから、いいと思(おも)うんです」
早苗(さなえ)『はい、わたしもいいと思(おも)います』
朋也(ともや)「じゃ、了承(りょうしょう)ということで」
早苗(さなえ)『はい』
俺(おれ)は振(ふ)り返(かえ)って、渚(なぎさ)に指(ゆび)でOKサインを作(つく)って見(み)せた。
渚(なぎさ)「あ…」
渚(なぎさ)の顔(かお)が色(いろ)めきたつ。
朋也(ともや)「それじゃ、失礼(しつれい)します」
早苗(さなえ)『はい、おやすみなさい』
朋也(ともや)「おやすみなさい」
がちゃん。
朋也(ともや)「問題(もんだい)なかったよ」
渚(なぎさ)「よかったです」
朋也(ともや)「つーわけで、頑張(がんば)れよな」
渚(なぎさ)「はい、がんばります」
渚(なぎさ)「早速(さっそく)、明日(あした)、仁科(にしな)さんに電話(でんわ)してみます」
今日(きょう)は、いつものように二人分(ふたりぶん)の布団(ふとん)が敷(し)かれた。
少(すこ)し…というか、かなり寂(さび)しい。
夫婦気分(ふうふきぶん)を満喫(まんきつ)するのは、もうお終(しま)いなのだろうか。
かといって、俺(おれ)からあんなことは言(い)い出(だ)せないし…。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「え…あ、ああ」
急(きゅう)に話(はな)しかけられて戸惑(とまど)う。
朋也(ともや)「えっと…早(はや)いけど寝(ね)るか」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「………」
じっと見上(みあ)げる天井(てんじょう)。
俺(おれ)は、新(あたら)しくできるファミリーレストランの場所(ばしょ)をその暗闇(くらやみ)に思(おも)い描(えが)いていた。
あの場所(ばしょ)はよく知(し)っている。
学生(がくせい)の頃(ころ)、通学路(つうがくろ)として毎日(まいにち)通(かよ)っていた道(みち)だ。
あの閑散(かんさん)とした場所(ばしょ)にファミレスが建(た)つというのだ。
いや、来月(らいげつ)開店(かいてん)ということは、すでにその建物(たてもの)は存在(そんざい)しているのだ。
長(なが)いことあの場所(ばしょ)を通(かよ)っていなかったから、知(し)らなかった。
だから、その場所(ばしょ)に建(た)つファミレスなど、想像(そうぞう)もできなかった。
町(まち)の姿(すがた)が変(か)わっていく。
人(ひと)の力(ちから)で変(か)えていく。
自分(じぶん)たちのために。
俺(おれ)もその一端(いったん)を担(にな)っているのだ。
それはいいことなのか、悪(わる)いことなのかわからない。
別(べつ)に動物(どうぶつ)や木(き)や森(もり)を慈(いつく)しんでいるわけじゃない。
思(おも)い出(で)の町(まち)が変(か)わっていく。
それだけが、なぜか許(ゆる)せないのだ。
渚(なぎさ)「起(お)きてますか、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)の声(こえ)がして、我(が)に返(かえ)る。
朋也(ともや)「あ?
ああ…」
朋也(ともや)「どうした」
渚(なぎさ)「そっち、行(い)っていいですか」
朋也(ともや)「え?」
渚(なぎさ)「やっぱり寂(さび)しかったです」
朋也(ともや)「あ、ああ…」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に行(い)っていいですか?」
朋也(ともや)「ああ、もちろん」
渚(なぎさ)は自分(じぶん)の布団(ふとん)から、俺(おれ)の布団(ふとん)へと潜(くぐ)ったままで移動(いどう)した。
渚(なぎさ)「落(お)ち着(つ)きます。えへへ」
俺(おれ)の肩(かた)に自分(じぶん)の肩(かた)を押(お)し当(あ)ててそう笑(わら)った。
そして、こいつも弱(よわ)かったあの頃(ころ)から変(か)わっていく。
今(いま)、俺自身(おれじしん)が恐(おそ)れているのかもしれない。
今(いま)、俺(おれ)があの日(ひ)の坂(さか)の下(した)に立(た)ち尽(つ)くしているのかもしれない。
遠(とお)く、不確(ふたし)かな未来(みらい)を見上(みあ)げて怯(おび)えてるのかもしれない。
渚(なぎさ)の首(くび)の下(した)に腕(うで)を回(まわ)し、ぐっと抱(だ)きしめた。
その首筋(くびすじ)に鼻(はな)を押(お)し当(あ)てる。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
…ずっと俺(おれ)のそばで、俺(おれ)のことを見(み)ていてくれよ…。
言(い)いたかったけど、言(い)えなかった。
今(いま)だけは、どうしてか言(い)えなかった。
それを口(くち)にすることで、その願(ねが)いを抗(あらが)いようもない圧倒的(あっとうてき)な力(ちから)に押(お)し流(なが)されてしまいそうで。
代(か)わりに、その首筋(くびすじ)にキスをした。
そうして、自分(じぶん)と渚(なぎさ)をこの場所(ばしょ)に繋(つな)ぎ止(と)めたかった。
この古(ふる)びたアパートの一室(いっしつ)に。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
朋也(ともや)「いや…」
渚(なぎさ)「今日(きょう)も、仁科(にしな)さんに電話(でんわ)しました」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「そうしたら、その後(あと)、ファミリーレストランの店長(てんちょう)の方(かた)に連絡(れんらく)取(と)ってもらえました」
渚(なぎさ)「明日(あした)、面接(めんせつ)してくれます。行(い)ってきていいですか」
朋也(ともや)「ああ、もちろん」
渚(なぎさ)「では、昼間(ひるま)は家(いえ)、空(あ)けます」
朋也(ともや)「気(き)にせず行(い)ってこいよ」
渚(なぎさ)「はい」
渚(なぎさ)は嬉(うれ)しそうだった。そんなに働(はたら)きたかったのだろうか。
いや、働(はたら)きたい、というより、ただ自分(じぶん)も何(なに)かを頑張(がんば)っていたい。それだけなのだろう。
新(あたら)しい職場(しょくば)か…。
そういや、ファミレスのバイトって、若(わか)い男(おとこ)も多(おお)いだろうな…。
朋也(ともや)「む…」
渚(なぎさ)「どうしましたか」
朋也(ともや)「あのさ、ひとつだけ気(き)をつけてほしいんだけど…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おまえは実際(じっさい)、新卒(しんそつ)の女(おんな)の子(こ)なんだからさ…言(い)い寄(よ)ってくる男(おとこ)も多(おお)いと思(おも)うけどさ」
朋也(ともや)「絶対(ぜったい)に、若(わか)い男(おとこ)とふたりきりになったりするんじゃないぞ」
渚(なぎさ)「はい、それはわかってます」
渚(なぎさ)「それに、これ、見(み)せたら大丈夫(だいじょうぶ)だと思(おも)います」
手(て)のひらを開(ひら)いて、薬指(くすりゆび)に填(は)められた指輪(ゆびわ)を見(み)せた。
朋也(ともや)「ま、そうだろうけどさ…」
朋也(ともや)「それでも、おまえ、可愛(かわい)いからさ…心配(しんぱい)だよ、俺(おれ)は」
渚(なぎさ)「そんなことないですから、大丈夫(だいじょうぶ)です」
いや、そんなことあるから心配(しんぱい)なんだけどな…。
朋也(ともや)「店長(てんちょう)とかさ、信用(しんよう)できる人間(にんげん)かどうかとか、ちゃんと見極(みきわ)めろよ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「それと、仁科(にしな)とも今度(こんど)話(はなし)をさせてくれ。いろいろ聞(き)いておきたいしさ」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「後(あと)は…」
ああ、まただ。心配(しんぱい)しすぎだ、俺(おれ)は…。
渚(なぎさ)「後(あと)は、なんでしょうか」
朋也(ともや)「いや、もういい」
朋也(ともや)「後(あと)は、無理(むり)しないように。それだけだ」
渚(なぎさ)「はい」
その後(しり)、バイトの件(けん)はとんとん拍子(びょうし)で話(はなし)が決(き)まり、来月頭(らいげつとう)からオープンスタッフとして働(はたら)くことになった。
時間(じかん)は朝(あさ)の8時(じ)から午後(ごご)4時(じ)までのローテーションに入(はい)るとのことだった。
その辺(あた)りは主婦(しゅふ)、ということで融通(ゆうずう)が利(き)くらしい。
新卒(しんそつ)で配偶者(はいぐうしゃ)あり、という履歴(りれき)は、かなり驚(おどろ)かれたらしいが、それである程度(ていど)の予防線(よぼうせん)を張(は)れた気(き)がして安心(あんしん)できた。
逆(ぎゃく)にそのことでまた、あらぬ噂(うわさ)を立(た)てられないとも限(かぎ)らなかったが…。
渚(なぎさ)「それではいってきます」
朋也(ともや)「ああ、俺(おれ)もいってきます」
振(ふ)り返(かえ)る部屋(へや)は無人(むじん)。
今日(きょう)からは、こうして、ふたりで家(いえ)を出(で)る。
渚(なぎさ)「なんだか、二年前(にねんまえ)を思(おも)い出(だ)します」
渚(なぎさ)「ふたりで、登校(とうこう)してました」
朋也(ともや)「そうだったな…毎日(まいにち)遅刻(ちこく)だったけどな」
渚(なぎさ)「今(いま)はふたりとも、もう学生(がくせい)じゃないです」
朋也(ともや)「フリーターだな」
朋也(ともや)「春原(すのはら)は研修中(けんしゅうちゅう)で…」
朋也(ともや)「仁科(にしな)は音楽(おんがく)の学校(がっこう)に入(はい)るために浪人中(ろうにんちゅう)…」
朋也(ともや)「もう、みんな高校生(こうこうせい)じゃないんだよな…」
渚(なぎさ)「はい、みんな、新(あたら)しい道(みち)を歩(ある)き始(はじ)めています」
渚(なぎさ)「わたしも負(ま)けないように、張(は)りきっていってきますっ」
朋也(ともや)「ああ、頑張(がんば)ってこい」
渚(なぎさ)「それでは」
手(て)を振(ふ)って、逆方向(ぎゃくほうこう)へと歩(ある)いていく。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)(…心配(しんぱい)だなぁ)
しばらく見送(みおく)っていた。
渚(なぎさ)「おかえりなさい、です」
帰(かえ)ってくると、渚(なぎさ)は台所(だいどころ)に立(た)って、夕飯(ゆうはん)の支度(したく)をしていた。
疲(つか)れている様子(ようす)はまったくなく、いつも通(どお)りに見(み)えた。
朋也(ともや)「どうだった、大変(たいへん)だったんじゃないのか」
渚(なぎさ)「はい、思(おも)った以上(いじょう)に大変(たいへん)でした」
渚(なぎさ)「それに今日(きょう)はオープン初日(しょにち)ですから、てんてこまいでした」
朋也(ともや)「休(やす)んでれば。後(あと)、俺(おれ)がやるよ」
渚(なぎさ)「そういうわけにはいかないです。これもちゃんとやらないとダメなんです」
渚(なぎさ)「それに朋也(ともや)くんのほうがよっぽど疲(つか)れてるはずです。重労働(じゅうろうどう)です」
朋也(ともや)「俺(おれ)は慣(な)れてるからいいんだよ、おまえは初日(しょにち)だろ?」
渚(なぎさ)「うーん…」
渚(なぎさ)「では、ふたりで作(つく)りましょう」
朋也(ともや)「ああ、それがいい」
その日(ひ)の夕飯(ゆうはん)は、二人(ふたり)で作(つく)った。
渚(なぎさ)「ものすごいお客(きゃく)の数(かず)でした」
渚(なぎさ)「何人(なんにん)か、知(し)った人(ひと)がいました」
朋也(ともや)「へぇ、昔(むかし)の同級生(どうきゅうせい)とか?」
渚(なぎさ)「いえ、古河(ふるかわ)パンの常連(じょうれん)の方(かた)とかです」
渚(なぎさ)「みなさん、わたしを見(み)て、驚(おどろ)いてました」
渚(なぎさ)「こんなところで働(はたら)いてるなんて、って」
だろうな…。
渚(なぎさ)「それで、みんな可愛(かわい)いって言(い)ってくれました」
渚(なぎさ)「そこの制服(せいふく)、とても可愛(かわい)いんです。とても似合(にあ)ってるって言(い)ってくれました」
朋也(ともや)「え…?」
マジか…。
渚(なぎさ)「すごくうれしかったです」
朋也(ともや)「その制服(せいふく)ってさ、向(む)こうに置(お)いてあるの?」
渚(なぎさ)「はい。ロッカーに入(はい)ってます」
それを着(き)た渚(なぎさ)をすごく見(み)たかった。
朋也(ともや)「そ、そうか…じゃ、休(やす)みの日(ひ)に、働(はたら)いてる姿(すがた)、見(み)に行(い)こうかな」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、なんかいやらしいです」
朋也(ともや)「そうかよ…いいじゃん」
渚(なぎさ)「制服姿(せいふくすがた)、ちょっと恥(は)ずかしいんです」
朋也(ともや)「マ、マジ…?」
余計(よけい)に見(み)たくなってきた。
仕事(しごと)をサボってでも、是非(ぜひ)見(み)たい。
渚(なぎさ)「また今度(こんど)、機会(きかい)があれば…です」
朋也(ともや)「ああ…」
絶対(ぜったい)に見(み)に行(い)ってやる。
渚(なぎさ)「それにしても、レストランは大盛況(だいせいきょう)でした」
渚(なぎさ)「みんな開店(かいてん)を心待(こころま)ちにしていたのがよくわかりました」
渚(なぎさ)「この町(まち)にはファミリーレストランなんてなかったですから」
朋也(ともや)「そうだな」
渚(なぎさ)「わたし自身(じしん)も、驚(おどろ)きの連続(れんぞく)でした」
渚(なぎさ)「いろいろ変(か)わったシステムがあるんです」
渚(なぎさ)「知(し)ってますか、エレベーターの階数(かいすう)表示(ひょうじ)みたいなものが付(つ)いてるんです」
朋也(ともや)「いや、行(い)ったことないから、知(し)らないけどさ…」
渚(なぎさ)の話(はなし)は尽(つ)きることがなかった。
何(なに)もかもが初(はじ)めてで、何(なに)もかもが新鮮(しんせん)だったのだろう。
夕飯(ゆうはん)の片(かた)づけを終(お)え、一息(ひといき)ついたところで、電話(でんわ)が鳴(な)った。
渚(なぎさ)がそれを取(と)った。
渚(なぎさ)「はい、岡崎(おかざき)です」
渚(なぎさ)「そうですね。えへへ」
誰(だれ)からだろうか。仁科(にしな)だろうか。
渚(なぎさ)「はい、代(か)わります」
受話器(じゅわき)を置(お)いて、俺(おれ)を振(ふ)り返(かえ)った。
渚(なぎさ)「お父(とう)さんです」
朋也(ともや)「オッサン?」
渚(なぎさ)「はい」
オッサンが電話(でんわ)を寄(よ)こしてくるなんて珍(めずら)しかった。
とりあえず俺(おれ)の記憶(きおく)の中(なか)にはない。
何(なに)か、渚(なぎさ)のことで問題(もんだい)でも持(も)ち上(あ)がったのだろうか…。
心配(しんぱい)しながら、電話(でんわ)にでる。
朋也(ともや)「もしもし」
秋生(あきお)『おぅ、馬鹿(ばか)息子(むすこ)か』
朋也(ともや)「ああ、なんだ」
秋生(あきお)『ほら、渚(なぎさ)がバイト始(はじ)めたのって今日(きょう)だろ?』
朋也(ともや)「そうだけど」
秋生(あきお)『いや、実(じつ)はだな…そのことが噂(うわさ)になって、俺(おれ)の耳(みみ)にまで入(はい)ってきたんだ』
…噂(うわさ)。
嫌(いや)な響(ひび)きだ。
朋也(ともや)「どんなだ…」
秋生(あきお)『ああ、ファミレスの制服姿(せいふくすがた)がとびっきり可愛(かわい)いってよ!』
ずるぅぅぅっ!
俺(おれ)は電話(でんわ)の前(まえ)で滑(すべ)っていた。
秋生(あきお)『うちに来(く)る客(きゃく)、みんなが口(くち)を揃(そろ)えてそう言(い)いやがる』
秋生(あきお)『気(き)になるじゃねぇか』
朋也(ともや)「見(み)に行(い)けばいいじゃないか」
秋生(あきお)『馬鹿(ばか)、んな恥(は)ずかしいことできるかよっ』
朋也(ともや)「しろよっ」
秋生(あきお)『つーわけで、写真(しゃしん)を送(おく)ってくれ』
朋也(ともや)「誰(だれ)が撮(と)るんだよ…」
秋生(あきお)『おまえだ』
朋也(ともや)「んな暇(ひま)あるかよっ」
秋生(あきお)『一日(いちにち)ぐらい仕事休(しごとやす)め』
朋也(ともや)「んなことしたら、クビになるっ」
秋生(あきお)『悪(わる)いなっ』
朋也(ともや)「クビになれってかっ」
秋生(あきお)『じゃ、頼(たの)んだぞ、孝行息子(こうこうむすこ)よ』
がちゃん…つーつー…
切(き)れた。
渚(なぎさ)「どうしましたか」
渚(なぎさ)「また、お父(とう)さん、無理(むり)なこと言(い)ってきましたか」
朋也(ともや)「あの人(ひと)、アホだろ」
渚(なぎさ)「子供(こども)っぽいとは思(おも)います」
朋也(ともや)(今(いま)のは子供(こども)っぽいというより、単(たん)なるエロオヤジだぞ…)
渚(なぎさ)「何(なに)を言(い)われましたか」
渚(なぎさ)「わたしも手伝(てつだ)います」
渚(なぎさ)「どうすればいいですか」
朋也(ともや)「いいって。無視(むし)しとこうぜ。あまりにアホらしい…」
渚(なぎさ)「そうですか?
今度(こんど)、訊(き)いてみます」
朋也(ともや)「やめとけ」
………。
[/wrap]
同棲編(接上),0,]
ぽっかりと、午後(ごご)から時間(じかん)が空(す)いてしまった。
予定(よてい)していた仕事(しごと)を依頼主(いらいぬし)が直前(ちょくぜん)になってキャンセルしたためだ。
芳野(よしの)「じゃ、お先(さき)」
朋也(ともや)「あ、お疲(つか)れっす」
久々(ひさびさ)に歩(ある)く平日(へいじつ)の町(まち)は、少(すこ)しだけどきどきする。
学校(がっこう)を途中(とちゅう)でふけて、学生服(がくせいふく)のまま町(まち)をうろつく感覚(かんかく)を思(おも)い出(だ)していた。
さて、これからどうしよう。
家(いえ)に帰(かえ)ってもやることはないし…。
学生(がくせい)の頃(ころ)のように、ゲーセンに行(い)って遊(あそ)ぶ気(き)にもなれない(そもそも遊(あそ)んでたのは春原(すのはら)だけで、俺(おれ)は見(み)ていただけだ)。
朋也(ともや)(そうだな…)
早苗(さなえ)さんに会(あ)いたい。
渚(なぎさ)の話(はなし)も聞(き)いてもらいたいし。
歩(ほ)を古河(ふるかわ)パンへと向(む)けた。
朋也(ともや)「ちっす」
秋生(あきお)「らっしゃい…って、てめぇか」
秋生(あきお)「こんな時間(じかん)にどうした、クビにでもなったか」
朋也(ともや)「たまたま時間(じかん)が空(す)いたんだ」
秋生(あきお)「そっか。ま、なんにもねぇけどよ、とっとと帰(かえ)れ」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは?」
秋生(あきお)「町(まち)を泣(な)きっ面(つら)で徘徊中(はいかいちゅう)だ」
朋也(ともや)「また泣(な)かせたのかよ…」
朋也(ともや)「じゃ、可哀想(かわいそう)な早苗(さなえ)さんを探(さが)してくるよ」
秋生(あきお)「ちょっと待(ま)てや」
朋也(ともや)「あん?」
秋生(あきお)「おめぇ、約束(やくそく)のブツ、持(も)ってきたんだろうな」
朋也(ともや)「ブツって?」
秋生(あきお)「かーーーっ!
まさか、てめぇ、忘(わす)れちまったなんて言(い)うんじゃねぇだろうなぁ!」
朋也(ともや)「いや、マジでなんのことだか…」
秋生(あきお)「写真(しゃしん)だよ、写真(しゃしん)!
渚(なぎさ)の可愛(かわい)くてちょいエロいウェイトレス姿(すがた)の写真(しゃしん)だよ!」
この人(ひと)は変態(へんたい)だ。
朋也(ともや)「いつ誰(だれ)が、エロいっつったよっ」
秋生(あきお)「ちっ…てめぇはそんなことも知(し)らねぇのか、素人(しろうと)かよ…」
あんたはその筋(すじ)のプロなのか。
秋生(あきお)「いいか、あいつが勤(つと)めてるファミレスの制服(せいふく)は、胸元(むなもと)が強調(きょうちょう)されているので有名(ゆうめい)なんだよ!」
秋生(あきお)「だから、写真(しゃしん)が欲(ほ)しいっつーてんだよっ!
わかったか、馬鹿(ばか)!」
秋生(あきお)「はーっ、くっそーー!
想像(そうぞう)するだけでそそるぜぇ~!
見(み)てみてぇ~!」
娘(むすめ)に欲情(よくじょう)するな。
早苗(さなえ)「はい?
何(なに)を見(み)てみたいんですか?」
俺(おれ)の後(うし)ろから早苗(さなえ)さんの声(こえ)。
朋也(ともや)「ちっす」
早苗(さなえ)「あら、朋也(ともや)さん。こんにちはっ」
早苗(さなえ)「今日(きょう)はどうしましたか」
朋也(ともや)「暇(ひま)ができたから、早苗(さなえ)さんに会(あ)いにきたんです」
早苗(さなえ)「まぁ、本当(ほんとう)ですか。それはうれしいです」
早苗(さなえ)「でも、その前(まえ)に秋生(あきお)さん」
秋生(あきお)「なんだ」
早苗(さなえ)「さっきの話(はなし)はなんですか?
そそるだとか、見(み)てみたいだとか」
よからぬ話(はなし)をしていたと疑(うたが)っているようだ。
秋生(あきお)「ふっ…」
オッサンがパンのひとつを手(て)に取(と)る。
秋生(あきお)「ふはははははははっ!」
高笑(たかわら)いと共(とも)に、それを地面(じめん)に叩(たた)きつけた。
ぼんっ!
煙(けむり)が吹(ふ)きだして、辺(あた)り一面(いちめん)が真(ま)っ白(しろ)になる。
秋生(あきお)「いくぞ、小僧(こぞう)っ」
肩(かた)を掴(つか)まれて、強引(ごういん)に外(そと)に引(ひ)きずり出(だ)された。
秋生(あきお)「自分(じぶん)で作(つく)ったパンが仇(あだ)となったな、早苗(さなえ)よ」
いまだモクモクと噴煙(ふんえん)の立(た)つ店先(みせさき)を見(み)て、オッサンが呟(つぶや)く。
朋也(ともや)「どんなパン売(う)ってんだよっ!」
秋生(あきお)「今更(いまさら)なに驚(おどろ)いてんだよ、てめぇ」
…これ以上(いじょう)何(なに)も言(い)うまい。
朋也(ともや)「で、なんだよ、俺(おれ)まで連(つ)れてきて」
朋也(ともや)「俺(おれ)は早苗(さなえ)さんと話(はなし)をしたいんだよ。戻(もど)るぞ」
秋生(あきお)「こらこら、てめぇに居(い)てもらわねぇと困(こま)るんだよ」
朋也(ともや)「困(こま)るって、なんかする気(き)かよ」
秋生(あきお)「ああ。これから渚(なぎさ)のバイト先(さき)にいく」
朋也(ともや)「ひとりで行(い)ってくれ。じゃあな」
秋生(あきお)「待(ま)てっつーてるだろ!
てめぇも行(い)くんだよっ」
朋也(ともや)「なんで俺(おれ)が」
秋生(あきお)「馬鹿(ばか)やろーっ、俺(おれ)みたいな大(だい)の男(おとこ)がひとりでファミレス入(はい)ってパフェなんて食(く)えるかっ!」
朋也(ともや)「コーヒーでも飲(の)め」
秋生(あきお)「あんまり変(か)わんねーよ!」
朋也(ともや)「いや、パフェとコーヒーじゃ、ぜんぜん違(ちが)うと思(おも)うけど…」
秋生(あきお)「それにな、おまえが居(い)てくれたほうが、渚(なぎさ)が寄(よ)ってくるだろ」
秋生(あきお)「シャッターチャンス満載(まんさい)というわけだ」
朋也(ともや)「俺(おれ)じゃなくても、あんたにだって、寄(よ)ってくるだろ」
秋生(あきお)「馬鹿(ばか)、俺(おれ)は今(いま)から俺(おれ)でなくなる」
朋也(ともや)「はぁ?」
秋生(あきお)「変装(へんそう)して、おまえの友達(ともだち)、ということにするからな」
朋也(ともや)「なんで…?」
秋生(あきお)「んな親馬鹿(おやばか)なところ、見(み)つかりたくねーんだよ、わからねぇか、この気持(きも)ちが」
朋也(ともや)「はい、わかんないっす」
秋生(あきお)「とにかくだ、世間体(せけんてい)もある。隠密(おんみつ)にことを運(はこ)びてぇんだよ」
秋生(あきお)「いいな」
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「写真(しゃしん)、焼(や)き増(ま)ししてやるからな」
朋也(ともや)(いや…焼(や)き増(ま)し写真(しゃしん)につられたわけではないぞ…)
協力する
朋也(ともや)(暇(ひま)だからだ…)
そう自分(じぶん)を納得(なっとく)させる。
秋生(あきお)「おい、変装(へんそう)するから、むこう向(む)いてろ」
朋也(ともや)「ああ…」
どんな手(て)の込(こ)んだ変装(へんそう)をしようというのだろう。
………。
秋生(あきお)「よし、いいぞ。ばっちりだ」
この人(ひと)はアホだ。
秋生(あきお)「見(み)ろ、どうだ、わからんだろう」
朋也(ともや)「丸(まる)わかりっす」
秋生(あきお)「ちっ、てめぇは正体(しょうたい)を知(し)ってるからだよ。知(し)らねぇ人(ひと)が見(み)たら、わかんねぇよ」
秋生(あきお)「口調(くちょう)はどうするかな。ラッパー風(ふう)に言(い)ってみるか」
秋生(あきお)「YO!
YO!
俺(おれ)、MCアキオ
マイク握(にぎ)れば最強(さいきょう)のパンヤー」
朋也(ともや)「むちゃくちゃ正体(しょうたい)バラしてるんだけど」
秋生(あきお)「マジ?
それ、やっべぇよ」
朋也(ともや)「普通(ふつう)にしてればいいんじゃねぇの」
そもそもこんな変装(へんそう)でバレないわけがない。
朋也(ともや)「とっとといこうぜ」
秋生(あきお)「オーケー、ブラザー」
この角(かど)を折(お)れれば、あの見慣(みな)れた風景(ふうけい)が広(ひろ)がる…はずだった。
小(しょう)、中(ちゅう)、高(こう)、と12年間(ねんかん)、通学路(つうがくろ)として使(つか)っていた道(みち)が。
けど、今(いま)は違(ちが)う。
今(いま)はもう、別(べつ)の風景(ふうけい)になっているのだ。
俺(おれ)がまだ見(み)たこともない、この町(まち)の姿(すがた)があるのだ。
秋生(あきお)「おい、ブラジャー」
朋也(ともや)「誰(だれ)がブラジャーだっ、ブラザーじゃなかったのか」
秋生(あきお)「そうだ、言(い)い間違(まちが)えた。まだつかないのか、ブラザー」
朋也(ともや)「もう少(すこ)しだよ」
角(かど)を折(お)れた。
朋也(ともや)「………」
心(こころ)の準備(じゅんび)だって、できてたはずなのに…。
秋生(あきお)「へぇ…」
秋生(あきお)「ここって、前(まえ)は木(き)が生(お)い茂(しげ)ってたはずだよな」
朋也(ともや)「ああ…」
秋生(あきお)「すんげぇなぁ、変(か)わるもんだな、おい」
秋生(あきお)「人(ひと)も多(おお)いしよ」
俺(おれ)は目(め)の奥(おく)に、新(あたら)しい町(まち)の姿(すがた)を刻(きざ)み込(こ)む。
そして、今(いま)、かつての風景(ふうけい)は思(おも)い出(で)に変(か)わった。
朋也(ともや)「入(はい)るか…」
階段(かいだん)を上(のぼ)り、店内(てんない)に入(はい)った。
秋生(あきお)「かっ、混(こ)んでるなぁ、みんな暇人(ひまじん)かっ」
あんたもな。
しばらく待(ま)たされることになる。
その間(あいだ)、オッサンは不審(ふしん)な動(うご)きで店内(てんない)を覗(のぞ)き見(み)する。
秋生(あきお)「おっ、いたぞっ、渚(なぎさ)だ」
朋也(ともや)「マジっ?」
そう言(い)われると一緒(いっしょ)に覗(のぞ)かずにはいられない。
ああ、悲(かな)しき男(おとこ)の習性(しゅうせい)だ。
朋也(ともや)「どれだ」
秋生(あきお)「あれだよ」
遠(とお)くてよくわからない。
でも、近(ちか)い場所(ばしょ)を歩(ある)くウェイトレスを見(み)て、その制服(せいふく)の可愛(かわい)さに目(め)を奪(うば)われる。
つーか、そいつは仁科(にしな)だった。
秋生(あきお)「おめぇ、別(べつ)の女(おんな)の子(こ)に見(み)とれてんじゃねぇよ」
秋生(あきお)「俺(おれ)たちのアイドル、渚(なぎさ)ちゃんはどうしたよ」
朋也(ともや)「よくわかんないんだよ、ここからじゃ」
秋生(あきお)「ちっ、じゃあ、大人(おとな)しく待(ま)ってろ」
どか、と椅子(いす)に座(すわ)り直(なお)す。
しばらくして、ウェイトレスがやってきて、俺(おれ)たちを出迎(でむか)えた。
渚(なぎさ)「いらっしゃいませ」
つーか、渚(なぎさ)だった。
渚(なぎさ)「あ、朋也(ともや)くんです」
朋也(ともや)「よぅ」
かなり恥(は)ずかしい。
それは渚(なぎさ)も同(おな)じなようで、顔(かお)を赤(あか)らめてうつむいてしまう。
渚(なぎさ)「いきなり来(き)たら…びっくりします」
朋也(ともや)「いや、悪(わる)い。急(きゅう)に暇(ひま)が出来(でき)たんだ。だから連絡(れんらく)のしようもなくてさ…」
つーか、可愛(かわい)い。
渚(なぎさ)「あ、早(はや)く通(とお)さないとっ」
職務(しょくむ)を思(おも)い出(だ)したらしく、メニューを取(と)りだすと、俺(おれ)に向(む)かって訊(き)く。
渚(なぎさ)「一名様(いちめいさま)ですね」
朋也(ともや)「いや、二名(にめい)」
渚(なぎさ)「はい?」
俺(おれ)の指(さ)さす先(さき)、不気味(ぶきみ)な変装(へんそう)を施(ほどこ)した長身(ちょうしん)の男(おとこ)がひとり。
渚(なぎさ)「あ、えっと…」
目(め)を細(ほそ)めて、その顔(かお)をまじまじと確認(かくにん)する渚(なぎさ)。
渚(なぎさ)「お友達(ともだち)ですかっ」
朋也(ともや)「アホな子(こ)だろ、おまえ!」
渚(なぎさ)「えっ?」
本当(ほんとう)にわかっていないようだ…。
自分(じぶん)の父親(ちちおや)だというのに。
渚(なぎさ)「では、席(せき)のほうにご案内(あんない)しますね」
中(なか)に通(とお)される。
渚(なぎさ)の後(あと)について、空(す)いていた窓際(まどぎわ)のテーブルのひとつまで歩(ある)いてくる。
渚(なぎさ)「こちらです。どうぞ」
俺(おれ)とオッサンは向(む)かい合(あ)って座(すわ)る。
渚(なぎさ)「こちらメニューになります。ご注文(ちゅうもん)のほうは後(あと)ほど伺(うかが)いに参(まい)ります」
朋也(ともや)「ああ、サンキュ」
メニューを俺(おれ)たちに渡(わた)すと、渚(なぎさ)は忙(いそが)しそうに席(せき)を離(はな)れていった。
秋生(あきお)「見(み)ろ、ばれなかったじゃないか」
朋也(ともや)「ああ、忘(わす)れてたよ。あんたの娘(むすめ)が超鈍(ちょうにぶ)いことに」
秋生(あきお)「いや、あいつは鋭(するど)い。もし声(こえ)を出(だ)していたなら気(き)づかれていただろう…」
朋也(ともや)「いやもう、グラサンがなかろうが、別人(べつじん)ですと言(い)い張(は)れば、別人(べつじん)で通(とお)るんじゃないかと」
秋生(あきお)「んなバカいねぇよ」
是非(ぜひ)試(ため)してみたかった。
秋生(あきお)「おまえ、次(つぎ)渚(なぎさ)が来(き)たら、会話(かいわ)で引(ひ)き留(と)めろよ。その間(あいだ)に俺(おれ)がこいつで激写(げきしゃ)する」
隠(かく)し持(も)っていたインスタントカメラを懐(ふところ)から取(と)り出(だ)す。
朋也(ともや)「まあ、仕事(しごと)を邪魔(じゃま)しない程度(ていど)にはやってみるよ…」
別(べつ)のウェイトレスが、水(みず)を持(も)ってくる。
ウェイトレス「いらっしゃいませ」
秋生(あきお)「ちっ、おまえになんか用(よう)はねぇんだよ」
丸聞(まるき)こえだった。
ウェイトレスは怒(おこ)った様子(ようす)で戻(もど)っていった。
朋也(ともや)「少(すこ)しは自重(じじゅう)しろ」
秋生(あきお)「お、渚(なぎさ)が居(い)るぞ。呼(よ)んでくれ」
朋也(ともや)「わかってるのか、このオッサン…」
渚(なぎさ)は呼(よ)ばないでも、きてくれた。
渚(なぎさ)「お決(き)まりですか」
朋也(ともや)「ああ、そうだな…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、ホット」
渚(なぎさ)「はい、ホットコーヒーおひとつですね」
渚(なぎさ)がくるりと体(からだ)を反転(はんてん)させて、オッサンのほうを向(む)く。
秋生(あきお)「………」
オッサンは喋(しゃべ)らずに黙(だま)っていた。
まじで声(こえ)を出(だ)すとばれると思(おも)っているのだ。
朋也(ともや)「こっちの人(ひと)はパフェ」
助(たす)け船(ぶね)を出(だ)してやる。
渚(なぎさ)「パフェはたくさん種類(しゅるい)があります。どれにしますか」
朋也(ともや)「一番(いちばん)でかいの」
渚(なぎさ)「一番(いちばん)大(おお)きいのは、チョコ&ストロベリーミックスパフェ·スペシャルになりますけど、それでよろしいでしょうか?」
朋也(ともや)「よろしい」
秋生(あきお)「………」
渚(なぎさ)「以上(いじょう)ですね」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます。しばらくお待(ま)ちください」
注文(ちゅうもん)を取(と)り終(お)え、渚(なぎさ)が去(さ)っていく。
秋生(あきお)「よろしいことあるかーーっ!」
秋生(あきお)「どうして俺(おれ)がそんなファンシーな食(た)べ物(もの)を食(く)わなきゃならねぇんだよっ!」
朋也(ともや)「パフェって言(い)ってたじゃないか」
秋生(あきお)「ちっ、たとえもわからんのか、この小僧(こぞう)は」
秋生(あきお)「んな甘(あま)いもんが食(く)えるかっ」
朋也(ともや)「とにかく、頼(たの)んでしまったんだ。渚(なぎさ)の手前(てまえ)だ、ちゃんと食(く)ってやれよ」
秋生(あきお)「嫌(いや)がらせか、この野郎(やろう)…」
その後(あと)、料理(りょうり)を運(はこ)んできたのは、別(べつ)のウェイトレスだった。
しばらく渚(なぎさ)の姿(すがた)は見(み)えなかった。
秋生(あきお)「ああん?
どうして、渚(なぎさ)が来(こ)ねぇんだ?」
秋生(あきお)「店長(てんちょう)呼(よ)んでこい、しばくぞ、こら」
ジャンボパフェを食(た)べながら、悪態(あくたい)をつく不気味(ぶきみ)な中年男性(ちゅうねんだんせい)。
秋生(あきお)「これじゃ、激写(げきしゃ)できねぇじゃねぇかよ」
+変態風味(へんたいふうみ)。
朋也(ともや)「もう、いいじゃんか、見(み)られたんだしよ」
秋生(あきお)「娘(むすめ)の晴(は)れ姿(すがた)を永遠(えいえん)に留(とど)めておきたいという親心(おやごころ)がわからんかねぇ、この馬鹿(ばか)は」
朋也(ともや)「じゃ、好(す)きにしてくれ…」
秋生(あきお)「なに他人事(たにんごと)みたいに言(い)ってんだよ、てめぇだって焼(や)き増(ま)し条件(じょうけん)でノコノコついてきたくせによ」
朋也(ともや)「ぐ…」
朋也(ともや)「こんな隠(かく)し撮(と)りのようなことをやることに気(き)が進(すす)まないだけだよっ!」
朋也(ともや)「撮(と)るなら正々堂々(せいせいどうどう)と撮(と)ればいいだろっ」
秋生(あきお)「んな恥(は)ずかしいことができるかっ」
朋也(ともや)「親(おや)ならやれっ!」
秋生(あきお)「恥(は)ずいわっ!」
朋也(ともや)「やれっ!」
渚(なぎさ)「あ、あの」
朋也(ともや)「え…?」
気(き)づくと、真横(まよこ)に渚(なぎさ)がいた。
渚(なぎさ)「他(ほか)のお客(きゃく)様(ざま)にご迷惑(めいわく)ですから、お静(しず)かにお願(ねが)いできますか」
朋也(ともや)「あ、ああ、悪(わる)い…」
秋生(あきお)「この、馬鹿(ばか)がっ」
朋也(ともや)「あんただろっ」
秋生(あきお)「てめぇだっ!」
渚(なぎさ)「あの、おふたりともです…」
朋也(ともや)「ああ、悪(わる)い…」
俺(おれ)とオッサンは黙(だま)り込(こ)む。それでようやく、渚(なぎさ)が席(せき)を離(はな)れた。
秋生(あきお)「ちっ…」
オッサンと俺(おれ)がその背(せ)を見送(みおく)る。
しかし…しばらく店内(てんない)を見回(みまわ)していて、気(き)づいたことがある。
若(わか)い男(おとこ)の客(きゃく)の視線(しせん)が、頻繁(ひんぱん)に渚(なぎさ)のほうを向(む)いているのだ。
朋也(ともや)(俺(おれ)が彼氏(かれし)として自意識過剰(じいしきかじょう)なだけか…?)
いや、角(かど)の席(せき)に座(すわ)る男連中(おとこれんちゅう)なんて、指(ゆび)までさして、全員(ぜんいん)で渚(なぎさ)の行動(こうどう)を追(お)っているじゃないか。
朋也(ともや)(制服(せいふく)マジックと言(い)うべきか…あんな格好(かっこう)をすると、渚(なぎさ)もモテモテになるんだな…)
朋也(ともや)(オッサンも、常連客(じょうれんきゃく)から可愛(かわい)い可愛(かわい)いと聞(き)かされて、ここに来(き)てるわけだし…)
そう考(かんが)えると、ちょっとした優越感(ゆうえつかん)が味(あじ)わえた。
朋也(ともや)(てめぇら、その子(こ)は俺(おれ)の嫁(よめ)だぜ…ふふふ…)
秋生(あきお)「へっ、見(み)ろよ、ウチの渚(なぎさ)が、一番(いちばん)野郎(やろう)どもの視線(しせん)を集(あつ)めてるぜ」
秋生(あきお)「てめぇら、そいつは俺(おれ)の娘(むすめ)だぜ…ふふふ…」
バカがここにふたり。
角(かく)の男連中(おとこれんちゅう)が、隣(となり)を通(とお)り過(す)ぎようとした渚(なぎさ)を呼(よ)び止(と)めた。
にやけた顔(かお)で、渚(なぎさ)に話(はな)しかけている。
男(おとこ)「バイト、何時(なんじ)に終(お)わるの?」
ナンパだった。
渚(なぎさ)「夕方(ゆうがた)に終(お)わりますけど…」
男(おとこ)「お、ちょうどいいね。晩飯(ばんめし)おごるから、一緒(いっしょ)に食(た)べにいこうよ」
渚(なぎさ)「いえ、まっすぐ帰(かえ)らないといけないですので…」
渚(なぎさ)「失礼(しつれい)します」
立(た)ち去(さ)ろうとした渚(なぎさ)の腕(うで)を一番(いちばん)手前(てまえ)の男(おとこ)が掴(つか)んでいた。
男(おとこ)「お家(うち)、そんなに厳(きび)しいの?」
逃(に)げないようにして、強引(ごういん)に話(はなし)を続(つづ)けた。
秋生(あきお)「ちっ…あいつら、黙(だま)って見(み)ておくだけにしておけばいいものを…」
秋生(あきお)「よし、しばくか」
朋也(ともや)「ああ」
珍(めずら)しく意気投合(いきとうごう)。ふたり同時(どうじ)に立(た)ち上(あ)がった。
朋也(ともや)「でも、大事(おおごと)にするなよ。店(みせ)に迷惑(めいわく)かけたら、渚(なぎさ)に怒(おこ)られるぞ」
秋生(あきお)「大丈夫(だいじょうぶ)だ、脅(おど)すだけだよ」
確(たし)かに、その顔(かお)で脅(おど)されたら恐(こわ)い。
俺(おれ)とオッサンは渚(なぎさ)を挟(はさ)む格好(かっこう)で立(た)った。
朋也(ともや)「なぁ、その手(て)、離(はな)してやってくんない?」
秋生(あきお)「じゃねぇと、あそこチョン切(き)るぞ、てめぇら」
相手(あいて)は三人(さんにん)だったが、面構(つらがま)えの悪(わる)いふたりの脅(おど)しだ。気圧(きあつ)されたように顔色(かおいろ)を変(か)えた。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、大丈夫(だいじょうぶ)です…」
そう渚(なぎさ)は小声(こごえ)で言(い)ってきた。
男(おとこ)「ちっ、こんな店(みせ)、出(で)ようぜっ!」
乱暴(らんぼう)に立(た)ち上(あ)がって、俺(おれ)たちの脇(わき)を抜(ぬ)けていく男(おとこ)ども。
その時(とき)、相手(あいて)がわざとオッサンの足(あし)を踏(ふ)んだのが見(み)えた。
直後(ちょくご)…
ずてん!と大(おお)きな音(おと)を立(た)てて、男(おとこ)が尻餅(しりもち)をついていた。
朋也(ともや)(オッサン…足(あし)を引(ひ)っかけ返(かえ)したな…)
男(おとこ)「なにすんだよ、この野郎(やろう)っ!」
案(あん)の定(じょう)、逆上(ぎゃくじょう)する相手(あいて)。
秋生(あきお)「あぁ、わりぃ、わりぃ、気(き)にせず、帰(かえ)れ」
男(おとこ)「あんたのせいで、こっちは怪我(けが)したんだよっ!」
秋生(あきお)「だから、謝(あやま)ってんだろ、小僧(こぞう)がよっ」
男(おとこ)「てめぇっ」
手(て)が出(で)た。
オッサンはそれをよけて、また足(あし)を引(ひ)っかけた。
ガシャン!
男(おとこ)は自分(じぶん)たちの座(すわ)っていたテーブルに倒(たお)れ込(こ)む。グラスを倒(たお)し、水浸(みずびた)しになった。
朋也(ともや)「オッサン!」
秋生(あきお)「え?
今(いま)の俺(おれ)か?」
朋也(ともや)「あんた以外(いがい)に誰(だれ)がいるっ!」
声(こえ)「どうかされましたかっ」
直後(ちょくご)、店長(てんちょう)らしき男(おとこ)が割(わ)って入(はい)ってきた。
すでに相手(あいて)に向(む)かってくる意気(いき)などなくなっていたが。
客足(きゃくあし)が途絶(とだ)えた閉店間際(へいてんまぎわ)の時間(じかん)、俺(おれ)は店長(てんちょう)とテーブルで向(む)かい合(あ)っていた。
オッサンは…
秋生(あきお)「厄介事(やっかいごと)はおまえに任(まか)せたっ!
バイバイブーッ!」
と言(い)い残(のこ)して、逃(に)げ去(さ)っていた。
朋也(ともや)(あの人(ひと)は…ったく…)
朋也(ともや)(怒(おこ)られるのは俺(おれ)ひとりかよ…)
店長(てんちょう)「ここの店長(てんちょう)をしております、土方(ひじかた)です」
名刺(めいし)を差(さ)し出(だ)される。
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)です」
店長(てんちょう)「ええと、聞(き)いた話(はなし)によりますと…」
店長(てんちょう)「岡崎(おかざき)くんの旦那(だんな)さんということですね」
朋也(ともや)「岡崎(おかざき)くん?」
それは俺(おれ)だ。
店長(てんちょう)「ああ…ややこしかったですな」
店長(てんちょう)「下(した)の名前(なまえ)は…そう渚(なぎさ)くん」
ああ…渚(なぎさ)はこの店長(てんちょう)に『岡崎(おかざき)くん』と呼(よ)ばれているのか。
俺(おれ)のほうがまったく慣(な)れていないようで、恥(は)ずかしい。
朋也(ともや)「お騒(さわ)がせして、すみませんでした」
店長(てんちょう)「いやいや、大事(だいじ)な奥(おく)さんが、言(い)い寄(よ)られていたんですから、心中(しんちゅう)も穏(おだ)やかでなかったでしょう」
店長(てんちょう)「岡崎(おかざき)くんは、器量(きりょう)の良(い)い子(こ)ですから、以前(いぜん)にも同(おな)じようなことがありました」
店長(てんちょう)「でも、その時(とき)はうまくやり過(す)ごしていましたよ」
朋也(ともや)「そうなんすか…」
店長(てんちょう)「ええ、見(み)た目(め)以上(いじょう)に利発(りはつ)な子(こ)です」
店長(てんちょう)「と言(い)っては、失礼(しつれい)ですかな」
朋也(ともや)「いえ…」
店長(てんちょう)「それに履歴(りれき)を見(み)るかぎり、体(からだ)が弱(よわ)いそうですが、ここでの働(はたら)きぶりはまったく、健康(けんこう)そのものですよ」
店長(てんちょう)「いや、健康(けんこう)な人(ひと)よりも、よく働(はたら)いてくれています」
頑張(がんば)り屋(や)なあいつらしい…。
店長(てんちょう)「ですから、岡崎(おかざき)さん、心配(しんぱい)なさらずとも大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」
ああ…そうか。
それを言(い)いたかったのか、この人(ひと)は。
何(なに)も騒(さわ)ぎを起(お)こした俺(おれ)を叱(しか)るためではない。
旦那(だんな)である俺(おれ)に安心(あんしん)してもらいたかっただけなのだ。
いい人(ひと)だと思(おも)った。
店長(てんちょう)「それにこう見(み)えても、私(わたし)、武道(ぶどう)の嗜(たしな)みもございますので」
俺(おれ)が黙(だま)っていたからだろう。さらにそう付(つ)け加(くわ)えた。
朋也(ともや)「ああ、はいっ…安心(あんしん)しました」
慌(あわ)てて、答(こた)える。
朋也(ともや)「至(いた)らない点(てん)も多々(たた)あると思(おも)いますが…あいつをよろしくお願(ねが)いします」
最後(さいご)にそう頭(あたま)を下(さ)げた。
渚(なぎさ)「今日(きょう)は本当(ほんとう)に、いろいろなことがありました」
朋也(ともや)「迷惑(めいわく)かけて悪(わる)かったよ」
渚(なぎさ)「いえ、朋也(ともや)くんはわたしを守(まも)ろうとしてくれたので、うれしかったです」
渚(なぎさ)「お友達(ともだち)の方(かた)にも礼(れい)を言(い)いたかったです」
朋也(ともや)「いつだって言(い)えるから、安心(あんしん)しろ」
渚(なぎさ)「はい…?」
朋也(ともや)「いや、俺(おれ)から言(い)っておくよ…」
渚(なぎさ)「はい、お願(ねが)いします」
朋也(ともや)「でも、制服(せいふく)、ほんと似合(にあ)ってて可愛(かわい)かった」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)ですか」
朋也(ともや)「だって、男連中(おとこれんちゅう)、みんなおまえを見(み)てたぜ?」
渚(なぎさ)「そんなことはないです」
朋也(ともや)「実際(じっさい)ナンパされてたじゃん」
渚(なぎさ)「ナンパじゃないです。お腹空(なかす)いてそうに見(み)えたんだと思(おも)います」
朋也(ともや)「だとしても、可愛(かわい)い子(こ)じゃなかったら、誘(さそ)わないって」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)くなくても、お腹空(なかす)いてそうな子(こ)には手(て)を差(さ)し伸(の)べたくなるものです」
朋也(ともや)「でも、おまえは可愛(かわい)いじゃないか」
渚(なぎさ)「いいえ」
朋也(ともや)「えぇ?」
わざとらしくとぼけたふうに訊(き)いてやる。
これで、卑下(ひげ)するな、という教(おし)えを思(おも)い出(だ)したはずだ。
渚(なぎさ)「あ、いえ…」
朋也(ともや)「可愛(かわい)いよな?」
渚(なぎさ)「はい…可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「………」
朋也(ともや)(いいっ)
渚(なぎさ)に自分(じぶん)のことを可愛(かわい)いと言(い)わせるのは快感(かいかん)だった。
渚(なぎさ)「でも、仁科(にしな)さんとかのほうが、もっと可愛(かわい)いです」
渚(なぎさ)「そうです。わたしも可愛(かわい)いかもしれないですが、他(ほか)の人(ひと)のほうがもっともっと可愛(かわい)いですっ」
しまった…。
ついに、卑下(ひげ)することなく、控(ひか)えめに言(い)う抜(ぬ)け道(みち)を見(み)つけられてしまった…。
朋也(ともや)「待(ま)てっ」
朋也(ともや)「だんご大家族(だいかぞく)も可愛(かわい)いが、他(ほか)のキャラクターのほうがもっともっと可愛(かわい)いと言(い)われたら、おまえ、どうだっ」
渚(なぎさ)「平気(へいき)です」
朋也(ともや)(ぐは…)
朋也(ともや)(俺(おれ)の…密(ひそ)かな楽(たの)しみが…)
朋也(ともや)「今(いま)の禁止(きんし)」
渚(なぎさ)「禁止(きんし)じゃないです。理由(りゆう)がないです」
ああ…
さようなら…ナルシストな渚(なぎさ)…。
朋也(ともや)「俺(おれ)は古河渚(ふるかわなぎさ)という女(おんな)の子(こ)が好(す)きなんだ。その女(おんな)の子(こ)をけなさないでくれないか」
渚(なぎさ)「あ、はい…すみませんでしたっ」
渚(なぎさ)「とっても、可愛(かわい)いと思(おも)いますっ」
渚(なぎさ)「って…え?」
渚(なぎさ)「なんか、今(いま)、ものすごく恥(は)ずかしいことを言(い)った気(き)がします…」
渚(なぎさ)「そんな、わたしの水着姿(みずぎすがた)なんて、誰(だれ)も見(み)ないと思(おも)いますっ」
渚(なぎさ)「そんなにスタイル…よくないですので…」
朋也(ともや)「可愛(かわい)いけりゃなんでもOK」
渚(なぎさ)「可愛(かわい)くも…」
渚(なぎさ)「ああ…そうですよね…わたし、可愛(かわい)いですから、きっとなんでもOKですっ」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、わくわくして寝(ね)られなかったはずです」
朋也(ともや)「どうして」
渚(なぎさ)「それは、デートだからです」
渚(なぎさ)「こんな可愛(かわい)い彼女(かのじょ)と」
目(め)を瞑(つぶ)れば、渚(なぎさ)ナルシスト化(か)計画(けいかく)の軌跡(きせき)が走馬燈(そうまとう)のように次々(つぎつぎ)とよみがえる。
しかし、それも…もう…
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん…」
朋也(ともや)「え…なに」
涙(なみだ)をごしごし拭(ふ)きながら、現実(げんじつ)に戻(もど)ってくる。
渚(なぎさ)「すごく、申(もう)し訳(わけ)ない気持(きも)ちです」
朋也(ともや)「え?
どうして…?」
渚(なぎさ)「その…朋也(ともや)くんがわたしに自信(じしん)を持(も)たせるために、言(い)ってきてくれたことです…」
朋也(ともや)「まぁ、確(たし)かに」
渚(なぎさ)「ですので…」
渚(なぎさ)「今(いま)の禁止(きんし)しても…いいです」
渚(なぎさ)「やり方(かた)、ちょっと卑怯(ひきょう)でしたので…」
朋也(ともや)「いや…」
そんなふうに言(い)われたら、俺(おれ)もこれ以上(いじょう)強要(きょうよう)なんてできなかった。
朋也(ともや)「冗談(じょうだん)。もういいよ」
渚(なぎさ)「え、どうしてでしょうか」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうが、楽(たの)しんだりして…よっぽど卑怯(ひきょう)だったよ」
渚(なぎさ)「楽(たの)しんでましたか」
朋也(ともや)「ちょっと楽(たの)しんでました」
朋也(ともや)「ごめんなさい」
渚(なぎさ)「いえ、でも、わたしのことを考(かんが)えていてくれたことも確(たし)かだと思(おも)います」
朋也(ともや)「ああ…まぁな」
朋也(ともや)「昔(むかし)のおまえは、本当(ほんとう)に、自分(じぶん)に自信(じしん)がない奴(やつ)だったからな」
朋也(ともや)「でも、もう十分(じゅうぶん)だよ。おまえ、バイト先(さき)でも、すげぇ店長(てんちょう)に買(か)われてた」
朋也(ともや)「あの頃(ころ)とぜんぜん違(ちが)う」
朋也(ともや)「振(ふ)る舞(ま)いとか、もう、すごくしっかりしてるんだよ、おまえ」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
渚(なぎさ)「だったら、うれしいです」
朋也(ともや)「ああ。だから、もう十分(じゅうぶん)」
渚(なぎさ)「でも…」
渚(なぎさ)「やっぱり、わたしは努力(どりょく)し続(つづ)けてたいです」
渚(なぎさ)「それで…朋也(ともや)くんの理想(りそう)の女(おんな)の子(こ)でいたいです」
朋也(ともや)「いれてるよ、十分(じゅうぶん)」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうが、渚(なぎさ)に見合(みあ)ってないかも…」
渚(なぎさ)「そんなことないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、すごく仕事(しごと)がんばって、すごく男(おとこ)らしくて、すごく素敵(すてき)です」
朋也(ともや)「おまえだって、女(おんな)の子(こ)らしくて、可愛(かわい)い」
渚(なぎさ)「………」
じっと見(み)つめ合(あ)う。
朋也(ともや)(………)
朋也(ともや)(なんか…)
朋也(ともや)(いい雰囲気(ふんいき)…)
渚(なぎさ)「………」
渚(なぎさ)から、そっと顔(かお)を近(ちか)づけてきていた。
朋也(ともや)(え…)
気(き)づくとすぐ前(まえ)に、目(め)を閉(と)じた渚(なぎさ)の顔(かお)。
下(した)では唇(くちびる)が合(あ)わさっていた。
さらに隙間(すきま)を埋(う)めるように、押(お)し込(こ)んでくる。
一番深(いちばんふか)い位置(いち)で、動(うご)きを止(と)めた。
………。
ようやく唇(くちびる)が離(はな)れる。
うつむく渚(なぎさ)の顔(かお)は、耳(みみ)まで真(ま)っ赤(か)だった。
渚(なぎさ)「あのっ…」
顔(かお)を上(あ)げて…でも目(め)を伏(ふ)せたままで口(くち)を開(ひら)いた。
渚(なぎさ)「…朋也(ともや)くんの顔(かお)見(み)てたら、キスしたくなったので、してしまいましたっ」
精一杯(せいいっぱい)、自信(じしん)のある自分(じぶん)を装(よそお)おうとしていた。
それが実(じつ)に滑稽(こっけい)で、笑(わら)いを誘(さそ)う。
渚(なぎさ)「その…」
渚(なぎさ)「嫌(いや)じゃなかったですか…」
俺(おれ)が黙(だま)っていることに不安(ふあん)を覚(おぼ)えたのか、仕舞(しまい)いにはそう訊(き)いてきた。
朋也(ともや)(笑(わら)いを堪(こた)えてただけなんだけどな…)
朋也(ともや)「ああ」
朋也(ともや)「今(いま)、このまま死(し)にたいって思(おも)った」
誠意(せいい)を持(も)ってそう答(こた)えた。
渚(なぎさ)「そんなこと思(おも)ったらダメです」
朋也(ともや)「それぐらいうれしかったってこと」
渚(なぎさ)「そんなにうれしかったですか」
朋也(ともや)「ああ」
渚(なぎさ)「あんなのだったら、いくらでもします」
朋也(ともや)「じゃ、もう一回(いっかい)」
渚(なぎさ)「え…」
少(すこ)し引(ひ)く。
朋也(ともや)「冗談(じょうだん)だよ」
渚(なぎさ)「い、いえ…します」
渚(なぎさ)「んっ…」
慌(あわ)てたように勢(いきお)いよく、唇(くちびる)を重(かさ)ねていた。
今度(こんど)は、最初(さいしょ)からいい角度(かくど)で、深(ふか)く合(あ)わさっていた。
渚(なぎさ)は仕事(しごと)で疲(つか)れていたのか、消灯(しょうとう)して間(ま)もなく寝息(ねいき)を立(た)て始(はじ)めた。
俺(おれ)はひとり眠(ねむ)れず、天井(てんじょう)をじっと見上(みあ)げていた。
朋也(ともや)「………」
さっきまでの楽(たの)しい感情(かんじょう)は、もう消(き)え去(さ)っていた。
朋也(ともや)(こんなにも満(み)たされているのに…俺(おれ)は何(なに)を不安(ふあん)に思(おも)っているのだろう…)
それは…わかっていた。
オッサンと見(み)た、あの光景(こうけい)だった。
角(かど)を折(お)れてその先(さき)に広(ひろ)がった景色(けしき)。
一瞬(いっしゅん)何(なに)か、抗(あらが)いようのない力(ちから)のようなものを感(かん)じて、俺(おれ)は足(あし)を止(と)めてしまっていた。
同時(どうじ)に、思(おも)い出(で)に変(か)わってしまった景色(けしき)が…
立入禁止(たちいりきんし)の看板(かんばん)があって…
その向(む)こうには草(くさ)が生(お)い茂(しげ)った空(あ)き地(ち)があって…
歩道(ほどう)には自転車(じてんしゃ)で通行(つうこう)するとパンクしそうな溝(みぞ)があって…
そこを前輪(ぜんりん)を浮(う)かせて、渡(わた)る幼(おさな)い日(ひ)の俺(おれ)がいた景色(けしき)が…
もう取(と)り戻(もど)せないものだと知(し)って。
自分(じぶん)の仕事(しごと)こそ、町(まち)の形(かたち)を変(か)えていくことなのに…。
芳野(よしの)さんは、いつか…『それが人(ひと)が生(い)きていくということだ』、と言(い)っていた。
変(か)わらなければ生(い)きていけないのだろうか。
そして、なにもかもが変(か)わってしまっても…
「それでも、この場所(ばしょ)が好(す)きでいられますか」
…いられるだろうか。
俺(おれ)は…。
芳野(よしの)「これ、見(み)たか?」
朋也(ともや)「は?」
朝一番(あさいちばん)で、芳野(よしの)さんは俺(おれ)に新聞(しんぶん)を見(み)せた。
芳野(よしの)「幹線道路(かんせんどうろ)だ。用地買収(ようちばいしゅう)で詰(つ)まって、かなり遅(おく)れたらしいが」
芳野(よしの)「ようやく基礎工事(きそこうじ)が来期(らいき)から始(はじ)まるって話(はなし)だ」
新聞(しんぶん)の地方欄(ちほうらん)だったが、山側(やまがわ)を大(おお)きく通(とお)り抜(ぬ)ける形(かたち)の道路(どうろ)が着工(ちゃっこう)するとの記事(きじ)が大(おお)きく書(か)かれていた。
朋也(ともや)「工期(こうき)はどれくらいなんすか?」
芳野(よしの)「再来年(さらいねん)の春(はる)開通(かいつう)予定(よてい)だ。まだまだ先(さき)の長(なが)い話(はなし)だ」
朋也(ともや)「…そうなんすか」
芳野(よしの)「元請(もとうけ)も絡(から)んでるから、うちにもいくつか仕事(しごと)が来(く)るだろ。忙(いそが)しくなるぞ」
そう言(い)って芳野(よしの)さんは新聞(しんぶん)を畳(たたみ)み、仕事(しごと)の準備(じゅんび)を始(はじ)めた。
俺(おれ)はもう一度(いちど)新聞(しんぶん)を広(ひろ)げた。
新聞(しんぶん)に載(の)っていた地図(ちず)には、見知(みし)った地名(ちめい)がいくつも書(か)かれていた。
そこに道路(どうろ)が通(とお)ると、風景(ふうけい)は様変(さまが)わりするのだろうか。
変(か)えていくことに俺(おれ)も参加(さんか)するのだろうか。
だが、その未来図(みらいず)は想像(そうぞう)つかなかった。
渚(なぎさ)「今日(きょう)、聞(き)いた話(はなし)なんですが」
朋也(ともや)「うん」
渚(なぎさ)「学校(がっこう)に、また新(あたら)しい校舎(こうしゃ)が建(た)つそうです」
朋也(ともや)「え…?」
渚(なぎさ)「仁科(にしな)さんから聞(き)きました。今月(こんげつ)から工事(こうじ)が始(はじ)まってるらしいです」
朋也(ともや)「じゃ、古(ふる)くなった校舎(こうしゃ)はどうなんだよ」
渚(なぎさ)「旧校舎(きゅうこうしゃ)は取(と)り壊(こわ)しになるそうです」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「二年後(にねんご)以降(いこう)に入学(にゅうがく)した生徒(せいと)さんは、ぴかぴかの教室(きょうしつ)で勉強(べんきょう)できます」
渚(なぎさ)「とてもいいです」
朋也(ともや)「いいわけあるかっ!」
がちゃん!
俺(おれ)は茶碗(ちゃわん)を持(も)った手(て)で、机(つくえ)を叩(たた)いていた。
渚(なぎさ)「え…」
唖然(あぜん)とする渚(なぎさ)。
朋也(ともや)「あ…悪(わる)い…」
渚(なぎさ)「いえ…」
渚(なぎさ)「…どうして怒(おこ)ったか、教(おし)えてほしいです」
朋也(ともや)「いや、怒(おこ)ったんじゃない…」
朋也(ともや)「動揺(どうよう)したんだ…」
渚(なぎさ)「何(なに)にですか」
朋也(ともや)「旧校舎(きゅうこうしゃ)はさ…演劇部(えんげきぶ)の部室(ぶしつ)があってさ…」
朋也(ともや)「一緒(いっしょ)に頑張(がんば)って…おまえのことを好(す)きになった思(おも)い出(で)の場所(ばしょ)なんだ…」
違(ちが)う、そんなの象徴(しょうちょう)のひとつでしかないんだ。
でも、今(いま)の俺(おれ)にはそんなふうにしか説明(せつめい)できなかった。
渚(なぎさ)「はい、そうです。わたしも同(おな)じです。朋也(ともや)くんのことを好(す)きになった大切(たいせつ)な場所(ばしょ)です」
朋也(ともや)「だったらさ…羨(うらや)ましいみたいなこと言(い)うなよ」
渚(なぎさ)「はい…?」
朋也(ともや)「学校(がっこう)が新(あたら)しくなってさ、変(か)わっていくのにさ…」
渚(なぎさ)「あ…はい、わかりました、朋也(ともや)くんの気持(きも)ち」
渚(なぎさ)「わたし、浅(あさ)はかだったです。そうです…とっても悲(かな)しいことでした…」
朋也(ともや)「………」
渚(なぎさ)「本当(ほんとう)に、ごめんなさいでした」
朋也(ともや)「いや、そんな…真(ま)っ正直(しょうじき)に謝(あやま)られても…」
渚(なぎさ)「いえ…」
朋也(ともや)「………」
…気(き)まずくなってしまった。
朋也(ともや)「俺(おれ)さ…きっと疲(つか)れてるんだよ」
朋也(ともや)「神経質(しんけいしつ)になりすぎてる…」
渚(なぎさ)「そうでしょうか…」
朋也(ともや)「ああ、きっとそうだよ」
朋也(ともや)「なんか、叱(しか)ったみたいで悪(わる)かったよ」
渚(なぎさ)「いえ…ぜんぜん気(き)にしてないです」
渚(なぎさ)「わたしのほうが、本当(ほんとう)、考(かんが)えが足(た)りなくて…」
お互(たが)い、いつまでも謝(あやま)ってそうだった。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「ごめん、飯(めし)、冷(さ)めちまったな…」
渚(なぎさ)「いえ…」
朋也(ともや)「でも、冷(さ)めてもおいしいから、渚(なぎさ)の作(つく)る飯(めし)はさ」
朋也(ともや)「だから、俺(おれ)は気(き)にしないよ」
渚(なぎさ)「ありがとうございます」
胸(むね)が痛(いた)い。
この痛(いた)みはなんだろうか…。
朋也(ともや)(………)
俺以外(おれいがい)のものが、変(か)わっていく。
そんな気(き)がした。
俺(おれ)の愛(あい)したものはすべて思(おも)い出(だ)となり、まったく見(み)たこともない新(あたら)しい世界(せかい)が出来上(できあ)がっていく。
何(なに)もかも、変(か)わらずにはいられず…何(なに)もかもが、変(か)わり続(つづ)けていく。
そしてそこには…渚(なぎさ)も含(ふく)まれているのだ。
渚(なぎさ)さえも、変化(へんか)の流(なが)れの中(なか)に取(と)り込(こ)まれ、俺(おれ)から遠(とお)ざかっていく。
胸(むね)の痛(いた)みはその悲(かな)しみを予感(よかん)してのものだった。
こんなすぐ近(ちか)くにいるのに、少(すこ)しずつ遠(とお)くなっていく。
だから俺(おれ)は渚(なぎさ)を強(つよ)く抱(だ)きしめた。
渚(なぎさ)「どうしましたか、朋也(ともや)くん」
そんな俺(おれ)に渚(なぎさ)は優(やさ)しく声(こえ)をかけてくれる。
朋也(ともや)「なぁ、渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、本当(ほんとう)に渚(なぎさ)が大好(だいす)きだから…」
渚(なぎさ)「はい、わたしも朋也(ともや)くんのこと大好(だいす)きです」
朋也(ともや)「………」
その先(さき)が言(い)えなかった。
ずっとそばに居(い)てくれ、と。
言葉(ことば)にすれば、その思(おも)いは波(なみ)にさらわれる。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい…」
こっちを向(む)いた渚(なぎさ)…その口(くち)に唇(くちびる)を重(かさ)ねた。
渚(なぎさ)を繋(つな)ぎ止(と)めるために。
指(ゆび)で渚(なぎさ)の顎(あご)を引(ひ)いて、口(くち)を開(ひら)かせた。
奥深(おくぶか)くまで、繋(つな)がりを求(もと)めた。
渚(なぎさ)「ん…」
初(はじ)めてお互(たが)いの粘膜(ねんまく)を擦(す)り合(あ)わせる。
夢(ゆめ)のように虚(うつ)ろで、泣(な)けるほどにせつなかった。
2年前(ねんまえ)、俺(おれ)は坂(さか)の下(した)に立(た)ちつくしてた。
どこにもいけない自分(じぶん)に、苛立(いらだ)ちを覚(おぼ)えていた。
抜(ぬ)け出(だ)すことのできない町(まち)が嫌(きら)いだった。
何(なに)もかもが嫌(いや)で…すべてが、変(か)わることを望(のぞ)んでいた。
時間(じかん)は流(なが)れて、俺(おれ)は大切(たいせつ)なものを見(み)つけた。
そして、俺(おれ)はそれを失(うしな)うことを恐(おそ)れている。
俺(おれ)は、あんなにも変(か)わることを望(のぞ)んでいたのに…
いつからか、変(か)わらないことを望(のぞ)むようになっていた。
変(か)わらないでほしい…何(なに)もかも。
変(か)わってしまったら、俺(おれ)は笑(わら)えないから。
もう、この場所(ばしょ)が好(す)きでいられないから…。
声(こえ)「朋也(ともや)くん…朝(あさ)です」
声(こえ)「そろそろ起(お)きないと、遅(おく)れてしまいます」
耳元(みみもと)で声(こえ)…。
ゆっくりと目(め)を開(あ)ける。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、起(お)きましょう」
朋也(ともや)「ああ…」
居(い)てくれた…渚(なぎさ)。
その手(て)を掴(つか)む。
強(つよ)く握(にぎ)る。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くん、どうしましたか」
渚(なぎさ)「悪(わる)い夢(ゆめ)でも見(み)てしまいましたか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
渚(なぎさ)「はい」
朋也(ともや)「おはよ」
渚(なぎさ)「はい、おはようございます」
こんな温(あたた)かな日々(ひび)を。
どうか、いつまでも、俺(おれ)にください。
また、忙(いそが)しい日常(にちじょう)の中(なか)に、俺(おれ)たちは身(み)を置(お)く。
週末(しゅうまつ)になると、俺(おれ)たちは頑張(がんば)った自分(じぶん)たちへのご褒美(ほうび)のように遊(あそ)んで過(す)ごした。
日曜(にちよう)には、ふたりで渚(なぎさ)の実家(じっか)へと顔(かお)を出(だ)した。
人(ひと)と人(ひと)の中(なか)での暮(く)らし。
それがいつしか、また俺(おれ)の心(こころ)を落(お)ち着(つ)けていく。
気(き)づけば、また夏(なつ)がやってきていた。
その日(ひ)、オッサンは会(あ)うなりにやける顔(かお)を抑(おさ)えて、俺(おれ)にこう耳打(みみう)ちした。
秋生(あきお)「例(れい)のアレ、できてるぜ」
渚(なぎさ)「また内緒話(ないしょばなし)ですか」
秋生(あきお)「いんや、なんにも」
秋生(あきお)「ほら、早苗(さなえ)に会(あ)ってこいよ」
渚(なぎさ)「はい。では、朋也(ともや)くんいきましょう」
ぐい、とオッサンに腕(うで)を掴(つか)まれる。
朋也(ともや)「あ…俺(おれ)さ、後(あと)でいく」
渚(なぎさ)「え?
どうかしましたか」
朋也(ともや)「おまえ、ほら、早苗(さなえ)さんに相談(そうだん)したいことあるって言(い)ってたじゃん」
それは本当(ほんとう)のことだ。昨日(きのう)の晩(ばん)から、そう言(い)っていた。
渚(なぎさ)「そうですか。わかりました。後(あと)でもよかったんですけど、それでは先(さき)にしてきます」
そう言(い)って、家(いえ)の中(なか)に入(はい)っていった。
秋生(あきお)「てめぇの嫁(よめ)は単純(たんじゅん)だなぁ」
朋也(ともや)「あんたの教育(きょういく)のせいなんだけどさ」
秋生(あきお)「じゃあ、例(れい)のアレ、見(み)せてやるぜ」
懐(ふところ)から取(と)り出(だ)すは、四角(しかく)い封筒(ふうとう)。
秋生(あきお)「見(み)るか?
見(み)てぇか?
見(み)るよな?
見(み)ましょうか?
見(み)て、みましょうか?」
朋也(ともや)「いいから、早(はや)く見(み)せろよ…」
秋生(あきお)「ははは、そう急(せ)くなって」
秋生(あきお)「ほらよ…」
開封(かいふう)し、中(なか)から、数枚(すうまい)の写真(しゃしん)を取(と)り出(だ)す。
そこには、ウェトレス姿(すがた)の渚(なぎさ)が、まばゆいばかりに写(うつ)っていた。
それらは、あの後(あと)、再(ふたた)びファミレスを訪(おとず)れて、撮影(さつえい)したものだった。
秋生(あきお)「これなんて、すんげぇアングルだろ?」
朋也(ともや)「あんた、床(ゆか)に寝転(ねころ)んで撮(と)ってたもんな。周(まわ)りにいた客(きゃく)が引(ひ)いてたぞ」
秋生(あきお)「見(み)ろ、こいつは最高(さいこう)だぜ…」
秋生(あきお)「前(まえ)に屈(かが)んだ瞬間(しゅんかん)を逃(のが)さず、激写(げきしゃ)したものだ」
俺(おれ)は目(め)を見張(みは)る。
下向(したむ)きになると、渚(なぎさ)の胸(むね)ってこんなに大(おお)きく見(み)えるのか…。
しかも、すべすべの肌(はだ)が、谷間(たにま)から膨(ふく)らみまで、直(じか)に見(み)える…。
朋也(ともや)「あのさ…これ…」
秋生(あきお)「なんだよ、欲(ほ)しいのか…?」
朋也(ともや)「焼(や)き増(ま)しってのが協力(きょうりょく)する条件(じょうけん)だったろ?」
秋生(あきお)「けどてめぇ、一向(いっこう)に渚(なぎさ)呼(よ)ばねぇし、引(ひ)き留(と)めねぇしよ、ある意味(いみ)、これらは俺(おれ)ひとりの力(ちから)によるものだぞ」
朋也(ともや)「意味(いみ)もなく呼(よ)べねぇし、仕事(しごと)の邪魔(じゃま)はできないだろ」
秋生(あきお)「ああ。だからこれは、床(ゆか)を這(は)い、時(とき)には窓枠(まどわく)に登(のぼ)り、アクロバティックに撮影(さつえい)をこなした、俺様(おれさま)ひとりのものだ」
朋也(ともや)「あのさ…オッサン」
秋生(あきお)「なんだよ…」
朋也(ともや)「く……」
朋也(ともや)「…ください」
頼(たの)み込(こ)んでしまっている俺(おれ)がいた!
秋生(あきお)「ふん…まぁ、てめぇも大変(たいへん)みたいだしな…」
朋也(ともや)「大変(たいへん)って何(なに)が」
秋生(あきお)「どうせ、まだ手(て)ぇ出(だ)せてねぇんだろ?」
秋生(あきお)「わかってるよ、てめぇは、ったく、仕方(しかた)のねぇ奴(やつ)だなぁ…」
秋生(あきお)「ほら、やるよ」
写真(しゃしん)を握(にぎ)らせられる。
その時(とき)。
どたどた。
廊下(ろうか)を誰(だれ)かが慌(あわ)てて走(はし)っていった。
秋生(あきお)「んあ…?」
その後(あと)、早苗(さなえ)さんの、大丈夫(だいじょうぶ)?という心配(しんぱい)した声(こえ)。
俺(おれ)は嫌(いや)な予感(よかん)がして、廊下(ろうか)に急(いそ)ぐ。
洗面所(せんめんじょ)の中(なか)にふたりはいた。
朋也(ともや)「渚(なぎさ)、どうした」
渚(なぎさ)は、洗面台(せんめんだい)に手(て)をついて、うつむいていた。
早苗(さなえ)「急(きゅう)に気分(きぶん)が悪(わる)くなったみたいです」
その背中(せなか)から手(て)を離(はな)して、早苗(さなえ)さんがそう答(こた)えた。
秋生(あきお)「お、子供(こども)でもできたか。そりゃめでたい」
後(うし)ろから呑気(のんき)なオッサンの声(こえ)。
朋也(ともや)「そんな気分(きぶん)が悪(わる)くなったぐらいで、安易(あんい)…」
俺(おれ)はそこで、言葉(ことば)を止(と)めてしまう。
…待(ま)て。思(おも)い返(かえ)せ。
そう、今日(きょう)、渚(なぎさ)は、早苗(さなえ)さんに相談事(そうだんごと)があると言(い)っていた。
それは俺(おれ)には言(い)えない、早苗(さなえ)さんにしか相談(そうだん)できない事(こと)で…
朋也(ともや)「………」
秋生(あきお)「まぁ、てめぇにそれぐらいの甲斐性(かいしょ)があれば、とっくにできてるかっ」
早苗(さなえ)「できちゃったようですね」
秋生(あきお)「何(なに)が」
早苗(さなえ)「子供(こども)です」
秋生(あきお)「え?
俺(おれ)の?」
早苗(さなえ)「違(ちが)います。渚(なぎさ)と朋也(ともや)さんのです」
早苗(さなえ)「おめでとうございます」
祝福(しゅくふく)の言葉(ことば)と共(とも)に、俺(おれ)の手(て)を握(にぎ)る早苗(さなえ)さん…。
秋生(あきお)「待(ま)てぇっ、早苗(さなえ)っ!」
オッサンが、それを断(た)ち切(き)る。
秋生(あきお)「こいつと渚(なぎさ)は、エッチすらしてねえのに、子供(こども)なんてできるわけねぇだろっ!」
朋也(ともや)「あ、いや…」
なんつーんだ…かいたこともない汗(あせ)が吹(ふ)き出(だ)してくる…
秋生(あきお)「エッチもせずに、どうしてできるんだよっ!
コウノトリが運(はこ)んでくるとでも言(い)うのかよっ」
秋生(あきお)「なんかの勘違(かんちが)いだぜ!
ったく、人騒(ひとさわ)がせなっ」
渚(なぎさ)「あの、お父(とう)さん…」
そこで渚(なぎさ)が、顔(かお)を上(あ)げて、ゆっくり振(ふ)り返(かえ)る。
秋生(あきお)「なんだよ、渚(なぎさ)」
渚(なぎさ)「その…」
こいつは言(い)うのか…。
言(い)う…こいつなら、言(い)う…。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんと…しちゃってます…」
渚(なぎさ)の爆弾発言(ばくだんはつげん)Part3。
俺(おれ)はその場(ば)で石(いし)のように固(かた)まってしまう。
両親(りょうしん)の前(まえ)でそんなことを正直(しょうじき)に言(い)う娘(むすめ)は、こいつ以外(いがい)いない…。
きっと地球上(ちきゅうじょう)でも珍(めずら)しい生(い)き物(もの)なんだ…。渚(なぎさ)ってすげ~。
早苗(さなえ)「生理(せいり)も止(と)まってますので、間違(まちが)いないと思(おも)いますよ」
秋生(あきお)「くあ…」
秋生(あきお)「て、てめぇ…」
オッサンが顔色(かおいろ)を変(か)えていく。
秋生(あきお)「め…」
秋生(あきお)「めでてぇじゃねぇかよ…」
震(ふる)える声(こえ)で祝(いわ)ってくれた…。
その後(しり)、隣町(となりまち)の病院(びょういん)まで出向(しゅっこう)いて検査(けんさ)を受(う)けた。
結果(けっか)は、予想通(よそうどお)りのものだった。
渚(なぎさ)「二(に)ヶ月(げつ)です」
秋生(あきお)「そうかよ…」
秋生(あきお)「で…産(う)むんだよな…」
渚(なぎさ)「もちろんです」
その答(こた)えは聞(き)かずともわかっていた。
渚(なぎさ)が、堕胎(だたい)などするはずがない。
そんな、命(いのち)を消(け)し去(さ)るようなことをするはずがない。
秋生(あきお)「大変(たいへん)だぞ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が守(まも)る」
強(つよ)く、そう告(つ)げていた。
渚(なぎさ)「そうです。朋也(ともや)くんがいてくれるので、安心(あんしん)です」
渚(なぎさ)「今日(きょう)までも、ふたりでがんばってきました」
早苗(さなえ)「あの日(ひ)の、秋生(あきお)さんとそっくりですね」
秋生(あきお)「あん…?」
早苗(さなえ)「わたしたちが渚(なぎさ)をもうけた時(とき)も、秋生(あきお)さん、俺(おれ)が守(まも)るって、そう言(い)ってくれましたよ」
秋生(あきお)「そうか…そうだったな…」
でも渚(なぎさ)は早苗(さなえ)さんより、体(からだ)が弱(よわ)い。そういうことを心配(しんぱい)しているのだろう。
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんとの子供(こども)です。ぜったい産(う)みます」
秋生(あきお)「ちっ…」
秋生(あきお)「頑張(がんば)れよ、この甲斐性(かいしょ)なしっ」
最後(さいご)には、そう言(い)って、俺(おれ)の胸(むね)を突(つ)き飛(と)ばすように叩(たた)いた。
並(なら)んで、帰路(きろ)を辿(たど)る。
もう何度(なんど)もそうしてふたりで歩(ある)いてきた道(みち)だ。
でも、今(いま)は何(なに)かが違(ちが)う。
新鮮(しんせん)すぎる。何(なに)もかもが、新(あたら)しく生(う)まれ変(か)わったような、そんな感覚(かんかく)の中(なか)にいる。
渚(なぎさ)「…えへへ」
渚(なぎさ)が意味(いみ)もなく笑(わら)った。幸(しあわ)せそうに。
そう…俺(おれ)たちに子供(こども)ができるんだ。
その現実(げんじつ)がすべてを新(あたら)しく見(み)せていた。
そして、それは、親(おや)になるということだ。
俺(おれ)たちが親(おや)か…。
滑稽(こっけい)すぎて、未来(みらい)は想像(そうぞう)もつかない。
あれは、いつだったろうか。
渚(なぎさ)「だから朋也(ともや)くんも、子供(こども)できたら、とても優(やさ)しくしてしまいます」
渚(なぎさ)「とてもいいお父(とう)さんです」
朋也(ともや)「そうかねぇ…」
早苗(さなえ)「渚(なぎさ)も、きっと優(やさ)しいお母(かあ)さんになります」
早苗(さなえ)「だから、ふたりの子供(こども)はとても幸(しあわ)せですね」
随分(ずいぶん)昔(むかし)のやり取(と)りに思(おも)えた。
あの学生時代(がくせいじだい)には、まるっきり冗談(じょうだん)にしか聞(き)こえなかったことが、今(いま)、現実(げんじつ)になろうとしているんだ。
それを考(かんが)えると、自然(しぜん)と笑(え)みがこぼれてくる。
ああ、渚(なぎさ)もそうして、さっき笑(わら)ったのか、と思(おも)う。
大変(たいへん)だろう。それはわかっている。
でも、やっぱり幸(しあわ)せなんだ、俺(おれ)たちは。
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誕生編,0,]
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公子·風子,0,]
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